続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2008年12月  12月の朝日

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◆2008年12月6日(土)
 朝の8時にファミレスを出てスタバに向かった。
 5日前に喧嘩を売ろうとして失敗したファミレスである。
 G社の新書原稿は水曜日が締め切りだったのだが…。
 それでも、早朝のファミレスで第3章を書き上げていた。
 残りは第4章だけだ。約20ページである。
 スタバで5ページを書いたところで10時が近づいてきたので、作業部屋に戻って完成している3章を送信した。
 寺田のテンションは異常に高い。もう数時間は体も持ちそうだ。
「高平慎士からバトンを受け取った感じです」
 原稿を送信したメールに、この一文を添えた。
 第4コーナーを回って、最後の直線に入ったという意味である。
 言外にいくつかの意味を込めているが、ここで書くことでもないだろう。

 猛烈に後悔した。
 先が見えた安心感からか、眠気が襲ってきたのである。残り3〜4ページというところまできて、筆が完全に止まった。
 最終の博多行き新幹線に乗るには18時には作業部屋を出発しないといけない。2時間くらいは眠っておきたかった。
 しかし、眠気と原稿の板挟みになってどちらも進まない。眠気が進むというのも変だが、この際気にしないでいただきたい。
 なんとか書き上げた。だが、推敲するとめちゃくちゃ粗い文章である。
 だが、直そうとしても頭が回らない。
 これは少し眠らないとダメだと判断して、ソファに行った。
 たぶん30分くらいうつらうつらしたところで、携帯が鳴った。
 神戸新聞・藤村記者からだ。中村友梨香選手が5000mの記録会に出た話だった。
 正直、助かった。あの電話がなかったら、そのまま眠り込んでしまった可能性もある。
 15:45。根性で書き上げた。16:25である。

 福岡国際マラソンの取材準備は最低限のことは終わっていたが、朝日新聞の展望記事(人物もの)を5人分、プリントアウトした。本当はもう少し資料を準備したかったが、18時が迫ってくる。
 メールの返信もしないといけない。
 ここはもう、予習に固執するときではない。2泊分の衣類と福岡国際マラソン取材資料と、いくつかの原稿執筆用資料を3つのバッグに詰め込んだ。

 ということで、この日記を新幹線車内で書いている。博多行きの最終のぞみである。
 昨日までと違って、なんと晴れやかな気分だろう。○○○○○から解放された気分だった。首の左後ろの張りもコロッとなくなっている。
 しかし、油断はできない。
 G社新書の前書き4ページがまだ残っているのだった。これは昨晩になって言われたから仕方がないだろう。
 明日が締め切りの実業団女子駅伝展望記事もある。これがけっこうな量なのだ。
 そして、福岡国際マラソンも月曜日夕方の締め切りである。
 なんだかんだで、抱えているではないか。
 誰がこんなスケジュールにしたのだろう?


◆2008年12月7日(日)
 昨日は実業団女子駅伝の展望記事を頑張った。
 新幹線の車中で50行、40、20行を1本ずつ書くことができた。
 ホテルに着いたのが深夜の12:40。さすがに原稿は書かず、このサイトのメンテナンスをして就寝。
 今朝は8時に朝食。共同通信・T村記者がいたので相席をさせてもらい、東洋大のことなどを話した。

 辞任した川嶋伸次監督は1993年の福岡国際マラソンで日本人1位(2時間10分41秒)と好走して、予定していた引退を撤回。確か、ある大学の指導者になることに決定していた。もしも福岡の走りがなかったら、今回の件には巻き込まれていなかったわけである。
 人の人生はどう転んでいくかわからない。
 だが、今回のようなアクシデント性の強いことで人生が左右されてはたまらない。シドニー五輪出場や東洋大監督としての実績など、引退撤回以後の川嶋監督の長いスパンでの頑張りが生かされない陸上界には、なってほしくないものである。
 ただ、今回の件には、腑に落ちないことがいくつかある。愉快な話題ではないので、はっきりとした事実がわかるまでは書かないでおこう。

 朝食後に実業団女子駅伝展望原稿を書き始め、11時までの間に30行1本と13行を2本。先が見える状態までもっていってから平和台陸上競技場に移動した。
 11:45にプレスルームに到着。
 スタートぎりぎりの時間だったにもかかわらず、空席が多くてまずまずの位置を確保できた。東京国際女子マラソンとはえらい違いである。五輪選考会だった昨年と比較しても違う。
 毎日新聞C氏には、トヨタ自動車九州の実業団駅伝欠場について聞いた。
 企業の陸上部が駅伝にでないというのは、にわかには信じられない話である。何か表面に出ていない事情があるのではないかと思ったが、既報通り、故障者が多くて出られなくなったというのが唯一無二の理由だそうである。
 昨今のわけのわからない不況によって、陸上競技部を持つ企業も経営が厳しいところが何社もある。すでにファイテン陸上競技部がなくなった(土井宏昭選手はどうするのだろうか)。
 自動車業界に多数の選手雇用を依存している陸上界としては気になる部分である。
 気になるが、即効薬的な方法などないのが現実だ。

 福岡国際マラソンの結果はみなさんご覧の通り。
 優勝したケベデ選手(エチオピア)の30〜35kmの14分17秒には本当にビックリさせられた。
 2時間06分10秒のVタイムは日本国内最高記録(all comers record)でもある。
 感心するのは福岡主催者の外国人選手招聘のスタンスだ。いくら日本選手が勝てなくても、外国選手のレベルを落とそうとしない。今回のケベデも直前の五輪銅メダル選手だが、今回の福岡をきっかけに、世界のトップに駆け上がっていく可能性を感じさせる選手だ。
 かつて福岡は、無名のアベラ選手(エチオピア)をデビューさせ、五輪&世界選手権金メダリストとなるステップとなったこともあった。昨年のワンジル選手(ケニア)も同様である。日本留学選手ということでちょっと特殊な例かもしれないが。
 外国選手のレベルではなく、大会のレベルを落とさないという強い意思が感じられる大会である。

 取材は共同会見でケベデ選手、入船敏選手(カネボウ)を取材。
 ケベデ選手には26kmでペースメーカーと何を話したのかを質問した。ペースアップを促していたように見えたからだが、本人は「何も話していない。給水のことぐらい」だと言う。
 それに対して「そんなことはない」と会見後に断言したのが読売新聞・近藤記者。予定されていたペースを乱したことに対し、ケベデ選手なりに配慮したのだろう。寺田も同意見だった。

 入船選手は伊藤国光監督以来のカネボウ選手の福岡日本人トップを占めた。早田俊幸選手が2時間8分台を出したときはアラコ(現トヨタ紡織)だったし、高岡寿成選手が福岡では力を発揮できなかったからだ。
 会見終了後には伊藤監督にお願いして、入船選手とのツーショット写真を撮らせてもらった。何人の報道陣がこの写真の意味を理解しただろうか。
 続いてドーピング検査室の外に移動。そこで、ドーピング検査を終えた選手をつかまえることができるようになっている(雨が降ったらかなりまずくなるのだが)。
 選手がなかなか出てこないので(尿が出ない)、その間に中国電力・坂口泰監督とJR東日本の岩瀬監督を取材。1時間以上たっても選手が出てこないので、藤原選手に出て来られないか、朝日新聞事業部を通じてお願いしたところ対応してもらえた。頭の硬いところだと「ダメ」の一点張りなのだ。

 しかし、日本選手3番手の佐藤智之選手以下の取材がまったくできていなかった。
 平和台競技場の欠点は、選手がつかまえにくいことである。記者の数が多くて手分けをできる社はいいのだが、1人しか記者を派遣できないメディアにとってはやっかいこの上ない(今回の寺田は1人で陸マガの仕事を請け負っていた)。
 これは主催者が悪いのでなく、平和台競技場が狭いからである。同じ中規模競技場でも、びわ湖マラソン開催の皇子山よりも一回り小さく、スタンド下に報道陣を入れることができないのだ。
 その代わり、大会ホテルの西鉄グランドホテルのレイアウトが取材には最適で、いつもここで何人もの選手、指導者を取材している(競技場からの距離も近い。ただし、締め切りのある新聞記者は平和台取材しかできないので気の毒だ)。
 今日もフェアウェルパーティーの前に佐藤智之選手と油谷繁選手を取材することができた。油谷選手などかなりショックは大きかったと思われるが、しっかりと対応してくれた。これで陸マガの記事は書けそうだ。
 しかし、もう1つやりたい取材が…。

 パーティー中は中で食事などもできるのだが、外で色々としていた。
 入船選手が日本人トップということで、高岡寿成選手にも思わず電話をしてしまった。取材をするつもりは決してなかったのだが、そんな話にもなった(若い選手には監督の許可なしではできないが、30歳以上なら…)。
 福岡初出場の入船選手がレース後、高岡選手に何かアドバイスを受けていないかという質問を記者から受けていた。
「競技場に入る坂がきついと言われていましたが、大したことはなかった」
 と入船選手。
 平和台競技場に入るところの坂で、距離は100mあるかどうかという坂。傾斜もそれほどではない。しかし、41km以上走ってきたところにあるので、相当にきついのだと高岡選手が話していたのを寺田も聞いたことがあった。
 入船選手が話していたことを高岡選手に伝えた。
「それはですね、僕が相当にきつそうに入船に言っていたから、その覚悟ができていたんです」
 自分の功績だということを、さりげなくアピールしているのである。
「僕だって、みんながきついきついいと言っていた東京の最後の坂を、楽に上がれましたからね」
 確かに、2005年の東京で高岡選手は坂をいとも簡単に上って2時間7分台を記録していた。
 こう書くと高岡選手というのはちょっとやな奴ではないかという印象を持ってしまうかもしれない。実際はそうではないことを書こうと思うのだが、長くなったので次の機会に譲ることにする。
 陸マガ1月号のPEOPLE(巻頭カラー)は、入船選手と高岡選手の関係を書いているので、それを読んでいただければ少しはわかるだろう。


◆2008年12月8日(月)
 昨晩は某スポーツ紙の全日本実業団対抗女子駅伝展望記事の13行5本(2本は書き直し)までは書きたかったが、23時半頃にダウン。一気に眠気が来た。幸い、朝の3時半に起きることができて続きを書き、これは4:26に送信。この仕事は終了。
 続いて、昨日の福岡国際マラソン記事に取りかかり、ケベデ選手と、佐藤智之選手と藤原新選手(2人セット)の2本を書き上げた。
 7:20にホテルを出て福岡市内某所に。8:00から入船敏選手の取材である。
 まず質問したのは好みの焼酎の銘柄。鹿児島県人には必ず、こだわりの銘柄があると聞いていたからだ。
「焼酎はいただくことも多いのですが、好きなのはビールです」
 確かに、練習後に焼酎のグラスを入船選手が飲み干すシーンは想像しにくい。これは、入船選手に限ったことではないが…。それに対しビールは、瀬古利彦選手の時代から(あるいはそれ以前から)長距離選手に愛飲されてきた。
 要するに、長距離選手と焼酎は合わないのである。個人的には最近、某ファミレスの焼酎withドリンクバーが気に入っているのであるが。

 そういえば福岡では何人もの方から、「喧嘩しないでくださいよ」と言われた。11月30日の日記のファミレスでの顛末を読んでくれていたのだ。
 寺田も好きで喧嘩を吹っかけたわけではない。
 いや、あのときだけは好きで吹っかけたのだが、それ以外に選択肢がなかったのも事実である。
 あのまま女性に尊大な態度で話している馬鹿男を放置していたら、間違いなく原稿は書けなかった。かといって、日記に書いたようにメモリーオーディオプレイヤーは電池が切れかけていたし、別のファミレスに行くのも20分は時間をロスする。別の席に移るという手もあったが、喫煙席が近くなったらそれはそれで気になって原稿は進まない。
 馬鹿男を排除するか、喧嘩で自分がケガをするしか、原稿過剰抱え込み状態を脱する方法はなかったと断言していい。

 話を入船選手戻そう。
 取材のテーマは高岡寿成選手の意識の仕方の変遷。入船選手の場合はそれが、練習のこなし方の変化でもあったわけである。陸マガ1月号のPEOPLEに掲載。
 今日も面白い話を聞くことができた。やはり、現場の取材が良い。深夜のファミレスよりは、絶対に良い。

 入船選手の取材が終わって西鉄グランドホテルに行くと、いいタイミングで松宮祐行選手が姿を見せてくれた。双子の兄の松宮隆行選手でなく、ひと目で祐行選手だとわかった。外見ではなく、シチュエーション的にそう判断しただけだが。
 昨日は話を聞くことができなかったので、1つだけ確認させてもらった。
 日本選手が松宮選手、入船選手、佐藤選手の3人に絞られたとき、一番余裕がありそうに見えたのが松宮選手だった。入船選手もそう感じていたという。
 ところが、31.6kmの折り返しを過ぎると、松宮選手の脚勢が鈍った。その理由を確認しておきたかった。これは陸マガの記事に入れ込んだ。
 酒井勝充監督には、ニューイヤー駅伝に向けた話を5分ほどで。このときの話は某スポーツ紙の展望記事に反映できると思う。
 外国勢も続々と出発。
 残念ながら16位に終わったロシアのソコロフ選手(自己ベスト2時間09分07秒)だが、奥さんのナタリア・ソコロワ選手は福岡と同じ日に行われたカリフォルニア・マラソン(サクラメント)で優勝(2時間32分01秒)と、通訳の田中さんに教えてもらった。もしもソコロフ選手が福岡で勝っていたら、夫婦同日Vという快挙だった。

 なんだかんだで、上位選手は全員話を聞くことができた。
 大会本部ホテルのロビーで陸マガのレース展開記事80行を一気に書き上げた。
 この手の記事は、文章中に取り上げる選手が多くなるとまとまりがなくなってしまう。昨年の世界選手権のときに強くそう感じた。
 今回も迷ったが、とりあえずは取材した選手は全員入れ込んだ。
 自分のホテルに戻って朝食を食べようと思ったが、朝食時間は7〜10時。ホテルに着くのは10時を少し回りそうだったので、途中のスタバで朝食。道の向かいのビルの2階にもスタバがある。どちらも他業種店舗とのコラボ形式店だった。天神界隈ではあと2軒くらいは記憶がある。福岡市のスタバ店数はかなり多いのではないか。
 それがなんだ、と突っ込まれたら「スタバやタリーズの数が、その街の経済力や景気の指標になる」と答えている。もちろん出まかせだが、あながち外れていないのではないだろうか。

 スタバではPEOPLE原稿も45分くらいで書き上げた。今日はなんだかスゴイぞ、と自画自賛していた。それもこれも、福岡だからできたのではないかと思っている。
 福岡国際マラソンは寺田にとって原点である。何度か書いているように、1978年の同マラソン(瀬古選手が優勝。喜多秀喜選手、宗茂選手と日本勢が3位までを独占)を報じた陸マガを買ったのが、専門誌を読むようになったきっかけだった。
 それが、筆が進む理由になるのか本当のところはわからないが、世の中にはもっと適当な根拠で物を言っている輩がたくさんいる。この程度の決めつけは、かわいいものだろう。

 ホテルに戻って早朝に書いた2本(ケベデ選手と藤原&佐藤選手)の記事を推敲して送信。
 ホテルは14時まで延長してある。1時間半ほど仮眠をとってホテルを出発した。
 出がけにメールをチェックすると、高野編集者から「油谷選手も書いてほしい」という追加のリクエストが来ていた。普段なら「先にいえよ」と文句の1つもいうのだが、今日は気持ちが乗っていた。それに、昨日自分から「アブちゃんも取材できたよ」と電話で話していたのだ。単なる馬鹿である。
 飛行機機内ではまたも睡魔に襲われ、PEOPLEを推敲するのが精一杯。離着陸時にはPCが使用できないので時間もわずかしかとれない。
 17時頃に羽田着。
 空港のロビーでレース展開記事を推敲し、油谷選手を20行書いて送信した。
 レース展開記事は正直、登場選手の数が多いような気がする。今回は時間優先なのであきらめるしかないが、レース展開について話してくれた選手はコメントだけ別枠にした方がいいかもしれない。

 空港で陸マガに原稿を送信すると、室伏由佳選手が入籍したというリリースがミズノから届いていた。
 同選手とは猫の話はよくするが、人間のそういう相手がいるとは一度も話してくれたことがなかった。
 と考えていたら、重大なことに思い当たった。
「あの猫たちはどうなるのだろう」
 由佳選手のブログに頻繁に登場する黒猫と白猫のことだ。
 室伏広治選手が世話をするのだろうか。室伏重信先生がヒザの上に乗せて遊んであげるのだろうか。
 私的なことなのであれこれ詮索はしないが、気になって仕方がない。
 中日スポーツ寺西記者はその辺まで取材しているかもしれない。


◆2008年12月13日(土)
 全日本実業団対抗女子駅伝前日の取材で12:30には長良川国際会議場に。
 この大会の前日取材はやりやすいことで有名だ。13時開始の監督会議に来る監督たちに、会場の外でちょっとだけ話を聞くことができる。今日であれば十八銀行・高木監督と、三井住友海上の渡辺新監督。会議の始まる直前には、ユニクロの高倉監督にもパパッと挨拶をした。
 監督会議終了後、14時までの開会式の間にも何人か話を聞ける。そこでOKIの新原新監督、第一生命・山下佐知子監督のコメントを聞いた。
 開会式直前にはワコール・永山監督とホクレン・森田監督&赤羽コーチを取材。
 M社のK氏は相変わらず「ピヨピヨ」と言って両手を肩の高さで広げている。
 開会式後には九電工・岡田監督に話を聞かせてもらった。

 今日の寺田の動きは有力チームの監督はもちろんのこと、“新監督”にも話を聞くように意識した。
 なかでも注目は、OKI・新原監督と九電工・岡田監督。2人とも女子の実業団で監督生活をスタートさせ、その後、男子チームを経験し、今年からまた実業団女子チームの監督に復帰した。
 新原監督は三田工業でスタートし、実業団男子のYKKを昨年まで率いていた。岡田監督はニコニコドーで指導者生活をスタートさせ、昨年までは亜大を率いていた。新原監督は1986年に全日本実業団対抗女子駅伝を、岡田監督は2年前に箱根駅伝を制した“優勝監督”である。
 もちろん、2人とも九州男児という共通点もある(新原監督は鹿児島、岡田監督は熊本の出身)。

 新原監督は13年ぶりの美濃路復帰。
「特別な感慨というのはないのですが、懐かしさはすごく感じます。コースも変わってはいませんが、建物とか多くなっていますね。3区とか田圃しかなかったのに、ずいぶん変わっています」
 岡田監督はちょうど10年ぶりだという。
「周りの景色が変わりましたね」と新原監督と異口同音に言う。
「ビルが増えましたし、街も発展したように見えます。駅伝が街に定着してきましたね。でも、それほど久しぶりという感覚はないのです」
 練習方法の違いに関して話を聞かせていただいたが、その辺は陸マガに書くかもしれないので、ここでは控えておこう。
 岡田監督によると、今大会の監督で当時すでに監督をしていたのは、北國銀行・徳田監督くらい。武冨監督やスターツ・山口監督はコーチだったという。監督ではないが、佐倉アスリート倶楽部の小出義雄代表とは旧知の仲。すでに徳之島で旧交を温めていたという。

 開会式終了後はバスで岐阜駅に移動して、カフェで原稿書き。たまたま、日刊スポーツ・佐々木記者も同じカフェにいたので隣のテーブルに着かせてもらった。
 佐々木記者が「今日は何の日か知っていますか。陸上界にとって特別な日ですよ」と問いかけてくる。少し考えて、「10秒00から10周年では」と答える。これは前日の電話でのやりとりにヒントがあり、当てるのは難しいことではなかった。
 今日の紙面に伊東浩司氏のインタビューが載ったようだ(10年破れぬ100m10秒の壁に伊東氏ゲキ)。
 マラソンや駅伝に神経が行きがちのこの季節、トラック&フィールドの話題を載せるとは、なかなかできることではない気がする。それも、10年前の記録が破られていないことへの警鐘を鳴らす内容である。素直に同記者の頑張りを認めていいだろう。

 それならと、こちらからもクイズを出す。
「渋井選手が10年連続3区だけど、その前の三井住友海上の3区は誰か知ってる?」
「秦(由華)さんでしょう」
 秦選手はハーフマラソンの元ジュニア日本記録保持者。渋井選手と同期入社である。
 普通の状況ではわかるはずのない設問だが、数年前に伏線があった。どういう伏線かは具体的には書けないが、まあ、ご想像の通りである。

 ホテルに移動して渋井選手の記事をアップしたところでダウン。寝不足が原因というか、このところ分割睡眠をとっているのである。4時間も眠ってしまって、23時に起きて残りの原稿をアップ。
 つづいて、某団体のホームページ用の原稿を150行と、全日本実業団対抗女子駅伝のレース展望記事も書き上げた。
 朝の5:30に再度就寝。


◆2008年12月14日(日)
 8:30に起床。10時にホテルを出て長良川競技場に。
 例年はスタート前取材で指導者たちに話を聞くのだが、今日は原稿を優先した。11月から書籍2冊にほとんどの時間を充てざるを得なかったため、後回しにした仕事がここに来て立て込んできた。
 そういうときに頼りになるのが中日スポーツ・寺西記者である。寺田が知りたかった例の件(わかりますよね)について取材をしてくれていた。ここで書くことはできないのだが、寺田のやることがずいぶんと減った。
 それとは別に、待ってました、という質問も。
「どうして日記の文体を変えたのですか?」
「仕事のやりすぎで、気持ちがすさんできたからだよ」
 内容的にもファミレスで喧嘩を売るとか、社会情勢を反映した暗い話題も今後多くなると判断してのことだ。と、また適当に書いてしまった。次までにもう少ししっかりした理由を考えておこう。

 肝心の駅伝だが、豊田自動織機が逆転で初優勝。レース後の小出代表は早くも○○していた。
 共同会見ではMCの方の仕切りで小出代表、平林裕視監督、5区の脇田茜選手を除く選手に一通り感想を話してもらった後、毎日新聞・村社記者が代表質問。
 先ほど、気持ちがすさんでいると書いたが、名古屋地区の寺西記者や村社記者の顔を見ると、気持ちがなぜか和んでくる。理由はよくわからない。
 MCの方が「毎日新聞・村社記者お願いします」と言った後に、寺田が「村社講平さんゆかりの記者です」と補足しようと思ったのだが、おせっかいはやめることにした。もう少し人数の少ない取材機会ならともかく、今日のような共同会見ではとにかく、関係者のコメントを急いで引き出すことが最優先。ユーモアが受け容れられる雰囲気ではなかった。

 しかし、場の空気でユーモアがOKということもある。
 1区の新谷仁美選手が「2区のテルマ…じゃなくて青山にタスキを渡すことができました」とコメントした。豊田自動織機の2区は青山瑠衣選手。新谷選手は普段から青山テルマにひっかけて、テルマと呼んでいるようだ。公衆の前でわざと間違えたのか、本当に間違えたのかは不明であるが、ここで大事なのは次に話す青山選手のリアクションである。「青山テルマです」と言えば、間違いなく受ける。
「2区を走りました青山…」
 会見の席の最前列に陣取った某専門誌のO井カメラマンが「テルマです」と小声でささやく。ちょっとした間…。
「…瑠衣です。去年先輩たちが」と続けた。
 個人的には「テルマです」と言ってほしかったが、高卒1年目の選手にそこまで求めるのはちょっと無理だった。後から考えると言わない方がよかったかもしれない。その理由は、書くと真面目な話しになってしまうので控えることにする。
 それにしても、今回の豊田自動織機は高卒1年目の選手を青山選手、6区の永田選手と2人を起用したが、2人揃って度胸があるタイプの選手だと思った。

 共同会見後は、戻ってくるのが会見に間に合わなかった脇田茜選手を、応援団への挨拶後にスタンドでカコミ取材。その最後の方で「来年はマラソンをやりたい」と同選手がコメントしたが、「どこの大会を予定していますか」と誰も突っ込まない。仕方がないので「来年の3月までの大会でですか?」と寺田が確認。大阪に出場予定であることが判明した。
 あとで聞けば、神戸ハーフマラソンのときにすでに表明していたようだ。有力選手の動向を必ず抑えている新聞記者と、雑誌中心の記者の違いである。
 しかし、この大会で面白いのは、レースの記事を書くための取材と並行して、今後の予定を確認する取材も行われていること。特に、大阪・名古屋のマラソンに出場するかもしれない選手は、そこを取材しておくのが記者たちの間で慣例になっている。
 産経新聞記者の動きを見ていると大阪に出場する選手がわかるし、京都新聞の記者の動きを見ていると、全国都道府県対抗女子駅伝の展望企画で取り上げる選手や指導者がわかる。
 今日もそういう場面がいくつかあった。
 渋井陽子選手が大阪出場を表明していたのである。
 赤羽有紀子選手も大阪である。面白いレースになりそうだ。

 取材の場をスタンドから、閉会式会場の長良川国際会議場に移す。歩きながら豊田自動織機6区の永田あや選手の話を聞くことができた。ラッキーなことに単独取材に。
 会議場では三井住友海上の鈴木総監督を取材。渋井選手が出場するマラソンを、東京のレース後に話していた名古屋から大阪に変更した理由を、トレーニングの流れも踏まえて聞かせてもらった。
 後半に見事な追い上げを見せた十八銀行の高木監督、5区で入賞圏に迫った初出場スターツの高見澤選手、そして閉会式後に渋井選手と話を聞くことができた。
 渋井選手は他の記者が囲んでいたところに最後、パッと加わっただけだったので、あまり詳しく聞けなかったのが残念だった。
 今日一番光っていたのが渋井選手だった。10年連続の3区だったことは昨日の記事でも紹介したが、今日、8年ぶりに区間賞を獲得した。弘山晴美選手が1996年に3区で、2006年に6区で区間賞を取っているが、主要区間の3区と5区ということに限れば過去に例はない。
 話を聞いていてわかったのは、渋井選手は8年前と同じくらいに若返ったということ。2カ月の間隔でマラソンに挑むこと、そのためにどういう練習が必要であるか、そして渋井選手がどういう工夫をしているか。断片的な材料ではあるが、それらを総合すると若返ったということになる。
 もちろん、8年前と同じことをやっているのではない。違うことをやっているから、今の体で8年前と同じになれたのである。

 失敗したのは31分41秒という記録自体のすごさにその場で気づかなかったこと。昨年、中村友梨香選手の出した31分30秒の3区日本選手最高記録にも、渋井選手自身がやはり昨年記録した31分38秒にも届いていなかったからだが、帰りの新幹線の車内で記録を見ていていきなり閃いた。
 今日の3区は向かい風だったじゃないかと。
 昨年の記録を確認する。全体的に今年よりも40〜45秒くらい速い。逆に、5区は今年の方が記録が良い。間違いない。そのなかで渋井選手だけが去年と3秒しか違わない記録で走っているのだ。その点を評価しないでどうする。という思いと同時に、取材しないでどうする、という自責の念にもさいなまれた。
 今後の予定も大事だが、まずはその日のレースがどうだったのかをきっちりと見極める。本音を言えば、取材現場は相当に入れ込むというか、忙しく立ち回っているので記録を冷静にあれこれ考えることができにくいのも事実である。
 でも、今日の場合は気がつかないといけなかった。


◆2008年12月15日(月)
 一昨日が陸マガ1月号の発売日だった。
 書籍2冊の仕事に追われて雑誌の仕事ができなかったので、寺田が担当したのは福岡国際マラソンだけである。それでも、巻頭のPEOPLEはまずまずの出来だったのではないか、と自負している。わずか40行ちょっとの記事ではあるが、レース翌朝に入船敏選手を取材し、高岡寿成選手にも電話をしている。
 その辺の経緯は7日の日記にも書いた。
 そのときに紹介した高岡選手のコメントだけを読むと、ちょっと嫌な奴に勘違いされてしまう可能性があった。陸マガの記事を読めば“そうでないこと”がわかると書いたが、あらためて陸マガの記事を読んでみても“そうでないこと”は伝わってこない。我ながら、いい加減なことを書いたものである。
 迷惑なのは高岡選手である。ここは、きっちりとフォローをする必要がある。何か、良い奴だとわかるエピソードを紹介しなくては。
 次までに思い出しておくことにする。早ければ、今日の日記を書いているうちにでも思い出すだろう。

 夕方から陸連のアスレティック・アワード2008の取材だが、その前に、G社新書の校正作業を某選手と1時間20分ほど行なった。こちらの作業もいよいよ大詰め。
 18:00から渋谷のホテルでアスレティック・アワードが開式。
 今年で第2回目。昨年よりも華やかになっていると聞かされたが、寺田には違いはさっぱりわからなかった。昨年だって十分に豪華だと感じていたからだ。
 だが、それは陸マガのアスリート・オブ・ザ・イヤーと比較してのこと。誌面掲載だけを考える雑誌の企画と、一般社会にアピールするためのイベントでは規模が違って当然だ。そういった観点で見たとき、昨年はかなりこぢんまりしていたらしい。
 今回の特徴は4×100 mRのオリンピック銅メダル獲得にちなんで、過去の短距離五輪代表選手を多数招待したこと。青戸慎司氏、栗原浩司氏というソウル五輪代表の顔が懐かしい。今では社会的にもバリバリのポジションだ。
 土江寛裕監督は若干、顔が丸みを帯びていたが、まだまだ現役選手という雰囲気。
 岡崎高之氏、小倉新司氏らはジャンパーとして有名だが、オリンピックではリレーにも出場していた。一度、話を聞いてみたい方たちだったが、今回はそういうチャンスはなかった。

 特にどこかに記事を書くわけではなかったので、今後に向けて材料を仕入れておくのが今日の目的だった。受賞者については会見がセッティングされた。
 気になる末續選手だが、まだ、本格的な練習再開にはいたっていないようだ。
 閉式後に帰る選手と少しだけ立ち話ができた。
 これも気になっていたのが室伏由佳選手の結婚により、室伏家の猫の面倒を誰が見ることになるのか、ということ。由佳選手に確認したところ、詳しい事情は書けないが、どうやら問題はなさそうである。
 渋井陽子選手には昨日の3区が向かい風だったかどうかを確認しようと思っていたが、つかまえ損ねてしまった。
 早狩実紀選手とは、週末に光華学園で再会する約束をして見送った。ご存じの方も多いと思うが、光華学園は京都西京極陸上競技場に隣接し、全国高校駅伝前日に監督会議が行われる場所なのだ。本当は行けるかどうか、微妙なところなのであるが。

 閉式後も1時間ほど、G社新書の校正作業。
 それが終わって井の頭線に乗るために渋谷の街を歩いていると、偶然にも渋井選手と土佐礼子選手に出くわした。この機を逃すなとばかり、昨日の風を渋井選手に確認。
 足を長く止めるわけにはいかないので、3分ほどで退散した。
 しかし、この2人を見かけたことで、帰りの京王線車中で素晴らしい企画が閃いた。1月の大阪で渋井選手が快走する。3月の東京で土佐選手が“区切り”をつける(完全な引退ではない)。2人で……。
 この企画は行けるかもしれない。高橋編集長に提案しないと。
 高岡選手が良い奴だと示すエピソードは、残念ながらまだ閃かない。


◆2008年12月16日(火)
 昨日の陸連アワードで陸マガ・高橋編集長の顔を見て、宣伝を頼まれていたことを思い出した。
 1月号の別冊付録と箱根駅伝展望増刊号の名鑑に、ミシュランばりの★印が全選手に付けられている。それも、「駅伝実績」「スピード」「持久力」「勢い」と4つの項目に分けて。それぞれの★の数(最高で5つ)の判断基準も明示されている。
 これは、なかなか良いと思った。
 パッと見て★の量の多い少ないがわかるので、個人でもチーム全体でも、競技力が一目瞭然だ。1人1人を分析的に見ても面白い。
 ただ、トップクラスの選手はかなりの割合が、ほとんどの項目で5つ★になってしまって差がわかりにくくなってしまっている。5段階評価の限界だろうか。区間の重要度の違いも考慮されていないことも、差別化ができていない一因だ。
 まあ、中レベルから下の選手はきっちりと差がわかるシステムなので、駅伝の評価ということでは上手い方法といっていいだろう。名鑑の楽しみ方が1つ増えた。

 名鑑の楽しみ方といえば、各選手が挙げる好きな(女性)タレントの名前がある。その年に人気があるのが誰なのか、だいたいわかる。昨年は確か、新垣結衣が一番多かったように思う。
 今年は新垣結衣、相武紗季というここ数年のランク上位者(たぶん)に加え、北川景子が多くなっている。どういうタレントなのかよく知らないが。あとは上戸彩と紫咲コウも根強い。福士加代子と答えている選手もいるが…。

 これも昨日、青戸慎司さんをお見かけして、中京大で同学年だった松村卓さん(100 m10秒5)が提唱している骨整体のことを思い出した。
 新たなストレッチとも言われる骨整体は、かなり評判になっているようだ。これまでのストレッチを当たり前に行っている人間にとっては驚きの内容であるが、従来の弊害をカバーするやり方はWEBサイトで動画を見て簡単に試すこともできる。
 ものは試しである。是非、一度やってみることをお勧めしたい。


◆2008年12月21日(日)
 全国高校駅伝の取材。
 昨年は前日京都まで行ったが、当日の朝に急きょ予定を変更し、日体大長距離競技会に駆けつけた。全国高校駅伝当日の取材は2年ぶりということになる。
 朝、ホテルから阪急の駅まで歩いていると、コニカミノルタの大島コーチに出くわした。若いが“ただもの”ではないと言われている人物だ。
 今日のレース展望を話し合った。
 寺田の意見は明確だった。
「純粋な走力では佐久長聖が抜け出ているが、力が入ってしまう状況が同高にはある。昨年の同タイム2位だったことや、3年生が多く、今回が千載一遇のチャンスであること。1区に準エースを起用したこと。その点、西脇工は例年通りのレースができる状況。接戦になるのではないか」

 プレスルームには9:50くらいに到着。
 京都新聞・K記者に来年の全国都道府県対抗女子駅伝について質問。一緒に、1月発売の書籍のパブリシティも依頼した。
 10:20に女子のレースがスタート。
 豊川の1区選手の後れ方が、予定よりも大きかった。プレッシャーのかかる展開である。その点、興譲館の方がのびのびと走れる。
 実際、その後の区間で豊川の選手が追い上げるが、最後は興譲館の選手が踏ん張る展開が続いた。数年前の男子で仙台育英が優勝したときのパターンに近かった。
 それでも、豊川は確実に差を縮めて行き、最後はアンカーの力の差でねじ伏せた。
 OBの岩水嘉孝選手も喜んでいるだろう。
 レース後の取材はまず、興譲館のアンカーの久保木選手に話を聞きに行った。ワイリム選手に逆転はされたが、その後の粘りが印象的だったからだ。書いている時間があれば紹介したい。

 久保木選手の次は豊川の森安彦監督のところに。
 監督の後には1区の二宮選手にも少し話を聞けた。
 同高の女子は創部3年目。“伝統のない点をどう克服したか”というテーマで記事を書きたいと思っていた。正直、難しいテーマである。“伝統がない”という部分にこだわって強化をするわけではない。
 それでも、念入りに話を聞くことができたので、“伝統”というテーマを正面からは扱えないにせよ、豊川の記事を書くネタは十分に入手できた。実は昨日も同監督の話をしっかりと聞いている。
 あとは時間があるかどうか。

 男子は佐久長聖が高校最高記録で圧勝した。一番に感じたのは、高校最高記録がすごかったということ。
 かつては高校最高が頻繁に更新された高校駅伝だが、近年はそうもいかなくなっていて、今回の記録更新は実に11年ぶりのこと。97年に西脇工が出した2時間03分18秒をちょうど1分更新した。駅伝の醍醐味は記録以外にもあるが、やはり、目の前で記録更新を見ると感動する。
 二番目に思ったのは「ガンバレ西脇工」である。
 好レースを演じてくれると思われた西脇工は、1区の福士がトップから35秒、区間2位の佐久長聖から33秒遅れた。2区の仁木が区間3位と踏みとどまっただけに、3区次第では挽回する可能性はあったが、3区終了時点で佐久長聖と1分01秒差に。
 寺田の記憶では前半の1分差をひっくり返したこともあったが、今年の佐久長聖が相手ではこの時点で優勝は不可能となった。
 人づてに聞いた話だが、「悪い流れにはまってしまった」と渡辺公二監督は分析したという。1区の後れを取り戻そうとして、3区と4区がオーバーペースになってしまったと。
 西脇工への期待が高かっただけに、残念に思ったファンも多いだろう。
 一番、やってほしくない展開だった。まったく見せ場を作れなかった。
 1区・福士の責任でもあるが、福士だけの責任でもないと渡辺監督は言ったという。昨年も1区で予想以上の出遅れが響いた。今年も同じ展開になってしまった。西脇工の1区は大変だと聞いたことがあるが、今年は外国人がいなくなったのだが…。
 2区以降では、昨日紹介した渡辺監督のコメントにあった人間的な弱さが、まさに出てしまった。
 プレッシャーは佐久長聖の方が感じていたと思ったが、そうではなかったということか。駅伝は本当に、やってみないとわからない。
 このまま西脇工が落ちていったらさらにガッカリである。頑張ってもう一度、“強い西脇工”の姿を取り戻してほしい。
つづく、かも

◆2008年12月31日(水)
 前橋に向かう電車の中で、陸マガのアスリート・オブ・ザ・イヤーの投票をした。今日の24時が締め切りである。
 最終的に確定させていないが、おそらく、下のような順位と選出理由にすることになるだろう。

@朝原宣治:4×100 mRチームのリーダーとして男子トラック種目初のメダル獲得
A室伏広治:男子ハンマー投五輪銅メダル
B山崎勇喜:男子50kmW五輪入賞
C久保倉里美:女子400 mH日本新と五輪準決勝進出
D福島千里:女子100 m日本新と54年ぶり五輪出走
E塚原直貴:男子100 m五輪準決勝進出と4×100 mR銅メダル
F丹野麻美:女子400 m日本新と4×400 mR五輪初出場
G渡辺和也:男子1500m日本歴代2位
H福士加代子:女子1万m五輪11位
I早狩実紀:女子3000mSC日本新
次点:川崎真裕美:女子20kmW国外日本最高で五輪14位
   松宮隆行:日本選手権3年連続2冠
   池田久美子:土壇場の南部記念で代表入りを決める6m70
   中尾勇生:世界ハーフマラソン選手権5位


 一番悩んだのは、朝原選手と室伏選手のどちらを1位に推すか、だった。
 陸マガのアスリート・オブ・ザ・イヤーは個人を選ぶのがルールになっている。その観点からすれば間違いなく室伏広治選手が1位だろう。しかし、今回ばかりは男子トラック種目五輪初のメダルという点を評価して、リレーチームの代表として朝原選手に投票した。
 なんで他の3人でなく朝原選手なのかと問われると困るのだが、取材をしていて、このチームは朝原選手を中心にまとまっていたのだと確信を持てたのである。
 チームの成績を個人を投票する賞に反映させていいのか。賛否両論あるところだろうが。

 全体的な感想としては、例年と比べて明らかに、上位選手の選出理由の質が落ちている。
 また、今年は10人を埋めるのに誰を入れるのか、を考えた。例年はすぐに10人の枠がいっぱいになって、誰を落とすかを悩んでいた。
 これは陸マガの10月号に書いたように、日本の陸上界に勢いがなくなってきている証拠だろう。この状況を克服するには、若い世代の躍進があれば話は早いが、インターハイのレベルが落ちている近年の状況から、現実的にはそう簡単に期待することはできない。
 特に世界レベルに近づくことを考えると、20歳台後半の選手が、さらに一歩を踏み出すことが必要となる。

 シドニー五輪のときも、今回に近い感じだった。高橋尚子選手の金メダルはあったものの、それ以外は高岡寿成選手と4×100 mRの入賞が目立ったくらい。
 伊東浩司選手や苅部俊二選手、吉田孝久選手の世代は現役を終えようとしていた。
 しかし翌年、日本の陸上界は一気に生まれ変わった。室伏広治選手と為末大選手、土佐礼子選手が世界選手権でメダルを獲得し、末續慎吾選手が当たり前のように準決勝に進出した。

 2009年の日本陸上界に、2001年の再現を期待しながら年を越したい。


◆2009年1月1日(木・祝)
 今年も初仕事は群馬県庁でのニューイヤー駅伝取材だった。
 1年の計は前橋にあり。
 陸上関係者でそう思わない人間はモグリだろう。そのくらい、元旦と前橋は切っても切れない関係にある。
 と書いていて、若干強がっているような気が自分でもしている。明日からの箱根駅伝に比べると、取材する記者の数も少ない。「オレたち、元旦から頑張って仕事しているよな」という、ある種の連帯感さえ生じている。
 そんなことはどうでもいい。

 ニューイヤー駅伝はコースは従来と同じだが、区間距離の変更があった。昨年までの2区が2つに分けられ、従来の3区と4区が1つの区間に。そして、2区がインターナショナル区間として、外国人選手の出場はこの区間に限定された。
 その結果、以下のような区間:距離になった。
1区:12.3km
2区:22.0km→8.3km
3区:11.8km→13.7km
4区:10.5km→22.3km
5区:15.9km
6区:11.8km
7区:15.7km

 しかし、会場で配布された記録表を見ると、2区と3区に区間記録があった。
2区 小島忠幸(旭化成) 23分14秒
3区 J・ギタヒ(日清食品) 37分33秒

 これってどういうこと?
 一瞬、わけがわからなかった。だが、すぐに取材中のある監督のコメントを思いだしたことから、状況を把握することができた。今回の2区と3区は、2000年まで走っていたのと同じコースだったのだ。それで、2000年以前の記録ではあるが、現行コースの区間記録として復活してきたわけである。

 レース展開の特徴などは、記事にする予定なのでここでは言及しないでおく。
 今回の陸マガの担当は優勝チーム。レース後はすぐにフィニッシュ地点に行かず、テレビで富士通各選手のインタビューをメモする。インタビューが終わるとフィニッシュ地点に。
 3位の旭化成チームが集まっているので取材に行こうとした。3人もの選手が区間賞を取ったのである。旭化成の区間賞は実に9年ぶり。つまり、現行の100kmコースになってからは、21世紀になってからは誰も取っていなかった。
 だが、富士通の選手たちもちょうど、会見場のプレスルームのある建物に近づいてきた。ここは富士通の取材を優先。歩きながら福嶋監督に話を聞いた。
 プレスルームで会見。
 福嶋監督と藤田敦史選手は、2人とも今回のレースとチーム状況を象徴する話をしてくれた。

 駅伝は全員が頑張った結果が出るスポーツ。同じチームに区間上位の選手もいれば下位の選手もいる。だが、それぞれが役割を果たした結果が成績になる。区間下位の選手でも、その選手が実力に比して頑張ったということもある。そういう選手がもう1秒遅れていたら、勝てなかったというケースもあるだろう。
 今回の富士通も、全員が頑張ったから勝つことができた。誰か1人でも、5秒遅いタイムだったら勝てなかったかもしれない。
 だが、記事で全員に万遍なく触れると、記事としては何を言いたいのか、論点がぼけてしまう。今回でいえば藤田選手と福嶋監督の話を中心に組み立てるのが常道と思われた。
 その2人が会見できっちりと話をしてくれたので、寺田はアンカーの松下龍治選手に少し質問をさせてもらった。会見後に閉会式に移動する途中では、3区の福井誠選手に取材をした。
 レースの中心になったのは藤田選手であり、最後に1秒差の勝敗を決したのは松下選手である。だが、レースの流れを変えたのは紛れもなく3区で区間2位の走りで追い上げた福井選手だった。福井選手という名前だが、実は千葉県の出身だ。区間1位の旭化成・岩井勇輝選手も千葉県出身。しかも、2人とも日大出身である。
 ただ、福井選手が流れを変えたというのは、外から見ていてそう思うのであって、富士通のチーム関係者は福井選手があのくらい走るのは当たり前、と見るかもしれない。その辺をチーム関係者に取材をする手もあるが、今回は客観的に見たこちらの印象を、記事の視点にしていいと思った。

 富士通の取材のあとは閉会式最中に監督や関係者への取材。肉付けにあたるここでの取材が重要だ。
 最初に話を聞いたのはトヨタ紡織・佐藤信之監督。中部予選取材時に実現しなかった、トヨタ自動車&トヨタ紡織の“ダブル佐藤”新監督の話を聞きたかった……のだが、ネタとしてはやはり、中部でやっておくべきものだった。
 佐藤信之監督は実は、旭化成20世紀最後の区間賞獲得者である。2000年大会の7区で藤田敦史選手を追い込み、富士通に対して一矢を報いた。今回の旭化成3区間区間賞の感想を聞きたかったが、初陣の監督に対してそれは失礼だと判断して聞かなかった。

 続いて話を聞いたのは小森コーポレーション本川一美コーチ。小森コーポレーションはインターナショナル区間の2区でダビリ選手が、最長区間の4区で秋葉啓太選手が区間賞を獲得。1区と3区で多少遅れても、外人選手と日本選手が1人ずつしっかり走れば100kmのうち70kmあたりまではトップ争いが確実にできる。それを示したチームだった。
 本川コーチと話していて確信を持てたのは、4区の走り方。前半を飛ばしたら最後にペースダウンをした選手が多いような気がしていたが、その辺を解説してもらうことができた。来年以降は前半をちょっと抑えめに入る選手が増えそうだ。
 本川コーチはかつて、順大の2区としてライバルチームを震え上がらせた選手である。が、体型だけを見るとその頃の面影はない。ただ、指導者としての能力は体型とは関係ない。話を聞いていると、コーチングに対する自信のようなものが端々に感じられた。これも当然のことだが、順大OBの先輩諸氏が同じ意見とは限らない。感じたのはあくまで、寺田である。

