続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2008年8月  腹筋の成果を北京で

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◆2008年7月19日(土)
 未知の強豪ならぬ“未知の大会”の1つだった市原ナイターの取材です。あの小林史明選手が2002年に5m71の日本記録(当時)を出したことで、一躍、名が知れ渡りました。
 最寄り駅はJR内房線の五井駅。Jリーグの試合があるときは駅からシャトルバスが出るようですが、今日は出ていないようです。全米選手権帰りの朝日新聞・原田記者と一緒に市原臨海陸上競技場に。報道受付もありましたが、今回は“腕章切れ”。醍醐直幸選手、澤野大地選手という五輪代表2人が出場するとあって、メディアが押し掛けたからです(10社くらい?)。
 でも、そこは千葉県。うるさいことは言われず、我々の良識に任せてくれました。10社くらいということは、熱心な記者だけということ。無用なストレスを選手にかけることはないはずです。
 記者席もスタンド上のサッカー用の部屋を使わせてもらうことができました。これが、記者席から見た臨海競技場。サッカー用の記者室だけあって、トラック手前の砂場で行われる走幅跳は見えませんでした。

 基本的には地元中学生・高校生が記録会的な雰囲気で出場できる試合でした。それでも、陸上どころ千葉ということで、なかなかの盛り上がり方です。前述の2人以外にも大物選手がそこそこ出場していて、プログラムには「第15回市原ナイター陸上競技記録会見どころ」がはさんでありました。親切です。
 女子100 mHには石野真美選手(長谷川体育施設)、男子走幅跳には猿山力也選手(モンテローザ)と新村守選手(東海大)、女子走高跳には藤沢潔香選手(ファイテン)、そして中学・高校生では走高跳の戸邊直人選手(専大松戸高)と田子大輔選手(八幡東中)。

 走高跳が始まって2m00くらいにバーが上がったので、インフィールドで撮影しながら取材をしていると、原田記者から「集合です」という電話。3〜4コーナー間のスタンドで醍醐選手と一緒にいて、手を振っています。何かと思っていくと、醍醐選手が背中(左右の肩胛骨の間)を痛めて欠場するとのこと。残念ですが、仕方ありません。幸い、数日で治りそうということでした。アイシングをしながらも、サインに応じていました(写真)。

 棒高跳で澤野選手が登場するのは19時近く。アップをする前には成田高時代の恩師の順大・越川先生と話をしたり(写真)、市原市長から花束を贈られたりしていました(写真)。
 そうこうしていると、ついに主役(?)が登場。小林史明コーチの姿を発見しました。6年前に日本記録を跳んだピットの方を、感慨深げに見つめていました(写真)。このシーンを撮れただけでも、市原まで来た甲斐があったというもの。そのくらい、市原ナイター=小林史明というイメージが、寺田の中にはあったのです。

 その間に女子100 mHでは石野選手が、追い風2.7mで参考記録でしたが13秒27と好タイム。100 mも2本走って11秒99(+2.6)と11秒97(+0.7)。100 m出場自体が2年ぶりで、自身初の11秒台だそうです。
 もっと惜しかったのが男子走幅跳。1回目の7m77(+2.4)で猿山選手が、関東インカレ優勝の新山選手(7m54 +3.0)を抑えましたが、3回目には実測で「8m10くらい」と審判の方が周囲に話していました。追い風がどのくらいだったのか、また、踏み出していた距離などわかりませんが、今後を注目すべき選手でしょう。
 締めは澤野選手。5m60でしたが助走に好感触を得たようです。詳しくはこちらの記事で。

 帰りは3人の記者の方々とタクシーに同乗。そのうちのS記者は千葉県出身です。車内では「千葉といえば増田明美さんでしょう」という話が出ました。もうすぐ、「カゼヲキル」の第3巻(最終巻)が出ます。


◆2008年7月21日(月)
 夕方の17時から中京大でハンマー投チャレンジカップの取材。この大会は今日と27日の2回行われます。
 室伏広治選手の肝いりというか、オリンピック前に試合をこなすのが目的で開催が急きょ決まった試合ですが、競技開始前には「ハンマー エキスペリエンス」というイベントも行われました。重量の軽いソフトハンマーを、中京大の先生方と記者たちが投げて、ハンマー投を体感するのが目的です。これは室伏選手がかねてから実施したいと考えていた企画(だと思います)。
 2年前の公開練習時にも同様の試みが行われ、寺田も軽い重量のハンマーを投げましたっけ。それでハンマー投の何かがわかったかというと、そんな簡単に何かがわかるというものでもないのですが、まったくの経験ゼロよりはましということで。

 試合というか、室伏広治選手の様子はこちらに記事にした通り。室伏重信先生がずっと言い続けてらっしゃるように、アベレージを上げることが大切という考え方です。元から、メダルを狙ったりはしませんし。

 帰りは日経・市原記者と同じ電車に。3月から電子マネーのEdyへのチャージに、クレジットカードのポイントが付かなくなりました。その辺の電子マネーの事情と、おさいふケータイについて色々と教えていただきました。
 書いてなかったと思いますが、Athletics2008の代金未払いが2件あった問題も、同記者のアドバイスに従って該当者に電話を入れ、1件は無事に解決しました。先輩マネジャーが後輩マネジャーの名前で申し込んで、しかも、普段はあまりチェックしない寮のメールから送信したのが原因でした。もう1箇所の会社(北日本を代表するテレビ局)は、電話が通じません。


◆2008年7月25日(金)
 代々木の織田フィールドでトワイライト・ゲームス取材。
 5回目ということで陸上界ではお馴染みとなった大会。“ビール片手にナイターで陸上観戦”というコンセプト。ヨーロッパGPのノリですが、記録に関してはヨーロッパGPほどナニがありません。これは今後の課題でしょう。
 報道受付に中村宝子選手。学連の役員もやっているのかと思いきや、慶大が補助員として担当されているのだそうです。最初、誰かわからなかったので、ちょっとビックリ(「ビックリ」は中村選手と同期の福島千里選手の口癖ですが)。
 本部席横に行くと記者用の机が3列(4列?)くらい並べられていました。以前はまったくありませんでしたから、報道対応は年々進んでいます。

 この大会の問題は、ホームストレートがフィニッシュ付近から見えない点にあります。以前にも書いたと思いますけど。客席とトラックが近くて選手の迫力あるパフォーマンス間近で見られる、というのがこの大会の特徴ですが、これではなんのためなのか、という意見が出ても仕方ありません。
 競技終了後に関東学連幹部の方にも申し上げたのですが、夢の島競技場の方が開催場所としては良いのではないでしょうか。織田フィールドは最寄りの原宿駅から歩いて15分くらいかかりますが、夢の島は新木場駅から5分くらい。会社帰りに寄れるという点では、織田フィールドと変わりありません。スタンドも中規模で、横浜や長居のようにだだっ広くは感じません。トラックの外にロープなどを張れば、観客をすぐ近くまで入れることも可能でしょう。この辺は、ゴールデンゲームズinのべおかあたりが参考になるのではないでしょうか。

 見られなかったものがもう1つ。フィールド種目の有力選手試技を見逃してしまいがちでした(どの大会にも言えることですが)。短い時間で競技会を終わらせる必要があるため3種目くらい同時進行していて、しかも4回試技システムを採用していたことが拍車をかけました。1種目に1人は担当者を付けて、有力選手の試技前には「○○選手です」のひと言のアナウンスがあると助かります。という話を、K先生やS記者としていました。
 迫力あるパフォーマンスを理解するには、それなりの知識が必要だと思っています。近くで見せることもそうですが、いかにきっちり見せるかが大事だと思っています。

 今大会一番の好記録は男子砲丸投の大橋忠司選手の17m84=日本歴代6位でしょう。ということで、こちらに記事にしました。五輪代表で唯一参加した塚原直貴選手の10秒29(+0.4)も好走。ご存じの方も多いと思いますが、織田フィールドのトラックは表面がかなり荒れています。ちょっと古い施工のようで、近年の高速トラックとはまったく違います。時期的にも練習を追い込んでいるところで、表面的な数字で評価してはいけないケースです。
 記録ということで気になったのが最優秀選手。男子は400 m優勝の宮沢洋平選手(法大)、女子は100 m優勝の和田麻希選手(龍谷大)が選ばれました。大会新記録の中で評価が高いものという選考基準のようですが、記録は46秒54と11秒82(+0.2)でした。このレベルで最優秀選手と発表したら、他の大会と比べてレベルが低いと宣伝しているようなものです。“記録が陸上競技の全てじゃないですよ”とアピールしているともいえるのですが、ちょっと引っ掛かるものがありました。○○新記録とか、何種目制覇という通常とは違った視点で、選出してもいいのではないかと。
 その辺も学連幹部の方に申し上げたら、その方から「自己記録更新が大きかった選手にするとかいいかもしれません」という意見が出てきました。寺田も賛成させていただきました。


◆2008年7月27日(日)
 陸連短距離合宿取材のため富士吉田に。ここ数年、世界選手権とオリンピック前には必ず短距離合宿が行われ、公開取材日で富士北麓競技場に行くのが恒例行事になっています。
 ただ、今年は体力温存モード。今月、若干の体調不良があったことですし(キャッチコピーの不屈は、実は腹痛との噂も)、来月の北京取材に備えて体調に気をつけています。正規の取材IDは持っていないので、ぬるい取材しかできないのですが。カメラも一眼レフの望遠レンズではなく、軽めのレンズ一体型にして負担を少なくしました。写真撮影自体、暑かったらやめようかと思っていましたが、涼しかったので少し撮ることに。

 今年の特徴は女子の福島大勢の存在。昨年まで、女子4×100 mR勢は一緒のこともありましたが、4×400 mR勢は別の場所で行っていたと思います。写真を紹介したかったのですが、一体型のカメラではやはり力不足。どの絵柄も今ひとつ。北海道出身4選手(高平選手+木田選手+久保倉選手+福島選手)の写真はあるのですが、ライバルのO村ライターがセッティングしたようなので控えます。
 走っている写真でしっかり撮れたのは、堀籠佳宏選手と安孫子充裕選手のこの写真(金丸祐三選手は軽めの練習で切り上げたようです)。堀籠選手が宮城、安孫子選手が山形という東北出身コンビ。4×400 mRはアテネ五輪も福島の佐藤光浩選手、秋田の伊藤友広選手がメンバーに入っていました。

 末續慎吾選手も今日は軽めの練習。その理由はこの記事のコメントにある通り。ということで、4×100 mRのバトン練習は末續選手を除いたメンバーで。斉藤仁志選手は色々な走順でバトンパスを行っているようでした。この写真では2走のポジションです。
「5番目の選手としての役目をまっとうしたい」
 斉藤選手のスカッとした話しぶりが印象的でした。
 公開練習では練習終了後、主だった選手の囲み取材がセッティングされます。そこで、その日の練習内容に対して記者たちが突っ込みを入れることで、その選手の現時点でのテーマや課題などが浮き彫りになってくることもあります。こちらの思うように話が展開しないこともありますが、しっかりと練習を見ておく必要はあります。
 もちろん、この記事にある金丸選手のコメントにある“44秒台を出すためのレースパターン”など、その日の練習とは関係なく、面白い話が出てくることもありますので、その日の練習内容にこだわりすぎる必要もないのですけど。

 こちら内藤真人選手の写真。ヨーロッパ遠征2試合目を脚の不調でキャンセルしましたが、そちらの心配はもうないようで、いつも通り元気な笑顔を見せてくれました。ただ、例年の練習風景とはちょっと雰囲気が違います。なんでだろうと考えていたら、ハタと理由を思いつきました。
 ここ数年、110 mHは必ず複数の選手が富士北麓で練習をしていました。1人代表がいつ以来か調べるとシドニー五輪以来。そのときは谷川聡選手だけでした。翌2001年のエドモントン世界選手権から内藤選手が代表入りを続けていますから、内藤選手が1人で富士北麓で練習をするのは初めてということに。それで、後輩の成迫健児選手をかまっているのだと思います。ハードルブロックの人間関係には、微妙な変化があったような気がします。気のせいかもしれません。

 今回、スタッフにはアテネ五輪4位入賞メンバーの土江寛裕監督の姿もありました。今や、4×100 mRのスタッフとして欠くべからざる存在になっているようです。色々と忙しいようで、練習が終わってバスに乗り込むのも一番最後。
「ツッチー、ジュース買ってきて」
 バスから顔を出した朝原宣治選手から声がかかりました。立場は変わっても、人間関係は変わりません。


◆2008年7月29日(火)
「北京五輪完全予想 」(テレビステーション別冊。ダイヤモンド社)の発売日。このところ問題になっている(というか、寺田が話題にしているだけですが)日本選手の“期待値”込みの予想ではなく、客観的に見たパーセンテージを以前からきっちりと出している雑誌です。4年前と8年前は寺田が陸上競技を担当しました。過去形にしたのは、今回は別のライターの方が担当したからです。でも、なぜか寺田の名前も出ています。記事中のコメントだったり、予想欄の担当者だったり。
 実は、この雑誌用の取材を受けています。7月3日の日記にそのときの様子を書いています。待ち合わせに赤いバラならぬ“赤い馬鹿”を胸ポケットに差して行った取材です(このくらいやらないと陸上界は盛り上がらない)。話題性の高い種目は小山裕三監督、苅部俊二監督、有森裕子さん、土江監督らがコメントし、その他の種目は寺田がちょっとずつネタになりそうなことを話しています。
 そのときの女性ライターが誰か(100 mが11秒台で土江寛裕監督と同学年)を知りたい方は、雑誌を買って巻末のスタッフ名が記されている欄をご覧ください。

 言い訳と訂正を2〜3。
 男子100 mの予想欄でゲイに◎をつけていますが、これは全米選手権の200 mでケガをする前の時点で判断したからです。女子棒高跳はスタチンスキ(米国)を◎にしていますが、これもイシンバエワの世界新が出る前に予想したから。紙のメディアの場合、こういったタイミングの問題がどうしても生じてしまいます。
 110 mHは劉翔(中国)が◎ですが、ロブレス(キューバ)の世界新のあとの判断です。勝負となったらやっぱり劉翔でしょう。女子100 mはL・ウィリアムズにしてあります。そのうち調子を上げてくるだろう、と期待していましたが、実際にはなかなか上がってきていません。これは予想力不足。
 それと、コメントが「ジョーンズの10秒88は…」となっていますが、もちろん「10秒65」の間違い。わざわざ書かなくてもわかるミスですけど。

 今回の取材で気づいたことが1つ。自分で書くと書けないようなことでも、コメントなら言いやすいのです。選手や指導者が、書くことはできなくても話すことはできる、という心理状態がちょっとわかった気がします。

 夜は、明日の陸連跳躍合宿公開練習取材のために御殿場(静岡県)まで移動。静岡県(袋井市)出身の寺田ですが、御殿場に来たのは初めて。涼しくてビックリしました。標高500mくらいなのですが、熱帯夜はほとんどないとネットで見ました。思ったより近かったですし。


◆2008年7月30日(水)
 御殿場で陸連跳躍合宿取材。御殿場自体初めて来た場所ですから、競技場も初めてです。
 昨年まで、跳躍ブロックは北海道で直前合宿をしていました。御殿場となったのは棒高跳の事情によります。やっぱり、風向きが安定した場所が望ましいのだそうです。考えてみれば、人員が多くいる試合ならピットの向きを変えることも可能ですが、練習でそれを行うのはほぼ不可能。練習場所を選ぶ際の決め手になって不思議ではありません。
「いくつかあたったのですが、サッカーでことごとく断られました。そういえば、御殿場も風が良かったな、と思い出して」(澤野大地選手)
 付け加えるなら、澤野大地選手にとって御殿場は2001年に当時の学生記録(5m52)を跳んだ競技場です。あとでE本編集者から指摘されて気づきました。

 改めて書く必要もないと思いますが、北京五輪の跳躍代表の3人は同学年で、全員が日本記録保持者。世界大会の入賞経験も持っています。「3人の共通点で何か」という陸マガ編集部の希望もあり、3人の指導者との関係を書こうかと思っていました。池田久美子選手が練習拠点を福島大からJISSに移し、醍醐直幸選手も3月から福間博樹先生のところに行かなくなりました。
 同じ時期に、同じような判断をしたわけです。澤野選手と米倉照恭コーチはもとから、澤野選手の考えに沿って米倉コーチがアドバイスをする形でした。この辺で何か書けるかと思い、福間先生にも電話で話を聞かせていただいていました。
 しかし、この手のテーマは慎重に書く必要があります。共通の考え方がないわけではないのですが、個々の事情に基づいた結果の現象です。今回の行数で書ききるのは無理がありました。このテーマはもう少し、温めておきます。

 しかし、この3人だからこそ、という雰囲気もありました。3人だけの合宿は初めてだといいますし、練習メニューももちろんまったく別。それでも、何かを共有している雰囲気があります。見ている側の思い込みかもしれませんけど。
 こんなシーンがあったので写真で紹介しておきます。
写真1    
 池田選手が助走&踏み切り練習のためにバックストレートへ移動する際に、棒高跳のピットを横切りました。そこに澤野選手が来て二言、三言話を交わします。そこに、助走ドリルを繰り返していた醍醐選手も加わってきました。すぐにそれぞれの練習に散っていきましたから、時間にすると1分もなかったと思いますが、そのときの雰囲気が“はまっている”印象を受けたのです。

 跳躍合宿のあとは、19時に成田空港に着く土佐礼子選手の帰国取材に向かいました。
 御殿場駅のホームで電車を待っていると週刊誌Pから電話が入りました。以前、何かをコメントしたことがあったので、こちらの電話番号を知っていたのです。しかし、今回はコメントはお断りしました。昨日紹介した「北京五輪完全予想」ともう1つテレビ番組雑誌は受けましたが、俗に言う週刊誌と夕刊紙には協力しないことにしました。
 以前は、仕事を選ぶ立場じゃないと思っていましたが、今は「変な雑誌(記事)に名前が乗るのはマイナス」と考えるようになっています。その手の取材を受けて、その後の仕事に何かつながるということはありません。以前はそういうことも期待していましたが。一見(いちげん)さんは、4年に1回なのです。そういえば27日の富士北麓取材中に、ケネス記者(陸マガ英語講座)に一見さんを英語でなんと説明したらいいか、話題になりました。あれ、新陳代謝だったかな。

 御殿場線電車では朝日新聞・堀川記者と、日刊スポーツ・佐々木記者と一緒でした。途中、山北駅を通過したとき、堀川記者の表情にちょっとした変化が。湘南ボーイの堀川記者は、アジア大会4冠の磯崎公美さんと同学年で、同じ競技会によく出ていたといいます。その頃の男子高校生にとって、強くてカッコイイ磯崎さんは憧れの存在でした。
 その磯崎さんの出身校が山北高です。堀川記者の表情の奥にどんな感情があったのかは知るよしもありません。もしかしたらただ、窓の外を見ただけかもしれませんし。少なくとも寺田には、“ここが山北か”という感慨が少しありました。

 松田で小田急の快速急行に乗り換え、新宿からJR、日暮里から京成のイブニングライナーと、最もお金のかからない経路で成田空港に。“成田取材の鬼”の異名をとる佐々木記者ですが、明日、北京に出発ということで今日はパス。
 明日の11時には為末大選手がヨーロッパから帰国します。と今日、サニーサイド坂井氏(前橋育英高陸上部OB)から連絡がありました。成田に5000円前後で泊まれたら、そのまま居残ろうかと思いましたが、8500円のホテルしかありません。引き揚げるしかありませんでした。


◆2008年7月31日(木)
 朝の11時に成田空港に。ロンドン、モナコと転戦した為末選手の帰国取材です。おそらく五輪前に接触ができる最後の機会。2日連続で成田空港に行くことになろうが、2日連続で佐倉の風車を見て三代直樹選手(現富士通広報)を思い出すことになろうが、そんなことは妨げになりません。“成田取材の鬼”こと日刊スポーツ佐々木記者は、北京出発当日のため今日も欠席です。さぞや無念だったことでしょう。
 取材した内容はこちらの記事で紹介しましたが、取材の最後の方は、大きな大会の前は“引き籠もる”という話が中心に。その間、何もやらないわけではなく、ゲームなどもしているということで、スポーツ新聞各紙が取り上げた話が展開されたのです。昨日、御殿場駅で佐々木記者から“ある話”を聞いたばかりだったこともあり、寺田も他の記者たちと一緒に突っ込みを入れていました。少しだけですが。

 そのあたりから雑談モードに近い雰囲気になってきました(どの記者も必要な情報は聞けたぞ、という雰囲気になるとそうなることが多くなります)。
 為末選手の方から、
「日本では何か大きなニュースがありましたか?」
 という逆取材がありました。近くにいた寺田がすかさず
「成迫(健児)選手が、10台目まで14歩をやるかもしれないと表明したんだよ」(こちらの記事参照)
 と言うと、為末選手が例の仏像彫刻を思わせる笑みを浮かべながら
「それをニュースと言うのは寺田さんだけですよ」
 と返してきます。賛同してくれそうな中日スポーツ・寺西記者の方を向きながら
「ニュースだよな」
 と寺田。
「……ぇえ、もちろん」
 と寺西記者。

