続・続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2014年3月  3.11は忘れません

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◆2014年2月22日(土)
 東京マラソンEXPOと箱根駅伝90回記念祝賀会に行ってきました。
 EXPOは先週の京都マラソンに続いて2週連続です。土曜日だからか、EXPOの順路(?)の前半はもう人の動きの波に飲まれてしまって、ほとんど自由に動けませんでした。
 各出展者のブースの写真も撮りました。例年とトレンドに変化があったのかどうか、まではわかりませんが。とにかく、どのブースも熱気がすごかったです。日本経済界の牽引する役割も果たせるのでは? と思ってしまうくらいでした。
 1つ変化かな、と思ったのは、地方のマラソン大会も会場の外で、紹介のパンフレットを配っていたこと。ここ2〜3年はともかく、数年前はなかったと思うのです。

 箱根駅伝90回記念祝賀会は品川のホテルで16時から。すごい人数が集まっていました。数百人、あるいは1000人を超えていたかも。関東学連に確認したら約800人でした。
 報道の立場としては、何か新しいニュースを期待していました。100回に向けて何か新しい企画があるとか、変更があるとか。個人レベルでは出場校を減らしたり、距離を変更した方が良いという意見も以前から出ていましたし、寺田も個人的には5km4区間に分割する区間をもうけて欲しいと思っていました。
 のですが、そういった発表はありませんでした。お祝いムード一色のイベントにしたかったのだと思います。
 それでも競技団体の会ですから、競技的なビジョンはしっかりと示しました。葉会長は挨拶で“箱根から世界へ”の理念を強調されていました。
「僕らの時代は円谷さんが素晴らしい力走と熱走でメダルを取った思いが残っています。2020年の東京オリンピックは、箱根駅伝からそういう選手が生まれて欲しい」
 河野洋平日本陸連名誉会長は外からの立場ということもあり、“学生主体の運営で90回の歴史を重ねてきた”部分を評価されていました。
「学生がこの大会を続けてきた原点こそが一番尊い。その上で競技力を考えて欲しい。90年は本当に長い年月です。大正9年に始まって、大正12年には関東大震災がありました。社会は惨憺たる状態でもこの大会は続けられました。昭和20年には敗戦の焼け野原となりましたが、フェニックスのようによみがえりました。そのエネルギーを思うと永遠に続いても不思議ではない。未来永劫続いて欲しい。先ほど読売新聞の久保事業局長が、150回まで(優勝プレート?を)飾る準備があるとおっしゃいましたが、150回と言わず200回、300回と続いて欲しい。学生諸君の思いが、気持ちが支えている限り、それは必ず実現する。その力が日本の国の力になる、日本の国の宝となると確信しています。それは日本の陸上界を引っ張る大きなエネルギーでもある。それはまた日本の若者のエネルギーの象徴でもある」
 ちょっと、いえ、かなり感動しました。


◆2014年2月24日(月)
 朝8時半に東京マラソンの余韻の冷めやらぬ新宿に。カフェである選手と指導者に取材をさせていただきました。選手の思いをしっかりと取材できましたし、S監督からはアフリカ勢のマラソンをどう見るか、なるほど、と思える視点を教えていただきました。

 その後大会本部ホテルに行き、ロビーで朝日新聞を読んでいました。
 朝日新聞陸上競技担当ツートップの1人、増田記者による松村康平選手の記事、酒瀬川記者による分析・総評記事を、なるほどと思いながら読んでいるとジュクグッシーが現れ、「怪しいですね」と声をかけてきます。グッシーは元朝日新聞社員です。
「朝日新聞を読んでいるのが怪しいとは、なんたる言いぐさだ!」と寺田。
「いや、(わざとらしく)新聞を読んでいることが怪しいでしょう」とグッシー。
「だったら月陸を読もう」と、専門誌を取り出しました。
「それなら怪しくないですね」とグッシー。
 特に意味はありません。

 2時間ほどロビーにいた後に隣のビルの牛丼屋で早めの昼食。今日は夕食もちょっと早めなのです。
 もう一度大会本部ホテルに戻り、エチオピア事情に詳しい柳原元さんGENさんのスポビズ日記と一緒に移動しながら、取材させていただきました。偶然ですが14時半から、同じ方向で取材の予定が入っていました。
 柳原さんからもなるほど、という見方を教えていただきました。記事の厚みがぐっと増すのは間違いないでしょう。

 14時半からはHondaの新しい寮で藤原正和選手を取材しました。
 今回陸マガに書く記事は基本的には、初マラソンで結果を出す必要はない、というトーンになりますが、藤原選手は初マラソン日本最高記録保持者です。2003年のびわ湖で2時間08分10秒を出しました。当時中大4年生。
 初マラソンで結果を出した例として話を聞かせてもらったのですが、藤原選手自身はその後低迷して5年間マラソンを走れず、昨年のモスクワ世界陸上で10年ぶりの代表となりました。
 結論としては、マラソンを極めていく道筋は色々なパターンがある、という当たり前のものになります。現場や、少しでも取材をしている人間なら当たり前に持つ感覚です。
 しかし、アフリカ勢のように最初からすごい記録で走っても良いのでは? と世間は見るのではないか。そこは現場サイドとして、どう説明するんだ? 現場とそこに近い人間だけが感覚的にわかっていてもダメだろう。なんとか文章にしろ、というのが陸マガ編集部の狙いのようです。

 かなりの難題でしたが、取材に協力していただいた皆さんのおかげでまとめることができそうです。

 Honda寮の最寄り駅前のマクドナルドで仕事をしていましたが、どんどん数が増えてくる高校生たちのプレッシャーに負けて1時間もたたずに店を出ました。品川に移動して1時間ほどカフェで仕事。18時半から駅ナカのイタリアンで会食しました。


◆2014年2月25日(火)
 昨晩は陸上競技の報道(?)関係者4人で会食しましたが、主賓は来日中のケン中村さん。ケンさんは米国在住ですから、日米文化の比較論などにもなりました。
 食事をしたのが“駅ナカ”だったこともあり、スイカなど電子マネーも話題になりました。ケンさんによると、米国では電子マネーはあまり使われていないそうです。日本は鉄道社会、米国は車社会という違いに起因しているのかもしれません。
 その代わり、買い物の支払いはほとんどがクレジットカードなのだそうです。
「5ドルでもカードですよ」とケンさん。
「日本人は1000円以下でカードは使えません」と寺田。
 こんなメンタルですから、〇○○の交渉もできないんですよね。

 N氏がかなりディープな日本歴代リストを持参したので、話題は日本記録や歴代記録の話に。
「かなり古い記録も残っていますよね」とケンさん。
 男子三段跳や走幅跳、円盤投など、かなり昔の記録も残っていますし、記録が更新されやすい短距離や長距離でも、日本記録は10年以上前のものが多いです。
「でも、男子の100mと1万mは2〜3年で絶対に更新されますよ」と寺田。
 根拠は人材が集まりやすい種目であることと、記録が出やすい大会があることの2点です。一番重要な要素はトレーニングですが、そこはメディアの人間が言及すべきでないと思っています。
 調子に乗って「高岡選手の日本記録は、2〜3年後には歴代10位くらいになっていますよ。100mは織田記念で9秒97か98が出ています」と続けました。
 1万mに関しては本当に、出なければおかしいでしょ、という状況です。破る候補の選手名も10人は挙げられます……が、ちょっと言い過ぎました。
 高岡選手の記録はたぶん、リオ五輪の頃には歴代5位くらいでしょう。
 破られなかったら高岡選手が偉大だったと、喜んで書きたいと思います。


◆2014年3月4日(火)
 本日は八王子のホテルでコニカミノルタのニューイヤー駅伝優勝報告会があり、出席させていただきました。どうしたものかと思っていたのが、マラソンの話題です。東京で黒崎拓克選手がコニカミノルタの日本人最高記録(2時間09分07秒)で走ったのですが、黒崎選手以外は福岡国際、ドバイ、東京、びわ湖とまったく振るいませんでした。
 駅伝シーズン前から「今年はマラソンで結果を出す」と監督、選手とも言い続けてきたのです。メディアの立場での出席ではありましたが、お祝いの会ですからマラソンの話題は避けようと思って会場に入りました。

 ところが、最初の磯松大輔監督の挨拶から、「最大の目標であるマラソンで結果をまだ出せていない」と、厳しい自己批判。キャプテンの宇賀地強選手も「自分がマラソンのイメージを下げた」と、ドバイの結果に対してしっかりとコメントしました。酒井勝充総監督にいたっては「駅伝で8回も優勝しているのに、マラソンの日本代表を出せないのは恥ずかしい(恥ずかしいではなく別の言葉だったかもしれませんが、ニュアンス的にはそういう感じです)」とまで言いました。
 コニカミノルタのすごいところは、現場ではないサイドの部長の方も、駅伝だけではなく世界に、ということを強調されていたところです。

 Twitterでもつぶやきましたが、会場が一番沸いたのは1年目の菊地賢人選手が、「今年は宇賀地強に勝ちます」と言い切ったとき。先輩にも遠慮しない、というよりも、そのくらい高い目標を明言して挑戦する。これこそがコニカミノルタ魂だと思います。
 菊地選手のいのは、宇賀地選手の名前をフルネームで言ったこと。日本語のニュアンスなんですけど、「宇賀地に勝ちます」と、名字を呼び捨てにすると角が立ちます。これをフルネームで言えば、そうでもない。寺田も取材中、この手法は使っています。

 4月に入社する設楽啓太選手(東洋大)も出席していた、最後に壇上で挨拶もしていました。酒井俊幸監督が以前、キャプテンをやって人前の話がずいぶん上手くなった、と話していましたが、今日は緊張もあったのだと思います。先輩選手たちに比べると、まだまだかな、という感じでした。
 2年後には一番しっかり話ができるようになっている可能性は十分あると思います。

 酒井俊幸監督には日本選手権20km競歩のときに取材させてもらったコメントを、陸マガに載せました、という報告をしましたが、その他にも競歩の話を少し。
 同監督は競歩の技術も専門指導者並みに説明できるのですが、西塔拓己選手たち競歩の有力選手が在籍していることに加え、競歩選手だった奥さんの影響もあったことを認めてくれました。書くのはNGと言われたネタもありましたが。

 各大学の監督も多数出席していました。卒業生がコニカミノルタにいる、いないにかかわらず招待したと聞いています。
 明大の西弘美監督とは、早稲田スポーツの記事について話をさせていただきました。
寺田「学生の取材に渡辺康幸監督と同年代とか、冗談を言ったでしょう。そのまま書かれていましたよ」
西監督「え、そう? 同年代ですよ」
 これは西監督の、まだまだ自分も若いぞ、箱根駅伝で優勝するまでは頑張るぞ、という意思表示だと思います。渡辺監督とは仲が良いからこそ、絶対に負けないぞ、とも取れます。早稲田スポーツもそういった発言の背景を記事に書き込めば、普段は厳しいOBの堀川さん(朝日新聞)も見直したと思うのですが。


◆2014年3月7日(金)
 昼ちょっと前に出発して新幹線で名古屋入り。
 今回は初の試みとして、ナゴヤドームのEXPO会場で公開の記者会見でした。寺田のようにちょっとお馬鹿な質問をして相手の考えを引き出すタイプの記者にはストレスがかかるのですが(たまにマニアックな質問もしますし)、今日はどうしても聞きたいことがあったので、恥ずかしかったですけど手を挙げました。

 次の陸マガ4月号にあるテーマでマラソンの特集記事を書くため(2月24日の日記参照)、東京マラソン前後、びわ湖マラソン前後と、かなりの人数の選手、指導者にお話しをうかがいました。2時間6分トリオ(犬伏孝行、藤田敦史、高岡寿成)に昨秋、取材していたネタも生かすことができる企画です。
 その取材の結論は、成長パターンは人それぞれで、これが絶対に良い、というものはないということです。しかし、必ず必要なのがマラソンを絶対に走るんだという“強い気持ち(意思)”です。それがなかったら、たまたま1回上手く行っても、継続的には走れない。話を聞いたほぼ全員が、この認識は持っていました。

 そこで今日は、貴女(あなた)のマラソンをやる上での“強い気持ち(意思)”は何ですか? と質問しました。出席したのはコノワロワ選手、プロコプツカ選手、木崎良子選手、早川英里選手、田中智美選手、水口侑子選手の6選手です。

この続きは深夜に? その前に何か1本記事を書きます。候補は多いので迷いますが、初マラソン2選手の話題でしょうか? 
 外国人2選手は30歳代後半ですから、そこまで続けるには何か強い意思(事情?)があるはずです。早川選手も32歳という年齢ですが、年齢以上に経歴が異色というのに近いものです。そういった選手だから長く続けられるのかもしれませんが、そこにはきっと、何かしらの確立された価値観があるはず。
 木崎選手も女子では日本人初の五輪とその翌年の世界陸上代表。モスクワ世界陸上で4位に入賞後も、さらに上を目指してすぐに始動しました。休むのが普通のマラソン界で、もちろん休養もとっているのでしょうが、それほど長く休まずに再スタートが切れる。これも絶対に何か、強い意思があるから可能になっているのだと推測できました。

 初マラソンの2選手には、“続けている強い意思”ではなく、“マラソンをするための強い意思”があるわけです。なので、初マラソンへの強い気持ち、ではなく、マラソンに取り組む上での強い気持ち、という質問の仕方をしました。
 初マラソンという特定の仕方をすると、そこで結果を出さなければダメ、と決めつけているようでイヤだった、という理由もあります。
 選手の立場からすると、初マラソンから結果を出す意気込みで臨んでいるので迷惑かもしれませんが、客観的に見れば初マラソンで成功するケースよりも、2回目、3回目と経験を積み重ねていくなかで結果を出すケースが多いわけです。初マラソンの結果には本当にこだわりません、寺田は。

 その質問への答えを3人紹介します。
早川英里選手「日々の練習の中で前の自分よりも強くなっている、少しずつ成長できていることを感じられることも多くなっています。自分はまだ、レースで結果を残せる気持ちがあるので走っていくことができています。そしてまだ一度も日の丸を付ける経験をしていません。チャンスがあるなら、日の丸を付けて走る舞台に立ちたいから」
水口侑子選手「私も(田中さんと同じように)シドニー五輪の高橋尚子さんの金メダルにすごく感動してマラソンをやりたいと思うようになりました。今まで故障などもあって初マラソンがこの年齢になってしまいましたが、私もオリンピックに出たい気持ちがありました。これからそれに向けて頑張りたいのです」
プロコプツカ選手「マラソンという競技を続けていくこと、その意思は私の人生の一部になっています。そして私には素晴らしいチームがあります。コーチ、夫、息子、そうした人たちが喜ぶこと、私が勝つことで喜んでくれることが私にとっての楽しみになっている。だから、この競技を続けているのです」
 こういうコメント聞くと、どの選手にも頑張って欲しい、結果を出して欲しいと思います。
 女子選手たちの純粋な気持ちが凝縮したレースが明後日、展開されます。


◆2014年3月8日(土)
 レース前日の夕方になりました。
 今日は本部ホテルの近くのカフェを拠点にして、通りかかる指導者の方たちと雑談に終始しました。佐倉アスリート倶楽部の小出義雄代表には、高橋尚子さんの“初名古屋”(2時間25分48秒=当時の日本記録)のときのエピソードを色々と話していただきました。

 記事にもなっていることですが、高橋さんはその前年の97年大阪国際女子が初マラソン。そこで失敗して(当時、陸マガ編集者だった寺田も密着取材に失敗)、マラソンは向いていないと判断しました。
 その年のアテネ世界陸上には5000mで出場しましたし、トラックでやっていこうと考えたようです。そこを「もう一度だけマラソンを」と、小出代表が拝み倒して98年の名古屋国際女子に出場。
「絶対に失敗させられなかったから、俺が『行けーっ』て言うまで絶対に出るな、と言い含めてスタートさせたんだよ。それで行けると思ったのが名古屋城の横の坂。30.5kmくらいかな。そこから10kmを32分28秒で行っちゃった。30〜40kmの世界最高記録だったよ。えっ、32分27秒? 1秒間違えちゃったか。でね、ゴール後にQちゃんに聞いたんだ。マラソンやめるか? って。そしたら『もうやめません』だって」
 それがなければシドニー五輪の金メダルも、世界初の2時間20分突破もなかったわけです。名古屋が歴史を変えたのです。

 先ほど、明日がラストランの堀江知佳選手の記事をアップしました。“ダブル堀江”というくくりで、堀江美里選手の記事も掲載します。2人とも兵庫出身です。
 あとは宮内姉妹の“決定版”記事を書きます。“決定版”というとプレッシャーがかかるのですが、グッシーと川村記者にそう宣言してしまったので……。
 展望記事は田中智美選手視点のものを予定しています。そこまで書き終わるのか?