 続いて話を聞いたのは富士通・高橋健一コーチだった。
 賢明な読者諸兄はお気づきのことと思うが、高橋コーチは順大で本川コーチの1学年後輩。本川コーチが4年連続で務めた順大の2区を引き継いだ男である。本川、高橋の両コーチをこの順番に話を聞いたのは、決して偶然ではない。順番をあらかじめ考えて取材していたのだ。偶然だと思う方は、それが実現できる確率を計算したらいいだろう。
 本川選手から2区を引き継ぐ。そのときのプレッシャーはどれほどだったか。どうしても聞きたかったのだが今回は我慢した。それを今日質問するのは、優勝チームのコーチに対して失礼だろう。そのくらいの判断は猫でもできる。いや、寺田でもできる。
 高橋コーチといえば、奥さんの正子さんが暮れの全日本実業団対抗女子駅伝で優勝した豊田自動織機のスタッフを務めている。夫婦で実業団駅伝優勝に関わったことになる。いやいや、それだけではない。豊田自動織機の指導を委託されているのは、義理の父親の小出義雄氏だ。高橋家にとっては明るい正月となったことだろう。
 ちなみに、高橋コーチの指導法は「義理の父を見習って、怒りたいことがあっても我慢するやり方」だそうである。ただ、甘やかすだけでは長距離チームの指導はできない。
「今日の結果で選手たちが生意気になったら、方針を変えるかもしれません」
 富士通の選手たちは覚悟しないといけなさそうだ。

 続いて話を聞いたのは、賢明な読者諸兄ならおわかりと思うが、高橋コーチの次の年に順大の2区を走ったトヨタ自動車の浜野健選手……の指導者の佐藤敏信新監督だった。チームはトヨタ紡織と競る場面もあったし、古巣のコニカミノルタと競る場面もあった。丁寧に取材をして、しっかりとページをとって紹介したらかなり面白い話である。個人的には、箱根駅伝のシード争いなんかよりよっぽど深いしレベルも高い話になると思うのだが。
 “佐藤”監督にばかり話を聞くのもどうかと思ったので、その次に話を聞いたのは佐藤敦之選手(中国電力)。別の記者が話を聞いているところに加わったのだが、トレーニングと試合出場の組み立て方を変えるという話をしているところだった。
 最後は中国電力・坂口泰監督。今回の区間距離変更と、2区がインターナショナル区間になったことの影響を、聞くことができた。
 この辺や、4区の走り方など、できれば記事にしたいと思っている。

 取材は以上だったが、最後に紹介したい写真がこれ。富士通の青柳剛元マネジャーと、三代直樹広報のツーショットである。青柳氏は醍醐直幸選手が日本記録を出した際に、そっと涙を流していた情厚き人物。雪印が廃部になったときのマネジャーでもあり、そのとき、関係者を訪ねて頭を下げて回った様子は、誠意ある行動として語り継がれている。
 三代氏についてはあらためて言及する必要もないだろう。富士通初優勝時の主力選手であり、2001年のエドモントン世界選手権1万m代表(カネボウ・高岡寿成選手も)。27分台ランナーの1人である。
 ここでわざわざ取り上げたのは、賢明な読者諸兄はすでにおわかりのことと思うが、本川コーチ、高橋コーチ、浜野選手を引き継ぎ、3年間順大の2区を走ったのが三代氏だからである。4年時にはあの渡辺康幸選手(早大)の区間記録を更新し、中継直後に見せた感極まった表情でのガッツポーズは箱根駅伝史上屈指の名シーンと言われている。この写真は、その次くらいに良い表情をしている。坊主頭の青柳氏との対照ぶりも絶妙だ。
 現在は広報として辣腕を振るっている。富士通サイトの陸上競技の記事の多くは、三代氏が書いている。寺田のような一介のフリーランスにまで、公開練習や共同取材など丁寧に案内をインフォームしてくれるので、本当に助かっている。
 富士通は北京五輪に、実業団チームとしては最多の6人を代表として送り出した(大学チームを含めてももちろん最多)。トラック&フィールドの全日本実業団でも男女総合優勝。そしてニューイヤー駅伝優勝。五輪代表選手数はタイトルとはいえないが、寺田の日記ではあえて“3冠”と書かせてもらうことにする。
 順大時代は箱根駅伝で1年時に1区を走り、2年時以降は2区だった三代氏。富士通に入社してニューイヤー駅伝に優勝したときに「やっと名前にちなんだ3区を走れた」と言ったかどうかは知らない。今回の“3冠”も三代広報の力で達成されたわけではない。だが、なんというか、今の富士通の強さは、OBの情熱を含め、社を挙げたサポート体勢も大きく影響している気がする。


◆2009年1月2日(金)
 本日は自宅で箱根駅伝をテレビ取材。

 1区はスローペース。昨年も1区はスローペースだった。
 2年前は佐藤悠基選手(東海大。4月から日清食品)が独走に持ち込んで2位に4分29秒差! 平地区間でこのタイムはすごすぎる!
 3年前もスローペース。でも、1年生の木原真佐人選手(中央学大。4月からカネボウ)のデビュー戦という雰囲気だった。
 4年前は区間1位記録が1時間02分52秒なので速くも遅くもなく。佐久長聖OB4人が出場したが、区間賞は同じ長野でも東海大三高OBの丸山敬三選手(東海大→日清食品)だった。
 5年前は鷲見知彦選手(日体大→トヨタ紡織)が飛び出したけど、終盤は伸びずに最後は区間2位の太田貴之選手(駒大→富士通)と6秒差に。
 6年前、7年前、8年前もスローペース。
 そして9年前が徳本一善選手(法大→日清食品)の独走。2位の岩水嘉孝選手(順大→トヨタ自動車→富士通)に1分07秒差をつけた。

 こうして見ると、1区はスローになるのが多いが、たまに誰かが飛び出している。以前(10数年前)は2区の次に1区に28分台ランナーが多かった。しかしそれが、スローペースが多くなり、そこまで強い選手を起用しなくてもいい、という雰囲気になってきた。
 しかし、逆をついて1区でしっかりと逃げ切ることができれば、飛び出した方がタイムを稼げている。
 92年の武井隆次選手(早大)から櫛部静二選手(早大)、渡辺康幸選手(早大)、中村祐二選手(山梨学大)と、独走が続いていた時代があった。28分台選手が集中したのはその後の時期だったかもしれない。
 こうして見ると、1区にどのレベルの選手を起用するのかということと、その走り方は“流行”のような気がする。
 それとも、現在定着している“そこまで強い選手は起用しない”戦略が真理であり、今後も続くのか。

 1区のこととも関連するが、箱根駅伝は前半でリードして追い上げられるよりも、中盤の山で追い上げた方が有利なのだろうか? 今日の早大は4区までで区間賞を3つも取り、東洋大に4分58秒もの差をつけながら逆転された。
 柏原竜二選手がいる今年だけのことなのだろうか。
 差がつかない1区に対し、差が付く5区と思われている節もある。寺田も今井正人選手(順大→トヨタ自動車九州)が快走した2006年大会の際に、このような記事を書いている。
 だが、本当にそうだろうか。
 確かに今井選手、駒野亮太選手(早大→JR東日本)と、毎年、1時間17〜18分台で登る選手が現れ続けているのである。
 だが、1時間20分を切っているのは、現行の23.4kmになった06年以降、毎年2人しかいない。2007年だけ1人だ。絶対に山で差がつくとは言い切れないような気もする。今回、区間5位と区間15位のタイム差は1分44秒だった。
 1区の“流行”と、5区の“つきやすいように見えるタイム差”
 箱根駅伝は奥が深い……というより、わけがわからない。

 2区、3区、4区、5区と4区間連続で区間新が出た。
 これは、人材に恵まれたことが一番大きな理由だろう。
 過去最強の留学生のモグス選手(山梨学大)。44年ぶりの五輪選手の竹澤健介選手(早大)。この2人が別の区間に出場したことで、区間新の出た区間が1つ増えた。
 4区は距離が変更になって歴史が浅いので、今回の三田裕介選手の記録が何年持つかを見ないと、評価は定まらない。過去にも、区間変更があったその年の記録が、長年もったことがあった。2区の大塚正美選手(日体大)が83年に出した1時間07分34秒や、9区の坂口泰選手(早大)がやはり83年に出した1時間09分53秒である。
 5区も現行コースになって歴史が浅いのだが、今回の柏原選手の記録は4区よりも評価は高い。現時点では。前コースで大幅に区間記録を更新した今井選手が、現行コースで出した記録を破ったからだ。
 モグス選手、竹澤選手という大物2人が別の区間に出たことと、柏原選手にここまで登りの適性があったことが、4区間連続区間新につながった。
 95年に渡辺康幸、小林正幹、小林雅幸の早大3選手が、2、3、4区で3区間連続区間新を出したことがあったが、4区間連続はちょっと調べきれない。そのくらい、歴史の古い駅伝なのである。その辺は、ニューイヤー駅伝とは違う。


◆2009年1月3日(土)
 大手町で箱根駅伝復路の取材。
 読売新聞社屋内にプレスルームがあるが、1〜2年前から広い部屋(講堂に近い)に移ったおかげで、東京国際女子マラソンや男女の実業団駅伝のように座れなくなるようなことはない。
 プレスルームの雰囲気がニューイヤー駅伝と明らかに違うのは、人数もさることながら女性記者の数が多いことだ。記者の絶対数が違うから多いのは当たり前なのだが、割合も明らかに違う。個人的な印象ではニューイヤーが9:1なのに対し、箱根は7:3くらいである。
 これは女性記者が箱根駅伝取材を志願しているのではなく、どの社も3〜10人体制で取材をするため必然的にそうなるのだ。つまり、陸上競技をメイン担当にしている女性記者は少ないが、サブ担当とか遊軍記者まで動員されると女性の割合が多くなる。
 テレビ取材のスタッフは、もっと割合が多いかもしれない。
 正月からこんなことを書いて何になるのだろう、と思う向きも多いと思うが、もう少し付き合っていただきたい。

 何が言いたいのかというと、要するに、ニューイヤー駅伝をもう少しなんとかしよう、ということだ。1月2日が休刊日のため、同駅伝の記事は箱根駅伝往路と同じ1月3日紙面に載る。レース2日後ということも手伝って、スペースは小さい。ネットの記事は紙面に制約されないから大きいかというと、どれもベタ記事扱いだ。
 さらに今日、某記者と話したのだが、陸マガまで年々誌面が小さくなっている。
 言うまでもないが、駅伝日本一を決めるのは箱根ではなくニューイヤーの方である。今年はトヨタ自動車九州やエスビー食品が出ていないので一部有力選手が欠けるが、それでも日本の一線級が勢揃いする大会と言っていい。その駅伝がここまで箱根に差をつけられている。
 それを憂うこと自体は、目新しくもなんともない。言い古されている話だ。
 人気が出ない理由ははっきりしている。日本のトップレベルということが評価されないのだ。「日本のトップだったら世界で通用して初めて価値がある」というのが、世間と大方のメディアの判断基準なのだ。その点、箱根駅伝や高校野球のように、レベルの枠組みが設けらている大会は、なぜか思い入れをしやすくなる。その枠組み内で一生懸命にやっているのなら、価値があると思えてしまう。
 この現象は陸上関係者、報道関係者がなんとかしないといけないことだろう。
 選手は明らかにニューイヤー駅伝の方が上なのだから、前述の枠組みをなんとかるような見せ方を関係者が考える必要がある。
 せめて陸マガくらいは、実業団駅伝は載せても売れない、と考えるのでなく、料理の仕方で魅力的な大会にできる、と考えてほしいのだが。それだけの選手は集まっている。
 あるいは、実業団関係者が乗り気ではないのだろうか。箱根駅伝のように世間から注目され、プレッシャーがかかるようになったら不都合だと考えられなくもない。「今くらいがいいよ」という意見が出ている(内心思っている)可能性はある。

 肝心の箱根駅伝の競技だが、昨日の往路とは打って変わって、記録的にはいまひとつ。どうやら、向かい風だったようだ。データ的に面白いと思ったことは陸マガ増刊号に書いたので、そちらをご覧いただきたい。


◆2009年1月10日(土)
 今日から旅人になった。どこを旅しているのかは、探さないでほしい。
 と、為末大選手のように書けたら格好良いのだが、WEBサイトにネタを載せて商売にしている以上、どこで何をしているのか、書かないわけにはいけないだろう。
 今日は三重県鈴鹿で井村久美子選手(池田久美子選手のことだ)の公開練習を取材した後、明日の全国都道府県対抗女子駅伝に備えて草津(滋賀県)まで移動した。

 旅のスケジュールを先に紹介しておこう。
10日(土):井村久美子選手公開練習(三重県鈴鹿)
11日(日):全国都道府県対抗女子駅伝(京都)
12日(月・祝):朝日駅伝(福岡−北九州)
13日(火):長崎

 というところまでは決めている。

 14日もおそらく長崎にいるはずだ。長崎は寺田の未踏破県の1つで、歴史的にも見るべき場所が多くある。なんだかんだと見て回ったら、2日間くらいかかるはずだ。
 実はハウステンボスが長崎市にあると思っていた寺田は、ホテル・デンハーグに泊まろうと思っていた。デンハーグはオランダの都市。2年前に池田選手を取材した場所である。同選手を結婚後初めて取材をして、その足でデンハーグに行くという案は悪くないだろう。
 こういう稚気は、一緒にデンハーグに行った朝日新聞・O田記者には真似できないはずだ。
 しかし、ハウステンボスのホテルは宿泊料がバカ高かった。1泊2万数千円である。さらに、ハウステンボスは長崎市ではなかった(佐世保市?)。長崎市の方がハウステンボスよりも魅力がある。デンハーグに行く案はボツになった。

 長崎まで足を伸ばそうと考えたのは、全国都道府県対抗女子駅伝の翌日に朝日駅伝があったからだ。数年前の熊日30km取材がそうだったように、朝日駅伝は興味ある“未知の大会”の1つ。以前は全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝ではない頃)、中国駅伝(全国都道府県対抗男子駅伝に発展的に解消)とともに三大駅伝の1つに数えられていた。
 今はレベルというよりも、ユニークさ、自由度の大きさに特徴がある。
 まず、実業団チームと大学チームが一緒に走る数少ない駅伝だ。チームエントリーは15人まででき、外国人選手の出場制限もない。クラブチームの参加もOKなので、全○○大学とか、OBも含めたチーム編成もやろうと思えばできる。
 7区間99kmの区間編成だが、かなりの山岳コースだと聞いている。
 なにより主催者が親切に対応してくれている。寺田のような一介のフリーランスが取材をしたい意向を示すと、歓迎の意を表してくれた。熊日30kmの熊本日日新聞の記者の方もそうだったが、これは、力のない個人取材者にとって本当に嬉しいことなのだ。

 朝日取材を考え始めたのは年末の全国高校駅伝の頃だったが、なかなか踏ん切りはつかなかった。全国都道府県対抗女子駅伝に行く決心がつけば朝日駅伝まで足を伸ばすつもりだったが、その気持ちがなかなか固まらなかった。
 全国都道府県対抗女子駅伝が以前とは大会の性格が変わっていることは、確か2年前の日記に書いている。京都チームに3人の大学生がいたことで、その思いを強くした。
 その辺をいつか取材しようと思っていたが、今年京都が勝てば88〜92年に続く2度目の5連覇達成となる。大会の変貌ぶりを書く絶好の機会に違いない。
 と思ったのだが、それでもまだ、踏ん切りがつかなかった。優柔不断な性格は変えようがないようだ。

 ということを考えていたら、サニーサイドアップから今日の井村久美子選手の公開練習の案内が届いた。1月7日のことだった。
 その直前は、来週にでもまた秘密結社Lの新年会を企画していたが、サニーサイドの坂井氏(前橋育英高OB)からメールが来て、すぐに決断した。池田選手、全国都道府県対抗女子駅伝、朝日新聞、そして長崎と旅に出ることを。池田選手の公開練習が決定打となったのだ。

 ということで今日は池田久美子選手の取材。
 練習後の一問一答はこちらにまとめた。文末に付記したように、ペン記者用のカコミ取材時にも面白い話を聞くことができたので、なんとかコメントを整理して紹介したい。
 その後の草津までの移動が楽ではなかった
 京都まで電車で20分くらいの場所だから、草津まで行くのだったら京都まで行けばいいのだが、京都のホテルがいっぱいで予約できなかったのだ。草津はびわ湖に近い東海道線の駅だが、JRの草津線の起点でもある。
 池田選手の取材は鈴鹿の陸上競技場で、最寄り駅は伊勢線の玉垣という駅。3駅くらい名古屋方面に戻った河原田という駅で、関西線に乗り換えて亀山まで行き(シャープの液晶工場があることで有名)、亀山でまた乗り換えて柘植まで行く。以前、110 mHで1993年の世界選手権代表になった柘植雄介という選手がいたが(名古屋学院高)、故郷だろうか。
 その柘植が草津線のもう一方の起点である。
 河原田の待ち時間が24分。無人駅で待合室もなく、ものすごく寒い中で待った。亀山までの所要時間が20分。亀山の待ち時間が30分。ここはそれなりに大きな駅で、待合室で待つことができた。
 柘植までが25分。どこも仕事ができるほどまとまった時間がとれなかった。
 最後の柘植→草津間が50分で、ここだけが仕事ができた。池田選手のコメントの録音を聞き直して取材メモを完璧にしようと思ったが、電車の雑音が大きくて、聞き取れない時間が長かった。
 録音の確認作業はすぐに終えて、車内で原稿も書き進めたかったが、結局、聞き直しただけで草津に着いてしまった。
 関西線と草津線を使ったのは、その方が名古屋まで戻って新幹線で移動するよりもはるかに安くつくからだが、もう二度とこのルートは使うまいと思った。

 まあ、予想通りに進まないのが旅というものである。


◆2009年1月11日(日)
 何年ぶりだろうか、全国都道府県対抗女子駅伝を取材したのは。
 もしかしたら、一度来ているかもしれないが、フリーになってからはないのではないか。
 陸マガ時代も、1990年代前半は来ていたが、後半は来ていなかったと記憶している。3月号で報じるメインの大会が、大阪国際女子マラソンに変わっていったからだ。
 すでに、女子長距離が強くなる初期の段階でこの大会にあった、選手権的な意味合いも薄れていた。全国大会なので選手権的な意味合いとは“日本一”を決めるということになる。実業団駅伝、高校駅伝など、年代別の駅伝がその役割を担うようになっていたからだ。

 もしかしたら、役割を終えてなくなるかもしれない。
 一時期はそう考えられていた全国都道府県対抗女子駅伝が、それなりに盛り上がりながら続いている。野口みずき選手や福士加代子選手というロード・トラックのトップ選手も、数年に1回は出場している。それも、現在の登録陸協の県から出たり、ふるさとの県から出たり。
 優勝争いを課せられている地元の京都チームでさえ、早狩実紀選手や小崎まり選手が、ライバルの兵庫から出場することもある。関係者すべてが選手権というところにこだわっていたら、こういった現象は起こらないだろう。
 選手権としてのピリピリ感は薄れたが、それでも盛り上がる。実際、優勝タイムを見ても、選手権的に行われていた頃よりも僅かながら良くなっている。
 変貌ぶりを見てみたいと、ここ数年ずっと思っていた大会なのである。

 午前中に行われる高校駅伝と違って12:30スタート。宵っ張りの朝寝坊記者にはありがたい。11:00に西京極陸上競技場の隣の施設にあるプレスルームに着くと、ライバルの某専門誌O村ライターの姿も。寺田と同様、帰省を利用しての自主取材である。自主取材を具体的にいうと……野暮な話はやめておこう。
 寺田の今回の自主取材旅行は、昨日の日記に紹介したように興味ある公開練習と大会が、西日本方面で3日続いたから決心できた。だが、ライバルの女子駅伝自主取材を偶然にも聞きつけ、羞恥心がめらめらと燃え上がったのも決心した理由の1つだった……いや、対抗心である。

 レースは注文通りに京都が5連勝を達成した。
 フィニッシュから閉会式開始まで1時間弱。優勝した京都チームよりもまず、2区で大幅に区間記録を更新した小林祐梨子選手を取材。「駅伝でも、世界を意識して走りました」というコメントが印象的だった。こういった選手も初期の段階ではほとんどいなかったと思う。この大会に出て、2週間後の大阪国際女子マラソンにも出ていた浅利純子選手あたりが、その先駆けだったような気がする。
 続いて京都チームの取材に。十倉監督と早狩実紀選手に話を聞いた。
 日経新聞の平均的でないI原記者も寺田と同様、前回の5連覇と今回の5連覇の違いを書きたかったようで、早狩選手にその点を質問していた。寺田は後から、その点をさらに補足取材した。
 十倉監督の話の中に「京都に駅伝文化が根付いている」と何度か出てきたので、できれば、前回と今回の違いがそれだと言ってほしかったのだが、やや遠慮がちの話しぶり。2人の話からこの記事を書いたが、京都に駅伝文化が根付いたことが、前回とと今回の違いだという点は、あくまで書き手である寺田が結論づけた形にした。

 閉会式に向かいながら、天満屋・武冨豊監督(岡山県の監督は山口衛里さん)に取材。中村友梨香選手の前回と今回の違いを聞いた。前回は3区で区間10位だった全日本実業団対抗女子駅伝で、今回は1区区間賞である。これも、京都の5連覇の違いくらいに興味ある点だった。
 驚かされたのは、取材中に1人の男性(それなりの年齢)が近づいてきて、武冨監督と一緒に写真を撮りたい、と言ってきたことだった。オリンピック選手を3大会続けて育てた監督として憧れているのか、現役時代のファンなのか。聞いておけばよかったが、ちょっと怖くて聞けなかった。
 その男性が寺田に、カメラのシャッターを押すように言ってきた。武冨監督がOKされていたので協力した。最初に横位置で撮ってカメラを返そうとしたら、「縦でも撮ってください」と頼まれた。
 サインもお願いされた武冨監督だが、さすがにそれは断っていらした。
 この男性に代表されるように、ちょっと引いてしまうくらいに熱心な駅伝・長距離ファンが、京都には多いような気がする。女子選手に迷惑な申し出をしないだろうかと、ちょっと心配になった。サッカー・ファンを見ればわかるように、その競技がメジャーになると、色んな類のファンが存在するようになるのだ。

 閉会式前には、中国新聞・山本記者と一緒に泉有花選手(天満屋)の話を聞き、1区でちょっと不調だった永田あや選手(豊田自動織機)の話を聞いた。永田選手取材の後、ふと振り返ると弘山晴美選手を中心に、各県に散らばって出場した資生堂の選手たちが集まっていた。かなり華やかだった。
 シャッターチャンスと思って近づくと、同じことを資生堂のみなさんも考えていたようで、安養寺コーチと一緒に撮影させてもらった。選手の1人からカメラを手渡されて、そのカメラでも撮った。先ほどとは違った気持ちでシャッターを押した。写真は安養寺コーチのブログをご覧いただきたい。

 開式後に京都チームのところに行く途中、ライバルのO村ライターが熊本の取材をしているところに出くわした。「やられたっ!」と思った。熊本は熾烈な4位争いを制していた。過去に優勝したこともあるので県最高順位というわけではなかったが、今回のメンバーで4位はかなり評価できた。
 区間20位台、30位台の選手もいれば、区間3位や区間5位(2人)の選手も。ばらつきがあっても4位に入れたのは、4位から8位のタイム差が19秒だったからだろう。小さい差のなかに多数のチームがひしめくと、区間順位は影響が小さくなくなる
 箱根駅伝4位の大東大もそうだった。
 できれば取材したかったのだが、ちょうどO村ライターの取材が終わるところ。これが、陸マガとかに記事を書くのであれば、何があっても食い下がったのだが、特に書くメディアがないのが今回の取材。「もう一度お願いします」とは言えないのである。

 最後は、大阪国際女子マラソンに向けて小崎まり選手に取材をした。非常に興味深い話だったが、まだ書くわけにはいかない。1週間くらいしたら、書いていい状況になる可能性もあるが。
 19時まで西京極のプレスルームで、20時まではロビーで原稿書き。
 それから福岡に移動。途中、現金の手持ちが1万円しかないことに気づき、阪急線からJR線に乗り換える山崎と、新大阪駅でATMから引き出そうとしたが、寺田の持つ三井住友銀行のカードを受け付けてくれなかった。さくら銀行時代のカードだからだろうか。福岡のホテルはカードで支払いができたが、ちょっと焦っている。


◆2009年1月12日(月)
 朝8時30分に博多駅前の朝日新聞に。
 最初に、取材をさせていただくにあたってお世話になった朝日新聞西部本社・増田記者(早大競走部OB)に挨拶。原田記者や、東京から応援に駆けつけた酒瀬川記者の姿も。
 しかし、30分後にスタートだというのに、あまりそれらしい雰囲気がない。出場チームののぼりなどは数多く立てられているのだが、寺田の知っている駅伝とはどこか違う。
 雪のせいで指導者や選手が外に出ていないせいだろうか。昨日、京都の取材現場で、雪で中止になるかもしれないと聞いていた。実際、最終的にゴーサインが出たのは30分前だったという。
 宗猛監督がすれちがいざま、携帯に送られてきた八木山(2区)の写真を見せてくれた。かなりの雪景色だった。以前から、九州実業団駅伝でも使用される福岡・北九州間のコースは、かなりの山道だと聞いていたが…。これは、想像以上の難コースではないか。

 その思いは2区に入ってさらに強くなった。
 レースは報道車から見せてもらった。他の駅伝やマラソンと同様、トップ集団のすぐ後ろというわけにはいかないが、テレビ中継がライブではないので、随行車に乗れるのは大変ありがたい。報道車は朝日新聞・K記者、同新聞宮崎支局のM記者、毎日新聞・F記者と一緒だった。
 1区(14.6km)の10km付近までは市街地だったが、そこから周囲は田園風景に。
 2区(9.9km)に入って4kmほどで、徐々に上りに入る。5.4kmの二瀬川の橋から“七曲り”と呼ばれる部分に入る。選手たちは道路を曲がりくねりながら、かなりの急勾配を上がっていく。区間エントリー表を見ると、寺田が知っているだけで箱根駅伝5区の経験者が3人もいた。安川電機の飛松誠選手、Hondaの藤原正和選手、山陽特殊製鋼の森本直人選手。箱根に比べれば急ではないし、長くもない。だが、その分スピードも出さないといけない。楽ではないだろう(当たり前だが)。
 1区の10km付近でやんでいた雪が降り始めたと思ったら、かなり大粒になっていた。こんな感じである。最高標高は291.5mだが、100 mで1℃違うという話しも聞いたことがある。
 区間賞はギタウ選手(JFEスチール)の29分18秒で、区間2位は飛松選手の29分32秒。8.4kmの最高点以後は下りになるのだが(景色のいい場所もあった)、このコースで29分30秒だったらすごいのではないか。と思ったら、区間4位までが区間新記録だった。ギタウ選手を集団に近い形(多少、ばらけていた)で追ったのが、新記録が続出した原因ではないかと、Hondaの明本樹昌監督が分析されていた。
 区間5位の藤原選手が30分22秒なので、短い距離でも差がつきやすいコースといえそうだ(当たり前か)。
 とにかく、聞くと見るでは印象が違う。ここまでのコースだとは思わなかった。山は箱根駅伝の専売特許ではないと、声を大にして言いたい(文字を大きくして書いてみた)。

 この大会のコースが、実は九州実業団駅伝とかなり重なるということは、事前に聞いていた。その辺を昨日の女子駅伝取材時に毎日新聞・H記者に聞いた。今日のレース中にF記者にも確認した。
 違ってくるのが3区後半から。実業団駅伝がまっすぐに近い感じで、北九州に向かう。地図上では右上にに直線的になる(朝日駅伝と比較した場合だ)。距離は79.7km。
 その点、朝日駅伝は、飯塚、田川、直方を経て北九州に向かう。左上に進んでから右方向やや上に行く感じである。距離も99.9kmと長くなる。
 実業団駅伝は全日本(現ニューイヤー駅伝)が今年で53回、九州は昨年で45回。朝日駅伝は今年で60回。朝日の方が古いのである。大会初期の上位チームをプログラムで確認することができた。
 第1回大会は1950年2月。戦後5年目のことだ。
1位・八幡製鉄
2位・三井鉱筑豊
3位・福岡市陸協

 第2回は三井鉱山が優勝。三井鉱筑豊と同じチームなのかどうかはわからない。だが、三井鉱山は3回大会2位、4回大会3位、5回大会3位、6回大会2位、7回大会2位と3位以内を続けていく。
 いうまでもなく「鉄と石炭」は切っても切れない関係にある。筑豊の炭田と、北九州の製鉄。なんとなく、朝日駅伝の始まった背景がわかる気がした。
 さっそく、陸マガの駅伝分析などを担当されている出口先生にメールをした。
 詳しくは書けないが、炭坑と駅伝開始は切っても切れない関係だったようだ。これは、フィニッシュ後に朝日新聞西部事業部OBの方にも確認した。

 報道車の運転手の方は何度も経験されている方のようで、関係車両を追い抜くタイミングの取り方や、抜け道の使い方などさすがと思わせるものだった。しかし、最終7区で先回りをするのには一度失敗した。脇道を飛ばしてトップ選手の前に出る予定が、ギリギリで間に合わなかった。
 だが、ケガの功名というべきか、目の前を選手たちが横切っていく形で見ることができたのだが、秋山選手と岩井選手のスピードの違いがわかった。Hondaの明本樹昌監督が、監察車から身を乗り出して後方を見ている姿も印象的だった。
 明本監督といえば、非常に紳士的な物腰で我々には接してくれるのだが、2区か3区で選手に声をかけていたときは怖かった。この辺はコニカミノルタの酒井勝充監督ら、強豪チームの指導者たちと共通しているような気がした。

 フィニッシュ後は岩井選手に密着した。テレビのインタビュー応援団への挨拶。この頃は天気も良くなっていた。
 ちなみに、後半区間になると、天気は好くなったり悪くなったり。たまに、晴れ間が出たと思ったら、また雪が舞い始めたりした。
 岩井選手のインタビュー後には、明本監督に色々と話を聞かせてもらった。Hondaはニューイヤー駅伝では3区でトップに立ちながら、4区のブレーキなどで結局8位。朝日駅伝では3年連続のアンカー勝負の末、旭化成に敗れ続けている。
 競技に関するコメントはこちらで紹介した。その他には、朝日駅伝に出る意味や、この駅伝の特徴を聞かせてもらうことができた。もちろん、Hondaも本気で勝ちに行っているのだが、ニューイヤー駅伝に比べてプレッシャーは小さいので選手たちも出場を嫌がらないという。この辺は、岩井選手のコメントからも伝わってきた。
 また、山がある2区に加えそれ以外の区間でも起伏が多いことや、監察車がつくことなど、「駅伝らしい駅伝」と説明してくれた。
 初めて取材をした寺田も、そう感じた。
 1区のスローペース。2区の山登りと下り。ケニア選手の快走。1、2、3区と首位が毎区間入れ替わった。
 後半4区間はすべて14.8〜16.8kmあり、どの区間でもレース展開が大きく変わる可能性がある。その象徴が今回は7区で、1分56秒差を逆転する岩井の快走に現れた。

 10日の日記に書いたように、実業団チームと大学チームが一緒に走る数少ない駅伝であり、クラブチームの参加もできる(今回は第一工大が棄権して大学はゼロだったが)。プレッシャーが少ないということは、選手が無理をすることはないし、出場過多の問題も生じないはずだ。
 こういう駅伝があってもいいし、あった方が選手もファンも楽しいと思う。


◆2009年1月13日(火)
 昼まで博多のホテルで原稿を書き、それから特急かもめ(自由席)で長崎に移動。十八銀行・高木孝次監督と連絡を取って、着いたその足で陸上部の寮に直行した。十八銀行の寮とグラウンド(市営?)はJR浦上駅よりもちょっと北側で、長崎駅からは2〜3km、グラバー園などからは5km近く離れている。
 しかし、原爆が投下され、現在は平和公園となっているのは、十八銀行の寮の近くだった。駅で地図などの(観光?)資料を集めてからタクシーに乗ったが、しゃべりたがりの運転手だったので疑問をぶつけてみた。広島が比較的中心地に原爆が落とされているのに、長崎が外れているのはなぜか、と。
 運転手がいうには、アメリカ軍も中心地か三菱重工の造船所に落とすつもりだったのが、悪天候のため北側に外れてしまったのだという。南側の中心地とは丘(山?)で隔てられていた。その分、爆心地の惨状はひどかったが、そのおかげで歴史的な遺産が残ることになったらしい。
 日本人なら知っていないといけない知識だったと思う。かなり恥ずかしくなったが、聞くは一瞬の恥、聞かぬはなんとやらである。
 12月に藤原新選手(諫早高OB)に取材したとき、聞いておけばよかった。長崎に歴史的な建築物が多く残っていることが、ちょっとは疑問に感じたことはあったのだ。
 かなりの自己嫌悪に陥ったが、取材に入ると取材に集中して、気持ちを切り換えられるのが寺田のいいところだ。

 寮に着くとすぐに、大阪国際女子マラソンに出場する扇まどか選手に、練習前の約20分(25分?)の間でインタビュー取材。練習内容や気持ちの面の話を聞いたが、初マラソンで5位(2時間26分55秒=日本選手3位)だった昨年の大阪と比べ、明らかに進歩しているようだ。
 今日はメニューがジョッグだったこともあり、練習は見ないで移動した。
 高木監督が平和公園を案内してくれた。そこが九州一周駅伝のスタート地点であることも初めて知った(長崎がスタートで福岡がフィニッシュであることは知っていた)。
 しかし、観光はそこまで。それは明日する予定である。
 いったんホテルにチェックインし、しばらくして陸上部の篠原部長、陸上部事務局の前田さんとも合流して食事……をしながらの取材である。しばらくあとに吉野前監督も合流した。取材のテーマは、地方の実業団チームが強くなる要因は何か、だった。
 といっても、まあ、そこまで硬い話をしたわけではなく、話をしているなかで寺田が感じた部分があっただけの話だが。

 取材テーマの地方の実業団が強くなる要因だが、上手く説明できないのだが、お金をかけた環境やシステムよりも、選手を“その気”にさせる“人”の存在が大事かなということだ。
 それが指導者であることが多いわけだが、指導者とは別に社内で熱心な人物がいることで強くなっているチームも多い。事務局や広報、あるいは陸上競技出身者でない陸上競技部のスタッフ。そういう人間の存在が、会社と現場を上手く結びついていく気がする。
 前田さんも陸上競技経験のない方で、業務の8割は一般業務である。にもかかわらず、陸上への情熱、選手に頑張ってほしいという気持ちには、こちらがビックリさせられた。そういった人たちの無形の力が、選手に影響を及ぼしているのは間違いない。
 選手の意識さえ高ければ、陸上部以外の人間は誰も知らないというプロ的な実業団でもいいと思う。環境や待遇に甘えず、自らを律することのできる選手もいるだろう。だが、そこまでの選手はそれほど多くない。なんらかの力に支えられると感じることで、選手の気持ちが違ってくる。

 地方を拠点にしていると、強い選手はなかなか入らない。十八銀行では須磨学園OGの野上恵子選手だけが、九州以外の出身だ。予算も都会のチームに比べて少ない(と思う)。
 07年に全日本実業団対抗女子駅伝6位となった日本ケミコンの泉田監督は、かける予算と、それに対する駅伝の順位を「日本一のコストパフォーマンス」だと胸を張った。これは寺田の勝手な想像だが、8人の部員(現在は7人)で9位に入った十八銀行も負けていないだろう。
 そういう環境でも扇選手が強くなり、野上選手が15分20秒台を出した。5000mの平均タイムなどを見ても、底上げが確実に進んでいる。九州実業団女子駅伝を制し、野上選手を欠きながら全日本実業団対抗女子駅伝で9位となった。
 同行ホームページのスタッフ紹介欄にある高木監督の平成20年度の目標は、
今年こそ、駅伝九州一!今年こそ、全日本ベスト10入り!
駅伝メンバー、5000M平均15分台!
そして今年も”感謝の気持ち”を持ち、走り続けます。

 だった。
 扇選手に、世界レベルまで強くなりたいと思う理由を聞いたら、「銀行の人たちへの感謝の気持ち」を真っ先に挙げていた。
 夜の取材で扇選手がそう話した背景が、少しだがわかった気がした。


◆2009年1月14日(水)
 長崎の今日は雨だった。
 朝食後にホテルの近くのオランダ坂に散歩に。
 その前にホテルの写真を紹介しておこう。これが室内で、これが部屋から見下ろしたパティオ。エレベーターの階数表示は、装飾された半円板の上を針が動き、階数を指し示すもの(わかるだろうか? このページの一番下の写真みたいなやつ)。1泊5600円でいいのだろうかと思うほど、洒落たホテルである。ホテルのホームページは1万2000円になっているが…。まあ、2007年に行ったモナコのホテルもなぜか安かったので、そういうこともあるのだろう。
 モントレ長崎というホテルで外装から内装まで、ポルトガル調で統一されている。長崎は江戸時代にオランダ交易の窓口となる前は、ポルトガルが主な交易相手だったのだ(間違っていたらメールを)。

 オランダ坂から東山手洋館群へ抜けて、その後、少し道に迷ったが、孔子廟までたどりついた。中に入るまでもないだろう。すでに11:30。小雨も降り始めた。
 路面電車に乗って十八銀行本店へ。
 話は逸れるが、寺田は実は路面電車好きである。広島で普通の記者がタクシーに乗るところでも、寺田は路面電車に乗る。日本なら昭和中期の雰囲気、海外なら1930年代の雰囲気を感じるのが路面電車なのだ。その趣向を後押ししたのが、ターンAガンダムだったか、宮崎アニメの何かの作品だったか。
 ところで、今回の取材ではっきりわかったのが、長崎が三菱の街であるということだ。造船所はもちろん、エレベーターとか公共の場に置かれているテレビとか、ことごとく三菱製なのだ。
 幕末から明治にかけて長崎で活躍したイギリス商人のグラバーと、三菱の創始者の岩崎弥太郎(土佐藩出身)の関わりは、なんとなくは知っていたが、ここまで三菱色が強いとは知らなかった。三菱重工長崎・黒木監督がそこまで教えてくれなかったからである。
 長崎の路面電車に乗ったとき、この車両も三菱重工製だろうと思っていた。ところが、何気なくドアの斜め上部分に「S26 日立製」の表示が。なんでもかんでも三菱製ではなかった。
 とはいえ、昭和26年だから、西暦にすると1951年。57年前の車両が現役で動いているのである。よく見ると、ドアの上にはかなりの隙間がある。

 高木監督とは、出島の横を通って隠れ家的な?中華料理屋に。肉そばが美味だった。
 食事後は路面電車でいったんホテルに戻り、2時間ほど仕事。
 小雨になった頃合いを見計らって風頭公園に。路面電車では行けないので、やむなくタクシーで。かなり上らないといけないようだったし。
 坂本龍馬の像があって、長崎市街を一望できた。しかし、雨が降ったりやんだり。写真に撮るとこんな感じになってしまうが、肉眼ではもう少しまともに見える。でも、やっぱり晴れているときに来たかった。
 帰りは龍馬通りを下り、亀山社中の前を通って市街に戻った。
 長崎は老舗のカフェがあることでも知られていて、そのうちの1つに入った。昭和40年代の雰囲気のカフェだった。原稿を書こうと思ってパソコンを取り出すも、なかなか書き出せず、結局、陸マガ2月号を読むにとどまった。パリでは深夜のカフェで原稿を書けたのに…。

 観光のことばかり書いていたら何かと思われるので、陸上競技の話題も。
 長崎県といえば島が多いのは皆さんご存じのとおり。実は昨晩の取材中、“陸上競技と島”が話題になった。昼間の取材で扇まどか選手が、対馬の出身だと初めて知ったからである。扇選手の出身高が長崎の強豪校の1つである口加だったので、それまで気づかなかったのである。
 長崎では男子400 mの田端健児選手と女子100 mの長島夏子選手も島の選手だった。
 愛媛県でも村上幸史選手が島の出身。これは有名な話だが、中世から近世にかけて瀬戸内で活躍した村上水軍の末裔である。
 その他にも、この名字は水軍の末裔じゃないかと思われる選手も数人いた。
「水軍の時代に鍛えられた人間の子孫が、スポーツに適性があるのではないか」
 寺田が持論を展開した。あくまでも居酒屋談義レベルであるが(とても記事には書けない)。
 十八銀行の方たちも、島の人間がスポーツに向いていることは同意見だった。しかし、“島の人間は水軍だったから”という理由には、すぐに同意できるものではない。
「魚を多く食べているからではないか」という吉野前監督の意見に説得力があった。


◆2009年1月15日(木)
 長崎は今日も雨だった。ということはなくて、昨日とは打って変わって晴天に。
 天気が良かったので昼まで観光をすることにした。朝食後、ホテルの近くのグラバー園に。エレベーターが点検中で利用できなかったのはまあ、ご愛敬である。運動不足の身には、階段を上る方がよかっただろう。
 古い西洋邸宅が売りの観光スポットかと思っていたが、グラバー園から見る長崎市街が絶景だった。これが今日撮った写真。昨日、小雨の中で撮ったものとの違いがわかるだろう。
 この写真が誰の邸宅だったのかは忘れてしまったが、この手の古い洋館が敷地内にいくつかあった。びっくりしたのは、普通の民家が隣接しているところがあったこと。そのせいだろうか。飼い猫がグラバー園のなかで昼寝をしていたり、我が物顔で歩き回っていた
 グラバー園の中でも最も標高?の高い場所には、三菱の元宿舎があり、そこでは三菱と長崎の関わりを展示してあった(VTRも上映されていた)。延岡が旭化成、防府がカネボウ、豊田がトヨタ自動車の街であるように、長崎は三菱の街だったのだ。と言い切っていいのだろうか(グラバー園は今でこそ長崎市が管理しているが、かつては三菱が運営していたからかも)。

 13時台の特急で博多に移動。有明の海も、来たときとは違って綺麗だった。
 この特急電車の中で、計測工房・藤井社長にならって自身の踏破県をチェックした。長崎に来たのは初めてだったし、佐賀県を通過したのも初めてだったからだ。
 その結果が下の表である。まず、陸上競技の大会に行ったことがある県には「大会」と記入していった。次に、大会には行ったことがないが、取材で行った県には「合宿取材」や「個別取材」と記した。陸上競技関係では行ったことがないが、個人的に行ったことがある県には「プライベート」、その地に降り立ったことはないが、電車に乗って通ったことがある県には「通過」と記した。
都道府県 人口(2007/10/1) 種別
北海道 5,602,437 大会
青森県 1,408,589 通過
秋田県 1,121,300 大会
岩手県 1,363,702 大会
宮城県 2,348,999 大会
山形県 1,198,710 大会
福島県 2,068,352 大会
茨城県 2,970,800 大会
栃木県 2,015,233 大会
群馬県 2,016,027 大会
埼玉県 7,104,222 大会
千葉県 6,108,809 大会
東京都 12,790,202 大会
神奈川県 8,899,545 大会
山梨県 877,835 大会
新潟県 2,407,430 大会
長野県 2,182,190 大会
富山県 1,105,312 大会
石川県 1,170,414 大会
福井県 816,198 通過
岐阜県 2,102,259 大会
静岡県 3,796,808 大会
愛知県 7,351,713 大会
三重県 1,869,307 大会
奈良県 1,410,825 プライベート
和歌山県 1,020,395 大会
滋賀県 1,394,809 大会
京都府 2,638,510 大会
大阪府 8,828,402 大会
兵庫県 5,594,249 大会
鳥取県 599,830 大会
島根県 731,652 プライベート
岡山県 1,952,160 大会
広島県 2,873,737 大会
山口県 1,473,994 大会
徳島県 799,981 大会
香川県 1,006,329 大会
高知県 790,950 大会
愛媛県 1,451,973   
福岡県 5,059,071 大会
大分県 1,204,772 大会
佐賀県 859,205 通過
長崎県 1,453,740 個別取材
熊本県 1,828,288 大会
宮崎県 1,142,636 大会
鹿児島県 1,731,639 合宿取材
沖縄県 1,373,754 合宿取材

 表からおわかりのように、愛媛だけ何も記入することができなかった。愛媛インターハイの時代(1980年代前半)はまだ、この仕事にタッチしていなかったし。
 実現はしなかったが、今回の西日本自主取材の最後は広島で全国都道府県対抗男子駅伝を取材する案もあった。長崎から広島に。被爆した両都市を巡るのも、意義のあることのように思えた。
 その間、最後の完全未踏県になる愛媛に足を伸ばし、東京マラソンに出場する土佐選手を事前取材する。長崎から愛媛、そして広島に。
 そういえば、土佐選手の夫の村井啓一さんは、広島出身である。
 ちなみに、池田久美子選手の夫の井村俊雄さん(棒高跳高校歴代3位)は兵庫出身だ。
 進学や就職で活動拠点が変わるのが陸上選手。長距離恋愛を上手く行うことは、強くなるためには重要な要素である。村井・井村対談を行って、そのノウハウを語り合ってもらうのも、若い選手のためには良いことではないかと思う(村井氏は乗り気だったが…)。
 しかし、愛媛行きの計画は挫折した。土佐選手を単独で取材するのは気が引けたので、京都で女子駅伝を取材中に日刊スポーツ・佐々木記者に「木曜日くらいに松山に行かない?」と誘ったら、「行けません」と断られたからだ(実名を出した方が一部でウケるので)。という会話があったのも事実だが、さすがに東京に戻らないと仕事がやばかったのだ。
 とにもかくにも、残るは愛媛。目標は定まった。


◆2009年1月23日(金)
 13:20に大阪のホテルニューオオタニに。大阪国際女子マラソンの記者会見を取材した。
 会見の様子はこちらに記事にした。
 会見後は指導者たちへの取材だ。それぞれの指導者を記者たちが囲むことになるが、誰に行くかは迷うところ。フォトセッションを途中で切り上げて会場の出口付近に行くと、すでに赤羽周平コーチが記者たちに囲まれていた。要するに、出遅れたのである。赤羽有紀子選手は編集部から担当に割り振られている。
 しかし、赤羽コーチには年末に電話取材をしていることもあり、今日は三井住友海上の鈴木秀夫総監督のところに行こうかと思っていた。渋井陽子選手の新たな取り組みも、興味あるところだった。
 赤羽コーチのコメントはI記者経由で入手。人づてに聞いたコメントを、本サイトにそのまま掲載することはしないが、栃木コンビのだいたいの流れは把握できた。

 会見場での取材後は、ホテルのロビーで関係者と接触のチャンスを待った。指導者への挨拶が目的である。
 最初に話したのは、昨年、亜大を辞して九電工に移った岡田正裕監督。12月の全日本実業団対抗女子駅伝のときと同じパターンだが、「女子マラソンはいつ以来ですか?」と挨拶。「吉川の名古屋以来ですから、10何年ぶりですか」と岡田監督。
 吉川真理選手はニコニコドー(熊本)の監督時代に指導した選手。あとで記録を調べると、96年と97年の名古屋に出場している。
 岡田監督といえば松野明美さんが1万mでソウル五輪、マラソンで93年の世界選手権シュツットガルト大会の代表になっている。その松野さんの初マラソンが92年の大阪。初マラソンで小鴨由水選手に次いで2位となった。
 今回出場するのは奥永美香選手。駅伝まではあまりマラソン用の練習ができなかったという。岡田監督のやりたいマラソン練習には、ちょっと期間が短かったという。
 松野さんも大阪で好走したのだから奥永選手もと外野は思うのだが、92年大会の松野さんはオリンピックに集中して、駅伝には出ないで準備をしていたのだそうである。
 そのな状況でも奥永選手は40km以上の距離走を3本、30kmを1本、20kmを2本こなしてきたという。奥永選手の目標は2時間25分。松野さんの時代よりもマラソンの記録は進歩しているので、練習のタイム設定などは速くなっているようだ。そうではあるが、疲れも考慮してしっかりと休んでいるという。
 という話を、挨拶するなかで聞かせてもらうことができた。

 その後の選考(松野選手は選考で落ち、小鴨選手は代表になったが五輪本番では不調)ばかりが話題として語り継がれているが、寺田にとってはそんなことは二の次である。92年は寺田が初めて、大阪国際女子マラソンを取材した大会だった。
 今では信じられない話だが、それ以前の陸マガ3月号は全国都道府県対抗女子駅伝を、大会報道としては一番大きく扱っていた。それを大阪国際女子マラソンに変更し、取材体制も大阪に人数を割くようにした。それが、92年大会だったのである。
 小鴨、松野の上位2選手の記事はライターの方にお願いし、編集者だった寺田は日本選手3位の山本佳子選手や同4位の浅利純子選手、渡辺なおみ選手と朝比奈三代子選手の旭化成コンビの記事を書いた記憶がある。
 岡田監督の“女子マラソン復帰”と、小鴨選手が今年、大阪に出ることマラソン「小鴨」再び羽ばたく 17年前初出場V→五輪惨敗→引退(産経新聞)が重なったことには、不思議な巡り合わせを感じる。
 渡辺なおみ選手も最近、その名前をお聞きした。先日の朝日駅伝を取材中に、岩井勇輝選手が彼女のことを話していた。その事情を書き始めると長くなるので、改めて紹介できたらいいかなと思っているが、これも偶然にしては出来すぎだ。

 続いて、ホテルの外をウロウロしていると、テレビのインタビューを撮り終えた藤川亜希選手とばったり会って、ちょっとだけ話を聞くことができた。

 藤川選手は99年の大阪が初マラソン。当時の所属はラララだったが、ラララが倒産して旭化成に移籍し、04年には今の資生堂に移った。初マラソンで2時間27分42秒を出して注目されたが(もしかしたら記事を書いたかもしれない)、その後、2004年の名古屋で2時間27分06秒の自己新を出してはいるものの、初マラソン時の期待の高さからすると、物足りない成績が続いている。
 下の表のように過去9回のマラソンで2時間27分台が2回、28分台が2回、残りの5回は2時間30分かかっている。
藤川選手のマラソン全成績
回数 月日 大会 順位 記録
1 1999 1.31 大阪 7 2.27.42.
2 2000 3.12 名古屋 8 2.31.25.
3 2001 3.11 名古屋 10 2.28.27.
4 2003 1.26 大阪 8 2.30.13.
5 2004 3.14 名古屋 3 2.27.06.
6 2004 11.21 東京 11 2.35.47.
7 2005 8.28 北海道 5 2.35.05.
8 2007 3.11 名古屋 19 2.39.23.
9 2008 1.27 大阪 8 2.28.06.