 これは成迫選手の件がニュースかそうでないか、という点を論じたかったわけではありません。それは上辺だけの言葉。為末選手が聞いてきたのは、陸上界というよりも世間一般のニュースという意味でした。それをあえて、陸上界のニュースで寺田は答えました。
 記事にもしたように、為末選手はすでに技術云々という段階を過ぎ、集中モードに入りつつありました。しかし、為末選手も昨年まで、14歩の歩数を9台目まで伸ばすことを検討していたのです。
「実は僕も14歩を○台目まで伸ばすことを…」という答えが、つられて返ってくるのではないかという期待も込めたのです。まさか「寺田さんだけ」と逆襲されるとは思っていませんでしたが。
 そもそも、陸上競技の技術論が居酒屋で話題になるようなら、「陸上競技もメジャーになった証拠」と発言していたのは為末選手です。成迫選手の歩数がニュースや居酒屋の話題になるのであれば、為末選手も喜んでくれるはず。そういう状況に遠い現状も、残念ながらわかっているのでしょう。

 11:50頃のスカイライナーに飛び乗って上野に出て、上野から熊谷まで高崎線で移動(新幹線はちょっと)。埼玉インターハイの3日目を取材しました。お目当ての一番は男子走幅跳。記録こそ7m50に届きませんでしたが、期待に違わぬ激戦でした。予断の許されない逆転の連続。本当に面白かったです。その様子はこちらに記事にしました。かなり手荒に書いたので読みづらい点もあると存じますが、なかなか大作記事になったと思います。
 記事にはできませんでしたが、知り合いの高校生新聞の記者が白樺学園高の奥泉先生に話を聞いていたので、寺田もちょっとだけ冬の間のトレーニングについて聞くことができました。
 帰りのバスを待つ間、「やっぱりインターハイだよな」と、某専門誌のE本編集者に話していました。好きなのは国体なのですけど、青春と汗はインターハイの方が似合います。


◆2008年8月1日(金)
 16:30から代々木体育館で、陸連主催の新マラソン開催決定の記者発表。会見の案内faxを見たとき、東京国際女子マラソンの後継大会のことだな、とピンと来ました。首都圏でやることは既定路線。湘南かな、と思っていたら横浜でした。
 横浜では女子駅伝との兼ね合いが難しくなると思っていたのですが、読売新聞が特別後援、テレビ朝日と日本テレビが隔年中継というウルトラCが用意されていました。関係者が、エリート女子マラソンの存続に協力し合ったということでしょう。そう思いたいです。

 寺田が確認したかったのは、東京国際女子マラソンとの継続性をどうするかという点。東京は今さら書くまでもありませんが、世界初の(IAAF公認の)女子単独レースという歴史的な大会。その業績を毎年のプログラムに掲載しなくなるのは、寂しいことこの上なし、と思われました。そうなるといつしか、人々の記憶から薄れていきます。
 いざというとき(どういうとき?)のために福岡国際マラソンとびわ湖マラソンのプログラムも持参。福岡は以前、福岡以外の複数都市で行われていますが現在、福岡国際マラソンとして回数も歴代優勝者もカウントしています。びわ湖マラソンも当初は、大阪とかで行われていました。94年はアジア大会リハーサルとして広島開催でした。
 こちらの記事にも書いたように、「まだ詰めてはいないが、前例を踏襲したい」という陸連幹部のコメントがあり、ホッとしています。

 夜は早狩実紀選手に電話取材。陸マガ9月号のPEOPLE用の取材です。五輪直前の時期にどうかな、と思いましたが、そこはベテラン選手ですから大丈夫なのです。


◆2008年8月2日(土)
 埼玉インターハイの最終日を取材。今日の目的は、埼玉栄女子のインターハイ累計得点1000点突破を見ることでした。これはもう、ぐだぐだ説明をする必要はないでしょう。こちらの記事に書きましたが、累計得点の2位は添上で539.5点、3位は富士見で348.5点。男子では400点台がトップですから、埼玉栄が断トツなのは一目瞭然。インターハイ史にとどまらず、日本の陸上競技史上に残る快挙です。

 その前に男子110 mHで快記録が誕生。大室秀樹選手が14秒05(+0.4)の高校歴代4位で優勝したのです。昨年大活躍した中村仁選手(洛南高→筑波大)が卒業。注目の2年生の矢沢航選手も準決勝で途中棄権。期待がそこまで大きくなかった種目での快走だっただけに、陸上界への衝撃は大きかったと思われます。
 しかも、地元埼玉の選手。埼玉は女子800 mと3000mWにも優勝。埼玉栄が1000点を越えた大会で、同高とは違う3つの学校の選手が優勝しました。

 1000点突破を達成した種目は4×400 mRでした。理由を上手く説明することができませんが、埼玉栄らしい種目だったという印象です。全種目が終了したこともあり、清田浩伸監督も入賞者控え室に。さっそく、大森国男前監督(現京セラ監督)に報告の電話を入れていました(写真)。
 記事にする際に懸念していたのが、現役の高校生がどのくらい1000点の重みを理解しているか、という点です。80年代から埼玉栄の活躍を知っている人間なら、城島直美選手、柿沼和恵選手、徳田由美子選手、高橋萌木子選手と、高校陸上史を彩った選手たちがすぐに思い浮かびます。また、インターハイで得点し続けることの大変さも、当事者ほどではないにせよ、少しは実感していると思います。
 ちょっと恐る恐るという感じで、キャプテンの水村選手に質問したところ、こちらの記事中でも紹介した
「歴代の記録は自分たちも知っています。先輩たちの総合6連覇も、自分たちの学年は(直接的に)知っています。得点を取ること、大変さは目の当たりにしてきました。自分も今回、400 mHで2点しか取れませんでした。1点1点を取ることの大切さを実感しました」
 というコメントをしてくれました。
「実はピンと来ないんですよ」と言われたらどうしようかと思っていました。どんどん新しいことを取り入れる清田監督が、伝統という部分も上手く選手のモチベーション向上に利用しているのだと思います。

 今日取材をしていて気が付いたことが1つあります。取材というよりも、インターハイ会場を歩き回っていて、と言った方が正確でしょうか。それは何かというと、醍醐直幸選手が女子選手間ですごい人気なのです。
 女子総合優勝の東大阪大敬愛の集合写真を撮っているときも「ダイゴ、ダイゴ」という声が出ていました。女子4×100 mR優勝の相洋の選手たちも仲間内で集合写真を撮っていましたが、やはり「ダイゴやろう、ダイゴ」と話していました。
 まあ、醍醐選手は強いしイケメンだし、さもありなんと思っていたのですが、どこか違和感を感じていました。
 夜、テレビを見ていて気づきました。こっちのダイゴだったんですね。
 でも、先日の御殿場での公開練習の際、醍醐ポーズもあるようなことを越川先生が言ってらっしゃいました。この写真を撮るときにそんな話が出ていたと記憶しています。北京五輪後には、“本家ダイゴ”ポーズが有名になっているかも。まさちゃんポーズに負けず劣らず…。

 埼玉栄の1000点突破記念撮影ですが、集合の後ということで一番最後の取材に。辺りはもう、かなり暗くなっていましたが、競技場まで移動してくれて撮影をすることができました。競技場管理の方も快くOKを出してくれたので良かったです。ときどきいるんですよね、お役所気質の競技場管理人が。
 最初はこのポーズで1000点突破を表してもらいましたが、全体を写すと小さくなってインパクトに欠けます。何かないかな、と考え続けて、このポーズをとってもらいました。


◆2008年8月11日(月)
 ドタバタしています。明日、北京に入るのですが、急きょ依頼された原稿の締め切りがありまして。本当は昨日が締め切りだったのですが、状況を見ながら書く必要があって今日にずれ込んでいます。

 かなり追い込まれていましたが、気分転換も必要。原稿を書く合間にコミックを読みました。陸マガの巻末(プレゼント・コーナー)などにも載っている「GOLD DASH」の1〜3巻です。
 元ヤンキーにして、鳶職とキャバクラ嬢を兼業していた主人公・伊藤蘭(親がキャンディーズ・ファンだったという設定)が、実業団の監督経験を持つ大鳥嵐(トラック運転手)にランナーとしての才能を見い出され、マラソンランナーとしてオリンピックを目指していくストーリーです。連載されている「イブニング」(講談社発行)が30歳台の男性をターゲットとしたコミック誌ですから、男性の方が楽しみやすい部分が多いでしょう。
 設定は漫画だからできること。主人公の女性は鳶職で鍛えられていたとはいえ、練習を始めて数カ月の初マラソンで、ハーフを1時間4分台で通過します(途中棄権)。その後の1万m記録会では、途中で転倒してトップ集団から200 mも遅れながらも逆転し、日本記録を上回るタイムでフィニッシュします(脚を引っかけてきた相手を殴って失格)。
 ライバルの加納愛は大阪世界選手権のスタート直後に、沿道を併走する主人公に触発されて飛び出して独走(主人公は、監督が途中でやめさせました)。2時間20分を切るペースで競技場まで帰ってきます。これもトラックで倒れて4位に後退しますが、真夏のマラソンではあり得ない話です。

 でも、陸上競技に詳しい人ほど楽しめる内容です。設定の大きい部分は荒唐無稽でも、細かい部分が現実的なのです。練習のタイムなどレースよりかなり遅いですから、フィクションには不向きな部分ですが、その辺をごまかしていません。食事のシーンでどんな栄養の摂り方がいいのかを監督の母親が説明するくだりがありますが、そのあたりは真面目そのもの。世界選手権では名前こそ少し変えてありますが、室伏選手、末續選手、池田選手、ゲイ選手らが登場します(ストーリーには絡みません)。
 どうやら、長距離関係者がアドバイスしているようです。故中村清監督のエピソードのパクリもありますし、この話はあの指導者の本に載っていたかな、というものもあります。ライバルの加納選手の名前は、加納由理選手からとったのは明白ですが、美人というところは同じでもキャラは違います。

 3巻終了時点ではまだ、北京五輪の選考レースも終わっていませんが、どうなるのでしょう。主人公と監督の関係も、最後には恋物語になっていくのでしょうか? その部分の伏線も張ってあります。そちらのライバルはキャバクラの社長みたいです。
 頭の硬い方にはお勧めできませんが、娯楽として陸上競技が題材になったものに接したいという方は楽しめると思います。そして、“夢を追う”という部分は素直に感動しました。明日へのエネルギーをもらえますね。


★★北京日記1日目★★
◆2008年8月12日(火)
 北京入りは18:10成田発の便なので、パッキング開始は12時から。といっても、持っていく物は数日間かけて用意をして、丸テーブルの上に広げてありました。2時間でなんとか終了。久しぶりの大型スーツケースです。2005年のヘルシンキ世界選手権以来ですね。パッキング終了後に持とうとしたら、あり得ない重さ。このところ生活が体力温存モードだったからでしょう。このモードはカメラマンをやらないとか、楽をするということですから。
 資料を少し減らしましたが、新宿駅ではかなり苦労しました。日暮里駅にエスカレーターができていたので助かりましたが。
 日暮里駅構内には書店もあり、そこで陸マガと某専門誌を購入。昨日が立て込んでしまったため、編集部からの入手ができませんでした。どこかで本屋を探さねばと思っていたのですが、これも助かりました。陸マガの表紙は野口みずき選手。某専門誌は室伏広治選手。前回の金メダリスト2人です。

 野口選手が故障をして、動向が注目されているまっただ中。表紙だけでなく、巻頭6ページ(文字は4ページ)がインタビューを中心にした野口選手の記事で、寺田が担当させていただきました。取材をしたのは6月ですが、なんとも複雑な気持ちです。
 ただ、本当に偶然なのですが、野口選手の故障に対する考え方を紹介しています。
「もしかしたら明日、脚が痛くなって走れなくなるかもしれない。予兆がなく、いきなりそうなることも、ないわけではありません。知らないところで蓄積していて、いきなりバーンと来ることだってあります。だからこそ、1日1日を大切にやりたいと思うんです」
 故障すら覚悟する。だから1日たりともをおろそかにしない。野口選手の強さを支える考え方の1つだったと思います。それがこういう形になって現れてしまうとは。胸に込み上げてくるものがあります。

 話を北京入りに戻します。日暮里からはスカイライナー。空港まで着けばもう、階段を使うこともありません。JALのカウンターまでの移動は超楽勝でした。
 ところが、スーツケースの重量が28kg。
JALのお姉さん:「3kg分の追徴料金を払っていただけますか?」
 さすがJALです。すごく優しく話しかけてきます。
 2003年のパリ世界選手権のときの、ドゴール空港を思い出しました。
寺田:「い、い、い、いくらですか」
JAL姉:「8000円をお願いします」
寺田:「……8月ですしね」
 よかったです。いつぞやのエールフランスのように701ユーロとか言われたら、どうしようかと思いました。それにしても、2003年の日記を読み返すと、41kgのスーツケースを持ち歩いていたんですね。今日は28kgで四苦八苦。体力が落ちました。

 北京空港に着いて家族T氏に電話を入れると、野口選手が欠場を決めたと教えてくれました。予想していたこととはいえ本当に残念です。
 野口選手の心情は……なんと書いても書き尽くせるものではないでしょう。彼女も言っているように、アテネ五輪で歓声を一人占めした体験が、その後のモチベーションになっていました。あの気持ちをもう一度味わいたい思いで、オリンピックに向けて頑張ってきました。
 しかし、これも陸マガの記事で紹介していますが、オリンピックを競技生活の最大目標としている選手ではありません。今回のことで、彼女が走るのをやめてしまうことはないと思われます。
 ただ、野口選手の全盛期が04〜05年だった、と思われたらちょっと嫌ですね。海外の愛好家などに多いんですよね、表面的な成績だけで決めつけて物を言う人が。日本のファンは東京国際女子マラソン優勝のときの記事を読んでいるので、彼女自身が実感した近年の充実ぶりというのはわかっていると思いますが。別に他人の評価を気にする必要などないのですが、ちょっとだけ、間違った評価をされないような活躍を、今後に望みたいと思っています。

 北京空港からホテルまでは、体力温存も考えてタクシーを使うことに。空港エクスプレスと地下鉄を使って最寄り駅まで行っても、最後に1.2km歩きます。ちょっと厳しいと判断しました。タクシーで2000円くらいで行けるとガイドブックに書いてありましたし。
 15分も走ると市街地に。林立するビル群に迫力があります。高さだったら新宿の高層ビル群の方が高いのですが、横幅があるんです。それが大きさを感じさせるのでしょう。場所からすると住宅街。中国の人口の多さは頭では理解していましたが、都市生活を営んでいる人間がこんなにもいるのか、と実感しました。
 俗にいう中心街に入ったと思ったら、それが結構続きます。色々と問題もあるのでしょうが、中国のエネルギーは市街地を見ただけでわかります。結構、圧倒されていました。

 ところが、タクシーの運転手がオリンピック出稼ぎ兄ちゃんだったのか、ホテルがマイナーだったからなのか、近くまで来ているはずなのになかなか到着しません。無線で場所を聞いたら、と言いたいのですが、英語が通じる気配はゼロ。通行人に聞いてくれるのですが、よくわからなかったり、教えてもらった方向に行ってもまたわからなかったり。
 最後にとった方法が、携帯電話でした。寺田が渡した紙には、住所だけでなく電話番号も書いてあったのです。持ってるなら早く使えよ、と思いましたが、携帯電話代を節約したいのは寺田も同じです。クレームはつけませんでした。40分で着いてもいいところを、1時間半近くかかりました。

 これがホテルの部屋(ツイン)で、これが浴室の洗面台。写真ではまるっきりわかりませんが、部屋はものすごく古くて、築50年くらいという印象。それだけならヨーロッパなどでも珍しくないのですが、ちょっと汚いのです。床の角はほこりが積もっていますし、配線工事の跡で壁がところどころ穴が開いています。バスルームの真鍮の手すりや蛇口の取っ手など、白い膜がかぶさっています。洗面所にお湯を張ると、少し黄色っぽいのです。試しに水を張りましたが、明らかに違います。お湯だけ温泉なんでしょうか。黄河の近くですし。
 1泊2万円ちょっとという値段と星の数(三つ星)で、ホテルについては何も心配していなかったので、ちょっとショックです。ここで14泊もするのですから。テレビも電源が入りません。石本文人さんがブログでシャワーの水が危ないと書いていました(選手村や一流ホテルは心配要らないと思いますが)。歯磨きもミネラルウォーターですることにします。
 ヨーロッパではどんなに古い建物でも、星の数が1つでも、内装は綺麗にしてあります。ナポリの安宿も、パリの韓国人経営の小さいホテルも、ぜんぜんマシでした。もてなしの精神が違うのでしょうか。つい数十分前までは中国の迫力に圧倒されていました。数十年後には確実に、世界一の大国になっている国のエネルギーを感じたつもりになっていました。ホテルの部屋に入って、疑問を感じました。


★★北京日記2日目★★
◆2008年8月13日(水)
 朝はゆっくりめの起床。朝食付きではないホテルなので、日本から持ち込んだ玄米粥を食べようと思ってお湯を沸かすことに。ポットに水を入れようと蓋を開けたら、底の方に黄土色の液体。電熱線部分の錆が水と混ざったのでしょうが、ここまでなっているって、何日間ほったらかしになっているのでしょう。何回かお湯を沸騰させれば使えるようになるのでしょうが、今日の明日は食べる気になりません。玄米粥はあきらめて、栄養補助食品に切り換えました。
 部屋のドアはチェーンも付いていませんし、“Do not disturb”の札もありません。そのうち掃除のおばちゃんが入ってくるだろうな、と思いながら仕事をしていました。案の定、10時半頃にノックの音。

「床の角に埃(ほこり)が積もっていますよ。頑張っても報われないかもしれないけど、自分の仕事に誇りをもってやろうよ」と、言ってやろうと思っていました。
 他人に説教するガラじゃありませんし、エネルギーも要ることです。意を決してドアを開けると、おばちゃんではなくて若い女の子が2人。高校生か、卒業してすぐくらいの年齢です。しかも、とっても腰が低いのです。説教しようと思っていた気持ちがなぜか吹っ飛んでしまい、「12:30に外出するから」と言うだけになってしまいました。
「そんなんで良いのか」と、朝日新聞・堀川記者に指摘されそうですが、こういうとき、若い女性にどう対応すればいいのかも、同記者から聞いておきたいと思います。
 ちなみに「twelve-thirty」は通じませんでした。紙に「外出 12:30」と書いて理解してもらいました。「札を下げておいてね」と言われたので(中国語ですが手振りでわかりました)「ないんだけど」と言うと、よれよれになった紙製の“Do not disturb”札を持ってきてくれました。

 結局出かけたのは13時近く。晴れなのか曇りなのか、よくわからない天気です。最寄りの地下鉄駅まで1.2km歩いたら間に合わないと判断し、ホテル近くの大通りでタクシーを拾い、空港エクスプレスの終点である東直門まで行きました。タクシー代はそれほど高くありません。実際、300円弱で日本の4分の1くらいの値段でしょうか。東直門は「ドンジンメン」という発音のはずなのですが、タクシーの運転手が何度も何度も繰り返します。行き先を確認しているのかと思ったら、こちらの発音の悪さを訂正しているようなのです。しまいには、歌まで歌い出しました。過去にいたかな、歌を歌うタクシードライバーは?
 東直門駅では別の路線の改札を入ってしまいました。一応、「エアポート?」と確認して入ったのですが、通じていなかったみたいです。こちらは一度正しいと思って進んでいますから、間違っていると認識をし直すまでに時間がかかります。外国ではよくあることとはいえ、かなり痛いロス。空港・第3ターミナルまでは20分強(逆方向だと第2ターミナル経由なので30分くらい)。ギリギリでした。

 渋井陽子選手はANA便ということですでに通り過ぎていましたが、JAL便の選手たちには接触できました。写真は今村文男コーチ。颯爽とした登場ぶりで、一陣の涼風が吹き抜けた感じです。
 囲み取材はバスに乗る前のほんの数分です。幸い、空港のゲートを出てきた後、福士加代子選手の後ろを歩くことができました。
 4年前のこと(直前の故障で惨敗。レース後に涙も)を踏まえて意気込みなど聞こうかと思ったのですが、あまり競技の話は良くないかなあ、と感じて世間話に(記者失格?)。髪が伸びたんじゃない? とか、意味のない振りをしてしまいました。
 ちなみに、短くなっているのだそうです。我々はレース中の後ろで結んだ髪型しか知らないので、結んでいない状態だと長く見えてしまいます。色もオリンピック仕様で少し黒くなりました。
 囲み取材でやり残した練習は?という質問に「いっぱいあるけど、しゃあないですよね」と、いつもの福士節。この時期というか、本番会場に乗り込んでいく際の選手は、そこを気にしても仕方ありません。
「心から楽しめたらいい」
 というのが、どの選手にも共通した思いでしょう。
 今日は出なかったのですが、手応えはどうか?という質問もよくあります。これも直前の段階になったら、行けると思うしかないでしょう。昨年の為末大選手のように冷静に判断してしまうケースもないわけではありませんが。
 その為末選手ですが、昨日の成田出発の際に、ヨーロッパ遠征出発時に続いて引退を示唆したと記事に出ています。この件はヨーロッパから帰国したときの取材で寺田も確認しています。
「気持ちが自分でもよくわからなくて、質問されたときの状態によって違ってくる」というニュアンスのことを話していました。昨日どういうコメントをしたのか具体的にはわかりませんが、ここ数週間で大きく引退に傾いたというよりも、本番を直前にした心境として“全てを出し尽くす”気持ちになっているというか、集中の仕方をしているのだと推測します。
 ブログではちょっと難しいことを書いていますが、そういうことではないのでしょうか。