◆2014年3月9日(日)
 名古屋ウィメンズマラソンの取材でした。ナゴヤドームでの取材も3年目。朝も迷うことなく8:20には記者室にたどり着きましたし、ミックスゾーンなどへの動線も把握できていました。

 レース後にミックスゾーンに行き、すぐに主催新聞記者に会見出席者を確認。優勝したコノワロワ選手と、日本人上位3人という情報を得て、加藤麻美選手(パナソニック)、堀江知佳選手(ユニバーサルエンターテインメント)と話を聞いていたら、そこに堀江美里選手(ノーリツ)もやってきてくれました。事前記事にした“ダブル堀江”の写真を撮るチャンスです。
 周りを見回して、ムービーメディアも一緒に取材していることを確認。この写真を撮らせていただきました。2人のツーショットは本邦初。年齢差もあって、2人が同じレースを走ったことはほとんどないのです。それが、堀江知佳選手のラストランと、堀江美里選手の初の“等身大の力を出したレース”で実現しました。

 続いて初マラソンの水口侑子選手(デンソー)、ダイハツの林清司監督と取材させていただきました。その間に視界の片隅でしたが、デンソーの長身選手、亀井久美子選手がかわいい花束を受け取っているシーンを見逃さなかったのが、我ながら良くやったと思える点です。
 亀井選手は直接の取材をしたことはありませんでしたが、実業団女子駅伝中日本大会などで、チームの雰囲気を盛り上げているな、という印象を持っていました。以前は駅伝のアンカーで専門誌やネットの記事に写真が載っていましたし、陸連派遣のパリでの国際駅伝に出場したことも陸連時報で見ていました。
 ホテルでのフェアウェルパーティーが始まる前に若松誠監督に確認したら、水口選手と同様にこの大会が初マラソンですが、現役ラストランだったとのこと。4月からはマネジャーと立場を変えて、チームを支えます。
 来年度は廃部となる日本ケミコンから、正井裕子選手が加入します。正井選手はデンソーのある三重県出身です。他にも動きがあるようで、駅伝も今季とは少し違った陣容で臨むことになります。駅伝の展望記事候補が1本できました。

 パーティーの始まる前には、堀江知佳選手にも話を聞きました。Twitterに書いたものを転載します通りです。
【名古屋ウィメンズマラソン】インターハイ・チャンピオンが小出義雄門下となり、初マラソンでジュニア日本記録(現在は下り坂コース)を出し、21歳で北海道マラソンに優勝し、一見順風満帆でした。でも、その裏側で、どんな気持ちで過ごしていたのかは予想がつかないことでした。
【名古屋ウィメンズマラソン】試合では結果が出ていましたが、金メダリストの高橋尚子さんと一緒に練習をしていたわけです。詳しくは記事に書きますが、複雑な思いで練習を続けていたようです。転機は高橋さんと別チームになったことでした。そこで気持ちを切り換えられた。
【名古屋ウィメンズマラソン】北京五輪を狙って08年名古屋で勝負を挑み、スパートをかけましたが、跳ね返されました。さらにロンドンを目指しましたが、今度は自身の気持ちが悪循環にはまってしまいました。ロンドン五輪を逃したときに2013年のモスクワ世界陸上を目指しましたが……。
【名古屋ウィメンズマラソン】モスクワ世界陸上代表入りしても、代表を逃しても、2013シーズンを最後に引退することを決意。そして今日を迎えました。「競技の結果は悔いだらけですが、やってきたことに悔いはありません。最高の陸上人生でした」と、さわやかな笑顔を見せてくれました。
【名古屋ウィメンズマラソン】堀江選手は4月から短大に通って、小学校の先生を目指します。どんな先生を目指すのか、という話を聞いていたら、こちらが感極まってしまいました。詳しくは後日の寺田的陸上競技WEB記事で。


 名古屋ウィメンズマラソンは3月に行われることで、引退したり移籍する選手が多いことが特徴の1つになっています。
 堀江知佳選手の取材でこちらの気持ちも高揚して、なかなか眠れませんでした。あれこれ思いを巡らしていたら、木崎良子選手の強さを上手く記事にできそうな視点を思いつきました。ここ数年の取材、今日の取材で聞いてきたコメント、木崎選手の試合選択、レース結果などが1つの線で結びついたのです。
 これまでの選手も、同じ思いはあったと思いますが、それを競技に結びつけているのは木崎選手が初めてかもしれません。


◆2014年3月10日(月)
 昨日の名古屋ウィメンズマラソンはレース後、取材後に大きく見方が変わった大会でした。木崎良子選手がレース中に足の指、ハムストリング、腰に痺(しび)れがあったことを明かしたからです。
 もちろんレース中も、日本人集団から離れたときに、なにかしらアクシデントがあったことがわかりました。そこから追い上げて日本人トップを取ったことで、粘り強さは実証していました。
 レース後に痺(しび)れがあったと判明した時点で、万全の状態でなくても国内なら勝てるランナーだとわかったのです。理想論者は「つねに完璧な状態にして出るべき」と言うかもしれませんが、それは理想と言うよりも空想だと思います。状態が悪いときのレースを経験しておくのは、意味のあることだと思います。

 ペース設定については色々な側面があります。強化の意気込み、現状との兼ね合い、普及・イベントという側面。色々な意見が出る部分かと思います。
 アジア大会の選考についても同様に、色々な意見がありました。個人的には、選考会が3つあったら力の正確な比較はできないと思っています。陸連が、この意図で選ぶんだ、と決めるしかないでしょう。

 寺田のマラソン選考についての意見はここ数年、オリンピックは選考会1本化(上位2人が自動代表入り、陸連枠1)、世界陸上は海外レースも含めて複数選考です。オリンピックは代表が3人ですから、国内の力を結集するイメージです。世界陸上は間口を広げて、色々なタイプにチャンスを与える。
 リオ五輪に向けては陸連が、レース以外を選考要素に加えてきました。北京世界陸上入賞最上位者、陸連設定記録突破者以外は、以下の項目を選考における検討項目として公表しています。
1) レースにおいて
@気象条件への適性
Aコースへの対応能力
Bベース変化への対応能力
C北海道マラソンの内容( リオデジャネィロの8月の平均気温26度を勘案して)
2)ナショナルチーム合宿において
@気象条件への適性
Aトレーニングにおける安定度
B起伏への対応能力

 これは、寺田の知っている限り、1980年代以降はなかったことです。それ以前の時代には、合宿を見て決めたこともあったという話も聞きます。
 少し気がかりなのは、練習よりも試合になると強いタイプをどう判断するか。最近の取材で、マラソンならバルセロナ五輪銀メダルの森下広一選手、世界陸上2回代表の藤原正和選手らも、練習(特に距離走系メニュー)ではそれほど追い込めなかったと聞きました(比較的です)。トラックの松宮隆行選手も、そうだったそうです。そういう選手はレースで結果を出せ、ということなのでしょう。

 アジア大会については特にこれという意見はなくて、多くの要素、バランスを見て決めるしかないのかな、と思います。もちろん、落ちた側から不満が出ることは避けられませんが。


◆2014年3月11日(火)
 今日は島田(静岡県)で合宿中のスズキ浜松AC、里内正幸女子長距離監督を取材しました。昨年後半からスズキ浜松AC選手の安定した強さは、ちょっとした長距離界の話題でした。
 三郷選手が10月の東アジア大会3000mSCで銀メダル、9分54秒02の2013年シーズン日本1位の記録を出しました。11月の日体大競技会では5000mで榊原選手、清田選手、牧川選手の入社2年目トリオが15分40秒台をマーク。1月の全国都道府県対抗女子駅伝では3人が区間6〜7位。1区の牧川選手は区間10位でしたが、丸亀ハーフでは1時間10分27秒で優勝しました。四国新聞記事
 実業団駅伝がないなかで、この成績を出しています。
 しかし今回は単に里内監督とはどういう人物なのか、を取材するのが目的でした。いつ引退して、いつ監督に就任して、という経歴を確認するのが最優先でした。実業団駅伝がないなかでどういった強化をしているかは、二の次、三の次でしたね。

 里内監督自身は、山梨学大から積水化学に入社。ダイエー時代に中山竹通選手を育てた佐藤進監督の、ものすごい量の練習を経験した選手です。同時期に在籍し、SUBARU移籍後に世界陸上代表となった奥谷亘現SUBARU監督は、「練習中に車に当たりたかった」とまで言いました。
 里内監督は積水化学の廃部後にスズキに移籍して、04年北海道マラソン3位、06年防府マラソン優勝という成績を残しました。08年から女子の長距離コーチ兼選手となり、09年4月の長野マラソンを最後にコーチ専任に。前監督の病気により同年秋に急きょ女子長距離監督となりました。
 大学時代はケガが多かったそうです。積水化学では前述のようにすごい量の練習をやり、スズキでは結果を残しました。そしてコーチ兼任時代に勝てないと思った後輩選手に勝つなど、色々な練習パターンを経験しました。
 色々なパターンを経験しつつ、自身のやったことにこだわった練習でもないようです。

 実業団駅伝に出場しない現在の状況に、望んでなったわけではありません。しかし現実として、実業団駅伝がないなかでどう強化するか、を考えないといけない立場に置かれてしまったわけです。
 そういう立場の指導者が、過去にもいなかったわけではありません。市川良子選手と市橋有里選手らが在籍した東京ランナーズ倶楽部の浜田安則さん(以前の京セラ監督)、辰巳悦加選手の和光アスリートクラブを率いた上野敬裕さんらが、ぱっと思いつきます。
 その2人がどんな練習をしていたか取材したことはありませんが、里内監督は“世界”や“日本代表”を目標にした指導をすることで、結果を出しています。浜田さん、上野さんも同じだったのではないかと思います。
 面白いのは監督時代に実業団駅伝で7回優勝したコニカミノルタの酒井勝充総監督も、「世界を目標にしてたから駅伝も勝てた」と言っていることです。

 予定している記事は、単純に里内監督の紹介記事です。しかし機会があったら、純粋に里内選手がどんな指導をしているか、という記事も書いてみたいですね。

 夕方は静岡駅で、明日以降の段取りをしました。


◆2014年3月12日(水)
 今日は16時半からアジア大会マラソン代表発表会見でした。
 ほとんどの記者は陸連理事会から取材していたようですが、寺田は毎回、あってなかなか理事会(約2時間)までは行けません。「行った方がいいよ」という話もいただくのですが…。
 アジア大会マラソン代表は各メディアの記事になっている通り(産経新聞記事)。女子の2人目は誰が選ばれてもおかしくない状況でしたから、特に記者たちから突っ込まれるところはありませんでした。陸連がこの判断をした、ここを重視した、ということです。
 補欠選手はありません。故障者が出たら少ない人数で戦うということになります。補欠選手に負担をかけたくない、という配慮のようです。
 顔触れの特徴としては早川英里選手、川内優輝選手と、“異色経歴”の選手が代表4人中2人を占めたことです。テグ世界陸上でも川内選手、野尻あずさ選手が代表でしたが、10人中2人。サンプルの数が少ないので、こうだと結論づけるのは難しいのですが。
 箱根駅伝出場1回で、それも7区区間16位だった中本健太郎選手も“異色経歴”と言えなくもありませんが、そこまで範囲を広げると、昔から例は多くあったかもしれません。

 今日のような代表発表の場に来ると、05年のヘルシンキ世界陸上1万mの選考ミスを毎回思い出します。選考規定ではA標準突破選手の日本選手権3位以内が最優先と明記されていました。日本選手権2位の大森輝和選手が選ばれる、と誰もが思っていたら、B標準突破の日本選手権優勝者の三津谷祐選手が選ばれ、大森選手は落選。
 このミスは多くのメディアが報じて世間的にも問題となりました。陸上界内部には「日本選手権優勝者が強いんだから」と、選考ミスを擁護する声も挙がりました。でも、この理屈は通じません。選考規定は選ぶ側と選ばれる側の約束であり、約束を破ることは競技がどうこうという前に、社会的に良くないことなのです。
 三津谷祐選手がホクレンでA標準を破って2人を代表にすることができ、事なきを得ましたが、選手にもつらい思いをさせましたし、世間に「陸上界ってそういうところなの?」と不信感を抱かせました。陸上競技から撤退する会社が出てもおかしくなかったと思います。
 あのミスは風化させたらいけないと思います。

 個人的には、アジア大会の発表がホテルで行われたことが驚きでした。調べてもらったら、アジア大会マラソン代表発表では初めてです(遠い昔はわかりませんが)。以前はオリンピックだけだったのが、世界陸上もホテルになり、アジア大会も、という感じですね(部屋の大きさはかなり違いますが)。以前はアジア大会やユニバーシアードは、記者クラブの大きなテーブルに専務理事が来て発表する、というスタイルでしたから。
 そのくらい、陸連が世間への広報をやっていきたい、という意思表示でしょう。ただ、細かいところでいえば、まだまだ工夫できる余地はあると感じています。パフォーマンスリストとか、報道弁当とか。
 大きなところでも案はいくつか出しているのですが、実現させる過程が大変なのか、ダメでした。
 それでも今日も、2つ提案をさせていただきました。


◆2014年3月13日(木)
 今日は16時から早川英里選手のアジア大会代表決定の会見がありました。場所はTOTO東京オフィスで、汐留ビルディングという巨大な建物のなかにあるのですが、地下鉄の大門駅から近くて助かりました。一瞬、どのエレベーターに乗っていいのかわからず焦りましたが、会見の始まる8分前には会場入りできました。
 集まった記者は15人くらいだったと思います。陸上記者の面々が7割くらい。予想より多い割合だったので、寺田にとっては“いつもの取材”の雰囲気でリラックスして臨むことができました。
 質問は競技的なものが多かったですし、適度に「そもそも早川さんは…」的な質問もあって、色々な角度から早川選手を掘り下げられた会見になりました。寺田としてもよかったです。高校&大学時代の成績など、今さら聞きにくいこともありましたからかなり助かりました。

 同席された山本光宏コーチはトライアスロンでは連合の広報であり、オリンピックなどではテレビの解説者です。コーチの立場、広報マンとしてのスキルから早川選手の対応にダメ出しをされています(マラソン女子日本代表 記者会見)。しかし、年に1、2回ラジオで話す寺田から見たら、人前で短い時間で正確に話すことは本当に難しいのです。
 会見でもラジオでも、どのくらい話す時間があるのかわかりませんから、競技的な部分にしても自身の気持ちの部分にしても、「そもそも」とか「ここから始まって」と丁寧に説明し始めると、途中で時間がなくなってしまう可能性があります。
 以前に金哲彦さんに「難しいですよね」と相談っぽく話しかけると、「コメントはどこで切られるかわからないから、間違いのない結論を最初に言った方が良い」とアドバイスしていただきました。が、なかなか実行できないでいます。昨年、文化放送で千葉真子さんと対談したときは、かなり長くなってしまって反省しています。プロデューサーの山田さんは、寺田と同じ温厚な静岡県人(中村宝子さんの先輩)なので収録後も笑顔でしたが、そうでなければまずかったです。

 選手であれば会見では手短に話し、カコミ取材ではじっくりと話すのが基本でしょうか。ただ、会見でも「ここが肝だぞ」というところは出してほしいと思います。
 今日の早川選手は45分と長めに時間があったので、会見ではありましたがカコミ的な感じで話すことができたケースです。本当に良い会見だったと思います。

 会見後は汐留ビルディング2階のカフェで3時間ほど仕事をして帰りました。DeNAの渋谷ヒカリエに行くときにも思うのですが、寺田のような個人事業主が高層ビルのオフィスで働くことはありえません。こういう機会に満喫しようという、おのぼりさん気分なわけです。


◆2014年3月19日(水)
 昨日アップした名古屋ウィメンズマラソンの堀江知佳選手記事を、何人かの方が話題にしていただきました。最後は書き手の思いも、かなり出しています。そういった記事を嫌う向きもあると予想していましたから、ちょっと嬉しかったです。特に上野敬裕さんが、記事の最後の堀江選手のコメントを「泣ける」とつぶやいてくださいました。
 上野さんは市船橋高で小出義雄代表の教えを受けた人物です。2007年の日本選手権では、教え子の荒井悦加選手(当時辰巳姓)が世界陸上の標準記録を破って涙を流していました。当時の上野さんは、実業団の監督のポジションを追われ、クラブチームを立ち上げて、辰巳選手と二人三脚で世界を目指していました。その上野さんから「泣ける」と言ってもらえたのは、書いた甲斐がありました。