 その原因は故障が断続的に出てしまうことにある。
 初マラソンのときから、走った後に疲労骨折となった。
 それでも3年連続でマラソンを走ったが、継続して練習を積み重ねていくことができない。移籍の際にも、ブランクは生じてしまう。
 そして一番大きなケガは、2005年の北海道マラソン後に腰を痛めたことだった。同年11月には入院し、手術を行う一歩手前まで悪化した。一歩手前という言い方は正確ではない。手術をすることになっていたが、1週間前に症状が良くなったため手術を中止したのである。
 しかし、その後も、腰が完治することはないという。どうやって、“走れない痛み”になるのを抑えるか。
「3〜4カ月の故障なら大したことはないと思えるんです」
 移籍のときも、はたからはわからない苦労をしているはずだ。ラララが倒産したときは失業保険で食いつないだし、旭化成をやめるときも次の移籍先が決まっていたわけではない。
 断続的に続く故障と2回の移籍。
「少しでも走ることができれば、どん底の頃よりも良いと思うことができます」
 すれ違いざまにちょっと立ち話をしただけで、詳しい取材をしたわけではない。だが、インターハイにも出ていない自分が走れるだけでも幸せという認識、周囲への感謝の気持ちが、華々しい成績がなくても彼女を走らせている理由のようだ。
「気持ちだけは、どうでもいいと思うようなことはないんです」
 10回目のマラソン。初マラソンから丸10年。そして、30歳になった。同学年で続けているのは野口みずきや渋井陽子、加納由理選手ら、一握りになっている。しかも、強い選手ばかり。
「なんとか世界選手権の選考にからむレースをしたい」
 藤川選手の気持ちが、どこまで届くだろうか。

 藤川選手の次にお会いしたのが小出義雄監督。脇田茜選手のテレビ取材が終わるのを待っているところで、話をすることができた。ほとんどが陸上に関する世間話的な内容だった(書くことができたら面白いのだが)。
 脇田選手については「将来、世界レベルになるために、経験をすることが目的」だと話していた。「何kmまで行ったらバテるのか。マラソンはどういうものかを、早めに味わうことで今後につながる何かをつかませたい」
 これは本音だと思う。その一方で、成績が良ければなおいい、と考えているはずだ。
 脇田選手が取材から戻ってきたので会話は終了したが、そのときに高橋尚子さん、千葉真子さんという教え子2人と増田明美さんも一緒になり、すごい豪華メンバーに。写真を撮りたかったのだが…。
 その後、増田さんと談笑していると、夫の木脇さんも登場(ちょっとピンボケ。すみません)。フィナンシャル・アドバイザーが本職だが、最近はすっかり、陸上界になじんでいる。寺田のこのサイトも見てくれているようだ。いつか、どういう経緯で陸上にのめり込んで来たのか、話を聞いたら面白いのではないかと思った。

 続いて、ロビーに姿を見つけたのは小幡佳代子選手。記者会見中、記者席にいたので「引退したとは聞いていませんが?」と確認。今回はラジオの解説を務めるが、引退したわけではなく、来年の大阪には出場する予定だという。藤川選手が初マラソンだった99年大会で、日本人トップの4位となった選手だった。優勝は今回も参加するシモン選手で、3連勝のV2のときだった。
「99年はレースの流れに乗って冷静に走れていました。誰がきつそうとかわかる感じがあって、もしかして日本人トップになれるんじゃないか、と思いながら走っていました」
 シモン選手が32kmくらいでスパートして日本選手たちは離されたが、小幡選手は藤川選手を30km手前で引き離し、市川良子選手も30km前の大阪城内で「きつそうだから行っちゃえ」と判断してペースを上げ、しばらく後に引き離した。

 92年大会優勝の小鴨選手が今回出場し、2位だった松野選手を指導した岡田監督が女子マラソンに復帰する。99年の大阪を走った藤川選手と小幡選手、そしてシモン選手が、ちょっとずつポジションを変えて10年後の大阪に顔を揃えた。
 寺田が勝手にこじつけているだけのような気もするが、こうした人のつながりを目の前で見ると、この仕事をしていた良かったかな、と感じることができる。
 マラソン初解説(横浜女子駅伝で解説の経験はあるとのこと)の小幡選手には、「そのうち政界入りを」と勧めておいた。できれば4年以内に、と。日本初の総理大臣になり、日米首脳によるが小幡・オバマ対談が実現したら面白いだろう。
 それを隣で聞いていたライツの深山さんは、ドン引きだったが。

 そうこうしていると、2年前まで藤川選手のいる資生堂で監督だった川越学セカンドウィンドAC監督が、選手たちとの練習から戻ってきた。シャワーを浴びてもらった後にお茶を飲んだ。
 あくまでお茶をしただけだが川越監督と、セカンドウィンドACから出場する尾崎朱美、吉田香織両選手の話題になるのは自然の流れだろう。吉田選手は昨年の名古屋から始まって、北海道、カサブランカ、ホノルル、そして今回と、1年に満たないうちに5レースをこなすことになる。
1 2006 8.27 北海道 1 2.32.52.
2 2007 12.09 ホノルル 4 2.43.20.
3 2008 3.09 名古屋 12 2.30.58.
4 2008 8.31 北海道 3 2.33.37.
5 2008 10.26 カサブランカ 1 2.31.44.
6 2008 12.14 ホノルル 2 2.34.35.
 尾崎選手は昨年2月の泉州国際市民マラソン後、ハーフマラソンにはいくつか出ているが、トラックシーズン中の試合出場が少ない。その辺を取材…ではなく、話題にさせてもらった。吉田選手のキャラについても教えてもらえた。
 18時からはトヨタ車体・高橋昌彦監督ともお茶をする約束だった。高橋監督は新潟県出身。新潟では上杉謙信と直江兼継と河合継之介の誰が一番尊敬されているのかを知りたかったが、話題になったのは大南博美選手のことだった。これも、自然な流れだった。


◆2009年1月24日(土)
 午前中は宿泊ホテルで原稿を書き、昼から取材。
 昨日の時点で招待選手はほとんど、選手本人か指導者の話を聞くことができた。情報未入手の選手は京セラ・原裕美子選手くらい。会見のコメントはあったが、練習のこなし具合などの情報を入手したかった。
 ホテルに着くと高橋務コーチが外出するところに偶然お会いした。とっかかりとなる話を少し聞くことができたし、過去の原選手のマラソンや駅伝の走りを思い出すこともできた。
 幸い、午後の練習に行く原選手の表情を見ることもできた。
 表情が大事である。
(表情よりも大事なことも多い。)
 練習後には大森国男監督から、今回の練習内容を取材することもできた。スピードが良いときのレベルに戻らないまま、走り込みに入ったという。昨年の名古屋のときは逆に、スタミナが不足していたという。トータルしたら同じくらいとのこと。
 つまり、渋井陽子選手を振りきって優勝した2年前の大阪のときほど、練習は積めていないことになる。その状態で、どういったレースができるかが、今回の原選手のテーマのようだ。

 大会前日は一般参加選手の受付も行われる。ほとんどが市民ランナーで、そういった方たちを対象に、ミズノがオーダーメイド・シューズ(日経記事)のブースを出店していた。知った顔もいるかと思って顔を出すと、等々力信弘さん、鈴木学さん、田川茂さんたちがいた。
 寺田のようなフリーランスの場合、取材をして記事を書く本業とともに、営業的な活動もしておく必要がある。何かを売り込むというのではないが、色々な方たちと話をしておくことが、今後に役立つことが多々あるのだ。
 有り体に言えば、今は市民マラソンが気になっている。陸上競技と隣接している業界で、なおかつ元気がある。同じ場所を使う競技であるし、動き自体も似ている(精神面がまったく違うのだが)。さすがに、ここまで陸上競技オンリーで来たので、市民マラソンに鞍替えすることはないが、注意を払っていて損はないはずだ。
 実際、スポーツメーカーは市民ランナーを対象とした商品の売り上げの方が多い。セカンドウィンドACなど、市民ランナーを会員に抱えるクラブチームも出てきた。また、実業団長距離チームも、市民ランナーや若年層へのクリニックなど、地域に貢献する活動をするようになっている。

 そのミズノのブースに顔を出したのがセカンドウィンドACの吉田香織選手。鈴木さんがあれこれ説明しているところがこの写真だ。勘のいい読者はお気づきと思うが、初マラソンだった2006年の北海道で同選手が優勝したときに、監督よりも先に握手をしてしまったのが鈴木さんだった。
 別に非難するつもりはまったくなくて、その場の状況で自然な流れだったのだろう。鈴木さんにしても、自分の担当する選手が優勝すれば、嬉しくなってテンションが上がる。
 吉田選手の場合、ファンと触れ合う機会ではサインよりも、握手の方が価値があるらしい。北海道マラソンでの鈴木さんとのエピソードが、その背景にあると寺田は思っている。

 寺田が原稿を書くためにミズノのブースを立ち去るとき、入れ替わりにやって来たのが近藤さんだった。北京五輪の際、鳥の巣競技場に「ぴよぴよ入場」をしていた人物だ(寺田も真似をさせられた)。1994年の大阪国際女子マラソンで、安部友恵選手が優勝したときに派手なガッツポーズをしていたのは有名である。
 1992年に大阪国際女子マラソン取材を始めた寺田にとって、94年は3年目の大会。92年は小鴨由水選手(ダイハツ)が日本新、翌93年は浅利純子選手(同)が日本タイ、そして94年は安部選手が日本新を出した。寺田のテンションも毎年のように上がっていたが、大阪国際女子マラソンはメーカーの方も熱くなる大会だと実感できた。


◆2009年1月25日(日)
 17回目の大阪国際女子マラソン取材。92年大会から皆勤なら18回目となるのだが、95年は阪神・淡路大震災のため大会が中止になった。
 改めて言うまでもないが、災害や戦争があったらスポーツは行うことができない(平和への感謝の気持ちを新たにするためにも、先日の長崎取材は意味があった)。大不況になったらどうなるのかも心配だ。特にマラソンは道路を使用するため、一般社会からの影響が大きい。
 ということで、取材ができることに感謝をしつつ、17回目の大阪国際女子マラソンに臨んだ。

 昨日の時点でのレース予想は、「今回ばかりはわかりません」だった。
 しかし、親しい人たちには「渋井選手が行ければ渋井選手。行ききれなかったら赤羽選手」と話していた。この予想は、京セラ・大森国男監督と話していて、寺田の頭の中で固まってきた。
 大森監督も赤羽有紀子選手のことを高く評価していた。トラックの実績に加え、昨年3月の全日本実業団ハーフマラソンに1時間08分11秒で優勝したことに、さかんに言及されていた。タイムはもちろん、ケニア2選手と渋井選手をブッチぎった内容がすごかった。
「ほとんどの選手が渋井選手ではなく赤羽選手につくだろう」という大森監督の予想だった。つまり、渋井選手が赤羽選手も追えないほどのペースで飛ばせば、誰もつかずに独走になる。赤羽選手についていれば、逆転の可能性もある。もちろん、赤羽選手が渋井選手につけば、他の選手もついていく。
 結果的に渋井選手は飛ばさなかったが、30km以降を“行ききれた”。それに続いたのが赤羽選手。多くの関係者が予想した範囲の結果だったのではないか。
 ただ、渋井選手のことを懐疑的に見ていた関係者・記者もいた。寺田も絶対に行くとは予想できなかった。ただ、実業団女子駅伝時の鈴木総監督と渋井選手への取材で、行けるのではないかと思っていた(そう、高橋編集長にも言った)。
 渋井選手は「自分に裏切られ続けていたので、今回は裏切られないようにしたい」と話したが、懐疑的に見ていた記者や関係者の予想を良い意味で裏切った。

 レース後、長居競技場では記者会見が、陸連幹部、原選手、渋井選手、赤羽選手の順で行われた。
 原選手の一問一答は、時間があったら記事にしたい。
 渋井選手の会見の様子は、陸マガ3月号の記事にする。本サイトでは、明日の一夜明け会見の様子を載せようと思っている。
 赤羽選手の一問一答はこちらに記事にした。
 表情を書くライターの寺田は、赤羽選手が悔しそうでない点に着目した。大会前の取材では、世界選手権代表というところにこだわりをもっていたからだ。もちろん、可能性はまだ残っているが、無条件内定を勝ち取ることはできなかった。その点は、会見後の周平コーチへの取材でも、Mディレクターが突っ込んでいた。
 会見後は赤羽周平コーチの取材。陸マガの仕事としては、赤羽選手の人物記事が担当だ。

 場所を大会ホテルの表彰式&フェアウェルパーティー会場に移しても、赤羽夫妻に少しだけ密着。取材をしたわけではなく……この辺は企業秘密というか、ワケあって詳しくは明かせないのだが、陸マガ用のネタを入手した。
 赤羽選手の表情がさばさばしていた理由を明らかにすることと、夫婦二人三脚のマラソン練習を、陸マガ記事のテーマにしようと思っている。
 3月号の発売日(2月14日)を待っていただきたい。
 パーティーの終わり際、奥永美香選手と扇まどか選手の九州コンビに会場(ホテル)の外で話を聞くことができた。少しでも紹介できればと思っている。
 パーティーの最後の最後で、川越学監督の姿を発見。走って行って吉田香織選手が、10kmも行かないうちにリタイアした理由を聞いた。スタート直後は先頭に立つなど、元気に走っていた。アップを見ても、軽快な感じに仕上がっていたと川越監督。
 だが、この軽さというのが曲者だったようだ。

 パーティー終了後はロビーのベンチで原稿書き。このサイトに載せる記事をどうするか、相当に迷ったし、あるデータを載せようと調べたが、調べきれないことがわかって時間が無駄になったりした。最初から赤羽選手の一問一答にしておけば良かったのだ。欲張ったのが裏目に出た。
 あまりお酒を飲まない大森監督と大内さんが、近くを通ったときに声を掛けてくれた。S選手は、寺田が一心不乱にキーボードを叩いていたので、遠慮してくれたらしい。


◆2009年1月26日(月)
 別大マラソン翌日のネタを書いておきながら、大阪国際女子マラソン翌日のネタを書かないのはよくないだろう。ということで、時間は前後してしまうが、1月26日のことを書いておこうと思う。

 朝の8:05に大会本部ホテルのニューオータニに。ロビーで吉田香織選手にばったり。
 昨日はスタート直後にトップを走りながら、10kmも行かないうちに途中棄権していた。ふくらはぎが張ってきてしまい、ケガにつながりそうだったという。時間がなかったので“すれ違い取材”に近かったが、おそらく、かなりマズイ状態だったのだろう。昨年の加納由理選手のような、名古屋へのスライド出場があるかどうかまでは聞かなかった。ふくらはぎの状態を見ながら判断していくことになるのではないか。

 じっくり話を聞けなかったのは、8:15から渋井陽子選手の一夜明け会見があったからだ。
 同選手の一夜明けは2001年以来8年ぶり。1992年から続いている寺田の大阪国際女子マラソン取材だが、フリーになって初めての取材が2001年大会だった。そのときも、鈴木秀夫監督が同席して話が盛り上がった記憶がある。どこか、懐かしさも感じた会見だった。
 会見の様子はこちらに記事にした。
 文面だけで伝わりにくいこともあるが、この会見の渋井選手の「なんかなんか、ですね」も、そういった類のものだったと思う。
Q.後半ペースアップした昨日の走りが、理想ということになりますか。
渋井 なんかなんか、ですね。私は速い選手になりたいので。たぶん、強い選手じゃないので。記録は狙いたいと思っています。

 これまで自分のパターンではなく、後半の爆発的なペースアップで勝つことができた。でも、自分の持ち味であるスピードを生かした走りを、今回の結果だけで否定したくはない。
 記者の質問に対して「違います」というのでなく、「なんかなんか、ですね」と答えることで、自身の微妙な心情を表しながら否定したのだ。

 渋井選手といえば、2000年1月の全国都道府県対抗女子駅伝9区で区間賞を取ったときに、「2000年問題で時計が狂っていないといいですね」というニュアンスの発言をした。入社3年目。この区間賞は“シニア・デビュー”の意味合いが強く、ここから同選手の快進撃が始まった。
 その頃から、ユーモアのあるところを見せていた。世間の流行を自然と、自分の言葉に組み込める選手だった。今回のレース後の会見で水泳・北島選手が北京五輪で発した「なんも言えなぇ」を口にしてから、「パクっちゃいましたね」と笑ったのも、同じセンスと言っていいだろう。
 しかし、一夜明けの「なんかなんか、ですね」は、それとはちょっと違った味わいがあった。人間的な深みから出てきた言葉のように感じているのだが、皆さんはどう感じるだろうか。
 昨年の陸上界の流行語大賞は、福島千里選手が100 mで日本新を出した後や、オリンピック代表に選ばれたときに発した「ビックリです」だった(寺田が決めました)。渋井選手の「なんかなんか、ですね」は、今年の候補である。
 「ビックリです」に比べ、その場にいた人間でないとわかりにくいかもしれない。ベルリンかどこかで、もう一度渋井選手が話す機会があればいいのだが。

 渋井選手の会見後は、ロビーで原稿書き。をしながら、チェックアウトする指導者や選手たちに挨拶(取材ではない)。
 小出義雄監督には名古屋に出場予定の新谷仁美選手と堀江知佳選手の様子を聞いた。かつての教え子である鈴木博美選手と高橋尚子選手の名前も出てきたが、それが新谷選手とどう関係するかは、挨拶中の会話だったのでここでは書けない。北海道優勝の佐伯選手は名古屋ではなく、東京マラソンを考えているようだ。
 3位だった原裕美子選手にも挨拶。栃木の先輩2人の後塵を拝したが、練習内容からすると納得できる走りだったようで、表情は明るかった。次のマラソンがどこになるかわからないが、良い感じで行けるのではないか。
 弘山勉監督と藤永佳子選手にもすれ違い取材。藤永選手は大阪には出ていなかったが、これから名古屋の試走に行くところだった。初マラソンの目標は「スタートラインに着くこと」とのこと。ただ、成功したときには、藤原新選手との諫早高同級生対談は受けてくれると約束してくれた。

富士通ニューイヤー駅伝優勝報告会・競歩編
 この日、渋井選手と富士通ニューイヤー駅伝優勝報告会を取材していて、“噛み合わない2人”という言葉が浮かんだ。
 渋井陽子選手と土佐礼子選手は、結局、1回しか同じマラソンを走らなかった。土佐選手が銀メダル、渋井選手が4位となった世界選手権エドモントン大会だ。
 21世紀の日本女子マラソンにおいて、東の主要勢力だった三井住友海上の2人が、1回しか同じレースを走っていない(土佐選手が復帰して対決する可能性もあるが)。
 これは中国電力勢などもそうだが、チーム内の選手同士の争いにならないよう、選考レースを振り分けるからだ。

 大阪で渋井選手の一夜明け会見を取材後、東京に戻った。新幹線を品川で降り、いったん新宿に。なんだかんだで、仕事部屋に行かないとできないことも多いのだ。
 品川に取って返して、昨年の北京五輪帰朝報告会に続き、御殿山ガーデン ホテルラフォーレ東京で開催の富士通ニューイヤー駅伝優勝報告会に。駆けつけるのが少し遅れてしまった。
 すでに一通りの挨拶は終わったようで、出席者は思い思いに歓談していた。
 各大学の監督も招待されていた。早大・渡辺監督、日体大・別府監督、東海大・新居監督、順大・仲村監督たち。監督たちの都合もあり、富士通に選手を送り込んでいる全大学というわけではなかった。
 人気だったのは渡辺監督。富士通の偉い方たち(?)にあれやこれやと質問攻めにされていた。小栗兄弟(市船橋高→専大→富士通)も近くにいて、話題は市船橋高になっていたので、寺田も「全国高校駅伝の前日に各高校の監督への質問は、1区は渡辺選手に着いていくかどうかでしたね」と、思い出話を。
 渡辺監督の著書の部数が2万部と聞き、朝原選手の「肉体マネジメント」(寺田も関わっている書籍)もそのくらい売れないかな、という思いを強くした。箱根駅伝の本が売れるのはわかる。ファンの数は膨大だ。しかし、トラック&フィールドのファンが高いパーセンテージで買えば、朝原本だってそのくらいは行かなければいけないだろう。

 報告会終了後には囲み取材。
 まずは前日に日本選手権に出場した競歩コンビ、森岡紘一朗選手と川崎真裕美選手の共同インタビューが行われた。富士通は長距離とトラック&フィールドの双方の選手を抱える数少ないチームだが、競歩選手を3人も擁するのは富士通だけだ(競歩の今村文男コーチも)。
 インタビューの最後に、そこまで競歩に理解を示す富士通とは、競歩選手にとってどんな会社なのか、を質問した。
「福嶋監督が先ほど『夢を形に』と挨拶のなかで言っていました。競歩は今、少しずつ知られるようになっていますが、まだまだメジャーとは言えません。競歩選手たちにとって、人気のある競技にするのが夢なんです。それを形にしてくれる会社だと思います」と森岡選手。
 入社して間もない川崎選手も「環境的に整っているのが富士通。私が入社させてもらったのも、何かを変えなければという思いがあったからですが、世界に出て何かを形に残すためにも一番の場所だと思いました。夢を形にできる会社ですし、私も夢を持ってここに来ました」と答えていた。
 川崎選手は競技歴も長く、環境面で苦労もしている。これまでの取材経験から、こういったことをしっかりと話すと思っていた。
 ビックリさせられたのは入社2年目、24歳の森岡選手が、ここまでしっかり話したことだった。地元インターハイでの失格はあるものの、基本的にはエリート選手で順大卒業後に富士通に入社した。今村コーチら、かつての競歩選手たちのように、競技環境を整える苦労はしていない。表面的には恵まれているように見えても、内面的にはしっかりと苦労をしているのだろう。さすが“朗”のつく選手だけのことはある。

 “朗”に関してだが、“森岡紘一郎”と間違って名前を書かれるという話をしてくれた。すかさず寺田が「“朗”のつく名前の人間にとって宿命のようなものなんです。40年以上生きてきても間違えられる」と言うと、「朗(ほがら)かじゃないからではないか」とO山ライターからの突っ込み。確かに、周囲の女性たちからは“神秘的”と言われている。というのは、もちろんウソだ。三井住友海上の鈴木総監督からは「いつもニコニコしているよな」と言われるのだが。これは本当。
 森岡選手といえば、朝、話をした藤永佳子選手と同じ諫早高出身。寺田も先日、長崎に行ったばかり。長崎の地理にも少し詳しくなったので、「何市の出身?」と同選手に質問したところ、「諫早市です」とのこと。強豪選手の場合、他地区からスカウトされて入学することも多いが、競歩選手の場合はその確率が低いのかもしれない。

藤田選手・三代広報編
 競歩2選手のあとに、真打ちの藤田敦史選手と福嶋正監督の共同インタビュー。東京マラソンも控えていることだし、藤田選手のコメントは記事で紹介するのが一番いいだろう。早くしないと、共同取材日が先に来てしまうかもしれない。
 藤田選手取材終了後に、寺田だけが重要な情報をゲットした。
 三代直樹広報も、東京マラソンに出場するというのだ。陸上部を退いた後も、陸連登録はしていたのである
 改めて紹介するまでもなく、藤田・三代コンビは同学年のライバルだった。藤田選手が駒大、三代広報が順大。1区、2区、2区と箱根駅伝で3年間同区間を走り、藤田選手が1秒、10数秒、数秒と連続で勝っていた。
 4年時の2区での激突が期待されていたが、藤田選手がチーム事情などで4区に回った。2人とも区間新記録の快走を見せたが、直接対決は実現しなかったのだ。
 富士通入社後はチームメイトになり、駅伝で対決することはなくなった。種目も三代広報がトラック、藤田選手がマラソン中心になり、ガチンコ勝負は見られなくなった。
 三代広報が苦労しながらもマラソンに進出(03年の東京で2時間10分33秒で4位)。その後マラソンで2度一緒に走っているが、2005年のびわ湖は三代広報が途中棄権。藤田選手もまだ不調から抜け出せていない時期で2時間12分台で10位。
 2007年の福岡は、藤田選手が本気で北京五輪を狙って出場したのに対し、三代広報は引退を覚悟したレースだった。2人が絶好調で対決するレースは富士通入社後、記憶にない。
 その福岡で藤田選手が2時間12分29秒で8位、三代広報が2時間12分56秒で9位。タイムが近くなったのは、皮肉にも感じられた(富士通サイトに三代広報が書いた記事参照)。

 ライバルと言われながら、“噛み合わない2人”ということでも有名だった富士通コンビ。今朝、取材した渋井選手も、土佐選手と同じマラソンは1回だけ。
 しかし、と藤田・三代コンビ(写真)を見ていて思った。
 藤田選手は東京マラソンで、年齢的な部分を克服して競技生活の新たな局面に入ろうとしている。三代氏は広報として、東京マラソンに挑む藤田選手を取材する立場にあるし、同じレースを走るという。
 渋井選手も大阪で完全に、競技生活の新たな境地に達したといっていいだろう。そして土佐選手は、松山に戻って新たな生活をスタートさせた。北京五輪で完走できなかったマラソンを、3月の東京マラソンで完結させようとしている。
 “噛み合わない2人”というのは単に、同じマラソンへの出場や、絶好調同士での対決が少ないだけだ。富士通コンビも三井住友海上コンビも、競技人生の波は、絶妙のコントラストを描いているような気がする。本当は“噛み合っている2人”なのだと思う。
 日本長距離界を彩った2組のコンビが、東京マラソンで鮮やかなワンシーンを見せてくれそうだ。


◆2009年1月31日(土)
 朝9時台のJAL便で大分入りして、13:15には別大マラソン大会本部のある大分東洋ホテル入り。
 別大マラソンの取材は西田隆維選手が世界選手権代表を決めた2001年、福島の“あつし対決”(藤田敦史選手と佐藤敦之選手)で注目を集めた2007年に続き3回目。
 佐藤敦之選手といえば、会見前に坂口泰監督と立ち話。明日の丸亀ハーフに出る北京五輪代表2人のことを聞いたところ、尾方剛選手は結局、間に合わなかったとのこと。しかし佐藤選手の方は、状態が上がっているという。秋にもマラソン復帰があるのでは? と話を振ると、4月のロンドンに出場するという。代理人のブレンダン・ライリー氏の姿もあったので、詳細を詰めたのかもしれない。

 会見は最初に外国招待6選手が行われた。
 ケン中村さん(アメリカ在住のATFS会員で、大阪世界選手権ではメディアチーフ代理)からデータをいただいていて、2時間08分49秒の記録を持つピーター・キプロティチ選手(ケニア)に注目していた。“あつし対決”にわいた2年前の別大でペースメーカーをしているが、ベルリン・マラソンでも何度かペースメーカーをしている。
 隣のISHIRO記者に時間が大丈夫か確認してから(日本選手の会見時間を少なくするといけないので)、ペースメーカーの回数と、それ以外の回数を質問……したが、こちらの意図が通じずピントのずれた答えが返ってきた。
 だったらと、自分がペースメーカーをしたレースで世界記録が出た回数を質問すると、「3回」という答え。手元の資料では2回しか確認できなかったので、フォトセッション後に突撃取材。プリントアウトしたデータを見せながら、具体的に聞いたら、「2003年のベルリンと2007年のベルリン。その2回」という答えだった(久しぶりの英語だったが、まあ、簡単な質問だったので通じた)。つまり、テルガトが人類初の2時間4分台を出したレースと、ゲブルセラシエの前世界記録である。

 続いて日本選手5人の会見。その様子はこちらに記事にした。
 会見に続いて15分ほどの囲み取材の場も設定されていた。福岡国際マラソンでも行われているので、九州方式だろうか。でも、昨年の東京マラソンでもあったかな。諏訪利成選手の話を聞けた記憶がある。
 12月の福岡国際マラソン、1月の朝日駅伝に続いて九州取材は3連チャン。囲み取材は1人か2人しか話を聞けないわけだが、九州の記者の方たちとも顔なじみになってきて、囲み取材のコメント交換にも加わることができた(ただ、他の記者からもらったコメントは、このサイトには掲載しない。それが仁義である)。
 会見の囲み取材の印象では、足立知弥選手がかなり良さそうである。優勝した昨年と同じような練習内容を、今回はスピードも織り交ぜながらできているという。ニューイヤー駅伝のアンカー三つ巴決戦で敗れたことも、引きずっていないようだ。ことがことだけに、少し遠慮がちに聞いたのだが「勝っているシーンを夢で何度も見ます」と言う。かなりのポジティブ・シンキングの選手のようだ。
 勝つとしたら秋葉啓太選手か(この2人は直接話を聞いている)。毎日新聞の記事に、30kmが必要あるのか、という若倉監督の指示に異を唱えたとあったので、距離走が嫌いなのかと思いきや「あれは駅伝の前の話。走り込む練習は好きなんです」と言う。この記事だが、確かにそう書いてあった。1月に故障があったというが、言葉の端々に自信がにじみ出ていた。
 20kmの強さは2度のニューイヤー駅伝最長区間区間賞で実証済み。30km以降がどうなるかは正直やってみないとわからないが、ハイペースを押し通せるとしたら秋葉選手だろうか。
 野田道胤選手は「距離走、距離走というものをしないで」という部分が面白そうだ。なんとなくはわかるが、詳しい話はレース後に聞ければと思っている。
 太田崇選手は過去4回のマラソン中2回が途中棄権と、駅伝とは別物になってしまっているが、前回の東京は2時間12分台とまとめている。失敗続きで苦しんだが、ある時期を境にマラソンをつかんだジェンガ選手のパターンを踏襲する可能性もある。
 鬼塚智徳選手は余計な欲は持たず、「自分のスタイル」を貫き通すことに徹しているように感じられた。

 会見後はロビーで原稿書き。大会本部のある大分東洋ホテルは選手の動線がわかりやすく、関係者と接触のしやすいホテルだ。
 最初にすれ違ったのは、堀口貴史選手と三行幸一選手。取材ではなくあくまで立ち話(世間話)だが、堀口選手からはニューイヤー駅伝の失敗が、外反母趾の痛みであることを聞いた。その影響も懸念して招待を受けずに一般参加にしたが、駅伝1週間後の距離走がきっちりとできたので出場を決めたという。その後の練習は順調で、初マラソン時の自己記録(2時間12分06秒)の更新を目指している。
 三行選手は初マラソン。面識がなかったが、ホテル名に“東洋”と付いていたので話しかけることにした。東洋大のOBで箱根駅伝の2区区間賞選手だ。ただ、本人はニューイヤー駅伝出場を逃している。箱根駅伝で初優勝した「母校の活躍が刺激になっている」という。
 三菱重工長崎の小林誠治選手と原和司選手には、マラソンの回数を確認。こちらのデータと一致した。マラソン前日はこの作業が重要である。小林選手とは長崎の話も少しさせてもらった。

 ブログが好評の佐藤信春監督(福島県出身)からは、初マラソンの福山良祐選手の好調ぶりと、西田隆維選手がラストランであることを聞いた。西田選手といえば寺田の別大初取材時の2001年に2時間8分台の好記録で優勝した選手。あの年も世界選手権選考会に別大が指定されていた。
 あれから8年。
 そのとき2位だったのが、あのアテネ五輪銅メダリストのデリマ(ブラジル)であり、3位だったのが川嶋伸次選手(当時旭化成)だ。川嶋選手は確か、旭化成ラストランだったと思う。その川嶋選手が東洋大の監督となり、優勝監督にはならなかったが、東洋大を箱根駅伝優勝チームに育て上げた。教え子の三行選手は前述のように、今大会が初マラソンである。
 駒大の箱根駅伝初優勝時の9区(区間新)だった西田選手が卒業後に入学し、駒大4連覇を経験した田中宏樹選手も今回が初マラソン……かと思って中国新聞・山本記者に確認したら2回目だった(青梅で勝ってボストンに出場)。
 8年あれば、色々なことがある。西田選手は当時エスビー食品。その後は故障が多く、活躍の場を現在の所属のJAL GSに求めたが、再起はならなかった。その間には、言葉では言い尽くせない苦悩があったと思われる。
 西田選手ともすれ違ったが、引退後は山本豪選手と一緒に活動するという。「役者の道も頑張りたい」と言っていた。
 別大での別離……とか書くのはちょっと苦しいか。あとで削除するかもしれない。


◆2009年2月1日(日)
 別大マラソン取材。
 朝、ホテルの窓からは抜けるような青空が見えて、これは良い記録が出るんじゃないか、と思ったのも束の間、外に出るとかなりの強風。タクシーの運転手に、どちら方向の風かを確認すると、別府に行く往路が向かい風とのこと。復路が向かうよりはいいのだが、2時間8分台とか9分台前半は難しいかもしれないと感じた。
 レース前には各監督たちと雑談。中国電力・坂口泰監督に佐藤敦之選手のことを確認すると、ロンドンは出場するのは間違いないが、正式契約はまだできていないということだった。

 レースは寺田の予想が見事に外れ、足立知弥選手は6位に。まあ、マラソンの予想が当たることは、トラック&フィールドに比べて少ないのだが。足立選手でなければ秋葉啓太選手かなと思っていたが、伏兵の小林誠治選手(三菱重工長崎)が健闘して日本人トップに。
 しかし、小林選手かな、という予感もあったので、先月、長崎に足を運んでいたのだ。というのは、もちろんウソである。ときどき「お前くらい長く取材をしていたら予想できるだろう」というニュアンスで質問してくる方もいるが、誰が勝つかわかったら苦労はしない。
 渋井陽子選手のことを自慢げに書いていたのは誰だ? と言われるとつらいのだが、結果を出すんじゃないかと感じていた選手の1人ということで、優勝を予想していたのとはちょっと違うのだ。この辺は、選手が動きの感覚を話すのと同じくらいに難しい。
 福山良祐選手がペースアップしたときは、このまま行くんじゃないかという勢いがあった。昨日の佐藤信春監督の話を思い出し、どんな視点で話を聞くかを考え始めたが、同選手は残念ながら後退してしまった。以前、福岡国際マラソンで同じような感じでペースアップしながら遅れてしまった西本一也選手(30kmの元日本記録保持者)を思い出した。

 レース後はまず、インフィールド取材。これができるマラソンはそれほど多くない。記者の数の問題もあるが、別大マラソンは取材のしやすい大会である。
 フィニッシュ直後にどうかと思ったが、テレビ(ラジオ)の記者が足立知弥選手に話を聞き始めたので(放送中にコメントを紹介するため?)、他のペン記者たちもそこに便乗。会見は3位の選手までと陸連だったので、そこで話が聞けたのは助かった。
 小林選手と秋葉選手にも囲み取材の輪ができていたが、途中から加わっても話がわからないことが多いし、会見もあるので三菱重工長崎・黒木純監督の取材の輪に加わった。これも途中からなのだが、重複した質問もできるケースもある。
 黒木監督にある程度の話が聞けたところで、競技場2階の会見部屋に移動。役員に誘導されて小林選手が移動し始めたのを、見逃さなかった。正確には見ていたわけではなく、その雰囲気を感じ取ったのだ。先々週の朝日駅伝ではそれを感じ取れずに失敗した件があったが、その教訓をさっそく生かすことができた。連続の九州取材は、まさしく役に立っている。
 しかし、会見が始まるまでにちょっとの時間がありそうだったので、廊下の外で林昌史選手(ヤクルト)を取材しているISHIRO記者たちの輪に加わった。すぐに会見が始まりそうになったので、マラソンの出場回数だけ確認させてもらった。

 会見は陸連・木内氏(富士通総監督。日本インカレ5000m4連勝)、小林選手、アンナニ選手、秋葉選手の順で行われた。小林選手のコメントは一問一答形式で再現したのではなく、整理した形で記事にした
 秋葉選手も面白い話をしてくれたので、時間があったら記事にしたい。ただ、陸マガの人物もの記事に優先的にネタを持っていくので、その後ということになる。
 苦労したのは優勝したアンナニ選手だった。大会側の通訳の方がエージェントに英語で話し、エージェントがアンナニ選手にイタリア語かフランス語かアラビア語で話すため(3カ国語を話すという)、質問の意図がなかなか伝わらない。
 手元の資料では同選手は28歳。しかし、マラソン歴は2008年の2回だけ。モロッコの選手でもあるし、それ以前はトラック中心だったのかと思いきや、5000mや1万mの持ちタイムもよくない。5kmが13分52秒、10kmが28分07秒だという。
 トラックの記録を聞き出すのに時間がかかったが、肝心の質問は、陸上競技を始める前に他の競技をやっていたのではないか、という点。こちらの予想通り、陸上競技の前はサッカーをやっていたという。
「1993年まではサッカーをやっていたが、ジュニアの陸上競技の大会に出たのが95年だった。小さなチームでクロスカントリーやトラックをやっていた」
 そこで次の疑問が生じた。95年から10年以上走ったモロッコ選手が、5kmが13分52秒というのは理解できない。隣の席の某専門誌、博多っ子ライターKも「中距離をやっていたのでは?」と疑問を口にしていた。
 だが、そこまで聞き出すのにもかなりの時間がかかっていた。外では秋葉選手が待っているという。優勝記録も2時間10分台ということで、それ以上の追及はあきらめた。トラックには出てはいたが、本格的にはやっていなかったということだろう。海の向こうの彼の国には、想像もつかない選手が存在するという理解にとどめるのが良策と判断した。

 会見後は記録を入手すると、大会本部ホテルに移動。
 ロビーでトヨタ自動車九州の中崎幸伸選手と石本コーチに話を聞くことができた。まずはマラソン回数を、手元の資料が正しいかどうかを確認。そこでわかったのが、冬のマラソン出場は2時間09分28秒と好走した2004年東京国際以来、5年ぶりということ。05年の北京国際は2時間12分29秒で3位とまずまずだったが、06年以降は夏の北海道だけで、その順位も17位、6位、27位と芳しくない。
 疲労が蓄積しやすく、体調がなかなか上向かないのが理由だった。1年前には2カ月間、一般業務に専念した時期もあったという。
 それを聞いて、第2集団でレースを進めた理由が理解できた。2時間15分03秒で10位という結果は、復調の兆しと見てよさそうだ。
 続いて、福山選手と西田隆維選手のJAL GSコンビに取材。初マラソンの福山選手には、折り返し後に見せた飛び出しについての取材なので短時間で大丈夫だったが、ラストランの西田選手には聞きたいことが山ほどあった。
 時間の関係で必要最小限にとどめたが、いくつか面白い話を聞くことができた。
 1つは、選手は我々が考えるほど、あれこれ思い出に浸りながら走っているわけではない、ということだ。昨日の日記に寺田が書いたような、優勝した2001年大会で一緒に走ったデリマ選手や川嶋伸次監督がどうとか、駒大の後輩の田中宏樹選手がどうとかを考えることはなかったという。ラストランといっても本気で練習をしてきたわけで、それを発揮することに集中しているのである。同じようなことは、引退する選手を取材していて何度か感じたことがある。
 話していて印象的だったのは、西田選手が自分のやってきたことを美化していないこと。駒大とJAL GSでやった野尻湖の練習が、まったくできていなかったことを正直に話してくれた。そして、これから進もうとしている俳優の道も、そんな簡単に成功できるものではないとの認識も、しっかりと持っていた。それでもトライしようとしている。それだけ、気持ちが強いということだろう。

