続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2006年3月  マーチに待つWCC
寺田的陸上競技WEBトップ

最新の日記へはここをクリック

◆2006年2月23日(木)
 質問メールが来ました。下記の内容です。

大の駅伝ファンですが、前から気にかかっていることがありまして・・・。
佐久長聖高校に佐藤清治という素晴らしい選手がいたと記憶しているのですが、彼は今どうされているのでしょうか?
大学駅伝でもニューイヤー駅伝にも姿をみないもので、とても気になっています。
また、佐藤清治選手は、佐藤悠基選手とご兄弟ですか?
このことも気になるので、教えてください。

 面識のない方です。陸上競技(駅伝?)ファンになったのは最近でしょう。専門誌を隅々まで読んでいるほどでもない。どう対処すればいいのか考えた結果、以下の5バージョンが思い浮かびました。

(1)事務的バージョン……佐藤清治選手が大学2年以降全国レベルの大会に出ていないこと、佐藤悠基選手と兄弟と報じられた記事は1つもないこと。この2つの事実だけを簡潔に答える。
(2)丁寧バージョン……佐藤清治選手は1500m中心の選手であり、駅伝に出なくても不思議ではないことを指摘した上で、大学2年時以降の知っている範囲の動向(順大卒業後はいったん地元に戻って就職。その後アラコに入社。しかし今は退職したことなど)を教える。佐藤悠基選手は静岡県の中学出身(清水南中)であることを指摘。さらに親切に、清水南中のある清水町はサッカーで有名だった清水市(今は静岡市に合併)とは違うことも教えてあげる。
(3)心を鬼にするバージョン……佐藤選手クラスなら調べるのは難しくないので、ファンなら自分で調べよう、と突き放す。こういったことは多少は苦労しても、自分で調べた方が面白さに気づきやすい、と思っているので。
(4)400 mHのバーション・ジャクソン……前半からインタバールは15歩らしい。
(5)無視バージョン……個々の質問に答える義務も余裕もない。

 どうしてこの話を書いたのかというと、「生協の白石さん」という書籍がベストセラーになっているからです。案の定、家族T氏が購入していたので、先日3分の2ほど読みました。そして最近、質問メールが増えているのです(大した数ではありませんが)。だったら、寺田のサイトでも“生白コーナー”をやってみようかな、という単純な発想です。陸マガの箱根駅伝展望増刊号でも「陸協の黒岩さん」というコーナーがありましたし。
 単純な発想ですが、インタラクティブ(双方向性)はこれまで寺田のサイトになかった発想です。あくまで、ライター寺田が情報を発信するのが目的。よく、「BBS(掲示板)は設置しないのですか?」と質問されます。一般のサイトではBBSはよくあることかもしれませんが、ライターの方たちが運営しているサイトでは、BBSはあまりないように思います。でも、“生白”方式なら、気に入らない質問は掲載しないことも可能です。
 しかし、事はそれほど簡単ではないでしょう。“生白”は回答者の立場がはっきりしているから答えやすいのです。生協の職員として回答する、という大前提があって、そこにユーモアや気の利いた話題が加えられます。質問自体が明らかに冗談であれば、完全にジョークで返しています。
 その点、寺田はどのような立場で答えていいのか、はっきりしないポジションなのです。陸上界を代表する立場ではありませんし、研究者のように陸上競技を研究対象としているわけでもありません。陸上競技記者といっても、すでに専門誌の人間ではないですし。指導者や選手のように毎日グラウンドに出ているわけではありません。何度も書いていますが、聖人君子でもないので、何が陸上界の正義なのかもわかりません。一介のフリーランス、陸上競技ライターに過ぎません。ただひとつ普通の人と違うのは、陸上競技のことを考えている時間が長いということだけです。

 以前に書いたように思いますが、質問に個々にリプライするのって、コストパフォーマンスが悪いのです。面識のない相手へメールを書くのは、どんな立場の人間が読んでもいいと思って書くので、WEBサイトで公開するのと同じ労力が要ります。だったら、公開した方が生産性は高いわけです。どないしよう。


◆2006年2月24日(金)
 横浜国際女子駅伝の会見が16時からありましたが、19:05羽田発のフライトが熊本への最終便なので、泣く泣く取材をあきらめました。それだけ、熊日30kmへの思いが強いということです。未知の強豪という言葉がときどき使われますが、熊日30kmはまさに、そういった感じの大会です。

 熊日では伊藤国光監督が1980年に1時間29分12秒0(当時はロードも10分の1秒単位で計時)と宗茂さんのマラソン途中計時の日本記録(1時間29分30秒0)を破り、85年には西本一也選手が初の1時間28分台で走りました。その後は西本選手の記録がなかなか破られませんでしたが、03年に松宮隆行選手が1時間28分36秒と18年ぶりに記録を塗り替え、昨年は同選手が1時間28分00秒まで縮めました。
 これだけ好記録を残しているローカル大会も珍しいと思います。新宅雅也選手が45分40秒、高橋健一選手が45分48秒を出した唐津10マイルくらいでしょうか、熊日30kmと並び称して良いのは。最近は甲佐10マイルも川嶋伸次選手が45分52秒(日本歴代3位)、マサシ選手が44分41秒(世界最高)を出してレベルが上がっていますけど。
 それでも、ローカルなロードレースの中では熊日30kmがピカ一の存在です。この仕事をやっているうちに一度は行ってみたいと考えていました。フリーになって丸6年。そのチャンスがやっと訪れました。

 こういうケースで気をつけないといけないのは、自分の中のイメージが先行しすぎないこと。ありがちなのは、開会式や表彰式も含めた運営がスマートで、沿道の応援も格段に良くて、コースもものすごく走りやすくて、いつもと違う雰囲気の取材がビシバシできると思ってしまうことです。ヨーロッパのグランプリの取材に行って、変な妄想は禁物だと思いましたっけ。
 考えてみたら、先週取材に行った浜名湖一周駅伝は、自分が高校時代にはものすごくハイグレードな大会だと思っていました。そこに出場する選手たちは、別世界のランナーだと。確かに、自分とレベルが違ったのは事実ですが、今になって取材をしてみるとやはり、ローカル大会の雰囲気を感じてしまいます。
 入れ込みすぎず、初取材を満喫するスタンスで臨みましょう。まずは明日、特に記者会見などもないようですので、16時からの開会式ですね。その前に、本番のスタート時間(10:00)に合わせて水前寺競技場に行ってみます。練習をしている選手もいるでしょう。13:30から歴代優勝者によるランニング教室もあるという話です。でも、原稿も書かないといけません。どないしよう。


◆2006年2月25日(土)
 熊日30kmのレース前日。大会自体の緊張感(ピリピリ感)はそれほど感じられません。しかし、個人的には緊張感に近いワクワク感をもってホテルを出ました。朝の仕事を片づけるのに手間取ったので、ホテルからはタクシーで水前寺競技場に。10:30頃に着いてコニカミノルタ・大島コーチ(熊本県出身)と合流。熊本日日新聞の記者の方が2人いらしたので、さっそく“一緒に取材をさせていただきます”と挨拶をしました。
 熊本には3回来たことがあります。98年の日本選手権と金栗杯熊本中・長距離選抜で2回。会場はすべてKKウィングでしたから、水前寺競技場に来たのは初めてです。思ったよりスタンドも大きいし、電光スクリーンも大きいので、まだまだ全国大会で使用できそうです。水前寺といえば200 mです。78年に豊田敏夫選手(熊本県出身)が20秒6の手動計時日本新(当時は手動も公認)、94年には伊東浩司選手が20秒44の日本新を出しています。そして、あの末續慎吾選手(熊本県出身)も中学時代にここで練習していました。200 mのスタート地点に立って、感慨にひたっていました。

 最終調整練習(写真)後に坪田智夫選手に話を聞きました(その前に大島コーチにも取材)。内容はこちらの記事に。
 その次は三菱重工長崎・黒木純監督(宮崎県出身)に先週の延岡西日本マラソンの話をうかがいました。鷲尾優一選手が2時間11分05秒で優勝したレースです。これで三菱重工長崎は2時間10分台が2人(堤忠之、徳永考志)、11分台が1人(鷲尾)、12分台が2人(小林誠治、原和司)ということになり、マラソンに関しては日本でも有数のチームに。「うちはマラソン部ですから」と黒木監督。九電工がちょっと以前にマラソン部から陸上競技部に名称を改めたため、日本の実業団チームでは三菱重工長崎が唯一のマラソン部なのかもしれないということでした。

 トヨタ自動車の味澤善朗監督(鹿児島県出身)とも雑談をさせていただきました。同社には4月に、熊本選手(日体大)、野宮選手(大東大)、武者選手(日大)と箱根駅伝でメディアに取り上げられた選手が3人に入りますが、福島大から中距離の沼田拓也選手も入社します。ちょっと異色の存在です。1500mもまだこれからですが、将来的には5000mくらいまで距離を伸ばす可能性もあるということです。
 菅谷宗弘選手にも、熊日記者の方と一緒に話を聞かせてもらいました。その内容もこちらの記事に。ところで、菅谷選手といえば前々から気になっていたことが1つありました。それは、トヨタ自動車には箱根駅伝で大活躍した選手が多いなか、菅谷選手は数少ない高校卒の叩き上げ選手だという点です(入社9年目)。駅伝メンバーには必ず入ってきます。周りは、箱根駅伝の報道で、各種メディアに取り上げられた選手ばかり。そのなかで、どういう気持ちで頑張れているのか、一度聞いてみたかったのです。
「箱根の選手なんて大したことはありません。しょせん、学生レベルです。そういう意地を持たないとやっていけません。次から次へと入ってきますからね」
 ここまで言ってもらえると、胸を打たれます。念のため、書いていいことなのか確認しました。味澤監督も「箱根は3分レベルだから」と言います。うーん、トヨタ自動車の大卒選手は、3分レベルじゃないような気もしますけど…。

 近くの焼き肉屋で昼食。最近できた郊外型のスタジアムでは、近くに飲食店がないのがほとんどです。街の競技場って個人的には好きなのですが、やっぱり記録の出るトラック優先になるのは仕方がないのでしょう。
 13:30からは熊日30km歴代優勝者6人が、小中学生を対象にランニング教室を行いました。(写真左から)重松森雄氏、籾井輝久氏、渡辺和己氏、寺沢徹氏、大槻憲一氏、西本一也氏という顔触れ。世界記録を出したりオリンピックに出たりという、いずれも劣らぬ豪華メンバーばかり。50回記念にふさわしいイベントです。
 最も若い西本氏が現在は高校の指導者でもあり、講師役のほとんどを引き受けていました。長距離のクリニックですが、その場で多く走り込むことはできません。今日のクリニック後も継続してできること、という意図もあったと思うのですが、動きづくりを強調して指導をされていました。

 14:30に水前寺を後にして、明日のレースのスタート地点(ホテル日航)に移動。15時から車に乗ってコース下見があるのですが、参加選手の数が少なく座席に余裕があるということだったので、寺田も乗せていただきました。昨日の日記でも触れましたが、「熊日30kmは普通のコースとは景色が違うんじゃないか」という思い込みは、厳に慎もうと思ってコースに出ました。
 案の定、この写真のように、ごく普通の片側一車線の道路が続くだけで、景色に特に変わった点があるわけではありません。中部実業団対抗駅伝(岐阜県下呂市)や青梅マラソンのように目を見張る自然景観でもないし、東京や大阪のような都市景観でもありません。言ってみれば、地方都市らしい風景です。
 しかし、これが熊日30kmだな、と思った点があります。それは起伏です。距離や傾斜の程度と、その存在する位置ですね。記事や関係者の話で知識としてはあったことですが、実際に見ると本当に走りやすそうです。坪田選手のコメントにもあるように、4km付近から8km過ぎまでの上りは、1人で走ると苦痛かもしれませんが、集団で行けば何とかなるくらいの緩やかな上りです。それが復路では、21kmからの緩やかな下りとなる。選手の生理的なきつさにコースが上手くマッチしている。風も例年、それほど強くないということです。
 唯一、記録誕生を阻害しそうだな、と感じたのは跨線橋(こせんきょう)です。往きの5km過ぎですが、それよりも帰りの25km手前にあたり、選手たちにとってはかなりきついようです。以前は跨線橋はなく、踏み切りを横切ったそうです。西本氏が1時間28分46秒を出したときは旧コースでした。それが跨線橋を渡るようになって、28分台が出なくなったといいます。それを克服したのが、3年前と昨年と2度世界記録をマークした松宮隆行選手だったのです。