 Twitterでもつぶやきましたが、その記事では小出代表のコメントをどう書くかが難しかったです。コメントのニュアンスで読者がイメージする堀江選手と小出代表の関係が変わってくるからです。正直、あれで精一杯でした。2人の思い、関係を書き切るのは、今の寺田の力では不十分だと感じました。
 ただ、“選手と指導者の出合い”ということを考え直しました。その点は少し、理解が深まったと思います。これまでも何度か聞いてきた言葉ですが、今回の取材でこちらのイメージが少し具体的になりました。
 これまではただ単に、能力のある選手とその選手に合う指導者が出合う、というニュアンスでとらえていましたが、それだけではダメだとわかりました。小出代表のコメントにあるように、選手の側がオーラを発し、指導者の側がそれに応える気持ちにならないといけない。
 今までは漠然としたとらえ方しかできていなかったです。多くのケースを取材して、理解を深めて、いつか文字にできたらいいですね。


◆2014年3月22日(土)
 春の高校伊那駅伝取材のため伊那市に到着。中央本線で岡谷まで行き、そこから飯田線で伊那市へ。伊藤国光カネボウ前監督の故郷か、と思うと身が引き締まりました。
 13時少し過ぎに着いたのですが、会場にはすぐに行かず、伊那市駅近くの「かんてんぱぱショップ」という健康食品ショップ兼カフェに。書きかけだった原稿を1時間半くらいで仕上げました。お店のおじさんが親切で、テーブルを2つ使わせてくれました。
 そのときは、店にはあまり人がいなかったのですが、寺田が原稿を書き始めてからは、絶え間なくお客さんが入ってきました。カフェというよりも、健康食品を買う常連さんたちみたいでした。

 16時頃に伊那市陸上競技場に。駅から歩いて行ける距離なので助かりました。ただ、かなりの上りなので、ここを走るとなるとちょっと大変です。競技場のスタンドは大きくありませんが、全天候舗装はそれほど古くありません。
 明日の準備をしている計測工房の藤井社長(ブログ)に挨拶。長年、寺田的陸上競技WEBのスポンサーとなってくれている会社です。以前から、取材させていただきたいと考えていたのですがなかなかタイミングが合わず、やっと実現しました。20〜30分ほど話をうかがいました。

 そこでわかったのが原稿を書いていた「かんてんぱぱショップ」を経営する伊那食品工業が、春の高校伊那駅伝のメインスポンサーだったということです。大会プログラムの裏表紙(業界用語では表4)にそれと知らずに立ち寄って原稿を書いた。地元の大企業の運営するショップなら確率は高いのかもしれませんが、運命的なものも感じました。

 藤井社長取材後に、監督会議会場の伊那文化会館に移動。大会本部の伊那市の方に挨拶し、明日のエントリー表とプログラムをいただきました。
 プログラムをめくっていると、伊藤国光杯の歴代受賞者のリストがあります。この大会は長野県高校新人駅伝も兼ねていて、その最優秀選手男女各1人に伊藤国光杯が贈呈されるのです。
 歴代受賞者には高見澤勝現佐久長聖高監督、上野裕一郎選手(DeNA)、村澤明伸選手(日清食品グループ)ら、そうそうたるメンバーが名前を連ねています。宮入一海選手も、重川材木店で取材させてもらったことのある選手です。女子では小田切亜希選手、玉城かんな選手(長野東高)の名前も。

 会場には女子実業団チームのマネジャー、コーチの姿を多く見ました。箱根駅伝有力チームの監督・コーチの姿も。特に男子は2年生選手のスカウトのピークだと、後ほど聞きました。
「日本の長距離は“伊那の夜動く”」(某メーカー某氏)


◆2014年3月23日(日)
 初の春の高校伊那駅伝取材でした。
 朝はまず伊那市駅に行って切符を変更。今晩、名古屋に入って月曜日は名古屋で原稿を書き、火曜日に鈴鹿で井村久美子選手を取材する予定でしたが、伊那市の景観が素晴らしいので、明日も伊那市に滞在することに。ホテルも昨晩、名古屋の安いホテルと同じ金額で伊那のホテルを予約できました。
 月曜日にパソコンのファイルをプリントアウトしないといけないのですが、ファミリーマートにPDFファイルを印刷できる複合機があったので、そこもクリアできて伊那滞在延長を決断しました。

 9時に競技場に行って報道用ビブを受け取り、すぐに伊那市駅近くの“いなっせ”に取って返しました。女子の第一中継所で、計測工房の計測作業を取材するためです。
 ある確かな筋から指摘があり、もう1つ目的ができました。成田高2区の“森岡樹生”の名前が森岡芳彦監督の娘さんだったのです(レース前の選手に聞いたりはしません)。
 中継所では良い写真が撮れました。中継所まで選手たちが一直線の道を走ってくるのですが、その背景に雄大な南アルプスの山々。その光景がこれです。
 伊那は良いところです。

 女子の第一中継所の取材後は競技場に。
 フィニッシュを撮影後、信濃毎日新聞の中村恵一郎記者(インターハイ1500m優勝者)と一緒に、優勝した大阪薫英女学院を取材させてもらいました。主催新聞社記者の後ろで控えめに、ですが。安田功監督のコメントは寺田ツイッターで紹介させていただきましたが、選手のコメントも取材してあります。
 大阪薫英女学院は12月の全国高校駅伝で注目されましたが8位でした。それをどう受け止めて、2014年はどういうチームを目指すのか、というところをしっかりと取材できました。

 男子のレース中に女子の表彰式が行われるのですが、始まる前に1区区間賞の常磐の小林由佳選手を取材。
 小林選手は2012年の岐阜国体少年B1500mの優勝者。昨年のインターハイは1500mで10位でしたが、最終学年となる今年は「1500mと3000mで、インターハイのメダルを取ること」が目標です。

 1つ中継所取材の時に大丈夫かな、と思っていたのがチーム数が多くて混乱しないのか、という点でした。全国都道府県対抗駅伝はすごい混戦で、どうなのかな、という状況ですから。それが今日は混乱がありませんでした。1区は小林選手と区間2位の加賀山恵奈選手(大阪薫英女学院)が区間新。速いペースで縦長の展開になったからでした。

 森岡樹生選手以外にも区間エントリー表で、気になっていた名前がありました。常磐の3区の小指有未選手です。小林選手取材後に本人に確認したら、小指徹前SUBARU監督の娘さんでした。
 森岡選手も小指選手も、次に書くのは競技で結果を出したときです。

 男子は伊賀白鳳が競技場内で世羅を逆転して2連勝。アンカーの北村祥選手にガッツポーズはありませんでした。その理由はツイッターにも書きましたが、「この大会は、ここから次につなげていく駅伝です。全国にとっておきます。世羅の選手の状態を見ても、素直に喜べませんでした」というものでした。
 我々はどうしても世羅との絡みで文字にしますが、コメントの前半部分にある「全国にとっておく」という部分が、伊賀白鳳のチームとしての姿勢です。本来は、そちらがメインとなるところでしょう。それは中武準一監督や、他の選手の取材からも感じられた部分です。

 伊賀白鳳は1区の中畑亮人選手と、2区の下史典選手にも取材ができました。中畑選手は副キャプテンですが、12月の全国高校駅伝でアンカー決戦で敗れた当事者でした。「あのときの悔しさを、言葉で説明するのでなく行動で見せていきたい」と話していました。
 下選手は全国高校駅伝6区区間賞の選手で、今年のチームのキャプテンです。今日も区間賞で、小林の廣末卓選手を抑えました。昨年のこの大会でも廣末選手に同じ区間で勝ったのですが、自身は東海インターハイ7位で全国大会に進めませんでした。
 そのインターハイ、国体と廣末選手が日本人1位で、全国高校駅伝では1区区間賞という躍進ぶり。「今年は日本人トップを狙う」と意気込みを示してくれましたし、「世界に目を向けて」とも話していました。
 中武監督も「卒業後に強くなってくれる選手を」という考えで指導されているとのこと。27分ランナーの高林祐介選手(トヨタ自動車)ら多くのOBが活躍しています。
 下選手も2年前の岐阜国体で、先輩の西山雄介選手(現駒大)が優勝するシーンを目の前で見ていました。「偉大な先輩でした。1年間ですが一緒に過ごして、得るものは大きかった」と言います。

 表彰式では伊藤国光専大監督両角速東海大監督(佐久長聖高前監督)が近くにいらっしゃいましたし、中村恵一郎記者と両角監督が話しているシーンを見て、長野の試合だということを実感しました。

 昨日の日記で触れた競技場への坂が、箱根駅伝2区の中継所前の坂と比べてどうなのか、を両角監督に質問したところ、うーん、と判断しかねる様子でした。簡単には比べられないくらいの傾斜ということでしょう。世羅のアンカーが失速しましたが、箱根の2区の最後でも同じようなことが頻繁に起こります。そのくらい厳しいコースです。
 中村恵一郎記者には「飯田線で豊橋まで行くとすごい景観を見られる」と勧められました。でも、4時間とか5時間かかるのだそうです。原稿を書かないといけないので、飯田線の旅は次の機会に取っておきます。
 昨年の日本選手権混成では長野市に行きましたが、長野県は素晴らしい自然と、雰囲気のある都市が多い県だということが、今さらながら実感できました。


◆2014年3月25日(火)
 鈴鹿で井村久美子選手を取材しました。“選手”としたのは、完全に引退したのではなく、まだ現役選手だからです。もう一度代表を目指す、というのとはちょっと違うのだと思いますが、そこは確認しませんでした(いいのか、それで)。
 ちなみに取材中、寺田は「池田さん」と呼んでいました。10年以上、そう呼ばせていただいていたので。

 ご存じのように現在の井村さんは、夫の井村俊雄さん(棒高跳インターハイ優勝)と井村アスリートアカデミーを主宰して、子どもたちを指導しています。そのレッスンの様子も見学させていただきましたが、子どもたちの笑顔が絶えないレッスンでした。
 怖い指導者が厳しい練習をやらせて記録を出させても、スポーツを続けてくれなくなったら意味がない、という考え方です。大人になってもスポーツが好きで、その子どもにもスポーツの楽しさを教えてほしい、というのが井村夫妻の願いなのです。
 記事のなかでも重要な部分となる予定です。

 記事は陸マガ5月号に載ります。3月号で大利久美選手で書かせていただいた、不定期連載「Challenge of six years」の2回目に登場していただきます。一線を退いた選手に、自身のピークのシーズン(試合)までの6年間を振り返ってもらう企画です。
 もちろん、6年間だけを切り取るのは無理がありますから、その前後の流れにも触れていきます。当然、“天才少女”と言われた中学生の頃(現在も走幅跳中学記録保持者)と、当時指導されていたお父さんについても言及します。技術やトレーニングがメインになる企画ではありませんが、スポーツ選手の生き様はそういったところにも現れます。
 ただ、上記のところはこれまで何度も記事になってきました。寺田も書きました。正直、「どこかで読んだネタだな」という部分もいくつか書かざるを得ません。
 しかし、同じ状況の説明でも「そんなエピソードもあったんだ」というエピも話してくれました。そして、現役時代は“その都度、その都度”振り返っていた技術論なども(今も現役ですが)、長いスパンで振り返るとまた別の見方になっています。
 どこまで書き切れるかわかりませんが、精一杯書かせていただきたいと思います。イケクミ・ファンはまだまだ大勢いると思って。H川さん1人だけのためだとしても、僕は書きますよ!


◆2014年3月26日(水)
 今日は関東である選手を取材しました。名前を出したいところですが、いくつかの情報から出さない方が良いと判断。基本的には慎重な男です、寺田は。
 今日の取材も280行原稿と大作記事。昨日の井村久美子選手は350行記事。かなりのエネルギーを使いましたが、面白い話を色々と聞くことができました。

 井村選手と今日取材した選手は大学2年時に日本代表となったのが共通点ですが、違いもありました。高校から大学に入って、“自身を変えた”という意識の有無です。
 井村選手は大学2年時の2000年に中学時代の記録(6m19=現在も中学記録)を更新しましたが、“復活”と言われることがイヤだったそうです。
「まったく違う自分になれたと思っていたので、“復活”と書かないでくださいね、と日本ジュニアのときに記者の人たちにお願いしました」
 井村選手はそのシーズンの世界ジュニアで、ジュニア日本記録(6m43=現ジュニア歴代2位)で銅メダルを取るまでに成長しました。

 それに対して今日取材した選手は、高校時代に体得した“試合前日の感覚を作る”というところを軸に考えて、大学2年時に五輪代表になりました。具体的なメニューは変わっていると思いますが、それほどこだわっていない感じもありました。
 “前日の感覚”を具体的に言葉にするのは難しいだろうと思って突っ込むことは控えました。時間も限られていましたし。身体内部の感覚が大きな割合を占めるのですが、それだけでもないようです。コーチが外から見た動き、自身の精神状態も含めての感覚のようです。
 そこを軸に考え、強化をして早くに国際舞台で結果を出しました。

 では、井村選手も自身が強くなる上で変えずに、軸となったことがなかったかといえば、当然ですがあったわけです。走幅跳で結果が出るときには、“走り”もよくなっています。2000年しかり、日本記録(6m86)を出した2006年しかり。
 さらにいえば、小学校の頃にお父さんから教わった“楽しく競技をする”というメンタルが、結果を出すときには上手く作用していました。メンタルが良くないと競技も良くなくなる傾向があったと思います。
 それらも含めて、現在の井村アスリートアカデミーの指導、運営に生かされているのです。

 特に結論めいたものはないのですが、選手が「変えた」「変えなかった」と言うときは、そのときの話の展開や、選手が何を気にしているか、に左右されるのだと思います。そこをしっかりと感じ取る能力が、記者には必要になる。それができないと文章にするときに、間違ったニュアンスを伝えることになります。昨日と今日の取材で、改めてそこを感じました。


◆2014年4月10日(木)
 早くも週の半ばが過ぎて木曜日です。先週末から今週初めは殺人的でしたね。根拠もなく乗り切れると思っていましたが。でも、すごかったです。
 3月31日(月)が陸連強化委員会の会見で、4月1日(火)が甲府で山梨学大取材、2日(水)にNTCで競歩の高橋英輝選手を取材、3日(木)がミズノで川面聡大選手を取材、4日(金)が某編集部で写真セレクト作業&高橋英輝選手に電話で追加取材、5日(土)が埼玉県で某指導者取材&東洋大で桐生祥秀選手公開練習取材&八王子で東京六大学取材、6日(日)が中大・日体大対抗取材。
 取材だけでもここまで続くのは珍しいのですが、その間にアジア大会マラソン代表原稿240行、高橋英輝選手が400行、リレーナショナルチームが120行、男子100 m展望が240行、山縣亮太選手が300行を書きました。特に日曜日の中大・日体大対抗が終わってから48時間で660行は、もう1回やれと言われてもできるかどうか。ちょっと文章が粗いかもしれません。3月に書いた井村久美子選手の350行と高橋選手は、寺田なりにきっちり書いたつもりですが。

 このハードスケジュールを乗り切れたのも、取材先で選手、指導者の皆さんの元気な姿に接することができたからです。
 東洋大、東京六大学、中大での出来事はTwitterでそこそこ紹介させていただきましたが、これを書いていませんでしたね、中大の男子が星野晃志監督に代わっていたネタです。
 星野監督といえば、1997年の成田高インターハイ総合優勝時のキャプテンです。ご自身は400 mHで7位でしたが、2年生の澤野大地選手が棒高跳で、3年生の中嶋博之選手が三段跳で優勝。40.83点で総合優勝を達成しました。
 内容もすごかったですね。2位の清風高が39点ですから、競り合いのレベルの高さ、2位の得点はインターハイ史上過去最高かもしれません(すみませんが未確認です)。
 清風高は山村貴彦&寺野伸一と、後に五輪選手に成長した2人が得点源。山村選手が200 mと400 mと4×400mRに優勝。寺野選手が走幅跳に優勝。2人が走った4×100 mRが2位。これで39点です。ちなみに、4×100 mRの優勝を阻んだのは八女工高で、2走が2年生の宮崎久選手でした。
 成田高は澤野選手というエースもいましたが、細かいところの頑張りで得点を積み重ねました。棒高跳は3人入賞が期待されていましたが、そこで10位と敗れた中嶋選手が最終日の三段跳で優勝しましたし、砲丸投の大竹直輝選手の8位入賞も貴重な1点となりました。
 2枚看板の清風と、幅広く得点した成田。この戦いはもはや伝説と言っていいと思います。星野監督はそれを率いたキャプテンでした。