 パーティーでは各監督たちと雑談。
 旭化成・宗猛監督には今日の足立選手の結果について話を聞いた。
 小森コーポレーション・若倉監督には、秋葉選手の特徴について。会見時の同選手のコメントから推測できることがあったが、そこの理解を深めることができた。秋葉選手だけでなく、40km走を多く行わない選手全般に言えることというか、マラソン練習のパターンが画一的でないことの理解というか。
 三菱重工長崎・黒木監督とは長崎ネタと宮崎県ネタの話をした。
 小林誠治選手が宮崎県出身という記憶はあった。でも、小林高ではない気がしていた。高千穂高出身であることを、博多っ子ライターKが携帯で調べてくれた。ということは、黒木監督直系の後輩だ。
 という話をすると、「僕は高鍋ですよ」と同監督。宗猛監督も一緒になって、宮崎県の地図に延岡、宮崎、高千穂、高鍋、小林の場所を書き込んでくれた。九州取材最後の夜にふさわしいエピソードだと皆さんも感じているに違いない。
 しかし、高千穂高出身選手は他にも誰かいた記憶がある。
「中崎ですよ」と黒木監督。つい先ほど話していたトヨタ自動車九州の中崎選手である。中崎選手と話していたときは、同じ帝京大出身のクロカン王子こと飛松誠選手と「同じマラソンを走ったら話題になるんだけど」という話をしていた。まさか、小林選手と先輩後輩だったとは。
 まだまだ九州取材が足りないと痛感した。


◆2009年2月2日(月)
 今まで隠してきたが、寺田はトマト・ジュース好きである。
 好評の「65億のハートをつかめ!」の取材のためTBSに20回近く通ったが、その際、同社1階のカフェで注文するのは決まってトマト・ジュースだった。注文するときには「いつもの、トマト・ジュースを」と枕詞(まくらことば)をつけた。ウエイトレスのお姉さんには7割くらいの確率でウケていた。
 今日、大分から東京に戻るJAL機内でのことだった。飲み物をサービスしに来たスッチーお姉さんに「トマト・ジュースを」とお願いしたら、残念なことにトマト・ジュースはなかった。国際線では絶対にあるのだが…。
「ジュースはリンゴ、オレンジ、柚(ゆず)がございます」
「じゃあ、融通を利かせて柚で」
 スッチーお姉さんはニコリともしなかった。JALでは面白いジョークでも、笑ってはいけない決まりがあるのだろうか。今度、佐藤信春監督に聞いてみよう。
 まあ、TBSとJALでは違うようだ。

 時間は前後するが、今朝は別大マラソンの一夜明け取材(共同ではない)。小林誠治選手に話を聞かせてもらった。さすがベテラン。突っ込めば面白い話がどんどん出てきた。これは、陸マガ3月号の記事に反映させる予定だ。
 小林選手取材の前後で数人の監督たちと雑談。
 コニカミノルタの酒井勝充によると、太田崇選手が27kmで歩き出したのは腹痛が原因とのこと。10kmあたりからおかしくなって、27kmでトイレに行かないといけない状態になってしまった。名古屋国際女子マラソンの高橋尚子選手と同様の状況に陥ったようだ。ダメージは少なく、3月のマラソン出場もすでに決めているという。
 カネボウ・伊藤国光監督は、外国人選手の活用法で斬新なアイデアを持っていた。具体的には書けないが、実現したら取材したい内容だ。同監督には、あの大物選手の動向もお聞きした。
 中国電力・坂口泰監督からは尾方剛選手が東京マラソン出場の方向であることを聞くことができた。ただ、世界選手権代表にこだわっているかというと、そうでもないようだ。伊達秀晃選手の初マラソンはこの冬はないようだ。

 小林選手の取材の最後に、三菱重工長崎・黒木純監督にとっておきの話を聞いた。
 1月の長崎取材の日記で、長崎が三菱の町であることを同監督が教えてくれなかったと書いたことを、気にかけて(?)くれていたのだ。その話とは、三菱グループであるキリンビールについて。
 長崎の飲食店でビールを注文すると、店の人間はキリンビールを持ってきておいてから「キリンにしますか? ○○にしますか?」と聞くのだそうである。
 所変われば、である。JAL機内とはちょっと違うようだ。



◆2009年2月14日(土)
 陸マガ3月号の発売日である。世間では男性がチョコレートをもらう日でもあるが、会社をやめてからはとんと関係なくなってしまった。世の自営業者はみんなそうだろう(今度、ライバルの某専門誌O村ライターに聞いてみよう)。
 日記では大阪国際女子マラソンと別大マラソンのことをしっかり書いて、もう一度大阪(と富士通優勝報告会)に戻ってと、丁寧に書いている間に2月14日である。2月もちょうど半分が過ぎた(毎日書かないのが原因だが)。

 その間に、朝原宣治選手著の「肉体マネジメント」(幻冬舎新書)が、1月30日に発売された。11〜12月にかけて寺田が関わった2冊の書籍のうちの1つである。前日の29日に自宅近くの書店に並んでいるのを見てビックリした。というか、30日だと思って緊張していたので、見たときは「えっ?」という感じで力が抜けたが、書籍の発売とはそういうものだと思い出した。
 取材をしたのが10月から11月にかけて。寺田の持っているネタ(末續選手や塚原選手、早狩選手ネタなど)も加えさせてもらって、11月後半に一気に書き上げた。それを朝原選手にチェックしてもらい、校正作業にもかなりの時間を費やした。新幹線の車内や、年末の陸連アワードなどで3〜4時間は再取材するような形で行った。大変だったが面白かった。
 書籍がこうして形になるまでに、いくつもの作業工程があり、それぞれに思い出がある。今日は裏話の1つを紹介しておきたい。

 朝原選手クラスの大物選手については、過去の記事をコピーしてファイルしている。陸マガ11月号の引退記事の際にも、それらを読み返していたので、取材の時にそれほど準備に時間を掛ける必要がなかったのはラッキーだった。
 ただ、朝原選手クラスになると、コピーした記事の量が膨大になる。他には室伏広治選手、為末大選手、末續慎吾選手、高橋尚子選手、野口みずき選手、池田久美子選手といったところが多い。全部を持ち歩くのは難しいので、特に役に立ちそうなものを選び、封筒に「朝原セレクト」というタイトルを付けて持ち歩いていた。
 ところが、その朝原ファイルを新幹線に忘れてしまったことがあった。
 朝原選手がオリンピック誘致の仕事で東京に来たのが12月の第2金曜日(朝原選手は京都在住)。寺田が岐阜の全日本実業団対抗女子駅伝取材の直前だったので、土曜日に岐阜入りする予定を1日早め、金曜日の夜に名古屋まで移動し、新幹線の車内で校正作業を行うことになったのだ。ぎりぎりまで作業をしていて、名古屋駅で寺田が慌てて降りたため、「朝原セレクト」ファイルを車内に忘れてしまったのである。
 すでに校正段階だったので、ファイルが絶対的に必要というわけではなかった。ただ、最初に日本記録を出した1993年以降の貴重な情報が詰まっている。もう一度記事をコピーしたら、何時間かかるかわからないし、中には専門誌以外の記事もあり、そういった類の記事は探し出すのは無理だろう。
 ホームで気づいたのは不幸中の幸いだった。が、新幹線のドアは閉まった後だ。すでに動き出していたような気もする。しかし、こうなったら仕方がない。なりふりかまっている余裕はなく、朝原選手に電話をして「朝原セレクトって書いてある封筒がない?」と確認。月曜日の陸連アワードに持ってきてもらうことができた。
 普通だったら、選手にこのような雑用を頼むのはNGである。しかも、自分のミスで生じてしまったことだ。「朝原選手が親切でよかった」と心の底から思った(同じような状況で「そんな面倒くさいこと嫌ですよ」と言いそうな選手も思いつかないが)。

 このエピを紹介したのにはワケがある。
 本の中で朝原選手が、99年の手術で足首に埋め込んだ2本のボルトのうちの1本を、当時交際していた奥さんの史子さんに、「僕の分身だと思って」と渡したエピを紹介している。そのボルトは荷物の置き引きにあってなくなってしまったとも書いているが、置き引きにあったのが新幹線だったそうである。
 朝原新書についてはこの後も、日記でちょっとずつ触れていこうと思っている。
 が、実は、昨年の11月に書いたもう1冊「65億のハートをつかめ!」(BBM社)も面白い話がいくつかある。2つの書籍の違いを書くといいかもしれない。


◆2009年2月15日(日)
 千葉国際クロスカントリーを取材。このサイト以外に記事を書くわけではないが、意外と良い話が聞けるので、事情が許す限り取材に行くことにしている大会である。
 今日はラッキーなことに、この時期にしては異例の暖かさ。会場の昭和の森の人出も例年より多かったのではないか、と指摘する声もあった(主催者発表は観衆2万8000人)。

 昭和の森に着くと、ちょうど中学男子がフィニッシュするところ。両角駿選手(佐久東中)が今季中学ナンバーワンの勝亦祐太選手(冨士岡中)に競り勝った。記者たちから希望のあった選手(原則として優勝者または日本人トップ選手)は、テレビ&会場用のインタビュー取材が終了後、ペン記者用のインタビューテントに誘導される。
 レース展開に関するコメントはこちらに紹介しているが、来年度の目標については「佐久長聖高のV2に貢献したい」と話してくれた。ただ、入試の結果がわかるのは明日(16日)とのこと。
 両角選手は佐久長聖高・両角速先生の長男である。その点に関してもいくつか質問が出た。それに対する同選手のコメント次のような感じだった。

Q.父親が監督になるが?
両角 ちょっとやりにくいですけど、しっかりやっていきたいです。(住むのは)寮に入ることになります。もう、お父さんとは呼べないですね。
Q.監督の家族ということで、チームのなかで気恥ずかしく感じそうか?
両角 慣れていますから。小さい頃から“長聖のお兄さんたち”という感じで一緒にやってきました。今日も同じ部屋でしたし。


 親が有名選手だったり指導者だったりする場合、ジュニアの頃は反発してしまうことも多い(室伏兄妹でさえそうだった)。親の存在をストレスなく受け容れられるようになるのは20歳を過ぎてから(20歳台半ばかも)。接し方が自然になり、取材などでも抵抗なく親の話ができるようになる。自分のやりたいことが確立してくると、親の存在を自身のなかで上手く位置づけることができるようになるのだろう。
 両角選手の場合、早くから覚悟ができていたようにも見受けられた。
 佐久長聖高は優勝メンバーの多くが3年生だったこともあり、V2は決して楽な状況ではない。その辺も含めて、しっかりと立ち向かう覚悟ができているのだろう。

 ジュニア男子は佐久長聖高の村澤明伸選手が優勝した
 当初発表された招待選手一覧に、佐久長聖高勢の名前はなかったが、会場に着くと村澤選手とすれ違った。一瞬、アレ?っと思ったが、急きょ出場することに決めたのかもしれない。と思って信濃毎日新聞の中村恵一郎記者(インターハイ中距離2冠)に確認すると、佐久長聖高は最初から出場する予定だったという。何かの手違いで報道発表資料に記載されなかったようだ。
 佐久長聖高はこの大会ジュニアの部で、04年に上野裕一郎選手、05年に佐藤悠基選手と、ともに1万mで高校記録を出した2選手が優勝している。村澤選手も昨年のチャンピオンだ。
 今年の村澤選手は1km過ぎまでテレビ画面で見えなかったが、2km手前くらいから先頭に並び始め、3km付近ではリードを奪い始めた。フィニッシュでは2位の鎧坂哲哉選手(明大)に18秒差。これは、2〜3秒差が常識の千葉国際クロスカントリー・ジュニアの部では、今世紀最大差である。
 というところまでフィニッシュ直後には気づかなかったが、暮れの全国高校駅伝、そして1月の全国都道府県対抗男子駅伝と、村澤選手の強さは際だっていた。その印象をさらに強くしたレースだった。

 今大会は先ほど書いたように、フィニッシュ後にテレビと場内用のインタビューがあり、その後に表彰、それからペン記者用の会見という手順だった。寺田は“must”の仕事がないこともあって、優勝者の会見前に2位以下で“これは”という選手に、パパッと話を聞くことにした。
 ジュニア男子の部では3位に入った西池和人選手(須磨学園高)の話を聞かせてもらった。シニア女子では4位に入った高校生の小田切亜希選手(長野東高)、シニア男子では4位(日本選手2位)の高橋優太選手(城西大)。
 西池選手は兵庫県高校駅伝の1区を制した注目の1年生である。09年は同じ兵庫の北村聡選手の5000m高2記録(13分45秒86=兵庫県高校記録)更新の可能性もある。ちなみに高1記録は佐藤悠基選手の14分06秒99。前述の両角駿選手会見で、それを目標にするかという質問が出たが、「あの記録はちょっと無理のような気がします」という答えだった。
 小田切亜希選手は高校生でシニアの部に出た理由を知りたかった。というのもあるが、中村記者が取材をするというので、付いていった……○○取材と以前、命名した取材法である。なんだっけな。
 高橋優太選手は2年前にベルギーで一緒になった仲である(向こうは覚えていないかもしれないが)。箱根駅伝では失敗したが今回は好走。立て直しが速い選手という印象があるのでその辺を取材したかった。
 西池選手と高橋選手は、2人セットで記事にするかもしれない。共通点があるわけではなく、2位以下の気になった選手、というくくりである。

 ジュニア女子は優勝した柴田千歳選手(熊谷女高)の取材に集中した。招待選手でもないし、どういった選手なのかまったく知らなかった。中学では強かった選手だとレース直後に聞いた。熊谷女高は競歩の強豪校でもある(三村芙実選手を世界ジュニア後に取材したことがある)。が、女子では少ない公立高であり、超進学校でもある。
 会見では予想に違わず、面白い話を聞くことができた。“理系”というところにも、日刊スポーツ・佐々木記者が突っ込みを入れていた。中日新聞・桑原記者と寺田も、熱心に取材をしていた。
 シニア女子の取材も小田切選手は表彰前だけで切り上げ、清水裕子選手(積水化学)の取材に時間を割いた。昨年のスーパー陸上1500mで優勝して注目し、直後の全日本実業団のときに少し取材をさせてもらった。野口英盛コーチも協力的で、色々と情報を提供してくれる。柴田選手と清水選手、2人とも記事にしたいのだが、問題は時間があるかどうか。
 ところで、清水選手も高校は岐阜(中津商)だが出身は長野県。両角選手、村澤選手、小田切選手、そして清水選手と中村記者は大忙しの一日だった。紙面が十分にあるのだろうか、という心配もしてしまう。寺田のサイトならいくらでもスペースがあるのだが、長野県民が何人読んでいるか。

 レースが一通り終了後は周辺取材に。国体のサブトラ取材に相当する部分だ。
 最初にお会いしたのが鯉川なつえ順大女子監督。ワコール・永山忠幸監督に、OBの稲富選手のことをよろしくお願いしますと話していた。卒業生への愛情が感じられる話しぶりだった。
 そこに来たのが積水化学・野口コーチ。直接ではないが、順大時代の師弟コンビということで写真を撮らせてもらった。
 続いて須磨学園・長谷川先生にも話を聞くことができた。小林祐梨子選手が横浜国際女子駅伝記者発表の際、「私はキックは強いんですが、足首が軟らかくてクロスカントリーは…」という話をしていた。この言葉の意味するところが理解できなかったので、長谷川先生に解説してもらった。
 その後は、3月の東京マラソンで引退する予定の弘山晴美選手を探しに。すぐに、他の記者たちに囲まれながら引き揚げてくるところに合流できた。
 しばらく話しながら歩いて長谷川先生の近くに来ると、こんなシーンになった。どういう組み合わせなのか、?マークが寺田の頭の中に浮かんでいた。豊田自動織機と資生堂が一緒に合宿するという話は聞いたことがないが、そういえば須磨学園の卒業生が資生堂に入っているか。などと考えていたら、弘山選手がこちらの考えていることを察知したのか、「国士大の先輩後輩なんですよ」と教えてくれた。長谷川先生に国士大というイメージがなかったのだが、そういえばそうだった。以前、O原記者が書いていた記憶が瞬時に甦った。

 プレステントに戻って、土気駅行きの最終シャトルバスの時間まで原稿を書くことに。
 T村記者(愛称たむたむ)が「村澤選手って、超高校級と言っていいですか?」と聞いてきた。上野裕一郎、佐藤悠基の2人を思い浮かべているのだろう。
「トラックの記録からすると、13分50秒台後半だし、インターハイと国体は日本選手に負けているから、そこまで言えないと思う。でも、駅伝とクロスカントリーでは、先輩2人に負けない強さだと思うけど…」
 と答えたあとに、はたと考え込んでしまった(“はた”の用法が正しいかどうかわかりませんが、そこは千葉県なので)。トラックシーズン終了後の強さからすると、あの2人に実力でも並んだと評価していいかもしれない。
 これは、両角先生の評価を取材すべきだった。
 失敗した、と悔やんだ。
 しかし、どうしても聞きたくなった。
 5分ほど逡巡したが、両角先生に電話を入れた。
 タイミング的に運転中のことも考えられたので、話が聞ける状況かどうかを確認してからコメントしてもらった。
 両角先生の評価は……ここで書いたらもったいないだろう。記事にしたいネタである。


◆2009年2月16日(月)
 16時に多摩センターの不動産屋に。
 作業部屋を新宿から、多摩市の自宅近くに移転することにしたのだが、その契約のためである。
 新宿に作業部屋を借りて丸5年。昨年は、過去最高売り上げ(所得ではない)を記録したが、来年度は大幅な落ち込みが決定している(大きな年間契約のいくつかが打ち切りになる)。そう、今、テレビのニュースを賑わせている“100年に一度の経済危機”が寺田を直撃しているのだ。
 不況以前に、事業拡大という点ではすでに失敗は決定的だった。昨年の好況は事業というよりもスポンサー各社のおかげである。寺田が考えていた事業とはちょっと違った。
 新宿撤退は直接的には不況が原因だが、そういった背景もあった。
 もちろん、別の業界に転身するわけではない。進出できる部分は今年もやっていくが、しばらくは“スモールサイズ”の経営を余儀なくされそうだ。

 夜は久しぶりに、テレビでスマスマを見た。食事のコーナーのゲストは広末涼子さんで、彼女を見るのも久しぶりだったが、選手の誰かに似ていると思った。あごのラインを頻繁に見ている気がした……と5分くらい見ていたら、池田久美子選手のあごのラインにそっくりだった(広末さんの公式サイト)。
 そういえば、広末さんも中学時代に走高跳で、高知県で何番という選手だった。ジャンパーのあごのラインは似るのだろうか。
 そうそう。池田選手は結婚して今は井村姓だ。イケクミからイムクミに。
 名字が変わって一番落ち込んでいる記者は某新聞のH記者だろう。2007年の世界選手権前だったと記憶しているが、夜遅くに電話がかかってきて、次のような会話をした記憶がある。
H記者:「池田選手たちの学年の原稿を書いていますけど、陸上界ではイケクミ世代で通っていますよね」
寺田:「いや、末續世代じゃないですか。確か本人たちも対談で、そう言っていたような気がします。メダルを取っている末續選手が自分たちの年代の出世頭だって」
H記者:「僕だけですか、イケクミ世代と言っているのは」
寺田:「Hさんだけだと思いますよ。Kデスクに聞いてみてください」

 どこまで本気で言っているのかわからなかったが、そういう会話をしたこともあった。

 テレビで思い出したが数日前には、最近ブログで良い味を出している品田直宏選手も夜の特集に出演していた。やけに声が高いな、と思ってよく見たら、女子レスリングで現役復帰を表明した山本聖子選手だった(スポーツナビの記事に写真)。目元から鼻に掛けてかな、似ているのは。品田選手に北風沙織選手を足して2で割ると、そっくりかもしれない(この北海道コンビは静岡国体で優勝したときに、ツーショットを撮らせてもらった)。
 女子レスリングでは、ちょっと前の吉田沙保里選手(写真はこちらに)が、昨年引退した安井章泰選手にそっくりだった。品田選手の種目は100 mと走幅跳(近年は走幅跳がメイン)だが、安井選手もエドモントン世界選手権に出た100 mだけでなく、走幅跳でも相当のものがあったと聞いている。
 女子レスリング選手と、ジャンパー兼スプリンターも似るのかもしれない。


◆2009年2月17日(火)
 N野カメラマンと昼食。
 N野氏は陸マガのメインカメラマンの1人だが、平日は西新宿に勤務している。寺田が西新宿の作業部屋から引っ越す日も近いので、久しぶりに昼飯でも、という話に昭和の森(日曜日の千葉国際クロスカントリー)でなっていたのだ。
 十二社通りの路地を入ったところにある、昭和の香り漂う、だがちょっとお洒落な喫茶店(夜は飲み屋か?)で、Cランチ(魚料理)を食べた。紅茶、珈琲、烏龍茶は飲み放題である。
 このご時世である。実業団チームを持つ会社で景気が良いのはどこだろう? という話になった。
 日本の陸上界を支える自動車業界は悲惨な状況である。
 半導体や家電関係も同様だ。
 電力や通信などインフラ関係はそこまで影響がない、という話を聞いている。
 気になるのはスポーツメーカーだ。どうなのだろう? 一番頑張ってほしいというか、この業界にお金が回ってこなければ、陸上で食べている関係者にもお金は回ってこない。

 数少ないトラック&フィールド・チームを持つモンテローザはどうだろう? という話になった。
 ちなみに12日の陸マガ配本日には、高橋編集長と一緒に新宿の白木屋(モンテローザが経営する居酒屋チェーンの1つ)に行った。どうせ居酒屋に行くのなら、陸上部を持つチームの店に行くのが我々の義務めだろう。皆さんも是非、そうしていただきたい。
 それで田中宏昌選手の話題になり、十種競技日本記録保持者の金子宗弘さん(ミズノ)へと話が展開していった。金子さんと聞いてすぐに、江戸川競技場の関東インカレでの日本記録を思い出すところが、N野カメラマンのすごいところだ。

 1990年(昭和ではない)の関東インカレは、たぶん第1週と第2週に別れていて、5月10日前後に一部種目が江戸川競技場で行われたのだと思う。種目が少なかったのだろう。寺田がカメラマンをやった記憶がある。6月号の校了間際で、編集部で徹夜をした足で取材に行った(寺田も若かった)。
 さらに、当時は埼玉県インターハイが月・火曜日くらいまで行われていて(今も?)、連チャンで上尾にも取材に通った。そこにもカメラマンバッグを担いで日参して、相当に疲労が蓄積した。血尿を出したのは先にも後にも、そのときだけである。
 N野氏の話ではカメラマンも腎臓をやられるケースが多いという。寺田の持論だが、重いバッグが揺れて脇腹に当たるようにして歩くと、腎臓に負担が掛かるのではないだろうか。今もタクシーを使う方ではないが、当時も上尾駅から競技場までの20〜25分を歩いていた。

 当時、埼玉県には全国でも優勝候補が目白押しだった。
 女子は埼玉栄高の全盛時代。その年の仙台インターハイでは女子200 mで熊田恭子選手が3連勝。800 mで徳田由美子選手以下1〜3位独占をやってのけた。女子走幅跳の元日本記録保持者の高松仁美選手(春日部東高)も、1年生でインターハイを制していた。
 男子でも100 mでその年に日本記録を出す宮田英明選手(農大二高)のライバルだった星野竜次選手(埼玉栄高)、400 mでアトランタ五輪代表になる大森盛一選手を破って仙台インターハイに優勝する小高剛選手(鳩山高)、投てきにも円盤投の瀬上健司選手(伊那学園高)、ハンマー投の八鍬博紀選手(行田高)とインターハイ優勝者が揃っていた。県大会でも行って当然のレベルだったのだ。
 N野カメラマンも「埼玉栄で、がっちりした体格の100 mの選手」といえば、即座に星野選手のことを思い出してくれる(寺田の場合、最近の選手の方が知らないのが悲しい)。さすが、元ライブアートのカメラマンだ。ライブアートはかつて、全国の高校生アスリートを撮りまくっていた会社である。

 十二社通りは、東京マラソン・スタート地点の新宿中央公園の西側に面する通りである。そこで18年前の埼玉県インターハイが熱く語られていたと、東京マラソン参加3万人のうち、誰が知るだろうか。誰も知らないに決まっているが…。
 ただ、1990年の埼玉県インターハイに出場した誰かが東京マラソンを走る可能性はある。そうだとしたら、最高の餞(はなむけ)ではないだろうか?


◆2009年2月18日(水)
 午前10時から為末大選手が公開練習。24日の渡米を控え、最後の取材機会である。
 場所は多摩市の陸上競技場。寺田の自宅から歩いて25分くらいの距離だが、10分遅刻してしまった。その10分は、朝になって同選手WEBサイトから、技術やトレーニングに関する部分をピックアップし、プリントアウトする作業に費やした時間だ。
 そんなことは前日のうちにやっておけ、と言われそうだが、前日は前日で、以前の日本選手権の映像を探してダビングしていたのだ。何の目的でダビングしたかは、いずれ説明できるときも来るだろう。
 今日のポイントは逆走だと、あたりをつけていた。朝練習ならぬ朝予習の成果だ。
 ハードル8台を使ったドリルの写真を各紙掲載していたが、寺田はコーナーの走りを重点的に撮っていた。残念ながら腕が伴わず(カメラも一眼レフではなく、レンズ一体型で連写ができなかったし、シャッターのタイムラグも大きい)、それほど良い絵柄は撮れなかった。それでも、小さいサイズなら掲載できないこともない。逆走についての記事を書くときには載せようかとも思っているが、ちょっと時間がなくなってきた(千葉国際クロスカントリーの記事も書きたいのだが)。

 練習終了後はいったん自宅に戻り、2時間ほど急ぎの仕事をしてから新宿の作業部屋に。
 ここでは引っ越し準備に時間をとられた。一番やっかいだったのが、電話回線とネット接続の移転である。現在はADSLなのだが、これを移転させて使えるようにするには3週間かかるとプロバイダーのサポートが言う。引っ越しは1週間後の25日と決まっている。アナログ電話とダイヤルアップ接続はすぐにでもできるらしいが、ブロードバンドが1〜2週間も使えないのは苦しい。
 しかし、光フレッツにすれば、1週間後でも可能だという。
 そこで光フレッツにした場合のランニングコストを聞いた。最初はADSLより安いと理解したのだが、接続速度が速くなってそれはないだろう、と判断した(実際にはそういうケースになることもあるようだが)。NTT東日本とプロバイダーに、結局4回電話した。やはり、月額で1000円弱、現在よりも高くなると判明した。
 プロバイダーはNTTのことをはっきり言えないし、NTTはプロバイダーのことをはっきり言えない。最終的に支払先を1本化することもできるらしいが、キャンペーン期間中はそれぞれに支払う必要がある。話がこんがらがって、わかりにくいことこの上なかった。途中で電話を切って、大崎悟史選手に電話しようかと何回思ったことか(大崎選手はNTTの元営業マン)。

 その大崎選手が昨年日本人トップになったびわ湖マラソンの出場選手が今日、発表された。日本選手の顔触れが、テルガト(ケニア)、アスメロン(エリトリア)、リオス(スペイン)という外国勢に比べ、寂しくなった。初マラソンの前田和浩選手、世界ハーフ5位の中尾勇生選手という注目選手は東京マラソンに回った。高岡寿成選手、尾方剛選手というベテランも東京だ。
 日本選手たちのテーマは“2度目のサブテン”だろうか。
 1回だけサブテンで走っても、その後はダメというケースも、ときおり見かける。昨年、2時間8分台で大崎選手に善戦した大西雄三選手には、その轍を踏まないように頑張ってほしい。高塚和利選手と清水智也選手、一般参加の渡辺真一選手にも同じことがいえる。
 ニューイヤー駅伝の5区区間賞、佐々木悟選手(旭化成)の初マラソンも注目される。先週まで作業をしていた陸マガ選手名鑑にも掲載される選手だ(集計号の名鑑ページ数が昨年よりも少なくなり、人選が難航した)。
 複数選手がサブテンで競り合えば、日本人トップは2時間9分前後のフィニッシュとなるのではないか。そうなれば、大手を振って代表入りできる。

 そういえば今日、ライバルのO村ライターと話す機会があった。バレンタインデーにチョコレートをもらうことがあるかどうかを聞いた。予想に違わず、ここ数年は家族からだけだという。義理でもいいからチョコレートが欲しいという男性は、自営業にならないことをお勧めする。
 プロの陸上競技選手も自営業の範疇に入ると思うのだが、為末選手はどうだったのだろう? そこを取材している社はなかったのが不思議である。


◆2009年2月19日(木)
 熊日30kmの取材に行くことを決断した。
 “豪取材”(豪遊の取材バージョンという意味の造語)は1月の三重→京都→福岡→長崎取材が最後になると思っていたが、ANAのマイルがかなりたまっていることに気づいたのだ。普段、飛行機はあまり使わないし、海外出張はマイルのつかない格安チケットだ。稼いだのはクレジットカードのポイント。VISAの何とかポイントをANAのマイルに変更したら、一気に2万5000マイルくらいになっていた。
 1万マイルをEdyなど電子マネーに変えたら1万円だが、特典フライトなら1万5000マイルで熊本まで往復できる。それに、いつかは使わないと期限切れでなくなってしまうのがマイルである。熊日30kmのために使わないで、いつ使うのか。
 ホテルも1万8000ポイントほどあった楽天のポイントを使うことにした。これは、アフィリエイト広告も貢献してくれている。2泊しても1万ポイントだ。

 熊本往復のフライトとホテルは、2週間くらい前に予約していた(熊本からの帰りの便がとれず、福岡経由で東京に戻ることになった)。
 だが、最終的な決断がなかなかできなかった。
 今年の熊日30kmは三津谷祐選手(トヨタ自動車九州)に加え、大野龍二選手と岩井勇輝選手の旭化成コンビが初の30kmに挑戦する。出場選手リストを見ると、尾田賢典選手もちょっと気になる存在。スピードに進境を見せる山田紘之選手(コニカミノルタ)も要注意かもしれない。
 駒大伝統の“3年生30km”に挑むのは宇賀地強選手。駒大の先輩の豊後友章選手(旭化成)も、日本選手権はよくてもその後がダメでは格好がつかないだろう。
 これは取材に行くしかない、と思ってはいたが、同じ日に今年が最後の横浜国際女子駅伝が行われる。こちらも色々と思い出深い大会だ。
 それに、岩井選手がケガをしたという情報も入ってきた。朝日駅伝取材ですさまじい走りを見せつけてくれた。30kmでもやってくれるのではないかと期待していたので残念だ。
 昨日、旭化成に電話をすると岩井選手だけでなく、大野選手も発熱の影響で欠場するという。注目3選手のうち2人が出なくなっってしまった。

 この24時間でかなり悩んだが、最終的に行く決断をした。
 決断までの過程をどう説明すればいいのだろう? ひと言でいえば、熊日30kmにはロマンを感じる、ということになるのだろうか。伊藤国光選手や西本一也選手が日本最高をマークし、松宮隆行選手が世界記録を出した。工藤一良選手や犬伏孝行選手、高岡寿成選手もマラソンへのステップとした。高橋健一選手が勝ったときも、その将来性が大いに期待された。
 なかでも、優勝記録はそれほどでもなかったが、森下広一選手が見せた熊日30kmから始まるサクセス・ロードは一番の語りぐさだろう。1990年の熊日30kmに優勝した森下選手は、同年の北京アジア大会1万mで金メダルを取り、翌91年の別大マラソンに2時間8分台で優勝。同年の東京世界選手権は1万mで入賞に迫り、翌92年の東京国際で優勝して五輪代表入り。そしてバルセロナ五輪の銀メダル。
 あの2年半は、そのときにもすごさを感じたが、時間が経てば経つほど、すごみを増しているというか、価値が大きくなっている気がする。
 その森下監督が指導する三津谷選手の、マラソン挑戦も視野に入れての初30km出場。
 指導者ができたから選手も同じことができる、と考えるのはナンセンスだ。だが、その挑戦ぶりを見たいと考えるのは、寺田にとって自然なことだった。


◆2009年2月20日(金)
 16:35発のANA便で熊本入り。
 ANA便には離陸直前の搭乗になってしまった。ぎりぎりまで陸マガ記録集計号の名鑑の作業をしていたのだ(と言い訳)。初めて、荷物検査場に直行する最新手段なども用いたのだが、搭乗ゲートが思ったよりも遠かった(と再度、言い訳)。遠いなあ、と思って歩いていると、アナウンスで名前を呼ばれてしまった(他にも3人くらいいた)。
 機内に入ると、前の方はプレミアムシートとかなんとかという、料金の高いシートのエリアだ。そこでスッチーのお姉さんが、しゃがみ込んで1人の乗客の相談に乗っていった。通路をふさぐ形になっていたので、寺田はすぐ後ろに立って待っていた。たぶん、こちらには気づいていないと思ったので、スッチーが後ずさりしながら立ち上がったとき、素早く避けることができた。
「申し訳ございません。気づきませんで」と、謝るスッチー。
「気配を消すのが得意なんですよ」と寺田。
 今回は、大分帰りのJAL機とは違って(2月2日の日記参照)、ちょっとウケた。台詞の内容だけでなく、話し方も間もよかったのだろう。うんうん。
 こうした些細なことで嬉しくなるのだから、男というのは単純である。読者諸兄にも心当たりがあると思うが。

 こういうケースでは、神戸新聞・大原記者なら何と言うだろうか、とつねに考えている。つまり、実生活の色々な場面で、当意即妙の受け答えができる記者であり、その辺を見習いたいと思っているの人物なのだ。
 どうして大原記者のそのあたりが格好良く思えるのか不思議に思っていた。あるとき、些細なきっかけで同記者も三谷幸喜ファンだということがわかり、なるほどと納得できた。寺田も大の三谷ファンで、映画化されたものはほとんど見ている(レンタルDVDでだが)。大原記者も古くから三谷ドラマを見ていて、先日は舞台を見に行ったという。
 三谷コメディのエッセンスを、実生活や陸上競技取材に生かそうとしている者同士だったのである。
 日曜日の熊日30kmに出場するのは、三津谷祐選手であるが。


◆2009年2月21日(土)
 朝の10:15に熊本市営の水前寺競技場に。明日のスタート時間に合わせ、選手たちが練習をしている……はずだったが、行ってみるとサッカーの練習で貸し切り状態。外国語(韓国語?)が飛び交っていた。
 15分間ほど、途方に暮れてボケッとサッカーの練習を見ていた。たった一度の取材経験で、熊日30kmの前日練習は水前寺と決めつけて行った寺田が悪いわけで、猛烈な自己嫌悪に陥った。
 気を取り直して、携帯に番号が入っている指導者たちに電話をしまくった。
 その結果、九州学院のグラウンドと、熊本城敷地内の公園で練習しているらしいことがわかった。すぐに大きめの道路に出てタクシーをつかまえ、九州学院グラウンドがどこにあるかを聞いた。九州学院自体は水前寺競技場のすぐ近くなのだが、グラウンドはかなり北の方だという。駆けつけても、前日の軽めの練習であるから、終わっている可能性もある。変に頑張らず、大会本部のあるホテル日航熊本に行くことにした。

 しかし、大会本部についても特にやることはない。どうしようかと入り口でウロウロしていると、ラッキーなことに日産自動車・加藤宏純監督とお会いした。ジュイ選手が熊本城二の丸広場で練習するので、見に行くところだという。寺田も同行させてもらうことにした。
 ジュイ選手は3年前に、熊日30kmを走っている。寺田が初めて取材に来たときに、途中まで先頭を独走した。縁がある選手だ。
 熊本城二の丸広場で練習しているのはジュイ選手と尾田賢典選手(トヨタ自動車)だけ。かと思ったら、この人も。トヨタ自動車の佐藤敏信監督もジョッグをされていた。尾田選手も初30km。何年か前に、マラソンはやらないのかと質問したことがあった。そのときは、マラソン進出の素振りはまったく見せていなかった。どういう理由、経緯で30kmに挑戦することになったのか知りたい選手だ。
 ジュイ選手は練習の最後に加藤監督のところに来たので、立ち話取材を2分ほどすることができた(写真)。近くで話したのは初めてだったが、エリック・ワイナイナ選手に雰囲気が似ていた。

 いったん大会本部ホテルに戻り、ロビーで原稿書き。いつものマラソン取材の時のように、関係者が多数通るということはなく、13時には10分ほどの距離にある宿泊ホテルに引き揚げた。
 16:40に再度、大会本部ホテルに。17時からの開会式前後で、選手や指導者のコメントを取材するためだ。
 会場に着くと山田紘之選手が、熊本日日新聞の記者の方にインタビューを受けているところ。そこに加わらせてもらった。
 続いて三津谷祐選手を取材。話を聞いていると、朝日新聞・増田記者もハヤテのように現れた。さすが、早大競走部OBである。
 開会式が始まるまであまり時間もなかったが、尾田選手にも取材。

 開会式は3年前同様、招待選手だけの出席でこぢんまりしたもの。
 3組の選手が○○コンビと命名できそうだったので写真を撮った。
 これが尾田選手と三津谷選手の“トヨタ自動車”コンビ。
 これは豊後友章選手と宇賀地強選手の、“駒大”コンビ。
 そしてこれが、2人だけ出場する女子の松尾千春選手(九電工)と金友めぐみ選手の“福岡”コンビ。
 開会式後は駒大コンビに残ってもらって、宇賀地選手の話から聞き始めた。豊後選手にも、と思ったが、他の記者がすでに豊後選手の話を聞き始めていたので、森下広一監督の方に移動した。
 森下監督に解説してもらったおかげで、この記事を書くことができた。その他にも興味深いネタがいくつかあった。明日の結果次第では、記事に生かせるだろう(媒体は未定)。

 熊日30kmの開会式の時間が他のマラソンに比べて遅いのは、15時からコースの下見を行っているのと、18時からのレセプションにそのまま移ることができるから。
 パーティーでの取材は遠慮すべきところだが、今日は渦中の日産自動車・加藤監督にだけ、会場の隅っこで取材をさせてもらった。
 そのとき増田記者が、元日産自動車の小林渉選手(専大松戸高→中大→日産自動車)と、中学時代に知り合いだったという話をし始めた。聞けば増田記者も中学は千葉県。小林選手に勝っていたという。それもそのはず、同記者は全日中で4位という輝かしい戦績を持っていたのだ。早大時代に箱根駅伝を走ったことは知っていたが、そこまでだったとは。
 そういえば先日、陸マガ名鑑の仕事をしていて、早大で気づいたことがあった。短距離の木村選手と木原選手が全日中の100 mでワンツーだったのは有名だが、長距離の三輪選手と三戸選手も、全日中の3000m予選で同じ組を走っていて、2人続いた着順でフィニッシュしていた。って、みんな知っている話ですか?

 加藤監督の後は九電工・岡田監督と雑談。と書けば、鋭い読者はピンと来たはずだ。
 加藤監督は1990年前後には、日産自動車のスタッフとして、あの田村有紀選手の指導をしていた。そして岡田監督は同時期に、ニコニコドーの監督として松野明美選手の指導にあたっていた。ライバル選手を指導していた2人が、同じ場に居合わせたのである。
 岡田監督はその後、ニコニコドーから亜大監督に転身。その亜大を箱根駅伝で優勝に導き、昨年からは九電工の女子監督として女子選手の指導に戻り、まる1年がたったところ。
 加藤監督は、日産自動車が活動縮小をしたのを乗り切り、再度陸上部を活性化させた立て役者。昨年のニューイヤー駅伝は8位入賞まで立て直したが、先日会社が陸上競技部の休部を発表したばかり。
 指導者たちの人生も、まさに波瀾万丈なのである。


◆2009年2月23日(月)
 不動産会社に新しい作業部屋の鍵を受け取りに。これが最新(?)のマグネットキー。こんなに大きいのだ。管理会社にすれば入居者が変わった際、物理的に取り替える必要がなくてコスト的に良いのだろうが、持たされる方は大変である。小型化はできないのだろうか。
 磁気と聞いてちょっと不安になったのは、SUICAやEdyなどの電子マネーのカードと同じポケットに入れて大丈夫か? という点。それを質問すると不動産会社(=管理会社)のお兄さんからは、「大丈夫ですが絶対とは言いきれません」という回答。
 寺田はこれまで、上着の右のポケットに定期入れと鍵束を入れていた。定期は持っていないが、JAL・SUICAカードが定期入れに入っている。左のポケットにはティッシュとメモリー・オーディオ・プレイヤー(ボイスレコーダーを兼ねられる物)。もう、20年くらいこのパターンを続けていると思う。自動改札も人の右側でタッチするようになっているから、ほとんどの人が“右定期入れ”ではないだろうか。
 しかし、それではおかしくなる可能性が(僅かだが)あるという。キー用の小さなポケットが付いている上着も多いので、“右キーホルダー”は変えられない。
 どうしようもない。定期入れとメモリー・オーディオ・プレイヤーを左ポケットに、鍵束とティッシュを右ポケットに入れることにした。

 これは、踏切脚を逆脚にするようなものではないだろうか。
 と思って今日一日を過ごした。違和感はなかなか拭えないが、慣れればなんとかなるような気がしてきた。生活や習慣を変えるのは、踏切脚を変えるほどの大事ではない、ということだろう。
 そのくらい、踏切脚を変えるのは難しい。陸上取材生活も長いが、一度も聞いたことはない。
 いや、そういえば、踏切脚を変えた選手がいた。
 走幅跳の北京パラリンピック銀メダルの山本篤選手(スズキ)が、健常脚から障害脚に変えたと言っていた(スズキ・サイトの記事)。
 人間、その気があれば、なんでも変えられる。
 寺田も若いとは言えない歳になってしまったが、まだまだ自分を変えられると思うことにする。


◆2009年2月24日(火)
 作業部屋近くのファミレスで、新宿最後の日記を書いている。

 今日は千葉市の富士通陸上競技部寮で藤田敦史選手の共同取材。過去の記事もファイルに整理されているし、富士通サイトには同選手の記事も多く出ている。朝予習も十分で出かけた。
 藤田選手は、取材し甲斐のある選手である。
 こちらの質問に丁寧に答えてくれる。理路整然とした答えだ。それでいて、我々素人には矛盾を感じさせるところや、難しいと思われる部分が出てくるので、突っ込み甲斐があるのだ。
 寺田が「それってどういうこと?」と聞く。
 藤田選手は「しょうゆうこと」と言って醤油ビンを出す。
 なんてことはあるはずがないが(先ほど引越に備えて冷蔵庫の醤油を捨てた)、突っ込めば突っ込むほど、面白い話が出てくるのである。

 新宿に戻って引越の準備をしながら、藤田選手の記事その@を書いた。その@は東京マラソンに向けた基本的なネタをまとめたもので、本当に面白いのはそのAである。会見時間に余裕があり、新聞やテレビの質問も一通り出尽くした感じだったので、寺田がいくつか突っ込ませてもらった。その辺をそのAで出せると思う。
 しかし、1つだけ大きな失敗をした。
 記事に「初マラソンから丸10年、10回のマラソンを走った32歳」とサブ見出しを付けている。藤田選手のマラソン歴が10回あることには気づいていたが、初マラソンからちょうど10年経つことに、新宿に戻ってから気づいたのだ。現地で気づいていれば、質問することもできた。今日は取材中に大学1年の箱根駅伝とか、セビリアの世界選手権の話題も出ていたのだ。
 今日、寺田なりのこだわりをもった質問もしたが、テレビや新聞にも使えそうなネタ、つまり具体的なエピソードを引き出すような質問をしていた。初マラソンから10年というのも、一般メディアで使えそうな話題ではないか。そのAで書く予定だが、藤田選手の23〜24歳頃との比較も、本人に話してもらっているのだ。

 まあ、終わってしまったものはどうしようもないので、落ち込んだりすることはやめようと思う。でも、新宿に進出して5年、フリーランスになって9年。何年やっても進歩がないなあ、と痛感させられた。
 しかし、人間、そんなものなのかもしれない。
 今日の失敗とは直接関係ないが、寺田の新宿5年間の成果をひと言で表現すれば、“挫折”である。
 とはいえ、人間には、特にスポーツには挫折は付き物。藤田選手だって、記事その@のマラソン全成績を見ればわかるように、2002年から3年間、マラソンに出られない時期があった。ケガが断続的に続いていたのだ。
 今日、広報として現場を仕切っていた三代直樹広報は、座骨神経痛を克服できずに07年福岡を引退したが、同期のライバルである藤田選手の会見を100%仕事に徹して聞いていたのかどうか。
 新宿最後の夜に思うのは、人間誰しも、失敗経験と傷心を抱えて生きているんじゃないか、ということだ。

 新宿最後の夕食は、仕事を頑張るときに使ったファミレスで食べようと思っていた(決めたのは今日の午後だが)。
 今、この日記を書いているファミレスはデニーズ。朝原宣治選手の「肉体マネジメント」(幻冬舎)の仕事を、最後に追い込んだ店だ。
 もう1つよく使ったのがジョナサン。「65億のハートをつかめ!」(BBM社)の中盤を、リズムに乗って書くことができたファミレスだ。
 新宿最後の夜は、この2冊の違いを書くつもりでいた(これも今日の午後決めた)。だが、藤田選手の話を書いていたら、意外に面白くて長くなった。2冊の比較は多摩で書くことにしよう。一度立てた予定を守れないのが、なかなか直らない寺田の欠点である。


◆2009年2月25日(水)
 朝の8:30から引越開始。
 荷造りと搬送は引越業者に依頼したが、自分でもやることがたくさんある。貴重品は自分で運ばないといけないし、こちらが最初に段取る部分で、その後の効率が決まってくる。粗大ゴミをはじめとするゴミ出しもある。
 実はこの2週間くらいでかなりの荷物を整理した。一番苦労したのが古いビデオテープの廃棄だった。2002年までは陸上競技のテレビ放映はほとんど、VHS(一部8ミリ)テープに録画していた。「この映像がいつか、役に立つ日が来る」という思いがあったからだ。