 囲み取材が設定されたのは福士選手と山崎勇喜選手。山崎選手は「暑い時期、暑い時間帯を選んで練習してきたので、暑さへの不安はない」と言います。「緊張も感じられない」と言います。大阪世界選手権の失格について改めて問われると、次のように答えていました。
「(入賞できず)すごく悔しい思いをしました。この1年間、その悔しさをバネに頑張ってきました。リベンジという気持ちはあります。今度こそ、世界の強豪選手たちを見返すためにも、上位入賞したい」
 「メダルを取らなきゃ男じゃない」と話していた昨秋よりも、かなり落ち着いている印象を受けました。
 忘れていました。先に行われる20kmWにも出場するそうです。

 取材後は空港の韓国料理屋で昼食。その後は市の中心部に戻ってホテル・ニューオータニ長冨宮に。ここにジャパンハウスがあります。JOCが設営した拠点で、記者会見などが行われ、選手とマスコミ、関係者の交流の場となります。今回からは一般の人たちにも解放して、イベントや、日本のテレビ放映をみんな見ることができます。
 通常の取材パスのない寺田は今回、ここでの取材活動がメインになります。それ以外では、IBC(放送関係者のプレスセンター)に3日間だけ入れます。競技後の選手に接触できるミックスドゾーンには行けません。
 期待してきたジャパンハウスですが記者用の作業スペースは、記者会見の行われた後だけの使用に限られます。寺田のように会場に行けない記者が常駐する場所はありませんでした。一応、2階のロビーでパソコンは打てますし、無線LANもつながるのですが、テーブルは4つしかなくてすぐに満席になります。電源も1個所だけです。
 日本のテレビ放映が見られるのは助かるのですが、これは一般の方向けの場所で、今日の野球(キューバ戦)など立ち見の方が数10人以上いる状態(写真)。時間も朝の10時から夜の10時まで。陸上競技は朝は9時から、夜は11時まで行われています。チケットをなんとか入手しないといけなくなってきました。

 夕食はニューオータニで。和食ではありませんが、“日本人向け”のレストランで。高くつきますが、体調を考慮して脂っこい中華は控えるしかありません。
 宿泊ホテルには1時頃にタクシーで戻りました。さっそく洗濯。長期出張中の欠くべからざる日課です。ここでまたアクシデント
 シンクに張った水を栓を外して流したら、洗面台の下のパイプが外れて浴室に水があふれてしまったのです。パイプは鉄製ではなくてプラスチック製。自分ではめ込んでひねれば直るのかもしれませんが、ここはホテル側に言うべきだと判断。深夜ですがフロントに電話をしました。
しかし、というべきか、案の定というべきか「water trouble」では通じません。仕方ありません。フロントまで降りて、身振り手振りで床が水浸しだと熱演しました。ちょっと怒っている振りもして(必要でしょう)。
 結局、ホースの口をはめて、少しひねるだけの処置で終わりです。いつまた壊れるのかわかりません。中国では治水こそ、名君の条件じゃありませんでしたっけ?


★★北京日記3日目★★
◆2008年8月14日(木)
 信じられないことに昨日、ジャパンハウスのあるホテル・ニューオータニのレストランにウエストバッグを忘れてしまいました。カメラ、双眼鏡、サングラス、予備のSDカードなどが入っています。たぶん、なくなってはいないだろうと思いましたが、早めに解決しておきたい問題です。空港に行く前に同ホテルに寄りました。遺失物デスクがあるあたり、さすが一流ホテル。なくした場所やバッグの形状、中身が何かをメーカーも含めて詳しく質問されましたが、きっちりと答えられましたから無事に戻ってきました。一安心です。
 すぐに地下鉄と空港エクスプレスを乗り継いで空港取材に向かいました。昨日痛い目に遭って学習していますから、こちらも問題なくスムーズに。ただ、地下鉄のチケットにチャージするタイプのものがあるとガイドブックで読みましたし、自販機にもチャージのメニューがあります。でも、ボランティア(学生?)に聞いても、目的地を聞かれて「2元を買え」の一点張り。チャージするタイプがあることを知らないようです。

 成田からのJAL便で北京入りしたのは土佐礼子選手、末續慎吾選手、内藤真人選手、高平慎士選手、金丸祐三選手、松宮隆行選手、竹澤健介選手、久保倉里美選手ら。
 昨日でオリンピックの空港取材の要領がなんとなく把握できました。いつもの成田取材のように、入国手続き&荷物のピックアップを終えてゲートから出たところではなく、外のバス乗り場前で囲み取材がセッティングします。土佐選手はゲートから出たところを写真(右後方は三井住友海上・高堰マネ)だけ撮りました。多くの記者は土佐選手を追いかけていきましたが、寺田は今日中の記事を出す立場ではないので、一般種目の選手たちを待ちました。
 最初に登場したのは末續選手…だったと思います。これまでの世界大会と違いはある? と聞くと「これまでと一緒ですよ。毎年全力でやっていますから」という答え。そういえば、それが末續選手のポリシーでした。内藤選手は今や(一部で)インターナショナルになったマサちゃんポーズで登場。このポーズを見るとやってくれそうな感じがするから不思議です。松宮隆行選手はコニカミノルタの旗を持った方と写真撮影。北京駐在の社員の方でしょうか。金丸選手は本を手に持ちながらの北京入り。今、評判の「*******」だそうです。
 写真はありませんが、高平選手とも立ち話。手応えは?(と聞いても答えは1つなのですが)「ぼちぼち」ですとのこと。日本選手権までの200 mとは違い、前半から突っ込む準備もできてきたと言います。竹澤選手とも立ち話。アフリカ勢に対しては、落ちてきた選手を拾っていく展開しかないと言います。ひと言だけですが、陸マガの原稿に使えそうなネタも聞くことができました。

 取材後は昨日と同様、韓国料理屋で昼食。帰りの空港エクスプレスと地下鉄は、柔道の野村選手と一緒でした。車中では農大二高の話題で盛り上がりました。不破弘樹選手(100 m元日本記録保持者)や太田裕久選手(同)、小島雅章選手(インターハイ短距離2冠)という往年の名スプリンターたちの名前がポンポン出ていました。現在の顧問の斎藤嘉彦先生(400 mH日本人初の48秒台ハードラー)の名前も。あれ? 野村選手と思っていた人物は、農大二高OBのミズノ・鈴木さんでした。
 22時頃までジャパンハウスで原稿書き。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)4日目★★
◆2008年8月15日(金)
 今日から北京五輪の陸上競技がスタート。午前中はホテルのテレビで観戦しようと考えました。電源が入らないと書いたテレビは、枕元のスイッチを入れることで解決。これは、こちらの早とちりでした。
 9:00には最初の種目である女子七種競技の100 mHがオンエアされていました。陸上競技はかなり多くやってくれるのかな、と思ったのですが、その後はまったくなし。通常のチャンネルの他にUHFでしょうか? 60チャンネル近くあります。10ch以上のチャンネルは、数字のボタンを押せば映るのではなく、1つずつ「+」のボタンを押していかないといけないので大変なのです。
 かなり頻繁にチェックしましたが、七種の100 mH以後はまったく陸上競技が映りませんでした。目論見が外れました。が、夜にジャパンハウスで日本の放送を見れば、午前中の映像も必ず流れるから大丈夫。そう思っていました。

 13時半にホテルを出てジャパンハウスに。近くのマクドナルドで昼食をとり、14:30には会見場入り。ある方面と別の方面から、チケットを3日分入手しました。馴染みの陸上記者たちと旧交を温めながら(?)、メインプレスセンターの様子などを聞きました。なんでも食事がひどくて、アメリカの記者たちがクレームをつけた結果、改善されたそうです。値段も安くなったとか。よくないところはよくないよ、と言う人間が必要なのでしょう。
 15:05から女子マラソンの2日前会見。土佐礼子選手中村友梨香選手に加え、鈴木秀夫監督と武冨豊監督も出席。その様子はこちらに記事にしました。最後に土佐選手が「良い区切りかな」と話したことで、記者たちの心中にさざ波が立ったのがわかりました。
 フォトセッション後の移動中に土佐選手に確認すると「主婦になろうかな」と、冗談っぽく言います。近くにご主人の村井啓一さんもいらしたので確認すると、駅伝まではきっちりと、今まで通りに頑張る予定です。その後は村井さんのいる松山に居を移すプラン。ただ、引退というわけではなく、仮に子供を産んでも競技は続けたい意向のようです。それも、状態によっては再度、世界を狙うこともあり得るというニュアンスでした。

 会見後は、会見場を2時間作業に使えるシステムになっているので、そこで原稿書き。
 19時から陸上競技の午後の部が始まるので、ジャパンハウスのテレビコーナーに。6個のモニターが設置されていて、日本の放送が見られるようになっています。みんなで一緒に見て盛り上がろうという、サッカーのワールドカップなどでよくある趣向です。読売新聞が空輸されて置かれているので、日本のテレビ番組表も見ることができます。問題は、どのモニターにどの局が映し出されるか。それによって座る場所を決めたいと思いました。
 部屋の隅の機材を扱う場所に担当者が7〜8人いるので、質問しに行きました。そうしたら、大きな勘違いしていたことがわかりました。日本の放送ではなく、国際映像をジャパンハウスでチェックして、日本人が出ている競技の映像にその場で実況をつけて流しているのだそうです。
 ということは、すべてがライブの映像ということ。午前中の予選をダイジェストにして流してくれるだろうという期待は裏切られました。勘違いというか、よく確認しなかった自分の責任です。

 最初の日本選手が登場する種目は男子の100 m2次予選。日本人2選手の組はしっかり映してしてくれました。ただ、ボルトの組になったときに、日本人はもう出ないという判断で切り換えられてしまったのは残念。これも、仕方ありません。
 次の女子3000mSCも見ることができました。ただし、あくまでも国際映像なので、後方の選手はどうしようもありません。早狩実紀選手はときどきしかチェックできませんでした。この頃から、放映機材の置いてあるところのモニターをのぞき込むようにして、陸上に日本選手が出たら大型モニターにちゃんと出してよ、と無言の圧力をかけ始めました。
 しかし、担当者たちは成迫健児選手のチェックがしていなかったようで、お願いしても「日本人が画面に映ったら流しますから」という答え。実際そうしてくれたのですが、為末選手の組までの間は女子サッカーのハーフタイムの映像が、全部の大型モニターに映し出されたまま。寺田とは別の方(一般人の方?)が、陸上競技を見たいと申し入れてくれました。

 日本選手の成績ですが、塚原直樹選手は着順で2次予選を突破。大舞台での強さは相変わらず。ベースがアップすれば国際大会での成績もそのまま上がるタイプでしょうか。すごいことなのですが。
 朝原宣治選手と為末大選手はこれで引退という可能性も出てきました。といっても、為末選手は「しばらく走らないで考える」ということなので、100%結論が出ているわけではありません。かねがね、いきなりやめないで引退シーズンをつくってもいいのでは? と勧めているのですが。
 朝原選手については「来年はない」と明言しています。でも、ラウンド制の試合は無理でも、GPのような一発勝負の試合ならまだやれそうな気もします。ファイナリストよりも9秒台の可能性の方が高いのでは? 
 それと1つ言わせてもらうと、南部記念で「あれ?」っと思ったことがあったのです。地元の高平慎士選手に勝ったあと、朝原選手が“勝っちゃいました”というオチャメな表情でスタンドに手を振ったとき、観客の反応に温かいものが感じられました。地元の選手とこれからもライバルとなり続ける選手ならともかく、先の短い選手なら、そして朝原選手のキャラなら、地元観客も喜ぶのです。4×100 mRメンバーのそれぞれ地元で、対決をしていく企画も面白いのではないでしょうか? スポンサーも付いたりして。

 400 mH予選が終わったのは22:30頃。原則22:00にジャパンハウスは閉まるので、400 mH終了後はタクシーに飛び乗って……と思ったら、最初のタクシーに寺田の泊まっているホテルの地図を見せると「行けないよ」と乗車拒否をされました。昨日もありましたが、理由がなぜなのか理解できません。そこで約10分のタイムロス。
 22:55にホテルに着きましたが、女子1万mが始まっていました。決勝は中国選手が弱くてもテレビ放映するようです。
 結果は福士加代子選手が11位でタイムも日本選手五輪最高記録。渋井選手と赤羽選手を笑顔で迎えていました。前回のアテネとは正反対でした。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)5日目★★
◆2008年8月16日(土)
 昨日の日記から北京五輪四苦八苦観戦記というサブタイトルを追加しました。昨日今日の日記をお読みいただければ、タイトルの意味するところは明らかです。
 今日の午前中はまず、9時から男子20kmWをホテルのテレビで観戦。日本勢も3選手が出場していましたが、大集団なのでたまにしか姿を確認できません。そうこうするうちに映像は鳥の巣に。女子砲丸投の予選と男子3000mSC予選に切り替わってしまいました。岩水嘉孝選手の走りはチェックできました。
 岩水選手は予選落ち。パリ世界選手権の再現は簡単ではありませんでした。今後の動向が注目されます。学生時代からの計画通り、マラソン進出を図るのか、もう少し3000mSCを極めようとするのか。
 映像は9:30くらいに水泳になってしまいました。他のチャンネルを頻繁にチェックしましたが、陸上競技を放映しているチャンネルはありません。元のチャンネル(11ch)に戻して待つのが最善の策。9:54からのニュースをはさんで、10:10くらいにまた陸上競技に戻ってくれました。20kmWのフィニッシュに合わせてくれたようです。

 女子100 m1次予選が10:50からですが、この分では絶対に流してくれる保証はないと判断。福島千里選手の出る5組は11:18スタートなので、ホテルニューオータニ長冨宮内にあるジャパンハウスへ移動。福島選手と女子400 m予選の丹野麻美選手は、ジャパンハウスで見ることができました。
 2選手ともそのラウンドを突破できませんでした。100 mは4組目まで見ていて、11秒6台なら可能性がありそうでした。今季の調子なら0m台の向かい風でも出せるかもしれません。しかし、結果は11秒74(−1.4)。風にも恵まれませんでしたが、ちょっと力を出し切れなかった感じです。
 夜にネットの記事で見たコメントでは、ロンドン五輪に意欲を見せたようです。徐々に、活躍したい大会のグレードが上がってきています。それこそが収穫ではないでしょうか。
 丹野選手は昨年の世界選手権の方が数段良かった感じです。コメントを読むとレース構成の失敗を挙げていますが、動き自体にも問題があったかもしれません。この辺は川本和久先生と話し合った後に、原因を再確認させてもらえればと思います。

 女子400 mの丹野選手の5組は12:38。終わって資料を少し整理した後、昼食を外のマクドナルドに食べに行くか、ホテル内のレストランでしっかりした物を食べるか、迷いながらロビーを歩いているとコニカミノルタの酒井勝充監督と出くわしました。ホテル2階の日本食レストランで昼食をご一緒しました。
 メニューを見てビックリ。稲庭うどん(秋田の名産品)が載っているのです。陸上界ではもう有名になった話ですが(2006年の陸マガ記事で紹介済み)、酒井監督の父親は地元では有名な稲庭うどんの職人さん。異国での偶然が重なって、何か不思議な感じがしました。これは、秋田県出身の松宮隆行選手にとっては吉兆でしょう。写真も撮らせていただきました。
 テレビのチャンネル操作方法を教えていただいて助かりました。海外ではリモコンのチャンネルが0から9までしかないことが多くあります。今回のホテルもそうでしたが、実際のチャンネルは60以上。寺田は10ch以上はリモコンの+と−で操作していましたが、10chなら「1」「1」、20chなら「2」「0」と押せば良かったのです。夜、確認したら「-/--」というボタンを押した後に、2つの数字を続けて押して意図するチャンネルに行けました。効率がまったく違ってきます。

 昼食後はミズノの記者会見に移動。ニューオータニを出るときに昨日の女子1万mで金メダルを獲得したT・ディババ選手と、代理人のマーク・ウェットモア氏に会いました。予想外の出来事でしたが、すかさずツーショット写真を撮影。ディババ選手のピンで撮らせてもらうのはちょっとあつかましいかな、と感じたのです。ウェットモア氏が嬉しそうだったし、ディババ選手の生写真が撮れたのはまあ収穫。Eメールで送信する約束をしました。
 しかし、肝心のことを聞き忘れました。5000mにも出場するのかどうか。どこかの記事に出ているでしょうか。それと、ニューオータニに来ていたのはミズノのブースがあるからでしょう。ディババ選手はミズノ・トラック・クラブ・インターナショナルの選手でした。
 2人のあとには大広の佐治由佳さんにばったり。高校2年時の89年に兵庫県インターハイで4冠をとった選手です。佐治さんについてはもう少し膨らませたいネタがあるのですが、それはまた次の機会ということで。

 ミズノの記者発表は三里屯という、近代的な商業施設が集まっている場所で行われました。一番の中心はこの建物でしょうか。ちょっと離れたところの街並みはこんな感じ。2階から上は集合住宅のような感じですが、雰囲気は良かったです。原宿みたいで。90年にアジア大会が行われた工人体育場も近くにあり、通りの名前にもついています。
 会見のマラソンに関する部分はこちらに記事にしましたが、この他にも色々と河野さん、大沢広報からお話を聞くことができました。4×100 mRメンバー3選手のスパイクの違いとか面白かったですね。内藤真人選手のスパイクの特徴、竹澤健介&小林祐梨子が使用する長距離スパイクの特徴などです。これらも、チャンスがあったら紹介していきたいと思います。

 記者発表後は三里屯中心にあるカフェで原稿書き写真)。古宮近辺でもタクシーからカフェらしきものを見ましたが、中国伝統の古いもので、とても原稿が書ける雰囲気ではありません。その点、三里屯のカフェはヨーロッパ的な雰囲気。これなら、と思って得意のカフェ原稿。MIZUNOのロゴ入りの椅子がありますが、直営店というわけではなく、五輪期間中の契約だそうです。
 2時間ほど原稿を書いた後、地下鉄でジャパンハウスに。日本選手出場は100 m準決勝の塚原直貴選手だけになってだったので、ホテルの自室でテレビを見るかどうするか迷いました。しかし、決勝進出は難しいにしても、良いレースをしそうな予感があったのです。ホテルで見る中国国内向けの映像では、もしかすると準決勝を放送しないかもしれなかったので。

 これが大正解。ボルト選手の1組目を映してくれなかったのは残念でしたが、2組目の画面が大型スクリーンに出ると、異常に盛り上がるグループがありました。塚原選手を応援する横断幕まで持っています。そして、「塚原選手のご両親です」というアナウンスも(写真)。
 そして、レースでは中盤まで世界の強豪と伍して走り、10秒16のシーズンベスト。昨年の世界選手権でも、その時点ではシーズンベストの10秒16で走っています。06年のアジア大会も銀メダルと、その時点の力は出し切っている。ここまで大舞台で力を発揮する選手は貴重でしょう。
 取材パスがなくても記者魂が騒ぎました。お父さんの名前は塚原実さん。ご都合を確認して話を聞かせていただきました。実さんは身長が170cmもありません。親戚のなかでは塚原選手だけがあの体格なのだそうです。小さい頃から「牛乳をよく飲ませるようにしたし、(競技を始めてからは)女房が食事にはかなり気を遣っていました」とおっしゃいます。
 一番お聞きしたかったのは、大舞台でも緊張しないあの性格です。
「特にそういう育て方をしたわけではありませんが、小さい頃から人を見ても泣かないし、知らない人が来ても親の後ろに隠れるようなことはなかった。度胸があるというか、強い選手が横にいても自分の走りができるのでしょう」
 と話してくださいました。

 取材が終わるとすぐに、ニューオータニ隣のマクドナルドで食料を仕入れ、タクシーで自分のホテルに。男子100 mの決勝をじっくりと見ることができました。
 なんという強さ! そして、レース前のあの余裕(サブ種目ということで、精神的に少し楽なところがあったのでしょうか)。強いから余裕があるのか、余裕があるから強いのか。両方が徐々に醸成されてきたと見るべきか。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)6日目★★
◆2008年8月17日(日)
 “鳥の巣に完敗”です。といっても、日本勢の競技のことではありません。
 その話よりも先に、朝から順を追って紹介していきましょう。