 星野監督は中大に進んでからの方が、個人の成績は上がりました。タイトルに迫るレースもあったし、日本のトップに来るのでは、と期待したシーズンもありました。残念ながら日本代表には届きませんでしたが、それもまた、指導者としてのモチベーションになっているのかもしれません。
 期待できる監督が誕生しました。


◆2014年4月11日(金)
 昨日の日記で中大・星野晃志新監督について書きましたが、中大・日体大対抗で撮らせてもらった写真が、この田口裕之選手とのツーショットです。
 800mは上半身のがっちりした選手が頑張っていたのですが、サングラスをしていたこともあって誰かわかりませんでした。星野監督と一緒にいるところを見て、そうだったのか、とわかった次第です。
 確か岐阜で行われた全日本実業団(2007年)のときに、陸マガの印刷所でもある大日本印刷の選手ということで記事にさせていただきました。通常勤務をフルタイムで行いながら頑張っていた選手です。現在は別の会社に転職していますが、中距離の市民ランナーです。
 2年前にはセカンドウィンドAC所属で、日本選手権にも出場しました。1分49秒58の自己新を5月に出して、tamaたま日記でも紹介されました。

 星野監督とは中大で4学年違い。昨日の日記で紹介したように、星野監督は成田高というインターハイ総合優勝高出身ですが、田口選手は確か東京の、普通の高校出身(間違っていたらメールください)。星野監督とは入れ違いですが、アドバイスをしてもらった関係だそうです。超エリート校出身選手と、一般入試の選手が一緒に頑張れる環境も、中大の特徴ではないでしょうか。
 ちなみに、110 mH日本記録保持者の谷川聡筑波大コーチも、一浪後に一般受験で中大に入りました。

 中大・日体大対抗(オープン)の田口選手は400 mを53秒90(寺田の手動計時)で通過。それだけ引っ張ってもきっちりとトップを取って1分51秒62でした。ちなみに寺田のストップウォッチでは1分51秒59。正式計時と0.03秒差は、初戦ということを考えたらまずまずの数値でしょう。今季も寺田計時は健在ですかね。

 田口選手は今年の誕生日で31歳。中大・日体大対抗に出るのは9年ぶりと話していましたから、大学4年時以来ということですね。
 今季の目標は年齢別日本最高記録だそうです。31歳最高は、森祥紀選手(自体学)が持っている1分49秒02です。ちなみに、30〜34歳の年齢別日本最高は全部森選手ですね。身体的・年齢的な理由なのか、社会環境的な理由なのかはわかりませんが、中距離はトップレベルを維持するのが難しい競技と言えます。

 田口選手は「初戦で、1人で行って出せたので」と、まずまずの感触のようです。中距離市民ランナーとして名を馳せるか?


◆2014年4月14日(月)
 日体大長距離競技会、岩壁杯と取材に行き、日体大の記事っぽいところは寺田Twitterに書きましたが、それ以外のネタも盛りだくさんの週末でした。まずは日体大での出来事から。

 新年度ということの話題が多くなりますが、日本郵政グループの高橋昌彦監督がいらしたので、新チームのデビュー戦はいつかうかがったら、来週の東京選手権に2人が出場するとのこと。鈴木亜由子選手は、もう少し状態を見ながらになるみたいです。リリースも出ていますね。記念すべき第一歩です。
 人事的なところでは日本郵政グループのマネジャーに比企和一さんが就任していました。高橋監督が東京電力だったころのつながりです。どこかで見た顔だと思っていたら、神奈川大でマネジャーだった比企君でした。苦労されたのか、大人になりましたね。

 神奈川大で同じ時代に選手だったのがユニクロの島田健一郎コーチ。ユニクロは拠点を千葉に移しました。寺田的のリンク集記載も、いつの間にか中国地区から東日本地区に移っていますね。
 今週末の兵庫リレーカーニバルには萩原歩美選手が出場します。「松江レディースハーフでは15分20秒台(かなりの追い風だったようですが)の区間があったし、31分30秒とか出せる?」と振ってみました。あまり大きなことは言いませんでしたが、それなりの手応えも感じているような雰囲気でした。
 2年目の田村紀薫選手は冬の駅伝で復調の兆しを見せましたし、高校時代に15分31秒65で走っている大谷くみこ選手も2年目はやってくれるでしょう(これは島田コーチではなく、寺田の観測です)。そして三井住友海上時代に世界ハーフ、実業団駅伝で大活躍した大崎千聖選手がどこまで復活するか。楽しみなチームです。

 元京セラの長渡憲司コーチも姿を見せていました。3月の名古屋ウィメンズマラソン前に宮内姉妹記事執筆のために取材をさせてもらいました。宮内姉妹は実家(神奈川)に戻り、長渡さんも荷物は宮崎に置きながら、単身で上京して宮内姉妹の練習を見ているとのこと。
 移籍先を探しているそうです。もちろん、駅伝もやる気十分。記事にもしましたが、姉妹はまだまだ伸び代がありそうです。

 ネットなどでは存在を知っていましたが「初めまして」だったのが東海大の西出コーチ。福井県美方高の先生からの転身です。東海大OBでも、佐久長聖高OBでもないのに、両角速監督がずっとラブコールをしていたとうかがっています。その辺の理由もいつか取材したいところです。
 そして、この日一番感動したのはこの写真のシーンです。このシーンにどんな意味があるのか、何を感じられるのか? つづきは後日。


◆2014年4月16日(水)
 一昨日の日記の最後に掲載したこの写真は12日の日体大長距離競技会で出くわしたワンシーンで、左から小森コーポレーションの若倉和也総監督、SUBARUの奥谷亘監督、東海大の両角速監督です。90年代後半にダイエーでチームメイトだった3人。このシーンで感じたことは何か、という話です。
 実際は元チームメイトが雑談をしているだけなのですが、その3人が95年1月の阪神淡路大震災の際に神戸を拠点としていたチームに在籍していました。

 3人のなかで最年長は若倉総監督で、震災当時32歳。日産自動車でニューイヤー駅伝優勝を経験し(89年)、区間上位の常連でした。95年のニューイヤー駅伝でも7区区間賞をとって、ベテランの味を見せていました。ダイエーの廃部後は小森コーポレーションでコーチ、監督、総監督と指導者として手腕を発揮してきました。
 両角監督は95年1月当時28歳。若倉総監督と同様に日産自動車からダイエーに移籍しましたが、競技的にはいまひとつの状態。震災後に出身地の長野県に戻り、佐久長聖高で指導者人生を歩み始め、その後の指導実績はもはや伝説的です。800m、1500m、1万m、駅伝の高校記録を樹立し、佐藤清治、佐藤悠基、村澤明伸、大迫傑と、日本代表や27分ランナーを多数育てました。
 奥谷亘監督は3人の中では最年少で、95年の震災時には20歳。名門の西脇工高から入社し、94年の世界ジュニアにも出場しました。ダイエー廃部後は積水化学、SUBARUと移り、時間走をじっくりと行う独特の練習スタイルをものにして、世界陸上マラソン代表を2度勝ち取りました。腸を切除する大病も患いましたが、克服して指導者として結果も出しつつあります。

 両角監督が東海大に移ったのは2011年、奥谷監督もその年に監督に昇格しました。ダイエーが神戸を拠点としていた頃は、奥谷監督はまだ18〜20歳。「いたいけな18歳を両角さんは…」と話していましたが、その件は今回のネタとは関係ないので割愛します。

 このあと、もう1枚の写真を撮ることができました。ちょっと暗いですけど小森コーポレーションの本川一美監督と山梨学大の飯島理彰コーチ。2人もダイエーで、しかも同学年です。本川監督は95年ニューイヤー駅伝1区区間賞選手。ダイエーは震災後、福岡に拠点を移して97〜98年とニューイヤー駅伝連続3位と健闘しましたが(2年とも1位・旭化成、2位・エスビー食品)、この2人が当時のダイエーの主力選手でした。

 つまり、震災時にダイエーに所属していた選手はその後、それぞれの道でしっかりと頑張っているということです。
 震災で色々と考えたのではないでしょうか。自身の人生のことはもちろん、家族のこと、社会のこと、そして陸上競技のことと。自分を見つめ直し、生き方に軸ができたからその後の人生で頑張れた……などと、簡単に結論づけられるものではないと思いますが、土曜日に日体大で元ダイエー・メンバーを見ていて、何かしら深く気持ちに刻んだものがあったのかな、と勝手に想像しました。
 さらに加えるなら、当時ダイエーの監督だった現日清食品グループの白水昭興監督が、70歳を超えた今も監督を続けているという事実もあります。

 来年1月で阪神淡路大震災から20年。彼らのその後の生き様を記事にするのも、意味のあることのように思いました。白水監督を囲みながら、元ダイエーメンバーが復興した神戸の街を歩く写真が撮れたらインパクトがありそうです。


◆2014年4月20日(日)
 関西中国横断出張第1日は兵庫リレーカーニバルの取材でした。
 13時頃にユニバー記念競技場に着き、主催新聞の神戸新聞に挨拶に行きました。大原デスクはすでに帰られた後でした。会社に戻ってデスク業務に就かれたとのこと。
 ということで、陸上メイン担当の橋本薫記者に挨拶。神戸新聞でも数少ない兵庫リレーカーニバル出場経験記者です。小学校時代にリレーに出場されたそうです。高校のときは長距離で兵庫県でも有数のランナーでしたが、選考レースが出られない時期だったとか。展望記事の連載を書いただけでなく、今回が結婚後初の兵庫リレーカーニバル取材ということで気合いが入っていました。
 寺田が先日の日記で紹介した元ダイエー・メンバーたちの震災後の人生という視点に共感してくれました。そこで「神戸新聞が来年の震災20周年記事に取り上げるなら、寺田的とコラボ企画にしよう」と提案しました。寺田が選手や指導者としての活動を時間軸に沿って話を聞き、神戸新聞記者が地域的なことなど地元紙ならでの視点で話を広げていくイメージです。実現できたら、新たな形の取材になります。

 元ダイエーメンバーの奥谷亘SUBARU監督に、今日もお目にかかりました(写真)。一緒にいたのは里内正幸スズキ浜松AC女子長距離監督。2人は積水化学時代の先輩後輩。ダイエーが廃部となり、佐藤進監督ら選手の多くが積水化学に移籍しました。そこに山梨学院大から加わったのが里内監督でした。佐藤監督の驚異的に走り込む練習を経験した者同士。ちなみに里内監督は多いとき、月間1400km走ったといいます。
 2人とも指導者として結果を出し始めていますが、自身の現役時代と同じ練習をさせているわけでは、もちろんありません。細かいところは機会があったら紹介したいと思います。
 SUBARUは2月の東京マラソンで小林光二選手が2時間8分台で走りました。スズキ浜松ACは今日、三郷実沙希選手が3000mSCで優勝し、自己記録にも肉薄しました。1万mでも牧川恵莉選手が32分00秒25で4位。松岡範子選手がいましたからスズキ最高記録ではありませんが、丸亀ハーフマラソンでも優勝した選手です。
「里内は丁寧な指導をするから女子に合っているのかもしれない」と、奥谷監督が話してくれました。

 取材については、明日、時間があれば書きます。


◆2014年4月21日(月)
 関西中国横断出張第2日です。午前中はホテルの近くのカフェでメールの対応と、このサイトのメンテナンス。午後は校正作業と今後のスケジューリングなどでいっぱいいっぱいでした。出張先でも事務的な仕事はてんこ盛りです。夜は大阪に転勤になったKデスクと食事をしました。

 昨日の兵庫リレーカーニバルの取材ですが、今年は記者の数が少なくなっていましたね。出雲陸上に桐生祥秀選手が出ますからね。100 mは大学初戦。新聞的にはそちらに行かざるを得ないでしょう。
 寺田も「出雲じゃないんですか?」と何回か聞かれましたが、一応、活動の軸脚は専門誌ですから、月刊誌のサイクルとしては織田記念で取材できればOKなのです。公開練習と岩壁杯には行っていますしね。その点、兵庫リレーカーニバルは9種目が行われます。日本選手権の全種目展望を書く立場としては、兵庫リレーカーニバルなのです。

 今回の関西中国横断出張は、2つの大きな目的のもと敢行しています。
 1つは陸マガ次号の「日本選手権全種目展望」と、「見逃し厳禁種目」の原稿を書くこと。もう1つは公にはできませんが、20種目近くの記事を書きます。昨日もそうでしたが、「日本選手権」とか「********」とか、質問していますね。もちろん、兵庫リレーカーニバルについての質問が途切れたところでしています。
 ですから、一応全種目の優勝者(または日本人トップ選手)のコメントは取材するつもりでいます。タイムテーブルの関係で、それもなかなか難しいのですが。織田記念とかは絶対にできませんが、兵庫リレーカーニバルはなんとかできないこともありません。13:30から始まるグランプリ種目の最初は投てき種目で、トラックは15時頃から4種目。最後に男女の1万mですが、フィールド種目は同時進行していません。兵庫の看板種目は1万mだぞ、という主催者の意思表示でしょうね。

 ということで女子砲丸投、女子円盤投、男子砲丸投と優勝者のコメントを取材しました。女子砲丸投は2位の福富選手、男子砲丸投は2位の山田壮太郎選手も、なんとか話を聞くことができました。女子円盤投は3位の敷本愛選手の話も聞きたかったですね。昨年の日本選手権優勝者ですから。
 それができなかった反省から、男子1500mは昨年の日本選手権優勝の秋本優紀選手が下位に沈みましたが、ミックスゾーンできっちりつかまえました。男子3000mSCも優勝の松本葵選手だけでなく、日本選手権2連勝中の山下洸選手も話を聞きました。
 女子1500mは優勝した陣内綾子選手でいっぱいいっぱいでしたが、2位の高校生・高松望ムセンビ選手にも、日本選手権出場意思の有無だけは確認しました。高松選手復調の経緯は、春の高校伊那駅伝で取材していましたし。
 でも、ここで我ながらすごいと思ったのは、3位の飯野摩耶選手にも話を聞けたこと。第一生命で駅伝のエース区間を走ったこともある選手です。東農大に入って中距離をやっている理由などを聞くことができました。

 そして男女1万mです。先に行われた女子は日本人トップの萩原歩美選手の取材がほとんどでしたが、西原加純選手にもパパッと話を聞きました。男子1万mのレースが始まっていますから、そこまでで精一杯です。
 男子1万mでは村山謙太選手の話を聞く前に、自己新の上野裕一郎選手の話も手短に聞きました。村山選手がインタビュー室に入ってきて、「ごめん」という仕草をして村山選手の方に移りましたが、この辺は顔なじみの選手だからできるのかもしれません。設楽悠太選手もミックスゾーンで、本当に少しですけど話を聞きました。
 新聞記者は原稿をすぐに書くのでこの辺で取材を打ち切らざるを得ないのですが、寺田はその後も取材を続けます。表彰後の井上大仁選手をつかまえ(古田哲弘選手の山梨学大日本人最高を破りました)、楠康成選手に2年ぶりに話を聞き、山梨学大・上田誠仁監督にもコメントをもらいました。
 そして駒大の大八木弘明監督です。村山選手は駒大初の27分台ですが、昨年来、大八木監督と東洋大・酒井俊幸監督には27分台のことばかり質問してきました。今日、大八木監督に話を聞かなかったら、取材姿勢を疑われるだろう、と自身にノルマを課して、最後の最後に取材に成功しました。

 ここまで多く取材できるのは、大会自体の記事を書かなくていいからです。そうするとかなり自由度の大きい取材ができる。記事をかかえると、やっぱり1つの種目、1人の選手を完璧に取材しないといけない、ということで縛りがかかりますから。寺田を自由に取材させたら、色々な取材が可能になるということです。だからなんだと聞かれると困るのですが、そういう積み重ねが、新谷仁美選手のTBSサイトのコラムとかに反映されるのです。


◆2014年6月6日(金)
 日本選手権第1日目の取材でした。
 トップページでも紹介したように、今日は初優勝者が続出。海老原有希選手と篠藤淳選手以外の5人が初優勝者で、もう少し突っ込んだ言い方をすると、女子フィールド種目で伏兵的な選手が相次いで優勝しました。