 コース下見の車には一般参加のサイラス・ジュイ選手(流通経大)と初参加の女子選手、野田頭美穂選手(ワコール・青森県出身)が乗っていました。しかし、話しかけたり取材をしたりはしません。選手はコースを頭に入れようとしているわけですし、寺田は特別に乗せてもらった立場です。取材の場ではありません。
 野田頭選手には開会式後に話を聞きました。そこでも1つ、大きな発見がありました。野田頭選手の名字の読みは、“のだがしら”ではなく“のたがしら”だったのです。これにはビックリ。ワコールのサイトを見ると、確かにそうなっているのだぁ、とかダジャレも言えないわけです。いやあ、人の名前は難しいです。ちなみに、前述の味澤監督は善朗と書いて“よしろう”。寺田のように辰朗と書いて“たつお”という少数派読みではありません。
 話は前後しますが、開会式には招待選手だけが出席して行われました(写真)。一般参加選手も列席する大阪国際女子マラソンなどとは、明らかに雰囲気が違います。熊日30kmは当初、“招待”レースだったと言います。つまり、招待のエリート選手だけによる大会だったのです。今回も、招待が約20人で、一般参加が約60人。招待選手の比率が高い大会と言えます。さすが、長距離どころ九州です。その矜持を垣間見たような気がしました。同じ時期の青梅とはまったく逆の成り立ちだったわけですが、このように、各大会が自身の“色”を強調してレースを開催するのは、いいことではないでしょうか。


◆2006年3月4日(土)
 12:33東京発ののぞみ77号で京都に。東海道線へ乗り換えますが、ホームでマスクをした丸顔の男性と目が合いました。どこかで見た顔だな、と思ったら大東大・只隈伸也監督でした。ここ数年、びわ湖マラソンはNHKで解説をされています。大津駅で降りて記者会見場の大津プリンスホテルまで、道すがら何を話していたのかというと、全部をここで書くわけにはいきませんが、神奈川大・大後栄治監督の名前もちょっと話題になりました。
 ご存じの皆さんも多いかと思いますが、この2人はお互いにライバル意識をむき出しにしています。駅伝の前日とかに話を聞くと「目標順位は特にないけど、神奈川大(大東大)には負けたくない」といった具合に。顔を合わせれば罵倒し合っています(少し脚色しているかも)。でも、本当は仲がいいことは、関係者間では周知のことです。

 記者会見45分くらい前に会場に着。今回の日本選手では佐藤敦之選手と松宮隆行選手が2強と目されていますから、まずはコニカミノルタの佐藤敏信コーチをつかまえ話を聞きました。次には中国電力・坂口泰監督も。
 16時に会見が始まりました。まずは、外国人選手4人。それが終わると日本選手も壇上に上がって記念撮影。続いて日本人の会見です。
 今大会の焦点の1つに、日本人トップ選手が2時間7分台を出せるかどうか、が挙げられると思っていました。優勝選手が2時間7分台を出しても、日本人トップは8分台というケースが、03年・04年と続きました。というか、2時間7分台は01年の油谷繁選手と森下由輝選手しか出していません。気象状況やレースの流れにもよるところが大きいのですが、7分台を出してこそ価値のある大会。参加選手の自己ベストを見渡しても、2時間8分台に佐藤敦之、佐藤信之、高塚和利、大崎悟史、そして小島宗幸と5選手が並びますが、7分台はいません。
 そう思っていたら会見で、佐藤敦之選手と松宮隆行選手が、7分台という数字を挙げていました。佐藤選手は2時間8分台を2度びわ湖で出していますが、決して会心のレースではありませんでした。2時間09分50秒の学生記録のときも、上に日本選手が2人もいて、同じ学生記録でも藤田敦史選手(99年に2時間10分07秒)&藤原正和選手(03年に2時間08分12秒)ほどのインパクトもありませんでした。マラソンではブレイクしきれていない印象です。年齢ももう27歳。そろそろ、なんとかしないといけない時です。会見後に囲み取材の時間を少しあったのですが、そのときに佐藤選手自身、その点に同意してくれました。

 松宮隆行選手は4年ぶりのマラソン。弟の松宮祐行選手が一昨年、昨年とびわ湖に出ているためか、そこまで空いている印象がありませんでした。兄弟が台頭した当初は、2人揃ってアテネ五輪のマラソンを狙うプランでした。それが、01年の延岡、02年のびわ湖と隆行選手が続けて失敗した頃から方針を転向。長めの距離に適性がある祐行選手は引き続きマラソンで代表を狙いましたが、隆行選手は1万mで狙うことにしました。
 しかし、北京はともにマラソンで狙うことに。そういった背景を知っておくと、隆行選手の会見コメントの意味が、より鮮明になります。

 寺田は小島宗幸選手に質問しました。何度か書いているように、98年にフィス選手(世界選手権金メダリスト)に勝ったときの同選手は、めちゃくちゃに強かったと思います。15km通過が44分30秒。完全なオーバーペースと思われましたが、見事に粘り抜きました。粘っただけでなく、フィス選手を突き放した。あのマラソンの興奮は今も、忘れられません。そのレースを皮切りに4レース連続サブテンも達成しましたが、最初のびわ湖以上の走りはなかったと思います。
 どうしても一度、低迷した間の気持ちを聞いてみたかったのです。会見後に囲み取材があると知っていれば、そちらで聞いたのですが…。共同会見で聞くような質問ではなかったので。

 囲み取材では、佐藤選手に今回の位置づけを確認し(練習内容については坂口監督に聞いてあった)、大崎悟史選手には会見でコメントしていた脚づくりについての自信の根拠を聞きました。具体的には結果が出たときに紹介したいと思いますが、レース展開については会見で話した「思い切り」のところを、より詳しく聞きました。明日は大崎選手が最初に動くかもしれません。要注意です。
 最後に小島宗選手のところに行きましたが、ほとんど質問は出尽くした雰囲気です。今さら同じことを聞いても申し訳ないので、兵庫ネタで行きました。つまり、西脇工高の後輩でもある清水将也選手と一緒に走ることについてです。
 1週間ぶりの日記ですが、先週の熊日30kmでも兵庫ネタがありました。1・2位の清水智也選手(双子の兄弟です)と坪田智夫選手が兵庫県出身。2人は飛びだしたサイラス・ジュイ選手を追って、16kmまでマッチレースを展開したのです。先に遅れた坪田選手が最後、猛烈な勢いで清水智也選手を追い込みました。
 その清水智也選手ですが、2月頭の丸亀ハーフでは家谷和男選手、中東亨介選手、竹澤健介選手との兵庫勢4選手による3位争いで最下位に甘んじました。明日は残念ながら高橋謙介選手は欠場しますが、丸亀、熊日に続いて兵庫対決が見られるかもしれないのです。しかし、小島宗幸選手は先輩として、厳しい意見を口にしていました。

 兵庫勢を気にしていましたが、九州勢を忘れる寺田ではありません。九州どころか、北九州と範囲を限定した2人です(写真)。只隈監督と、やはり明日のテレビ解説をする金哲彦氏。2人は八幡大附属高で同級生です。以前にも書いたと思いますが、名門高校の先輩後輩がその後も陸上界で活躍する例は多々ありますが、同学年の2人がそろって、選手として活躍し、その後も引き続いて陸上界で活躍している例は珍しいケースといえるでしょう。2人の関係はBBMムック「箱根駅伝」の只隈監督の記事中に詳しく出ています。
 19:40頃まで原稿を書いて、自分の泊まるホテルに移動して20時前後にチェックイン。フロントに置いてあるちらしを何げなく見ていると、「琵琶湖と陽気なショーを楽しむミシガンクルーズというキャッチコピーが目に留まりました。これは、びわ湖とミシガン湖が姉妹湖提携でもしているのか、と思いましたが、こちらのサイトをよく読むと、どうやらミシガンという船名のクルーズ用客船があるみたいです。7年もびわ湖マラソンに来ているのに、知りませんでした。
 でも、内容から判断するとミシガン湖かミシシッピ川を意識した内容のようですね。そう、ミシガン湖と言えばシカゴです。ミシガン湖畔で失敗した佐藤敦之選手と高塚和利選手にとっては、明日のびわ湖畔が巻き返しの舞台となるはずです。佐藤選手も、そのためのびわ湖だと話しています(ちょっと違うぞ)。


◆2006年3月5日(日)
 びわ湖マラソン取材。
 他のマラソンはだいたい12:00〜12:10のスタートですが、この大会だけ12:30。この30分の違いが大きいのです。って、去年か一昨年も書きましたね。コンディションはいいように思いました。気温は7.5℃との発表ですが、日射しが当たる場所は10℃を超えていたように思います。それでも、先週の熊日30kmに比べれば湿度も低く、風もそれほどありません。11時にはペースメイクの最終設定があるはずですが、コニカミノルタ・佐藤敏信コーチに聞くと、変更は聞いていないとのこと。5km毎が15分05秒。記録への期待が高まりました。
 11:30頃からトラックの5〜8レーンを右回りに、最終アップを行う選手が増えます。以前は競歩の取材をしていたので、選手たちがどこでアップをしていたのか知りませんが、昨年からはこのアップで有力選手の写真(小島宗幸選手)を撮ることにしています。12:00前後には選手たちは着替えと最終準備のために更衣室に。その前から、スタンド下から指導者たちが選手たちのアップを見守っています。といっても、今さらアップの距離やスピードを指示するわけではありませんから、有力選手の指導スタッフの周りには自然と、マスコミをはじめとする関係者の輪ができます。
 今回、2強と見られていたのが中国電力・佐藤敦之選手とコニカミノルタ・松宮隆行選手の東北出身コンビ。両チームは駅伝でも2強と言われていましたから、レース前に両チームの監督が近寄ったところをすかさず撮らせていただきました。
 この頃になると気温が上がってきて、12時の公式発表は11℃。体感気温は13〜15℃くらいでしょうか。熊日30km同様、気温がちょっと心配になってきました。やはり熊日30kmに来ていた山陽特殊製鋼・小林正明コーチ(湖畔仲間)が、「寺田さんが来ると暑くなりますね」と言ってきます。「お互い様だろう」と言い返したような気もしますが、もしかしたら言わなかったかもしれないので、ここで書いておきましょう。

 レースは予定のペースで進んでいきます。国内では最も大集団でレースが進むマラソンです(今年は、例年より少し少なかったようですが)。その理由は改めて書きませんけど…やっぱり書くと、駅伝との兼ね合いです。国内で一番ということは、世界で一番でしょうね。海外大都市マラソンに参加するエリート選手は、ここまで多くありません。
 ペースメーカーは3人いましたが、30kmまで引っ張ったのはマチャリア選手。どこかで見たことがあると思ったら、この写真の選手でした。一緒に写っているトヨタ自動車九州のワンジル選手の友人で、福岡国際マラソンでもペースメーカーをした選手です。
 ペースメーカーがいなくなってからのペースダウンが大きかったですね。この辺の考察は記事にする予定ですけど、熊日の記事もまだ書いていないし(途中までは書きかけたのですが)、時間的に厳しいかもしれません。

 レースはスタンド下のプレスルームでテレビ取材。隣の席にはN社のSコーチ。その隣には独身の曽輪ライターという並びで見ていました。話題となったのは主に、大崎悟史選手のこと。前述の2選手に大崎選手を加え、3強とも言える存在です。その大崎選手がどこでスパートするかが、今レースの見どころの1つでした。昨日の会見とその後の取材で、同選手が思いきったレースをしたい、できれば自分から勝負をかけたいと話していたからです。
 個人的には、びわ湖南端の南郷洗堰のちょっと前か、ちょっと後ではないかと予想。というのは、東岸か西岸のどちらかが向かい風となっているはずですから、1人では走りにくいと普通は考える向かい風の中でスパートすると思ったのです。東岸なら30km手前で、ペースメーカーもまだいるはず。意表を突くには一番いいのでは、と。
 Sコーチも「大崎には、追い風も向かい風もないですから」と言います。どうやら、風向きなど細かいことを気にしないタイプの選手、という評判が長距離界にはあるようです。なるほど、大崎選手は追い風でも向かい風でもなく、清風ですね。
 しかし、レース後に大崎選手に確認すると、追い風になったらスパートしようと思っていた、と言います。こちらが勝手に考える通りにはなりません。