 実際、先週も某所から02年と03年の日本選手権の映像はないか、と問い合わせがあった。そういうケースもないことはないが、この5年間、昔のビデオテープ映像を見直すということは、ほぼなかった。見直すのことがあっても、近年の映像ばかりである。
 ということで、DVD以前、つまり03年以前のビデオテープは廃棄することにした。
 しかし、オリンピックと世界選手権、そして毎年の日本選手権は取っておくことに。それと、ラベルに書いてある大会名を見て、「あの選手が記録を出した大会だ」「勝負がすごく面白かったな」と、すぐに思い出せる試合も残した。
 季節柄(?)、別大マラソンの1991年大会などが相当する。森下広一選手(現トヨタ自動車九州監督)と中山竹通選手がデッドヒートを展開し、森下選手が2時間8分台の初マラソン世界歴代2位で優勝したレースだ。もちろん、他にもいくつかあったが、そこは熊日30km取材直後ということで。
 面白かったのは、ハワイ国際高校駅伝とか、バルセロナ国際女子駅伝とか、第1回世界ロードリレー選手権とか、パッと始まっていつの間にか終わっている大会があったことだ。確かニューヨークでも駅伝をやっていたと思う。あれはテレビ放映はなかったのだろうか。

 ビデオの話を書くときりがないので、引越に話を戻すことにする。
 荷造り作業は、業者に依頼したこともあり、それほど大仕事ではなかった。引越屋さんはきつそうだった。見積もりに来てもらっているので恐縮することはないが、それでも大変だったと思う。とても我々素人では真似できない。
 マンションの1階部分に住む大家さん(女性)に別れの挨拶をしたときの方がつらかった。本当によくしてくれたのだ。寺田が解約を申し出たときなど、家賃を2万円下げるから居てくれないかと、ありがたい言葉もいただき、3日間くらい悩んだ。

 大変だったのは荷解き作業だ。アルバイトのA君と2人で行ったのだが、これがなんともはや。一番の失敗は、段ボール箱にどの棚かまでは記入してくれていたが、何番目の棚の荷物なのかを明記してもらっていなかったこと。書籍、雑誌、取材資料などで、特に雑誌と取材ノートは、時系列順に並んでいたのだ。
 部屋が段ボール箱でいっぱいになり、作業効率が著しく落ちた。やれどもやれども、段ボール箱の数が減らない。肉体的な疲労も加わり、気持ちが後ろ向きになりがちだった。寺田のやっていることは、個人でやるのには無理があるのではないか、と。とても、個人の荷物ではないのである。しかし、それだから希少価値が生じているともいえるわけで、前向きに考えることにした。
 なんとか、陸マガ20数年分とと某専門誌を書棚に収め終わったところで今日の作業は終了。引っ越しそばならぬ、引越焼き肉を食べ、少しは疲れを取れたかもしれない。
 しかし、このペースでは、週末のびわ湖マラソン取材に行くのは難しそうだ。初マラソンの旭化成・佐々木悟選手が気になるのだが。


◆2009年2月26日(木)
 新作業部屋2日目。午前中にガスの開栓と光電話回線の工事。

 先日の日記で居酒屋に行くならモンテローザ系列の店に行きましょうと書いたが、社会状況にかかわらず、寺田は陸上競技部を持つ会社の製品を買うことにしている。
 パソコンは常時使用している3台のうち1台が富士通製だ。自宅のテレビはパナソニック製、ラップは旭化成、シャンプーはカネボウ、栄養補助食品はナチュリルM&K。製品ではないが銀行は三井住友銀行である。車は持っていないが、もしも買うとしたらスズキトヨタ自動車、 Honda 日産自動車  SUBARU ダイハツのどれかを買うだろう。
 しかし残念ながら、今日、新作業部屋に工事に来たのは大阪ガスではないし、NTT西日本でもなかった。こればかりは、こちらに選択権はない。
 大家さんがマンションの1階部分に住んでいるので、挨拶にも行った(もちろん手土産を持って)。陸上競技のライターをやっていると話せば、“なにそれ?”的な突っ込みがあると思ったら、何もなかった。ちょっと拍子抜け。

 光フレッツによるネット接続は一発で成功。ADSLよりもメール受信などは明らかに速そうだが、ホームページ閲覧は結局、パソコンのセキュリティソフトにも左右されるのか、それほど速くなったようには思えない。
 問題はひかり電話とFAXの接続。ルーターに直接電話をつないだときは、電話が使用できた。携帯電話への発信ができないのでNTT東日本に問い合わせたら、電話機側の初期設定が、安い回線業者を選ぶようになっているという。電話機のマニュアルは段ボール箱の奥深く眠っているので、しばらくは“0000”を最初にダイアルするしかない。
 もっと深刻なのはFAXで、ルーターからFAX(デジタル複合機)につないで、FAXから電話につなぐと発信も着信もできなくなる。設定を色々試してみたがダメである。新宿でやっていたのとまったく同じ接続をしているのに、である。かなり時間を費やしてあれこれやったが、ダメだった。

 ただ、筋肉痛は思ったほどなく、段ボール箱の中身を片づける作業は思ったより進んだ。
 しかし、最後にとんでもない事態に。社判が見当たらないのだ。月末でもあるし、請求書を書こうとして気がついた。普段はデスクの引き出しに入れているが、デスク周りの小物がまとめて入っている段ボール箱に入っていなかった。相当に青くなって深夜の2時まで段ボール箱(残り20〜30個)を次々に開けたが、どこにもない。
 社判がないというのは大事件である(2・26事件と命名しようかと思っている)。まあ、個人事業主であるし、「今月からハンコを変えました」で済まされることではあるが…。
 びわ湖マラソン取材に行くのは絶望的な状況に。


◆2009年2月27日(金)
 自宅のADSL接続設定ができず、niftyのサポートに電話。新作業部屋が光回線にしたため、無線LAN機能付きのモデムを新宿の作業部屋から自宅に持ってきたのだ。ところが、これが上手くいかない。サポートの指示通りにやってみたが、これも失敗。あまり時間をかけるわけにはいかないので、今日のところは断念。
 作業部屋ではデジタル複合機のFAXが使えないため、これもSHARPのサポートに電話。結局、ソフト的なこと(ユーザーができる設定)では解決しないため、明日、出張サービスに来てもらうことに。
 行方不明になっていた社判は、キャリーバッグの中から出てきた。万が一のことを考えて、自分で運ぶ荷物の中に入れていたのだ。オチにも何もなっていないのだが、そのくらいに昨日は余裕がなかったということだろう。

 それにしても、この部屋の寒さは何なのだろう。確かに、この時期にしては外も冷えているのだが、エアコンの設定を30℃にしても部屋全体は温まらない。確かに最上階(3階ですが)で、出窓もあるため外の気温が伝わりやすい部屋ではあるが…。
 出窓に厚手のカーテンをすれば、カーテンと窓ガラス部分に30cm幅くらいの空気の層ができるので、少しは違うかもしれない。
 びわ湖マラソン取材を最終的に断念。


◆2009年2月28日(土)
 本当であれば……という表現は適当ではないかもしれない。上手くいっていれば行けたはずの、びわ湖マラソン前日の共同記者会見が行われた。
 ネットに載った記事の見出しでは、清水将也・智也兄弟が多い。昨年、初マラソン日本歴代3位で日本選手3位となった智也選手と、マラソン以外の実績では弟を上回り続けてきた将也選手。双生児兄弟ということもあり、2人の関係に触れることで記事にしやすいのだろう。続いて前回、大崎悟史選手(NTT西日本)に迫った大西雄三選手(日清食品)も見出しになっていた。

 今日の記事ではないが、西日本スポーツでは向吉三郎記者が、清水将也選手だけでなく、佐々木悟選手も前もので扱っていた。向吉記者は元読売新聞で、ヘルシンキ世界選手権のときにはスポーツナビの記者として現地に来ていた。向吉と書いて「むこよし」と読む。愛称は「ムコ殿」……ということに、熊日30kmのレース後に決定した。
 同記者は新聞ではちょっとマイナーかな、という選手や話題まで取り上げている。最近では初マラソンの佐々木選手はもちろん、三津谷祐選手の唐津10マイルなど。成迫健児選手の2009シーズン展望記事も、沖縄とか遠方取材に行けない記者にとってはありがたかった。

 そんななかで、休部になる日産自動車・下里和義選手の記事も1つ出ていた。これも熊日30kmのときのことだが、朝日新聞・増田記者と一緒に加藤宏純監督を取材した。加藤監督の話では同社の休部が発表された日、下里選手は8000m×3本(もしかしたら8km?)の練習を予定していたが、精神的な動揺もあって2本しかこなせなかったという。
 増田記者とは「絶対、びわ湖の前日にも“当日”に何をしたか、質問する記者がいるよね」という話をしたが、実際のところはどうだったのだろう。
 下里選手は神奈川大4年時には初めて取材させてもらった。陸マガ増刊号アンケートのライバルの欄に「大後栄治監督」と書いていたのが気になった。当時、神奈川大のキャプテン。ここを突っ込めば面白い話が聞けると直感した。
 その後では、全日本実業団ハーフマラソンで、ラスト4〜5人の争いを制したレースも取材した。全国都道府県対抗男子駅伝で兄弟のツーショット写真を撮らせてもらったこともあった。トップ選手たちと比べると取材機会はそれほど多くないが、気になる選手の1人なのだ。

 びわ湖に行けなかった寺田の行動はというと、午前中に永山駅の西友でカーテンを購入。新作業部屋に行って取り付けると、間もなくSHARPの出張メンテナンスの人間が来てくれた。FAX(正確にはデジタル複合機)の修理に1時間半。やはり、ハード的な原因だった。
 しかし、本当のところの原因は、寺田が使用していた電話ケーブルが、2芯ではなく4芯だったせいだという。ただ、新宿の作業部屋ではそのケーブルで問題なかった。SHARP出張マンの説明では、場所を変えたとき、ごく稀に起こることがあるという。4芯の方が新しい規格のはずだ。コネクタは同じでどちらも使用できる。これって、素人のエンドユーザーが対処できることではないのでは?
 ともかく、FAXも開通し、段ボール箱整理も8割くらい進んだ。

 しかし、またもや問題発生。明日のびわ湖マラソン録画の予約をしようと、壁のアンテナ端子とHDレコーダーとテレビに接続したが、映らないのだ。チャンネル設定があって、東京23区と多摩では違っていることくらいは知っている。その設定をしたのに映らない。
 1時間くらいでギブアップして帰宅。


◆2009年3月1日(日)
 自宅でびわ湖マラソンをテレビ取材
 陸上界随一の“湖畔好き”として知られる寺田である(世界四大湖畔大会=びわ湖マラソン、浜名湖一周駅伝、シカゴ・マラソン、アスレティッシマ・ローザンヌSGP=とか勝手に指定しているのは寺田くらいだろう)。テレビ取材は残念でならない。
 しかし、皇子山競技場のプレスルームより、テレビ中継に集中できるメリットはある。特に音声が、競技場のプレスルームでは聞き取れないことも多い。今日は花田勝彦監督が1km毎のスプリットをきちんと伝えてくれた。
 1km毎のスプリットというのはデリケートなデータである。だいたいの場合、距離表示を横からではなく、前方から見ることになるので、選手が通過したタイミングが把握しづらい。ストップウォッチを押す側にも技量が必要だ。もちろん、アップダウンや風の影響も数字に出やすい(特にパーセンテージなどにすると大きい)。
 さらに、地形や風の影響が、選手の心理面に及ぶ。ペースは本当に複雑な要素が組み合わさって決まってくるものなのだ。陸上競技の数字(データ)は面白いし、寺田もよく紹介しているが、扱う人間がわかっていないと数字が一人歩きをしてしまう。この辺は注意しないといけない。わざわざ書くようなことでもないのだが。

 日本勢トップは4位の清水将也選手。世界選手権代表に内定した。記録は2時間10分台だったが、世界トップクラスの外国勢と競り合ったことは、評価されそうだ。
 日本人2位に弟の清水智也選手。兄弟(日本人)ワンツーは、びわ湖では宗兄弟もできなかったのではないか。1970年代終盤に惜しい大会があったが、同じ旭化成の佐藤進選手が、2人の間に入っていた気がする(別大や北京五輪では兄弟ワンツー、福岡でも兄弟2・3位があったが)。
※兄弟選手の成績・記録については計測工房・藤井社長ブログに記述あり。
 いくつかの記事に宗猛監督の「自分たちにはなかったが、清水兄弟には相乗効果があった」というコメントが載っていた。記者たちが取り囲んで話を聞いている風景が目に浮かぶ。しかし、もしも寺田がその場にいたら「宗さんたちだって相乗効果はあたっと思いますが」と突っ込みを入れられたと思う。その辺が、長くやっている記者の利点である。
 それに対して宗猛監督がまた、「自分たちはこうだったが、清水兄弟はこういうところがある」と答えて、話に奥行きが出ていたと思う……もしかしたら、そういう話が展開していたのかもしれない。記事に使われたのが、上記のコメント部分だっただけで。やっぱり、現場に身を置かないことには面白さが半減する。

 改めて書くまでもなく、清水兄弟は西脇工高出身。これで同高出身のびわ湖日本人トップ選手は、過去10年間で藤原正和選手(2003年)、小島忠幸選手(2004年)、清水将也選手と3人になった。1998年には小島宗幸選手の伝説的な優勝もあった(ハイペースで飛ばして、あのマルティン・フィス選手に競り勝った)。現場を退く渡辺公二監督への、何よりの餞(はなむけ)になったことだろう。
 ちなみに、2005年には日本人1位に細川道隆選手、同2位に奥谷亘選手(西脇工高OB)と2人の兵庫県出身選手が上位を占めている。

 テレビ取材後に新作業部屋に。
 テレビのチャンネル設定は、東京23区用の設定でなぜか成功した。ただ、BSは相変わらず映らない。配線などは正確なはずで、東芝のサポートに電話しても原因は不明。
 キッチン周りの整理に4時間ほどかけた。狭くなったが捨てる物は捨て、壁に掛ける収納グッズを購入して、以前よりも上手く整理できた気がする。


◆2009年3月2日(月)
 作業部屋を多摩に移して初めての晴天。川沿いの通勤ルートを歩くリズムも違ってくる。乞田川といって、たぶん多摩川の支流である。川幅は30mくらいでそれほどではないが、一級河川である(乞田川 - Wikipedia)。
 帝京大や中大の選手がジョギングをしていても不思議はない場所だ(こんなサイトも)。
 残り8箱になっていた段ボール箱も全て荷解き作業を終え、引越屋さんに空き箱を取りに来てもらった。あとは、出窓部分に置いてある大量の各種ゴミを捨てていけば、室内は綺麗になる(多摩市は分別が細分化されているので、2週間くらいかかる)。あとは、いくつかの機器の設定を終わらせれば、仕事環境は以前と同じものが構築できる。

 しかし、ここに来てまた1つ、問題が発生した(毎日、必ず1つは生じている気がする)。PCのモニターに、外の光が映り込んでしまうのだ。
 新しい作業部屋は東側(バルコニー)と北側(出窓)ではあるが、採光が2個所ある。陽は当たらないけれども、解放感のあるなかで仕事をしようと思っていた。デスクは東側のベランダを背にセッティングした。午前中はカーテンを閉めるにしても、午後は問題ないと思っていた(カーテンは厚手のものしか用意していなかった)。
 ところが、道路を挟んで東側にあるマンションが真っ白い外壁のためか、午後になると西日を反射してかなり強い光線となり、モニターが光ってしまった。
 まあ、薄手のカーテンを買えば解決する問題だろう。


◆2009年3月3日(火)
 今日は電話をかけまくった。すでに決まっている仕事の打ち合わせが大半だが、4月以降の契約の話もある。目先の契約の話で、規模を縮小したいという申し出も受けた。このご時世……という言葉は使いたくないが、そういう話があるのも現実だ。
 明日は営業で都心に出るので、名刺を新調した。
 今日も、最後の最後で問題が発生。夜中に作業部屋を出ようとすると、玄関のドアの鍵が閉められないのだ。
 10分ほど悪戦苦闘したがダメで、24時間対応の管理会社のなんとか24という会社に電話。ずっと「しばらくお待ちください」状態で、なかなかつながらない。仕方がないので電話はあきらめ、もう一度トライすると、今度は閉まった。
 しかし、問題が問題だけに、気が気ではない。


◆2009年3月4日(水)
 営業のため、昼過ぎに都心に。電車に乗ったのは作業部屋の引越をした2月25日が最後たから、7日ぶりとなる。営業の感触は悪くはなかった。楽観は禁物だが。
 新宿のビックカメラで暖房器具を見て帰宅。新作業部屋がエアコンだけでは寒くて仕方がないので、補助用、特に足元を温める暖房器具を買う必要がある。すでに3月なので、来冬まで我慢しようと思っていたが、とても我慢できる状況ではない。
 途中、電話でラジオ出演の打診があった。名古屋国際女子マラソン終了後に、生で電話出演してほしいという。
「僕は話が長いのでやめておきます」
 と固辞したが、押し切られた。ここ数回の失敗から、少しは対処法もわかってきたので、やってみることにした。

 作業部屋には戻らず、直接自宅に。
 ホームページを見ていると、クリール樋口編集長(BBM社で同期入社)が、マルタ・マラソンのネタを書いていた。引用させてもらう。
今朝、日本に戻ってきました。どうして、こんなに短い日程にしてしまったのか、帰りの飛行機の中で深く、強く悔やんでいました。食事はおいしいし、人々は明るいし、文化的な遺産もたくさんあるし、自然も美しい。その上、マラソンも走れるのです。滞在時間30時間というのは、あまりにも短すぎました。すごく満足していますし、マルタに行って走れたということは、とてもいい経験になりました。しかし…。もう一度行きたい。マルタをもっと見て回りたい。帰りの飛行機の中で、来年、どうすればもう一度いけるのか、真剣に考えていました。
 この気持ちは、よーくわかる。寺田も外国に行くとだいたい、どんなに仕事がきつくても同じような感慨を持つ。「もう少し、ここに居たかったな」と。

 1日の日記に“湖畔好き”と書いたが、寺田は実は“地中海の島好き”でもある。マルタには行ったことはないが、行ってみたい島のベストスリーに入っている。
 マルタ騎士団の本拠地があった歴史的な島。樋口編集長が多国籍軍と書いているのは、当時の十字軍と同じで、西欧各国が聖地奪回のために合同で人材を出し合ったからだ。それで現在も、ヨーロッパで英語が公用語になっている数少ない国の1つなのだ。
 マルタ騎士団は聖ヨハネ騎士団とも言われていた騎士団で、当初は対イスラム勢力の最前線だったロードス島に本拠を置いていたが、イスラム勢力に押されてシチリア島、そしてマルタ島と撤退を余儀なくされた。塩野七生著の「ロードス島攻防記」は、小説でありながらリアリティも十分で、その分、読み手の想像力の入り込む余地がある。
 地中海の島々はほとんどといっていいくらいに、何らかの歴史的な出来事の舞台になっているから、ロマンをかき立てられる(妄想ぐせ?)。

 寺田の想像(妄想?)は陸上競技に結びつく。2001年のエドモントン世界選手権では、女子走幅跳のニキ・クサントゥー選手に突撃取材をしている。同選手の西ヨーロッパ的な風貌と、ロードス島出身ということを結びつけ、「あなたの祖先は西ヨーロッパからロードス島にやって来たのではないか」と。
 その辺の顛末は、2001年8月7日の日記に書いているので、お時間のある方はお読みください。誤字も多いので恥ずかしいが。

 3日のトップページに「マルタですよ、マルタ」と書いたのは、そういう理由があったからだ。世界4大湖畔大会の次は、世界○大島大会を選定したいと思っているが、その候補だった淡路島女子駅伝がなくなるのは寂しい。


◆2009年3月5日(木)
 午後一で鍵の修理が終了。管理会社もまあまあ、素早く対応してくれた(当然か)。
 鍵の問題は解決したが、部屋が寒い問題は解決しない。エアコンの風の対流がよくないと判断して、物の配置を少し変え、いくらかは良くなった気もするが、それでも寒い。
 昨日の下見やネットで色々と調べた結果、カーボンヒーターを購入することに。欲しかった品をネット上で調べると、楽天の店よりもヨドバシの方が安いことがわかった。しかし、時期的にはもう、大型家電店でさえ暖房器具はあまり置いていないという。ということで、ネットで注文。
 配達日はまだわからないが、温かくなってからだったら意味がなくなってしまう。寒さに震えながらも、すぐに温かくなってほしくない気持ちにもなっている。苦しくて仕方がないが、もう少し走っていたいマラソン選手の気持ち……とは「違うかっ」。


◆2009年3月6日(金)
肉体マネジメント」(朝原宣治著・幻冬舎)の書評が載った神戸新聞(680KB)を、藤村記者が送ってくれた。ここまで大きなスペースを割いてくれるとは思っていなかったし、書評自体も本当に上手く紹介してくれていて、思わず感動してしまった。
 主に取り上げてくれたネタは、
@動きを引き出すための「感覚」を追求してきたこと
Aシドニー五輪時に体の中心部分から、動きが始まっていることに気づいたこと
Bウエイトトレーニングの効用(スタート時の集中力に通じるものがあることと、体の代謝が良くなること)

 の3つ。ツボを抑えて紹介してくれている。

 上記の中では集中の仕方のところで、寺田のこれまで取材したネタも盛り込ませていただいた。スタート前の集中の仕方が朝原選手が“動的”なのに対し、末續選手は“静的”である。末續選手の仕草なども紹介しているが、これは塚原直貴選手から聞いた話も参考にしている。
 室伏広治選手がサークルに入ってすぐにスイングに入ることは、前々から気になっていた。それを話すと朝原選手も同じ感想を持っていて、サークルに入る以前に集中を終えているからだろうということで意見が一致した。アテネ五輪後の陸マガ・インタビュー記事を引用することで、説得力が増したと思う。

 藤村記者の書評で売り上げが伸びるのではないか、と期待しているが、もしかしたら兵庫県の書店ではすでに品薄になっているかもしれない(O原記者が“大人買い”をしたという噂も聞く)。書店で注文すれば無料で取り寄せられるし、amazonでも他の書籍とセットで1500円以上の購入金額になれば、送料は無料である。
 セットでもう1冊を購入されるのなら、「65億のハートをつかめ!」(BBM社)がお勧めだ。この1冊の注文でも送料は無料である。
 昨年の11月から12月初旬にかけて寺田が続けて携わった書籍であるが、「肉体マネジメント」とはテイストが対照的で面白いと思う。
「肉体マネジメント」は選手が自分自身の考えを述べ、自身の競技生活を振り返るものだ。深い部分の話が書き込まれている。
 対して「65億のハートをつかめ!」は、スポーツ中継というシステムを、ドキュメントタッチのストーリーとして描いている。大阪世界陸上の国際映像チーフディレクターだった坂井厚弘氏(100 m最速=10秒54=陸上記者)を話の縦軸にしているが、本当の主人公は映像制作チームなのだ。システムそのものをストレートに書いても読み進めるのは難しいという判断で、ストーリーの体裁にしたのだ。

 ただ、ストーリーにするからには、個々の人物をできるだけ魅力的に描かないといけない。そこが難しかった。取材は念入りにするが、テレビドラマのような台詞を話していたわけではない。当事者たちも、細部の台詞まで覚えていない。このシチュエーションならこういう内容を話しただろうと、こちらでコメントを想像するのである(もちろん、ホスト・ブロードキャスターにチェックをしてもらっている)。
 朝原選手の言葉がストレートに文字になった「肉体マネジメント」と、システムを紹介するための人物描写になった「65億のハートをつかめ!」。ネタの接点もあったりするので、読み比べていただけたら絶対に面白く思ってもらえるはずだ。


◆2009年3月7日(土)
 15時から名古屋国際女子マラソンの記者会見。
 13:30と早めに名古屋に着いたので、駅の待合室で車中で書いた昨日の日記をアップ。新幹線の駅にはコンセント付きデスクが設置されるようになってきているし、無線LANもできる。一緒にメールをチェックすると、ケン中村さん(大阪世界選手権のメディアチーフ代理)から名古屋国際女子マラソンのデータが届いていた。
 ざっと目を通してビックリしたのが、中国の白雪選手のマラソン歴。トラックでも国際的な実績があるし、マラソンのベストタイムから判断しても、今大会の優勝候補だと思われた。しかし、こちらの記事中で紹介しているが、10代半ばの2003年に初マラソンを走っていることと、昨年1年間で4レースも走っていることが、我々の常識というか、マラソンに対する感覚から外れていた。
 それに、同姓同名の選手がいた場合、その選手のデータが混在してしまうこともある(生年などがわかっていて区別できるケースもある)。なんとか、本人にマラソン歴だけでも確認しておきたいと思った。

 名古屋国際女子マラソンは会見後のぶら下がり取材が厳禁の大会(※女子に多い。対照的に男子は、ほとんどの大会でできる。主催者が女子の一部人気選手に配慮した結果と思われる)。会見で質問するしかないのかな、と思ったが、会見は日本の注目選手4人とシモン選手、白選手の計6選手に同時に行う形式。外国選手へのマニアックな質問で時間をとるのは、表面的には何の問題もないのだが、他の記者たちの手前、はばかられた。
 主催新聞社の記者が取材したときには、マラソン回数は本人も覚えていなかったという。会見中に聞いても「よく覚えていないのです」のひと言で終わってしまいそうな可能性が高かった。
 あきらめるしかないと思っていたが、会見終了後、チャンスを見計らっていたら、なんとなくぶら下がり取材ができてしまった。白選手自身にも、“取材なんか来ないでよ”オーラは出ていなかった。他にもテレビ1社と新聞1社と、大内さんが白選手の取材に来たので、情報を知りたい選手ではあったのだろう。
 マラソン歴に関しては「自分でも覚えていない」というのは事前情報通りだったが、質問にはこちらの顔を見てしっかりと答えてくれた(※通訳を見て話す選手も多い。会見でもそうである。国際大会でインタビューを受ける選手は、通訳の方ではなく、質問者や記者たちのいる方を向くマナーを身につけるべきだろう)
 レースによってタイムに大きな開きがある理由もわかった。2〜3分の取材しかできなかったが、「これは書けるかな」と思い、こちらの記事を書いたのである。明日、白選手が優勝したら“中国の白雪姫”とか見出しが付けられるのかな、などと考えながら。

 会見時の各選手のコメントは中日新聞サイトに出ている。
 1つ「あれ?」っと思ったのは、シモン選手が「明日は先頭集団で走らない」と言ったことだった。大阪国際女子マラソンから1カ月強のスケジュールで、そこまで体の状態が戻っていないから、ということだったが、シモン選手ほど実績のある選手が、先頭集団で走れないのに来日するのは、普通ではあり得ない話だった。
「Qちゃんと並走して、彼女の引退に花を添えるのではないか」と、ほとんどの記者が推測していたようだ。

 白選手の取材を優先したため、会見終了後の指導者取材に移るのが遅れてしまった。記者たちの輪は資生堂・弘山勉監督に大きくできている。これは後で知ったのだが、小出義雄監督は会見後すぐに、会場を後にしていたらしい。寺田は名古屋では恒例の、高橋昌彦監督(トヨタ車体)取材に行った。
 中日新聞に練習法を大きく変えたという記事が載っていたので、その辺をまず確認。冬期ということもあり、ポイント練習を夕方から午前中の温かい時間帯に変更したという。その方が気持ち、レベルの高い設定でできるようなのだが、目に見えて違うということでもないようだ。ただ、練習ではごくごく僅かの違いでも、試合では2分3分となって表れる可能性はあるわけで、これはやってみないとわからない。
 それよりも、2003年以降悩まされているバランスの崩れを、出ないようにできつつあるという。直接的にはそちらが上手くいくかどうかの方が、結果に影響を及ぼしそうだ。また、姉の大南博美選手も東京マラソンに出るということで、同時期に姉妹一緒のマラソンとなるのも久しぶりのこと。敬美選手に疲れが出た昆明での練習では、博美選手が引っ張るなどしてプラス効果があったという。

 高橋監督の取材後に、千葉クロカンの時と同様(2月15日の日記参照)、T村記者(通称たむたむ)が質問してきた。一見、素人的ではあるが、こちらが「うーん」となってしまう鋭い視点の質問である。寺田には答えられないかなと思っていると、有森裕子さんと大塚由美子さんが通りかかったので、有森さんに質問を振らせてもらった。
 中日新聞・桑原記者も加わって有森さんの話を聞かせてもらったが、これがなかなか奥が深い話だった。具体的に書くことはできないが、トレーニングというよりも、もう少し別視点の部分で競技に影響が出るという話である。さすが、2大会連続の五輪メダリストだ。
 有森さんもそうだし、今後は高橋尚子さんもそうなると思われるが、世間的知名度の高いOBはどうしても、陸上界ではなく世間一般に向かってメッセージを発していくのが役割になる。それが、彼女たちにしかできないことだからだ。
 だが、競技部分の知識や経験も、もっともっと陸上界に還元してほしいところだと、有森さんの話を聞いて強く思った。

 会見場での取材終了後は、ロビーで原稿書き。関係者が通ると挨拶(取材ではない)をしながら、原稿を書いた。堀江知佳選手、小川清美選手、江崎由佳選手、中山亜弓選手のマラソン回数を、指導者たちに確認することができた。マラソン取材では、地道だがこの調査が大事である。


◆2009年3月8日(日)
 名古屋国際女子マラソン取材。
 まずは、朝の地下鉄で神経をつかった。昨年、宿泊していたホテルから栄駅まで歩き(近いのは伏見駅)、環状線である名城線1本で瑞穂運動場東駅に行こうとしたら、名古屋港駅まで行ってしまった。名城線が環状線だと決めつけていたのが失敗で、金山駅から名港線に入っていく電車もあったのである(こういうのが、外国人にはわかりにくい)。
 今日は伏見から今池に出て、桜通線で瑞穂運動場西に向かった。これが、瑞穂陸上競技場に行く正統派の経路である。

 会場に着くと色々な関係者と情報交換。普段は指導者が多いが、今日は……あまりよく覚えていないが、Qちゃんこと高橋尚子選手を目で追っている時間が長かった。競技者としてのラストランは1年前の名古屋ということになるのだろうが、走る姿は今日で見納めだと思うとついつい、感傷的になってしまう(今回は「ありがとうラン」というのが高橋選手サイドの表現のようだ。VAAMサイト参照)。
 今日明日で陸マガの原稿を書かないといけないプレッシャーと緊張感があるため、幸いにも感傷に流されてしまうことはなかったのだが。
 1つお詫びを表明しておきたいと思う。昨日の日記でシモン選手の来日の目的を
「Qちゃんと並走して、彼女の引退に花を添えるのではないか」と、ほとんどの記者が推測していたようだ。
 と書いた。レース前に2人が一緒にジョッグしているときは、そういうことになるのかな、とも感じたが、実際にはそういうシーンはなかった。
 シモン選手は純粋に、高橋選手の最後のレースを走りたい、同じ場にいたい、という気持ちだったのだろう。それを、テレビの演出に協力するためと考えた自分が、俗っぽく感じられて自己嫌悪に陥った。

 レース後は上位3人までは記者会見をすることになっていた。4位以下の選手は、取材したい記者が自分でつかまえるしかない。一番多く記事を書くのは初マラソンVの藤永佳子選手(資生堂)で間違いないが、2番目に長くなりそうなのは新谷仁美選手(豊田自動織機)である。ということは、会見が始まる前に新谷選手と接触しないといけない。
 ところが、新谷選手はフィニッシュ地点でずっと座っていて、ミックスドゾーンになかなか来てくれない。あとからわかったことだが、高橋選手に花束を渡す役目があったのだ。
 新谷選手が来ない間に、白雪選手がミックスドゾーンを通った。昨日、優勝候補筆頭という紹介記事を書いた選手。前半こそ自身でペースメイクをするなど積極的な走りだったが、28km過ぎで粘らずに後退した。話を聞きたい記者は、寺田1人ではなかった。
Q.感想は?
白 あまりよくありませんでした。
Q.実際のところ、どの程度の準備ができていたのですか。
白 準備はまあまあできていました。
Q.昨年のアモイや北京と同じくらいですか。
白 去年のその2つよりは、少し悪いです。
Q.名古屋に出ると決めた正確な時期は?
白 2月10何日かでした。
Q.次の目標は?
白 まだ、わかりません。
Q.ベルリンの世界選手権はどの種目で出場する予定ですか
白 まだ、中国陸連の指示がないので、なんとも言えません。

 昨日の記事のマラソン成績一覧からもわかるように、白選手の場合、狙ったレースとそうでないレースでは、結果が大きく違っている。どうやら、というよりも明らかに、名古屋は狙ったレースではなかったようだ。
 日本陸連幹部も白選手に対し、日本選手がどんな走りをするかに注目していた、とレース後の会見でコメントしていたが、今回の走りでは白選手も日本選手も、どうだという判断基準にはならない。
つづく予定

 白選手のあとは資生堂弘山勉監督が囲まれて取材を受けているところに合流した。話の流れから、囲み取材が始まってそれほど時間が経っていないと判断。上位3選手の会見が始まっていないか気にしつつも、陸マガ記事の優勝者担当ということもあり、弘山監督の取材を優先した。途中、N尾ライターともうまく連携をとって、会見の始まるかどうかの状況をチェックできた。
 しかし、そろそろ始まるかな、と思って会見場に移動(ここでは企業秘密テクニックを使った)。
 藤永選手は治療(マメ?)のため遅れていたが、2・3位選手の会見が始まるところだった。3〜4席が空いていた最前列の1席に滑り込んだ。隣の席はフジテレビの美人女子アナだったと思うが、会見に集中していたため、そちらを見ている余裕はなかった。なにせ、原稿の締め切りが当日と翌日昼である。通常、雑誌の場合は電話などで追いかけ取材ができるが、今回はそれをする余裕はない。
 堀江知佳選手と町田祐子選手が2回ずつコメントしたところで藤永選手が加わった。今日のレース展開では質問が藤永選手に集中するのは当然の流れ。今日のようなレースだったら、上位3選手が同席する会見はよくなかった。大阪国際女子マラソンのように、1人1人、別々にやった方がよかっただろう(ほとんどのマラソンは1人ずつだ)。

 上位3選手のあとは陸連幹部、高橋尚子選手の会見が予定されていた。迷ったが、高橋選手は担当ではなかったので、退室する藤永選手にぶら下がることに。会見場にはボイスレコーダーを残しておいた(ときどき回収し忘れるので要注意だ)。
 藤永選手のいい話が聞けたので、ぶら下がり取材は正解だった。といっても、その話は直接的に記事にはしないと思う。それすらも、翌日取材の導入だ。
 藤永選手の話も落ち着きそうなところで、幸運にも新谷選手の姿が目に入った。記者の1人が話を聞いていた。詳しい理由は割愛するが、最初から話を聞き直してもいいような状況だった。フィニッシュ直前の編集部との打ち合わせで、新谷選手も2ページの記事が予定されていたのだ。10分以上も話を聞けたので、ものすごく助かった。レース直後のミックスドゾーンよりも、タイミングとしてはよかったかもしれない。あくまで、結果的にであるが。

 その分、会見場に戻ったときは、高橋選手の会見が終わろうとしていた。会見の終わりでは高橋選手も涙ながらにコメント。記者間からも温かい拍手と言葉が、自然と起こっていた。これは、ものすごく良いシーンに立ち会うことを逃したかな、と感じた。
 先日、森下広一選手(現トヨタ自動車九州監督)の1990年の熊日30kmから1992年のバルセロナ五輪までが、完璧に近い流れだったと書いた。高橋尚子選手の97年の世界選手権5000mから、2001年のベルリン・マラソン(女子では世界初の2時間20分突破)は、森下選手以上に完璧だった。いや、セビリア世界選手権欠場と、そこからの復活過程ではかなり苦労をしているので、完璧ではないが、その分、ドラマ性が加わった。
 最近の陸上界の反応を見ていると、高橋選手の競技実績をもっともっと、評価すべきではないかと感じている。

 この時点ですでに16:30を過ぎていたような気がする。ラジオ出演は17:45から。先に、大会本部ホテルに移動する必要があった。競技場の外に出ると、高橋選手の“出待ち”をしているファンの人たちが人垣を作っていた。TBSの菅原前世界陸上プロデューサーの姿も。不世出のランナーの姿を、瞼に焼き付けようとしているかのような視線だった。
 大会本部ホテルで受付を済ますと、TBS坂井厚弘ディレクターからの仕事依頼の話があった。しかし、すぐにラジオ出演の時間に。局はTBSだが、世界陸上班とは関係のない番組(「エキサイトベースボール」)で、スポーツ好きのグラビアアイドル(?)・磯山さやかさんと、元プロ野球選手の青島健太さんがメインパーソナリティー。周りが静かで、携帯電話の電波の入るところを探したところ、表彰式を行う3階の1つ下のフロアが適していた。
 ここなら誰も来ないだろう、と思っていると、某新聞事業部のO串氏に見つかってしまった。と、同時に電話がかかってきて、そのまま生出演。今日のマラソンの、テレビ画面ではわからない部分や、評価のような部分を話した。寺田としては滑らかな話しぶりだったと思うし、昨年のFM東京のときよりも簡潔に話せたと思う。
 ただ、最後の方で話しかけてくる2人の声が聞こえなくなってしまった。電波状態が悪くなったらしい。「聞こえてますか?」と、問いかけるわけにもいかず、そのまま話し続けたが、どうやら最後の方は時間内に収まらなかったようだ。
 それでも、まずまずだったかな、と思っているとO串氏からダメだしがあった。ある選手のことを「日の丸をつけられる選手になれる」と言い切ったのはどうか、という指摘だった。青島さんからの問い掛けにそう答えたのだが、「可能性はある」くらいにとどめておくべきだったのではないか、と。
 保阪直輝のような甘いマスクのO串氏だが、辛口なことで有名だ。しかし、言うことには筋が通っている。そこまで言い切る根拠を、寺田は持ち合わせていなかった。根拠がないのに視聴者に期待だけ持たせるのはよくない、ということだ。

 パーティーでは取材は禁止されている。
 では、何のために行くのかというと、挨拶と情報交換のためである。
 今日はまず、弘山監督に藤永佳子選手取材のアポ取り。監督が明日の朝早くに昆明に出発するというので(弘山晴美選手が合宿中だ)、多少、取材に近い話になってしまった。
 続いて、岡本治子選手にも挨拶。今後のことなども聞いたが、これも、多少取材に近い話に。
 最後に、小出義雄監督にも挨拶。そのことを、大会関係者に目撃されてしまって、後で注意を受けた。「メモは取っていませんでしたよ」と反論した。取材を規制しようとする力を目の前にすると、反駁してしまうのが記者気質である。
 しかし、メモを持っていなかったとはいえ、新谷選手に関して聞きたいことがあったのは確かだ(失敗したが)。言い逃れをする要素があったとはいえ、あとで自分の心のさもしさが嫌になった。主催者の立場としては、記者気質よりも規則を優先するのが当然だ。
 もっと綺麗な心でいよう、と思って大会本部ホテルを後にした。

 自分の宿泊ホテルまで約500〜600mの距離。途中、コンビニに入ろうとしたら、白人の若い男性から声を掛けられた。陸マガの連載が終わってしまったケネス・マランツ記者とよく一緒にいるので、話をすることに抵抗はなかった。日本の勉強をしているウクライナの学生ということだったが、ウクライナの土産品を売りたいのだとすぐわかった。
 会話は日本語が半分、英語が半分で進めた。
 いつもの寺田なら相手にしないケースだ。ちょっと機嫌が良くても、「No, no. I'm poor」とか言って財布の中身を見せて終わりにするところ。だが、このときは「綺麗な心でいよう」と自身に誓った直後だったので、丁寧に話を聞いた。
 みれば、小物入れ(アクセサリー入れ)はなかなか、雰囲気が良い(写真)。「これのどこに、ウクライナの特徴が出ているの?」という部分は気になったので、しつこく聞いたが、質問の意図が理解してもらえなかった。とにかく、ホワイトデーのプレゼントにはなる。
 3000円のところを2500円まで値切ったが、向こうにしてみれば“いいカモ”だっただろう。でも今日は、そんなことはどうでもよかった。最後に、これだけは言っておいた。
「ウクライナは日本と、ずっと友好的でいてね」
 日本語が通じなかった。
「仲良しでいようね、ということ」
「naka-yoshi?」
「naka-yoshi means good relationship, friendly relationship」
 正しい英語かどうかわからないが、アレクサンドル君は熱心にメモをしてから去っていった。


◆2009年3月9日(月)
 昨晩、アレクサンドロ君と別れた後は、ホテルで原稿書き。陸マガの新谷仁美選手の記事(90行)を書き上げた。新谷選手から見た小出代表との関係が話の軸になっている。レース展開記事(90行)まで書き終えたいところだったが、今朝は6:45から取材だった。構成を練り終えて、少し自分を安心させておいてから就寝。

 今朝は藤永佳子選手の朝練習開始に合わせて大会本部ホテルに。
 藤永選手と平田選手(静岡県出身)は朝練習を始めるところ、弘山勉監督は、晴美選手の待つ昆明に出発するところ。弘山監督には昨日の取材中に感じていた疑問を、1点だけパッと確認した。
 選手がジョッグに行っている間に、井ノ口正博コーチ(静岡県出身)から話を聞かせてもらった。今後の予定を話題にしていると、5月にボルダーで、世界選手権代表選手を集めた合宿に参加するかもしれない、という情報があった。
 寺田は「ええっっ?」と言って、のけぞっていたと思う。
 マラソン選手の合同合宿はこれまでもあったが(実業団連合がかなりの人数を集めて行っている)、代表が決まってから、その代表たちを集めた合宿は聞いたことがない。男子で旭化成から複数名の選手が出ていた頃はあったかもしれない。メキシコ五輪(1968年)の頃は、高所合宿をナショナルチームでやっていたような話を聞いたことがある。女子マラソンは始められて歴史も浅いが、チームの垣根を取り払って、代表が合同で合宿を行ったことはなかったのではないか。

 藤永選手が戻った後に、ホテルのロビーで一夜明け会見(こちらに記事)。
 会見終了後に、小柄な男性が同選手に話しかけ、一緒に写真を撮ってもらっていた。どこかで見た顔だな、と思っていたら、元F1ドライバーの片山右京さんだった。
 さっそく、片山さんに取材。初めて知ったが、片山さんも中学・高校と陸上競技をやっていて、3000mは8分台で走ったという。今は夫婦揃って市民ランナーでもあり、東京マラソンにも出場すると言っていた。いくつかの新聞が記事( 【なにやっ10】マラソン女王会見に驚きの乱入者(サンスポ))にしていた。
 片山さんの話を聞き終えた後の記者たちには、代表合宿のことを陸連サイドからも取材したい雰囲気があった。幸運にも、武冨豊女子マラソン部長がちょうどホテルを出発するところで、8:15から囲み取材をできることに。これも、いくつかの新聞が記事(女子マラソン、北京の反省で初の合同合宿(サンスポ) 野口五輪欠場教訓に女子マラソン合同合宿 (スポニチ) 女子マラソン代表がボルダー合同合宿を計画(スポーツ報知))にしていた。

 武冨部長の取材後はいったんホテルに戻り、陸マガのレース展開記事(90行)を仕上げた。我ながら、というか、遅筆の寺田にすれば、なかなかの集中力だった。
 11:30には再度、大会本部ホテルに。場所を移して藤永選手に陸マガ用のインタビュー。昨日の取材、今朝の一夜明け会見と聞いているネタがある。突っ込みどころはいくつかあったし、その分、深い話が聞けた。取材をしながら、90行では書ききれないと感じていた。うーん。もったいない。
 インタビュー後は急いで名古屋駅に。新幹線に乗るためというよりも、コンセント付きのテーブルがあり、無線LANもできる待合室で原稿を書くためだ。途中、インタビュー時の飲み物代の領収書の宛名が「陸上協議マガジン」になっていることに気づいたが、引き返す時間はなかった。デッドラインが迫っている。
 残りの原稿は藤永選手のインタビュー90行と、同選手のピープル45行。
 お弁当を買って急いで食べ終え、14時頃から一心不乱に書いて16:00にピープルを、17:30頃にインタビュー記事を終わらせた。
 帰りの新幹線車内で本サイト用に一夜明け会見を記事に。


◆2009年3月10日(火)
 例年というか、オリンピックと世界選手権の行われる年(4年間に3回)は、名古屋国際女子マラソン翌日に陸連理事会・評議員会が行われ、夏のマラソン代表が発表される。名古屋翌日の発表、代表選手が地元で会見というのが恒例になっていた。今年は東京マラソンが後になったスケジュールの関係で、それがなかったわけである。という経緯もあり、昨日は締め切りがあるなかでも落ち着いて仕事ができた。
 今日も落ち着いて、ボイスレコーダーに録音してあった高橋尚子選手の会見を聞くことができた(陸連幹部の会見は、陸マガの原稿に盛り込むために、一昨日、瑞穂競技場から大会本部ホテルに移動中に聞いてあった)。ものすごく面白い内容だったので、記事にしたいと思っている。