 日本選手権2014を10倍楽しむページでは走高跳は福本幸選手、棒高跳は我孫子智美選手、三段跳は吉田文代選手、円盤投は高橋亜弓選手を優勝者予想していました。吉田選手はぎりぎりのだけど最後は、静岡国際のようにベテランの力を発揮するかな、と思っていました。それ以外の3人は固いだろうと思っていたのですが…。フィールド種目ですし、雨だったことが番狂わせの背景にあったのかもしれません。
 走高跳は渡邉有希選手(三村有希選手が3月に結婚して名字が変わりました)、棒高跳はM名愛選手、三段跳は吉田麻佑選手、そして円盤投は東海茉莉花選手。M名選手は何かと重なって話を聞くことができませんでしたが、渡邉選手以外は初めて取材で話を聞く選手ばかり。ただ、全員が大学を卒業後に頑張っている選手たちで、話を聞いていると、寺田の知っている選手や指導者との接点も出てきます。

 東海選手は高岡工芸高時代は45m74がベストでインターハイは6位。大学は大体大ですから栗山投てき部長の教え子ということになります。学生時代は47m22がベストで日本インカレは4位が最高順位だったそうです。地元の富山に戻って5年目で、現在は2つの高校の非常勤講師をしています。そのうちの1つは伏木高。アトランタ五輪代表の大森盛一(ミズノ)選手の母校ですね。
「I most」というチームは、地元の富山に戻ったときに、5人の仲間で作ったクラブチームで、その5人の頭文字をとって命名したそうです。
 高校時代には世界ユースの代表になったといいますから、早い段階で良い記録を出した選手と言えます。それを考えると、学生時代はもうひとつだったといえそうです。
 初めて50mを超えたのが昨年で、日本選手権でも3位に入賞。日本選手権というタイトルをこれまで、どう意識してきたか? という質問に次のように答えてくれました。
「去年やっと50m台を投げることができて、遠い存在から手が届きそうな、実現できる目標に変わりました。そこから濃い1年間を過ごすことができました。日本選手権で3位になったことで色々な合宿に呼んでもらえるようになりましたし、高校の先生のつてでも色々な先生方に見ていただきました。技術の理解が深まったと思います。本当に良い経験をさせていただいています。今後は富山県記録の55m28を投げたい気持ちがあります」

 三段跳の吉田麻佑選手は岐阜県出身。どの記者も初めて取材する選手なので取材中に経歴を確認していました。そのときに、「藍川東中学」と吉田選手が話したので、「どこかで聞いた記憶がありますね」と思わず口に出していました。
「小、中、高と高橋尚子さんと一緒なんです。県岐阜商高では青木沙弥佳さんも先輩です」
「ということは、高校時代の先生は安福先生ですか?」と寺田。
「よくご存じですね。3年間、がっつりと教えていただきました」
 これには驚かされました。安福先生とは陸マガ時代からの、岐阜に取材に行った際には報道対応などでお付き合いがあります。昨年の実業団女子駅伝中日本大会の取材でも、荷物を置かせていただいたりと、お世話になったばかり。陸上界はつながっていますね。
 安福先生は卒業生が活躍するといつも、嬉しそうに話をしてくださいます(高校の先生方はみなそうだと思います)。次に岐阜に取材に行ったときは吉田麻佑選手の思い出話をしてくれると思います。
 吉田麻佑選手の大学は福岡大。ということは片峯先生の指導を受けたわけです。地元に戻って教員になって3年目。
「3年は頑張ろうと思ってやってきて、今は充実しています。3年で次の学校に異動になると思うので、どのくらい忙しくなるかわかりませんが、なんとかつかめてきたものもありますし、走幅跳に移行して記録を大きく伸ばしたいですね。オリンピックとか大きいことは言えませんが、アジアの大会とかを狙ってみたい」

 日本選手権といっても、種目によってはフルタイムで働いている選手が優勝するケースもいくつかあります。そういう選手たちも頑張って欲しいですね。その種目で何年に一度かは、世界を狙える素材の選手が現れるはず。そのときに、種目として蓄積したものがないと継承ができません。
 日本の陸上界にとって重要な部分だと思います。


◆2014年6月7日(土)
 日本選手権第2日目の取材でした。
 室伏広治選手の20連勝は(明日の)スポーツナビに書きましたし、各種目優勝者の特徴などはトップページで紹介しました。ということで、日記ではジュニアの話題に触れたいと思います。明暗分かれた1日になったと思います。

 まずは男女100m。雨の中の予選を10秒15で突破した桐生祥秀(東洋大1年)選手だけでなく、同じ3組4位の小池祐貴選手(慶大1年)も予選を通過。女子では土井杏南選手(大東大1年)が予選1組を1位(11秒58)通過。
 明暗が分かれたのが男女400 mの静岡トリオ。加藤修也選手(早大1年)は予選2組を2位で通過しましたが、1組の油井快晴選手(順大1年)は4位、女子は昨日でしたが、昨年の優勝者の杉浦はる香選手(青学大1年)も1組4位で予選を通過できませんでした。

 女子400 m決勝では、杉浦選手の浜松市立高の後輩の松本奈菜子選手(浜松市立高3年)が優勝し、青山聖佳選手(松江商高3年)が2位。昨年の杉浦&大木彩夏選手に続いて高校生がワンツーを取った種目です。昨年は杉浦選手が「さやかちゃんが…」と話していましたが、今年は松本選手が「せいかが…」と話します。
 同じ高校の先輩後輩が、日本選手権で2年続けて優勝というのは快挙ですから、記者たちからもその辺を突っ込む質問が出ていました。松本選手は控えめなコメントが多いので「昨年、杉浦先輩が優勝したときはどう思って、同じポジションに自分が立った今、どう感じていますか」と質問しました。
「はる香先輩がこの舞台で優勝されて、すごく力のある記録を出してくれました。はる香先輩がいてくれたから、私たち後輩も可能性が広がったと感じられました。すごい刺激になって、それが今年自分のプレッシャーになったりはしませんでした」

 意外だったのは山本凌雅(順大1年)がベストエイトに残れなかったこと。織田記念に優勝して新しい環境にも対応していると思われているのですが、雨に対応できなかったのか、初の日本選手権の雰囲気に影響を受けたのか。
 優勝したのがベテランの石川和義選手(ライフメッセージ)。3000mSCの篠藤淳選手(山陽特殊製鋼)の8年ぶりに及びませんでしたが、6年ぶりの優勝。本人も「半分引退していました」と話すほど。
 17mを目前としながら、ケガに阻まれてしまっている選手。山本選手とは会話はなかったそうですが、色々と経験を伝えてほしいですね。

 密かに注目していたのが土橋智花選手(岩手大1年)。昨日の女子200m予選で24秒16で走り、自己記録の24秒12に迫りました。自己記録は4年前に出した中学記録です。陸マガの特別リポート 東京国体女子4×100 mR優勝 岩手女子短距離が躍進した理由で取材させていただきました。本人は苦しんではいなかったと話してくれましたが、苦しまなかったわけではありません。
 4年ぶりの自己新が生まれるかと思って注目していましたが、残念ながら予選と同じで24秒16でした。しかし本人も周囲も、時間の問題になったと確信できた日本選手権になったと思います。

 松本奈菜子選手以外でも、高校生たちが活躍しました。
 女子走幅跳は五十嵐麻央選手(福島大)。本命選手が勝てなかった種目ですが(女子は跳躍4種目で本命と予想した選手が敗退)、2位には水口怜選手(白梅学園高3年)が入りました。先週の日本選手権混成ジュニアでは、同高の澤田珠里選手が優勝しています。
 女子100 mHではヘンプヒル恵選手(京都文教高3年)が雨の中、13秒47の高校歴代4位の快記録。寺田明日香選手の高校記録(13秒39)も見えてきましたね。
 女子走高跳では寺谷諭美選手(倉吉東高3年)が1m70で4位。
 例年と比べて高校生の活躍が多い方だったかどうかは断言できませんが、山梨インターハイが楽しみになりました。

 おっと、忘れてはいけないのが男子100m予選4組で、小池選手と同タイムの10秒44で5位通過の大島健太選手(東京高2年)。OBが次々に快走する東京高スプリンターズ(チーム愛称非公式募集中)ですが、その勢いは現役高校生にも伝わりました(4×100 mRは高校新も出していますし、女部田亮選手は国体で勝っていますが)。
 東京高といえば、ジュニアではありませんが藤森安奈選手(青学大2年)も予選を突破。無欲だった昨年とは日本選手権に臨む意気込みが違います。
「去年はなんとなく出て5番に入って、アジア選手権代表になりましたが、そこで世界を目指す気持ちが大きくなりました。今年はここでアジア大会を勝ち取るつもりでいます」
 補欠としてバハマ(世界リレー選手権)に行った経験もバネにしています。
「(バハマでは)暗い顔をしていたらみんなに迷惑をかけるので、どうしてもそうなってしまうときはちょっと離れたところに行っていました」
 思いが走りに現れるでしょうか。

 これもジュニアではありませんが、男子円盤投の米沢茂友樹選手(東海大4年)が2位、安保建吾選手(同3年)が4位。4月に揃って55m台を出しながら、関東インカレで振るわなかったので気になっていました(安保選手が3位、米沢選手は10位)。
 ハンマー投の際に室伏重信先生のお話をうかがいにスタンドに行くと、熊谷では冴えない表情だった東海大の與名本稔コーチにお目にかかりました。聞けば、関東インカレのときは故障明けだったようです(米沢選手だけかもしれませんが)。與名本コーチの笑顔も良かったですね。


◆2014年6月8日(日)
 日本選手権3日目(最終日)の取材でした。
 競技が始まったときは曇りだったのですが、やがて雨に。3日間すべて雨の日本選手権は過去にあったのか? と記者たちの間で話題に。確かに、1日降っても次の日には晴れることが多いですからね。
 トラック最初の決勝種目は女子3000mSC。名古屋ウィメンズマラソンで2時間27分台で走った堀江美里選手(ノーリツ)が、日本選手権は3000mSCに出場してきました。堀江選手自身も大学時代に3000mSCを走っていましたし、森岡芳彦監督も愛敬重之選手や奈良修選手(現大東大監督)を育てた指導実績があります。その2人が偶然ですが、同じチームになったのですから、走っても何も不思議ではないのです。
 優勝した三郷実沙希選手(スズキ浜松AC)に食い下がったのですが3位、自己記録にもちょっと届きませんでした。マラソン中心でも、こうして年に1度3000mSCに出てくるというのも、うまく形容できませんが、いいですよね。ちょっとしたこだわりでしょうけど、競技生活のアクセントになるのでは? と思います。

 レース後にはミックスゾーンに。スピーカーに流れる三郷実沙希選手のコメントを聞きつつ、中村真悠子選手に学生新の感想を聞きました。
 早狩実紀選手が高橋尚子さん(同学年同士)と話をしていたので挨拶をと思って行くと、「寺田さんに聞きたいことがあったんです」と早狩選手の方から切り出してきました。女子選手の方からそう言われるとちょっとドキッとするよねと、元陸上担当記者H氏と話しました。
 他の記者も来たので、まずはレースの感想などをしっかりと取材。2月から4月までケガで練習不十分だったのですが、スタート直後に先頭に立ちました。3周目に入ったところで三郷選手に先頭を譲りましたが、先頭に立ったのは日本記録保持者のプライドだったようです。
「三郷さんが世界レベルに届きそうですが、先に見てきた者として、国内で守りのレースをするよりも、つぶれても頑張れるところまで頑張ろうと思いました」
 レースぶりからも伝わってきましたが、早狩選手はこうでなくては、と改めて思いました。

 で、寺田に聞きたいこととは?
「私、日本選手権に何回出ていますか?」
「あ、いや、日本選手権成績のPDFファイルは2000年以降かな、パソコンに入っているのは」
 聞けば福島に来て、色々な人から質問されていたのだそうです。室伏広治選手が20連勝し、吉田真希子選手も20回出場で花束を渡されていましたから、皆さん早狩選手の回数が気になったのでしょう。
「東京の世界陸上に出ているから(3000m)、大学1年から出ているよ」と高橋さん。
「あのときは出なかったかもしれない。南部記念で代表が決まったから」と早狩選手。
 と2人が話している間に、そういえばと思いつきました。TDB(寺田的データベース)クラウド版にデータがありました。すかさずスマホでアクセスして、1992年から出場していると判明。その後は連続出場を続けていて、今回で23回連続出場でした。
 室伏選手も20連勝の前に高校3年、大学1〜2年と出ているので23年連続出場。つまり2人は同じ年に日本選手権に出始めたのです。
「ライバルは室伏広治ですね」
 と、現役続行を力強く宣言してくれました。


◆2014年6月20日(金)
 日本学生個人選手権1日目の取材でした。
 サッカー・ワールドカップ(ギリシャ戦)を見るのを途中であきらめ、最寄りの小田急永山駅へ。行ってみるとビックリ、昨日の脱線事故の影響で相模大野から藤沢は、ピストン運転になっているようで、行ってみてどのくらい待つかわからない、という情報でした。
 仕方がないので京王線と南武線で武蔵小杉に出て、JRで平塚に。50分遅れで競技場に着きました。

 すでに男子の110 mH予選は終了。産経新聞のタカラだ!記者が、増野元太選手(国武大3年)は欠場だったと教えてくれました。アジア・ジュニアで優勝し、110 mJHのジュニア日本最高をマークした金井大旺選手(法大1年)は1組で15秒00(+1.7)。なにかアクシデントがあったのだと思います。
 女子100 mH予選と男子やり投決勝、男子三段跳、女子棒高跳決勝が同時進行していましたが、今日は種目数が少ないので、スタンドから比較的じっくりと見られました……じっくりは、やっぱり無理ですね。フィールド3種目同時進行は。
 三段跳の前半はしっかりと見ていました。東海インカレで16m13を跳び、日本選手権でも2位に入った佐脇匠選手(愛知教大修士1年 ※脇は月へんに刀3つ)に注目していました。高さよりも、水平方向に素早く弾かれるような跳躍です(間違っていたら申し訳ありません)。2回目に16m30(+4.5)で優勝しました。
 佐脇選手は大学院修士課程の1年生。木越清信さんが筑波大に移られましたが、インターハイ4位だった大垣南高時代から練習メニューは自分で考えていたそうです。昨シーズン終了後は、東海大の植田先生にもアドバイスを求めて、「脚の振り下ろしの感覚が、ハマるところにハマってきた」と言います。自分流とうまくマッチして、突き詰められてきているのではないでしょうか。
 愛知教大といえばロンドン五輪4×400 mR代表の中野弘幸選手が有名です。
「中野さんはずっと見ていました。世界に出られてすごいと思います。三段跳はすぐに世界を考えるのは難しい種目。目の前の記録、16m50を目指したい」
 日本選手権の石川和義選手もそうですし、ロス五輪代表だった植田先生も小松隆志さんも、年齢が行ってから強さを身につけました。佐脇選手も6年後はどうなっているかわかりません。

 はっきりと「東京オリンピックを目指します」と話したのが、女子棒高跳に4m01の大会新で優勝した竜田夏苗選手(武庫川女子大4年)でした。昨年の日本選手権優勝者ですが、今年は3m80で6位。「昨年は勝ってしまった日本選手権。今年は……」と話してくれました。詳しくは陸マガ次号??(掲載選手未定ですが)
 今年4年生ですが卒業後も棒高跳を続けることは明言。「形はわかりませんが、東京オリンピックまでは続けます。卒業後もやろうと思っていましたが、東京開催が決まったときに絶対に出たいと思いました」

 女子やり投に55m89の大会新、自己新で優勝した右代織江選手(国士大修士2年)も、大学院卒業後も競技続行を決めています。十種競技日本記録保持者の右代啓祐選手の妹さん。朝日新聞・増田記者が「なんで七種競技をしなかったのか聞いてください」と目くばせするので、代わって質問しました。
「高校1、2年生の頃は興味があったのですが、面白そうというところで止まってしまいました。(インターハイにも優勝し)やり1本という感じでここまでの来ました。選択肢に入ってこなかったですね」
 しかし、学生時代は伸び悩びました。と言い切っていいのかわかりませんが、若手が55m以上をポンポン投げている現状からすると、伸び悩みと見えました。年次ベストは以下のような推移です。
高3:49m07
大1:48m07
大2:51m25
大3:50m31
大4:50m99
院1:53m89
院2:55m89
 大学卒業時は51m台でも「まだイケるな、という手応えがありました。ここからだな、という気持ちが強かった」ので続けたそうです。国士大の先輩の日本記録保持者の海老原有希(スズキ浜松AC)に対しても「追いつけ追い越せ」の気持ちでやっているそうです。
 兄の啓祐選手との共通点は……これも陸マガでしょうか。


◆2014年6月21日(土)
 日本学生個人選手権2日目の取材でした。
 大会新は男子200m大瀬戸一馬選手(法大2年)の20秒64(+1.8)と、1万mW小林快選手(早大4年)の40分31秒36の2種目だけでしたが、次から次へと面白い話題が出てきました。大会新の2人も、話題性としても高かったと思います。
 大瀬戸選手のスタートダッシュの速さは日本でも一二を争うほど。間違いなく100 mタイプですが、その大瀬戸選手が200mで20秒6台を出したのです。「直線がすごく吹いていて進んでくれました」と謙遜気味に話しますが、条件は他の選手も同じです。そのなかで2位に0.40秒差は強かったと思います。
 大瀬戸選手は2時間後の400m予選にも出場。4×400mRではなく単独種目の400mにも「中学で2本、高1で1本、高2で1本、高3で2本、大1で1本出ていますから、人生で8本目です」と、しっかりと覚えていました。47秒15の自己新で(これまでは47秒21)で1組1位通過。明日の400m準決勝にも出場すると明言しました。
 元から今季は、挑戦の年と位置づけて、多くの試合に出場する方針だったそうです。この大会で200m&400mに出るのも、日本選手権前からの既定路線。そこに“予定外”のアジア大会代表漏れも加わり、いっそう挑戦したい気持ちが強くなっているようです。
 来週の布勢カーニバル、その後のヨーロッパ遠征、帰国してトワイライト・ゲームスと連戦し、夏は地元の小さな試合に出場(これは練習代わりかもしれません)。そして秋には「トップ選手として見るところがそこでいいのかわかりませんが」と前置きしながらも、国体で頑張りたい気持ちが大きいと言います。
「お世話になった福岡県にしっかりと恩返しをしたい。中3から出場させてもらっていますが、そこからは福岡県は4×100 mRで入賞できていません。今年は成年に竹下(早大)さんがいらして、少年もABとも良い選手がいますから」と、かなりの意気込み方。秋の国内シーズンの楽しみが1つ増えました。
 それと大瀬戸選手がただの前半型ではないことも、今日の走りと取材で判明しました。日本選手権も中盤で後退しましたが、最後はかなり粘っているのです。
 しっかりとした競技的な話題は陸マガで??