 女子マラソンはホテルの部屋でテレビ観戦。をしようと思ったら、スタートだけ映してその後はニュースや前日のハイライト、今日の見どころといった内容に。CCTV、ベイジンTVが2大放送局でいくつもチャンネルを持っていると思うのですが、スポーツメインのチャンネルはどちらもそんな感じでした。
 10kmを過ぎてやっとマラソンのライブ中継に(実際は5分遅れだったようですが)。周春秀選手という金メダル候補がいるにもかかわらずこれです。確かにレースが動く距離ではありませんが、マラソンは最初から見た方が面白さが増すに決まっています。マラソンの社会への浸透度の違いでしょうか。テレビ中継も含め、日本が相当に恵まれた環境に置かれているともいえます。

 結果はご存じの通り。土佐礼子選手は外反母趾をかばったためか、他の部位に痛みが出て途中棄権。中村友梨香選手は13位。2大会続いていた金メダルも、4大会続いていたメダルも途切れてしまいました。脱力感に襲われた感じはあります。
 ただ、だからといって戦犯探しのような雰囲気になるのはよくないと思います。危機感を感じるのは良いと思うのですが、今回の結果は有力2選手のケガが要因で、こうしたら防げたとかいうものではないでしょう。
 日本のマラソン関係者は頑張っていると思います。絶対に。色んなタイプの指導者がいて、色々なトレーニング方法を探っています。今回だって戦力的に戦えなかったわけではありません。オリンピック惨敗という一事をもって世間が騒ぎ立てて、マラソン関係者のペースを乱すことの方が良くないことだと思います。
 30歳台の選手が2人という点を指摘する声もありますが、それがどうした、というのが寺田の意見です。
 とにかく、オリンピックの成績でヒステリックにならないことです。

 女子マラソン後は1時間ほど仮眠。2時間ほど仕事をしてからジャパンハウスに。JOCのイベントが開催されていて、すぐに記者は追い出されたのですが、その間の僅かの時間で来場していた岩水嘉孝選手と話ができました。
 昨日の日記でマラソン進出をどうするか、という話を書きましたが、すぐにそういうことにはならない雰囲気でした。マラソン向きというデータも出ているようですが、コントロールテストで3000mSC向きのデータも多々あるのだそうです。
 昼食は静岡県でフリーアナウンサーをされている方(女性)と、その知り合いのライターの方と3人で、ニューオータニ近くの中華料理屋に。胃の調子も良くなってきたので、初めて中華を食べました。料理名などよくわからないのですが、麺類と水餃子と、野菜の炒め物と、豚肉の料理を取り合っていただきました。美味しかったです。

 夜はいよいよ鳥の巣に。17:00にホテルを出て、最寄りの地下鉄駅まで15分歩き、地下鉄とバスを乗り継いで到着。セキュリティチェックも10分強と、思ったほどかかりませんでした。競技場までの距離が遠かったですけど、そこは埼玉県選手権のときに熊谷で、ラグビー場から歩いて鍛えられていますから大丈夫です。
 飲み物は持ち込めないと聞いていたのですが、食べ物までとは知らずにマフィンを持っていったら、情け容赦なく没収されました。仕方ないので会場内でカップ・ラーメンと炭酸水を購入。カップ麺が30元(480円)というのは、他の物価からすると信じられない高さ。その売り場にもボランティア学生が何人もいて、英語のできる女の子が「味はどうですか?」なんて聞いてきます。カップ麺ですよ。もちろん「日清食品の方が美味しいよ。今度、中国に来るときに買ってきてあげるよ」と約束しました。
 マジでビジネスチャンス大ありだと思いますよ。

 鳥の巣の印象は良かったです。ひと言で言えば“迷わない、見やすい”です。
 9万人収容のスタジアムでも、区画の分け方が明確ですし、そこまで行くのに迷うことはありません。巨大スタジアム・ネタでいつも引き合いに出すのがパリのサンドニと、ローマのオリンピック競技場ですが、この2つは場外を1周しようとしてもできません。フェンスで仕切られて、「ここからは通れません」という場所がいくつもあります。その点、鳥の巣は、もちろんパス・コントロールも何カ所もあり、VIPやプレスとはしっかり区切られていますが、スタンド外(1階部分)は周回することが可能なのです。外国でこれは本当にありがたいです。日本なら当たり前なのですが。
 日本との違いは見やすさ。とにかく、グラウンドが“近く”見えるのです。日本では当たり前のスタンド下がグラウンドレベルではなく、スタンド1階席の一番前がグラウンドレベルなのです。その違いなのでしょうか。あと、これは隣に座ったおばさんが言ってらしたのですが、最も見やすい角度に設計してあるのだそうです。
 寺田の席は2階の上の方。100 mのスタートのほんの少しフィニッシュ寄りです。こんな感じ★でスタートを見下ろすことができますし、第2コーナーから投げるハンマー投も日本で見るより明らかに近い。日本のスタンドで階層式でないところは、上に行くほど遠くなるのですが、鳥の巣のスタンドの三階構造は、どの階もトラックに近くなっているような気がします。
 欠点は、1階席の後ろの方の席では、屋根が邪魔をしてハンマーの軌跡がすぐに見えなくなってしまいます。これが思ったより興ざめします。やっぱり、投てき物はずっと見ていたいものです。

 とはいうものの、ハンマー投は1階席後方の廊下で立ち見をしました。距離の近さを取りました。回廊がかなり広いので通る人に迷惑をかけることもありません。ズームの倍率で印象も違ってきますが、こんな感じ★です。
 室伏選手は3投目までは80m前後で安定していました。2投目に80m71で4cm差の2位に立ったときは、イケルかなという感じがしました。しかし、試技順が後半の3選手に次々に抜かれて4位に。後半はおそらく、“記録狙い”に行ったのだと思います(こちらの記事参照)。それが、報道されているように直前の腰痛の影響で成功しなかった。77〜78mにとどまってしまいました。投てき直後に“ダメだ”という表情を何度も見せていました。

 久保倉里美選手の予選は運悪く、室伏選手の5投目と完全に重なってしまいました(スタート前の久保倉選手★)。3台目までは女子400 mHを見ました。たぶんですけど、2台目まではトップだったと思います(違いますかね?)。3台目くらいまで見たら室伏選手の投てきを見て、すぐに400 mHに目を戻したら久保倉選手がフィニッシュするところ(写真★)。角度が斜め前からだったので自信は持てませんでしたが、3位に見えました。
 そうだとしたら、着順での準決勝進出です。日本が五輪初出場の種目ですから、快挙と言って良いでしょう。
 という感慨に浸りつつも、室伏選手の6投目前に注目しました。アテネ五輪のときはフィールドに仰向けに寝転び、夜空の星を見つめて集中したのは有名です。今回は芝生との境目をこんなふうに見つめていました(写真★)。アテネ五輪と同じことをしようとしたのかどうかはわかりませんが。
 競技終了後の室伏選手に落ち込んだ様子はありませんでした。他の選手たちと笑顔で談笑していました。こんな感じ★で、話の中心に室伏選手がいることが多かったように思います。退場する際も、スタンドの日本人の声援に、何度も何度も応えていました(写真★)。

 ハンマー投終了後は自分の席に戻って残りの競技を観戦。右隣の席は三重県から来ているおばちゃん2人組。最初に挨拶したときに「陸上は詳しいですよ」と言ってしまったこともあって、寺田が解説役に。でも、その2人も野口みずき選手や瀬古さんと同じ三重県だけあって、陸上競技にもそうとう詳しいようでした。専門誌が陸マガと某専門誌の2つあることも知っていて、どちらかが野口選手が表紙だったとまで言ってくれました。
 女子400 mの準決勝のときにリチャーズ選手がスクリーンにアップで映ったのを見つめているので、「優勝候補ですよ。さっきの組のイギリス選手がライバルで、左の人が熱心に応援していましたけど」と申し上げました。
 実は前の組でオフルオグ選手(イギリス)がトップ通過していて、寺田の左横シートの白人男性が熱心に応援していました。
 それから間もなくすると、その白人男性が「ちょっと荷物見ててもらっていいですか」と話しかけて席を立ちました。あとで話を聞くと、2016年の招致委員会の人間でした。ちょっとバツが悪かったですけど、とてもいい人そうで、おばちゃん2人組の質問にも丁寧に答えていました。
 なんでこんな遅い時間に競技をするのか、とか、8月に開催しないといけないのか、とか。まあ、アメリカのテレビ局の希望を受け容れざるを得ないという現状がありまして、その辺は、普通の人の感覚では理解し難いところなのですが。

 女子3000mSCで世界新が生まれました(写真★)。日本でもそうですが、女子の方が牽制しない傾向があるのでしょうか。優勝記録をことごとく、低めに予想してしまっています。昨年の世界選手権では1つも出なかった世界新が、早くも2つ誕生したのです。それも、史上初の9秒6台と初の8分台。
 ただ、観客たちは記録の価値をよく理解している人たちというよりも、オリンピックだから来ているという人たちの方が圧倒的に多いですね。通路で記念撮影をする人が後を絶ちません。世界選手権とは客層が少し違うのかもしれません。もったいないといえばもったいないのですが、陸上観戦素人に面白さをわかってもらう機会としてはいいのかも。昨年の大阪が空席が目立った日が多かったのに対し北京五輪が連日フルハウスなのは、そういった違いがあるように思いました。

 女子100 mはジャマイカが1・2・3位独占。ですが、スタンドが近い恩恵で、我々の席からも誰かがピクっと動いたのがわかりました。寺田はウィリアムス選手のスタートに注目していましたが、その1つか2つ内側の選手が明らかにやっていましたね。隣のおばちゃんたちもフライングだと言います。近くの席にいた某メーカーの方たちによれば、女子100 mHの予選でも疑わしいものが続出したそうです。アメリカが抗議したといいますが、ちょっと後味の悪さが残りました。
 最後は男子1万m。1・2位はアテネ五輪、ヘルシンキ&大阪世界選手権に続き、4大会連続でK・ベケレとシヒーンのエチオピア・コンビ。日本選手は今ひとつ。気象コンディション的には良かったので、もう少し記録が欲しかったところです。
 このところ日本選手間で無敗の松宮隆行選手のラップを計測していましたが、竹澤健介選手の方が上に来ました。2人とも万全ではなかったようですが、日本選手権後に良い流れになった竹澤選手と、日本選手権後に不安材料があった松宮選手の差が出たということでしょうか。
 競技終了後は即、帰路に。通常の取材ではないことなので、ちょっと違和感がありました。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)7日目★★
◆2008年8月18日(月)
 午前中に日本選手が登場する種目は3種目。全て男子で400 m予選、200 m1次予選、110 mH1次予選。400 mが9時からでジャパンハウスは開いていないので、ホテルの部屋でテレビ観戦。金丸祐三選手、まったくダメでした。後で新聞記事などを読むと、7月末に再び故障をしてしまったとのこと。そう言われると、どこか恐る恐る走っているような印象もありました。
 200 m予選もホテルの部屋で。高平選手が4着でヒヤッとさせてくれましたが、タイムが20秒5台だったのでプラスには入ると確信。しかし、末續慎吾選手は通過できませんでした。
 110 mHの1次予選の内藤真人選手は、劉翔選手と別の中国選手の間の組。100%、中国のテレビ局は放映すると確信していました。と、と、と、ところがです。内藤選手の前の組が終わると画面はスタジオの司会者とミックスドゾーンのインタビュアー、サブトラのレポーターの3人の画面に。そのまま5〜10分間、その3人が話し続けます。
 そうこうしているうちに、ミックスドゾーンのインタビュアーの背後に、レースを走った選手たちが減速しながら映ってきます。内藤選手は最後に画面の片隅に現れ、ひざに手を当て、そしてスクリーンを見上げていました。その辺で画面が切り替わってしまったのですが、あまり良い結果でなかったことは想像がつきました。
 劉翔選手の組は見ずにジャパンハウスに。12:10にある人と約束をしていました。用件は企業秘密。

 その後はしばらく、ジャパンハウス内の作業スペースが空いていたので仕事(野球の日本選手団が泊まっているため、野球記者たちですぐに満席になってしまいます)。幸運にも渡辺康幸監督と少し、話をすることができました。こういうテーマの原稿があるのですけどどうでしょうか、という相談です。午前中に陸マガ・高橋編集長とは、今回は難しいかもしれないと話し合ったのですが、渡辺監督との話し合いで、一気に実現の方向に傾きました。オセロのように黒が白にコロッと変わった感じです。収穫というか、前進というか。

 一度ホテルに戻って時間ぎりぎりまで仕事をしてから、昨日同様地下鉄とシャトルバスを乗り継いで鳥の巣に。それでも、少し慣れたためか到着までの時間は短縮されました。19:20にはセキュリティチェックが終了。20:05開始の男子200 m2次予選までに食事ができるかなと思い、外の売店で自熱式と表示のある弁当を購入。
 レンジで温める式のご飯に、レトルトパックの具と汁をかけ、固形燃料を箱の下に入れ、ひもを引っ張ると液体が燃料にかかって発熱する仕組み。店のおじさんにやり方を聞いたのですが案の定英語が通じず、ちょっと焦りっていると、隣のテーブル(立食用)のおばさんが英語で説明してくれました。
 しかし、温めるのに要する時間が8分間。これが計算外。なにせ中国ですから、生ものを口に入れるのは危険です。焦りつつもしっかりと8分間待って、19:45から大急ぎで食べました。その間に、ミズノのKKコンビもスタンドに。それに遅れること3分で寺田も続きました。途中、サブトラックがあり、川本和久先生も日記に書かれているように、ちょっとジャンプをするとか、幕のつなぎ目を見つければのぞけてしまうほど。高平慎士選手がいたら「脚が長いぞ!」と声を掛けようと思っていたのですが、もちろんいるはずがありません。

 時間はすでに19:57。今日のシートは3階席ですから、そこまで上る時間も計算しないといけません。入場ゲートでは切符切りを、学生補助員らしき女の子がやっています。急いでいるという意思表示のつもりで、少し手前から小走りをして、チケットをリレーのバトンパスのように手を伸ばして手渡しました。そこで立ち止まって待つのが普通ですが、ゆっくりと歩き続けて、バトンの受け手のように後方に手を伸ばして受け取りました。焦っているなかでも、このくらいはする余裕はあります。
 チケットをもらうときの手の平は上に向けていました。オーバーハンドです。アンダーハンドの仕草は理解してもらえないかな、と判断したからです。
「日本チームはアンダーハンドパスなんだけどね」
 と英語で言いましたが、理解してくれたかどうか。3階席に向けて走り出していたので確認できませんでした。

 さすがに3階席は高かったです。これが階段の途中。鳥の巣の内側ですね。
 B席でしたが場所はフィニッシュラインのほぼ真上(写真★)で、かなり良いポジションでした。ちょっと前のシートには熱烈なアメリカ人女性が。頭に星条旗の星を被せた子供を抱きながら、「ユーエスエー、ユーエスエー」と、ものすごく甲高い声で叫びます。レース中にやることはないので問題ないのですが。
 高平選手は前半こそ当落線上で踏ん張っていましたが、150mを過ぎると力の差が出て7位。「脚長いぞ!」と応援しようかと思いましたが、隣が日本人だったのでやめました。これがヨーロッパのGPで、周りが外人ばかりだったら絶対にやるのですけど。国内で特定の選手を応援するのはノーグッドですが、海外に出たらいいかな、と自分で規定を作っています。
 次のトラック種目は女子400 mHの準決勝。久保倉里美選手が世界のベスト16に入りました(写真★)。現時点での話ですが、男子100 mの塚原直貴選手と並んで今大会一番の健闘でしょう。選考の経緯を考えると、なおさら引き立ちます。
 昨日の予選は室伏広治選手の5投目と重なって3台目までとフィニッシュしか見られませんでしたが、今日はじっくりと観戦。しかし、昨日との違いは周りの速さ。しかも、久保倉選手自身も200 m付近でステップが合いませんでした。あとでタッチダウンを見ると6台目でした。0.5秒、ガクッと落ちています。このあたりが、テレビ観戦ではタッチダウンは計測できませんからね。ウン十万円お金を払った者だけの特権です。お金以上のものをつぎ込んでいますけど。
 6位の選手から10m以上も引き離されての7位。57秒かかったんじゃないかと思いましたが56秒69でした。6位が54秒74。もう1つの組は4位が55秒17で6位は55秒69。準決勝突破は無理だったにせよ、なぜか差が大きかったですね。

 次のトラック種目は男子3000mSC。やはり、女子と違って牽制した展開で、優勝したキプルトゥ選手のタイムは8分10秒34。まあ、オリンピックは記録じゃないですしね。2位にはフランス選手が自己新で入り、5位にも同国選手が入って、寺田の左前方にいたフランス応援団が大喜びしていました(写真)。
 続く女子800 mではジェリモ選手が1分54秒87のジュニア世界新で優勝。女子の方が牽制しないのでしょうか。いやいや。安易に男女差に原因を求めるのはよくないでしょう。
 その間、フィールドでは男子走幅跳が行われていました。昨日、見やすいと書いた鳥の巣競技場ですが、砂場はインフィールドではなく、アウトトラックのレイアウト。フィニッシュ付近から第3コーナーの、それもかなり外側でしたから、ちょっと見づらかったですね。サラディノの上手さも伝わらないでしょう。大型スクリーンにも出ますが、映像ではスピードがわかりにくくなりますし。
 記録はこの写真★の通り。かなりレベルが低くなりました。微風ですけど追ったり向かったりだったのが、良くなかったのでしょうか。この日の女子円盤投も優勝が64m台で8位が60m台。もうちょっとで、日本選手の手が届くところにレベルが下がってきました。
 トラックの最終種目は男子400 mH。誰のタッチダウンを計るか迷いました。寺田の優勝予想はオール15歩のジャクソン選手ですが、準決勝のタイムではテイラー選手が来そうです。しかし、一気に記録を伸ばすとしたら、昨年の世界選手権優勝のクレメント選手でしょうか。直前まで迷った結果、今回は愛すべきクレメント選手にしました(なぜ“愛すべき”なのか、とか質問しないように)。
 結果は、テイラー選手の圧勝。47秒25は0.25秒の大幅自己新。前回の自己記録はシドニー五輪でしたから、オリンピックに強い選手。シドニー五輪金メダリストの復調は称えるべきところですが、愛すべきとは形容しません(これも質問しないように)。
 クレメント選手は2位で47秒98と完敗。ちなみに、この写真が寺田のストップウォッチ。北京でも腕は鈍っていません。ライバルのO村ライターにちょっと差をつけたでしょうか。勝負は国体ですけど。成迫健児選手と同じです。

 トラック最終種目の400 mHは22:05頃に終わりましたが、女子棒高跳のイシンバエワ選手が残っていました。4m85まではかなり高さが出ていたように見えましたが、4m95の1回目こそ高さはありましたが、2回目は頂点が完全にずれていました。3回目が400 mHと重なったため毛布(大きな布?)の下に潜り込みましたが、400 mHが終わらないうちに跳びました。トラック種目を気にしていたのでなく、それがイシンバエワ選手の集中の仕方なのでしょう。
 5m05の世界新にバーを上げて2回失敗。その2回は毛布に入らなかったと思うのですが、どうでしょう? 3回目は毛布に入りました。
 毛布に入ってヒザ下だけ出ている写真★
 残り時間は2分30秒に★
 ムクッと起き上がったところ★
 残りは2分10秒(起き上がったのは2分30〜20秒の間)★
 世界新に成功すると、そのままウィニングラン★
 たぶん、もう試技をやめます、と審判には告げていないはず。厳密にはタイムオーバーで終了となるはずですが、国際陸連の試技表には次の高さが記されていません。まあ、どうでもいいか。

 5m05を跳んだのが22:20頃。ウイニングランで場内を1周し、記録ボードで撮影をして、荷物をまとめて退場し始めたのが22:37でした。日本の記者たちはおそらく、猛烈に焦っていたでしょう。今日は、日本選手をそこまで大きくできる内容ではありませんでした。劉翔の棄権がありましたが、頑張った選手を大きくしたいと考えるのは当然です。この時間になると締め切りとの勝負。ミックスドゾーンで首を長くして待っているのが手に取るようにわかります。
 が、役員たちがイシンバエワ選手をつかまえて記念撮影★をしています。ミックスドゾーンのある第1コーナーに向かって歩き始めましたが、スタンドの客もまばらになっているにもかかわらず、あちこちに手を振って応えています。記者たちの焦りは頂点に(たぶん)。
 寺田も、スタンドのその区画ではポツンと残ってイシンバエワ選手が退場するのを見ていましたが、そこに1人の学生補助員が近づいてきて、中国語で何か話しかけてきます。身振りで、「もう帰ってくれ」と言っているのがわかりましたが、もう少しイシンバエワ選手を見ていたかった寺田は、「何言っているかわからないから、英語で言ってよ」と居座りました。その学生は英語が話せないらしく、立ち去ります。しめしめ。
 しばらくして別の学生補助員が来て、もう締める時間だから帰ってください、と英語で言います。「エレーナがそこにいるじゃないか(写真★)。僕はエレーナを見ていたいんだ。マニュアル通りに仕事をするなよな。これは国際大会だぞ」と、突っぱねました。また、学生補助員は立ち去ります。
 またしばらくすると、先ほどと違う学生補助員が来ました。そのときもまだイシンバエワ選手はテレビのインタビューを受けている最中でしたが、寺田は記者席をのぞき込んで知っている顔がいないか探していました。
 しかし、ここは中国。“三顧の礼”の故事もあります。諸葛孔明になった気分で、鳥の巣を後にしました。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)8日目★★
◆2008年8月19日(火)
 陸上競技5日目。午前中は池田久美子選手が走幅跳予選に登場します。9:40開始ですから、ジャパンハウスにはオープン時間の10:00に行きましたが、1回目は終了していたでしょう。2回目が映るかな、と思っていたら映りません。おそらく、ジャパンハウスのモニターチェックはしっかりやってくれていると思うので、国際映像自体に池田選手の2回目が入れられていなかったのだと思います。一応、担当者に念押ししておきました。
 3回目はしっかり映し出されました。できれば、助走を開始するよりもう少し早いタイミングから見ておきたいのですが、こればかりは仕方ありません。1・2回目の記録が画面に出ていたので助かりました。2本とも6m40台。通過ラインの予測は6m60前後。6m50台前半で通過できた世界選手権もありましたが、そこまでは期待できません。
 結局、3回目はファウル。その時点でAB組合わせて18位という表示が出たと記憶しています。いずれにせよ、予選通過はなりませんでした。