 業界人的な感想から書くと、会場から出た質問が良かったと思う。名古屋の高橋選手の走りに込められた気持ちやその背景にあったもの、シモン選手とのふれ合いや、今後の活動へのスタンスなど、今の高橋選手について引き出すべき内容を、あますことなく引き出している。
 記事では会場からの質問を、増田明美さん以外は「Q.」としか表していないが、質問者の名前も入れられたらもっと面白くなった(一般の方には関係ないかもしれないが)。これだけ面白くて、中身も濃くて、感動もできる会見は、そうそう出くわせない。
 生(ライブ)で立ち会えなかったのが残念だ。

 会見記事中にも出てくるが、高橋選手は終始、笑顔を絶やさず(もちろんサングラスもかけずに)、42.195kmを走りきった。ここに書くまでもないが、真似できるものではない。
 最初は「よくもこんなに笑っていられるな」と思っていたが、後半になっても変わらない笑顔を見て、「笑顔を続けられるだけのものが、彼女のこれまでにあったのだな」と思うようになった。それは、過酷な練習だったのかもしれないし、何か別の苦しみだったのかもしれない。あるいは、走ることで感じてきた充実感だったのか。
 いずれにせよ、強大な何かが彼女の内面にあったから、42.195kmの笑顔になったのは確かである。
 何年かぶりで、高橋選手の“すごさ”を感じた。


◆2009年3月12日(木)
 今日は陸マガ4月号と記録集計号の配本日。
 16時に御茶ノ水に行く用事があったので、15時半に水道橋の編集部に(水道橋は御茶ノ水の隣駅)。
 16時に御茶ノ水の某社に。1時間ほど話をさせていただいた。
 駅の近くのカフェで2〜3時間、原稿を書いてから帰路に。

 御茶ノ水駅ではミズノの鈴木さんと田川さんに2日連続で会ったことがあったが、今日はスポーツ報知・E本記者にばったり会った。1月までは箱根駅伝担当だったE本記者は、今はサッカー担当。一度、飯でも食べようという話をしていたので、ちょうど良い機会だった。新宿に出てモンテローザ系列の居酒屋で食事をした。
 話をしていてさすが、主催紙の箱根駅伝担当記者と思った。各大学の情報はもちろん、高校長距離界の動向、さらには箱根駅伝の問題点・課題まで、良い話を聞かせてもらった。
 場所が場所だけに“居酒屋ネタ”もあったが、これは将来、役立つなと思える情報も多かった。


◆2009年3月13日(金)
 朝の10:30から東京駅近くのホテルで打ち合わせ。相手は長距離チームを持つ会社の社長さん。陸上競技に関する商談ではあったが、その会社は100年に一度の不況といわれるこの時世にあっても業績は好調だという。せっかくの機会だったので、その秘訣も教えていただいた。すぐに自分に応用できるわけではないが、そうした話を聞いておくことで、何かの拍子にアイデアが浮かぶこともあるだろう。
 その打ち合わせは12時前には終了。夕方の5時にもう1つ、都心で営業が入っていた。5時間の空き時間。こういうときに都心に作業部屋を持っていればなあ。新宿から撤退したばかりということもあって、ついつい思ってしまう。

 しかし、5時間くらいならパソコンのバッテリーも持つ。どこで作業をするか考えた末、やっぱり慣れた街がいいだろうということで、新宿に移動してカフェを探した。
 駅から近いところは混んでいたので、歩いて10分弱のタリーズに。行ってみたら幸運にも、カウンター席に電源コンセントが取り付けられていた。無線LANもできるので、これなら、ちょっとしたオフィスになる(持ち歩ける資料に限りはあるが)。
 店に行ってから気づいたのが、今日、パソコンに付けていたバッテリーは2007年に購入した古い方だった。消耗していて、2〜3時間しかもたなくなっているものだ。バッテリーは使えば使うほど、持ち時間が減っていく。短い外出時間のときは、古いバッテリーで済ませるようにしているのだが、コンセント付きのカフェが増えれば、その辺を気にしなくて済むようになる。

 古いバッテリーを付けていることに気づいたとき、「肉体マネジメント」(幻冬舎)の取材中に朝原宣治選手がいきなり、筋肉を携帯電話のバッテリーに例えて話をし始めたことを思い出した。以下に抜粋する。
 つまり、人間の筋肉というものは、携帯電話のバッテリーのようなものなのです。
 携帯の電池は、買ったばかりのころは長持ちしますが、古くなると頻繁に充電しないといけなくなりますよね? 人間の筋肉もそれと同じで、若いときにはちょっと充電すれば長く持つのですが、歳をとるとマメに充電しないともたなくなる。充電するためのトレーニングをする期間も、長くとる必要が出てきます。
 僕も、20台前半だったドイツ留学中は、冬にたっぷりウエイトトレーニングをやりさえすれば、シーズン中は筋肉を維持する程度のトレーニングで十分でした。
 アトランタ・オリンピックなどで活躍した、ナミビアのフランキー・フレデリクスなどは、シーズン中は全くウエイトトレーニングはしないと言っていました。ウエイトをやり続けるとスピードが落ちるからという理由でした。
 僕も若い時はそういう考え方でした。つまり、若いころの筋肉は、筋力を「貯めこむ」ことができるのでしょう。
 しかし、年をとると、その「貯めこむ」力が弱まってくるので、いくら冬場にウエイトトレーニングをしても、断続的にトレーニングを続けないと、筋力を維持することができないのです。


 ということで、パソコンや携帯電話のバッテリーの持ち時間が少なくなったら、朝原選手のこの説を思い出してほしい。


◆2009年3月15日(日)
 明日が確定申告の締め切りなので、昨日、今日とその作業。自営業者になって9年目ということもあって、かなり慣れてきた。帳簿も毎日つけているし、申告書類もネット上で記入できるようになった(e-Taxはまだやっていないが)。
 以前にも書いたと思うが、2008年は広告収入が増えたこともあり、過去最高売り上げを記録した(収入は経費を引いた数字になるのでイコールではない)。にもかかわらず、不況の影響で2009年度の受注減少が明らかなため、まったくもって喜べない状況になっている。

 社会はそういう状況でも、ちょっと嬉しいお誘いの電話とメールがあった。どちらも取材に近い内容ながら、完全なビジネスではない。ビジネスではないが、人とのつながりが感じられて、こんな人生も悪くないなと実感できる瞬間だ。
 そういう夜だからだろうか。なぜか、高岡寿成選手のことを考えた。

 初めて高岡選手を取材したのは1992年。イニシャルが「TT」で、寺田と同じというのがきっかけだった。というわけはなく、静岡国際の5000mで13分40秒ちょっとで走ったのが目についたからである。当時、龍谷大の4年生。関東以外の大学でこのタイムは出色だった。
 ただ、高岡選手自身は名門の洛南高出身で、全国高校駅伝4区で区間賞も取っている選手だった。どんな考え方(競技観)を持っていて、どんな練習をしているのか、ものすごく興味がわいた。京都に取材に行ったのは5月の関西インカレ後だったと記憶している。
 バルセロナ五輪には間に合わなかったが、その直後のヨーロッパ遠征で最初の日本記録を出した。そのときは電話取材をした。

 その後、何回、取材に行っただろう。
 当時は陸マガ編集者だったので、カネボウ入社後しばらくは、外部のライターに取材を依頼することが多かった。それでも、試合で会えば、色々と話をしていたと思う。
 ハーフマラソンで好タイムを出して電話取材をしたのが、再度、取材が多くなるきっかけだったと記憶している。
 98年の2度目の日本記録更新時は、防府に取材に行った。
 その後は寺田もフリーになったが、取材に行く回数は増えた。
 防府には3〜4回は行っただろう。
 シカゴで日本記録を出した後は、成田空港で取材した。
 サンモリッツの合宿に行ったこともあったし、2度目のシカゴ・マラソンには現地まで取材に行った。
 そうか。初めて取材をしてもう17年になるのか。お互い、トシを取るわけである。トシナリに。


◆2009年3月16日(月)
 13:30から虎ノ門のホテルで高岡寿成選手の引退表明と、カネボウ陸上部の新体制発表会見を取材。
 昨晩、会見を行う旨のFAXをいただいたが、会見前の報道自粛のお願いも付記されていました。高橋尚子選手引退発表のときは、高橋選手サイドが当日の朝に各社に会見実施の案内を出しました。そのため、事前に情報をつかんだ日刊スポーツ(佐々木記者)が、その朝にスクープを出すことができたのです。今回のように自粛願いの一文をつけて会見実施の案内を事前に出せば、どの社も掲載しません。その辺は紳士協定ができているのです。
 しかし、寺田のサイトのような場合は便利で、引退するとは書けませんが、高岡選手との思い出を書くことはできます。昨晩のうちに「必死こいて」(誰の言葉でしたっけ? 女子選手がテレビでコメントしてウケた記憶があります)確定申告を終わらせて、日記は今日、移動中の電車で書き上げました。
 新しめの駅なら無線LANが接続できると踏んで、最寄り駅である日比谷線の神谷町駅ではなく、南北線の六本木一丁目駅で降りてサイトにアップしました。

 時間ぎりぎりに会見場に到着。会場の一番後ろの席に着きました。高岡選手と目が合わないところでよかった、と内心思いました。音響も良い感じで、ボイスレコーダーに録音できます。
 記事にはできませんでしたが、伊藤国光監督が冒頭に挨拶と、高岡選手の業績紹介を行いました。そのなかで印象的だったのが、次のコメントでした。
「私は彼から2つの言葉をもらいました。入社して早々に『監督、僕をオリンピックに連れて行ってください』と言ってきました。そしてもう1つは、彼の座右の銘でもある『夢見ることはできること』です。この2つは私の心にも刻まれました。16年間、一緒にやれて本当に楽しかった。ともに戦えたことは、私にとっても嬉しいことでした。22日に、東京マラソンでゴールした彼にはぜひ、私の最後の言葉をかけてあげたいな、と思っています」
 伊藤監督のいつもの、快活な話しぶりでした。そして、伊藤監督の場合、話し方は快活でも、話す内容はクールなことが多いのですが、今日ばかりはちょっとウェットな内容で、やっぱり引退会見なのだな、という思いをそのときに強くしました。

 高岡選手については、どんな表情で登場するのか注目していました。
 昨日FAXをもらった直後は正直、欠席しようかと思っていました。会見で質問できるとしても、せいぜい1つか2つ。何を聞いて良いのかわからなかったからです。感傷的になりそうだということではなく、高岡選手の功績や、競技人生の転換点などが、たくさんあり過ぎたからです。
 それでもやっぱり、何を話すか聞いておきたかったし、表情を見ておきたかった。
 勝負師の厳しい顔ではなく、柔和な表情で現れるかもしれない。そう思っていたのですが、ものの見事に予想を外されました。2004年のびわ湖欠場を発表したときに近いくらいの、厳しい表情でした。表情に隠された心境が実際どんなものだったのか、そのうち聞いてみたいと思っています。

 会見は正直、ちょっと短いかな、と感じました。自分自身は何を聞いて良いのか整理ができていないのに、もっと話を聞きたいと思ってしまう。寺田が勝手な人間なのか、そう思わせるものを高岡選手が持っているのか。
 カコミ取材の時間もありましたが、それでも、まだ短いと感じました。でも、会場の明け渡し時間も決まっています。どうしようもありません。
 高岡選手のコメントは、こちらの記事でほぼ全て、紹介できています。

 しかし、高岡選手が1万mの日本記録を出したときほどではありませんが、念じれば実現できるものです。ホテルのロビーでA新聞・O記者、J通信・T記者と原稿を書いていると、高岡選手、伊藤監督、音喜多コーチの3人が出てきました。表通りでタクシーをつかまえるまで、ぶら下がり取材をすることに成功したのです。
 しかし、その期に及んでも、何を聞いたらいいのか迷っていました。でも、もう目の前に高岡選手がいます。何を聞くか、決断しないといけません。高岡選手の決断について聞きました。その後の競技人生を左右した、いわば、ある種の賭けに成功したもの、失敗したものがどれだったのか。
 高岡選手の答えは「伊藤監督を信じてカネボウに入社したことですかね」でした。
 寺田の中ではアトランタ五輪後にマラソンに転向しなかったことや、シドニー五輪後も1年間は1万mの日本記録を目指したことが、競技人生を左右する決断だったのではないか、と思いました。決断ではないのですが、バルセロナ五輪の選考レース後に日本記録を出して標準記録を突破したことや、ケガから復帰して短期間でアトランタ五輪代表を決めたことも、ターニングポイントかな、と。
 最初の2つの決断ですが、確かにアトランタ五輪後にマラソンをやらなかったことは、伊藤監督に説得されて意を翻したのですが、高岡選手にとってある意味、自然な流れでもあったようです。賭けに出た意識はなかったとのこと。
 バルセロナ五輪については、「標準記録を意識するきっかけにはなった」と言いますが、代表まではまったく考えていなかったと言います。ただ、アトランタ五輪の代表入りは、その後の自分を考えても、大きなことだったと認めていました。

 最後に、マラソン日本記録を出した2002年のシカゴ・マラソンについて、あることを教えてもらいました。帰国後に取材した際に、シカゴのポイントとしてテレビ中継を見てわかることがある、と高岡選手が話してくれたのですが、具体的には教えてもらえなかったことがあるのです。
 8年越しの謎でしたが、やっと教えてもらいました。最近出版されたある書籍の内容とも通じる部分だと感じたので、そのことを高岡選手に告げると、「僕もそう思います」と同意してくれました。
 本当に僅かの時間でしたが、最後まで粘って取材した甲斐がありました。


◆2009年3月20日(金・祝)
 14時から東京マラソンの前々日会見を取材。場所は新宿の京王プラザホテル。先月まで借りていた作業部屋からだと、徒歩12分と近いのですが…。
 会見は5部に別れていて、
●車いす男女2名
●海外男子3名
●国内男子4名
●海外女子3名
●国内女子4名
 の順番で行われました。
 最初の車いすは副島正純選手と土田和歌子選手。去年も感じたのですが、この2人の受け答えはとてもしっかりしていて好感が持てます。人前で話し慣れているな、という印象です。
 そこが気になったのは、明後日の夕方もラジオに出演(電話で3分くらい)するからです。目の前にマラソン解説の金哲彦さんがいらしたので、その辺の話をすると「3分あれば余裕で話せますよ」とのお言葉をいただきました。上手く話すコツを聞こうとしたのですが…。きっと、寺田を落ち着かせてくれようとしたのでしょう。

 会見は続いて海外男子3選手。2時間4分台の記録を持つコリル選手、お馴染みのジェンガ選手、福岡国際マラソンで2度好走しているバラノフスキー選手。
 バラノフスキー選手が賞金のことを聞かれたときの答えが、寺田と同じ(?)で長めでした。ときどき、選手のコメントに比べて通訳の方の話が極端に短いときもあって、「えっ?」という反応が会場に起こることもあります。その点、今日のロシア語通訳の田中さんは丁寧に訳してくれていました。
 寺田も質問したいことがありました。コリル選手の2時間4分56秒(2003年ベルリン)後の戦績のこと(2時間6分台も2度)や、バラノフスキー選手が寒くない条件でも走れるのか、ということなどです。しかし、次の国内男子の時間が迫っていたことを考えて、遠慮すべきだと判断しました。共同会見ではその辺も重要です。

 国内男子は高岡寿成選手、尾方剛選手、藤田敦史選手、中尾勇生選手の4人。
 中尾選手だけがマラソンの実績がないというか、格が違う感じもありましたが、期待が大きいことの裏返しでもあるのでしょう。
 状態が良さそうだったのが藤田選手と中尾選手。記事にもしました。
 その点、高岡選手と尾方選手は、十分な準備ができたわけではないといいます。
高岡選手「正直、2時間7分台のレースになるようだと勝負できない。万が一2時間10分をこえる展開になればチャンスもあります。経験を生かしてレースを組み立てられれば、日本人トップになるチャンスはある」
尾方選手「体調を崩したりして福岡国際マラソンに出られなかった。その後もレースに出ていないが、その分、しっかりと走り込めた。もう少し自分の感覚が上がってくればいいが、あと2日でどうなるか」


 国内男子の部は今大会のメイン部門(世界選手権代表も決まります)。寺田も手を挙げましたが、他にもたくさんの記者が手を挙げていて質問ができませんでした。ここでも、時間が少なかったのです。聞きたかったのはスピードが“売り”だった高岡選手が、現役最後のレースでその特徴を生かした走りができないことについて、どう感じているか。その走りができなくなったから引退するわけですが。
 メイン部門なんだからもう少し時間があってもよかったと思うのですが、国内男子の次は海外女子部門。選手の顔触れを考えたら、国内男子のぶら下がり取材を優先しました。
 会場の外では多くの記者が、藤田選手に行きましたが、寺田は高岡選手に前述の質問をぶつけました。
高岡選手「そうなんですよね。スピードを生かせないというのがねえ」
寺田「でも、経験を生かすというのも高岡寿成の特徴の1つでは? 絶妙の駆け引きを見せるのも」
高岡選手「いやあ。“策士策におぼれる”ということもありますからね」
寺田「策におぼれるのは2003年の福岡のように考えすぎるときで、今回のように勝負に対して欲がなければ大丈夫では?」
外舘トレーナー「これ、今日のネタでしょう」
寺田「そのために来ましたから」

 明後日は伊藤監督がレース後にどんな言葉をかけるのか、ということに加えて、高岡選手の策士ぶりにも注目したいと思います。
 高岡選手に続いて中尾選手にもぶら下がり。こちらの記事にある“感覚”の話は、そのときに取材できました。会見だけでは、突っ込み度合いが浅くなります。

 国内女子選手の部が始まるのに合わせて会見場に戻りました。
 嶋原清子選手が、資生堂時代のチームメイトであり、国士大の先輩でもある弘山晴美選手に対し「大先輩の弘山さんと一緒に走れることを喜びにして、思い出深いレースにしたい」とコメント。その話しぶりが、本当に気持ちのこもった話し方でした。

 会見後は近くのカフェ(先日、コンセントが設置されたことを発見したタリーズ)に行き、17:25まで原稿書き。
 それから「東京マラソンEXPO2009」が開催されているビッグサイトに移動。「東京マラソンEXPO2009」には明日行く予定でしたが、近くのホテルで某女子選手のインタビュー取材をしました。面白い話を聞くことができました。
 取材終了後は新橋に移動して食事会。


◆2009年3月21日(土)
 午前中は自宅で原稿書きと、本サイトのメンテナンス。
 13:30頃に自宅を出て、東京ビッグサイトに家族T氏と一緒に向かいました。家族T氏は東京マラソンに出場するので、そのナンバーカード交付のため。寺田は報道用IDの受け取りのためです。家族同士が選手と記者という立場で、一緒に受付に行く。東京マラソンならではの現象ではないでしょうか。
 ビッグサイトの入り口で別れた後は別行動。
 寺田はプレス用作業部屋のある会議棟8Fで1時間ほど原稿を書いた後、東京マラソンEXPO会場に。本サイトのスポンサー様も含め、多くのメーカーが出店しているので挨拶をして回りました。というか、ビッグサイトまで行った目的は、こちらがメインでした。報道IDが当日や、昨日の記者会見場での交付されないというのは、慣例に照らせば文句の1つも言わないといけないところ。一昨年は記者会見時にID交付をしていたのですが、昨年からビッグサイトまで行くことが義務づけられました。

 しかし、初めて行ったEXPOですが、本当にすごいものだと感じました。メインスポンサーのアシックスをはじめ、スポーツ関連の主だった企業が出店しています。選手がナンバーカードの交付を受けたら、EXPO会場を通る仕組みになっているのですが、“フルマラソンを走る”という1点で指向が決まっている人間が数万人も集まるのですから、ものすごいエネルギーになります。
 寺田のスポンサーではナチュリル写真)とクリールが出店されていました。ナチュリルのブースでは、渡辺真弓選手と丹野麻美選手のオーストラリア遠征を話題にさせていただきました。クリールは樋口編集長が自ら「クリールIDシール」プレゼントの呼び込みを行っていました(写真)。

 年度の境目ということもあり、スポンサーの新規開拓も急務です。といっても、完全な飛び込みで面識のない人を相手に営業をするのは効果的ではありません。やはり、こちらのことを知ってくれている相手でないと、広告効果もイメージできないでしょう。
 ところが大手メーカーのブースでは、陸上競技の現場に来ている人たちの顔を見つけられません。見覚えがあっても、この人名前なんだっけ?というケースばかり。大きなイベントとなると、色んな部署の人間を動員されたり、外部のイベント会社に委託するケースもあるようです。
 そんななか、ある会社のブースの前で「寺田さん」と呼び止められました。見ると、元実業団Tチーム・コーチだったYさんです。今はY社のランニング関連部門の仕事を手伝っているとのこと。聞けば広告出稿に関して、寺田に問い合わせをしようと思っていたといいます。
 何というタイミングでしょう。さっそく、Y社の担当の方に営業資料を渡して、色々と説明をさせていただきました。もちろん、これで出稿していただけることが決まったわけではありませんが、過去に取材などで知り合った方がこうして話を持ってきてくれると、嬉しいものですね。

 EXPOにはスポーツメーカーの他にも、東京都水道局や新聞社、山崎製パン、はとバスというスポンサー筋の会社も出店。ドバイ政府観光・商務局やゴールドコーストマラソン、タイ政府観光客、REAL-BERLIN-MARATHONといったところは、海外のマラソンも走ってみてはどうでしょうか、と提案しているのでしょう。
 江東区、新宿区、千代田区観光協会といった東京23区のブースの並びには、平成25年 東京国体のブースもありました。東京国体(2013年)の携帯ストラップを喜んでもらった人間は数少なかったと思いますが、そのうちの1人が寺田です。


◆2009年3月22日(日)
 東京マラソンを取材。
 マラソンのレース取材は、テレビを見ながら記録をチェックします。今大会は冬期の主要大会で唯一の男女混合レース。男子は良いのですが、女子は何度でも書きますが、男子選手に囲まれて走っているのでは完全に迫力不足。先頭集団に誰がいるのかすら、画面では完全にチェックできません。思わず、隣の席のY端ディレクター(早大競走部出身。箱根駅伝では秘密のまま終わった秘密兵器)に「テレビ局として、これで良いの?」と突っ込みを入れてしまいました。
 男女同一大会実施は、世の流れでどうしようもないようですが、エリート女子選手が、男子と一緒に走るのだけはやめてほしいと切に思います。

 さすが、というべきは、プレスルームで無線LANができることです。トラック&フィールドでも日本選手権ではできるようになりましたが、普通の大会ではなかなかできません。これは、陸上競技の大会としてではなく、社会インフラとして、各施設で整備されるのを待つしかないのかな、という気がします。
 もう1つ東京マラソンの良いところは、フィニッシュ地点のビッグサイトのワーキングルームとミックスドゾーンと記者会見場が隣接していること。これは便利です。
 レース後はまず、ミックスドゾーンへ。日本人トップの前田和浩選手はテレビのインタビューなどがあるので、先に2位の高橋謙介選手(トヨタ自動車)に取材。2007年の福岡国際マラソンで6位と好走したときからすでに、2009年のベルリン世界選手権を狙いたいと話していました。ところが、2008年のびわ湖(61位)と北海道(17位)は低調でした。その辺の理由も聞きたかった選手です。
 時間があったら記事にしたいのですが……。

 たぶん、その頃に女子がフィニッシュしていますが、誰が優勝したのかはわかりません。間もなく、ワーキングルームのテレビからインタビューの音声が流れてきて、那須川瑞穂選手(アルゼ)の優勝を知りました。寺田のように1人しかいなくて連携ができない記者は、ミックスドゾーンを離れることはできないのです。
 那須川選手と言えば、2004年と05年に大阪国際女子マラソンを走っています。4年前に話を聞いたときには、しばらくはマラソン出場はないということでした。実際、4年も間隔があったのですから、今回のマラソンの位置づけが気になるところです。
 しかし、優勝者はなかなかミックスドゾーンを通りません。これは仕方のないこと。先に、嶋原清子選手が通ったので話を聞かせてもらいました。
 続いて表れたのは高岡寿成選手と伊藤国光監督。左のふくらはぎにサポーターを巻いています。そのときのコメントはこちらの記事で紹介しています。
 知りたかったのは、伊藤監督がレース後にかけた言葉です。先週の会見時に「どんな言葉をかけるのか、当日までは明かしません」と教えてくれませんでした。それがどんな言葉だったのか、高岡選手に質問が飛びましたが、照れて(?)しまうだけで、教えてくれません。インパクトのある言葉だったのは間違いないところですが、師弟だけで共有したい言葉なのでしょうか。あるいは、単に恥ずかしかっただけなのか。

 その頃、会見場ではすでに優勝したキプサング選手の会見が始まっていましたが、ミックスドゾーンを優先。前田選手の会見が始まるタイミングで会見場に移動しました。
 前田選手の会見はこちらに紹介したとおりですが、時間がちょっと短かったのは否めません。世界選手権代表に決定した選手。それも、一般の記者たちにとっては手持ちのネタが少ない選手です。寺田も含めて多くの記者がぶら下がり取材に移行しようとしましたが、表彰があるから、その後でしてほしいという主催者サイドの指示がありました。
 会見場でも弘山晴美選手&高岡選手(こちらに記事)、那須川選手、土佐礼子選手(こちらに記事)と会見が続きます。あまり良い写真ではありませんが、弘山夫妻土佐夫妻の写真を撮りました。
 引退する3選手(土佐選手は引退では“区切り”ですが)の会見は、良い感じで盛り上がりました。3人の特徴を踏まえた、さすが陸上記者という質問が飛んでいました。

 その後は表彰式会場に移動。前田選手と那須川選手に話を聞くためですが、表彰式会場は歩いて10分以上かかる場所です。ビッグサイトの巨大さがわかります。そういう施設があるから3万人規模のマラソンを開催できるのです。
 しかし、表彰式会場に着くと、前田選手はドーピング検査に行ったところ。会見場の取材を中止して表彰式に来ていた記者たちがガッカリしています。
 那須川選手にぶら下がる記者は少なかったのですが、寺田は知りたいことがあったので粘りました。バスまで移動する間に、少し話を聞くことに成功。
 しかし、その直後にミックスドゾーンに前田選手が来るという情報が。おそらく、記者たちから要望が出たのでしょう。
 しかし、最後まで那須川選手にぶら下がったI記者と寺田は、歩いて10分以上かかる場所にいました。あきらめるしかありません。フィニッシュ直後に歩かされ続けた前田選手も大変だったと思いますが。
ナイト・セッション編に続く予定

 今回の東京マラソンでは、名古屋とは違って夜の取材はありませんでしたが、川越学監督に誘われてSWACの食事会にお邪魔しました。昨日のEXPO会場でもM社のN川氏やSWACの山内美根子コーチにもお話ししたのですが、市民ランナーの方たちの話も聞いてみたいと、最近感じていたのです。市民マラソンのエネルギーを、エリートマラソンにつなげられないかと、寺田なりに考えているのです。
 しかし、会場に着いて最初に話して来られた方から「市民マラソンを取材することはないと、はっきり書いていますよね」と指摘されました。いやあ、よく覚えていらっしゃいます。そういったニュアンスのことを書いた記憶がありました。
 でも、2〜3年前とはちょっとスタンスが違ってきているので、否定的なことは書いていないはずだと思って確認すると、1月24日の日記に
「さすがに、ここまで陸上競技オンリーで来たので、市民マラソンに鞍替えすることはないが、注意を払っていて損はないはずだ。」
 と書いていました。
 もちろん、正式な仕事依頼が来れば、市民マラソンの取材もするでしょう。ただ、現状ではその可能性は低く、例えばエリートマラソンの取材をしながら市民マラソンも取材をして、このサイトに記事を書くことは物理的に無理なのです。

 市民ランナーの方たちに話を聞きたかったのは、東京マラソンを例に挙げるまでもなく、エリートマラソンと市民マラソンの垣根がなくなりつつあるからです。寺田のこのサイトも、市民ランナーの方たちが楽しめるようにする方法はないものか、と考えているのです。
 基本的には、エリート選手の情報を載せることで、市民ランナーの方も楽しんでいただけるのでは? というスタンスでやっていこうと思っています。フルマラソン・チャレンジbook 2009 (スキージャーナル社刊)なども、そういう部分が市民マラソン雑誌にも必要だという考えで、寺田に仕事を依頼してくれています。
 クリールが広告を出してくれているのも、同じ理由からでしょう。
 メンタリティーや置かれている立場ということでは、エリート選手と市民ランナーはまったく違いますが、両者が手を携えて進んで行く時代になっているのは明白です。

 しかし、時代の流れとしては、市民マラソンがエリート・マラソンを飲み込んでいく、というような意見も聞きます。なんでもかんでも、欧米で主流の大都市マラソンを肯定する。エリート・マラソンが古く悪しき形態で、市民マラソンが新しくて良き形態である、と。
 それは違うんじゃないか、というのが寺田の意見です。
 日本の社会にここまでマラソンを浸透させてきたのはエリート・マラソンです。時代が前述のようになりつつあるのは確かですし、今後はマラソンといえば東京マラソンのことを指すようになるでしょう。しかし、なんでも欧米の大都市マラソンを模倣すればいいというものではないと思うのです。最も真似をしてほしくない点が、エリート女子が男子と一緒に走ることなのです(ロンドンでは時間差を付けて別に行っていた年もありました)。女子だけの争いを映した緊迫感のある映像により、今日の女子マラソンは隆盛の道をたどってきたのです。

 などという硬い話はともかく、SWACの食事会は熱気にあふれていました。
 会の途中でエリート選手や川越監督ら、何人かのスピーチが始まりました。まさか、と思ったのですが、寺田も指名されました。最初は辞退したものの、ここで固辞をしたら雰囲気を壊すかな、と思って立ち上がりました。
 とはいえ、何を話して良いやら見当がつきません。
 正直にそう言うと、「今日の総括を!」という声が挙がりました。
 これには助けられました。
 ビッグネームが不振だったことから話を始めていたら、どういう経緯だった忘れましたが君原健二さん(メキシコ五輪銀メダル)の名前が、やはり会員の方から出てきました。君原さんも今日、東京マラソンを走っています。
 そこで、日本人トップだった前田和浩選手を指導する九電工・綾部健二監督が、君原さんと同じ“健二”であることを話しました。
 やはり九電工で活躍した選手で、井手健二選手がいました。2人のうちのどちらかが、君原さんの名前をとったという記事があったように記憶していたのです。
 かなりマニアックというか、古い名前を出して話をしてしまったのですが、まあ、“らしい話”ができたかな、とは思います。ウケたわけではない、という認識はしっかり持っていますけど。


◆2009年3月23日(月)
 14:40から岸記念体育会館でマラソン代表発表。
 発表された8人はこちらの記事の通り。
 はっきりと把握していなかった関係者もいたようですが、東京マラソン終了時点で4人目を選考することは、今回の選考基準からすると当たり前でした。北京五輪のメダリストが出なかった時点で、五輪メダリスト枠が国内3大会の日本人2位以下の選手に振り当てられました。4月の海外レースまで待って決まる枠は、元から“1”でした。
 しかし、お恥ずかしい話ですが、寺田は東京マラソンの女子選手も、4月の選考対象に入ると思っていました。昨日、主催の産経新聞K記者から言われて、東京マラソンの女子は完全に選考対象外であると知りました。選考基準(世界選手権2009選考基準=陸連時報:1.5MB)を見ると、4月の“1枠”の国内大会は陸連主催の男女3大会と男子の別大、女子の北海道という指定がありました。
 個人的には世界選手権の場合、“選考の門戸を広げる”という考えには大賛成なので、4月選考の1枠くらい、どの大会からでも選んで良いと思うのですが…。そこまですると、“物差し”を当てにくいのかもしれません。

 記者会見のあと、九電工の綾部健二監督に前田和浩選手ではない九電工の選手への取材依頼をしました。その際、名前の“健二”は君原健二さんの名前からとったのかを確認したのですが、そういう事実はないとのこと。井手健二選手も、君原さんが活躍されるちょっと前に生まれているので、ゼロではありませんが可能性は少ないのでは? ということでした。
 おそらく寺田が読んだ記事は、2人のうちどちらかが活躍したときに、君原さんと同じ名前の選手が快走した、という記述だったのでしょう。銀メダリストの名前を受け継いだ、という部分を、生まれた際に名ランナーの名前をつけられた、と勘違いしていた可能性が大です。
 川本和久先生の“和久”は、往年の名投手、稲尾和久さんの“和久”というのは事実です。丹野麻美選手の“麻美”が、歌手の小林麻美さんの“麻美”だという話を川本先生から聞いた記憶があります。が、昨日SWACの皆さんの前で話した“健二”ネタは、寺田の勘違いだったようです。申し訳ありません。

 代表発表会見の後は、記者クラブのテーブルをお借りして原稿書き。
 その間に、日体大陸上部の学生が大麻所持疑惑で捜索を受けたという報が飛び込んできました。すでに部長、監督、担当コーチが解任され、本人も事実を認めているとのこと。
 大変なことになったな、と思いました。今回の事件自体もそうですし、今後の学生選手への指導がどうなるのだろう? という部分が懸念されます。
 寮の選手の部屋を、定期的にチェックしないといけなるのでしょうか? 指導者が直接やらなくても、寮長的な人間を置いてやればいいのかもしれませんが…。
 実業団の長距離指導者が採っている、選手の自覚・認識を高める方法もありますが、インカレに出られないようなレベルの選手にまで、その方法が通用するのかどうか。
 高校駅伝の強豪校の指導者たちがやっているように、グラウンドよりも日常生活をしっかりさせる方法もありますが、その方法が大学生に適用できるのかどうか。
 スポーツの指導者にとって、本当に難しい時代になってしまいました。


◆2009年3月24日(火)
 10時に営業のために某社に。残念ながら営業には成功しなかったが、良い話を聞かせてもらうことができた。今後、寺田のサイトが進む方向を定める際に、参考になる話だった。ものすごく貴重な時間だったと感じている。

 帰り際、駅まで送ってもらう車内でWBCの決勝を見た。9回表で、3対2で日本が勝っていた。しかし、帰りの電車の中で老夫婦の会話を聞くと、「5対3だよ」とおじさんが奥さんに告げていた。おじさんの方がイヤフォンでラジオを聴いているのだが、どちらが勝っているのかは話してくれない。
 寺田の頭の中は?マークがいっぱいになった。9回表で“3対2”で日本が勝っていたスコアが、“5対3”になっているとは、どういうことなのだろう?
 “3”が日本なら、サヨナラで日本は負けているはずだ。だが、そのおじさんはまだラジオを聴いている。
 考えられるケースは2つ。
(1)9回表にさらに日本が2点を入れ、9回の裏に韓国が1点を追加した。
(2)9回裏に韓国が1点を入れて延長戦となり、10回以降の表で日本が2点を追加した。
 どちらにしても、めちゃくちゃスリリングな試合が展開されたことになる。

 結果を知ったのは新作業部屋近くのクリーニング屋に立ち寄ったときだ。ラジオ番組で日本が優勝したことを告げていた。だが、9回表以降の展開がどんなものだったかはわからない。9回裏にいったん韓国に追いつかれ、10回表にイチローの決勝打で突き放したことを知ったのは、アルバイトのA君が来てから教えてもらった。
 夜になってTBSのダイジェスト放映を見た。昼間に生中継を仕事で見られない人間にとって、これはありがたかった。結果は知っているのでライブ映像ほど大きな感動はないが(「65億のハートをつかめ!」の取材で、ライブ映像の迫力について理解が深まった)、それでも、9回の裏と10回表の攻防には感動した。よく、9回裏を同点でしのげたと思った。10回表の先頭打者(内川)がヒットで出たのも流れを変えた。
 実況が世界陸上でもお馴染みの林アナだったことも、WBC放映に見入った理由の1つだった。為末大選手や末續慎吾選手の銅メダルを実況してきた方。取材をさせてもらったことも2〜3回ある。「スポーツの実況に美辞麗句は要らない」とか「言葉には人間性が出る」と話してくれたことが印象に残っている。イチローの決勝打のときのキーが高くなった口調は、大阪世界陸上の男子4×100 mRを思い出した。

 そういえば、日曜日の東京マラソンでは夕方(17:50頃)に、名古屋国際女子マラソンに続いてTBSラジオに出演をした。磯山さやかさんがパーソナリティーというのは前回と同じだったが、今回は佐藤文康アナ(全日中1500m優勝者)が加わっていた。よく知っている佐藤アナからの突っ込みということもあり、寺田にしてはスムーズに話せた方だったような気がする。
 ただ、寺田らしさが出せたかというと、自信がない。だいたい、寺田“らしさ”とはなんだろう。すぐに思いつくのは“ねちっこい”ところだが、短時間のコメントでは出しにくい部分だ。結局、当たり障りのないコメントしかできなかったのではないか、という反省が心の中でもたげてきた。

 “らしさ”といえば、東京マラソンをラストランor区切りのレースとした3選手では、土佐礼子選手だけが“らしさ”を出していた。
 5km付近で転倒。前半から少しずつ先頭集団から遅れていったが、30km過ぎは優勝した那須川瑞穂選手(アルゼ)以外は上回るスプリットを刻み、最後の2.195kmは7分56秒。向かい風の強弱が違うので単純な比較はできないが、那須川選手を3秒上回った。選手名を具体的に書くのは控えるが、男子と比較しても遜色ないというか、何人かの有力選手に勝っている。
 本人は転倒で「気持ちを切り換えられた」というが、あとでビデオを見たら血だらけの状態で走っていた。それでも、あれだけ粘った走りができる。今回のマラソン練習は以前と比べて低いレベルでしかできなかったというが、土佐選手らしさを見ることができたし、まだまだ日本のトップクラスで通用するところを実証した。

 それに対して弘山晴美選手と高岡寿成選手は、“らしさ”を見せることができなかったし、「引退も仕方ないな」と陸上ファンに思わせる走りだった。
 弘山選手は最初から先頭集団につけなかった。中間点付近までは17分30秒ペースを維持したが、後半はスピードが落ち続けた。こちらの記事にもあるように、最後の直線だけは“トラックの女王”らしくスピードを上げたのが唯一の“らしさ”だったか。
 ただ、弘山勉監督が「ああいう走り、姿は見たくなかった。彼女にはふさわしくない」と話したときには、この夫婦の陸上競技に対するスタンスは最後まで維持し続けたと感じた。“らしさ”をなくして臨んだのではなかった。
高岡選手の“らしさ”にも触れる予定

 高岡選手も最初から先頭集団を離れ、マイペースで走った。特徴であるスピードを生かした走りはできなかったが、決して勝負を投げていたわけではない。後半の向かい風などを計算し、トップ集団がペースダウンしたら勝負を挑もうと考えていた。ところが、こちらの記事にあるように、29km付近で左のふくらはぎを痛めた。軽いかもしれないが、肉離れだと思われる。とても、完走は望めなかった。
 レース2日前の会見後に「策士策におぼれる、ということもありますからね」と話していた高岡選手。実際には策士となってレースに臨んだが、最後に残された策を実行する力もなかった。スピードだけでなく、後半の粘りも高岡選手らしさだと繰り返し指摘してきたが、今回はどこにも“らしさ”を発揮できなかった。
 にもかかわらず、レース後しばらくして会うと「これも僕らしいですね」と高岡選手は言った。詳しく聞き出す時間がなかったが、おそらく、以前のケガが多かった頃のことを指しているのだろう。スピードをばりばりに出していた頃(97年くらいまで)、高岡選手は頻繁にケガをしていた。スピードランナーらしく、足首やふくらはぎに多かった。伊藤監督も頭が痛かったことだろう。そのために外舘トレーナーが必要になり、仙台から防府に招聘した。
 取材する我々は、98年以降はケガを克服した、と理解していたし、記事などではそう紹介することも多かった。言ってみれば、そう理解することで、取材する側はケガの痛みを忘れていたのだ。だが、選手自身にとっては、そう簡単に痛みを忘れることはできない。07年以降は再度、ケガにつきまとわれていたとも言う。
 そういえば、初めてのオリンピック出場だったアトランタ五輪選考会の日本選手権では、ケガをぎりぎりで克服して代表権を得ていた。大事なところではしっかり結果を出し続けてきただけに忘れてしまいがちだが、高岡寿成という選手は、故障と戦い続けてきた選手でもあった。
 その戦いに勝つことができなくなったことを、最後のレースで心ならずも実証することになった。そう考えると、フィニッシュ後のさばさばした表情の意味がわかるような気がする。


◆2009年3月25日(水)
 10:30から都内(といっても、ちょっと郊外)某所で陸マガ用の取材。
 2人の選手を別々に取材して1つの記事にまとめるという、ちょっと趣向を凝らしたものです。珍しく自分から言い出した企画でしたが、本当に上手くできるのか、不安もありました。
 しかし、なんとか上手くできたと思います。原稿を書いてみないとなんとも言えないところもありますが、取材現場でできることはやれたかな、という感触ですね。
 イチローのように「僕は持ってますね」と言えるほどではありませんが、「僕って、ちょっと強運?」くらいは言える結果でした(ここでイチローを出したのにはワケがあります。数日後に明らかに?)。
 ただ、最後は、ちょっと感傷的な気分にもなりました。3月末ともなると、そういう話が多いのです。

「持っている」で思い出しましたが、末續慎吾選手が昨日、2009年シーズンの休養を表明しました。
 末續選手も「持っている」ものがある選手の1人です。オリンピックと世界選手権で決勝に進んだのは1回だけ(2003年パリ世界選手権)ですが、その一度のチャンスでメダルをゲットしました。為末大選手は2回メダルを取っていますが、同様のことがいえます。
 長期休養についてですが、内心、そうした方がいいかな、と思っていました(もちろん、口にしたりはしませんでしたが)。大阪世界選手権あたりから、走った後の状態を見るにつけ、ちょっと普通じゃないな、と感じていました。ただ、リレーとなるとそれほどでもないので、大丈夫なのかもしれない、と期待はしていましたが。

 末續選手のコメントで印象に残っているものの1つに、「いつも(の年)と同じですよ」があります。地元の世界選手権があるシーズンだから、オリンピックイヤーだから「特別な思い入れがありますか?」という振られ方をすると、必ずそう答えていました。
 もちろん、シーズンごとに狙いや課題は違ってきますから、取り組み方やトレーニングは違ってきます。しかし、全力で取り組む、結果を残す強い気持ちで走る、という点ではどのシーズンも同じだったのです。
 しかし、さすがの末續選手も、それを続けることができなくなった。
 ミズノからリリースがメールで送られてきました。末續選手自身も、「俺陸上続けます」というタイトルの文章で、オフィシャルサイトに今の気持ちを綴っています。
 これも3月ならではのニュースだったかもしれません。シーズンイン前に発表する性質のものですから。3月は感傷的になることが多いので、好きではありません。

 しかし、言い古された表現を使うなら、別れは出会いの始まりです。今年、末續選手の勇姿を見ることはできませんが、来年以降、新たな末續選手に出会えるかもしれない。それは、北京五輪直後の陸マガで記事にしたように、壁に突き当たっている末續世代の選手が新たな輝きを取り戻したときということになります。これも記事に書きましたが、それが日本の陸上界が世界に挑む数少ない方法なのです。
 実現させるのが容易でないことは、重々承知しています。
 それでも、末續選手にはトラックに戻ってきてほしい。
 もう一度メダルを取るのか、19秒台を出すのか、伊東浩司先輩の記録を破るのか。何でもいいのですが、そのとき「やっぱり、僕は持ってますね」のひと言があっても、誰も文句は言わないと思います。


◆2009年3月31日(火)
 14時から福島市で青木沙弥佳選手のナチュリル入社会見を取材。今日のキーワード(?)は、「みんなスピーチが上手いなあ」でした。
 西田社長の挨拶で始まった会見ですが、続いて登壇したのは川本和久監督。青木選手の実績を紹介する役目です。川本先生クラスの指導者になれば、話が上手いのは当然といえば当然。今日は“青木さやか”ネタでまとめていました。
「4年前は(スタート時のレーン紹介で)スタンドで失笑買っていました。『青木さやかだって。クスクス』……(中略)……現在、久保倉が世界の16番になっていますが、青木がどこまで行ってくれるか、興味があります。数年後には、青木沙弥佳が日本の陸上界の青木沙弥佳となるよう期待を込めて、紹介させていただきます」
 ちなみに、青木選手とタレントの青木さやかは似ても似つかないキャラです。が、下級生の頃は「どこ見てんのよ!!」と言っていた、という情報を入手しています。先輩たちに無理矢理言わされていたようです。

 次に挨拶に立ったのが青木選手。さすがに緊張の色は隠せませんでしたが、話の内容が「本当に22歳かよ」と思えるくらい、しっかりしていました。途中、若干の間が空いてしまったところもありましたが、ここまでの内容をよどみなく話し続けることなど、寺田にはたぶんできません(昨秋のR連研修会での失敗や、ラジオ収録で延々と話し続けてしまったことを思い出しました)。
 感動したのでこちらの記事中で再現しておきました。
 さらに寺田に追い打ちをかけたのが、佐藤真有選手の“歓迎の挨拶”でした。本来なら吉田真希子選手がするところですが、吉田選手は渡辺真弓選手、丹野麻美選手とともに今日からアメリカ遠征に行って不在です。年齢の順で佐藤選手におはちが回ってきたということですが(同学年の坂水千恵選手は広報業務)、佐藤選手の話しぶりがまた、「本当に26歳かよ」と思えるくらいに落ち着いていました。ゆとりが感じられましたね。
 このあたりは、川本先生の日記にも同様の記述があります。その日記に、寺田がカメラを構えている写真が載せられていますので、その写真を撮っている川本先生を載せておきます。