 小林快選手の話を聞いて驚かされたのは、昨年の今の時期まで長距離をメインにやっていたこと。インターハイ5000mW2位ということでインカレには競歩で出場していましたが、目指していたのはあくまでも長距離でした。
「大学3年の6月までは走っていて、昨年のこの大会は(早大が担当している)アナウンスをやっていました(笑)」
 小林選手の競技人生に大きな影響を与えていたのは、同学年の西塔拓己選手(東洋大)と高橋英輝選手(岩手大)の存在。小林選手は秋田出身ということで、同じ東北の高橋選手とは仲も良かったようですが、負けたことはほとんどなかったそうです。ただ、種目選択ということでは西塔選手の影響が大きかったいうことです(詳しいところは陸マガ?)。
 1つの学年にここまで競歩の選手が集中するのは、何かの運命かもしれません。小林選手は「西塔に運命を感じたくはありませんが」と笑いながらも、同学年選手たちとの関わりを話してくれました。
 能美の日本学生選手権競歩で優勝していますが、併催の全日本競歩の選手には負けています。関東インカレは西塔選手と松永大介選手(2年)の東洋大コンビに積極的な勝負を挑みましたが、あと一歩及ばず3位でした。今日は松永選手が途中棄権に終わってしまいましたが「今日は勝つことが目標でした。トップでゴールするのは初めてなので、嬉しいです」と、笑顔を見せていました。
 卒業後も競歩を続ける方向(決意?)です


◆2014年6月22日(日)
 日本学生個人選手権3日目(最終日)の取材でした。
 が、その前に、昨日のネタを少し。大会新の2人が、記録以外でも話題とできる内容だったと紹介しましたが、それ以外も本当に面白いネタがたくさんありました。

 最初に話を聞いたのは女子三段跳3位(12m51・+2.9)の一村リサ選手(電気通信大3年)。日本選手権でも11位となりましたが、昨日は五十嵐麻央選手(福島大4年)というビッグネームに同記録で競り勝って表彰台に上りました。
 電気通信大の女子では初めての全国大会のメダル。歴史のある大学なので男子の昔のことはわかりませんが、岡田英孝監督が着任した1998年以降では初の快挙です。
 出身は都立青山高で、小さい頃は器械体操をしていたそうです。昨日言及した女子棒高跳の竜田夏苗選手と同じでした。走幅跳をメインにしていた高校時代はインターハイに出場できませんでしたが、大学に入って三段跳にも進出。標準記録を有効期間ぎりぎりで破って、関東インカレ、日本学生個人選手権、日本選手権とステップアップしてきました。
 詳しくは陸マガに書くかもしれないので省略しますが、卒業後は「ロボットを造りたい」という理系女子。競技の目標は「13m」です。今の日本なら全国大会で優勝争いができる記録ですね。注目したいと思います。

 110 mH優勝の大室秀樹選手(筑波大修士2年)は、中盤で台湾選手2人に先行されましたが、9〜10台目の間で抜き返しての優勝です。ハードルではあまり見られないシーンですが「僕がバランスを崩してしまってスピードを落として、それを戻して結果的に抜けただけで、そこまで良い内容ではありません」と、大室選手自身は謙遜気味に話します。
 大室選手といえば2年前の今大会で13秒54の学生歴代2位で優勝。ロンドン五輪のB標準破りましたが、日本選手権で選考は終わっていました(日本選手権はエントリー漏れで不出場)。昨年のモスクワ世界陸上標準記録は秋以降が有効期間だったため、ダメでした。
 代表入りには記録だけでなく選考レースを勝ち抜く必要がありますが、勝負強さという点で課題もあります。昨年は13秒58のシーズン日本最高タイムを日本選手権の準決勝で出しましたが、決勝はハードルを引っかけて4位と敗れました。
 今年の日本選手権も3位でアジア大会代表入りを逃したばかり。当面の目標は13秒50の学生記録更新です。
「練習の感じでは標準記録(派遣設定記録)も狙えると思っていたのですが、レースになると13秒7台。ギャップを感じていますが、実力不足ということ。着地のときに…」…続きは陸マガでしょうか。

 一昨日の日本学生個人選手権取材ネタの続きです。
 スタンドで男女の200mを観戦していたら岐阜経大の品田直宏コーチが来て、「松原(瑞貴・4年)が良いですよ」と言うので、インターハイ優勝者の松原奨選手と関係のある選手かを確認。血縁関係はないようですが、東海インターハイで1、2位だったことがあるそうです。学年は奨選手が1つ下ですが、順位は上でした。
 と聞いたら注目しないわけにはいきませんが、ベスト8に入る時点では7m66(+0.8)で3位。台湾の選手が7m95(+4.5)を跳んでいましたし、まさか優勝するとは思っていませんでした。そうしたら4回目に7m96(+5.2)で1cm逆転。そのまま逃げ切りました。
 初めて取材する選手なので経歴も確認しました。愛知県の名城大附属高出身で、十種競技の谷政人先生の教え子でした。高校では7m04がベストでインターハイ全国大会は予選止まり。大学入学前の雪の日の練習中に肉離れをしたのがきっかけとなり、その後も肉離れを繰り返すようになってしまったそうです。大学2年時に7m09と自己記録を更新しましたが、レベル的には褒められたものではありません。
 大学3年時にケガを克服し、と同時に品田コーチが着任。一気に7m55まで記録を伸ばし、日本インカレでも9位と入賞に迫りました。そして今シーズンは7m80です。具体的に何をしたかは陸マガで(本当に書けるのか???)
 一番知りたかったのは大学1、2年で低迷した選手が、3、4年でここまで大きく記録を伸ばすのはどんな気分なのか、ということ。
「ウソみたいですね。1、2年はケガが続いて本当につらかったですから。補強とウエイトなど(成長することを)信じて続けて本当に良かったです」
 面白いのは品田コーチが早い段階で成長した選手だったこと。2003年の世界ユース金メダリストです。対照的な2人がコンビを組んで結果を出しているところが、陸上競技って面白いな、と感じました。
 品田コーチも今季7m82と、昨年の7m70から持ち直してきました。師弟対決もどこかで見てみたいですね。

 岐阜県の大学では五藤怜奈選手(中部学院大1年)も女子1万mWに優勝(48分04秒90)しました。「タイムが予定していたものより悪いので」とあまり喜んでいませんでしたが、昨年のインターハイ優勝者で先のアジア・ジュニアにも優勝した河添香織選手(立命大1年)との対決に勝利しました。
 河添選手は4位。アジア・ジュニア優勝者は110 mHの金井大旺選手(法大1年)、女子やり投の當間汐織選手(九州共立大)と今大会は不調でした。欠場した選手も散見されました。遠征中にアクシデントがあったのかもしれません。
 五藤選手ですが、2月の日本選手権でもジュニアの部に優勝していて、そのときに少し話を聞かせてもらいました。インターハイで失格して、その後、歩型を矯正するために何をしたのかを質問したら、「生活態度を改めること」という答えが返ってきて少々面食らった記憶がありました。
「試合への恐怖感が生じてしまいましたが、周りの人たちへの感謝の気持ちをもって、自分が良い環境で競技ができていることを認識すれば、レースに怖さを感じる必要もなくなります。焦りがなくなって歩型も良くなると思っています」
 この辺は高校駅伝強豪校のスタイルと似ているように思いました。

 頑張ったのは中部地区の大学だけではありません。中国地区では環太平洋大の青木益未選手(2年)が100 mHで2連勝。前日の準決勝では13秒35の自己新を出しました。日本選手権は4位でしたがU23枠で推されてアジア大会代表入り。
 昨年もこの大会で活躍して陸マガに1ページ記事を書かせていただきました。ご存じのように青木選手はインターハイ100 mを1年で制しましたが、その後は土井杏南選手(大東大)や野林祐実選手(立命大1年)ら、1学年下の選手たちが強力で、100 mでは目立った活躍ができませんでした。
 しかし高校3年時のインターハイ後に本格的に100 mHにも取り組み始め、こちらでは順調に成績、タイムとも伸ばしています。
 昨年は「100 mは“勝ちたい”気持ちが強く出てしまいますが、100 mHは“好き”だからタイムが出ているのかもしれません」と話していました。
 しかし、今や100 mHの代表です。2種目への取り組み方も、青木選手の中で少し変化が生じています。
「最終的にはハードルに絞るかもしれませんが、100 mが速くないとハードルもダメ」という位置づけです。「アジア大会は推薦枠ですが、推薦枠だったと思われないくらいの結果を残したい。13秒2台、1台を狙ってラウンドを重ねたい」
 おっとりした雰囲気は以前のままですが、アスリートらしい意思の強さも漂わせ始めた青木選手でした。


◆2014年6月24日(火)
 日本学生個人選手権2日目の話が続いていますが、日付を改めましょう。
 本日は3年ぶりにつくばに行き、谷川聡コーチの取材をしてきました。陸マガのChallenge of six years.企画です。過去3人は大利久美選手、井村久美子選手、佐藤敦之選手と、一線を退いたばかりの人物をピックアップしてきました。人選は編集部がしているのですが、年齢的に上の人物でも、現在の視点で興味が持てれば紹介していこうということです。
 110 mHは谷川聡コーチの日本記録(13秒39)が10年間更新されていません。13秒4台も近年は出ていません。そろそろなんとかしようよ、という問題提起も兼ねているようです。
 筑波大では練習も見学させていただきました。TwitterやFacebookでつながっている選手も何人かいるのですが、練習中に声をかけたら選手もビックリするでしょうし、照れくさいので控えました。何年も知っている石塚祐輔選手とは雑談もしましたし、取材したことのある衛藤昂選手や藤沢沙也加選手、荒川沙絵選手には挨拶をしました。

 話を日本学生個人選手権の2日目に戻します。関東以外の大学の選手が活躍したという話題です。
 九州地区では鹿屋体大の鍋島莉奈選手(3年)が女子5000mに優勝しました。
 鍋島選手は高知県出身ですが、鍋島といえば佐賀藩の大名家です。鹿屋は鹿児島ですから、もしも鍋島選手が佐賀県と関わりがあれば明治維新を推進した薩長土肥のうち3つに縁があるのでは? と記者間で話題になりました。A新聞M記者が「佐賀とは関わりがあるの?」と質問しましたが、ないということでした。
 高校は高知山田高。インターハイ・国体は3000mで決勝に進めなかったそうですが、全国高校駅伝は1区で区間5位。「高校ではロードが好きでした」ということです。
 昨年は日本インカレ5000mで5位となり、今大会での優勝です。駅伝でも昨年の全日本大学女子選抜駅伝の4区(9.4km)で、前田彩里選手(ダイハツ。当時佛教大)に次いで区間2位となっています。チームも立命大に次いで2位でした。
「大学に入ってトラックも走れるようになり、今はロードとトラック、両方好きです」
 全日本大学女子駅伝は4位で、どちらも鹿屋体大最高順位だったようです。今大会5000mでは1、3、4位を占めましたから、今年は優勝争いに加わるかもしれません。
「個人では日本インカレで3位以内、駅伝では打倒・立命大が目標です」
 練習への取り組みを変えたことなどもうかがいましたが、その辺は別の機会に書きたいと思います。

 2日目の最後は男子5000m。2位(14分00秒92)に入った平井健太郎選手(京大3年)をたくさん取材させてもらいました。全日本大学駅伝出場に導いたことで新聞記事にもなっていましたが、初めて走りを見ましたし、話てくれた内容が本当に面白かったです。
 6月8日の全日本大学駅伝関西学連出場大学選考会1万mで平井選手は29:12.94。2位に43秒25の大差をつけました。
「2週間前に関西では1番となるレースができ、やってきたことに自信はあったのですが、それを関東の選手の中で試したいと思っていました。格上の13分台の選手がいっぱいいましたが、勝つつもりで走りました。最後までつくことはできましたが、最後は一色(恭志・青学大)選手に負けて、秒差以上に力の差があると感じました。ある程度は勝負ができることはわかりましたが、テレビや雑誌で見るよりも彼らの強さを身にしみて理解できました」
 詳しい話はたぶん陸マガに書くと思うので、コメントはこのくらいで。本当に興味を持てる内容の話ばかりでした。
 報徳学園高出身(中学は宝塚市)。兵庫県からまた1人、楽しみなランナーが出現しました。神戸新聞・O原デスクも喜んでいるでしょう!


◆2014年6月25日(水)
 本日は事務書類を用意するのに3時間。ウーン、ここに時間をかけたくないのですが、仕方ありません。これも必要な仕事には違いないので。先月末に宋さん(某局女性プロデューサー)から「請求書の再送付を……」と電話があったときは、思いきりテンパっていたので「支払いは遅れてもかまいません。僕の仕事は書くことです!」と言い切ってしまいましたけど。
 夕方に隣駅の多摩センターのJTB(大手旅行代理店)に。週末の士別取材のホテルが取れないので駆け込みました。ネットで空室がなくても、JTBに駆け込んだらなんとかなったことが最近だけでも2度ありました。昨年の福岡国際マラソンと先日の日本選手権混成です。
 ちなみにJTBがあるのはカリヨン館というビル。昨日取材をした谷川聡コーチに、初めて取材をした場所です。十数年前ですね。昨日もその話をしたら「よく覚えていますね」と谷川コーチもビックリされていましたが、最近よく行くので記憶が途切れないでいるだけです。

 話をJTBに戻すと、今回はダメでした。士別には契約している宿がない、ということです。陸上界&市民マラソン界で士別はメジャーな土地ですが、世間では違うのでしょうか? それとも士別の旅館組合の方針とか? 
 仕方ありません。旭川駅近くに2泊(28、29日)は取れていたので、27日の宿だけ旭川でお願いしました。しかし、旭川の契約ホテルは全て満室でした。
 でも、そこは大手旅行代理店です。提携先に電話をして、2つ目で空室のあるホテルを見つけてくれました。ですが、これが駅徒歩18分で、金額も1泊1万円ちょっと。「タクシー代は出ないんですよ。往復30分歩いたら原稿を30行は書けます!」と出まかせを言って時間を稼いだわけではありませんが、なんだかんだ言っている間に旭川駅前の東横INNに空室が出ました。
 ちょっと詳しい方はおわかりと思いますが、東横INNはJTBからは予約できないホテルチェーンです。

 これはですね、旅行代理店にお願いをしているにもかかわらず、自分のPCで他にも情報がないか探しているわけです。提示されたホテルの場所などもパッと調べられますしね。スマホでは画面が小さくて能率が悪いので、カウンターに自分のノートPCを置いてあれこれ検索したりしているのです。ちょっと失礼でしょうか??
 まあ、谷川コーチを取材した頃には考えられなかったことです。旅行代理店はありましたけど、当時は空室をネット検索などできませんから、陸マガ編集部では分厚いビジネスホテルガイドを見て片っ端から電話していました。どこの職場も同じだったはずです。
 谷川コーチが最初に留学した頃も、海外との連絡は電子メールではなくFAXだったと昨日話してくれました。アメリカから送ってもらった陸マガの原稿もFAXだったかな? 電子メールだったかも?