 夜の部もジャパンハウスかホテル自室で観戦予定だったので、ちょっとゆとりがあって、ジャパンハウスに届いている新聞各紙をじっくりと読んでいました。15時頃に久しぶりにしっかりとした昼食を、中国歴史小説の短編集を読みながらとりました。そのとき、電話で今日のチケットがあるとの連絡が入りました。聞けば、明日の夜の分もあるとか。本当にラッキーです。
 自分のホテルに戻ってぎりぎりまで仕事をして、途中である人と合流して鳥の巣に向かいました。北京の地下鉄は新しいので、駅のホームでも携帯電話の電波が入ります。なんだか、移動中もずっと電話で話し続けている人もいます。今度、電波状態を見ておきましょう。

 競技場に競技開始30分前に着いたので、デイリープログラムを買おうと探し回りました。一昨日、昨日とすぐに見つけられず、まあいいか、とプログラムなしで観戦していたのです。英語の通じる中国人役員(といっても学生補助員っぽい人間)を見つけて「デイリープログラムはどこで買えるの?」と聞き回りましたが、ほとんど全員がなんのことかわかってくれません。タイムテーブルを見せてくれたお兄ちゃんが2人いただけでした。
 こちらにきているK女史に電話をして確認すると、売っていないとのこと。これまでの世界選手権で、デイリープログラムを売っていない大会はあったでしょうか? 一昨日に書いた観客層の違いが理由でしょうか?
 そんなわけですから、ATFSの資料冊子(スタティスティクス・ハンドブックなど)を売っている場所も、わかるはずがありません。
 そうして歩き回っているうちに、第1コーナー付近のスタンド下のプレス・ワーキングルームの外に立っていました。ガラス張りなので中の様子が丸わかり。誰かいるかなと見渡すと、中国新聞・山本記者の姿があるではありませんか。一心不乱に仕事をしています(写真★)。声をかけるには遠すぎますし、ガラスまでは仕切りのロープがあって手が届きません。
 それでも、念を送ったところこちらの気配に気づいてくれて、外に出てきてくれました。良かったです。何が良かったかというと、水と○○をもらえたからです。中国電力勢の情報も少し、教えていただきました。

 今日の席はバックストレート中央付近の3階。意外に見やすかったですし、周りの日本人観客も陸上競技をよく知る人たちばかりで楽しい観戦でした。何よりもラップタイムが計りやすいです。ホームストレートの記者席は、100 m地点(1500mのスタート地点)が円盤投&ハンマー投のネットで隠れたり、200 m地点のラインが低い角度だと確認するのが難しいことが多いのです(それでも何とかしますけど)。その点、今日のシートからは100 m地点と200 m地点を見下ろす形となり(写真★は女子5000mのスタート地点)、こんなにも計りやすいのか、と感慨に浸っていました。もちろん、フィニッシュラインも見えます。
 ということで、女子5000m予選の日本選手のスプリットをきっちりと計測。こちらに、小林祐梨子選手のものを掲載しました。6着+3が通過できましたが、1組で7着。プラスでは4番目でした。本当に惜しかったのですが、小林選手のスピードがある程度通用したとは言えると思います。ラスト400 mでなく、ラスト600 mからのペースアップに対応できたことが大きかったのではないでしょうか。
 2組目は福士加代子選手が7〜8mほど飛び出しました。1000m手前で追いつかれて縦長の集団になりましたが、赤羽有紀子選手は最後尾で、ともすると少し離れがち。状態が良くないことは明らかでした。1900m手前くらいでトップに立ったときは、ちょっと無理をしている感じを受けました。3000mで遅れていきましたから、そこは覚悟で、世界のトップを走ろうとしたのかもしれません。本人に確認しないと絶対とは言えないですけど。

 隣の席のK氏とドイツが最近弱いのはなぜかとか、面白い話をしていたこともあり、昨日ほど点数は多くありませんが、写真をいくつか紹介していきましょう。
 これ★は昨日の女子棒高跳の表彰。イシンバエワ選手が大粒の涙を流していました。91年世界選手権東京大会のマイケル・ジョンソン選手を思い出しました。ジョンソン選手はもっと細い筋の涙でしたが。
 これ★は400 m準決勝のウォリナー選手。カメラに向かってパフォーマンスをする選手が多くなっているなか、ずっと下を向き続けて1度もレンズを見ませんでした。
 これ★は男子円盤投優勝のカンター選手。ウィニングラン中にホームストレートに来ると、女子100 mH用に置いてあったスターティングブロックからダッシュするパフォーマンスをしました。なかなか絵心と茶目っ気のある選手でした。
 写真はありませんが、その100 mHでは優勝予想したロロ・ジョーンズ選手が、先頭でハードルを越えていきましたが9台目を引っかけて後退。バルセロナ五輪のディバース選手を思い出しました。

 帰りはいつも地下鉄の駅から1.2kmほどを歩いて自分のホテルに戻るのですが、大通りにもかかわらず何もお店が空いていなくて面白みがありませんでした。元々、官庁街っぽいですし。今日は1本ほど(200 mくらい?)南のちょっと小さい通り写真)を歩いてみました。すると、これがビックリです。飲食店や昔の駄菓子屋風のコンビニのみならず、理容室・美容室、クリーニング屋、雑貨屋までが0時過ぎなのに店を開けています。道を行き来している人もそれなりにいて、どの飲食店にもそれなりの人が入っています。
 近くにホテルもありましたが、通りを歩いているのは地元の人が多いようです。トランプや将棋っぽいゲームに興じている人や、道ばたで串焼きの肉を食べている人たち。ただ、話をしているグループ。そんなに暑くないのに、上半身裸の男性も多いです。そしてそして、北京に来て初めて猫を見ました。顔が写っていませんが写真を載せます。M選手も載せるという話でしたが…。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)9日目★★
◆2008年8月20日(水)
 今日は午前中の競技がない日。新聞記者も少し体力温存をはかれる日です。他競技の取材に駆り出されていなければ、ですけど。一昨日の日記を書いてからジャパンハウスに。ジャパンハウスでは16時頃に読売新聞が無料で配布されるので、大変に助かっています。
 昨日の観戦ノートのスプリットタイムを整理していて、小林祐梨子選手の最後のスピードがすごかったことに気づきました。レース展開を生で見るメリットは数多いのですが、デメリットもあります。今回もそうで、目の前のアフリカ勢と比べてしまうせいで、そこまで速かったことに気づかなかったのです。
 このタイムはもう一歩突っ込んで分析することも可能なのですが、それは陸マガ記事にとっておきましょう。

 昨日の日記もほぼ書き上げました。時間はもう18時。これまで、一度ホテルに戻って資料を少なくして鳥の巣に向かいましたが、今日はジャパンハウスから直接行ける態勢にしていました。18:15にジャパンハウスを出発して、地下鉄とシャトルバスを乗り継いで19:00頃には会場東口ゲートに到着。今日はもうセキュリティの待ち時間はゼロ。劉翔選手リタイアで観客が少ないのでしょうか。
 今日はセキュリティを抜けた目の前の売店で、自熱式のお弁当を食べました(美味しいわけではありませんけど)。鳥の巣に近づくほど込んでしまいますし、鳥の巣のスタンド裏の売店は大行列と売り切れのオンパレードですから。自熱させる方法も経験済みなのでお手のもの。19:40には夕食を食べ終わりました。
 鳥の巣に行く途中、サブトラックの横を通ります。フェンスに大会ロゴなどをあしらったビニルが張ってありますが、ところどころに隙間があって中を垣間見ることも可能です(写真★)。竹澤健介選手がアップをしていました。
 一昨日は男子200 m2次予選に間に合うかどうかギリギリだったので、競技場ゲートはバトンパスでくぐり抜けました。今日は「ピヨピヨっ」と言いながら入るようにM社K氏から言われていましたが、忘れてしまいました。選手たちはしっかりやっているのでしょうか、“ピヨピヨ入場”を。ボルト選手ほど極端でなくていいのですが、そのくらいの余裕を持ちたいものです。寺田は次の機会にやることにします。

 今日のシートはホームストレートの第4コーナー側の2階席最前列。110 mHのスタートが目の前ですが、照明機材か何かがビニルにくるまれていて、ちょっと身を乗り出す必要があります。それでも、かなりの特等席でしょう。棒高跳が目の前★で行われます。
 以前、とても見やすいと書いた鳥の巣ですが、ホームストレートの外側に砂場がない(写真★)のもその一因かもしれません。ただ、砂場自体はバックストレートの外にあって、ホームスタンドからはちょっと見にくい。できれば、バックストレートの内側(インフィールド)が良かったですね。
 5000m予選1組には松宮隆行選手が登場。1万mの状態から期待が持てないのはわかっていましたが(ましてや5000mですし)、昨年の大阪世界選手権で悔しい思いをした種目。意地を見せてほしいと思っていましたが、見ることになったのは片足が裸足の松宮選手★でした。寺田が気づいたのが3300m。どこで脱げたのか、まったく気づきませんでした。
 しかし、メモしていたスプリットタイムを見ると、3000mを過ぎて落ち始めています。集団から離れ始めたのが3200m付近。その間だと思われました。フィニッシュした松宮選手は第1コーナーに歩いてきます。推測は当たりましたが、当たっても嬉しくないですね。こんなこと。
 予定では、北京五輪後はマラソン主体になるはずでしたが、どうするのでしょうか。思い切り挑戦ができてダメだったのなら、それはそれで次に進めるのですが。

 5000mが終わると補助員がこんな感じ★に、一定か間隔でトラックに並び始めました。何かと思っていたら、ハードルを載せた小型トラック★が出てきました。これは北京スタイルでしょうか。それほどオリジナリティがあるわけではありませんけど。神戸インターハイで感じた兵庫の補助員のきびきびした動きの方が、インパクトは大きかったですね。見る側の経験の違いかもしれませんが。
 棒高跳ではこんな新兵器★が登場していました。これまでは、各選手のポールケースを物干し竿のように支柱に掛けていました。これは斬新です。オリンピックは新製品の発表会という性格も持っています。
 110 mHの準決勝の前に、昨日の最終種目である男子1500mの表彰です。プレゼンターは前回1500m・5000m2冠のエルゲルージ氏。北京入りした直後に、体操女子のプレゼンターをしているところをテレビで見て「あれ?」と思いましたが、本職の方にも姿を現してくれました。

 ここで寺田が大失敗。隣の席のM社O氏から「エルゲルージですよ」と教えてもらったときも、「1500mだから当然だよな」くらいにしか思っていなかったのですが、エルゲルージ氏がラムジ選手の首に金メダルを掛けた映像を大型スクリーンで見た瞬間、電撃が寺田の脳裏を貫きました。と同時に、「しまったぁ」と大きな声を発していました。
 慌ててカメラを構えて撮影しましたが、大型スクリーンの映像はアップにしすぎるとダメなのです。ズームを少しワイドにして撮り直しましたが、この通り★。一応、2人の入るアングルで直接撮ったのがこの写真★ですが、いまひとつ。千載一遇のチャンスを逃しました。
 エルゲルージ氏の1500m&1マイルでの連勝を、2004年のローマ・ゴールデンリーグでストップさせたのがラムジ選手なのです。目の前で見ていたんですよ、そのシーンを(間違っていませんよね)。病気などもあってその前後のエルゲルージ氏は不調で、オリンピックはまた勝てないのかな、と思っていました。その予想を覆してのアテネ五輪2冠でしたから、ローマで負けたシーンが印象に残っていたのです。
 スポーツ報道では当たり前ですが、同じシーンは二度とありません。この失敗は、一生ものの後悔となるでしょう。
 でも、そうした気持ちを重ねて、人は大人になっていくのでしょう。と何を訳の分からないことを書いているのは、精神的には子供だな、と北京に来て思い知らされているからでしょう。

 今日のハイライトは男子200 m。隣のO氏が世界新を出すのではないかと言うと、寺田は「19秒32までは無理でしょう」と否定。その舌の根も渇かないうちに、あの走りを見せられました。その走りをどう描写しても、その感動をどう書いても、陳腐に思えてしまいそうなのでやめておきます。手元に資料がないのですが、オリンピックに限らず同一大会での100 m・200 m世界新は記憶にありません。あったとしても、戦前とかじゃないでしょうか。
 1つ個人的な見解を持ちました。鳥の巣のトラックは、表面的には少し柔らかめだけど、深いところでは硬さがあると聞いています。その特徴が、体重のある選手に有利なのかもしれません。
 ボルト選手の写真を紹介しておきましょう。レース直前のカメラに向かってのポーズ。これは髪の毛を整えている仕草★でしょうか? これは100 mでもやっていた弓矢ポーズ★。これはフィニッシュして大の字★になったところ。IOCの偉いさんが批判したと記事で見ましたが、そんなことはどうでもいいくらいの記録なのです、マイケル・ジョンソン選手の19秒32は。この数字★の価値がわかっていないですね、その人。国際陸連の偉い人が言ったら、選手たちから総すかんでしょう。
 レース後はお約束のウイニングラン(ウォーク)★。次の種目の女子400 mHが迫っているので、トラックは歩けませんが、外側を1周しました。寺田たちのいる第4コーナーの前も手を振りながら歩いてくれたときは、完全に一ファンになっていて、本当に嬉しかったですね。
 そこで思い出してしまったのが昨年の大阪世界選手権。ウイニングランをしようとする選手を、第2コーナーで役員がストップさせていたシーンを何度も見ました。北京ではほとんどの種目で1周していると思います。次の種目が仮に100 mや110 mHなら、バックストレートを歩いていても何の問題もありません。今回のように400 mHでも、種目間の時間が10分あれば全然問題ないのです。タイムテーブルがそんなに違ったのでしょうか。とにかく言えることは、寺田は目の前でボルト選手を見られて嬉しかったということです。

 今日のハイライトは200 mと書きましたが、本当のハイライトは男子棒高跳の予選です。ハイライトというか、思い入れの大きさの違いですね。澤野大地選手は2年前のヨーロッパ取材中、南ドイツを半日で横断して夕方から夜遅くまで取材した選手です。
 今年から行っている例のポーズ★もきちんとしていました。ポーズをする理由を澤野選手は話そうとしませんが、力となる理由があるからやっているのでしょう。それに、遠目からですけど脚がつる気配もありませんでした。
 5m45を1回目、5m55を2回目に成功して「これは」と期待も持てました。5m65の1回目は澤野選手もそうでしたが、どの選手もバーを落とします。初めて跳んだのが、昨年のモナコSGPで空港から同じ車に乗ったパブロフ選手。「やるな」、と寺田が思っても何の意味もないのですけど。
 そのあたりから風向きが変わったのでしょうか。2回目はクリアする選手が続出しました。澤野選手は残念ながら3回とも失敗。A組のバー昇降支柱が何度も故障して、A組の進行が遅れていたので、その時点ではまだ12人に入れる可能性はあったのですが、ウクライナのユルチェンコ選手が跳んだ時点で12人となって予選落ちが決定しました。
 澤野選手の表情をもっと近くで見たいと思い、第3〜第4コーナー間のシートに移動しました。男子200 mが終わった時点で観客の大半は引き揚げていたので、さすがの北京補助員も何も言いません。ちなみに、棒高跳予選が終わったのはたぶん、日付が変わっていたと思います。
 澤野選手はいろんなところに視線を向けていましたが、見上げていることが多かったように思います(写真★)。スタンドにいる知り合いを探していただけかもしれませんが、何かを脳裏に焼き付けようとしているようにも感じられました。
 澤野選手の表情を見ることで、彼の思いがわかるとは、これっぽっちも考えていません。でも、見ておかずにはいられませんでした。どうして表情を見たいと思ったのか、自分でもわかりません。澤野選手が引退するわけでもありませんし。強いていうなら、オリンピックだからでしょうか。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)10日目★★
◆2008年8月21日(木)
 ジャパンハウスが開く前に日本選手が登場するので、午前中はホテル自室でテレビ観戦。女子20kmWと十種競技の100 mは映し出してくれるのですが、男子やり投はなかなか見せてくれません。雨で開始時間が1時間ずれた情報も、外国の放送ではわかるはずもありませんし。
 10時を過ぎて第1投てき者の1投目が映し出されたので、その時点でやっと変更したのかな、と推測できました。しかし、肝心の村上幸史選手は1回も映してくれませんでした。

 結果は女子20kmWの川崎真裕美選手が1時間29分43秒で14位。村上選手は78m21で予選落ち。表面的な成績だけを見るとそう大したことはないように見えますが、ちょっと分析的に見るとそうでもないのです。
 川崎選手の順位は昨年の世界選手権が10位の方が上でしたが、記録的には国外日本人最高です。村上選手は記録では自身の持つオリンピック日本人最高(78m56)に届きませんでしたが、全体で15番目というのは五輪・世界選手権を通じて自身の最高順位のはずです。
 今大会の日本選手はここまで入賞「1」と低迷している印象ですが、ケガが原因でパフォーマンスの落ちた選手以外は、それなりに自身の力を発揮しているのではないでしょうか。ケガ人の中にメダル候補、入賞候補が多くいたわけです。
 ただ、それなりに力を発揮しても入賞に届かないのですから、全体としては力負けということになります。まだ、50kmWと4×100 mR、マラソンと男子の入賞候補種目が控えていますけれど。

 今日はチケット入手ができず、夜の部はホテル自室でテレビ観戦。日本選手の出場が男子4×100 mRだけだったからというので、それほど気合いを入れなかったというのもありますけど。4×100 mRの予選突破は確実でしたし。
 アメリカ、イギリス、ナイジェリアといった有力チームがバトンミスなどで落選。日本の出場した1組は1位・トリニダードトバゴ、2位・日本、3位・オランダと島国や小国(面積の小さいという意味)ばかり。2組の1位も島国のジャマイカ。7月14日の日記に書いた説に沿った結果になりました。
 それほどプッシュしたい説ではありませんし、ソフト的な要素の方が大きいに決まっているのですが、多少の傾向はあるのかな、という気もしています。そういえば、ライバルのO村ライターからも以下のようなメールが来ていました。

 国土の大きさに傾向を見るのは、「あると思います」。
 大国は選手層は厚いけどモチベーションが低かったり、小国はモチベーションは高くても選手が揃わなかったり……がありそうですね。
 ただ、世界10傑からだと、「コンスタント」かどうかの傾向が見えてこないので、入賞やメダルの数を調べると、寺田さんの仮説に近い傾向が見えてくるかもしれません。
 たとえば、日本のすごさは、
「00年シドニー五輪から世界大会6連続入賞中」
 にあると思うわけです。

 別の視点になってしまいますけど、世界大会でコンスタントに成績を残せる要素は
@選手層、Aモチベーション、最後はB運 かなあ? などと思ったりしています。
 トップ選手のだれもが、継続的に、リレーへ高いモチベーションを維持している国は、そんなに多くない気がします。加えて、コンスタントに穴がないメンバーを組めている(選手層)のが、最近ではUSA、日本、ポーランドくらい?