 会見を聞きながら内心、かなりのショックを受けていましたが、まあ、朝原宣治選手も「肉体マネジメント」(幻冬舎新書)の中で言っているように、くよくよ考えすぎるのはよくありません。気持ちの切り換えが大事です。だいたい、人前でのスピーチは本職でも何でもないわけです。ということで、会見後の取材は頑張りました。
 今日のテーマは青木選手のインターバルの歩数。57秒台をいきなり記録した1年時に取材した際は、オール17歩でした。それが昨年、学生新を出したときは5台目までを16歩で行っています。同じレースを久保倉里美選手が走っていることも多く、なかなか青木選手の技術変遷をフォローできませんでした。インカレになると、インカレらしさの取材が優先されますし。
 1歩の短縮ですが、同じ1歩短縮でも習熟度の違いなど、中身は単なる1歩ではないはずですから、そういった奥行きの部分まで話を聞けたらいいな、と思っていました。幸い、カコミ取材もありましたし、一番最後にもちょちょっと話を聞くことができました。この辺は本職なので、人前で話すことよりも上手かったはずです。その成果は、いずれ記事にする機会もあるでしょう。

 青木選手のカコミ取材後は、川本先生のカコミ取材。他の記者たちが、寺田が知っていることを話題にしているとき、ふと横を見るとナチュリルのメンバーが青木選手を囲んで写真を撮っています。すかさず、それに便乗して写真を撮らせていただきました。今日の写真の中では一番ですね。


◆2009年4月1日(水)
 新年度になりました。この時期にたくさん来るのが、異動や退職の挨拶メールです。
 陸上関係では、荻野あゆみさんからNSAA(日産スタジアム・アスレティクスアカデミー)を退職されたというメールをいただきました。
 荻野さんは早大競走部出身で、以前、ミキハウスがトップ選手を擁していたときのマネジャーでした。太田陽子選手、小野真澄選手、三宅貴子選手、小林史明選手たちの取材で何度もお世話になった方です。相手の立場を思いやることのできる女性で、こちらから言い出しにくいようなことも気づいてくれて、本当に助けられました。
 キャラとしてはてきぱきしているというか、ちゃきちゃきしているという感じなのですが、どこかまったりもしていて好感を持てる方でした。ご実家が京都の老舗○○屋とお聞きして、さもありなん、と思った記憶があります。

 オーストラリアとニュージーランドに数年留学されて帰国後、NSAAに奉職。広報から事務方、スポーツ英会話講座の講師と多岐にわたって活躍されていました。大阪世界選手権では運営サイドで頑張っていましたね。
 NSAAはちょっと以前に、見学させていただく機会がありました。グレード1から4までとトップアスリートコースがあって、小学生の年代から正しい動きを身につける指導をしていました。NSAAの代表は高野進氏。高野理論を小学生にどう教えているのか、興味がありました。
 見学させていただいたのは、400 mHの對馬庸佑選手が講師を務める小学生のクラスでした。もちろん、理論を前面に押し出してやろうとしても、小学生が受け付けてくれません。まずは、陸上競技を楽しく感じさせることが前提です。そのなかで、いかに高野理論を織り込んでいくか。
 對馬選手が本当に、うまーく指導していました。実業団選手として雇用される選手数には限りがあります。しかし、もう少し頑張れば日本代表に手が届きそうな選手もいます。そういう選手が、講師という形で職を得られるというのは素晴らしいことですし、若年層の選手が正しい動きを身につければ、いつどこで、その成果が表れてくるかわかりません。昨日取材した青木沙弥佳選手も、高校時代に岐阜にいたジュニア時代にハードリングの基礎を身につけたことが、今につながっていると話していました。

 コニカミノルタ広報の川村もなさんからも異動の挨拶メールをいただきました。川村さんの名前の“もな”は、モナコからとったのかと思って質問したところ、モナリザからとったのだと、隣にいらした酒井勝充監督が教えてくれました。名前の通り、微笑みが魅力的な女性でしたし、取材の場を明るくしてくださる方でした。
 コニカミノルタが事務局をしている八王子ロングディスタンスや、陸マガの酒井勝充監督企画、フルマラソン・チャレンジBOOKの坪田智夫選手の企画と、何度もお世話になった広報の方でした。

 コニカミノルタで思い出しました。東京マラソンのレース後に、元コニカミノルタのエリック・ワイナイナ選手(アトランタ&シドニーのマラソンで五輪連続メダリスト)にばったり会って、久しぶりに話をしました。
「ときどき、ホームページ読んでますよ」と言うからビックリ。流暢な……というよりも、愛嬌のある日本語を話すことは有名ですが、ついに漢字まで読めるようになったようです。と感心しましたが、自分のブログまで持っているではないですか。
「仕事はどうですか?」と聞いてくるので、「かなりやばいよ。景気が悪いからね。その影響をもろに被ってるよ」と答えました。
 するとワイナイナ選手が「景気が悪いときは、ケーキ食べて元気出して」と、あの笑顔で言うではないですか。
 万が一、寺田がこんなベタな駄洒落を言おうものなら、大ヒンシュクを買うのは目に見えているのですが、外国人であるワイナイナ選手が、愛嬌たっぷりに言えばウケるのは間違いありません。なるほど、と思いました。これは、参考になりますね。
 最近はゲストランナーや講師などの仕事が中心だそうです。ワイナイナ選手に仕事を依頼したい方は、ライツへご連絡を。マラソンのメダリストで、なおかつ、駄洒落の話せるケニア人です。


◆2009年4月2日(木)
 14:00に小田急沿線の某チーム事務所に。会報誌の打ち合わせです。
 15:30には都庁のパスポート申請所に。99年のセビリア世界選手権前に更新したパスポートが、今年6月に期限切れになるのです。世界選手権のID申請に必要になるので、早めに更新手続きをしてしまおうと思っていました。そうこうしているうちに、4月15日までにパスポートが必要になり、慌てて申請に行ったわけです。
 着いたとき、申請所はかなり空いていたのですが、16時が近くなるといきなり混み始めました。しかも提出窓口で書類を出そうとしたら、本籍地を正確に記入するように突き返されました。町名までわかっていればよくて、所番地までは不要と思っていたのです。現在持っているパスポートには、県名しか記載されていませんでしたから。
 寺田の本籍地は静岡県袋井市ですが、区画整理があって、場所は同じでも住所表示が変わっています。それを調べるのに、パソコンにあるファイルを検索したら15分近くかかりました。まあ、このくらいの苦労は、申請場所から遠隔地に住んでいる方の苦労に比べれば、なんでもないのですが。

 それにしても、セビリア世界選手権から10年が経ったのかと思うと、ちょっと感慨深いものがあります。
 数日前に川崎真裕美選手が「10年間」というタイトルで、実業団入り後の10年間に思いを馳せていました。寺田は陸マガをやめて丸9年ですが、今のように新聞記者に近い“動き”をするようになったのが、10年前のセビリアの頃からだったような気がします。
 それまでは、雑誌と新聞の違いを、あって当然だと思っていました。例えば、雑誌は大会前の会見に出る必要は、必ずしもありません。競技後のコメントだけでも記事は書けます。一方の新聞は、大会前の会見は必要不可欠です。
 これはマラソンの話で、トラック&フィールドの試合で事前会見はありませんが、世界選手権などになると現地でも頻繁に事前会見がセッティングされます。英語が聞き取れるのは少しだけなのに、モーリス・グリーンやマイケル・ジョンソン、マリオン・ジョーンズらの会見に顔を出していました(メーカーが開催することが多い)。もちろん、マラソン勢の会見もありました。セビリアといえば高橋尚子さんがレース当日朝に、欠場を決めた大会でしたし。
 そういった取材をしているうちに、新聞記者たちの動きが面白いと感じるようになってきました。雑誌的な動きだと、結果が出てから取材を始めます。新聞記者は結果が出ないうちから取材を始める。お金がかかるのは新聞の方です。雑誌は取材にお金をかける基盤がありません。コストパフォーマンスを考えたら、結果が出た後の取材の方が良いに決まっています。
 しかし、結果が出る前の取材をその都度文字にすれば、それも新聞のような限られた文字数でなく、雑誌のような文字数で記事にできたら(今の雑誌は文字数が少ないですけど)、陸上ファンにとってはすごく面白く感じられるのではないかとセビリアで考えました。
 折から、インターネットが徐々に広がりを見せていました。このサイトのコンセプトは、その頃に原型ができつつあったような気がします。自分が見て、聞いて面白いと思ったネタを、読者にもそのまま届けたい。その欲求が寺田の行動の背景にあります。
 それにしても、セビリアは暑かったですね。インターハイの暑さとは、また違った暑さでした。

 パスポート申請をした後は、新宿のカフェで書籍の校正作業。自分が書いた本ではありませんが、BBM社の出版部から依頼されていた仕事です。ここ数日、ちょっとずつは進めていたのですが、今日が待ったなしのデッドラインでした。「65億のハートをつかめ!」(BBM社)や「肉体マネジメント」(幻冬舎)は文字中心ですが、この書籍は某大学のコーチ陣が共同で執筆したもので、技術や練習メニューを紹介していくものです。図表がかなりの点数入っていて、そこを甘く見ていたのが失敗でした。
 しかし、どのチャプターも面白かったですし、理解が深まったので、個人的にもプラスになった仕事です。寺田などしょせん、取材を通じてしか練習現場をうかがい知ることはできません。勉強になることはいっぱいあります。
 出版されたらもう少し詳しく紹介します。
 カフェでの校正作業は5時から10時まで。新宿NSビルのタリーズに3時間、近くのMacで2時間。22時過ぎに水道橋のBBM社に移動して、23:30頃になんとか終わらせました。
 担当のK玉女史は14日創刊の陸上競技クリニックの作業も並行して進めていて、まさに猫の手状態。それでも、表紙や巻頭の色校正などが出ていて、いよいよだな、という雰囲気が伝わってきました。


◆2009年4月3日(金)
 16時からM&Kの新入部員お披露目・歓迎パーティーに出席。
 トップページでも紹介したように加入メンバーは堀江真由選手(順大卒、元ニッポンランナーズ)と須田紗織選手(日体大卒)、遠藤幸一郎選手(立大卒)の3人。遠藤選手は400 mが48秒92の選手で、他の会社で勤務をしながらM&Kの所属で競技活動をします。他の2人は陸上競技が中心の選手生活をすることになります。
 これが入社記念写真。遠藤選手は早くも本業の仕事があって出席できませんでしたが、幹渉社長と梶川洋平選手が持つ部旗をバックに女子スプリンター2人が、決意を新たに再スタートを切った瞬間です。

 31日の青木沙弥佳選手の取材のときは、“インターバルの歩数”をテーマに取材に臨みました。今日は懇談形式だったので、そこまで何と決めていたわけではないのですが、堀江選手の各種目の年次ベストを眺めていて、“走幅跳への取り組み”をテーマにしたら面白いかもしれない、と考えていました。
 寺田の予感がハマリました。堀江選手は中学までは走幅跳が専門で、高校(山形県九里学園高)でも走幅跳を中心にやるつもりで進学したと言います。
 山形県といえば、池田久美子選手の出身地であり、中学と高校1年時まで活動拠点としていた県です。つまり、山形県中学記録は池田選手の6m19(=中学記録)。堀江選手にとって大きな壁でした。
 山形県高校記録は矢口和代選手の6m18。せめて、池田選手の1年時の記録(5m85と低迷していました)を破ろうと思った堀江選手ですが、それもかなわず、高校3年間の記録は5m44にとどまりました。
 その一方で、先生に勧められていやいや始めた400 mでは国体で3位になってしまいました。記録は55秒79。適性は跳躍種目より、ロングスプリントにあるのは明らかでした。
 しかし、2002年に順大に進んだ堀江選手は、まだ走幅跳に未練がありました。花岡麻帆選手の持つ順大記録(6m29)を密かに目標としたのです。
 でも、やはりというか、ここでも花岡選手の記録は大きな壁となり、とても破れません。3年時の5m67がベストにとどまります。400 mHも2年時と4年時に頑張ったものの、62秒が切れませんでした。
 結局、活路は400 mにしかなく、4年時には54秒59の順大記録を樹立しました。
 そしてM&Kです。M&Kの走幅跳記録が堀江選手にとって大きな壁となれば、400 mで記録を更新するのではないかと思って梶川選手に、M&K入社後の走幅跳の記録を聞いたところ、近年は走幅跳に出たことがないと言います。幹渉社長によれば、熊谷史子選手も昨年は走幅跳に出場していないといいます。
「今でも、走幅跳のスパイクは持っているんですよ」と話す堀江選手が、M&K記録を樹立する可能性は高いといえそうです。

 ちょっと脚色して紹介してしまったので、上記はユーモア記事ととっていただきたいのですが、走幅跳のM&K記録を出すかもしれない、というのは事実です。
 しかし、堀江選手はもう、ロングスプリントで勝負する覚悟を決めています。M&Kに入社したのも競技に専念できる環境を求めてのこと。「世界選手権は4×400 mRのメンバーに入るのはもちろんのこと、個人でもB標準を切りたい」と、意欲満々です。
 昨年、北京五輪メンバーの久保倉里美選手と青木沙弥佳選手を、ベスト記録で上回りながら日本選手権に合わせられず(予選落ち)、涙を飲みました。福島大勢で占められた4×400 mRメンバーの一角を崩すには、まずは気後れしないことですが、M&Kに入社したという1点をもってしても、覚悟は十分できている選手だと思われます。
 おっと、プレス用に配られた資料には「弱気は最大の敵!」と堀江選手自身が書いていますね。


◆2009年4月4日(土)
 年度末ということで、寺田も挨拶状や挨拶メールを出した。数年間続けていたが終了した仕事もあったので、最後が肝心と丁寧に文章を書いたつもりである。そうしたら、何人もの方から返信をいただいた。
 どれも、丁寧な内容だし、そういうふうに思ってくれていたのか、と嬉しい内容のものが多かった。こちらから再度返信をしたいのだが、事務的なやりとりと違って簡単には書けない。そのうち何人の人がこの日記を読んでくれているかわからないが、ちょっとお待ちいただきたい。
 大きな仕事はないのだが、いくつもの仕事が重なるのが4月なので、気がつかないうちに仕事をいくつも抱え込んでいる。いい加減、自分がこなせる仕事の量を見極めろよ。と自分に言いたくなっている桜の季節だ。

 ISHIRO!こと毎日新聞の石井朗生記者も新年度から大阪勤務に。たしか、イチローの大リーグ渡米と同時になったと話していたので、陸上競技のメイン担当を丸8年間務めたのだと思う。オリンピック2サイクルは、新聞記者としては長い方だろう。
 毎日新聞に朝原宣治さんのインタビュー記事が連載されている。「時代を駆ける」というシリーズで、陸上競技の枠を越えたコーナーのように思える。大阪転勤後の初仕事だろうか?
 ISHIRO記者の顔を見るとよく、イチローに見立てて質問していた。「8年連続で何かやってない?」とか、「(WBC直後に)アメリカに残ったんじゃないの?」とか、寺田の馬鹿な振りにもイチローになりきって答えてくれた。それができなくなると思うと、かなり寂しい。きっと、ISHIRO記者の顔を見て、同じことをやっていた関係者も多いのではないだろうか。
 日刊スポーツ・佐々木一郎記者では、イチローに見立てる気にはなれない。どこから見ても役不足である。

 往く人がいれば戻ってくる人もいる。以前、陸マガの編集をやっていた星野君から電話があった(3年か4年ぶり)。
 コーチングクリニックの編集になり、ある企画を寺田に振ってくれた。やり甲斐のありそうな企画なのだが、立て込んでいる季節というのが問題だ。
 しかし、こうして声を掛けてもらえるのは、ライター冥利に尽きると思っている。というか、声を掛けてくれる人は大切にしたい。やっぱり、人と人とのつながりが大事だと、最近なぜか思うことが多い。そういう季節でもあるのだろう。


◆2009年4月5日(日)
 今日は国立競技場で東京六大学がありました。
 今年の東京六大学加盟校には4年生に、金丸祐三選手(法大)と横田真人選手(慶大)という大物2人がいます。江里口匡史選手(早大)をはじめ、早大の木村&木原コンビ、慶大の後藤乃毅選手、法大の小林雄一選手と、スプリントは好選手が目白押しです。
 早大では110 mHの飯田優之選手、跳躍の笹瀬弘樹選手と堀池靖幸選手もインカレ優勝者。長距離では早大の新2年生たちに、明大の鎧坂哲哉選手も注目の存在。投てきでは砲丸投の山田壮太郎選手(法大)が要チェック。
 大物OB選手のオープン参加も可能性があります。

 ということで東京六大学の取材に行きたかったのですが、陸マガの原稿が終わっていません。さすがに、これ以上遅れるとまずいという時期はわかります。今日は原稿優先にせざるを得ませんでした。寺田が早めに書き上げればいいだけの話なのですが…(ライバルのO村ライターは取材に行けたのだろうか。気になる)。
 東京六大学など、この時期の対校戦クラスの試合は、さすがにネットに記録が載りません。都道府県陸協主催の記録会などの方が、ネット上に載る確率は明らかに高いですね。小さな対校戦でも各大学のOBは、一刻も早く知りたいものなんですが。
 陸マガ編集部に頼んで記録を送ってもらいました。春季GPの展望記事も書くことになっているので。
 真っ先に目についたのが100 mの小林雄一選手。江里口選手に0.01秒差の10秒33です。リザルツに風が記入されていない(陸上をよく知らない人が担当したのでしょう)ので追い風参考の可能性もありますが、江里口選手とのタイム差だけで十分、好調ぶりが伝わってきました。
 金丸選手は4×400 mRだけ。横田選手をはじめ、出場していない有力選手も多かったようです。このあたりも仕方のないこと。現地に行けば、各選手の事情も聞くことができるのですが。やっぱり現場に行かないと、色んな意味で遅れますね。


◆2009年4月6日(月)
 今日は電話取材ラッシュ。陸マガの春季GP見どころ執筆のためです。
 今年はページ数が少なく、全ブロックを丹念に追っていません(ここ数年そうなっているかも?)。しかし、男女の短距離はしっかりと載せようということで、それなりの文字数を割くことになりました。
 この冬は沖縄の陸連合宿にも、NTCの公開練習にも行っていません。トラック&フィールド種目の情報入手が遅れているので、短距離の指導者たちに電話をしまくりました(その意味でも、昨日の東京六大学には行っておきたかったのです)。
 女子では麻場部長、北海道ハイテクACの中村監督、平成国際大の清田監督。福島大の川本監督には、先日の青木沙弥佳選手のナチュリル入社会見時に話が聞けています。男子では苅部俊二部長と筑波大の谷川聡コーチ。
 詳しくは陸マガ5月号を読んでいただきたいのですが、高橋萌木子選手が好調そうです。その他にも面白い話がたくさん聞けました。展望記事ですから、寺田が頭の中でネタをこねまわして書くこともできるのですが、やっぱり現場に密着した情報が載ると違いますからね。その辺は、手を抜きたくないところなのです。
 これらの情報を元に原稿を……と思ったのですが、その他の仕事も抱えていて(編集作業など)、書くところまで行きません。明日は高平慎士選手と塚原直貴選手の会見が幕張であるのですが、ちょっと行けなさそう。


◆2009年4月7日(火)
 今日は頑張りました。
 まずは早起きをして、陸マガの春季サーキット展望記事を書きました。
 9割仕上げたところで、電車で都心に移動。某所で写真選びの作業をさせてもらうためですが、移動の電車のなかで陸マガの原稿を仕上げました。
 16時頃に写真選びの作業を終えると、幕張に向けて移動。富士通短距離コンビの記者会見に出席するためです。昨日の時点では8割方無理だな、と感じていましたが、やればできるんですね。こういうケースはめったにありません。
 電車に乗る前に三代直樹広報に電話をして、「出席していいですか?」と確認をしてから向かいました。

 会見会場は幕張メッセ。なんとか会議室のある棟には会見開始5分前に到着しました。部屋を見つけられずにウロウロしていると、笹野浩志選手がこちらを見つけてくれて案内してくれました。そういえばもう、選手ではなく“笹野さん”と書かないといけません。会見場まで10数秒という時間でしたが、その間に「なんで前の年に1分47秒台で走った選手が引退しないといけないんだ?」と質問。その答えは……ここで書くことはできません。取材というシチュエーションではなかったので。
 寺田が着いて間もなく短距離コンビも到着。高平慎士選手がこちらを見ながら、「笹野さんの取材は良いんですか?」と聞いてきます。そこまで気を回すとは、さすが“冷静さが売りの3走”だけのことはあります。
「得意の立ち話取材を済ませたから」と答えましたが、取材ではなかったですね、あれは。
 しかし、朝原宣治さんが昨年の日本リスト2位。笹野さんも日本リスト2位。100 mと800 mは日本で2番目の記録を出した選手が引退しました。2人とも京都の大学出身です。朝原さんが同大で笹野さんが立命大。これで高岡寿成さん(龍谷大)が昨年の日本リスト2位だったら……などと考えても、意味はないですね。

 会見は45分間くらい時間をとってくれたと思います。このコンビは、しっかりと自分の考えを言葉にできることで知られています。昨年春の陸連合宿公開取材の際に、ある記者が質問の前振りでそう言っていました。寺田も同感です。
 今日は塚原直貴選手の“9秒発言”がインパクトがありましたが、高平選手もしっかりと話をしています。今後の記事に反映させたいと思います。
 会見後には三代広報に質問するチャンスをうかがっていました。今日、幕張まで行ったのはそれが目的だったといっても過言ではありません(と書くときは過言です)。

 寺田が携わった朝原さんの書籍「肉体マネジメント」(幻冬舎新書)の売り上げが、渡辺康幸監督の著書に追いついていません。1月だったか2月に、富士通のニューイヤー駅伝優勝報告会の席で、何事にもオープンな渡辺監督が部数を教えてくれたのです。増刷する部数にもよりますが、朝原さん書籍が増刷した場合、通常の部数なら1回で渡辺監督著書に追いつきます。通常よりも少ない増刷部数でも2回で追い抜きます。
 しかし、朝原さんの書籍は最初の刷りが、アマチュアスポーツ関連書籍では多い方だったため、まだ増刷するところまで売り上げが達していません。あとちょっとらしいのですが、そこがなかなか簡単にいかないようです。
 そこで三代広報です。会見後の撤収作業に入っているときに、そそっと質問することに成功しました(執念です)。
「渡辺康幸の記録を破るコツは何?」
 あらためて書くまでもなく、箱根駅伝2区の区間記録の話です。
「ラスト3kmの踏ん張りでしょうか」
 と三代広報。
 これは、良い話を聞きました。朝原さん書籍もまだまだ、あきらめてはいけないということです。もう一踏ん張り、いえ、三踏ん張りくらいプロモーションを頑張らないと。ということで、「肉体マネジメント」をよろしくお願いします。自分が関わったということを抜きにして、まじで面白いです。


◆2009年4月8日(水)
 10時から世界選手権代表の加納由理選手の取材でした。
 SWAC(セカンドウィンドAC)会報誌のインタビュー記事用でしたから、会員の皆さんとの触れ合いや、彼らに対する加納選手の気持ちも出したいと考えました。それが、通常の取材とはちょっと違う点です。
 しかし、「応援ありがとうございます」と書くだけではライターとして芸がありません。タイミング次第ではそれも効果的なのですが、今回は競技的な話の流れの中で、会員の方たちとの接点を盛り込めたらいいな、と考えていました。
 3月に発表された女子マラソン世界選手権代表4人のなかでは、加納選手だけが選考レース2位で、3月の決定までどうなるかわからない立場でした。その間、会員の方たちとどういう接し方をしていたのか。
 競技的な流れという点では昨年度の加納選手が、ハーフマラソンで1時間8分台を出したのをはじめ、レース数もこなしていて、充実しているな、と感じていました。その部分とSWAC2年目という点が、どう関係していたのかも突っ込みたいと思っていました。
 取材前はかなり緊張していましたが、SWACのアットホームな雰囲気のおかげで、それほど緊張しないで臨むことができたのがよかったと思います。

 午後は作業部屋に戻って通常の仕事。近場で朝の取材だと一日が長く使えるのが良いですね。


◆2009年4月9日(木)
 一昨日に続いて、都内某社で写真選びの作業。これが11:30から13:30まで。
 14時ちょっとには新幹線に乗り込み、お弁当を食べました。お弁当を食べるのが目的だったわけではなく、佐久長聖高の高見澤勝コーチを取材に行くためでした。
 長野新幹線の佐久平駅まで1時間半(思ったよりも近い距離にありました)。駅を降りて佐久の地を踏んだときは、「ついに来たか」「やっと来たか」という気持ちでした。
 佐久長聖高が強くなったのは、寺田が陸マガ編集部にいた最後の頃からです。佐藤清治選手が強くなったときでしたが、同選手の取材はだいたい、フリーの野口順子さんに行ってもらっていました。駅伝の取材も同様だったと思います。
 陸マガをやめてからは、高校生の取材をする機会がめっきり少なくなりました。ゴールデンゲームズinのべおかや日体大長距離競技会、全国高校駅伝、全国都道府県対抗男子駅伝、千葉国際クロスカントリーなどで上野裕一郎選手、佐藤悠基選手、最近では村澤明伸選手と取材はしていましたが、佐久長聖高まで取材に行く機会はありませんでした。

 佐久平駅で降りたときは、「初めての佐久か」と感慨がありました。「初の佐久。略すと“はっさく”だな」とか考えていましたが、他人に言うのはやめよう、と決意したのは書くまでもありません。
 駅からはタクシーで10分もかからない距離。佐久長聖高が練習している両角速先生手作りのクロカンコースは、雑誌などの記事で何度も見ていますし、陸上界では知らない人はいないでしょう。高校ではなく「信州短大のグラウンド」だと聞いていましたが、高見澤コーチによれば、タクシーの運転手でもわからないかもしれない、と言います。
 案の定、寺田の乗ったタクシーの運転手はわかりません。「佐久長聖高の駅伝チームが練習している所なんですが」と言っても、ピンと来ない様子です。結局、大学の玄関で降りて歩くことができました。

 練習内容を細かく紹介することはできませんが(そのための取材と断っていないので)、佐久長聖高が強くなった要因の1つであるクロカンコースというより、クロカン・グラウンドの写真を紹介するのは大丈夫でしょう。
つづく

 練習内容を細かく紹介することはできませんが(そのための取材と断っていないので)、佐久長聖高が強くなった要因の1つであるクロカンコースというより、クロカン・グラウンドの写真を紹介するのは大丈夫でしょう。
 これがクロカン・グラウンドを西側(南西側?)から撮った全景です。起伏がよくわからないと思いますが、東側のアップダウンはこんな感じで、かなりの傾斜です。この傾斜を走らなくてもいいように東側には手前にもう1本、周回コースをショートカットするような直走路(この写真の手前の方)もあります。
 この直走路は起伏を避ける意味もあると思いますが、おもにドリルを行うために使用されるようです。今日はポイント練習の日ではなかったため特に、ドリルを念入りに行なっていました。
 そして、佐久長聖高といえば、この軽トラックです。クロカン・グラウンドの造成にはなくてはならなかったもので、佐久長聖高が強くなった過程を象徴する“物”です。写真は練習終了後にコースをならすため、鉄の網状の板をつけているところです。ちなみに、今の軽トラックは3代目(台目)とのこと。
 グラウンド整備は軽トラックだけでなく、マネージャーや選手も練習前後に念入りに行なっていましたし、両角先生は練習中のちょっとした時間でも、スコップなどを使って行なっています。高校駅伝優勝時の記事に、両角先生は今でも長靴で練習に現れると書いてありましたが、その通りでした。

 クロカン・グラウンドのことばかり書きましたが、佐久長聖高の強さの根源は寮生活にもあります。ミーティング場所(マッサージや補強も行う)の体育館には、ボードに注意事項などが書き出してありましたが、そのなかでも中央に大きく「競技力向上の土台は学校生活、寮生活にあり」と書き出してありました。
 生活の中でどうすればいいかは、高見澤コーチの話の中に具体例が出てきました。ここで書くわけにはいきませんが、そこは、それぞれのチーム・選手が、それぞれの環境のなかで工夫するところではないかと。
 高見澤コーチが昨年の北海道マラソンで優勝できたのも、高校生と同じ寮生活を送っていることが大きく関わっているといいます。絶対的な練習量が少なくても、工夫できる部分があるということです。話を聞いていて、見習わないといけないな、と感じる部分が多々ありました。
 高見澤コーチ自身は勝因を、「周りが逃がしてくれたから」と謙遜しますが、周囲が躊躇するなか、思い切って行けたことは評価されてしかるべき。優勝タイムは2時間12分10秒。大会記録ではありませんでしたが、スタート時が27.2℃のコンディションでしたから快記録です。マラソン回数が少ないのですが、夏のマラソンで自己記録を大きく更新しました。
 同じように夏に強いのが嶋原清子選手で、昨年はホノルル・マラソンで優勝しました。彼女の場合は10回以上のマラソン歴があるなかで、2005年の北海道で自己記録を出しています。「2人とも北海道マラソンの歴代3位なんですよ」と、意外に細かいところを高見澤選手が知っていました。
 え、ネットに出てる?


◆2009年4月10日(金)
 午前中に某社のIT担当部署と電話でやりとり。本サイト左側のアマゾン広告を取り外すことにしました。理由は技術上の問題があったためで、他に理由があるわけではありません。
 午前中には電話取材も1本。現時点では日本代表を狙えるレベルではありませんが、選手はそれぞれのレベルで悩み、そして頑張っているのだと、改めて実感しました。


◆2009年4月11日(土)
 日大・東海大を町田の野津田公園陸上競技場で取材。
 この競技場は駅から遠いのがやっかいです。小田急線の鶴川か玉川学園、JR横浜線の淵野辺、京王相模原線の永山か多摩センターといったところから、ほぼ等距離にあります。一番近いのは鶴川だと思いますが。
 鶴川駅と町田駅からバスで行けるようですが、本数は少ないし停留所からも遠い。結局、自宅から永山駅まで歩き、そこからタクシーを使いました(確か、去年からそうしています)。時間的には20分くらいで着くのでありがたいのですが、経費は片道1880円。近くて高い競技場といえます。

 初っ端の1500m(正確にはトラック2種目目)からダニエル選手が学生新。日刊スポーツ・佐々木記者が顔見知りのようで、一緒に話を聞きに行きました。噂には聞いていましたが、頭のいい選手だな、という印象です。笑顔も好印象。東京マラソンの日に久しぶりに会ったワイナイナ選手といい、ヤクルトのジェンガ選手といい、話してみると「良い奴だな」と感じるケニア選手は多いです。
 だからといって、ケニア人がみんないい人、と言っているわけではありません。実際、ケニア本国では犯罪も頻発しているようですし、ある実業団チームの監督の話では現地に行ったとき、そんなことでお金を要求してくるのか、ということもあったそうです。
 これは、陸上競技をやっている人間に良い人は多いけど(根拠となるデータはありませんが、他競技を取材する記者が話していました)、なかには法を犯す人間もいるのと同じこと……話が変な方に向かいそうなので、この辺でやめておきます。
 とにかく、ダニエル選手は好感の持てる人物でした。

 12時の4×100 mRの後、13時までトラック種目は行われません。こういう空き時間は有効に使うべき。東海大短距離の高野進コーチに話を聞くことができました。先日の富士通取材の際に塚原直貴選手が9秒台が目標だと口にしましたが、高野コーチもその点は認めていました。
「9秒台の可能性はわからないが、本人はその気になっています。去年は卒論とケガの影響で12月から2月まで、あまり練習ができていませんでした。今年の10分の1でしょう。(9秒台が)出してしまったらマズイと思っていましたが、今年は練習が100%できています。条件が揃ったら狙って行け、と話しています」
 ストライドの伸びについても、具体的な数字を挙げて話してくれましたし、現実的な目標になっていることが、こちらも実感できました。
 塚原選手自身も、400 mのレース後に寺田のサイトの記事の感想を話してくれました。「後半を興味深く読みました。僕は本当に感じていることしか言わないですよ」と。

 塚原選手と藤光謙司選手(セーレン)の対決が注目されたオープン400 mは、藤光選手が快勝しました。
藤光選手 46秒80(200 m21秒5=寺田計測)
塚原選手 47秒77(200 m21秒7、300 m33秒7=東海大計測)

 200 mの通過が速いのは、バックストレートが追い風ということも関係しています。
 藤光選手のフィニッシュを押した寺田の手動計時は46秒78。トラック&フィールド取材最初ということを考えると、まずまずの出来です。ライバルのO村ライターがいなかったのが残念です、非常に。
 藤光選手は今季、個人種目は従来通り200 mで狙いますが、リレーは4×400 mRを考えていると言います。実際、走り終わったあとの状態は、塚原選手が本当にきつそうだったのに対し、藤光選手はすぐに回復していました。

 この2人といえば3年前(2006年)、この日大・東海大の200 mで藤光選手が快勝しました。しかし、シーズンに入ってグングン調子を上げていったのは塚原選手で、関東インカレで高平慎士選手(当時順大)と2種目同タイム2位の激闘を繰り広げ、日本選手権では100 mで優勝しました。藤光選手も関東インカレの予選で自己記録を出しましたが、決勝でケガをしてしまいました。その後の塚原選手がナショナルチームの1走に定着した活躍は、紹介するまでもないでしょう。
 同じ轍を藤光選手が踏んでいいと考えているわけがありません。レース後に今季の展望をじっくりと聞きました。
 取材では藤光選手の所属するセーレンについても、色々と聞くことができました。東京と福井に本社のある繊維会社ということで、我々が直接購入する衣料品ではなく、衣料品を造るメーカーに、一番元となる繊維を提供している会社なのだそうです。日本の有名スポーツメーカーの多くにも、提供しているといいます。
 詳しくはセーレンのWEBサイトを見ていただくのが早いのですが、かなり大きな会社のようです。日大陸上部関係者の尽力があったと聞いていますが、そういった会社が新しく陸上競技を支援してくれるのは良いことですね。

 今日はフィールド種目の試合展開チェックが、ちょっとおろそかになっていました。垂直ジャンプ系はチェックしやすいのですが、鈴木崇文選手(東海大3年)がどの高さでいなくなったのか、わからなくなってしまう失態。
 さらに、円盤投で犬伏拓巳選手(日大1年)が49m63のジュニア歴代4位を投げたことも気づかず、東海大の與名本稔コーチから教えてもらいました。なんとか記事にできるだけの話は聞くことができました。與名本コーチのおかげです。
 鈴木選手は5m20から跳び始めて記録なし。すれ違いざまに話を聞くことには成功しましたが、記事にするのは次回に。同じ町田で行われる四大学に出場するといいます。
 他の跳躍選手については、東海大跳躍ブロックの植田コーチから話を聞きました。
 日大長距離の堀込コーチからもダニエル選手のラップや、この冬の練習などを教えてもらいました。


◆2009年4月25日(土)
 四大学(町田市)とアシックス・チャレンジ(神戸ユニバー記念。兵庫リレーカーニバル)のどちらを取材するか迷っていました。昨日の時点でほぼ、アシックス・チャレンジにすることに決めていましたが、最終的に決めたのは今朝になって天候を見た後。この雨ではトラック&フィールドはきついだろう、と。神戸は夕方になれば雨が上がる可能性もありましたし。
 ということで、14:30頃の新幹線で新神戸に向かいました。

 車内では書きかけの120行原稿を書き上げましたが、最終的な仕上げのところまで進みません。名古屋駅を過ぎたら、明日の取材の予習をする予定でした。
 ところが、携帯のメールに大ニュースが飛び込んできました。
「佐藤悠基選手が27分37秒で走ったというのは本当ですか?」
 兵庫リレーカーニバルの会場からの問い合わせです。事実なら日本歴代3位。高岡寿成選手の27分35秒09は30歳、中山竹通選手の27分35秒33は27歳のときですから、新社会人の佐藤選手は27分30秒台最年少記録になります。
 これは放ってはおけません。幸い名古屋も近づいていて、トンネルは少なくなっています。途中で会話が切れるのは好きではないのですが、テンションが一気に上がってどうしようもなくなり、日清食品グループ・白水昭興監督に電話をしました。記録は27分38秒25とのこと。27分30秒台は3人目。前述の最年少記録にも該当します。
 アメリカはもう夜中ですが、現地の岡村コーチ補佐が起きているという話だったので、思い切って電話を入れました。場所や順位を確認することができました。

 京都駅で泊まっている間に本サイトのトップページに、佐藤選手が快記録を出したことをアップしました。石川末廣選手も28分台ヒト桁でフィニッシュしたと岡村コーチ補佐が話していたので、これも“未確認情報”としてアップ。B標準突破は確実と判断してのことです。
 新神戸駅に着くと、地元の小野高出身の尾縣貢先生が、「アシックス・チャレンジが始まりますから」と、地下鉄に猛スピードで走って行きました。寺田は腰を新幹線で痛めて(電話をするときにデッキで無理な姿勢をとったせいか?)思うように歩けません。
 エスカレーターで降りていると、すぐ後ろにHondaの一ノ瀬コーチが偶然にもいらっしゃいました。「石川選手、28分6秒ですか?」と聞くと、「28分7秒だと聞いています」と一ノ瀬コーチ。

 会場に着くとアシックス・チャレンジの女子5000mが始まったところ。寺田の1本前の地下鉄に乗れば間に合ったと思います。
 女子は有力選手が出ていないこともあり、その間にいくつかの挨拶と用事を済ませました。
 男子も有力選手、注目選手の何人かが欠場。ちょっと寂しく思ったファンも多いと思われますが、その分、宇賀地強選手(駒大)と柏原竜二選手(東洋大)の学生エース対決が場内を盛り上げたと思います。
 柏原選手が序盤で先頭に立ち、それを宇賀地選手が追う展開。いったん離したジョロゲ選手(小森コーポレーション)が追いついて三つ巴の争いになりましたが、興味は学生対決だったと言っていいと思います。
 2人の位置関係はほとんど、柏原選手が前で走っていましたが、ペースが遅くなると宇賀地選手も前に出ます。しかし、すぐに柏原選手が抜き返します。意地のぶつかり合いに見えましたが、レース後に2人の話を聞くと、そういうわけでもないようです。

 柏原選手は純粋に「苦しくなったときこそ前に」という考えだったと言います。この大会はユニバーシアードの選考会ですが、代表になりたいとかよりも速く走りたい、負けたくない、という気持ちが強かったように見受けました。記録は自己記録(28分44秒42)更新と日本選手権の標準記録A(28分30秒00)は考えていたようですが、そこまで狙っていくという雰囲気ではなかったみたいです。
 一方の宇賀地選手は「完全に個人として負けたくない。ユニバーシアードを狙っていた」と言います。駒大勢は星選手がすでにハーフマラソンの代表に決まっていて、4日後の織田記念5000mには深津選手と高林選手が出場します。3種目代表を目標にしているのかもしれません。「記録はとりあえず自己記録(28分37秒67)更新を」という考えだったといいます。ユニバーシアード派遣標準記録は28分50秒ですが、全体枠があるのでそれを破ればOKではなく、少しでも良い記録を出した方が良いということになります。
 結果は最後1周で柏原選手が競り勝ち、28分20秒99(=日本人学生歴代13位)と28分23秒62のタイム。2人とも自己記録を大きく更新し、柏原選手はユニバー代表有力候補に。宇賀地選手は織田記念の結果と、陸上の全体枠次第です。
 ほとんどは柏原選手が前で走りましたが、ちょっとペースが緩むと宇賀地選手が前に出て68秒台に戻しました。その積極姿勢が、深津選手の駒大記録(28分24秒17)を0.55秒更新することにつながりました。

 竹澤健介選手、佐藤悠基選手、木原真佐人選手の卒業で、小粒になったと言われている学生長距離陣ですが、気持ちの良いレースをやってくれました。
 その佐藤悠基選手がアメリカで日本歴代3位、明日は木原選手が地元で凱旋レースです。
 携帯電話には、アメリカのHonda明本樹昌監督から、「石川のタイムは28分07秒04。確認情報です」との留守電が入っていました。


◆2009年4月26日(日)
 兵庫リレーカーニバル取材。
 プログラムの各種目の見どころは、相変わらず充実しています。おそらく、春季サーキットのプログラムでは一番ではないでしょうか。なかでも、男女1万mは他種目の6倍くらいの文字数。通常は100 mから順に記載する実施種目も、兵庫リレーカーニバルは1万mが男女のトップに記載しています。我々の大会の看板種目はこれですよと、はっきり主張しているのです。
 織田記念も三段跳をそう位置づければいいのに、と思います。春季GP第○戦、、○○○○選考会という肩書きだけでは芸がないでしょう。ウチの大会はここが面白いですよと、ここが売りですよと、より具体的に、より突っ込んでアピールした方が良いと思います。
 その延長で、シーズンを通じて注目種目を設定する方法を考えました。スポンサーも付けて宣伝し(JAL男子100 mとか、中国新聞男子三段跳とか、JR西日本男子ハンマー投とか)、イベント性を高めて注目してもらう方法です。提案もしたのですが……現実的には難しいのでしょうか。
 ということで、大会ごとの頑張りが大切になります。

 取材についても書かないと。
 兵庫はインタビュールームが、グラウンドを見られない位置にあります(織田記念もそうですが)。種目数が少なくなったのか、寺田が取材に慣れたのか、例年よりも多く競技を見ることができたかな、と思います。それでもラスト1周だけ見るために飛び出したり、フィールド種目はほとんど見られなかったり、という状況は避けられません。
 最初に話を聞きに行ったのは女子200 m。久保倉里美選手に400 mHへの展望と併せて話を聞きに行きました。途中(といっても、かなり話を聞けていました)で、男子800 mスタートのピストルが鳴ったので、脱兎のごとくグラウンドに。と慣用句を使って例えますが、脱兎を見たことは生まれてこのかた一度もありません。
 フィニッシュ地点脇のスタンド下で、1周目のホームストレートから見ることができました。隣では女子200 mを走ったばかりの松田薫選手と佐藤真有選手が熱心に声援を送っています。一瞬、どういうことか理解できませんでしたが、800 mに福島大OBの佐藤広樹選手(自体学)が出場していました。
 男子800 mでは口野武史選手が優勝。1分49秒台では好記録と言いにくいのですが、これが今大会唯一の大会新。兵庫の800 mは実施回数が少ないのでしょうか。とにかく今日は、雨も降りましたが、風が強くて記録は厳しかったですね。

 その男子800 mは口野選手の話をしっかりと聞きました。新入社員研修を2週間、みっちり受けて「走ってもいないのに身体がパンパン」という状態だったそうです。富士通の新人社員が例年、避けては通れないのがこの研修。伊東浩司選手、苅部俊二選手の頃から、取材中によく話題になっていました。
 選手の前にまず、富士通の社員ということ。例外的な扱いも認められないわけではないようですが、その研修が社会人としての成長を促します。競技にも無形に役立っているかもしれません。
 2位の横田真人選手、3位の下平芳弘選手にも、表彰に移動する際に短めに話を聞くことができました。横田選手は左の足首を捻挫して、練習再開後10日間くらいしか経っていないとのこと。冬期はすごく良かったそうで、「キレが戻ってくれば良い年になりそう」とのこと。リディアード式を話題にする時間はありませんでしたが。
 下平選手も冬期は故障なくこなせたようで、「復活の年」にしたいと話していました。
 女子やり投のインタビューは優勝した海老原有希選手が、治療のため医務室に行って不在。吉田恵美可選手と他の記者が話しているのを、横で聞かせていただいていました。「左脚が全然、踏ん張れない」とのこと。しかし、海老原選手の60mは刺激になっているようで、日本選手権前に予定している2試合で、「B標準は越えておきたい」と話していました。
 3000mSCはカネボウ初の外国人選手のメスフィン選手の話を聞くか、2位の梅枝裕吉選手に話を聞くか迷いましたが、これまで一度も話を聞いたことがなかったので梅枝選手に。入社後2年ほどしてから充実した理由は、“NTNの3000mSCの伝統”の話を聞くことができ、収穫が大あり。記事にしました。

 続いて女子1万m。以前は男女の1万mは中高一般種目も終えて最後に行われていました。400 m毎のラップも測れたのですが、今は、フィールド種目も同時に行われていますし、インタビュー取材もあるので測ることはできません。
 レース展開と1000m毎通過はなんとかチェック。というか、1000m毎は電光スクリーンに表示されるのでで、メモをとることができるのです。できれば400 m毎も表示してほしいですね。なんてたって、兵庫なのですから。
 インタビュールームでは日本人トップの中村友梨香選手を、今日一番の取材陣が囲みました。地元出身ですし、北京五輪マラソン代表です。寺田は世界陸上代表の藤永佳子選手に。
 しかし、その途中で海老原選手がインタビュールームに来てくれました。表彰が終わったら来てくださいね、と寺田から頼んであったのです。2週間前に60mを投げていますし、ここは海老原選手を優先です。その内容は記事にしました。
 その間にレースが進んだ男子1万mは、ほとんど見ていません。何度かグラウンドを見に行って、入船敏選手が日本人トップかな、と思っていたら、岡本直己選手が逆転していました。
 昨日のアシックス・チャレンジの学生2選手の方がタイムが良かったですし、レース展開も迫力があったのは確かです。学生の方が強いのでは、という声がスタンドでは聞かれましたが、それはどうでしょうか。コンディションは今日の方がはるかに悪かったですし、この冬の実績を考慮してみても、今日の岡本、井川、入船3選手の方が力はあるように感じました。
 実際、1万mの記録はかなり条件やレース展開に左右されます。GP種目が始まる前に日清食品グループの白水昭興監督に話を聞きましたが、佐藤悠基選手があそこまでの記録を出すとは、まったく予想していなかったと言います。初戦の5000mも13分40秒台で、予兆と言えるほどのものはありません。記録の評価というのは、本当に難しいですね。