 ということで、JTBまで行きましたが何も予約をしませんでした。にもかかわらず、笑顔で「よかったですね」と言ってくれるJTBのお姉さんは素晴らしい!
 そういえば昨年11月に福岡の宿&飛行機を予約したときも、以下のような会話をしました。

J姉「この時期、福岡のホテルがこんなに埋まっているのは珍しいですね。何かイベントがあるのですか」
寺田「どうなんでしょう。僕が行くのは福岡国際マラソンで、最近、市民ランナーにも門戸を広げるようになりましたが、それでホテルが一杯になることはあるのかな」
J姉「走られるのですか?」
寺田「いえ、取材で」
J姉「まあ、すごいですね。福岡国際マラソンの取材なんて」
寺田「えっ、いや、まあ、僕にとっては普通のことなんですが。思い出の大会ではありますけど」
J姉「すごいと思います。福岡国際マラソンなんて」
 朝日新聞事業部の堀川さんに聞かせてやりたかったです。


◆2014年6月28日(土)
 今日は士別でホクレンDistance Challenge士別大会を取材しました。
 士別のグラウンドに来るのは3回目か4回目です。グラウンド外の坂で高平慎士選手が練習していたシーンを思い出しました。
 今日は取材中に指導者の“師弟関係”を意識するシーンが多くありました。
 女子1500mで優勝した中川美香(ホクレン)選手を指導するのは就任2年目の太田崇監督ですが、会場には太田監督が選手時代を過ごしたコニカミノルタで監督だった酒井勝充陸連強化副委員長の姿も。「指導者を育てる」ことも酒井副委員長がかねてから頑張ってきた部分。太田監督が手腕を発揮し始めたことを喜んでいるはずです。

 そういえば女子1500mのレース後に、中京学院大の浜野健監督が「4分31秒を破ったかどうか」と、会うなり話しかけてきました。日本インカレのB標準で、2位の河西いづみ選手がぎりぎりのところでフィニッシュしていたのです。結果は4分30秒30で破っていました。
 1500mに中京学院大の学生2人が出ていましたが、レース後に選手たちと話す様子は完全に指導者の雰囲気です。選手時代よりも、何と形容していいのか難しいのですが、誤解を怖れずに書けば明るくなっていると感じました。トヨタ自動車の佐藤敏信監督も会場にいましたから、浜野監督の指導者然としている様子に喜ばれたかもしれません。
 その浜野監督が男子5000mC組のスタートラインにランニングシャツとパンツで姿を見せたときにはビックリ。14分53秒54ときっちり15分を切ってくるあたりは流石です。

 女子3000m2位に地元の旭川龍谷高出身でルーキーの若林由佳選手(エディオン)が入りました。レース前に川越学監督に「若林は優勝争いができる。でも、山崎が強いかな」と話していましたが、本当に優勝争いをしたのにはビックリさせられました。
 会場には旭川龍谷高の阿部文仁先生(国武大出身)の姿も。教え子の活躍を喜んでいたでしょう。ちなみにエディオンの吉嶺真コーチも国武大出身。あまり長距離のイメージはない国武大ですが、OBは指導者として頑張っています。

 女子5000mB組では野尻あずさ選手(ヒラツカリース)が2位。レース前に、第一生命の山下佐知子監督に近況報告? をしているところを見かけました。


◆2014年7月19日(土)
 今日は六大学対校の取材に。場所は相模原のギオンスタジアムです。先月の南北関東インターハイもこの会場ですし、先日の古谷拓夢選手の追い風参考の13秒6台もこの競技場と聞きましたが、寺田が試合の取材で来たのは初めてです。
 雨も降り始めて記録的には難しいかな、という雰囲気もあったのですが、砲丸投の鈴木愛勇選手(日大3年)が自己新。話を聞くべきか迷いましたが、昨年の日本リストで10位相当ですし、東京高OBなので取材をさせていただきました。女子砲丸投日本記録保持者で、早く逝かれた森千夏さんの後輩だから、です。
 東京高の同学年スプリンターたち(猶木雅文、ケンブリッジ飛鳥、女部田祐)が大活躍しているので、投てきはどうなんだ、という視点もありました。その辺は陸マガに書く予定です(文字数的に書き切れるか心配ですが)。
 その他ではフィールドでは棒高跳の堀田早人選手(中京大2年)、円盤投の安保建吾選手(東海大3年)選手、トラックでは400 m2連勝の小林直己選手(東海大2年)ろ400 mH優勝の田中新也選手(筑波大3年)の話を聞きました。その辺の話題はTwitterに書きました。

 選手への取材以外でも、いくつか面白い情報を聞くことができました。
 東海大の鈴木秀明跳躍コーチは昨シーズンで引退した鈴木崇文さんのお父さんですが、フランスが棒高跳に伝統的に強い理由を教えていただきました。鈴木コーチが学生時代に大学の先生から聞いた話なので、又聞きの又聞きに属する話です。もしも、ちゃんとしたところに書く方は裏を取ってください。
 今年、ラビレニ(フランス)が6m16の世界新を出しましたが、それ以前の世界記録はセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)が長く持っていました。その前の世界記録というと、チェリー・ビネロンやフィリップ・ウービオンのフランス勢が1980年代前半に更新していました。
 ブブカと同時代でも、アトランタ五輪はガルフィオン(フランス)が優勝しましたし、5m90台の選手も数人います。
 どうしてフランスが強いのかというと、棒高跳のパフォーマンスの美しさが芸術として世間的に評価されていたからだそうです。ホテルのロビーで棒高跳が行われていたといいます。スポーツでありながら、舞台で演じられていた感じでしょうか。当然、そうした芸術を演じる選手は、プロ的な側面も持っていました。ウービオンやビネロンは、そういった中から育った選手だというのです。
 繰り返しますが、又聞きの又聞きに属する話です。

 この話を紹介したのは、鈴木コーチが崇文選手を指導するとき、跳躍の美しさに主眼を置いたことを書くためです。
 崇文選手は2008年に5m55(当時学生記録)を跳び、翌09年のベルリン世界陸上に出場。澤野大地選手1人に頼っていたこの種目で、久々に日本代表入りした期待の選手でした。
 その崇文選手の跳躍が、専門誌の記事で“教科書的”と書かれたとき、鈴木コーチは自分たちが目指したものが客観的にも認められて嬉しかったといいます。
 ただ、師弟(父子)の目指した美しい跳躍は、勝負がかかったときに弱かったところもあったといいます。国際大会などでコンディションが悪くて、美しい跳躍ができないこともある。何が何でも跳ぶ、ぎりぎりのところで強引に跳ぶ、ということができなかったそうです。
 崇文選手の現役時代を思うと、そういう勝負弱さがあったような気もします。ちょっと切ない話でしたが、そういう話をうかがえるのも、この仕事をしていて良かったな、と思うときです。

 崇文さんは現在、海上自衛隊でヘリコプターのパイロットを目指しているそうです。鈴木コーチはバリバリの消防士です。1995年の阪神淡路大震災も、2011年の福島の原発事故のときも、現地で救援活動に携わりました。さぞや大変だったと思いますが、その姿を見ていた崇文さんが何か、感じるものがあったのでしょう。
 美しさとは少し違う部分ですが、陸上競技を離れた後も目指すところに父子の共通点がある。ちょっと感動しました。


◆2014年8月10日(日)
 昨日は日体大競技会を取材しました。
 数日前に小林史明コーチに電話したときに、山本聖途選手が出場すると教えてもらったからです。今週末は他に大きな試合があるわけでもなく、寺田の自宅から日体大まで1時間ちょっとで行く距離ですし、先生方とも顔なじみなので構えずに行くことができます。
 山本聖途選手も記録を狙うわけでもないようですし、こちらもどこに記事を書くでもないので、気楽に出かけました。名付けて“ふらり日体大取材”。
 棒高跳のネタは昨日のうちに寺田Twitterで紹介しました。
 棒高跳以外にもネタは本当にたくさんあって、Twitter用に書き出したのですが、あまりにも多くなったのでこちらで掲載したいと思います。

【日体大競技会】山本聖途選手が跳び始める5m30まで時間があったので、長距離競技会の取材と同様に、トラックの外を一周しました。日体大のトラックの外を1周すると、多くの選手・関係者に会うことができて、面白い話をたくさん聞くことができます。

【日体大競技会】何月でしたっけ、阪神淡路大震災を経験した元ダイエーの指導者たちに会ったのは。昨日もトラック周りを歩いていたときに横浜国大の伊藤信之先生とお話しができたので、学生時代の木村文子選手について質問させていただきました。

【日体大競技会】木村文子選手の競技に取り組む姿勢をここ数カ月で、複数の関係者から聞いていました。真面目に練習する女子選手は多くいても、夢中になって取り組める選手は少ない。木村選手は後者だと、ある指導者は絶賛していました。

【日体大競技会】木村選手は走幅跳のインターハイ優勝者です。1〜2年時は伊藤先生が引っ張るような指導をして伸びなかったそうです。そこで3年時以降は木村選手の自主性を尊重して、お互いに話し合って競技に取り組み始めて100mHと2種目で大きく伸びたといいます。

【日体大競技会】木村選手が大試合に強いのは、支えてくれる人たちのために頑張ろう、という気持ちをプラスに変えられるからだそうです。7月にエディオンの川越学監督(吉嶺コーチ?)がしてくれた話とも合致します。エディオンのチームソングには……おっと、この話はまだ早いですね。

【日体大競技会】伊藤信之先生は筑波大出身で、走幅跳で7m87(1985年。当時の筑波大記録)を持っています。その頃、走高跳は阪本孝男選手(1984)、棒高跳は橋岡利行選手(1986)、三段跳は山下訓史選手(1986)と、筑波大OBが跳躍3種目で日本新を出しました。

【日体大競技会】筑波大跳躍ブロックを長く指導されていた村木征人先生の手腕がすごいということです。醍醐直幸選手のコーチだった福間博樹先生、筑波大現跳躍コーチの図子先生ら、現在活躍されている指導者を多く育てられたことも特徴だと思います。

【日体大競技会】かなり細かい技術指導をされたのではないかと推測していましたが、そこまで手取り足取りの指導ではなく、大きな方向付けをされるのが特徴だったようです。そういう指導者がここぞというときにするアドバイスは、選手の心にズバッと食い込みます。

【日体大競技会】村木先生のお話しが学生では理解が難しかったし、と伊藤先生は笑って話されました。この点は異なる意見もあって、陸マガ高橋編集長は「わかりやすかったですよ」と入社当時話していました。高橋編集長の方が時代は少し後なので、村木先生が変わられた可能性もあります。

【日体大競技会】しかしなぜか、走幅跳だけ筑波大のレベルがいまひとつで、現在まで8mジャンパーすら輩出していません。7m80台後半から7m90台の選手はかなりの人数がいるのですが…。伊藤先生を責めたのではもちろんなくて、その状況で奮闘されていたのが伊藤先生だった、ということです。

【日体大競技会】走幅跳だけ…は、どうしてでしょうね? という感じで話を振りました。そこでうかがったのが、走幅跳の男女日本記録保持者に村木先生がアドバイスをしていた事実です。男子の臼井淳一選手と女子の湶純江選手。筑波大出身ではないので、全面的な指導ではなかったようですが。


◆2014年8月29日(金)
 聖子派か明菜派かと聞かれれば、迷わず明菜派と答えます。
 こんばんは、T田ライターです……とO村ライターの真似をしてみました。
 どうしてそんなことをしたかと言えば、今日、東京高に行ってきたからです。

 Twitterで懸垂幕やレリーフの写真を紹介しましたが、スタッフルームには女子砲丸投日本記録保持者の故森千夏さんのパネルが飾ってありました。今年で34歳になる“末續世代”の1人ですから、会ったことがない後輩選手も多くなっています。しかし先月の六大学対校で取材した鈴木愛勇選手(東京高→日大)は、森さんへのリスペクトの気持ちをしっかりと持っていたので、嬉しかったですね。
 陸上競技を取材していて「スゴいな」と感じるケースの1つに、日本記録を何度も、結果的に大きく更新することがあります。400 mの高野進先生(東海大)やハンマー投の室伏広治選手がその代表格です。世界から遠かった女子砲丸投の記録を大き伸ばし、アテネ五輪代表にもなった森さんもそんな選手の1人でした。我々報道陣の質問にも本当に真摯に、丁寧に受け答えをしてくれたので記者たちの人気も高かった選手です。
 しかし新聞社は五輪サイクルで人事異動(4年とか8年)があるので、森さんの取材をしたことがない記者も多くなっています。その点O村ライターとは、「藤森(安奈)選手や高森(真帆)選手が、名前に“森”という文字がつくのは運命的だよね」という話を先日しました。

 今日の取材は高校生ではなく醍醐直幸コーチでした。森さんと同じ“末續世代”の走高跳日本記録保持者(2m33)です。陸マガ次号のChallenge of six years.に登場していただきます。結果を残した選手のピーク(シーズンまたは試合)までの6年間を振り返ってもらって、6年後の東京オリンピックを目指す選手の参考になれば、という意図の企画です。
 サプライズに近かったネタは、醍醐コーチが自身のピークとした試合は2m33の2006年日本選手権ではなく、2m30を跳んだ07年の大阪GPだったこと。この企画のトップバッターだった大利久美さんも、自己記録のシーズンではなく翌年をピークだったと位置づけました(富士通の先輩後輩ですね)。ここで細部まで書くわけにはいきませんが、選手にしてみれば表面的な数字とは違う判断基準になることもあるのでしょう。

 高校時代に世界ジュニアまで出た醍醐コーチは、大学1年時までは良かったのですが、その後の学生時代は低迷します。実業団に入ることができず、アルバイトをしたり、陸連の支援制度を利用して頑張って05年世界陸上代表となりました。それが認められて06年に富士通に入社できたのです。
 その辺の経緯は日本記録の頃に多くの記事で紹介されましたし、寺田も書いています。今日はその辺りのエピソードも、“今だから話せる”という部分まで話してもらうことができました。
 同様に、奥様の醍醐(旧姓・飛田)奈緒美コーチとのことも、競技にどう影響したかを明かしていただきました。

 これはどこまで書き切れるかわかりませんが、コーチとの師弟関係についても話していただきました。08年までは師弟の二人三脚で2m30台を2回マークし、大阪世界陸上、北京五輪と代表になりましたが、その後、師弟関係は解消しています。
 指導者から独立した選手は日本にも多く例がありますが、具体的にどういう経緯で袂を分かつたのかを記事にするのはタブーという雰囲気があります。競技的には当たり前という書き方はできても、指導者の体面にも配慮しないといけないことです。
 しかし以前から、独立する選手が多いということは、その指導者が優秀なことの裏返しではないか、という仮説を持っていました。この1年くらいで何人かの選手や指導者の話もうかがい、そう言って間違いないという手応えもあったので陸連強化のトップにもその考えを話したところ、同意していただきました。
 ただ、若いウチに1人立ちして成功した例は多いのですが、年齢が高くなってから(20歳代後半とか)1人立ちして成功した例がほとんどないのも現実です。しかし、選手が1人立ちを考えるのは、経験を積み、自身のことがよくわかってくる20歳台後半が多いのです。
 そこを今日の取材で、醍醐コーチと話すことができたのが収穫……と言っていいのかどうかわかりません。記事としてはピークまでの6年間がメインになるので、師弟関係について文字数を割けない部分です。しかし将来的に師弟関係の記事が書けたとしたら、間違いなく今日の取材が1つのステップになったと言えると思います。