 大阪は、傾向が変わったのかなと気になる結果でした。
 フランスやトリニダードトバコは選手が揃わなかったのか? ジャマイカはリレーでほとんど活躍していない国だったのに、大阪のバトンは悪くなかった。練習したのかな? リレーへの意識が前向きに変わっているとしたら、引き続き脅威ですね。
 逆にアメリカとジャマイカがそろってメダルを取るのは「珍事」なので、2度は続かないと捉えれば、日本のメダルも……
「なんだかいけそうな気がする〜〜〜!!」


 このメールをもらったのは、7月末の日記でリレーの“小国頑張ってる”説を出した直後のこと。アメリカとジャマイカが揃ってメダルを取ることはないと、今日の事態を予測しているような内容です。ということは、日本のメダルも期待して良さそうです。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)11日目★★
◆2008年8月22日(金)
 午前中の50kmWは本当に、ところどころしか放送してくれません。一応、“leader”とか“chase group”とか表示は出るので、たまに映ったその選手がどのあたりの順位を歩いているのか少しはわかるのですが、不便なことこの上ないです。
 そんな状態ですから、山崎勇喜選手が入賞圏内にいたことはわかっていましたが、具体的に何位でフィニッシュしたのか、なかなかわかりませんでした。国際陸連のWEBサイトでは3位までの着順とタイムが出て、その下に順位もタイムも表示されない名前が列記されていましたが、その一番上(3位の選手の次)がずっと山崎選手の名前になっていたのです。
 数分か、10数分してやっと順位が出ました。7位入賞。日本の競歩史上初の五輪入賞です。今季の記録では山崎選手もかなり良かったのですが、本番になると自己ベスト、シーズンベストを出してくる選手も多かったようです。女子20kmWもそうでした。これは、今回の北京が涼しかったからかもしれませんが。一般種目は大会前のシーズンベストがそれなりの予想基準になりますが、出場回数が制限されるロード種目はちょっと勝手が違います。
 ですが、今回は(も?)番狂わせが多いですね。男女のフィールド種目は、寺田の予想がほとんど外れています。なぜでしょう?

 15:00からジャパンハウスで、2日後に迫った男子マラソンの記者会見。その様子はこちらに再現しました。清水康次監督のコメントを聞く限り、大崎悟史選手の練習が思ったように進まなかったことが想像できます。
 中国電力勢では尾方剛選手が「完全な準備ができないと通用しない」ということを話していて、裏を返せば今回は完全な準備ができた、のだと思います。
 今日は会見記事よりも、近年の男子4×100 mRの成績を表にすることを優先しました。メダルを取るにせよ取らないにせよ、この流れを理解しておくと、いっそう興味深く見ることができると思ったからです。
 19:00には鳥の巣競技場に。M社K氏からの指示もあり、入場の際に両手で肩の高さに羽根をつくる格好をして「ぴよぴよ」と声を出して入場しました。切符切りの学生補助員の前でやったのですが、まったくウケません。ちょっと後ろに女の子の補助員がいたので再度トライしたのですが、まったく反応なし。4×100 mRのメダル獲得に不吉な予感がしましたが、中国の学生はユーモアのセンスがないのだと自分を納得させました。

 日本の女子4×400 mRがついにオリンピックに登場しました。オーダーは久保倉里美選手、丹野麻美選手、木田真有選手、青木沙弥佳選手。いつもと違って1走に久保倉選手を置き、前半から離され過ぎないようにしようというオーダーです。レース展開は省きますが、記録は3分30秒52。惜しくも日本記録更新と、3分30秒突破はなりませんでした。
 苦戦したのがラップの計測。今日はホームストレート中央付近の1階席後方。一番いいポジションなのですが、9レーンの日本の1・2走のパスを真後ろから見ることになります。それも、双眼鏡を覗きながらなので、かなり視界が揺れます。それほど違ってはいないと思いますが、参考にとどめるということで紹介することにします。
1走・久保倉:53秒23(?)
2走・丹野:51秒84(?)
3走・木田:52秒84
4走・青木:52秒61

 1/100秒単位ですがもちろん手動計時です。寺田のストップウォッチのフィニッシュタイムは、クレメント選手に続いてドンピシャ(写真)。ライバルのO村ライターにまたも差をつけてしいました。
 男子の4×400 mRは、大型スクリーンに出た日本チームの2走に為末大選手の名前があってビックリ。代わって、金丸祐三選手の名前がありません。400 mのときに7月末のケガがあったと記事になっていましたから、その影響でしょう。しかし、いくら百戦錬磨の為末選手とはいえ、戦力ダウンは否定できません。もしかすると、陸マガ8月号で記事にした“特殊な能力”がここで発揮されたら、と期待もしましたが、そうは上手くいきません。3分4秒台という悪いタイムで予選を突破できませんでした。
 女子と同じ理由でラップタイムは正確ではありませんが、寺田の計測では3走の堀籠佳宏選手が、4走の成迫健児選手よりも若干速かったです。それにしても、安孫子充裕選手の前半の飛ばし方はすごいですね。この型(スタイル)で成長したら、面白い存在になりそうです。

 その後は女子5000m、女子4×100 mR、十種競技の1500mと続いていきます。十種競技のクレイ選手が9種目めのやり投終了時点で8269点(写真★=北京五輪の写真はしばらくリンクを切っておきます。チケット観戦者は載せていいのですが、寺田の場合パスなしでも記者という立場もあるので自粛することに。五輪期間終了後は掲載できます)。9000点に迫るんじゃないかと期待していましたが、極端に弱かったんですね1500mが。勉強不足でした。
 この頃になるとそわそわしてきていたというか、自分の気持ちが高まってきているのがわかりました。ミスをしないで走れば(これが難しいのですが)メダルの可能性は7〜8割と思っていました。歴史的なときを、この目で見られるかもしれないのです。
 最初に入場してきたのは1走の8人でした(たぶん)。塚原直貴選手が笑顔で場内に手を振りながら歩いていきます(写真★)。
 気がつけば2・3・4走の選手も各コーナーに姿を現していました。距離的に一番近いこともあり、ついつい4走の朝原宣治選手に目が行ってしまいます。リレーの選手が最初にすることは、トラックにマークを張ることです。朝原選手が足長を計っています(写真★)。失礼この上ないのですが「足長を間違えるなよ」とか思っていました。間違えるはずがないのですが、隣の選手にマークを蹴られて狂っていた、という話もないわけではないので(ちょっとごまかそうとしているような…)。

 具体的なレースの内容は改めて書きません。1走の塚原選手が良い飛び出しを見せ、勢いが付いた感じがしました。2走の末續慎吾選手が走り終わって、行けるんじゃないかと思いました。3走の高平選手がボルト選手に抜かれたと思いますが、レース後に高平慎士選手自身も言っていたようですが、見る方も眼中にありませんでした。4走の朝原選手が“減速しないで”バトンを受け取ったとように見えたので、メダルを確信しました。でも、最後は後ろから見るアングルだったので、順位がわからず「え、えっ、えっっ」という感じで見ていました。
 寺田が順位を確認するより早く、選手たちが喜び始めてメダル獲得を知りました。近くの席にいらした関係者の方と握手をして、その後は4人のウイニングランを見に前の方に移動(この日の最終種目だったので)。かなり近い位置にいたので(写真★)、選手たちに声を掛けようかとも思いましたが、感動して声が出ませんでした。
 今回の快挙については、どのメディアもしっかりとスペースを割いて報じているので、その価値について寺田が補足することはありません。むしろ、トラック種目で人見絹枝さん以来80年ぶりのメダルという点は忘れていました。為末大選手と末續選手の世界選手権でのメダルがあったからでしょう。寺田の中では、世界選手権のメダルとオリンピックのメダルは、それほど大きな違いはないのです。

 では、何に感動したかといえば、自分でもよくわからないのですが、強いて言えばここまでの過程でしょうか。不動のアンカー朝原選手の思いは、言葉では書き尽くせないでしょう。朝原選手の世界大会のリレーはアトランタ五輪の失敗から始まっています(表参照)。でも、当時は走幅跳がメイン種目でした。リレーの練習も、ドイツ留学中だったこともあり、それほどやっていなかったと井上悟さんから聞きました。96年時点で100 mがメイン種目で、バトンパス練習もきっちりやっていて失敗をしていたら、アトランタ五輪をどう受け止めたでしょうか。
 2000年以降は表のように、日本の4×100 mRが安定して力を発揮できる時代に入りました。そこに朝原選手が果たした役割は大きかったのは明らかですが、昨年の現役続行決定時など、4×100 mRが朝原選手に影響を及ぼしたこともあったはずです。選手個人の歴史はどう転ぶかわかりません。だから面白いのです。
 もちろん、リレーは朝原選手1人だけでは走れません。末續慎吾選手も最初のシニア代表だったシドニー五輪で、終盤は脚を痙攣させながら走りきりました。今はもう現役ではありませんが、伊東浩司監督、土江寛裕監督なども、日本の4×100 mRの伝統を築いてきた選手たちです。
 為末大選手がスタンドで泣いていた、という記事を読みました。伊東監督の顔を見た朝原選手と末續選手が泣き出した、と読売新聞に伊東監督が書いていました。今季から土江監督の理論が選手たちのモチベーションをアップさせていると聞いていますが、銅メダルを知った土江監督がどうしたという記事は見ません。でも、間違いなく泣いたと思います。断言できます。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)12日目★★
◆2008年8月23日(土)
 4:45と北京滞在中で最も早い時間に起床。5:20にホテルを出発し、タクシーを拾ってIBC(テレビ局用のプレスセンター)に。タクシーを拾うことができるのかわかりませんでしたが、昨晩、ホテルのフロントに頼んでもラチがあかず、これは賭けでした。
 エリアはIBC内だけに限定されますが、デイパスを3日間は発行してもらうことができるので、それを使うタイミングを見計らっていました。そのタイミングは日本選手がメダルを取った翌日(午前中に行われる種目なら当日)。選手が各局の番組に出演しますから、運が良ければその合間に接触することができます。
 6:30からTBSのスタジオで、番組に出演していた4×100 mRメンバーに接触することに成功。といっても、すぐに次の局に移動しないといけないので、ほんの一瞬です。それでも4人を、きっちりと祝福することはできました。
 せっかくIBCに入れたので、カフェでしっかりした食事をすることに。パンやサラダ、ソーセージなど種類が豊富にあります。安くはありませんが、ニューオータニのように目の飛び出るような金額でもありませんし。早朝ということで席は10%も埋まっていなかったので、その機を逃さずパソコンを取り出して原稿を書きました。

 午後はメダリスト会見がジャパンハウスで行われます。ニューオータニ近くのホテルに行くメディア用のシャトルバスがあると聞いたので、それを探しました。ところが、これが大失敗。地図でニューオータニ近くのそのホテルを示してボランティア補助員に確認し、バスに乗る際には運転手にも確認したのに、同じホテルが北京市内に2つあって、別のホテルに行ってしまいました。
 北京2日目の日記に書いた地下鉄と一緒で外国では、間違っていることを認識するまでに時間がかかります。さらに、そこから移動するのにタクシーで40分近くかかりました。踏んだり蹴ったりですが、まあ、外国取材ではよくあること。北京のタクシー代はそれほど高くないので、気持ちの整理をつけました。ただ、時間が1時間以上無駄になったことの方が痛かったです。
 14時からジャパンハウスで4×100 mRのメダル会見。充実の内容で、ちょっとした対談記事に匹敵する内容になりそうだと感じました(こちらに記事)。共同会見でここまで質問が出続けたのも珍しく、トラック種目80年ぶりのメダル獲得への関心の高さがわかります。

 寺田も1つ質問しました。足長に関する部分です。共同会見以外にチャンスがあれば、そのときに聞こうと思っていたネタでした。一般メディアでは扱いにくい要素なので。夜もIBCで各局を梯子出演すると聞きましたが、合間に共同スペースで待機するのでなく、すぐに次の局に移動するパターンだと今朝わかりました。ここしかチャンスがなかったのです。
 しかし、マニアックな質問だけに他の記者たちからヒンシュクを買う可能性もありました。野次られる可能性もある。隣席のI記者に、「野次が出そうな雰囲気になったら、その機先を制して野次ってほしい」と頼んでおきました。これは、昨年の福岡国際マラソンの2日前会見(Ha記者とHo記者)を参考にしました。
 自分が知りたいネタだったこともありますが、足長の決定にチーム状態が表れていれば、陸上競技の面白さを世間一般にわかってもらえるのではないかと考えました。注目を集めている今回は好機なのです。土江コーチの理論の部分が、それほど的確に伝わらなかったようなので、バトンパスについてもう1つくらい話題にしてもいいかな、という判断も働きました。とにかく、陸上競技ならではの話題を提供すべきだと思いました。自分がヒンシュクを買う、買わないは二の次だと蛮勇を奮い起こした次第です。
 案ずるより何とやらで、それほど非難がましい雰囲気にはならなかったと思いますし、日頃から寺田の話を“マニアックだ”と言ってくれている末續選手が「待ってました」と最初に言ってくれたことにも助けられました。

 会見後はジャパンハウスの特設ステージ(?)に場所を移して、一般の方たちの前でトークを繰り広げました。内容は全然違って軟らかい話題に終始しましたが、それが面白いのなんの。司会の女性の方が話を振っていくのですが、1人1人が自分のことだけを答えるのでなく、前の人の話題を引き継いだり膨らませたり、あるいは突っ込みを入れたり。掛け合い漫才と言ってもいいくらいでした。
 先ほど共同会見が充実していたと書きましたが、これは、4人とも“話せる選手”だったことも、そうなった要因だと思います。4人が自分の演じるキャラを理解していて、相手のキャラを生かす方法も知らず知らずのうち身につけている感じでした。それもチームワークの1つなのかもしれません。
 その会場はテレビを見る場所でもあり、何人かメダリストのインタビューも聞いていましたが、一番盛り上がったと思います。

 幸いなことに今日もチケットが入手でき、夜は鳥の巣に。昨日に続いて「ぴよぴよ」と言って(もちろん小鳥の仕草付き)入場しましたが、今日もまったく受けませんでした。
 これも幸運なことにATFSの千田さんとも接触することに成功。何の用事かは企業秘密ですが、その待ち時間の間に4×100 mRのメダルセレモニーが始まるかもしれませんでした。昨日座ったAエリアの1階で待ち合わせをしました。1階席の後方が表彰を撮影するベストポジションなのですが、今日のチケットではそこまで行くことはできません。
 しかし、ここであきらめる寺田ではありません。テンションが上がっているときは何でもやります……多少のことはやります。中国人の補助員に「メダルセレモニーの間だけでいいから入れてよ。シートには絶対に座らないから。日本のメダルはこれだけなんだよ」と熱弁を奮い、入れてもらうことに成功しました。
 それでも、目の前にテレビ・カメラがいたり、立ち上がる観客がいたりで楽ではありませんでしたが、何とか撮影に成功。写真をあとで見比べてみましたが、やっぱり、この表彰台に上がるとき(写真1枚目2枚目)の4人の表情が一番良いかな、と思っています。

 今日はトラック&フィールドの最終日。男子4×400 mRはアメリカのラップを計っていたら、1走が44秒21(手動)とめちゃ速い。誰かと思ったら400 m金メダルのメリットでした。道理で、大差をつけるわけです。
1走:44秒21
2走:43秒89
3走:44秒20
4走:43秒13=ウォリナー

 寺田の時計は2分55秒43でしたが実際は2分55秒39(オリンピック・レコード)。終わりよければ…とはなりませんでした。
 終わりといえば、男子4×400 mRが最終種目となるのが常識です。オリンピックも世界選手権もそうですし(たしかアジア大会も)、インターハイもインカレもそう。しかし今日は、女子走高跳の進行が遅れて最終種目になりました。番狂わせが多かった今大会を象徴するように、ヴラシッッチ(クロアチア)がエルボー(ベルギー)に敗れました。女子フィールド&混成の優勝者予想は、2種目(棒高跳のイシンバエワと砲丸投のヴィリ)しか的中しませんでした。男子のフィールド&混成も、走幅跳のサラディノと十種競技のクレイの2種目だけ。
 当てるためにやっているわけではありません。今回のように番狂わせが多かった、とわかるようにやっているのです。が、ちょっとひどすぎます。

 オリンピックのスタジアムに足を運ぶのは、人生で今日が最後になるかもしれません。“次”はない可能性の方が高い気がしています。だからといって、感傷的になって足を止めるのもどうかと思い、そそくさと鳥の巣をあとにしました。「ぴよぴよ」と心の中でつぶやきながら、巣立っていこうかな、と。
 スタンドのゲートで補助員の学生が帰る観客を見送ってくれていましたがが、この写真のお兄ちゃんが音楽に合わせて体を踊らせながらハイタッチをしてくれました。中国も変わりつつあるのかもしれません。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)13日目★★
◆2008年8月24日(日)
 今日は男子マラソンのみ。大崎悟史選手の欠場は昨晩、IBCで聞きました(この辺の情報入手は、パスなしだとどうしても遅くなります)。実は昨日の昼間、ニューオータニで清水康次監督をお見かけしたので、声を掛けようかどうしようか迷ったのです。一昨日の会見時の「100%仕上がったと言えればいいのですが、まだ明日もあります。何があるかはわかりません。スタートラインに立つまでは、良い状態で立てるように頑張っていきたい。」という同監督のコメントから、不安要素があるとわかりました。
 会見後に控え室に移動する大崎選手と、少し話ができました。ノートにメモもしない雑談モードでしたが、
寺田 腹は据わっている?
大崎選手 そうですね。思ったほど緊張していませんね。もう少しするかと思っていましたが。
寺田 練習、びわ湖のときよりは良いよね?(びわ湖前の練習をかなり詳しく取材したことがあったので)
大崎選手 いつも、上手くいきませんからね。
寺田 アジア大会のときも直前にあったよね。
大崎選手 あのときもひどかったですね。

 ざっとですが、こんな感じの会話でした。
 大崎選手は、練習が思い通りに進まなくても、それを不安に感じずに力を出せる数少ない選手。もう1つ言うなら、真面目だけど練習の変更ができる選手。それが、安定した力を発揮できる要因の1つです。今から考えると相当に悪かったのでしょうけど、このときはなんとかするのではないかと思っていました。そうして、ここまで来た選手でしたから。
 それにしても、男女マラソンで3選手が欠場または途中棄権という結果になりました。“こうすれば故障を避けられる”という方法があるわけはないのですが、取材をしないといけない部分でしょう。

 男子マラソンのレースはホテルのテレビで観戦。沿道に出て少しだけ見る、という愚は犯しません。指導者はやファンとは、立場が違います。
 ワンジル選手が5kmを14分52秒というハイペースで飛ばします。思わず、窓を開けて外の気温を確認しました。30℃はありません。でも、22〜23℃ということもない。14分台で飛ばして良いコンディションではないはずです。
 尾方剛選手は集団の後方で12秒差。佐藤敦之選手が普通に仕上げていればついていたかもしれませんが、それほど良くないと聞いていました。次の5kmは14分34秒。これを聞いて、“よし”っと思いました。いくらなんでも、そこまで上げたらオーバーペースだろうと思ったのです。
 しかし、後で取材したコニカミノルタ酒井勝充監督にその話をすると、集団だったので行くだろうと思ったといいます。大塚製薬・河野匡監督は実際にトップ集団の走りを見て、楽そうに走っていたから行ってしまうだろうと感じたといいます。この辺は、直接走りを見ることのメリットで、指導者が沿道に出る最大の理由でしょう。

 2時間06分32秒がオリンピックで出ると、誰が考えたでしょうか。マラソン関係者は次のロンドンではもう、スピードマラソンの時代が来ると予測していたと言います。だからこそ、北京五輪はメダルの最後のチャンスになるかもしれない、と。
 4×100 mRが00年以降の世界選手権とオリンピックで、必ず入賞してきました。その流れを維持することで、今回メダルに挑むチャンスが巡ってきました。男子マラソンも01年以降は毎回入賞してきました。ヘルシンキでは尾方選手が銅メダルも取っています。そういう意味では、今回がメダルに結実しても良かったはずです。
 これはもう、どうしようもありません。ワンジル・ショックと命名したいと思います。今後の五輪マラソンはどうなるのでしょうか。今回のワンジル選手の走りを見て、毎回、ハイペースになるという意見が多いようですが。でも、昨年の大阪世界選手権のようなコンディションだったら、それは絶対に無理です。スローペースになる大会も絶対にあるはずです。
 ただ、それは蓋を開けてみないとわからないわけで、日本選手がメダルを取れるかどうかは、天候次第になるわけです。それが、オリンピック何大会に1回あるのか。

 午後はニューオータニのジャパンハウスに。酒井勝充監督に、陸マガの長距離企画ページ用に取材をさせていただきました。
 その後は天安門に。メダルを取ったら選手のテレビ出演があるのでIBCに行く予定でしたが、今日は仕方なく観光に変更。郷に入っては郷に従え。マクドナルドで買ったハンバーガーとコーンを、歩道の縁石に腰掛けて食べました。
 天安門から故宮に入ろうとしましたが、16:00で閉まっていました。
 ホテルが故宮の北側なので、ぐるっと一回りして帰りました。


★★北京日記(北京五輪四苦八苦観戦記)14日目★★
◆2008年8月25日(月)
 10:30にホテルを出て空港に。フロントでタクシーを呼んでもらおうとしたら、「そこの道でつかまえらるじゃないか」という対応。五輪期間の後半は流しのタクシーが少なくなっていたのでかなり心配でしたが、話しても埒があかないと思って指示に従いました。2週間滞在したホテルを後にしましたが、“名残惜しいな”という感情はわいてきませんでした。普通は「もうちょっといたいな」と思うのですけど。
 タクシーは案の定、空車がなかなか通りません。やばいかな、と思い始めましたが、5分くらいで空車を呼び止めることができました。空港が目的地だとわかってもらうのに3分かかり、ターミナル3に行きたいということは、最後まで理解してもらえませんでした。北京空港はターミナル間が相当に距離がありますから間違いたくないところ。しかし、この運ちゃんにわかってもらうのは無理と判断。時間的には余裕があるので別のターミナルに着いたら、その時点で対処しようと腹をくくりました。
 実際は、高速道路で標識を見つけて手振り身振りで説明して事なきを得ました。まあ、遠回りをしたり、言い値で料金を取るタクシーよりはましかもしれません。