 男子走幅跳はちょこちょこ見ていました。特に3〜4回目の試技は、砂場のすぐ近くに行くことができました。3回目までは大混戦の様相を呈していましたが、菅井洋平選手の4回目は明らかに他を圧していました。記録的にはいまひとつかな、と思っていましたが、菅井選手の自己記録との差と、この日の寒いコンディションを考えると、かなり評価できます。そこを記事にしました。
 今日最後の取材は男子円盤投。畑山茂雄選手が57mを投げましたから、まあまあのレベルです。取材中に話題にのぼったのが和歌山のやり投でB標準を突破した荒井謙選手。畑山選手も同じ日か次の日に記録会に出ていて、その直前に荒井選手から電話がかかってきたそうです。
 2人には共通点がありました。B標準突破が目標で、実業団のオーストラリア遠征に参加して、と。会社のなかで唯一の投てき選手として頑張っている、という点も同じです。あと二枚目選手ということも。
「沖縄合宿でも村上と2人で投げ込んで、78mくらいは行っていましたから出る可能性はあると思っていましたが、こんなに早い時期に出るとは思いませんでした。やり投が男女とも盛り上がっていますから、それに負けないようにしたい」
 電話で記録を知らされた畑山選手は、55m63だったそうです。荒井選手の電話で力んでしまった? と誰かが突っ込みます。
「いや、そんなことはないんですが…でも、このヤローと…力みましたね」
 32歳になった畑山選手ですが、まだまだ血気盛んなのかもしれません。ただ、練習のスタイルは少し変えていると言います。
「2007年2008年は満足するまで投げていましたが、今は、今日はここまでやったら、と考えるようになりました」
 4月29日には60mを投げた三重県で、記録会に出場します。

 寺田的には興味ある話題がたくさんあった兵庫リレーカーニバルですが、一般メディアの視線で見た場合、記事にできる種目がほとんどなかったというのも事実です。
 記録が低調だったのは寒さと風があったからでしょう。看板種目の男女1万mに強豪選手が少なかったのは、海外レースやマラソンとの兼ね合いで仕方のない部分もあります。
 それでも、全体の印象としてはかなり寂しかったです。
「これまで取材したなかで一番盛り上がらなかった兵庫リレーカーニバル」という声が、専門誌や関西の記者たちから挙がっていました。寺田が例年よりも落ち着いて取材ができたのも、“これは念入りに取材せなあかん”という種目が少なかったせいかもしれません。


◆2009年4月27日(月)
 昨日はユニバー記念競技場で菅井洋平選手の記事を仕上げてから、三宮のホテルに移動。ユニバーで思い出しましたが、今年の春季サーキットはユニバーシアードの選考会に指定されています。5月の地区インカレは選考会に入っていません。ユニバーシアード本番が7月上旬で、例年より1カ月半近く早い時期に行われるためです。
 ためですが、インカレが選考会に入っていないというのは「なんか、なんか」(渋井陽子選手の大阪国際女子マラソン一夜明け会見時のコメント)という感じ。その辺を理解していない大学指導者もいるかもしれません。
 代表決定は大阪GP直後とのこと(昨日取材をして確認しました)。インカレで、「こっちの選手を選んでおけば」という種目も出てくるかもしれませんが、そんなことは学連も百も承知のこと。というか、泣く泣く今回の選考日程を決めたのは明らかです。
 もう1つ周知徹底がなされていないのが、派遣標準記録の存在。兵庫リレーカーニバル取材中に、その存在を知らない学生選手、指導者が複数いました。日本学連のホームページに出ていました(主催者ではなく日本学連が独自に設定したものです)。
 学連幹部によれば「入賞ラインで設定した」とのこと。JOC派遣大会の宿命ともいえる部分ですが、派遣人数枠がありますから、標準記録を破っても100%選ばれるとは限りません。ただ、今回の標準記録設定はどの種目も高く設定してあります。それに対して枠は30。男子20で女子10。ひょっとすると、標準記録突破者だけで枠を埋められないかもしれません。
 男女の数は変更される可能性もあるのですが、現時点で長距離何枠、という決定はなされていないとのこと。まあ、現場は現場で皮算用をしたり、学連中枢にいる指導者から色々と聞き出しているものと思われます。

 ユニバー競技場からの帰路、ユニバー競技場でユニバーシアード選考会が行われたことは、過去にあったのだろうか? などと考えながら、三宮駅前で書店に立ち寄りました。なんてったって神戸です。朝原宣治さんの「肉体マネジメント」(幻冬舎新書)の売れ行きを……書店に行ってチェックできるわけではありませんが、気になったので自然と足が向いていました。
 結論からいうと、置いてありませんでした。地元だけあって、すでに売り切れたのかもしれませんが、本の陳列の仕方を見て“売れ筋”の本を大量に置く店だとすぐにわかります。店に入ってすぐに「置いてないだろうな」と感じました。
 ちょっとシャクではありましたが、中国歴史物の中篇集と、推理小説の短篇集を購入。
 ホテルでは2時間ほど眠った後、陸マガの某マラソン選手の人物記事を仕上げました。本サイト用にも海老原有希選手と梅枝裕吉選手の記事を、ざくっと書きました。

 今日は午前中に三宮のスタバで某指導者の取材。
 続いてカフェでAJPS(日本スポーツプレス協会)サイトの原稿書き。山崎勇喜選手について書きました。小坂忠広先生に取材をしてあったこともあり、比較的スムーズに書けたと思います。筆の進み具合がいつもよりも早いのは、神戸にいるせいかも。
 13時頃に新神戸駅まで移動。NTNの逵中正美監督に電話取材をして、梅枝裕吉選手の記事を仕上げました。
 新神戸の駅ホームで神戸新聞を購入。新幹線を待っている約10分間で兵庫リレーカーニバル関連の記事をすべて読みました。ホームはちょっと寒かったですけど、年に一度の恒例行事ですから欠かせません。
 広島着後は路面電車でホテルまで移動。神戸のユニバー記念競技場への移動も慣れたものですが、広島の路面電車にも少し精通してきました。
 17:30からある方と、約1時間の面談。
 夜は山崎選手原稿を仕上げました。集中して書き進めていますがそれでも、他にも抱えている原稿があって、意図していた進行より遅れています。当初は、兵庫リレーカーニバルと織田記念の間に、未踏県の1つである愛媛県まで足を伸ばす計画もあったのですが。


◆2009年4月28日(火)
 午前中はホテルで仕事。というか、ホテルの同じ部屋で連泊できるようにするため、ネットで予約を取り直したりなんだりで、かなりの労力を使いました。2度に分けて予約をしたため、同じシングルでも広さの異なる違うタイプになってしまっていました。ホテルで直接とると1500円近く高いのです。洗濯物を乾かさないといけないので、部屋の移動は避ける必要がありました。
 12:00にはビッグアーチに。織田記念の前日練習の取材です。スタンドの外には6月の日本選手権の看板も出ていました。地元の中高生選手にアピールしておくのは重要です。
 グラウンドには最初、ナチュリル勢くらいでした。いつもは有力選手がもっといるのにな、と不安になりましたが、待つ以外に手だてはありません。
 その間に、松山大女子駅伝部の大西監督に挨拶。数年前に日体大でお会いしたときは短距離コーチだった記憶があったので、現在に至る経緯をお聞きしたり、短距離と長距離の両方を指導できる下地となった高校時代(室蘭大谷高)のことなどをお聞きしました。
 中国新聞の陸上競技新担当の中橋記者にも挨拶。さっそく、三段跳を兵庫リレーカーニバルの1万mのようにしましょう(一昨日の日記参照)と申し上げておきました。

 そうこうしているうちに、徐々に有力選手たちがやってきました。
 まずは慶大勢。中村宝子選手や後藤乃毅選手たち。続いて江里口匡史選手らの早大勢。田野中輔選手、高平慎士選手、塚原直貴選手の富士通勢。城下麗奈選手らの青山学院大勢。高橋萌木子選手らの平成国際大勢(高橋選手と清田監督)。そして福島千里選手、北風沙織選手、仁井選手、竹田選手らの北海道ハイテクAC勢(福島選手と中村監督)。昨年もそうでしたが、なぜか跳躍選手は少なくて、短距離・ハードル選手が前日に多く見かけます。織田記念の傾向ですね。
 9秒台を目指す塚原選手ですが、明日はまだ難しそうだと言います。それでも、10秒2前後は出せる感触とのこと。塚原選手といえば、高橋萌木子選手とは“ジャマイカ式”といわれるストライド重視のスタートについてアドバイスをした間柄。今日も練習前に、何事か話し合っていました
 ちなみに、この写真が塚原選手のスパイク。つま先部分が変色して、摩耗しています。新しいスタートの2歩目は、地面をつま先が擦るからです。塚原選手によればそのときヒザ下は脱力しているので、擦ることが抵抗になったりしないようです。
 女子100 mの方は昨年の織田記念で日本記録を出した福島選手と、同学年のライバルの高橋選手の対決が注目されています。「今年も速いですよ。スタート6歩目からの乗りが良い」(中村監督)、「織田記念の借りは織田記念で返す」(清田監督)と、どちらの監督(両監督の写真)も強気です。特に高橋選手は4月の記録会で11秒56(+1.3)で走っています。小さな大会では力を発揮できなかった同選手が、4月の記録会でこの記録です。かなり期待できそうです。
 ただ、福島選手は12月に軽めでしたが腰痛(椎間板ヘルニア)がありました。高橋選手も新スタートが成功する確率は3分の1とのこと。2人とも100%というわけではありません。高橋選手のスタートの成否は、リレーゾーンの出口で視線が下を見ているか、前を見ているかでわかるそうです。


◆2009年4月29日(水)
 今日は年に一度の織田幹雄記念国際の取材。年に一度というのは当たり前ですが、わざわざ書くからには意味があるわけです。
 思い起こせば1年前。スタンドの記者席に“食べかけ弁当放置事件”を起こしてしまったのが、他ならぬ織田記念だったのです。おそらく広島陸協の方(あるいはイベント会社の方)が、「どこの記者だよ、食べかけで起きっぱなしにした奴は」と、怒りながら片づけてくださったと思われます。
 事情はこうでした。
 織田記念のタイムテーブルは11時半頃から12時半頃まで、男女の100 mと110 mH、100 mHの予選を、集中して行います。予選ですから多少の好記録が出てもコメントを取りに行く必要はなく、ずっとスタンドで観戦取材ができ、レースの間にお弁当を食べるのが慣わしになっています。
 ところが去年は、100 mH予選で井村久美子選手(当時は池田久美子選手)が激しく転倒。予期しないアクシデントに、弁当を席に置いたまま取材に駆けつけました。ハードル間の距離を間違えて設置していたことがわかり、それに対して主催者側がどう対応するか、池田選手のケガの具合はどうなのか、というところを見守る必要がありました。
 そして、12時半からはフィールド種目が3つ、トラック種目も10〜15分刻みで続くのが織田記念です。一気に忙しくなってスタンドの記者席には戻ることができず、放置した弁当のことは、頭から綺麗になくなっていたのです。
 事情はともあれ、よくないことをしてしまったことに変わりはありません。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
 この1年間、悔恨の念にさいなまれない日はありませんでした。取り返すことができるわけではありませんが、次に同じ状況になったら絶対に迷惑をかけないようにしようと、“陸上の神様”に固く誓ったのです。

 そして今年の織田記念です。女子100 mHのときはまだ、スタンド下にいました。会場のビッグアーチはPHSの電波状態が悪く、昨日の日記をサイトにアップしようとしていたのですが、なかなかデータの送信が終わらないのです。
 記者室は電波が入らないので、外に出て、パソコンを片手に持ってデータを送信しながら競技を見ていました。和歌山には行けなかったので、中田有紀選手の話は聞いておきたいと思い、中日新聞・桑原さんと一緒に行きました。失礼だとは思いましたが、面識のある選手でしたし、パソコンを持ちながら話を聞きました。たぶん、初体験です。
 サイトの更新がなんとか終わり、100 mHの何組かめにはスタンドに行きました。100 mHもそうでしたが、男子の110 mHも含めそこそこ好タイムは出ていますが、好記録続出というわけではありませんでした。
 女子100 m予選が始まるときには、お弁当も7割食べ終わったところでした。
 そして女子100 mの1組目。福島千里選手が2位以下をぶっちぎりました。後でわかったのですが2位の岡部奈緒選手に0.52秒差。おそらく、その大差が、こちらにすごいと思わせた理由の大半でしょう。ただ、動き自体もすごいんじゃないか、という予感はしていました。第1戦だし、そこまで出ないだろう、という計算と、目の前の福島選手の動きを、どう判断していいのかわかりません。
 でも、こちらの戸惑いにはおかまいなく(これも当たり前ですが)、福島選手はフィニッシュラインに突っ走ります。速報タイマーは11秒20で止まりました。形容できない感覚が背中を突き抜けます。
 直後に風が+2.2と表示。正式記録は11秒23に。追い風3m台ならともかく、2.2なら公認範囲にかなり近い数字です。参考記録で片づけてはいけない価値があります。
 これは、予選とはいえ、コメントを聞かないといけません。すぐにミックスゾーンに向かいました。食べかけのお弁当は手に持って。記者室に寄る余裕はありません。途中で捨てるわけにもいきません。ミックスドーンで取材中も、ずっとお弁当を持っていました。世紀の記録の取材としては格好悪いことこの上ないのですが、どうしようもありませんでした。“陸上の神様”へ誓ったのです。特に広島では、お弁当を放置するわけにはいきません。
織田記念取材ネタ、つづく予定

 女子100 mは2組目でも、渡辺真弓選手が11秒31(+2.8)とすごいタイムを出していたのですが、福島選手のワンコメントを聞くことを優先していたため、気づきませんでした。今年は織田記念会場のビッグアーチで日本選手権が開催されます。例年とは違ってミックスドゾーンが設けられていましたが、選手待機所に近い場所ではグラウンドが見えません。2組目はどうしようもありませんでした。
 3組目は間に合って見ることができました。高橋萌木子選手が独走でも快走して、11秒24(+3.4)と福島選手と0.01秒差のタイムを叩き出しました。風は違うのですが、この0.01秒差というのが何か、因縁を感じます(因縁という言葉は、悪い意味はまったくないので注意してください)。
 高橋選手にもひと言、コメントを取材。予選からここまで良い記録が出た場合、予選後にこういうことを話していた、と記事に使う可能性も大いにあります。

 直線4種目の予選が終わると西日本ジュニアの長距離種目。できれば見ておきたいところですが、ここは女子ハンマー投優勝の室伏由佳選手の取材を優先。記録は61m50と良くありませんでしたが、結婚後初の大会出場ですから何かいい話が聞けるのでは……と思っていたら、こちらの予想に反してシリアスな話になりました。新聞記事にもなっていますが、冬期に卵巣嚢腫で苦しんだことを告白したのです。
 3月に入院。嚢腫が破裂したため手術はしなくて済んだのですが、投薬治療では吐き気にも悩まされたそうです。一時は体重も8kg落ちたとのこと。トレーニングに集中できる状況ではありません。今季の試合出場はやめることも検討したそうですが、痛みさえ出なければ思い切ってやっていいとの医師の診断もあり、出場に踏み切りました。
 病気のことを隠し通すこともできたと思います。記録が良くなかったといっても、「調子が上がらない」と言えば周囲は納得できるレベルです。室伏由佳選手は2004年にもポリープを切除したのですが、そのことはいっさい口にしませんでした。昨年12月にはまた別の原因で倒れました。
 ここ数年、悩まされてきた腰痛にも、卵巣嚢種が関わっていた可能性も大きいようですし、今回の嚢種は根治はできないかもしれないと言います。
「私たち勝負の世界に身を置く人間は、知らないうちにプレッシャーを感じる立場にいます。目に見えないところで病気が進むこともあるのでしょう。特に女子選手は、婦人科系の問題から身体にこわばりが出ることもあると思います。口にしていないだけで、そういう症状の選手は必ずいます。見えない部分ですから、注意を払ってほしいと思います」
 選手たちに警鐘を鳴らす意味もあって、病気のことを告白したのでした。

 室伏選手のインタビューはミックスゾーンではなく、例年と同じインタビュールームで行われました。女子800mはピストルが鳴ってからグラウンドに向かい、2週目だけ見ることができました。タイムは良くありませんでしたが、久保瑠里子選手が地元Vを飾りました。
 続く男子1500mは田子康宏選手が引っ張りましたが、残り250mでスパートした村上康則選手が3分43秒30の大会新で優勝。この種目はB標準突破者が3人と、過去にない盛況ぶり。激戦をどう戦うか、という部分も含めてミックスドゾーンで話を聞きました。
 しかし、この種目については陸連の強化関係者から、厳しい意見も出ていると聞きました。大会新ですし、国内で3分43秒なら悪い記録ではないと思っていましたが、そういった認識自体を改めないといけないということです。ずっと田子選手1人だけが引っ張ったことも、問題視されています。
 ただ、これで富士通は、兵庫リレーカーニバル800mの口野武史選手に続き、中距離で春季GP2連勝。短距離、駅伝、競歩に続き、中距離でも勢いが出てきました。

 続いて女子100 mH。石野真美選手が優勝し、城下麗奈選手が2位。城下選手は自己記録と同じ13秒48でしたが、追い風2.1mで惜しくも参考記録に。絶好調と聞いていた寺田明日香選手は、盲腸のため欠場。手術はしないで、薬で痛みを散らす治療をしているそうです。東日本実業団では復帰したい意向です。
 男子110 mHは中国の尹靖選手が13秒40(+1.9)で圧勝。昨日の練習中にもう、選手やハードル関係者は、勝てないと思ったといいます。日本人トップは2位の田野中輔選手で13秒65。追い風1.9mで、記録が公認された数少ない種目。田野中選手も「もったいない」とこぼしていました。
 ビッグアーチは全天候舗装を張り替えたばかり。新装トラックは記録が出る、というのが近年の陸上界では定説になっています。ただ、今回のように100 mで記録が出る条件は、110 mHと100 mHにもまったく同じように有利になるとは限りません。短距離は条件に恵まれてストライドが自然と大きくなり、それで記録も出やすくなりますが、ハードル種目はストライドが伸びると、踏み切り位置が近くなってしまいます。向かい風よりも追い風の方が良いに決まっているのですが、好条件が100 mほどストレートに記録に表れにくい。
 田野中選手が次のように言っていました。
「すごく弾んで進んでしまいます。予選はどん詰まりになって、途中で(記録を狙うのを)やめました(13秒83)。ぶつけないことに気を遣わないといけませんでしたから。どんな状態でも、刻んで走れないことには勝負ができません」
 予選を走って、決勝でなんとか対応できたようではあります。

 続いて砲丸投で18m13の日本歴代5位、学生歴代2位をマークした山田壮太郎選手の取材。フィールド種目はミックスドゾーンに誘導されるか心配だったので、事前にお願いしてありました。取材するのは専門誌と中国新聞だけだと判断して、ミックスドゾーンでも一番手前の、グラウンドが見える位置で取材をさせてもらいました。それも、トラック種目をとき見させてもらいながら。山田選手には失礼なことをしてしまいましたが、1人で全種目をカバーしないといけないメディア(織田記念は陸上競技マガジンの取材がメイン)は、そういったお願いをするしかありません。
 18mという記録から、大きく扱うことを想定して、念入りに話を聞きました。18mの投てきの感触、トレーニングや技術的なこと、そして大学で6年目まで頑張っている理由等々。女子100 mHの城下選手も、卒業しないで5年生として競技を続けています。そういう選手もこれから、多くなるのかもしれません。もちろん、金銭面の苦労を伴います。
 山田選手の「今季は1試合1試合が就活です」という言葉が印象に残りました。
織田記念取材ネタ、もう少しありますが、つづくかどうか未定


◆2009年5月25日(月)
 横浜国際女子マラソンの正式名称とコースが発表された(記者発表には行けなかったが)。
 名称をどうするかで、どうして今まで悩んでいたのかはわからない。地名+国際マラソンという従来の命名法ではなく、何か斬新な名称をつけられないか、検討していたのだろうか。例えば、地名を大会名称に入れなければ、今回のように開催地が変わったときに名前を変えなくてすむ。日本選手権のような大会名ならば、どこで開催しても日本選手権で通すことができる。
 個人的には地名でなく、“ファースト国際女子マラソン”とか“元祖国際女子マラソン”という名称でもよかったと思っている。そうすれば、今回のように東京国際女子マラソンの後継であると謳いながらも、データ(大会回数や歴代優勝者)は引き継がないというマラソンファンの期待を裏切る決定をしなくても済むのだが(※大会回数は明確に記さない方針とのこと。東京国際女子マラソンからの継続性を強調したい関係者と、新しい大会であることを強調したい関係者の折衷案となったようだ。聞くところによると)。

 コースについては賛否両論あるようだ。クリール樋口編集長がブログに書いているように、市民ランナーを何万人と受け容れる方針ではないようだ。周回コースが記録にどう影響するかは、現時点であれこれ想像しても仕方ないだろう。こればかりはやってみないとわからない。それも、何年間か。
 東京マラソンのコースも当初は、記録は望めないという意見が支配的だったが、2回目で藤原新選手が2時間8分台を出し、そうでもないぞ、という評価になっている。

 個人的には硬い話よりも、コース図の描く形を見て、あれ? と思った。どこかで見た図形のような……と考えていたら、福岡国際マラソンのコースと似ていることに気がついた。
 横浜国際女子マラソンのコース図は、陸連サイトに、福岡国際マラソンのコース図は大会主催者サイトに出ている。発着点が同じで、スタートして左の方に進み、左回りに回って別の道を元の方向に戻り、スタート地点を通り越して右の方に進む。発着点の右側で周回の横浜と、折り返しの福岡という違いはあるが、かなり近いと言っていいと思う。
 それを言ったら、大阪国際女子マラソンと名古屋国際女子マラソンのコースも似ているうちに入るかもしれない。競技場をスタートして北上し、西側に曲がって戻って来るという。
 だからなんだ、という話ではないのだが…。


◆2009年5月26日(火)
 スポンサーの計測工房にご挨拶に伺いました(藤井社長のブログでもご紹介いただいています)。特に何かについて話し合うと決まっているわけではなく、こちらの感謝の気持ちを伝えるのが目的の訪問です。それでも何か役に立てることがないか、寺田なりに考えていきましたが、他社と違い個人消費者が対象のビジネスではないこともあり、これという妙案にまでは至りませんでした。
 改めて書くまでもなく、計測工房のビジネスはタイム計測です。市民マラソンがブームということもあり、業績は順調とのこと。藤井社長が集計されたデータでは、1万人以上が参加するロードレースは30大会。1年前よりも10大会ほど増えているといいます。

 “景気が良いのは箱根駅伝と東京マラソン”。陸上関係者の話によく出てくる言葉です。その2つは厳密に言えば陸上業界とはいえないかもしれませんが、近くに位置する業界であるのは間違いありません。隣の芝生は青く見えるのが世の常ですが、間違いなく“青い芝生”の業界です。
 と、指をくわえて見ているだけでは進歩はありません。
 箱根駅伝ファンや市民ランナーは、陸上競技ファンになる可能性のある人たちです。どうしたら取り込めるかを考えなければいけません(一番可能性があるのは、今は陸上競技からは離れている競技経験者で、寺田のサイトはそういう方たちに見てもらいたいと思っています)。寺田のサイトも、市民ランナーの方たちが多く見てくれているようですが、その数をさらに増やすにはどうしたらいいかを模索中です。

 同じ意味で最近、可能性があると思っているのが“検索する人たち”です。
 例えば、女子200 mで日本新が出た静岡国際の日の夜に、スポーツニュースを見て“福島千里”とか“高橋萌木子”とパソコンで検索する人が多いと思っています。テレビをただ見ているだけでなく、その後に少しでも行動をする人たちですね。陸上競技ファン予備軍だと、寺田は思っています。
 そこで問題となるのが寺田のサイトの構造です。フレーム機能を使っているため、せっかく福島選手や高橋選手のことを取り上げても、検索エンジンに引っ掛かりにくいのです。フレームにすると記事画面をスクロールしても、上側と左側のフレーム内は固定されたまま。つまり、広告をずっと表示することができます。それを新聞サイトとの違いとして売りにしているのですが…。
 今日の藤井社長との話の中でも、こちらの抱える問題点をいくつか話題にさせていただきました。実は先日重川材木店を取材した際(記事はこちら)、重川隆廣社長から「寺田さんが50年かかって思いつかないことを、瞬時に思いつく人がいると思いますよ」というお言葉をいただきました。だからというわけではありませんが、純粋な陸上業界ではない立場の方と話ができるチャンスには、そういった経営的な話もさせてもらったりしています。

 という話もさることながら、藤井社長が熱く語ったのは母校・慶大のことでした。関東インカレでは無事に一部残留。国立競技場には来られなかったそうですが、4×400 mRのメンバーを見てレース展開まで想像されていました。1走が廣瀬英行選手ということから推測したそうです。すかさず、同選手は1走しかできないと本人が静岡国際で話していたことを伝えました(大阪GPでは3走で45秒台半ば=寺田の手動計時=でしたが)。
 慶大には“お家芸種目”がないという話も、言われて初めて気づきました。これは、種目を特定して勧誘しているのでなく、“来たい選手”が入学しているからなのだそうです。
 言われてみれば、ショートスプリントの鹿又選手、400 mの鈴木岳生選手、800 mの横田真人選手、110 mHの渡部充選手、競歩の小池昭彦選手、やり投の土屋忠之選手と、強い選手が出た種目は分散していますし、その種目が伝統的に強いというわけでもありません。

 藤井社長が市民マラソンの参加人数とともに差し出してくれた書類がありました。北信越インカレの男子砲丸投のリザルトです。慶大OBでもある對木隆介選手(新潟大)が15m42で2位に入っていました。
 對木選手は慶大時代に一度、陸マガで2ページくらいで取り上げたことがありました。数年前の新潟県実業団(当時は日立所属)で少し、話もさせてもらいました(寺田と同じ静岡県出身)。
 藤井社長にとっては慶大の1学年後輩。今回の15m42は自己5番目の記録だそうです。慶大時代の1998年に出した15m80の自己記録を破ったら、素晴らしいですね。6月の日本学生個人選手権には出場するのでしょうか?


◆2009年5月27日(水)
 6月第1週に鳥取で行われる2009スプリント挑戦記録会IN TOTTORIの取材に行くことを決めました。鳥取陸協が丁寧なインフォメーションをしてくれましたし、陸マガ高橋編集長からも電話がありましたし(内容はつまびらかにできませんが)。何より、種目は男女の100 mと直線ハードルの4種目だけですが、今年好調の選手が揃うことが大きいです。

 男子100 mは塚原直貴選手が「日本選手権に向けて重要な大会」だと、別件ですが先週の取材の時に話していました。大阪GPの10秒13を筆頭に、織田記念から東日本実業団まで3試合連続で10秒1台を記録しています。上記コメントは、10秒1台は安定して出せるようになったので、さらにレベルアップをしていきたいという意図が表れていると見ていいと思います。
 高平慎士選手も100 mが速くなったことで、200 mの前半にゆとりを持てるようになっています。布勢競技場は日本選手権で初優勝した2004年大会の開催場所です。
 忘れていけないのが小島茂之選手。織田記念で10秒41を出していますが、早大の後輩の後塵を拝しました。今回、学生勢との直接対決はありませんが、日本選手権前に巻き返しておきたいところでしょう。

 110 mHは現時点でA標準突破者がいません。B標準が田野中輔選手と内藤真人選手。田野中選手は今季は負け知らずだと思いますが、記録的には13秒6〜7台が続いています。東日本実業団は「新しいパターン」で勝ったということですが(富士通サイト参照)、直前の体調不良で前半からガツンと行けなかっただけのこと(実際はもう少し奥深い話です)。日本選手権は得意のパターンに戻すはずなので、その試金石が鳥取です。
 そして田野中選手と鳥取といえば、谷川聡&内藤のミズノ・コンビを抑えて優勝したアテネ五輪選考の日本選手権開催場所。A標準を破れず代表入りできなかったのは痛恨だったと思いますが、布勢競技場が思い出の場所であることに違いはありません。
 アキレス腱の故障で戦列を離れていた内藤選手も、今大会が復帰戦。日本選手権に向けて、どの程度まで復調しているのか。
 同じ法大OBでは入江幸人選手が今季、13秒79の自己新と好調です。
 110 mHも見どころがいっぱいなのです。

 女子100 mは改めて書くまでもないでしょう。福島千里選手と高橋萌木子選手が織田記念で11秒2台をマークしました。追い風参考でしたが、+2.2mは公認許容範囲に近い追い風です。織田記念3位の渡辺真弓選手、4位の北風沙織選手も参戦。大阪GPの4×100 mRで日本新を出したメンバーでもありますが、忘れていけないのが石田智子選手。
 男子の小島選手とは違って、若手と直接対決できるチャンスです。

 そして女子100 mH。現役最高記録保持者の井村久美子選手こそ参加しませんが、東日本実業団で13秒29のジュニア日本新を出した寺田明日香選手と、アジアGP昆山大会で13秒35(風不詳)で走った石野真美選手に、13秒11のB標準が期待されます。
 故障で出遅れていた熊谷史子選手も、冬期にボブスレーに取り組んだ成果がそろそろ現れそうな雰囲気があります。

 日記なのになぜか、大会の見どころになってしまいました。もしかして初めて?


◆2009年5月28日(木)
 日記を再開しました。
 月曜日の横浜国際女子マラソンのコース発表の話題から書き始めましたが、本当は織田記念以降、書きたいことがたくさんありました。特に大会取材の日はネタがこれでもかというくらいにあり、1日分を30分くらいでパパッと書くことは難しいのです。先延ばしにしているうちに1カ月経ってしまって…というのは、いつものことですね。織田記念の日の日記が途中で終わっています。「つづくかどうか未定」と書いているのは自覚がある証拠ですが、こんなことだから陸連の某大物氏から「進歩がない」と言われるのでしょう。
 4月末の春季GPからから5月の地区実業団&地区インカレの時期は、記事を優先したいシーズンであることも、日記が書けなかった一因です。取材でインプットすることが多いので、とにかく早めにアウトプットしておきたい。日本選手権の展望特集をやる前に、できるだけ多くの種目の記事を載せておきたいのです。と、O内さんの奥さんへの言い訳を書かせていただきます。

 当初は東日本実業団が終わったら日記を再開できるはずでしたが、天童に電話があり、急ぎの取材が入りました。陸上競技クリニックの創刊第2号(6月13日発売)の特集で、「走りとリズム」「動きとリズム」についてかなりのページを割きます。その特集の1つに「トップアスリートに聞く“私のリズム”」というコーナーがあり、7人の選手にインタビューすることになりました。
・塚原直貴選手
・成迫健児選手
・竹澤健介選手
・大橋祐二選手
・醍醐直幸選手
・花岡麻帆選手
・室伏由佳選手

 普段の取材では話題になりにくいテーマですし、感覚的なところの話なので言葉にするのが難しい部分です(実際、ほとんどの選手がそう話していました)。
 いきなり忙しくなりましたしプレッシャーも大きかったのですが、皆さん協力的で、1週間のうちに取材をすることができました。1人あたり500文字とコンパクトな文字数ですが、それぞれの選手の特徴が出て、なかなか面白い取材でした。
 市民ランナーたちの間では、音楽をトレーニングに利用することも広まっています。単に気持ちを高揚させるだけでなく、実際のピッチと同じBPM(1分間のビート数)の音楽を利用する方法です。金哲彦さんにインタビューして、こちらも面白い話を聞くことができました。
 この企画で取材したネタで面白かったのは……日記で紹介するよりも、まずは雑誌を読んでいただくのが良さそうです。6月13日発売です。

 ここで書くのが適したネタといえば、陸マガに書いた高岡寿成選手の引退記事ついてでしょう。
 この記事も頑張りました。東京で1時間くらい取材をさせてもらいましたが、これでは書ききれないと思い、兵庫リレーカーニバルの翌朝に神戸で追加取材をさせてもらいました。さらに原稿にも目を通してもらい、電話で補足取材までしました。不世出のランナーの引退記事ですし、現役選手では一番長い期間取材してきた選手ですから、適当に終わらせたくはなかったのです。
 業界的なプレッシャーもありました。ライバル誌が中学・高校時代から振り返る連載を始めていましたし、市民ランナー向けとはいえ同じBBM社のクリールが、高岡選手の手記を連載していました。その点、陸マガは5ページ読み切り。分量の少なさから、競技人生全般を追うことはできません。少ない文字数で他誌にはないインパクトを出すことが求められるわけです。そこで考えたのが、テーマを決め、そのテーマを掘り下げることで、ある程度競技人生をなぞることができるようにすることです。
 “スピードをどうマラソンに生かしたのか”というテーマ自体は誰でも思いつくことですが、“どうすれば生かせるのか”という部分は簡単そうで、実は簡単なことではありません。そこで、高岡選手の話の中に何度か出てきた“感覚”ということばをキーワードにすることにしました。
 その結果があの記事です。トラックのスピードを追求したことで、いつでも(マラソン練習中でも)5000mを13分40秒の感覚を身につけることができ、それが2時間5分を目指すマラソンに結びついたという話になったのですが、書けなかった“スピード”ネタがあるのです。こればかりは普通のメディアには書けない内容なので、ここで書くしかありません。
 日を改めて紹介したいと思います。


◆2009年5月29日(金)
 ATHLETICS2009が到着。深夜までかかって発送作業をしました。
 内容はまだ、じっくりと目を通すことができていません。といっても、例年していないのですけど。何かを調べるついでがあったときに、他のページにも目を通して、ちょっとずつ読み進む(?)のが普通です。

 でも、気になるのは日本選手のこと。BIOGRAPHIESで取り上げられている日本選手を、まずチェックしました。
 男子は室伏広治、成迫健児、山崎勇喜の3選手。ついに、マラソン・長距離選手がいなくなってしまったかな、と思って調べたら、2008年版もいませんでした。2007年版の高岡寿成選手が最後。2006年版は油谷繁選手、尾方剛選手と入っていたのですが。尾方選手は大阪世界選手権でも入賞していますが、復活していません。油谷選手の世界大会入賞は2004年(2005年版)が最後ですが、その後もしばらく掲載が続きました。掲載基準がよくわかりません。
 女子は対照的に、全員が長距離・マラソン選手。福士加代子、原裕美子、野口みずき、小崎まり、尾崎好美、渋井陽子、土佐礼子の7人です。2008年版までは池田久美子選手が入っていたのですが。今年の7人を見ても、掲載基準がよくわからないですね。原選手が載るなら尾方選手も載ってしかるべきだと思うのですが。たぶん、しっかりした基準があるはずです。

 ATHLETICSの特徴は数え上げたらきりがないのですが、種目別の年度ランキングを選んでいることもその1つでしょう。この手のランキングはだいたい、オリンピックや世界選手権などその年一番の大会の成績が反映されますが、ATHLETICSではゴールデンリーグなどの成績や記録も加味したものになります。
 案の定、女子走高跳は五輪金メダリストのエルボー(ベルギー)ではなく、ヴラシッチ(クロアチア)でした。男子マラソンはゲブルセラシエ(エチオピア)が1位で、ワンジル(ケニア)が2位。女子マラソンはミキテンコが1位でディータは3位。ATHLETICSの評価が絶対とはいいませんが、そういう見方もあるのだと思って読めば、この手のランキングは面白いです。
 この手のことで何が面白くないといったら、“他人に押しつけること”です。「おれはこんな面白い考え方をしたんだ。発表するから読んでね」というのはOKです。不特定多数の人間に向かって言うのは問題ありません。
「おれはこんな面白い考え方をしたんだ。オマエも同じだよな」と、特定の人間に強要するのはNGです。これは、メールで言うのか、ホームページで言うのか、の違いにも似ています。

 話を戻します。
 ハンマー投の室伏広治選手は……北京五輪の順位と同じ3位でした。
 しかし、男子50kmWでは北京五輪7位の山崎勇喜選手が、4位にランクされています。北京五輪はメダリスト3人は4位と差がありましたが、4位以降はそれほど大差がありませんでした。五輪の4〜6位の選手に安定性がなかったのかもしれません。あるいは、シーズンベストが悪かったのか。この辺はよく調べる時間がないので、今度、法元さんに会ったら聞いておきます。
 理由はどうでも、山崎選手の4位は嬉しいですね。


◆2009年5月30日(土)
 本日はゴールデンゲームズinのべおかが開催。取材には行くことができませんでしたが、ネットで速報をずっと見ていました。
 今季は男子1500mに注目しています。B標準突破選手が3人もいるのは寺田の記憶では初めて。村上康則選手が好調なことも加わって、盛り上がりを見せそうな予感がしています。若手期待の渡辺和也選手は兵庫リレーカーニバル5000m(GPではなく一般種目)で優勝した日に、打撲をして1500mに出ていませんが、その実力は周知のところ。“疲労性でないケガ”なので、そこまで心配しなくていいでしょう。田子康宏選手も頑張っていますし。
 その1500mはダニエル選手が3分37秒96の学生新で優勝。同選手はペースメーカーを務めると聞いていましたが、そのままフィニッシュしていい約束だったと思われます。ケニア選手権に向けて、良い練習になった(?)かもしれません。
 日本人トップは日本記録保持者の小林史和選手で3分38秒80。トップページでは“サード記録日本最高”と紹介しましたが、同選手は昨年もゴールデンゲームズで3分38秒53のセカンド記録で走り、その結果2004年に出した3分38秒90がサード記録の日本最高になっていました。
 それをもって小林選手が、前日本記録保持者の石井隆士選手よりすごい、とか言うつもりはありません。時代が30年も違いますから。

 それよりも、3分30秒台を出した年月が長期間にわたっていることがすごいと、個人的には思っています。これまでの中距離選手は800m選手も1500m選手も、トップパフォーマンスを出しているのは2シーズンくらいに限定されていました。石井選手もそうでした。
 800m日本記録保持者の小野友誠選手も歴代2位の近野義人選手も、1分46秒台は1994年だけ。1分47秒台前半まで広げても、1993年からの2シーズンだけです。
 それだけ中距離というのは負担が大きいのかな、という解釈をしていました。
 その点、惜しまれつつ一線を退いた笹野浩志選手や小林選手は、数年に渡って自己ベストに近い記録を出しています。
 小林選手は初めて3分40秒を切った2002年以降の8シーズン中6シーズンで、3分30秒台を出したことになります。今日の記録は31歳日本最高記録。26歳以降の年齢別日本記録はすべて塗り替えてきている。サード記録という部分とも無関係ではありませんが、こちらの方がすごいことだと思います。

 男子1500mの話が長くなってしまいましたが、女子800mも陣内綾子選手のシーズン第1戦ということで注目していました。結果は、その陣内選手が2分05秒77で優勝。東日本実業団優勝の岸川朱里選手、織田記念優勝の久保瑠里子選手も2分5秒台という激戦。レース展開がわかりませんが、昨年までのパターンと同じように陣内選手が引っ張ったのであれば、評価は記録以上に高くなります。
 故障からの回復がどの段階で出たかにもよりますが、昨年出した2分3秒台の自己記録更新の可能性も感じさせる成績です。
 故障上がりといえば、男子1500mの渡辺和也選手もそうでした。関西実業団の5000mで足馴らしをして、今大会の1500mがシーズン初戦。3分49秒85で7位でした。永里監督によれば、ついて行かない予定だった先頭集団に、ついていったしまったとのこと(選手にはよくあることです)。
 この結果をもって日本選手権の優勝候補から外すわけにはいきません。

 男子5000mでは上野裕一郎選手が13分26秒31で日本人トップ。B標準初突破に成功しました。アメリカ遠征で標準記録を切れなかったときは、佐久長聖高の後輩の佐藤悠基選手が1万mで日本歴代3位と快走しただけに、どうかなと思わせましたが、国内できっちりと切ってくるあたりはさすがです。
 聞いた話では、その佐藤悠基選手に少し離されていたようですが、残り1周手前で追いつき、最後の400 mで一気に差をつけたとのこと。“ラストのペースアップを計算できる”自身の特性を生かしての標準突破。日本選手権の優勝候補筆頭に躍り出る快走でした。

 ゴールデンゲームズが終わってしばらく後に、T記者から「マイル、ダメでしたね」という電話が入りました。香港のアジアGPで3分5秒台だったといいます。標準記録は3分03秒00。惜しくもなんともありません。ここまで悪いと、気象なのか競技環境なのか、生活環境なのか、なにかしらが劣悪だったとしか考えられません。
 かえってあきらめがつく結果です。
 が、最後にユニバーシアードで標準記録を切る手が残されています。ただ、国際的な手順としては問題のないことですが、国内的な手順の問題があるようです。理事会の承認とか、ユニバーシアードのメンバーと日本選手権の上位が一致するとは限らないとか、その辺の話です。
 世界選手権の第1回大会から連続出場が続いている数少ない種目なので(男女のマラソンと男子1万mの4種目だけ)、手順はともかく標準記録を切れたら出場してほしいと個人的には思うのですが…。


ここが最新です
◆2009年5月31日(日)
 新潟で1万mの記録会。夕方、新潟アルビレックスRCの大野氏から電話があり、尾田賢典選手と岡本直己選手の標準記録突破を知りました。尾田選手は2月の熊日30kmで話を聞きました。マラソン転向のための30kmという位置づけではなく、今後も1万mで代表を目指すという話でした。岡本選手も昨シーズンから充実が目立っていて、中国電力の“ポスト3本柱”として期待されているだけに、結果が出て良かったと思います。
 ただ、某記者も指摘していましたが、標準記録のレベルとして他の種目よりも低いのです。世界リストで見ると。アフリカの一部の国に有力選手が固まっていることを考慮しての措置でしょうか。

 ATHLETICS2009の発送作業が昨日終了しました。ご注文いただいた皆さん、お待たせしました。
 発送は郵便事業株式会社にお願いしました。ゆうパックで発送する宛先があるので、ゆうメール便の数が多いのですが、作業部屋まで取りに来てくれます。民間の宅急便業者ではできないですよね……と書いていて、もしかしたらできるのかもしれないと、不安になってきました。今は宅急便会社も、クロネコメール便とかありますからね……と思って調べたら、クロネコメール便は厚さが2cmまで。ATHLETICSは3cmあるのでダメでした。

 先日の日記にも書いたようにじっくりと読む時間はありませんが、ATHLETICS2009で1つ面白いな、と気づいた表がありました。100傑内選手を地域別に人数をカウントし、1988年と2008年を比較したものです。20年間の変化が一目瞭然です。
 これがその表です。
 これも自然にアジアに目が行ってしまいますが、8つの地域のなかでアフリカと共に最も変化が大きい地域でしょう。
 気が付いた種目をざっくばらんに挙げていきます。

 男子400 mの1988年は2人ですが、1人は高野進選手です。2008年は1人ですが、これは金丸祐三選手。うーん、金丸選手が44秒台を出す予兆かもしれません。でも、インドとかアラブ勢が1人も100傑に入っていなかったのでしょうか? ちょっと解せません。
 男子1万mは6人から11人に増えています。ちょっと意外ですが、100位は28分04秒。日本選手の数も増えたかもしれませんが、アラブへの帰化選手も影響しているかもしれません。
 男子マラソンが21人から8人に減っているのはもう、アフリカ勢の進出以外に理由はありません。100傑中86人がアフリカ選手なのですから。

 頑張っているのが男子の110 mHと400 mH。110 mHは1人から12人に、400 mHは2人から15人に増えています。
 正確に数えてはいませんが、110 mHは劉翔を筆頭とする中国選手の数が増えたのだと思いますが…100位が13秒67ですから、日本選手も例の3人(名前は挙げなくてもわかりますよね)が入っています。そう考えると日本の110 mHも、この20年間で頑張ったわけです。最大の功労者は岩崎利彦選手でしょうか。日本人初の13秒台ハードラーで、13秒5台まで行きましたから。
 400 mHの人数増は間違いなく、日本の選手の数でしょう。1980年代も長尾隆史選手、大森重宜選手、吉田良一選手と国際舞台で活躍した選手がいましたが、それに続く層が薄かったのでしょう。これも、初めて48秒台を出した斎藤嘉彦選手&苅部俊二選手、世界選手権ファイナリストとなった山崎一彦選手の3人の功績が大きいと思います。

 特筆すべきは競歩! 男子20kmWは1人から36人に、50kmWは3人から23人に増えています。これも正確に数えていませんが、日中両国が共に頑張った成果でしょう。先行したのは中国ですが、近年は日本も追い上げています。功績はこれも、日本で最初に4時間を切った今村文男選手たちの世代(小坂忠広選手、園原健弘選手、20kmWの酒井浩文選手)が、経済的には恵まれない環境でも頑張って、国際レベルへと近づいていったからです。
 寺田が陸マガで働き始めたのが実質的には1988年です。この20年間でレベルが上がった種目も、それ以前の選手の頑張りがあったからではありますが、実際にレベルが上がった時期に関われたのは嬉しいですね。法元康二さんも同じ気持ちではないでしょうか。


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