 取材を進めているうちに、テレビ画面からははっきりわかりませんでしたが、30km以前も風がそれなりにあったことがわかりました。風向きが回っていたため、ずっと向かい風だった印象を選手たちは持ったようです。集団の中にいればそれほど気にならなかった、と言う選手もいますが、もしかしたら、僅かの向かい風でも15分05秒ペースは、ちょっとずつ選手たちに負担がかかったのかもしれません。30km以降のペースダウンが大きかった理由も、これでしょうか。選手たちに力がなかっただけかもしれませんが。


◆2006年3月11日(土)
 3月の第2週ですが、沢野大地選手は世界室内選手権で予選落ちしてしまいました。5m65でダメなんか、と(関西弁で)思ったら、決勝進出は8人とのこと。沢野選手は9位。しかも5〜8位の選手は同じ5m65。これは悔しいでしょう。今回も悔し涙を、そっとサングラスで隠したのでしょうか(室内だからサングラスはかけていないのか?) そういえば昔、「モスクワは涙を信じない」という映画を見ましたっけ。何の関係もありませんが。
 それにしても走高跳と棒高跳で、同記録のときの順位を決める方法ですが、他にないのでしょうか? これという方法がないから、今の試技数差で決める方法が続いているわけですけど。そこに不満を持っていたら競技ができませんので、選手にそういった考えはないと思いますが、観客の立場で言えば煮え切らないというか、もどかしい方法です。「そんなんで順番つけるんか?」と、大阪の世界選手権で観客に思われてしまうかもしれません。
 でも、ルールをよく理解しているファンには、面白くも感じられる部分かもしれません。やっぱり、陸上競技は能動的なファンでないと楽しめません。だから、人気が出ないのでしょう。一般の人たちに陸上競技をアピールするのは、本当に難しいと思います。この難問に立ち向かわないといけないのが陸連です。大変だと思います。

 今日から3日間、途中下車の旅が続きます。
 12:40東京発のひかり号で名古屋に。のぞみでなくてひかりにしたのは、自由席の車両が多いからです。今回は経費の持ち出しが多いので、できる限り安い旅をしないといけません。まあ、いつものことです。熊日30kmの取材とか、完全自腹出張でした。でも、後悔はしていません。
 ちょっと早めに行って席を確保。出発までの空き時間に、電話を3本しました。ここ数日はベリー・ビジーでして、こういった時間を有効利用するしかありません。

 14:35には名古屋観光ホテルに着。記者会見場には女子マラソン初解説の瀬古利彦監督の姿も。ちょっと遠くて写真には収められませんでしたが、同じ列には早大競走部で同期の中日新聞・桑原記者もいます。同記者の両側には、浜名湖一周駅伝でご一緒したH記者とI記者。中日新聞では、浜名湖一周駅伝取材が出世へのステップになっているようです、などと他社のことをいい加減に書いてはいけません。
 朝日新聞は東京の堀川記者(福岡に転勤した原田記者の後任。元、ニューヨーク駐在記者で松井番)と大阪の小田記者(岡山のSP記者)、共同通信も東京の宮田記者と大阪の白石記者。名古屋という場所柄か、東西の陸上競技担当記者が集まる大会です。読売新聞は東京の大野記者(箱根駅伝でお世話になりました)と大阪の霜田記者(エドモントン世界選手権からの帰路でご一緒しました)。聞けば、大阪の陸上競技メイン担当の新宮記者はモスクワで世界室内を取材中とか。さすが読売新聞です。

 会見では大南博美選手のコメントに一番、興味を引かれました。これは、会見後に高橋昌彦監督の話を聞くしかない、と思って同監督をすぐに探したのですが、姿が見えません。例年、名古屋の前日会見後には、話を聞けていたのでどこか、消化不良のような感覚に襲われました。これまでで一番優勝を意識しているから姿をくらましたのでは、などと勘ぐる記者もいたくらいです。
 ということで、高橋監督との接触を画策、成功しました。その方法は清水智也選手じゃありませんが、企業秘密です。同監督の話はめちゃくちゃ面白かったです。O内さんも同席してくださったので、話が弾みました。プライオメトリック取材と呼んでいます。
 ところで皆さん、知ってますかぁ?(倖田來未口調で)。大南博美選手がマイアミマラソンで優勝したことは新聞でも報じられましたが、その2週間前にもアリゾナでフルマラソンを走っているのを。もちろん、どちらも練習代わりです。
 それにしても、面白い話ばかり。記事を書きたいくらい。今、23:36か。どないしよう。

 17:30に名古屋観光ホテルを後にして、新山口に向かいました。何人かの方に自分の行動を話しましたが、寺田の3月第2週取材パターンはそこそこ知られるようになっていて、あまり驚かれません。特に今年は、実業団ハーフに尾方剛選手と野口みずき選手も出ます。毎日新聞・ISHIRO記者は「一度、言ってみたいんだよな」と言いますし、S社のT選手は「私の故郷ですから」と送り出して(?)くれました。
 1人だけ、「ホントに行くの? どうして?」と、どう説明してもこちらの行動を理解できなかったのが、デイリーヨミウリの米国人記者のケネス・マランツ氏。東洋の神秘は、欧米人には理解できないのでしょうが、「読売グループのくせに箱根駅伝の取材に来ないアンタの方が信じられんわ」と…言ったかな。


◆2006年3月12日(日)
 今日は年に一度の山口→名古屋の梯子取材日。ですが、朝、新山口のホテルでメールをチェックすると、ミズノ広報の木水さんからメールが来ていました。ちなみに、木水さんは美人広報ではありません。なぜなら、男だから。
 肝心のメールの方ですが「最高気温も氷点下のモスクワです」という書き出し。そうです。世界室内の仕事でモスクワに行かれているのです。タネを明かせば、寺田がまだ、ロシアからメールをもらったことがないので、「何でもいいのでメールください」というメールを送信していたのです。
 メールのタイトルは“ロシアより愛を込めて”にしてください、とお願いしていましたが、届いたメールのタイトルは“内藤が準決勝に進出しました”でした。ミズノ社員の鑑でしょう、などと他社の社員評価をしてはいけません。

 新山口8:25発の列車でで矢原に出ます。新幹線停車駅の新山口と、県庁所在地の山口を結ぶ山口線ですが、なんと単線です(レールは2本)。車両もディーゼルで、特有の臭いがあったりします。矢原駅からは徒歩。今にも泣き出しそうな灰色の空を見つめながら、なんとか持ってくれよ、と祈りながら維新百年記念公園陸上競技場まで歩きました。カメラマンも務める取材だったのです。
 スタートまで1時間。毎年、この大会の受付場所近辺(ロビーや競技場玄関前)は、関係者の社交場と化します。プレスルームでは九州陸上競技記者の雄、毎日新聞の百留記者とお会いしました。熊日30km以来、2週間ぶりの再会です。毎日新聞事業部の雄、大矢氏とは報道受付で、びわ湖マラソンに続いて2週連続でお会いしました。ミズノの木村さんには、前日の名古屋会見後に同社・近藤さんから託されたメッセージを伝えました。内容は文字通り、企業秘密でしょう。中日新聞・I記者も、寺田と同様に名古屋の会見から山口入りして来られました。浜名湖一周駅伝でも昨年、ご一緒させていただきました。

 玄関前に出ると、選手たちがアップをしている公園内の周回道路(?)もすぐ目の前。野口みずき選手も一般選手と同じようにウォーミングアップをしています。昨年のベルリンも2月の丸亀も取材に行っていないので、“生みずき”を見るのは本当に久しぶり。金哲彦さんが、「また絞れていますよ」と解説してくれました。寺田からは昨日仕入れたネタで名古屋の予想をお話ししましたが、この件はまあ、いいでしょう。
 野口選手、藤田監督、広瀬コーチの3人に、同じ会場でお会いするのも相当に久しぶり。藤田監督は実業団の役員なので、駅伝など試合ではよくお会いしますし、広瀬コーチとも先日京都でお会いしました。個々に会う機会はあるのですが、3人一緒というともしかしてパリ以来(銀メダルの03年パリ世界選手権)かも? “三役揃い踏み”という迫力があります。
 振り向くと、第一生命・山下佐知子監督とトヨタ自動車九州・森下広一監督が談笑しています。こちらは鳥取の生んだ銀メダル・コンビ。シャッターチャンスを逃す寺田ではありません。わざわざ書くこともないでしょうが、山下監督が91年世界選手権女子マラソン、森下監督が92年バルセロナ五輪男子マラソンの銀メダリストです。
 撮影機材の雨対策をした後、沿道に出る算段をしました。具体的な方法は企業秘密です。そういえば維新百年記念公園陸上競技場は一昨年、石川和義選手が三段跳で学生新を出した競技場です。

 男女で対照的なレースでした。女子は野口選手が独走。2、3位は中村友梨香選手(天満屋)と吉田真由美選手(スズキ)の20歳コンビ(表彰写真)。中村選手は坂本直子選手の県西宮高の後輩でもあります(全日本実業団対抗女子駅伝の陸マガ記事参照)。吉田選手は福島県田村高出身。練習ではかなり強いのに、これまで試合でなかなか力を発揮できませんでした。このあたりは同県の先輩である佐藤敦之選手と似ていなくもありません。
 男子は4人が同タイムでフィニッシュする混戦でした。結果は中国実業団連盟のサイトでご確認ください。カメラマンをすると、フィニッシュ後の選手を追いかけていけません。競技会取材では両立が難しいところもあります。しかし、今日はレース後すぐに囲み取材とならなかったのが幸いしました。日産自動車・加藤宏純監督、野口みずき選手、尾方剛選手、下里和義選手と、いい順番でインタビューが進みました。野口選手と直接話ができたのも久しぶり。来た甲斐がありました。
 インタビュー中には、下里選手が出身大学を質問される一幕も。箱根駅伝取材にどっぷりつかっている人間にとっては、新鮮な出来事でした。寺田など、下里選手が箱根駅伝増刊号のアンケートに「ライバルは大後栄治(監督)」と書いていたことまで覚えている始末。関東の学生選手たちも認識を新たにしておいた方がいいでしょう。神奈川大のエース兼キャプテンでさえ(僅か2年前のことです)、西日本に行ったらこの程度の知名度なのです。
 団体優勝は男子が中国電力、女子が天満屋(2位の中村選手のフィニッシュ)。優勝チームではありませんが、駅伝の上位チームがやっぱり強い。ところで、聞くまでもないことでも当事者の口から意見を聞きたいこともあります。男子の2位がコニカミノルタだったので、中国電力・坂口泰監督に「ニューイヤー駅伝の雪辱ができたと言っていいですか」と質問。「若手が頑張ったのならともかく、上位があの2人ではね」と、表彰を受けている尾方選手と梅木蔵雄選手を指さします。そういえば梅木選手ももう、30歳でしょうか。

 13時ちょっとに現地でできる取材は終了。5km毎のタイムがプレスルームに配布されたらしいのですが、部数が少なくて売り切れ状態。百留記者や、エスビー食品・中村孝生コーチたちと一緒に、記録室で増刷してもらいました。ちなみに、中村コーチはモスクワ五輪代表です(日本はボイコット)。
 新山口を13時半頃発のひかりに乗れば、新大阪乗り換えで16時台に名古屋に着きます。そのためには、本数の少ない山口線を使っていては間に合いません。某カメラマンとタクシーで新山口まで移動。昨日の新幹線は全て自由席で大丈夫でしたが、今日はどの列車も混み合っています。13時半頃のひかりは満席。新山口駅で行う取材の都合もあって、13:58のこだまにしました。
名古屋編には、続かずにおわり、か