 フライトは13:30発の中華航空(ANAとの共同運行便でした)。実は22日くらいに急きょ、帰国を1日早めることになりました。明日の解団式を取材することになったのです。チケットはJALで日程変更不可のもの。インターネットで片道航空券が取れないかを調べて、御茶ノ水にある中国の旅行会社で6万円のものを予約しました。すぐに電話がかかってきて、こちらがすでに北京にいることを伝えると、銀行口座に振り込みが確認でき次第、Eチケットを送信してくれると言います。
 送られてきたEチケットがかなり簡素なもので、中国語では色々と書かれているのですが、英語表記がメチャクチャに少ないのです。来るときのJALもEチケットでしたが、全然違います。正直、詐欺にひっかかったかな、という不安もありましたが、大丈夫でした。問題なくチェックイン。スーツケースも28kgと制限重量を少しオーバーしていましたが、追徴料金を取られることはありませんでした。

 と、ここまでは順調でしたが、何が起きるかわからないのが海外取材。乗り込んでから、何分経っても離陸しません。やがてアナウンスがあって、荷物搬入の機械が故障して、離陸が2時間以上も遅れました。
 実は朝、電話で段取りをして、今日の夜に取材をする予定が急きょ入っていました。取材相手(の窓口担当者)も別の便で日本に移動中です。連絡の取りようがありません。成田に20時頃、2時間後れで到着しました。その時間が都心の某ホテルで約束していた時間なので、すぐに電話を入れて平謝り。こういうときは、飛行機が遅れたせいにするのはよくありません(説明はしますが)。相手にとっては関係ありませんから、約束を違えたことを謝り続けます。
 なんとか、明日に変更してもらいました。

 帰国をして北京五輪取材を総括するのが普通ですが、総括するほど取材はしていません。とにかく、こちらの思惑とは裏目に出ることばかり。ホテルの汚さに始まって、ジャパンハウスで日本のテレビ中継が見られるわけではなかったこと、予定した取材ができなくなったこと、帰国日を変更することになったこと等々。
 収穫も、特にこれというのはなかったように思います。しいて言えば、すでに書きましたが、オリンピックを見に来ている観客の多くが陸上競技を見たいから来ているわけではない、ということです。これは、一般観客と同じスタンドから見たからわかったこと。記者席にいたらわからなかったと思います。
 選手の多くはあの巨大スタジアムで、あの大観衆のなかで競技ができて良かったと話すと思います。それは、グラウンドに立った人間の意見・感想です。スタンドにいる側の意見は「この人たち何? 本当に陸上競技を見に来ているの?」です。テレビでは競技場全体が盛り上がっているように映し出されたと思います。それは間違いではありませんが、観客の多くはオリンピックという場にいる自分に酔っているのです。まあ、見方を変えれば、陸上競技の普及には最適の場といえるわけです(これも書きましたよね)。

 収穫は、中国についての知識が増えたことです。
 寺田はこれまで、漢民族=漢人種だと思っていました。思っていましたが、ちょっと違うんじゃないか、という疑問も持っていました。
 劉翔選手とか、朱建華選手(走高跳2m39・84年)とか、長身で手脚が長いのが漢人種で、日本人などモンゴル・朝鮮系の人種よりも欧米人に近い骨格なのでは、と。だから、長距離種目は日本、韓国、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の方が強いだろうと。
 でも、かつての馬軍団のように、長距離に強い地域もあります。馬軍団は遼寧省のチームでしたから、地理的にもモンゴル・朝鮮系なのかな、とか考えていました。身体的な特徴での分類が、かなり多くできるのではないかと感じていたのです。
 今回、実際に北京に行って中国の人たちに接し、それとともに中国関係の書物なども読み、漢民族は単一人種ではないということがわかりました。
 北京滞在中に読んだのはこの2冊です。
異色中国短篇傑作大全 (講談社文庫)
宮城谷 昌光 (著), 井上 祐美子 (著), 新宮 正春 (著), 田中 芳樹 (著), 安西 篤子 (著)
『中国文明の歴史』 岡田英弘(著)

 特に『中国文明の歴史』の中国人の定義は、面白く読むことができました。ちょっと紹介すると次のような感じです。
 中国文明の黎明期、一番最初に自分たちを「華夏」、周辺の民族を東夷・北荻・西戎・南蛮と称した。人種的(身体的)な違いもあったが、そうした周辺民族も都市に住んだり漢字文化圏に入ってきたり、皇帝の支配システムに入ってきた場合は、中国人と見なされるようになった。
 春秋戦国時代の国のいくつかは、そうした周辺民族が人口の何割かを占めていて、秦の始皇帝が中国を統一した際には、かつての東夷・北荻・西戎・南蛮も中国人と見なされていた(秦は元々戎の一派であるという説もある)。
 しかし、後漢の崩壊時(三国志の時代)に戦乱や病気の流行で、それまでの漢民族の人口が激減し、匈奴、鮮卑ら北の民族が大量に移住してきて中国人に同化した(北族)。隋や唐は鮮卑人の建てた王朝である。
 さらに、モンゴル族の元、満州族の清の頃は、新北族と呼ばれる民族が中原に進出し、漢民族に同化している。


 つまり、同じ黄色人種ではあるものの、漢人種というのは雑多な人種が集まって形成された集団なのです。特に北京は、それ以前の漢民族と、新しく中国に流入した民族が接する都市でした。北京で見た人々は多数民族と少数民族という感じではなく、いくつかの集団に分類されるように感じたのです。ちなみに、現在の少数民族はこちらにデータが載っています。

 異色中国短篇傑作大全は“読み物(ストーリーもの)”ですが、春秋時代の斉には色んな人種がいたということが書かれています。また、斉は現在の山東半島で、対岸の朝鮮半島とも交流が活発だったようです。山東省も長距離が強いですよね……と因果関係があると決めつけるのもよくありませんが。
 とにかく、中国には身体的な特徴が違う人間が多くいるわけで、そういう国はスポーツも強くなるのが道理です。日本も、いくつかの人種が混血して今の日本人になっていると言われていますが、そこは島国です。大陸国家の中国の方が断然多そうです。
 話がかなり陸上競技から逸れて(発展して)展開しましたね。為末選手みたい。


◆2008年8月26日(火)
 10時過ぎにグランドプリンスホテル高輪に。東京の朝の空気は、思ったよりも暑くなかった。海外から帰って翌朝の取材はおそらく初体験だ。しかし、頭の切り換えが大変だった、ということはなかった。北京では結局、日本人社会に身を置いていたからだろう。ジャパンハウス、ニューオータニ、日本人同士の電話連絡。ヨーロッパを1人で移動して取材をするのとは全く違った。そもそも、取材らしい取材はしていなかったし、疲れもなかった。時差も1時間とこれまでで最も小さい。帰国してからが勝負と、北京滞在の中盤で覚悟を決めていた。
 ホテルではJOCの解団式が行われていたが、解団式自体を取材するわけではなかった。解団式後に数人の選手に個別取材をするのが目的。実際、解団式というものが、スポーツ取材の範疇に入るのだろうか? どのメディアもそこに来る選手でお目当ての対象がいるから来ているだけだろう。
 寺田は途中で会場からは抜け出して、取材の下準備を始めた。知らなかったことだが、会場から一度退出したら、再入場はできないことになっていた。どうでもいい話だが。
 解団式後の短い時間で、3人の選手に個別取材。高橋編集長が2人の話を聞いてくれた。陸マガから与えられたテーマは、本来なら五輪後2〜3カ月経ってから取材する類のものだった。10月号の発売日が大会終了後数週間たっていることもあり、陸マガは大会報道記事というよりも、分析とか反省の要素を色濃くした記事を載せようとしているのだ。
 しかし、取材をするタイミングは五輪終了直後である。選手もまだ、自分の中で整理し切れていないことも多い。寺田の感覚ではこの手の取材は無理が多いと思うのだが、読者の立場を優先させるのが高橋編集長。「そこをなんとか」と押し切られてしまった。まあ、編集部の考えもわからないわけではないので。
 で、取材の出来はというと、3人中2人は成績が合格点の選手で、オリンピックを振り返ってもらう部分も、今後の話の部分も“通常”に近い感じで取材ができた。しかし、もう1人はやはり、難しい部分は難しかったという成果。失敗とは言い切れないし、その選手1人でなく数人をまとめて紹介する企画なので、なんとかなりそうな感じもあるのだが。

 取材終了後はいったん新宿の作業部屋に戻って仕事をして、夜になって再び品川に。御殿山ガーデン ホテルラフォーレ東京というところで、富士通の帰朝報告会を取材するためです(いつもの文体に戻します)。
 寺田が到着したときにはちょうど、五輪帰りの4選手が挨拶をするところ(写真)。4×100 mRの2選手は首相官邸に挨拶に行っているため、少し遅れての到着になります。真打ちは後から登場ということですが、4人の挨拶がなかなかしっかりしていて、聴衆をしっかりと引きつけていました。
 日本代表クラスの選手はこの手の挨拶をする機会が多いからなのでしょうが、そのくらいできないと、代表選手は務まらないのかも。代表選手というか、多くの人から支援してもらって初めて成立するのが実業団選手。感謝の気持ちを持っていない選手、それを伝えられない選手は続けられないのかもしれません。
 質問コーナーもあって楽しめました。そこで発見したのが堀籠佳宏選手のトーク上手ぶり。北京で良かったことと悪かったことは? という質問に対し
「良かったことは選手村のマクドナルドが食べ放題だったこと。悪かったのは、マスコットキャラが5体いましたが、中からおじさんが出てきたのを見てしまったこと」
 と、つぼを押さえた答えをしていました。中国語を何か覚えましたか? という質問には
「“ニーハオ”に“マ”をつけると、ご機嫌いかがですか、お元気ですかという意味になります。(中略)現地の言葉を使うと現地の人は喜んでくれます。かなりの交流ができました。“愛している”は“ウォーアイニー(?)”ですが、反応がありませんでした。この点は反省してリベンジしたいです」
 ユーモアがあるというか、社会性があるというか。北京での気迫あふれる走りもそうでしたが、堀籠選手を見直す夜になりました。

 4×100 mRメンバーの2人は20時頃に登場。「高平ぁー、脚長いぞっ!」と声を掛けようかと思ったのですが、「視線、こっちにもおねがいしまーす」にしました(写真)。2人には社長賞が贈られていました(写真)。金一封ということです。
 社内行事ということで本来、あまり時間もないのですが、囲み取材の場も設定されていて助かりました。記者は4×100 mRコンビに集中しますから、寺田はチャンスとばかり醍醐直幸選手のところに。10分くらいですが、独占取材をさせてもらうことができました。午前中と同じで、ちょっと難しいテーマでの取材です。一筋縄ではいかないな、と感じながら話をしていましたが、醍醐選手が1つ、手応えのあるネタを話してくれました。
 せっかくの機会なので、銅メダルに触らせてもらいました。写真もアップで。メダルはあくまでも形であって、彼らの取り組みにこそ意味がある。とわかってはいても、こうして近くで見て、触ると嬉しいですね。これがメダルの威力か。
 最後には、今日の最大の目的である土江寛裕監督の写真を撮影できました。今さら紹介するまでもないと思いますが、4年前のアテネ五輪4位のときに1走だった人物で、当時は富士通の選手でした。レース後のインタビューで号泣していた姿は、日本中を感動させた…かどうかはわかりませんが、寺田はグッと来ました。パリ(2003年世界選手権)の涙は目の前で見ていましたし。末續選手抜きで決勝に進出したときに、「自分が疫病神だった」と、人目もはばからずに涙していたのが、昨日のことのように思い出されます。
 アテネ五輪で3走だった高平選手は当時、順大の2年生。昨年、土江監督と入れ替わりで富士通に入社し、土江氏に替わって1走に定着した塚原選手は、今年富士通に入社。2つの銅メダルを首にかける資格は十分あります。
 22日の日記で、銅メダル獲得シーンを見て土江監督は絶対に泣いているはず、と断定しましたが、「自宅の****で見ていましたけど、泣いていませんよ。うらやましいという気持ちが大きかった」と言います。感極まった声で北京に電話をしてきた、という証言もあるのですが。


◆2008年8月27日(水)
 終日、自宅にいました。さすがに、少しは休んでおかないと。仕事もしましたけど。

 新聞のオリンピック記事やら、テレビの特集番組(総集編?)を見て過ごしました。今日感じたのは、寺田が北京でちんたらしている間に、陸上記者の方たちは相当な量の記事を書いていたことです。そういえば、男子マラソンの2日前会見のときだったと思いますが、ジャパンハウスで某記者から「どうですか?」と聞かれて「張り合いがないよ」と答えました。ラインを引く仕草をしながら「こっち側とそちら側では、まったく違うんだから」と。
 すると某記者は「こっちも大変ですよ。見られない種目もたくさんありますから」と言います。確かに、そうだったかもしれません。昨年の世界選手権も夜の部の競技時間が遅かったですけど、北京五輪もアメリカのテレビ局の都合か、かなり遅い時間に行われていました。日本とは1時間の時差ですから、夜の10時の競技は日本の11時。締め切りはかなりきつかったと思います。
 救いは、他の競技で日本選手の好成績があれば、陸上競技のスペースが小さくなること。それが世界選手権との違いですが、そういうケースが予想される日は、陸上競技を担当する記者の数も減らされるんですよね。

 まあ、そんな記者事情はどうでもよくて、オリンピックの感動を新たにした日だったということが重要です。


◆2008年8月28日(木)
 今日は電話取材を多数こなしました。大塚製薬・河野匡監督には北京五輪マラソン/男子長距離統括コーチの立場として、ワコール・永山忠幸監督には女子長距離コーチの立場として。陸マガ10月号でチームJAPANの総括的な記事と、マラソンも含めた長距離種目の記事があるのですが、そのための取材です。
 今回の日本チームの特徴として、故障者の多さが挙げられます。特にマラソンは野口みずき選手と大崎悟史選手がスタートラインに立てず、土佐礼子選手も途中棄権。長距離以外でも、内藤真人選手と金丸祐三選手は明らかに、直前のケガの影響が大きく出ていましたし、為末大選手と成迫健児選手も影響はあったように感じられました。
 その辺をどうとらえていったらいいか。避けては通れない話題でした。今回はマラソンが一番影響が出てしまったので、嫌な役目というのは重々承知していましたが、河野監督に話をお願いしました。チームJAPAN記事に使用します。
 永山監督への電話取材で、福士加代子選手も少しケガの影響があったことが判明。「ケガを避ける方法は、正直ないですよね?」という問いかけを、ついついしてしまいました。真っ向から答えがあるとは思っていませんでしたが、これが、ありました。その内容は陸マガ次号で。

 河野監督にはもう1つ、男子マラソンの“ワンジル・ショック”についても話していただきました。夏のマラソンの高速化の話題です。これも答えづらい内容だったと思いますが、丁寧に答えてくれました(さすがに、当事者の坂口泰監督に聞くのは控えました)。ロンドンで予想されていたことが、4年早く生じてしまったという見解です。
 意外だったのは、北京とロンドンの話をしているなかで、シドニー五輪の話題が出てきたことです。河野監督が指導した犬伏孝行選手のことです。記事に厚みを持たせられると思うので、これも記事中で紹介すると思います。

 先日も書いたように、大会直後には話しにくいテーマが多いのが、10月号の一連の取材です。高橋編集長と夜、緊急の対策会議……というほどのものでもないですね。単なる四方山話をしただけのような。
 夜には赤羽周平コーチにも電話。これは取材というよりも、その準備段階の電話でした。ブログにはっきりと書けない部分もお聞きすることができましたが、その話は赤羽選手が活躍するときまで温めておくつもりです。1つだけ情報が。マラソンの世界選手権選考レースには、出場する意向だそうです。


◆2008年9月4日(木)
 今日は地下鉄を乗り継いで半蔵門駅へ。寺田の記憶が正しければ、この駅を使うのは、過去10年以上はなかったと思います。ということはどうでもよくて、目的はFM東京というラジオ局で為末大選手を取材するためです。
 同選手が部長(番組のホスト役)を務めている「週末ランニング部」という番組で、北京五輪から帰国後初めて、公式の場でオリンピックを振り返ると知らされていました。為末選手がホスト役の番組ですが、今回は内容からして、ホストでは話しにくい。ということで、同番組“監督”の前園真聖さんがホスト役で、為末選手はゲストという形になりました(こちらのサイトを見ると、前園さんがホスト役をすることが多いようです)。
 ビックリしたのは、2人のトークが1時間半近くにも及ぶロングトークだったこと。3回分を一度に収録したようです(別に隠すことじゃありませんよね)。番組の看板パーソナリティが、最大目標の大会を終えたのですから、当然といえば当然かも。3回分ということで陸上競技や400 mHを始めた頃から話がスタートしました。クライマックスというか、一番長く話したのはもちろん北京五輪ですが。

 1996年から取材をし続けてきた選手ですから(編集作業には93年の全日中から携わっていました)、初めて聞くエピもありますが、知っているネタが多いわけです。ただ、同じネタでも説明する言葉が違えば、理解度が違ってきます。北京五輪に関しては、そこまでの練習過程など、結果が出て初めて評価できますから、そういうところは新鮮な内容でした。
 日本選手権後にヒザなどに痛みがあった時点で「ここから先はちゃんとトレーニングをする時期は作れないと判断した」という話は、南部記念のときの取材でわかっていたことです。しかし、「行けるときは、これは行けるかな、という“藁”みたいなものがつかめるのですが、今回はそれもなかった。痛いポジションに入れられなくて、ずらすしかないのですが、そうするとちゃんとした力が出ない」というところは、レースが終わって初めて話せることでしょう。
 ただ、最後まで一縷の望みは持ち続けていたようです。この記事で紹介した“特殊な能力”が発揮されることを自身で期待していた。「ちょっと厳しいな」という気持ちと、「スイッチが入って切りかわるのではないか」という気持ちが交互にもたげてきたようです。

 収録後のカコミ取材では、引退を決断する時期や、それを判断するのにどういう考え方をするのか、という話題に。
「(結論は)それほど伸ばすわけにはいきません。みんなのシーズンが終わるまでには決めないといけないでしょう。(判断までの考え方として)自分は選手とコーチの、2つの役をこなしてきました。選手としての情熱は消えていません。日々、高まってきている感じすらします。その一方で、コーチの目で自分を見たとき、ヒザなどは使いものにならない。その折り合いをどうつけるか、なんです」
 このコメントからだと、引退の可能性が強いように思われます。しかし、次のようにも言っています。
「1つわかったのは、燃え尽きてゼロになる類のものではないということ。求道に近いかんじでしょうか。ゴールがあると思ってやるのではなく、走ることに関わっていくといくと思う。簡単に言うと、自分の体でやっていくのか、他人の体でやっていくのか」
 他人の体で、という部分は指導者になるという意味にもとれますが、従来の指導者とは違って、アジアから人材を発掘するなど、プロデューサー的な指導をしていくこともイメージしているようです。

 その後、陸マガ10月号用の個別取材をさせてもらいました。北京五輪の(というよりも五輪後を見据えた)400 mHのページと、チームJAPAN企画用に、為末選手の考え方を聞きたかったのです。場合によっては、選手として取材をするのは最後になるかもしれない。それに、取材に入る直前に気づきました。12年間にも及ぶ同選手への取材が最後になる。
 気づきましたが、極力、それは意識しないようにしました。取材をする上では、そういった意識は邪魔になると考えたからですが、本音をいえば、「これが最後」という気持ちで人と接するのが苦手なのです。この後二度と会えない、とかいうシチュエーションは嫌ですね。
 ですから、必要な話を聞いて、パパッと切り上げました。いつもと同じように。


◆2008年9月6日(土)
 陸マガの北京五輪関係記事を書き終えました。締め切りを守れたかどうか、という議論は脇に置きまして(2段階めの設定は守りました)。最後は長距離企画の200行でしたが、これは比較的スムーズに書けました。長距離関係者がしっかりと取材に答えてくれたというか、問題提起をしてくれました。締めは書き手があれこれこねくり回さずとも、関係者の意見を列挙するだけで、記事としては良い終わり方になったのです。
 時間がかかったのがチームJAPAN企画(総括原稿)の300行。これは、本当に大変でした。まず、原稿を書き始める直前に、男子ハンマー投のベラルーシ2選手のドーピング違反が発覚。室伏広治選手の銅メダルが濃厚になったのです。
 アテネ五輪でも室伏選手は、アヌシュ(ハンガリー)の検査拒否で繰り上げという形の金メダルでした。このときは、マラソン以外の金メダルは戦後初、投てき種目は史上初という快挙で、我々の注意はそちらに行って、「やったぞ」、という気持ちが強かったと思います。その点今回は、室伏選手の銅メダルは嬉しいものの、「なんなんだよ」という気持ちの方が大きかった。これは、新聞記事に出ている関係者のコメントを見ても、陸上界、あるいは世間全体の受け止め方だったと思われます。