 初めて行った強豪高の取材としてはちょっと変わったものになりましたが、これも森千夏さんの存在が今でも大きいからだと思います。


◆2014年10月9日(木)
 すみません。思い出したように日記を書く寺田です。本当は毎日、ちょっとずつ書きたいのですが、Twitterで済ませてしまったり、時間がなかったりで書けなくなってきています。戦略的な位置づけをしっかりしなければと、言われるまでもなくわかってはいるのですが…。
 日曜日に仁川から帰国して、月曜日にはアジア大会の最後の原稿も書き終えました。TBSサイトの更新は10月2日の注目選手で止まってしまっていますが、このあと5本くらいは書いていますので、もうしばらくお待ちください。
 アジア大会に集中していたので記録のチェックもできませんでしたが、先週の金土日と日本ジュニア・ユース選手権が行われていました。
 新記録の一覧はこちら
 一覧にある以外ではサニブラウン・A・ハキーム選手(城西大城西高)が100 mで10秒47(3位)の高1歴代最高、大瀬戸一馬選手と並びました。ハキーム選手は200mでも21秒09と高1最高で優勝。インターハイ覇者の今野恭佑(相洋高)選手を抑えました。
 歴代上位という肩書きはつかないのですが、男子ハンマー投(6kg)の上位4人が65〜66m台というのはまずまずのレベルでは? 投てきの重量が変わった種目は感覚的によくわからなくなってしまっていますが、昨年末時点のジュニア歴代10位が65m15ですから。
 特筆すべきは優勝した中浴孝哉選手(東海大1年)の66m55です。自己記録を約7mも伸ばしました。和歌山・海南高時代のベストは59m81で昨年の高校リスト9位ですが、インターハイ、国体とも出場していません。
 今回が大学入学後初の自己新。やり投では今季、新井涼平選手、アブデルラーマン選手、そしてアジア大会の趙慶剛選手の89m15(アジア新)と7mの自己記録更新は相次いでいますが、重量の重いハンマー投では極めて珍しい例のようです。
 東海大の與名本稔コーチは「回転センスが良かったのでスカウトしました。練習を頑張れば大学に入ってからでも伸びるんです。多くの投てき選手に希望を与えたのでは?」と話していました。
 砲丸投日本記録保持者の山田壮太郎選手のように、高校時代はまったくの無名選手という例もありますが、長距離以外のトラック&フィールド種目は近年、日本代表の大半は高校時代に全国で1、2番になった選手です。新井涼平選手や高橋英輝選手が4位ですか。トップ中のトップを伸ばすことも大事ですが、もう少し下の層から日本代表を育てることも、頑張らないといけない。
 そういう意味で、中浴選手の優勝は注目すべきだと思いました。


◆2014年10月10日(金)
 全日本実業団1日目の取材です。
 競技開始前に実業団連合理事会後に友永理事長を取材。主な決定事項は来年度の全国大会競技会日程で、今年のように全日本実業団が10月、実業団・学生対抗が9月ではなく、元の全日本実業団9月、実業団・学生対抗10月に戻ります。その他は変更なく、全日本実業団女子駅伝の12月第2週、ニューイヤー駅伝の元旦、全日本実業団ハーフマラソンの2月開催は例年通りです。
 女子駅伝の予選方式の変更という噂も聞いていましたが、この件の発表はもう少し先になるようです。変更なし、という形に収まる可能性もあるわけですが。

 今日の競技は男女の1万mだけ。男子が3組、女子が2組です。
 公式リザルツが手元にないのですが(現地で配布されましたが、12枚だけなのですぐに売り切れ)、1組目は中本健太郎選手(安川電機)が29分6〜8秒あたりでフィニッシュ。2月から3カ月くらい故障をしていたためトラックは昨年の今大会以来、公式レースはニューイヤー駅伝以来だそうです。
 ただ、練習は夏場からしっかりできていて、これは他チームの指導者からの情報ですが、ナショナル・チーム合宿でもしっかりと走っていたということなので、冬のマラソンには合わせて来られそうです。本人も「自己新を狙う」と話していました。
 女子の1組ではマラソンでブレイクしそうな加藤麻美選手(パナソニック)が引っ張りましたが、石澤ゆかり選手(エディオン)も何度か前に出る積極性を見せ、最後はトップでフィニッシュ。32分48秒台でフィニッシュ。Twitterで紹介したように茨城大出身の4年目。学生時代は800 mが専門で2分10秒95がベストだったそうです。日本インカレは4年時の準決勝が最高成績で、関東インカレは3年時に5位。高校では2分19秒台だったと言います。
 1万mは今日が2回目で、初1万mは32分58秒86。来年の日本選手権の標準記録を目標としていたのですが、切ることができず、そこをしきりに悔しがっていました。
 しかし、川越学監督のエディオンからまた1人、面白い選手が強くなってきました。
 男子1万m2組では1位の出口和也選手と、柏原竜二選手のコメントを取材。柏原選手は“夏にやってきたこと”がレースに現れた部分もあった反面、まだまだ自己評価できない部分もあったようです。しかし、“夏にやってきたこと”が実になっていることは体で感じられているそうです。
 マラソンについても、この冬の出場を視野に入れているそうです。マラソンのための練習をがっつりやっていく、というスタンスではなく、駅伝練習にマラソンのための要素を加えていく方法。
 マラソンも駅伝も、“夏にやってきたこと”が下地になるのは間違いないはず。タイプによっては駅伝とマラソンを分けて考えないとダメな選手もいますが、柏原選手に関してはどうなのか、現時点では未知数です。駅伝の練習にプラスしていく方式で結果が出れば、比較的距離を伸ばしやすいタイプということになり、リオ五輪に間に合う可能性も十分あるということになります。
 ホクレンDistance Challenge以降の動向がわからなかった柏原選手ですが、久々に明るい話を聞くことができました。
 女子1万m2組は、アジア大会銅メダリストの萩原歩美選手(ユニクロ)が、チェピエゴ選手(九電工)に食い下がって2位。自己新をマークしました。今年の駅伝に向けての記事で、書く機会もあると思います。
 男子1万m3組では早川翼選手が日本人トップ。早川選手と日本人2位の設楽啓太選手に話を聞きました。設楽啓太選手の双子の弟の悠太選手は今日は出ていませんでしたが、今季は日本選手権以外は啓太選手が全敗しているそうです。学生時代は啓太選手の方が優勢で、4年時の昨年は関東インカレ以外は全勝していたそうです。
 ヨーロッパでも負けて、今季はそれが逆転してしまいましたが、今日の日本人2位で啓太選手の状態も上向いていることがわかりました。
「駅伝ではエース区間で対決したい」と話していました。


◆2014年10月11日(土)
 全日本実業団2日目の取材でした。
 朝は8時半から新山口のカフェ(パン屋さん?)で某監督にインタビュー取材。充実の内容だったと思います。

 競技場には10:40頃着。するやいなや、どこかで見覚えのある青年が笑顔で近づいて来ました。誰かと思ったら800 mの笹村直也選手でした。スーツ姿なのでわかりませんでした(よくあることです)。800 m前日本記録保持者の横田真人選手のレースや練習を取材すると、よく一緒にいた選手です。笹村選手も国体チャンピオン(2009年)。
 今年からは読売新聞静岡支局で記者だそうです。今回は仕事ではないと言っていましたが、山口は“地元”です。地元開催の全国大会に顔を出したのでしょう。それとも先輩の応援でしょうか?
 やはり慶大の先輩の中村宝子さん(女子200mジュニア記録保持者)も、今年から静岡新聞の記者に転身しました。仁川で静岡新聞の方に会ったので(静岡出身者、関係者がアジア大会ではかなり多かったですからね)、宝子さんは社会部だと教えていただきました。笹村選手は会う機会も多いそうです。

 競技の“地元”ネタは横溝千明選手。15m77と、実業団・学生対抗(15m59・5投目)に続いて自己新です。横溝選手は埼玉県出身ですが、2011年の山口国体まで山口県体協勤務でした。その山口国体で15m37と自己新を投げ(6投目)、白井裕紀子選手に次いで2位に入りました。自身初の15m台を“地元”国体で投げたのですから、思い出に残ったでしょう。日女体大卒業後3年目で、学生時代の記録を初めて上回りました。
 優勝はできませんでしたが、14m80が自己ベストでは、白井選手に勝つのはちょっと難しい状況でしたから、考えられる最高の結果でした。
 横溝選手のすごいのはそこで息切れせず、“地元”国体で上げた競技力をベースに、そこから上積みをした点です。母校の日女体大に戻り、仕事はかなり多忙になったと聞いています。しかし、昨年15m44、15m51と記録を伸ばすと、今季は苦手だった日本選手権で初優勝。良いときの力を出し切れたとは言えませんが、2位と1cm差の接戦を制しました。
 そして得意の秋になって実業団・学生対抗で15m59、今大会で15m77と、かつての“地元”に錦を飾りました。
 山口国体でチームメイトだった大橋忠司選手が現在も、維新百年記念公園に勤務していて、2日前の練習を一緒に行ったそうです。「突っ込みすぎるな、とアドバイスしていただきました。砲丸を後ろに残して、自分と砲丸の位置を把握して投げろと」。横溝選手は試合では、技術的なところは意識しないで無心で投げることを心がけていますが、そこは上手く意識したようです。
 本当は自身初の16m台を投げて、かつての“地元”に恩返しをしたかったようですが、課題だった「前半も落ち着いて投げる」ことができました。1投目が15m53で3投目が15m77。「1投目で15m50を超えたのは初めて」だそうです。
 横溝選手にとっては16mへの手応えを大きくした、かつての“地元”での凱旋試合でした。

【長崎国体ネタ第1弾】
 今日一番のニュースは1万mWの鈴木雄介選手のアジア最高記録です。38分27秒09と、日本記録を約40秒も更新しましたが、“地元”長崎国体を控えた森岡紘一朗選手が40分34秒57(4位)だったことが気になりました。前の前の日本記録(39分07秒84)で、今でこそ50kmが主戦場ですが(テグ世界陸上6位入賞)、かつては“スピード競歩”の代表選手でした。
 しかし話を聞いて安心しました。今大会を、来週の国体(1万mW)、月末の高畠(50kmW)への調整試合と位置づけていて「41分くらいの予定」だったとのこと。“地元”国体へは合わせて行きます。ただ、競歩界の現状を考えると、“50kmの森岡選手”が優勝争いをするのは難しい感じです。
 それでも、森岡選手の“地元”国体に懸ける思いは強いようです。ご存じの方も多いと思いますが、森岡選手は諫早高3年時の地元インターハイで、トップでフィニッシュラインを通過しましたが、その後、失格を宣告されました。競技人生でただ1回の失格が地元インターハイだったのです。
 中学3年時の全日中も地元開催でしたが出られませんでした。当時は長距離選手で9分01秒台の記録を持ちながら、標準記録突破の指定大会で9分07秒の標準記録を切れずに出場できませんでした。
「国体ではしっかり入賞したい。今度こそ順位、タイムとも残したいですね」
 地元では“持っていなかった”森岡紘一朗選手が入賞すれば、“地元”は勢いづきます。


◆2014年10月16日(木)
 ちょっと遅くなりましたが全日本実業団3日目の話題です。
 今大会の“地元中の地元”は砲丸投の大橋忠司選手でした。所属は“維新公園”です。「デスクはどこにあるの?」と質問すると、「そこの部屋ですよ」と指さします。「(受け付けの)窓口から見えるど真ん中の机です」。地元というより、毎日の職場で試合をしたのでした。
 “日常の職場”で試合としての緊張感が持てるのか、心配してしまいますが、そこは畑瀬聡選手たちと投げ合えば大丈夫でしょう。年下の鈴木孝尚選手も強くなってきましたし。“日常の空間”とは違います。
 試合は畑瀬選手が17m94の好記録で制し、鈴木選手が16m49で2位。大橋選手は5回目まで15m70台でしたが、最後の6回目に16m26と鈴木選手に23cm差まで迫りました。
 土曜日の日記で紹介した横溝千明選手と同様に、大橋選手は2011年の山口国体までは山口県体協勤務でしたが、翌12年から維新百年記念公園勤務になりました。「受付業務や大会の打ち合わせ、器具の出し入れなど」が主な業務です。勤務時間は8時30分から17時15分まで。練習は17時30分から「2時間くらい」とのこと。ただ、「勤務中に時間の空きができたら、練習してもいいと言われている」そうです。しかし、やろうと思えば「丸一日」練習ができた2011年までとは大きく違います。
 12年は16m08と、11年の17m64から大きく記録を落としましたが、13年は16m46と持ち直し、今年は16m48と微増させました。ベスト記録は2008年に投げた17m94(日本歴代6位)。来年以降、17m台に再び乗せてくる可能性もありそうです。
 しかし、現在は「家庭を持ったこともあって仕事が主です」と話します。12年に、ハンマー投に57m33(2006年)を持つ上田渉さんと結婚したそうです。上田さんは大体大出身。大橋選手は国士大。遠距離恋愛だったのか、とかは聞いていません。
「でも、遠征費は職場が出してくれます。全国大会入賞レベルではやりたいし、特に国体は老若男女がわかる大会ですから頑張りたいですね」
 横溝選手が2日前の練習で、大橋選手からアドバイスを受けた話をすると、横溝選手が年に2〜3回、山口に合宿に来ることを教えてくれました。
「嬉しいですよね。自分にも刺激になります」
 さらに、横溝選手への期待も話してくれました。
「彼女は体が硬く不器用なんですが、16m後半のポテンシャルはあります。あそこで足踏みする選手ではないと思いますよ。バランスは良いのに動きが硬い。トライアルみたいにリラックスして投げればいいのに、と思ってアドバイスしました」
 横溝選手に取材をしていると、技術よりもメンタル面の話が多いことに気づきます。その理由が、大橋選手の話を聞いてわかりました。
 山口国体が縁でその後も続いている“地元”ネタが取材できて本当によかったです。


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◆2014年11月22日(土)
 九州実業団駅伝の前日取材に来ました。実業団の試合は毎日新聞が主催しています。ということで、監督会議と開会式の場所は、福岡の毎日新聞の隣のホテル(西鉄イン福岡)です。福岡国際マラソンの大会本部ホテル(西鉄グランドホテル)からも近いです。

 その前に昨日からの行動を説明しないといけないでしょう。
 昨日は新幹線で博多に行き、特急かもめに乗り継いで諫早入り。新幹線は新大阪までがのぞみで、博多までがさくら。新大阪で改札の外には出ませんでしたが、電話取材があったのです。この乗り継ぎでも、博多までの新幹線特急料金で切符が購入できることは初めて知りました。

 今日は午前中に、諫早で合宿中の九電工女子チームを取材しました。
 宮崎悠香選手は今年5000mで15分27秒49を出して、トップレベルに躍進しました。しかし、昨年の全日本実業団対抗女子駅伝1区は区間21位。過去最高の6位に入賞したチームのなかで、一番不本意な走りでした。
「この1年、全日本でリベンジしないといけないと、気持ちを強く持って練習してきました」

 黒木沙也花選手は2012年からキャプテンを任されています。みんなの前で話ができる選手でもあり、練習でも「チームとして頑張りたい」という気持ちを行動に移しています。具体的にはTBSコラムに書くと思うのですが、箱根駅伝取材では時折り話を聞くことですが、実業団では珍しいですね。
 藤野圭太監督が監督に就任する2013年以前は、職場も同じだったそうです。その辺も意思疎通がしっかりとできた一因かもしれません。
 西日本予選(6区)の頃は血液状態も悪く、調子を落としていましたが、ここに来て状態は上がっているそうです。
 ちなみに三菱重工長崎の黒木純監督とは同じ町の出身。黒木監督は「沙也花のおやじさんに教わった」と話していました。

 竹村理沙選手は黒木選手よりも年齢は1つ上で、2人でチームをまとめる立場。走りのタイプとしてはよく言えばスタミナがあり、悪く言うとスピードがない。駅伝では後半区間を任されます。陣内綾子選手やチェピエゴ選手が順位を上げますが、竹村選手が抜かれる役(?)でした。
 しかし昨年の全日本は6区で、黒木選手から6位で受け取った順位をキープしました。身上である粘りの走りを発揮した結果です。今年の区間はわかりませんが、さらに上の順位でタスキを受け取る可能性もあります。
「粘りにプラスしてスピードを研かないと上のチームの選手には通用しない」という覚悟です。来週末の5000mでは5年ぶり?の自己新も狙っています。
「私も九電工で9年目なので、自分のまとめとか、色々考えるようになりました」

 藤野監督も「1区次第ですが、4区まではトップ争いも」という展開を予想しています。全日本は黒木選手、竹村選手がカギを握ってくるような気がします。

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