 新山口からはこだまで広島に。広島でのぞみに乗り換えました。その間に、昨年とは違って名古屋国際女子マラソンの結果を入手。昨年は名古屋観光ホテルの玄関でミズノ・金子宗弘氏(十種競技日本記録保持者です)にばったり出くわして、原裕美子選手(京セラ)の優勝を教えてもらいました。今年は、某社Iマネジャーの指導で、携帯サイトで記録入手にトライしました。携帯のメールは使っていますが、WEB閲覧はほとんどしたことがないのです。しかし、山陽新幹線ってトンネルばかり。作業がまったく進まず、結局、Iマネジャーの携帯から記録をメモさせてもらいました。
 Iマネジャーからの情報で途中まで独走していた渋井陽子選手を、終盤で弘山晴美選手が逆転したレース内容も、一応は知ることができました。一応は、と書いたのは、実際にレース映像を見ないと、実感というか、感動という点ではいまひとつなのです。
 新幹線乗車中に徳島新聞・水野デスクから電話が入りました。弘山晴美選手は徳島県出身で、犬伏孝行選手(大塚製薬)と弘山選手がロンドン・マラソンに出場したとき、水野デスク(当時は記者)にはお世話になりました。弘山選手についての問い合わせだと直感。国内三大マラソンでの日本人優勝者の年齢についてでした(たぶん、この記事に反映されています)。陸連発行の海外向けアニュアルの歴代記録には、生年月日が全員、記載されています。こういうこともあろうかと、寺田はつねに持ち歩いているのです。でも、このアニュアルは2005年版から発行中止になっています。ですから、持ち歩いているのは2004年版。発行再開を切に希望します。

 17:23に名古屋着。17:30から閉会式なので、タクシーで名古屋観光ホテルに。表彰式開始が20分遅れていたこともあって間に合いました。ホテルでのパーティー取材j時は荷物をクロークに預けます。何を持って会場に入るか、判断が難しいのですが、今日はクローク前でちょっと迷いました。今回はレース内容からして弘山夫妻のツーショット写真撮影は必須事項。いつもだったらレンズ一体型のカメラなのですが、一眼レフを持ち込む方がベターだと判断しました。
 会場入りしてまず、弘山勉コーチにお祝いを言って、その後は……すみません、順番まではよく覚えていませんが、各指導者たちに話を聞き回りました。レース展開を知らないので、苦労します。ホテルの報道受付で配布された記録には5km毎が出ていません。まあ、競技場に行かないメディアは本来、いないはずだから文句が言えません。
 東京国際マラソンの高岡寿成選手もそうでしたが、パーティーで優勝者(日本人1位選手)に話を聞くのは難しいのです。表彰式で専門誌カメラマンの一群に紛れ込み、写真を撮らせてもらったくらい。この写真が一番、表情がいいですね。チャイナドレスが似合っています。2位の渋井選手のファッションも、なんて言うのかは知りませんが、ものすごく雰囲気がありました。
 勉コーチによれば夫妻の写真は競技場でもう、ものすごくたくさん撮られたといいます。ツーショットは無理かな、と判断して、その代わりに夫妻のサインを色紙にもらおうと画策。まずは勉コーチにサインを書いてもらっていると、後ろから声をかけられました。
「寺さん、取材中悪いんですけど、2人の写真を撮りたいんですけど」
 寺田のことを“寺さん”などと言うのは陸マガ高野徹カメラマンくらい。振り向くと、弘山晴美選手をカメラマンたちが連れてきていました。寺田も撮りたかった絵柄ですし、サインはちょうど書き終えたところだったので、すぐにフォトセッションに変更(そのときの写真)。

 2位の渋井選手については、三井住友海上の中瀬洋一コーチから話を聞きました。35km付近から血マメができてリズムを崩してしまったそうです。期待されたセガサミーの橋本康子選手は2時間29分53秒で6位。森岡監督によれば、2週間ほど前に故障があったようです。大南博美選手の不調については、いずれ機会を改めて、高橋監督にお聞きしたいと思います。

 弘山選手の初マラソンが名古屋で、今回がマラソン初優勝。読売新聞の大野記者は、「弘山に、ナゴヤは15年来のプレゼントをした」という一文で記事を締めくくっています。弘山選手が15年来なら、日本ケミコンの泉田監督も「15年来の名古屋」だと言います。
 町田祐子選手が2時間29分48秒で5位。あの峯岸里江選手が走って以来の名古屋出場だそうです。峯岸選手の出場年度が正確ではないとのことだったので、後でプログラムで確認すると90年に7位(2時間38分47秒)になっています。日本ケミコンの選手としては、16年ぶりの名古屋出場だったのです。
 同監督によれば、東北・北海道選手では、初の2時間20分台だといいます(が、ホクレンの中山ひろみ選手が2000年に2時間29分39秒で走っているとの指摘をいただきました。当時は五十嵐姓。東北では初めてです。確認しました)。浅利純子選手や江田良子選手ら、東北出身者の2時間20分台は多いのですが、登録選手ではいなかったようです(要するに、実業団チームが少ない地域)。
 その点、2時間29分59秒で7位の林明佑美(あゆみ)選手は、登録選手も出身選手も含めて、長崎県初の2時間20分台だそうです。高木監督によれば、林選手が長崎から船に乗って名古屋に出発する際、見送りの高峯マネジャーにお土産は何がいいか聞いたそうです。高峯マネは「2時間29分59秒の記録を持ち帰って」と言ったそうです。ちなみに林選手は口加高、高峯マネは諫早高OB。林選手の1秒の頑張りは、長崎県にとって歴史に残る1秒となったのでした。ということで、高木監督との乾杯の写真を掲載させていただきます。


◆2006年3月17日(金)
 今日は14時から司法書士の方の取材でした。ついに陸上競技以外の分野の取材にも進出したのかというと、そうではありません。某大学陸上競技部のOBの方なのです。かつてのトップ選手というわけではありませんが、トップ選手や有名指導者とのつながりがあります。某金メダリストの恩師の知り合いだったりもする。聞けば、10日ほど前に取材した某コーチとは同学年で、同じ釜の飯を食べた仲だとか。さらに、仕事上の付き合いがある某コーチとも同学年。
 こうして、人と人とのつながりが、どんどん広がっていく。長くやっていると、面白いですね。みのみの日記という、みのもんた氏の日記と勘違いしてしまうようなタイトルのブログを開設した早狩実紀選手も、同じように思っているのではないでしょうか。

 ところで、司法書士の試験は合格率が2%くらいなのだそうです(箱根駅伝は20校参加ですから優勝確率は20分の1=5%)。なんという狭き門。え? そんなこと知っている? すみません。世間知らずの陸上競技専門ライターなものですから。
 でも、その世間知らずが、1時間も取材をしてしまいました。司法書士の何たるかは、WEBサイトを検索して、事前に勉強して行きましたから、「司法書士って何ですか?」という類の質問はしていません。それでも、1時間も話ができました(事前にお願いした予定の時間です)。
 前述したように、あくまでも陸上の側から見た司法書士、というコンセプトで取材をしました。それが、話が弾んだ理由です。相手の話が面白いと感じられるから、話が弾むのです。一昨日も、それほど時間を気にしなくても済む状況だったこともあって、電話取材が1時間になってしまいました。

 インタビューをした日の日記に「今日も面白い話が聞けました」と書くことが多いのですが、面白いと感じられるかどうかは、理解度に関わる部分。記者にとっては大切な能力だと思っています。そう感じるようになって思い出したのが、97年に室伏広治選手を取材したときの言葉です。「指導する側のノウハウを書いた本はあっても、指導される側の心得を書いた本はない」というもの。
 陸上競技マガジン4月号の佐分慎弥選手の記事でも、その辺を書きました。佐分選手の場合、外見から誤解を招くこともあるでしょうから、まずはそこを説明しないといけない、と考えたのです。詳しくは陸マガを読んでみてください。陸マガの取材裏話は明日にでも。


◆2006年3月18日(土)
 今日は終日、ひた原でした。明日は千葉国際クロスカントリーの取材ですが、明日中に300行原稿1本は絶対に片づけないといけません。それに加えて、60行2本+40行2本も、半分は終わらせたい。そのくらい書かないと、来週のスケジュールが圧迫されます。来週は陸マガ次号付録の選手名鑑の作業が待っているのです。

 陸マガ4月号発売日から4日が過ぎてしまいました。佐分慎弥選手の記事の内容については昨日の日記でも少し触れましたが、寺田が担当したのは「STEP UP 2006」企画の3選手です。前回の錦織育子選手に続いて、カメラマンも兼ねての取材でした。
 トビラページの佐分選手の写真はスタートの“位置に着いて”のときの姿勢。ありきたりという気がしないでもありませんが、錦織選手に続いて被写体の格好良さと、日体大トラックの青色と、ウェアの赤色に助けられて、まあまあの出来でしょうか。次ページの写真(マルチ・ヒップジョイント・ボードを使用してのトレーニング)でも、同色のTシャツを着用しています。アシックスの今年のセールス色でしょうか。と思って同社のサイトを見ると、やはり、そんな感じがしますね。
 トビラ写真は超広角レンズでの撮影だったため、佐分選手の左後方にいた選手たちに移動してもらいました。練習の邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした。

 佐分選手の撮影は晴天に恵まれましたが、小池崇之選手の取材は2月20日の日記に書いたように雨でした。練習を中断するほどひどい雨でもなかったのですが、晴天時よりも制約は多くなります。やらせ写真を撮るために、選手へリクエストを出すのもはばかられる。ハードルを跳んでいる写真も当然、正規の練習メニューのときの撮影です。
 佐分選手も、実際にスタート練習をしていたときの写真。スタートダッシュが最大の武器という記事の内容に合わせたわけです。スタートダッシュが練習メニューになかったらどうしたかって? スタート練習をする日に行ったのです。
 石野真美選手も、ときどき視線をもらったり、顔を上げてもらったりはしましたが、基本的にはやらせ写真は撮りませんでした。掲載の写真も、普段行なっているハードルを使ったストレッチです(ハードルを跳ぶ練習は、しばらく行わない期間でした)。とか書いていて、次号では選手のポーズ写真になっているかもしれませんけど。
 ちなみに色的な部分や、背景の選び方やそのぼかし方でいったら、石野選手の写真が一番綺麗に撮れました。何点かお見せしたいくらいです。

 インタビューした場所は、佐分選手が陸上競技研究室で、小林史明助手(棒高跳前日本記録保持者)が同じ部屋にいてくれました。小林助手(明智小五郎の助手は、小林少年?)は自分のデスクで仕事をしていて、ちょっと離れたソファで佐分選手にインタビューをしたということです。取材後、小林助手に佐分選手の印象を「思ったよりしっかりした考えを持っているのでビックリした。いい意味で、予想を裏切られた」と感想を話すと、同意してくれました。
 石野選手は練習後に、ファミレスに場所を移して話を聞かせていただきましたが、練習を終えたときに、赤ちゃんを抱いた女性と話していました。後で聞いたところ、小林助手の奥さんとのこと。奇遇です。
 小池選手のインタビューは順大の学食で。「一番高いものを頼んで良いよ」と言ってしまう自分が悲しかったです。11月の国際千葉駅伝の際に坂口泰監督を取材したのが、ホテル・ニューオータニ幕張高層階の展望ラウンジでした。同じ台詞を言えなかった自分が悲しかったです……って、小池選手の場合と表裏一体なわけか。


◆2006年3月19日(日)
 千葉国際クロスカントリーをなんと、4年ぶりに取材。あまりにも久しぶりだったので、報道受付で資格審査までされてしまいました。というのは冗談で、事前に取材申請をしていなかったから。今回は事なきを得ましたが、何が起こるのかわからないのがこの業界(どの業界?)。こういうことはキチッとやっておかなければいけません。
 今日は、2月に行われていた当時を考えると寒くはありません。正午の気温は14.5℃。でも、風もあって暑くは感じません。山陽特殊製鋼・小林正明コーチからは挨拶代わりに「今日は暑くありませんね」と言われました(3月5日の日記参照)。

 ジュニア男子では4000mが小野良太選手(比叡山高)、8000mは高橋優太選手(仙台育英高)が優勝。名前の最後に「太」のつく2人が、ジュニアを制しました。この2選手が生まれた頃がそうだったのかわかりませんが、近年は名前の最後に「太」をつけることが好まれる傾向があるそうです。
 去年、中国電力・油谷繁選手に長男が生まれましたが、名前は颯太(そうた)君。奥さんが、「太」をつけたい希望があったのだと聞きました。そのことを、中国電力・内冨恭則コーチは知っていたでしょうか?

 そうです。内冨選手が2月1日付けでコーチ兼任となり、今大会が兼任後の初レースでした。シニア4000mの部で18位。右ふくらはぎを痛めていたため、練習がまったく不足していたそうです。コーチとなっても、特にやることが変わるわけではなく、これまで同様、選手としての活動が中心です。駅伝メンバーも狙うし、場合によっては4回連続のアジア大会代表ということも。
「監督不在の時、合宿で責任者となったり、練習メニューを選手に言ったりするくらい。あとは田子(康宏)に1500mで世界選手権を狙わせたいので、メニューを本人や監督と一緒に考えたり、合宿について行ったりします」
 ただ、中国電力では初の選手出身のコーチ。チームの変化にどんな役割を果たしていくのか(実は何も変わらないのか)、ちょっと注目していきたいところです。

 ところで、内冨選手と高橋健一選手(富士通)は同学年。箱根駅伝も一緒に走っています、と書いてあったら、おかしいぞと思った人は多いでしょう。内冨選手は広島経大出身。在学中の陸マガのインタビューで箱根駅伝批判をした選手、ということまで覚えていたら陸上通です。その2人が、高橋選手が出場したシニア12000mのレース後に握手をしていました(証拠写真。まさか、やらせ?)。
 そうです。高橋選手は今日が現役最後のレース。「力の限界を感じました。脚が抜ける故障に負けました」と、残念そうな表情で話します。これまでもコーチ兼任でしたが、4月からはコーチ専任になります。あっ、富士通のコーチですね。この辺は、しっかり書いておかないといけないところです。
 2001年の東京国際マラソンに優勝して、同年の世界選手権エドモントン大会に出場。何度か紹介してきたように、ハーフマラソンや駅伝ではマラソン以上の強さを見せました。2000年は1万mでシドニー五輪代表になるだろうと思われましたが、標準記録に僅かに届かず涙を飲みました。

 引退する選手に「印象に残っているレースを1つ挙げてほしい」と聞くのは、無理な注文だとかねがね思っていたので「5つ挙げてほしい」と頼みました。高橋選手は思い出しながらレースを挙げていきます。
「ニューイヤー駅伝の優勝(2000年)」
「次の年の(2区)区間新記録」
「国際千葉駅伝の2回目のアンカー」(逆転優勝)
「東京シティハーフマラソン」(現日本記録)
「東京マラソンとエドモントン」
 ここまでで5つですが、高橋選手は昨年の世界クロカン代表も付け加えたい、と言います。
「マラソンの世界選手権代表よりも嬉しかったですね。力が落ちかけているときに立て直して代表になれました。あれで、まだやれると思えましたから」
 その思い出のあるクロスカントリーが、最後のレースとなりました。コーチとしては「自分を超える選手を育てたい。記録でも、成績でも」という抱負です。うーん。ハーフマラソンの1時間00分30秒とニューイヤー駅伝2区の1時間01分36秒は、かなりのハイレベル。本人も先に挙げているように、ニューイヤー駅伝2区の区間記録の方が「破られたくない」と、1年くらい前の取材で話してくれたことがあります。大変な仕事を自らに課したわけです。

 そういえば今日は、走幅跳の田川茂選手(ミズノ)も、スーツ姿で昭和の森に現れました。選手としてではなく、通常業務として。3月は人事異動の季節です。

 ところで、「太」のつく選手は多いのに、「朗(郎)」のつく選手はあまりいません。記者には毎日新聞・石井朗生記者(ISHIRO)を筆頭に、信濃毎日新聞・中村恵一郎記者、スポニチ・中出健太郎記者、日刊スポーツ・佐々木一郎記者、オマケの寺田(辰朗)と、一時はものすごい数がいました。なのに陸上選手では少ないなあ、などと考えていたら、福士優太朗選手が中学の部で優勝していました。
 そういえば今日はWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の準決勝・韓国戦で、イチローも活躍。イチローといえば瓜二つのISHIRO記者。WBCではイチローの発言が話題になっていますが、WCC(世界クロスカントリー選手権)を控える陸上界も負けてはいられません。ISHIRO!記者に、記者人生でもっとも屈辱的だったことは何かを取材しました。
 つづきは明日にでも。


◆2006年3月20日(月)
 明日はWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の決勝ですが、テレビのMCがコメンテーターに「日本は勝てますか?」って聞いている番組が2つありました。あれって、やめてほしいですね。視聴者のレベルをあまりにも低く見ている。なんてことは、総人口の5%がブログを持っている現在(当てずっぽうです)、誰でも書いていることでしょう。なんでWBCの話題から入ったのかというと、イチローが2次リーグの韓国戦に敗れたとき、「僕の野球人生で最も屈辱的な日」とコメントして、その映像をテレビが繰り返して流していたからです。
 話はWCC(世界クロスカントリー選手権)を控えた日本の陸上界、昨日の千葉国際クロスカントリーでのことです。イチロー似の毎日新聞・ISHIRO!記者に記者人生で最も屈辱的だったことは? と質問しました。答えは2つでした。
 1つ目は入社2年目の三重支局にいたときの選抜高校野球でのこと。ずっと取材を続けてきたチームの試合だったのに、8回の途中から約1時間、ある事情で取材ができなくなったのだそうです。ISHIRO記者の都合というよりも、組織的な理由で。個人の力ではどうしようもないことだったようです。それが、とても悔しかったと。
 もう1つは長野支局にいたとき。長野五輪に関するスクープをライバル社に抜かれて、その記事が新聞協会賞まで取ってしまったそうです。「きれいにやられた」と言います。どちらも、なるほどと肯ける話でした。そういった経験を糧に、記者たちも成長しているのですね。

 昨日の取材中で印象的だったコメントと言えば、小林祐梨子選手のそれです。世界クロスカントリー選手権でジュニア女子の団体メダル獲得が続いていることについて、プレッシャーがかかるのでは? という質問が出たことに、次のように答えました。
「プレッシャーは全然ありません。日の丸を付けることで色々な勝負ができ、挑戦ができる。本当に貴重な経験できます。それは自信になることであっても、プレッシャーになることではありません」
 高校生でここまで言える選手って、すごいと思います。

 同じ高校生たちが、このようなことをしているのを見かけました。昨日はレース途中で、小雨がぱらぱらと降った時間があったのです。幸い、本降りにならずに済みましたが、こうして補助員の方たちが入賞者に渡されるトロフィーを、身を挺して雨に濡れるのを防いでいました。入賞者の皆さん、手元にあるのは只のトロフィーではありませんよ!

 ISHIRO記者の話を数時間後に陸マガA山編集者にすると、「僕はですね…」と彼が話したのは、サッカー日本代表選手の取材に関する話が2つ。話としては面白いのですが、屈辱的だったことと言うよりも、単なる失敗談でした。
 その場に居合わせた某専門誌のE本記者は、しきりに思い出そうとしますが、思い出せない様子。実は寺田もそうです。失敗談は数あれど、屈辱的というとなかなかありません。というか、1つあるのですがここでは書けないネタです。企業秘密でもあり、職業上の守秘義務にも該当する話なので。
 きっと、A山記者も同じなのでしょう。でも、屈辱的な経験がないと言ってしまったら面白くない。失敗談にすり換えてその場を盛り上げるあたり、只者ではありません。


◆2006年3月21日(火)
 13時から関東某所で取材。かなり遠いな、と思っていましたが、それほどでもありませんでした。新宿から電車に乗っている時間が1時間20分(乗り換え時間も含めて)。駅から競技場に向かうタクシーの中で、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の中継を聴いていました。4回くらいだったと思いますが、4対1で日本がリード。安心して、取材に臨むことができました。
 人間、先行した方が安心できる精神構造のようです。陸上競技もそうですよね。トラック種目だったら前半で必ずしも先行する必要はなくて、トータルで速く走ればいい。フィールド種目は6回の試技の中で、最高のパフォーマンスを発揮できればいい。とは、わかっていても、先行されるとどうしても焦りが生じてしまいがち。
「この差だったら何とかなる」と肌で感じられる差なら冷静さを保てるのですが、「これはヤバイ」と思えるラインを超えてしまうと焦ってしまう。相手が危険区域にいるかどうかの瞬時の判断になるのですが、この判断力が客観的に見ている側と、当事者の選手では違ってきます。以前の取材で信岡沙希重選手が、「100 mのスタートで出遅れると焦ってしまう。でも、後でビデオを見ると焦るほどの差ではないことも多い」と、話してくれたことがありました。

 ということで、今日は取材に集中できました。陸マガの「STEP UP 2006」企画で、今回もカメラマンを兼務。集中はしていましたが、写真の絵柄がイメージしていたとおりに撮れません。この仕事に携わってけっこうな年数になります。種目毎に、練習中にはこんなシーンを撮れるだろうな、というシミュレーションはすぐにできますが、実際にレンズを通して見たものとのギャップが大きかったわけです。頭の中の距離感では、実際には遠くにあるものでも、それがメインの撮影対象としてイメージすると近くに感じてしまいます。でも、写真上では対象が小さく写ってしまう。その辺を正確に予想することができなかったのが失敗の原因でした。
 でも、現場の状況に合わせて対処するのも能力のうち。選手に注文を出して撮っているなかで1つ、これはと思える絵柄ができました。正直に言えば、少しの焦りはありましたが、結果オーライだったということです。選手もコーチの方もフレンドリーで、リラックスできたのが良かったのだと思います。

 インタビューでも面白い話が聞けました。こちらは、想定の範囲内で話が進みましたし。予習はして行きましたが、この選手はこうだろうと決めつけていくと、話が硬直化することがあるとわかっています。カメラマンよりも、記者としての経験の方がはるかに大きいので、想定の枠が大きくなっているということでしょう。ということで、今日もいい話が聞けました。本当に、取材に行く毎に書いている台詞ですが、実際にそうなのだから仕方ありません。
 今回のWBC優勝で、野球人気が再燃するでしょう。社会的なインパクトはそのくらい大きかった。やっぱり、わかりやすいですよね。感動も、競技の面白さも伝わりやすい。陸上競技だって面白いのですが、それがなかなか伝わりにくい。でも、こうして選手や指導者の話を聞いていると、技術的な話にもなるほどと思えるし、競技に対する姿勢など人間的な部分でもめちゃくちゃに面白い。
 それを記事という形で、どこまで伝えられるか。本来、記事で出し切らないといけないのですが、話の性格上、専門誌の記事としては書けないこともあります。今日、取材した選手にも、そういった話がありました。しかし、社会的にも注目されるような結果を出したときには、公にしてもいいんじゃないか、というネタです。そのときは、寺田は書きますよ。選手の了解を取ってから、ですけど。


◆2006年3月23日(木)
 13時から岸記念体育館1階のスポーツマンクラブで、ミズノ新人発表&記者懇談会がありました。受付でWBCでも活躍したイチローの姿を発見。野球の大物選手まで来させるとは、さすがミズノのイベントです。でも、イチローはWBC後、アメリカにそのまま残ったはず。テレビでチームメイトと別れを惜しんでいるシーンを見ました。
「アメリカに残ったんじゃないの?」と声を掛けると、「だから、今回のチームメイトたちと一緒に帰ってきたかったんですってば」と答えたのは、ISHIRO記者でした。このように人違いで声を掛けられたときも、気の利いた台詞の1つも言わないといけません。今回のWBC優勝の世間への影響度がわかります。

 ミズノの新人は記事にもしたように短距離の吉野達郎選手と、110 mHの大橋祐二選手。2人の名前は今日まで伏せられていました。試合でミズノの営業の方たちにお会いした際に、「誰が入りますか?」と聞いても、絶対に明かしてくれません。本当に知らされていないようでした。ですから、吉野選手の姿を見たときは、良かったなと思いました。
 ご存じのように、吉野選手は1年間、実業団入りが遅れました。その間は、金銭的に苦労を強いられます。いつだったか、「吉野屋をスポンサーに付けたらどうか」と、真剣に提案したことがありました。こんなシーンを想像してみてください。
 大阪の世界選手権。日本の4×100 mRが決勝に進出し、長居競技場のスタンドには数万人の大観衆が詰めかけます。2走の末續慎吾選手で上位に並んだ日本が、3走でアメリカ以下をリードします。末續選手は観衆もよく知っていますが、3走はそれほどよく知らない選手。その選手の快走に観客席が騒然となります。
「あの3走は誰や?」
「吉野や!」
 寺田は真剣に提案したつもりですが、吉野選手がどう受け取ったのかは不明です。

 でも、ミズノに入れるのなら何の問題もありません。そして、「朗(郎)」のつく選手です。19日の日記で「朗(郎)」のつく選手の活躍が少ないと書いたら、「永田宏一郎選手が頑張っているじゃないか」というメールをいただきました。旭化成をやめて鹿屋体大の大学院に進学した同選手は、教員となるのが目的と人づてに聞いていました。どこまで本気で走るのかわかりませんでしたが、クロスカントリーの成績を見ると、かなりの本気モードのようです。そのうち、取材をする機会もあるでしょう。
 などと考えていたのですが、吉野達郎選手も忘れてはいけません。現時点では、最も世界の近い「朗(郎)」のつく選手です。と書いてから、強化指定選手の名簿をチェックしたら、森岡紘一朗選手もいます。

 今日は懇談会という形式。テーブルの回りに記者たちと、ミズノの中村哲郎総監督と2選手が着席して行われました。そのため、通常の会見よりも自由な雰囲気で話ができます。選手たちもこういう場の方が、記者たちに話をするのに、特に緊張する必要はないことをわかってもらえる。いい形だと思います。
 その効果かどうなのかわかりませんが、プレスリー似の朝日新聞・原田記者から、「WBCの影響で野球人気が上がると思うが、陸上競技の人気獲得のために選手としてできることは?」という質問が出ました。なんでも、ミズノの株価も急上昇中とか。ミズノは野球用品メーカーでもあります。選手2人も若さに似合わず、“よく考えているな”という答えでした。

 今日は、4月から長崎県の教員となる田端健児選手も、陸連に挨拶に岸記念に来ていて、記者懇談会にも顔を出してくれました。現役は続けるということなので“ミズノ在職中の思い出に残るレース”を聞きました。「成績でいったらパリ世界選手権ですが、自分が一番走れたのはオリンピック」という答えでした。
 とにかく、ドラマチックなレースが多い選手でした。アトランタ五輪(このときは日大4年)は4×400 mRの予選を走りましたが、準決勝・決勝と伊東浩司選手が走ったため控えに回り、チームは日本新で5位に入賞。シドニー五輪はチームも絶好調でしたが、2走の小坂田淳選手がバトンを叩き落とされました。田端選手は3走で1人、大きくリードされてトラックを周回しないといけませんでした。
 しかし、03年のパリ世界選手権では予選でメンバーから外れましたが、決勝は不調の小坂田淳選手に代わって出場して8位入賞の一員に。ところが、シドニー五輪の雪辱を誓って臨んだアテネ五輪イヤーで、最後にまた悲劇が待っていました。4×400 mRメンバー最後の椅子を、日大の後輩である向井裕紀弘選手と南部記念で争いましたが、ホームストレートで向井選手と接触して転倒。田端選手に余力がなかったと判断され、年齢的にも最後と思われた五輪出場のチャンスを逃してしまいました。そのアテネ五輪では、日本は4位とアトランタ五輪の順位を上回ったのです。
 それらの他にも印象に残るレースはあったはず。技術的に良かったレースとかもあったでしょう。それらの中から数を絞って、思い出のレースを挙げろと言われても、困ったかもしれません。もう少し、時間があるときに聞くべきでした。


◆2006年3月25日(土)
 今日は日帰り出張取材。出張という表現は、古巣のベースボール・マガジン社にならって、100km以上の場所へ行った場合に使おうかな、と今、思いつきました。地方自治体や学校などでは、同じ市内に出かけた場合でも出張と言うケースもあります。電話口で「○○は出張で不在です」と言われて、後日当人に確認すると、ちょっと出かけていただけ、ということもよくあります。まあ、出張をどう定義するかは、その組織の考え方次第というか、自由ですから。
 どこに行ったのかは明かせません。9:30に新宿の作業部屋を出て、21:30には多摩市の自宅に戻りました。飛行機を使えば、取材時間次第では札幌でも沖縄でも日帰りはできます。という言い方をするときにかぎって、意外と近くのことが多いですね。さて、どこでしょう。以下の記述から推測してみてください。

 21日に続いて陸マガの「STEP UP 2006」企画です。12:30にはその大学に到着。最近は、中距離で好選手が出ている大学です。先に監督の話をお聞きしました。世界選手権やアジア大会など多くの日本代表を育てた、日本陸上界を代表する名コーチの1人だと思います。
 13:30からは練習の写真撮影。今日もカメラマンを兼ねての取材でした。絵柄を事前にイメージしていたのですが、21日の取材と同様に、実際にレンズ越しの絵柄を見ると、予想していた絵柄とは若干のズレがありました。協力をお願いした選手には申し訳ないのですが、人数を絞って撮り直し、イメージに近い絵柄を撮ることに成功。選手の表情に今回も助けられた形ですね。
 練習が終わり、選手のインタビューという段になって、どこで話を聞くかで悩みました。近くにファミレスがあるのか監督に質問すると、「ファミレスも喫茶店もない」とのこと。監督の研究室は、人の出入りが多くてインタビューをするには難しそうでした。寺田が悩んでいると(美人)広報の方が「106でどうぞ」と、人の出入りが少ない部屋を用意してくれました。その上、コーヒーまで淹れてくれる大サービス。今日は確認しませんでしたが、1年ほど前はドトールの豆を使っていると話していました。

 インタビューでは今日も、面白い話を聞くことができました。21日の取材では、テーマの数は少なかったのですが、どのネタも深く突っ込んだ話を聞かせてもらえました。今日は対照的に、1つ1つの深みは前回ほどではありませんが、幅広く聞くことができた。選手の年齢的な違い、キャリアの違いから生じた現象ですが、新しいネタも多くて「そうだったんだ」という話の連続でしたね。監督の話と合わせて、面白い記事が構成できそうです。
 さて、寺田の出張先がわかった方は、「オマエの出張先はここだ」のタイトルでメールをください。正解の発表は来月14日あたり。


◆2006年3月26日(日)
 何週間かぶりに、試合取材のない週末でした。何カ月かぶりに、自宅とその近辺で過ごしました。といっても、仕事は相当に切羽詰まっています。今日は130行原稿を2本、書きました。本当は60行と40行原稿も2本ずつ書き終えたかったのですが…。
 明日の取材の予習も少々。取材中に使えそうなジョークを2つほど思いつきました。忙しいときほど、頭が回転することも有馬義裕という200 mの強い選手が昔いました。
 なぜか少し先のスケジュール確認作業もして、ホテルの予約もいくつかしました。4月第4週はロンドン・マラソン取材をあきらめ、出雲陸上&兵庫リレーカーニバルに行くことに。純粋に予算の都合だけ、とも言えなくて、つまり、諸般の事情です。諸般の事情イコール内緒ということですね。出雲には有力選手が多数参加する、という噂も聞きますし、神戸への移動もそれほど大変ではありません。
 5月第3週は東日本実業団と関東インカレが重なりますが、恐らく東日本実業団に行くと思います。きっと今年も、畑山茂雄選手が快投を演じてくれそうな気がするので。でも、場所が宮城スタジアムとは。最も交通の不便な陸上競技場の1つです。シャトルバスが出なかったら、関東インカレに変更するかもしれません。

 昨日の日記で募集した「オマエの出張先はここだ」メールは、まずまずの反響。正解率はしばらく0%で、ちょっと難しかったのかな、と思っていました。競技的な部分の記述は“ひっかけ”ができるところですので注意が必要です。
 しかし、終盤で的中メールが続いて33%の正解率に。「○○大以外、どこがあろう」と、自信の回答を寄せてくださったのはD先生。どうして、そこまで確信を持てるのでしょうか。美人広報の件はまだ、それほど知られていることではないはずですし…。謎や! は朝原宣治選手の口癖です。


◆2006年3月27日(月)
 12:30に幕張の富士通システムラボラトリに。富士通の来客プレートを胸に付けたのは、01年に藤田敦史選手を取材して以来のような気がします。今日は陸マガの旅立ちの春企画の取材でした。同社の新入社員7人を取り上げます。
 一昨日の取材は場所を明かせないのに、どうして今日は取材対象をこうして書けるのか。それは、ライバル誌と合同取材だったから、隠す必要がないのです。試合以外の共同取材はできれば避けたいのですが、取材を受ける側もそうそう時間があるわけではありません。選手全員が顔を揃える機会というのも同じです。
 しかし、写真は同じ絵柄にならないように工夫しますし、インタビュー用に広い部屋を青柳マネが用意してくれたので、各選手の話も別々に聞くことができました。正直に言えばプレッシャーはめちゃくちゃあるのですが、同じ業界誌が2つある以上、これは避けられないこと。びくついてばかりいても仕方のないことです。

 ところで、こういうケースにライバル誌のスタッフはお互いどのように振る舞うのか、皆さん興味があるところではないでしょうか。正確に言うのは難しいのですが、大げさに言えば、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の準決勝のような雰囲気です。寺田が静岡県の出身なのに対し、ライバル誌O村ライターは隣の愛知県ですから、同郷のイチローに自分を見立て、“負けることは許されない”覚悟で臨んでいます。
 取材前に2人はガンを飛ばし合いました。お互いの瞳に炎がメラメラと燃えさかり、大阪ガスの小坂田淳選手もビックリするほどだったと思います。このときばかりはイチローと韓国投手というよりも、花形満と星飛雄馬のようだったかもしれません。

 しかし、今回に限れば、寺田が大リーグボール2号(消える魔球)を投げられたので、ちょっと有利だったでしょうか。これでは、例えが高度すぎてわからない? 星飛雄馬の大リーグボール2号は、高く振り上げた足から落ちる土が、ボールが通過する際に縫い目にからみつくのです(詳しくはこちらに)。そして、ホームベース直前で縦の変化をして地面の土を巻き上げ、二重の土煙が保護色となって打者の目にはボールが識別できなくなるのです。
 余計にわからなくなったでしょうか? つまり、今日の取材の前に寺田は、ネタを仕込むことができていたのです。それも2つ。1つは必然で、もう1つは偶然で。そのおかげで、1人1人のインタビュー時間は短かったのですが、今日も面白い話を聞くことができました。
 でも、大リーグボール2号は、花形に打たれてしまいますね。まあ、結果は次号発売日に明らかになるでしょう。


◆2006年3月30日(木)
 朝の新幹線で福岡入り。原稿を大量に抱えているので、飛行機は使えません。飛行機では、離着陸の前後はもちろん、チェックインや荷物受け取りに要する時間や、羽田まで行く間なども原稿を書くことができません。原稿を書く時間は飛行機の離陸後しばらくしてからで、着陸態勢に入るまで1時間あるかどうか。その点、新幹線なら東京駅から博多駅まで、4時間以上は原稿が書けます。
 博多駅に14時着。ホテルに荷物を置いて、会見場所に向けて出発したのが14:30頃。移動中にいくつかの連絡をしようとしましたが、やっぱり新幹線からの携帯電話連絡は無理があります。ホテルを出たところで電話連絡を数本しました。

 会見場は福岡市役所で西中洲のホテルから歩いて行ける距離。会見は当初、大会本部ホテルのシーホークホテル(福岡で一番大きいホテルだそうです。日本一ではないとのこと)で行われる予定でしたが、直前に福岡市役所に変更されました。
 会見に先立ち、結団式・激励会が、市役所のふれあい広場で行われました。そこにはゲストとして野口みずき選手も参加。明確に覚えているわけではありませんが、イベントに出席している野口選手を見るのは初めてかも。国体や全日本実業団での表彰では、よく見ていますけど。全日本実業団ハーフマラソンで取材していますが、私服姿は久しぶり。髪型は変わっていましたし、メイクした顔も久しぶりのせいか、新鮮な衝撃といったら大げさですが、そんな印象を受けました。

 会見の模様は記事にしました。会見場は市役所の庁議室で。庁議室というのが耳慣れない名前だったので、どういう意味なのか質問しました。庁は、庁舎の庁のようです。市役所の役職がある一定より上の人間が会議に使う部屋、という意味のようです。
 会見後はシーホーク・ホテルに移動。アクレディテーションをしましたが、世界選手権などと比べるとずいぶん、簡略化されていて、身構えるほどでもありませんでした。まあ、海外のように英語で話す必要はありませんから、なんということはないのですけど。
 メディアセンターもホテル内は“サブ”という位置づけ。それほど大きい部屋ではなく、主催者側のメディア対応の人間も同じ部屋にいて、めちゃくちゃに忙しそうにしています。ホント、大変そうです。20時までに会見の記事を仕上げ、バスで天神に移動。自分の泊まるホテルで、抱えている原稿をひたすら書きました。


◆2006年3月31日(金)
 朝の8:35にホテルを出発。今日の行動は秘密ですが、夕方にはシーホークホテルに。

 ホテル1階のミズノのホスピタリティ・ルームに行くと、シューズ担当の河野さん(筑波大OB)がいらして、室伏広治選手の投てきシューズや、小林祐梨子選手のシューズについて、とっても参考になるお話しを聞かせていただきました。
 プロモーション部の鈴木さんはモスクワには行ったことがあるのに、陸上競技の仕事で福岡に来るのは初めてだと言います。高校時代に修学旅行で来たことが一度あるだけだそうです。鈴木さんは群馬の農大二高OB。100 m元日本記録保持者の宮田英明選手の1学年先輩だったか後輩です。高校の頃は鳥羽完司先生にしぼられたと言います。どこの高校も同じでしょうけど。

 その鳥羽先生も今回、日本チームのコーチとして福岡に来ていらっしゃいます。教え子の深津卓也選手が代表入りしているからですが、「鳥羽先生が日本チームの赤いブレーカーを着るのは、1984年以来22年ぶりのこと」(鈴木さん談)だそうです。この記述でピンと来た読者は陸上通。そう、前回はあの不破弘樹選手が、高校3年時にロス五輪に出場したときです。
 これを聞いたときは鳥肌が立ちました。鳥羽先生の頑張りを象徴していますね。以前は不破選手、太田裕久選手、宮田選手と100 mで日本記録を出した選手を3人も育て、近年は高校駅伝など長距離で実績を残しています。長距離の強豪校から、単発的に短距離の好選手が育つことはありますが、両方でここまで多くの選手を育てている指導者は、めったにいないでしょう。浜松商・杉井将彦監督(現浜松市立)がそれに近いでしょうか。もうちょっと昔だと、たくさんいると思いますが。

 陸マガ時代の上司、野口純正氏も大会組織委員会のスタティスティシャンとして来福。陸マガで同じ釜の飯を食べた人間が、お互いに独立し、それぞれの仕事で同じ会場に来る。ちょっと嬉しいことです。
 聞けば、携帯電話を持たされているとのこと。鈴木さんの福岡と同じで、初体験ではないかと思われました。陸マガ関係者とT大学の選手たちの間では有名な話ですが、野口氏は携帯電話を持たない人間なのです。ところが、確認したら「3回目」だと言います。91年の世界選手権と96年のアトランタ五輪のとき以来。そういえば、アトランタに電話をした覚えがありました。
 ところが、昨日は携帯の電源をオンにすることができなかったといいます(何のために持っていたのでしょうか)。長押しする、という携帯電話によくある操作方法を知らなかったのだそうです。


◆2006年4月1日(土)
 8:30に大会本部のシーホークホテルに。世界クロカンとは直接関係がありませんが、とある朝食会に出席させていただきました。具体的な内容についてはいずれ、紹介する機会もあるかと思います(と書いて、実現した確率は何%くらいだろうか)。

 11:05には会場の海の中道海浜公園に。IAAF主催のバリバリの国際大会ですが、役員や補助員の方たちが日本人ですから、海外取材とは雰囲気がまったく違います。国内試合に近い雰囲気ですね。97年か98年にグランプリ・ファイナルが福岡で開催されましたが、そのときも同じように感じました。
 メディアセンターに行くと、確かに外国人記者やカメラマンも1〜3割はいていつもとは違うのですが、陸上競技担当記者はいつもの面々。もちろん九州ですから、九州の陸上競技担当記者や西日本新聞の方たちも。でも、全日本実業団ハーフから3週間しかたっていませんから、“いつもの”に近い感覚です。ミックスドゾーンを下見していると、九州陸上記者の雄、毎日新聞・百留記者と九州陸上ライターの雄のT女史(女性ですから顔出し不可)の姿がありました。

 メディア・センターには福岡大・片峯隆監督の姿も。片峯先生は走高跳の元日本記録保持者ですが、福岡陸協の役員ですから、福岡国際マラソンでも必ずお会いします。あることのお礼を述べた後、先週の土曜日に新宿駅構内を歩いていなかったか、お聞きしました。「オマエの出張先はここだ」クイズを出した大学に取材に行く朝、埼京線に乗ろうと新宿駅を歩いていて、アレ? っと思ったのでした。あの口ひげとぱっちりした目元ですから、やはり目立ちます。
 電車の時間が迫っていたので、追いかけて挨拶をすることができませんでした。聞けば、日本学連の重要な会議があったそうです。プライベートな用事だったら、ここに書くことはないわけですが。
 次にお話ししたのが中日新聞・渡辺デスク…じゃなくて、運動部長になられたそうです。中国新聞は巨漢記者の小笠さんがデスクで、以前デスクと書いた下手記者は正しくは東京支社勤務。そういえば、渡辺部長も以前、東京支社勤務でした。こうしてみると、中国新聞では陸上競技を担当することが出世コースと言えそうです。
 ということで中国地区の陸上選手は、現担当の山本記者と仲良くしておくと将来いいことがあるかもしれませんが、そういった下心をもって人と接すると、ろくなことはないでしょう。などと、他社のことであれこれ書くのはやめましょう。

 開会式が12:30からですから、それまではコースに入ることもできました。これが、スタート地点で、こちらがフィニッシュ地点です。フラッシュ・インタビューZONEには野口純正氏の姿も。パソコン(富士通製品でした)の基本的な使い方の質問を受けました。以前この日記で、ウィンドウズが普及する前に国内で圧倒的なシェア(90%以上だったらしい。未確認)を誇っていたNECの98パソコンの使用時間は日本一(=世界一)ではないかと書きましたが、ウィンドウズ関連の操作は、携帯電話同様(昨日の日記参照)初心者なみです。
 T大学の皆さんも同様の質問を受けていることと思いますが、人それぞれ、得手不得手があるということで。普段の言動はとても普通の人とは思えませんが、こういったところは人間的です。携帯電話の電源を入れられないのは、普通でないかもしれませんが。

 12:30からオープニングセレモニー。公園の真ん中に設備を造ったためでしょう。国旗掲揚ポールが木製だったりして、スタジアムで行ういつものセレモニーとは雰囲気がまったく違います。新鮮で良かったと思います。圧巻はメダリストたちが多数(全員マラソンです)、セレモニーに参加してくれたこと。男子は君原健二さん、谷口浩美沖電気監督、森下広一トヨタ自動車九州監督、そして佐藤信之トヨタ紡織コーチ(写真)。4人の現役当時の所属は君原さんが八幡製鉄で、あとの3人は旭化成でした。やっぱり九州ですね。
 開会式後の短い時間で昼食をとりました。国内試合のほとんどがお弁当ですが、今回はメディアセンターにビュッフェがありました。海外仕様で新鮮でした。スタンドのプレス席には、関係者にはお馴染みのエプソンの情報端末も。リアルタイムでリザルツが検索できます。今回、場内アナウンスで定点通過やフィニッシュ直後に、タイムや団体順位が通告されていましたが(大阪世界選手権事務局の関幸生氏の声でした)、それは、このシステムがあるから可能となること。できれば、全国大会クラスにも導入してほしいのですが、さすがに予算的にかかるものでしょう。その他には、有線LANの完備していたので助かりました。

 13:30にジュニア女子の部がスタート。しましたが、その後のことは時間があったら書きます。時間はあるに決まっています。こちらの問題です。


◆2006年4月7日(金)
 いつの間にか4月も1週間経ってしまいました。この1週間、マジであれでした。
 3月30日に福岡入りして、4月2日までいましたから、今年は毎月九州に来ていることになります。1月が北九州女子駅伝、2月が熊日30km、3・4月が世界クロカン。でも、この後が続かない。5月のゴールデンゲームズin延岡の取材は、今のところ難しそう。6〜8月も取材する試合はありません。
 しかし、9・10月と月をまたいで全日本実業団の取材で大分に行きます。そして最後は12月の福岡国際マラソン。7カ月の九州滞在は過去最多のはずです。意表を突いて11月に九州一周駅伝に行くという手もありますね。熊日30kmほどではありませんが、一度は行ってみたい大会です。
 あとは、九州の選手が日本記録を出せば、行けるかもしれません。可能性があるのは三津谷祐選手(トヨタ自動車九州)とか、石川和義選手(三洋信販)とか、桜井里佳選手(福岡大)あたり。大分出身の成迫健児選手が日本記録を出しても筑波での取材でしょう。つくばエクスプレスに乗れるのは、それはそれで素晴らしいことなのですが。熊本出身の末續慎吾選手が日本記録を出したら、小田急ロマンスカーじゃなくて小田急の急行に乗れますから、それはそれで素晴らしいことです。岡山のSP記者こと朝日新聞・小田記者などは金重デスク(関学大陸上競技OB)から「小田、急いで原稿書け。小田急より速く書け」と、言われているのかどうかは、まったく知りません(わざと低レベルにしています)。

 世界クロカンの2日目から今日まで、ネタはかなりあったのです。3日の月曜日にはカネボウの移転会見がありましたし、4日の火曜日には新しいコピー機が作業部屋に来ました。6日(昨日)にはミズノで内藤真人選手と末續慎吾選手のシーズンイン直前会見がありました。
 しかし、2つの会見以外は作業部屋に籠もりっきり。月曜日には陸マガ次号付録の選手名鑑の原稿の最終提出分を書き上げました。全部で90人。福岡でも夜と朝はずっと、この原稿にかかっていて、持っていった資料が半端じゃなく重かったです。キャリーケース(?)は15sくらいだったと思います。帰りの空港では端数を切り捨ててもらって事なきを得ました。「あと1s重かったら追加料金ですよ」と優しく言われました。博多のエアポートオフィサーは、ドゴール空港よりも人情味がありました。まあ、もしものときは、世界クロカンの資料を手荷物に移し替えようと思っていましたけど。
 月曜日の夜から火曜日の夕方にかけて、60行原稿を4本。3月中に取材を済ませてあった人物ものです。火曜日の夜に陸マガSTEP UP 2006企画を1本。130行を書いて、水曜日には世界クロカンの原稿80行を2本と、もう1本STEP UP 2006企画の130行。水曜日の夜に陸マガ旅立ちの春企画の原稿130行を1本。木曜日も同じく。旅立ちの春企画の原稿130行を1本。
 その間にイギリスの出版社とメールで連絡を取り合って、ATFSの記録年鑑「ATHLETICS 2006」の表紙写真をメールで取り寄せました。菅原勲さんから日本での販売業務を引き継いだのです。

 原稿ラッシュはまだ終わっていません。明日が400行、明後日にも150行の締め切りがあります。こんな日記を書いていていいのか。
 桜はまったく見ていません。桜井里佳選手は福岡で見かけましたけど(?)。開花状況はどうなのでしょうか。桜を気にするくらいなら、1行でも多く原稿を書かないといけない状況です。これがよく言う「花よりゲンコウ」……今年の春は寒いですね。


◆2006年4月8日(土)
 今日は東京六大学が駒澤公園陸上競技場で行われましたが、400行原稿の締め切りもあったりします。さすがに、原稿依頼もないのに取材を優先するわけにはいきません。原稿優先です。
 締め切りの原稿は400行といっても一本原稿ではなく、50行が8本という形。昨晩のうちに2本を書き終わっていて、今日の14時までにもう2本を書きました。ちょうど半分です。かなり迷いましたが、思いきって駒沢に行きました。16:05から4×400 mRだと聞いていたので、金丸祐三選手の大学デビュー・レースだけは見ておこう、という強い気持ちからでした。
 15:40くらいに競技場着。駒澤公園で初めて、桜を見ました。お花見の人たちもいっぱい。世間は春爛漫。

 競技場に着いたのが最終種目の数10分前というタイミングですから、さすがに「報道です」と名乗って受付はできません。プログラムや記者IDの入手はあきらめ、スタンドからラップ計測に専念しました。スタンドには陸マガの駅伝・マラソンの分析記事でお馴染みの出口庸介先生の姿も。聞けば「今年は行ったことのない大会に、できるだけ足を運びたい」とのこと。寺田が熊日30kmに行った動機と共通するものがあります。というか、ほとんど同じです。
 金丸選手のラップは寺田の計測で45秒82、隣で測っていた野口純正氏が45秒87。このくらいは計測誤差の範囲内です。ただ、0.1秒単位にすると45秒8と45秒9に分かれてしまいます。陸マガに載る非公式計時は、そういった性格のものです。完全に正確な計時ではありませんので、その点にはご留意願います。ただ、何度も書いていますが、これまでの経験から、正規の電気計時と±0.05秒の範囲内で計測できるのは確かです。

 4×400 mR終了後、金丸選手のコメントを聞きに行きました。専門2誌だけでなく共同通信、朝日新聞、読売新聞、テレビ2社(1つはTBS池田クルー。もう1社は不明)が取材に来ています。東京六大学では異例の多さ。はっきりした記憶はありませんが、渡辺康幸選手の頃も、ここまで多くはなかったのでは? 土江寛裕選手が日本のトップに成長したのは大学4年の関東インカレからですから、ここまで多くはなかったでしょう。
 瀬古利彦監督が選手だった頃がどうだったのか、そこまではわかりません。推測ですけど、今日より多かったのではないでしょうか。それほど、当時の瀬古人気はすさまじかった。ボストン・マラソンに出場するだけで専門誌が増刊号を出したのですから(専門誌も商業誌です)。ボストンの格も当時は、今とは違って高かったんですね。

 金丸選手の取材が一段落すると閉会式。その時間を利用して、東京高の大村・小林両先生に朝日新聞・堀川記者と一緒に挨拶に行きました。実は昨日も、森千夏選手のこと(東京高陸上部参照)で小林先生に電話を入れていました。そのときに、昨日の朝日新聞朝刊で、森選手の記事が掲載されたことを知りました。さっそく購入すると、三段抜きのかなり大きな記事。全国紙の運動面でここまでのスペースをとるのがどれほど大変なことか、寺田も業界人ですから理解できます。当事者というわけではありませんが、陸上競技に関係する人間として嬉しく思いました。
 両先生に話を聞くと、治療についての情報も含め、かなりの反響があったそうです。やはりこういうことは、大新聞やテレビの力を借りるのが有効です。TBSも協力する方向で動いていると聞いています。陸上界内部の方も、できる限りの支援をお願いします。

 閉会式後には取材を再開。他社の記者たちは再度金丸選手に行きましたが、寺田は近くに相川誠也選手を見つけ、今季に懸ける思いを取材しました。実は昨晩書いた記事のなかに、相川選手に関する記述があったのです。今日聞いたコメントを、後で付け加えました。これは陸マガ次号です。その記事中で相川選手、高平慎士選手(順大)、佐分慎弥選手(日体大)、金丸選手の100 mのベスト記録を記載していますが、相川選手は全員の自己ベストを性格に記憶していました。自分だけ、高校時代の記録が残っていることも(金丸選手も高校の時の記録ですが)。それだけ、今季に懸ける思いが強い…と断定はできませんが、たぶんそうだと思います。単に、伊東浩司選手並みに専門誌を精読しているだけかも。
 スタンドでもある程度の情報を得ていましたが、閉会式前くらいに全種目の記録も確認することができました。ビックリしたのは800 mで下平芳弘選手が、新人の横田真人選手に敗れたこと。下平選手の調子がどうだったのかわかりませんが、横田選手がメチャクチャ強いということでしょう。昨年は、初めて1分50秒を切って波に乗ったのが、今大会でした。その後は日本選手間で全勝。しかし今季は、横浜インドアで別の組ながら横田選手が善戦していました。
 ということを寺田の頭の中で整理ができたのが、数時間後。相川選手のあとに、下平選手の話も聞きました。取材の準備が不十分で、イマイチ焦点の絞れない質問の仕方に。反省材料です。でも、下平選手についてはもっと、聞きたいことがあります。ここを突っ込みたい、という点が。具体的には企業秘密ですけど。

 今日は東京六大学の他にも金栗杯熊本中・長距離選抜が行われています。これは熊本陸協のサイトで結果が確認できるので安心できますが(小林祐梨子選手が5000mで高校歴代3位)、中京大土曜記録会に出る室伏由佳選手の結果は、サイト経由の入手は難しそう。駒澤大学駅まで歩く間に、ミズノ長谷川純子マネに電話を入れました。共同通信・宮田記者が一緒だったので、好記録が出ていたら全国に配信してもらえます。寺田なりに、そういったことも考えています。


◆2006年4月9日(日)
 8時前には起床。すぐに出発すれば日体大・中大対抗戦に間に合いましたが、今日も原稿優先です。
 昨日は50行×8本原稿のうち、4本を残して東京六大学に行ってしまいました。往復の移動時間を含めても、3時間半の取材のはずでしたから…。新宿の作業部屋に戻って21:30までに2本を書き上げ、6本分をメールで提出。食事をしたら体力的にきつくなり、先に1時間半ほど休息。夜中の0時くらいから最後の2本を書きました。たぶん3時半くらいに終わったと思うのですが、集中力が維持できなかったので、推敲作業は朝にすることに。しっかり4時間は睡眠をとって8時前には起き、9時半頃には原稿の見直しも終えて送信しました。
 一安心です。支度をして、さあ日体大に行くぞというときに、ある関係者から電話が入りました。ミズノの信岡沙希重選手がアメリカで23秒36と11秒47で走ったと言います。MTCサイトを見ると結果だけでなく、コメントまで掲載されています。今季の信岡選手はかなり良さそうです。22秒台、行くんじゃないでしょうか。さっそく寺田のWEB上でも紹介させてもらった次第です。

 日体大に着いたのは12時頃。ミズノ・中村総監督はこちらの顔を見るなり「信岡がいい記録で走りましたよ」と言ってきます。続いてプログラムを貰おうと本部席に行くと、元伊奈学園高の田中先生がいらっしゃいました。日体大OBで信岡選手の高校時代の恩師です。ミズノのプロモーション部に配属されたばかりの田川茂氏をはじめ、ミズノの営業の方たちも4人来ていましたし、当たり前ですが日体大・水野増彦監督もいらっしゃいました。
 取材に来ているのは専門2誌と寺田だけ。実は開始時間だけ陸マガ経由で聞いていて、詳しいタイムテーブルは入手していませんでした。すでに男女の100 mは終わっていて、佐分慎弥選手を見逃したか、とちょっとだけ後悔しましたが、同選手はエントリーしていませんでした。
 試合結果は、日体大・中大にしてはちょっと物足りないもの。大物選手が少なくなりました。5000mの長距離勢だけでは寂しいですね。トラック&フィールドの選手が頑張らないと。長距離もトラック&フィールドですけど。日体大の畑山茂雄選手や藤巻理奈選手、中大の室永豊文選手や小栗忠選手など、OBたちも来ていましたが不参加。110 mHの全カレ・チャンピオン、隈元康太選手だけがオープンで出場し、14秒09で2番手以下を圧倒していました。

 しかし、畑山選手は円盤投終了後に即席のクリニックを、中大の選手に行なっていました。円盤投全体のレベルアップが急務と考え、積極的に自身の経験や技術を若手選手に伝えようとしています。さらに60mへの手応えというか、新たに気づいた動きについて、面白い話を聞くことができました。30歳が近づき(来年の3月で30歳)、記録も60mに届こうとする段階でなお、新たな発見がある。円盤投も奥深いです。何かを極めようとしていくと、なんでもそうなのでしょうけど。
 隈元選手にも話を聞きました。昨年は記録的には13秒8台でしたが、今季は一気に記録を伸ばす手応えがあるようです。原稿を書き直さないといけないかも(何の原稿?)。
 中大長距離の田幸寛史監督には趣味のことから聞き始めたのに、話は800 mに出場した上野裕一郎選手のことに。今季のビジョンを聞くことができました。ちょっと新鮮な話でしたし、こちらが間違って解釈していた部分があったことももわかって、有意義な話でした。

 ところで、日体大といえば“えっさっさ”。新入生たちは1週間の新人研修期間のようなものがあって、そこで“えっさっさ”を身体に覚え込まされます。両脚を前後に大きく開いてグッと腰を落としますから、普段は使わない筋肉に負担がかかります。それで、筋肉痛になる新入生も多いのだそうです。通称“えっさっさ筋(肉痛)”。それで、森賢大選手は14分30秒かかってしまった、のかもしれません。
 もう一度ところで、森賢大選手は鹿児島出身。鹿児島といえば桜島ですが、日体大の校章も桜(ですよね。万が一違っていたらメールを)。グラウンドの周囲には桜が咲き誇っていました。
 以前にも書いたかもしれませんが、寺田はお花見をしたことがありません。専門誌はこの時期、めちゃくちゃに忙しいので花見どころではないのです。もう20年近く、そういった生活をしているわけです。今日も、締め切りを抱えています。陸上競技専門誌関係者で花見をしたこととがあると言っている人間がいたら、モグリです。中大男子一般種目の監督は、小栗忠氏です。


◆2006年4月10日(月)
 カネボウの移転会見から1週間が経ちました。先週はバタバタしていて日記を書けなかったので、1週間遅れですが紹介したいと思います。
 カネボウというとバリバリに“西”というイメージです。防府を離れることが確定的となった頃から、移転先は関東だと言われてきました。やがて東京と判明しましたが、その段階でもまだ、あのカネボウが東京で活動することはイメージできませんでした。これは鎌田俊明・伊藤国光両選手の現役時代を小さい頃に見て、最近は早田俊幸・高岡寿成両選手を取材させてもらった立場だから思うことなのかもしれません。一般の陸上競技ファンの立場で見たら、“世界で活躍するカネボウ”ですから、拠点が山口県にあろうが東京にあろうが、イメージは同じかもしれません。

 しかし、選手たちにとっては、やはり東京に移るのは大きな出来事です。高岡寿成選手は「薩摩(鹿児島)出身の入船敏兄弟もいます。江戸無血開城をやった維新のときの長州(山口県)の心境ですよ」と、会見後に話していました。東京でも絶対に結果を残すんだ、という決意の表れです。次のようにも話してくれました。
「東京行きは“京つながり”の一環です。僕が京都の出身で、山口県は西京と言われている土地で、今回、東京に来ました。そして、最大の目標としているのが北京です。南京が入ってこないのですが、北京を走った後に南京に旅行に行こうかな、と考えています」
 なかなか綺麗につなげましたし、高岡選手の覚悟のほどもわかります。が、南京旅行というのはいかにも、とってつけた感じがします。「東京は物騒だから南京錠をつけた」というオチの方がいいよ、とアドバイスしました。


ここが最新です
◆2006年4月11日(火)
 カネボウ移転会見のエピソードの続きです。
 “西”のイメージの強かったカネボウですが、こうして会見が東京(虎ノ門の一流ホテル)で大々的に行われると、本当に来たのだな、と思えます。しかも、今回からは同じカネボウでも、カネボウ化粧品の勤務。しっかり、オフィスにも出勤します。
 資生堂の女子選手には伝統的に、化粧品会社の選手というイメージがあります。松田千枝選手から谷川真理選手、そして今の選手たちと。しかしカネボウの男子選手にそのイメージが定着するのは、ちょっと先でしょうか。

 先週の会見はいつもの陸上競技担当記者たちが半数以上でしたが、そうでない記者の方も多かった。それだけ、社会的にも注目されているということです。純粋に競技的でない質問も多かったですね。
Q.好きな練習は何ですか?
高岡 TTです。TTとは、タイムトライアルのことです。
Q.好きな言葉は?
高岡 TTです。“ターゲットはタイムなり”のことです。
Q.毎朝のメイクに要する時間は?
高岡 メイクはしていませんが、朝練習のスピードは時速20kmです。AS20が自慢です。

 という質疑応答があったわけではありません。

 実際には、会見後の囲み取材の時に「東京に来た今の心境を何かに例えると?」と、聞かれた高岡寿成選手は次のように答えました。
「例えるのは難しいですけど、『山口の桜も綺麗でしたが、東京の桜も綺麗だった』と言えるようにしたいですね」
 化粧品メーカーの選手らしく、本当に綺麗にまとめました。



昔の日記
2006年 1月 2月 
2005年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10・11月 12月
2004年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2003年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

2002年 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 
2001年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月