 まあ、そういった感想は置いておきまして、違ってくるのは日本選手団の評価の部分です。「メダル1、入賞2」だったものが、「メダル2、入賞1」になるのです。そのメダル2個も、マラソン以外の「メダル2」という点が評価できます。これまで、日本が複数メダルを取ってきたのは、マラソンで2個(バルセロナ五輪)か、マラソンと一般種目で2個(アテネ五輪)というケース。一般種目の2個は、戦前のベルリン大会(1936年)が最後です。当時の参加国の数、選手層などを考えたら、今回の2個がどれだけすごいことか。
 ということで、チームJAPANの原稿が“惨敗”という書き出しができなくなりました。元から、書き出しは“惨敗”でも、高橋編集長の用意したデータで、全体としてはそうでもないですよ、でも、こんな問題点がありますよ、という展開になる予定でした。
 でも、元々、原稿の一番のアピールポイントは“こんな問題点がありますよ”の方でしたから、そちらに影響があったわけではありません。具体的にいえば“8位以内が3”だったことこそ、今の日本の最大の問題点です。つまり、伝統的な得点源である長距離・マラソン種目で入賞できず、期待された男子400 mHと末續世代も同じく入賞できなかった。その問題点を書くのにめちゃくちゃ時間がかかりました。
 実は末續世代、長距離企画、400 mH企画と独立したページの原稿も書いています。そこでは、個々の事情を書いていて、そこから問題点を抽出する形でチームJAPAN記事で日本チーム全体の問題点として指摘しています。

 記事が面白いかどうかは、読者の判断に委ねることになりますが、何はともあれ、一仕事終えた感じでホッとしています。現地取材はほとんどできませんでしたが、今できることはやったというか。といっても、次の大きな仕事の締め切りも迫っています。


◆2008年9月11日(木)
 充実した1日でした。
 まずは9:30に汐留に。今年、よく行きますね、汐留。富士通の選手が頑張っているからでしょう。誰の取材だったのかは明かせませんが、短時間ながら面白い話を聞くことができました。
 そういえば書き忘れていました。先月の富士通帰朝報告会のときに続いて今日も、藤巻理奈さんにお会いしました。東京以外にお住まいの方はわからないかもしれませんが、汐留は新興のビジネス地区。時代の先端を行く企業がこぞってオフィスを構えています(陸上関係では富士通や日本テレビ、共同通信など)……まあ、そういことです。何を言いたいかは、文字にしなくてもいいでしょう。
 取材終了後、選手とI広報(女性)と一緒に地下の書店に。「夏から夏へ」(佐藤多佳子著・集英社)を購入しました。皆さんご存じかと思いますが、男子4×100 mRチームのノンフィクションです。昨年の大阪世界選手権から、北京五輪前までが描かれているようです。そこで取り上げられた選手が一緒にいたからではなくて、是非読んでみたかったからです。資料的な価値もある、という判断もありましたけど。その書店は電子マネーのEdyも使えましたし(ポイントがたまります)。

 寄り道はしないで作業部屋に帰り…はしませんでした。11:30頃まで、汐留のカフェで原稿書き。出先のカフェでパソコンを広げるのはもう、寺田にとってはルーチンワークみたいなもの(と、佐藤敏信監督も認識してくれています)。仕事効率が明らかに上がります。コーヒー代くらいは、AMAZONと楽天のアフィリエイトで稼いでいますから。ということで皆さん、ホテルは左の楽天トラベルのロゴをクリックして予約してください。それが寺田のカフェ代になり、仕事効率が上がり、そうすると、このサイトに書く記事も多くなるはずですから。
 12:30に作業部屋に戻り、14時過ぎに新しいコピー機が届きました。北京五輪前から、前のコピー機の調子がおかしくなっていました。白い斑点が出て、その部分は文字が読めません。選手がケガをしていることを秘匿するように、寺田もこの事実を書きませんでした(一緒にする理由はまったくありませんが)。
 帰国してしばらくしてその症状に我慢ができなくなり(当たり前ですが)、購入した店のサービスマンを呼んだところ、修理をすると10万円近くかかることが判明。買い換える決断をしました。10万円ちょっとで購入した中古機ですが、2年5カ月しかもちませんでした。保守サービス契約をしておけば無償修理となるのですが、まさか2年半で壊れるとは思っていませんでしたから。

 新しいコピー機は17万円。最初のトナー(兼保守契約代)は4万円。この額を個人事業主が出すのは、かなりきついです。でも、コピー機なしでは仕事になりません。こういうとき、組織はいいなあ、といつも思います。でも、これが自分で選択した道ですから、仕方ありません。洗濯も自分でしていますが…と書いてあるのは忘れてください。
 高額の買い物ですから、機種選定にはかなりの時間をかけました。最初は12万円でコピー・FAX・プリンタ機能の中古複合機を購入するつもりでした。以前の機種はコピーとFAXだけでしたから、1つくらい機能を増やさないと面白くないかな、と。プリンタはインクジェット式を使っていますが、このインク代がけっこう高いのです。家庭で使う分にはいいのでしょうが、寺田のように個人事業主が業務で使うと、2〜3カ月に1回はインクを買います。そのインク代が6000円弱。馬鹿になりませんでした。コピー機にプリンタ機能が付けば、絶対にコストパフォーマンスが良くなります。
 9割方それに決めていたのですが、16万円くらいでスキャナー機能がつくものがありました。それはネットワークを介してパソコンにデータを送ります。コピー作業とさして変わらない手間で、紙にコピーをするのでなく、PDFファイルなどデジタルデータ化ができるのです。この機能を上手く使って資料を蓄積すれば、海外取材の際にスーツケースに資料を詰め込まなくて済むようになるかもしれません。そうなれば、オーバーウエイト追徴料金で戦々恐々とすることもなくなります。まあ、そう簡単にはいくとは思いませんけど。
 さらに1万円を出せば、USB接続の機種がありました。パソコンとの接続や諸設定は、USB接続の方が楽に決まっていますし、保守契約がトナー式(トナーが切れるまで、保守契約も続く)というのも、寺田くらいのコピー・プリント枚数なら有利だと判断。色々と考えた結果、17万円のUSB接続の機種にしました。

 15時に電話取材を1本しました。これも何の仕事なのかは明かせませんが、午前中の取材と関連があります。面白い話を聞くことができました。取材中に“この言葉は絶対に使える”、という言葉を、その選手が使ってくれました。取材中にそこまで明瞭に、感じることはそれほど多くありませんし、そうと決められると原稿を書くときは楽になりますね。そういった電話取材でした。

 夜は新宿駅で、陸マガ・高橋編集長から10月号を受け取りました。「締め切りを守ってくださいね」と編集長が言えば、「やっかいな記事ばかり押しつけるなよ」と寺田。本当はちゃんと反省しましたが、10月号は本当に大変でした。以前も書いたと思いますが、数カ月してから出すような記事を、直後に書いたのですから。コメントを中心に紹介すればいい記事を書いてみたいな、と思う今日この頃です。
 10月号の表紙はもちろん、北京五輪の4×100 mRの4選手。だいたい、リレーメンバー4人が写真に収まるときは、1走から順に並んでいるものです。実際、メダルセレモニーの表彰台はその順ですし、空港で撮影した4人の写真も、走順に並んでいます。インターハイなどの写真も、必ずそうなっていると思います。カメラマンも走順に、という注文を付けますし、選手たちもそれが当たり前の感覚になっているのでしょう。
 それが10月号の表紙は、左から塚原選手・末續選手・朝原選手・高平選手の順に並んでいます。さすがに走順を意識してウイニングランをしたりはしませんよね。もしもカメラマンが「走順に並んでください」という注文を付けたらKYでしょう(山本一喜選手のことではありません)。


◆2008年9月12日(金)
 今日も複数の取材をこなしました。
 13:30から岸記念体育会館でスーパー陸上の記者発表。主催者から出場選手の発表があり、その後に朝原宣治選手の会見です。このところ、同選手が公の場に姿を現す機会が多く、どの記者も“通常ネタ”は十分と考えていたのでしょう。会見では質問が続きません。だったら寺田がと、9秒台について質問しました。大阪で行った引退表明会見時に、スーパー陸上で9秒台を狙うと話したと報道されていました。そこを、どのくらいの気持ちの強さで狙うのか、詳しく聞きたかったのです。
「話の流れとして、ファイナリストの目標がかなわなかったというのがあって、9秒台もかないませんでしたね、という質問のされ方だったので、それはチャンスが残っていると言ったんです。条件さえ揃えば4人全員にチャンスはあると。9秒台が出てやめたらカッコ良いな、というのもあります。それほど深い考えはなく言いました」
 解説はしません。読んだ方が判断してください。

 多くの記者は“囲みネタ”に賭けていたようです。フォトセッション後の出足がちょっと遅れましたが、寺田も囲み取材に合流。スーパー陸上前に合宿をすることや、他のリレーメンバーとの最近のやりとりなどが話題に。しかし、一番の話題は北京で朝原選手が放り投げたバトンの行方について。一部報道で朝原選手が他のメンバーからヒンシュクを買った、というものがありましたが、これは誰かが冗談で言ったのだと思います。元から、バトンは持ち帰れるものではありません。
 しかし、メンバーの気持ちを汲んだ関係筋が申し入れをしたところ、北京五輪実行委員会なのか北京市陸協なのか、先方も探してくれたようで、入手できるメドが立っているようです。もしもスーパー陸上に間に合ったら、すごい話題になるのではないでしょうか?
 スーパー陸上に間に合う、間に合わないは別にして、バトンが入手できた場合、最終的に誰の手元に置くことになるのか、ということが話題に。スーパー陸上でトップを取った者が持つという案が出て、いくつかの新聞もそのネタを記事にしていました。記事にはなりませんでしたが、4つに分断して“友情のメダル”ならぬ“友情のバトン”にしたらいいじゃないか、という案を日刊スポーツ・佐々木一郎記者が出していました。
 “友情のメダル”はご存じのように、1936年ベルリン五輪棒高跳2・3位の西田選手と大江選手が、それぞれのメダルを2つに分断し、相手のメダルとつなぎ合わせて持つようにした美談です。佐々木記者は縦に4つに割ったらどうか、と話していましたが、寺田は横に4分割する方が良いと思っています。やっぱり、アンダーハンドですから。バトンを持つ位置が少しずつ上にずれていって、走者によって持つ位置がだいたい決まっているわけです。
 問題は4つに等分すると、実際に持つ位置と微妙に(かなり?)ずれてしまう点ですが…。期間を決めて持ち回りにするのが現実的な方法でしょうか?

 記者会見のあとは、同じ岸記念体育会館内で別の取材。昨日からの一連の取材です。短時間でしたが、ポイントを抑える良い取材だったと思います。

 岸記念体育会館を後にして国立競技場へ。場所的には近くていいのですが、「なぜに日本インカレをやっている真っ最中にスーパー陸上の会見をするのか?」という素朴かつ、腹立たしい疑問が残ります。確かに、会見の間に行われていた種目で、すごい記録が出る可能性は小さかったのですが…。日本インカレは日本学連、スーパー陸上は日本陸連と主催団体が違うのは重々承知していますし、主催者も好きこのんで同じ日にしたのではないと思いますが。
 到着したのは男子1万mWの途中。競歩は途中から見ると先頭がわかりにくいのでつらいですね。長距離の場合はトップと周回遅れでは明らかにスピードが違います。その点、競歩はスピードの差がわかりにくい。通告も、途中から見始めた人間のことを考えて通告してくれるはずもありません。というか、国立競技場の音響は聞きとりづらい。有力選手でアタリをつけるしかありませんでした。
 寺田は今回、女子種目の担当です。いない間にやり投で江島成美選手(中京大3年)が優勝しています。記録も54m39と悪くありません。江島選手は2年前の円盤投チャンピオン。これは、取材が必要でしょう。

 男女の400 mは対照的でした。最初に行われた女子は、北京五輪代表だった青木沙弥佳選手(福島大)が田中千智選手(福岡大)に敗れ、男子は北京五輪代表の金丸祐三選手(法大)と安孫子充裕(筑波大)がワンツー。女子は53秒47の学生歴代4位タイで走った田中選手がよかったと言うべきでしょうか。
 敗れた青木選手は「色々な原因があると思いますが、最近1日1本という試合が続いていたので、朝の4×100 mRから1日3本にしっかり対応できなかったのかもしれません。去年より戦力が落ちたチーム状態で、どうしても勝たなきゃ、勝たなきゃという意識が強すぎたのかもしれません」と、冷静に話してくれました。
 男子は安孫子選手が前半をぶっ飛ばしました。「200 mを20秒7〜8で通過したことがあります。48秒台でしたが」というのは極端にしても、21秒台前半で200 mを通過します。今日はそこまでは出ていませんでしたが、金丸選手をはっきりとリードしていました。しかし、金丸選手が200〜300 mで差を詰め、最後の直線で前に出ました。46秒41の優勝タイムは良くありませんが、故障の多かった今季の流れを考えると、前半をやや抑えた走りでもきっちりと勝った金丸選手は評価できます。

 上手く時間が合ったので、男子400 mで3位の大島勇樹選手(九州情報大)の話を聞くことができました。砲丸投前日本記録保持者の野口安忠氏が監督を務める大学です。話を聞いていると大島選手が、野口監督のことを信頼しきっていることが伝わってきました。専門種目が違いますし、大学レベルですし、メンタル的な指導が合っているのかな、と最初は予測しましたが、純粋に練習メニューや戦術面の部分でも信頼しているようなのです。
「最初の頃は投てきの監督だと思っていましたが、僕らが知らないところで情報を仕入れていらっしゃりました。なんでこの人が、ここまでのメニューを組めるんだ、って。井上さんや田端さんたちに、色々と相談をされていたんです」
 井上悟氏は100 mの元日本記録保持者で、田端健児先生は400 mのオリンピック選手。ともに、野口監督の日大の先輩である。日大ネットワークが九州情報大の躍進を支えたわけです。とはいえ、最後の詰めは、直接指導する野口監督が工夫をしなければいけなかったはず。その辺の取材をする機会があったら、面白い話が聞けるかも。

 この日の最終種目は男子ハンマー投。予選を代々木公園陸上競技場で同じ日に行ったこともあり、18:15の開始。他の種目と重ならないので取材はしやすいのですが、締めきりのある新聞社・通信社は大変そうでした。そこまでするのですから結果が出てほしいところ。遠藤彰選手が期待に応え、67m55の好記録をマークしてくれました。これは、川田先生の持つ関東学生記録を5cm上回ります。ただ、遠藤選手は院生のため、関東学生記録にはならず、関東学生大学院記録となるのだそうです。でも、学生歴代順位は3位とカウントします。歴代順位は主催団体が公認するものではなく、集計する側(陸マガとか)の判断です。
 2位も国武大の横野哲郎選手。国武大のワンツーが過去にあったのかどうかを岩壁先生に聞くと、この2人が初めてだと言います。昨年に続いて。ということで、写真を紹介させていただきます。


ここが最新です
◆2008年9月20日(土)
 某広告代理店の人物と12時から渋谷で会食。広告代理店といっても、某世界選手権を仕切ったD社ではありません。ではありませんが、女性です。約2時間、面白い話を聞かせてもらいました。広告業界の話題はもちろん、セビリア世界選手権を観戦したときの朝原選手の話とか。引退レースを控えて(朝原選手の原稿執筆にも)、参考になりました。

 一度作業部屋に戻ってトイレ掃除とちょっと原稿書きをした後、鴻巣ナイターの取材に向かいました。絹川選手の復帰レースというだけでなく、有力高校生や日清食品の選手も出場すると聞いていましたから。抱えている原稿もそれほど多くないので…というのは関係ありません。
 到着するとM島ディレクター(女性)とM田記者が、いつもの鋭い視線でフィニッシュ地点付近に立っています。エドモントン世界選手権以来、国際大会では必ず目にするコンビです。ローカル大会取材の気分はぶっ飛びました。埼玉陸協の報道対応も本格的。報道受付をすると記者ビブを渡され、控え室まで案内してもらいました。絹川選手のレース後のインタビュー位置まで決まっていました。

 女子3000mのスタート位置に歩いていくと途中、佐久長聖高の両角速先生が専門誌ライターたちと話をされています。近くには高見澤勝先生の姿も。握手の手をさしのべて、遅ればせながら北海道マラソン優勝を祝福しました。ただ、本人も言っているように本職は佐久長聖高のコーチ。今日は村澤明伸選手をはじめ、同高の主力もエントリーしています。話したいネタもありましたが、それはまたの機会にすることに。
 そのとき、某専門誌のO村ライターが「今年は見馴れない方が多いですね。僕は(鴻巣に)毎年来ていますけど」と話しかけてきました。寺田の鴻巣取材は2回目。北京五輪でストップウォッチをドンピシャで止めた寺田が、現地に来ていないO村ライターに対し一方的に勝利宣言をしました。その意趣返しであるのは明らかです。この辺は宿命のライバル同士。O村ライターのいきなりの勝利宣言で、取材への緊張感がさらに高まりました。

 3000mのスタート地点に行くと、ミズノ関係者の姿も。絹川選手を指導する渡辺高夫コーチも加わって、北京五輪のワンジル選手の話題になりました(寺田は渡辺コーチの埼玉栄高監督時代のネタに振ろうとしたのですが)。ワンジル選手も仙台育英高OBで渡辺コーチの教え子です。こちらに記事にした絹川選手の復帰過程とも関連する部分もありますが、示唆に富む内容だったので、いつか紹介できればと思います。
 肝心の絹川選手ですが、さすがに緊張の色は隠せません。スタートラインに着いたときはこの表情。しかし、ピストルと同時に飛び出すと、馬目綾選手の欠場したこともあって、あとは無人の野を行くがごとし。スタート地点で撮影とラップ計測をしていたので見ることはできませんでしたが、満面の笑みでフィニッシュしたそうです。
 トラックの外を半周回ってフィニッシュ地点に行くと、すでに囲み取材が始まっていました。やばい、と思いましたが表彰後にもインタビューできると聞いていたので、慌てないですみました。こちらの記事にある「パズルのピース」の話をしていたようですが、絹川選手の絶妙な例え方も健在でした。今年陸上競技担当に復帰し、絹川選手を初めて取材する日刊スポーツ・佐々木記者はビックリしていました。
 絹川選手にはブログへのリンク許可もいただきました。これも、とても10代の選手が書いているとは思えない筆力。負けそうです。
 佐々木記者といえば自社共催のスーパー陸上を3日後に控えています。先ほどO村ライターの勝利宣言で鴻巣ナイター取材に対する緊張感・集中力が高まった寺田ですが、陸上界全体に対する視野も忘れてはいません。昨年のスーパー陸上が強い雨が降って散々な大会になったことを思い出し、てるてる坊主を作っているのか佐々木記者に確認。「任せてください」と同記者。どうやら天気には自信があるようです。

 絹川選手と渡辺コーチの取材が終わると、ちょうど女子5000mの一番強い組がスタートしたところ。加納由理選手(セカンドウィンドAC)が格の違いを見せつけて独走しています(写真。後方は周回遅れの選手)。渡辺コーチは2年生の土田真由美選手(仙台育英高・写真)に注目しろと言います。絹川選手タイプで、ポイント練習を多くこなすことはできなくても、高い能力で走れるタイプだと言います。将来的には日本代表も可能な素材だと(本当はもっと高いレベルを話していました)。
 レース後はM島ディレクターが加納選手を取材していたので便乗させていただきました。続いて佐々木記者も取材をするというので、さらに便乗取材。緊張感が本当にあるのか疑われてしまいますが、記事を絶対にこの媒体に書く、という予定がないときはどうしても控えめになります。
 加納選手が東京国際女子マラソン出場を表明しているので、朝日系列のメディアは取材に積極的なのです。ただ、寺田も最後の東京国際女子マラソンには力を入れようと思っているので、チャンスは逃さずに便乗取材をしているわけです。便乗というと言葉は悪いのですが、情熱あればこその便乗だと解釈してください。

 加納選手の話を聞いている間に、男子5000mの一番強い組がスタート。日清食品勢と村澤選手が出場しているので、目はレースを追いながら、佐々木記者と加納選手が話をするのを横で聞いていました。でも、どちらかに気を奪われてしまうこともあります。徳本一善選手1人がゲディオン選手についていたのですが、ちょっと目を離した間に後退していました。徳本選手だけでなく、合宿明けの日清食品勢は全体に走れていませんでした。
 最後は男子1万m。佐久長聖高勢と仙台育英高・上野渉選手が交替でレースを引っ張り(写真)、最後は上野選手が抜け出しました。上野選手が1万mでもきっちりと走れることを見せたのは、今年から高校駅伝1区に留学生選手を起用できないことを考えると、大収穫だったのでは?
 それよりも、恐るべきは佐久長聖高勢。エースの村澤選手は国体の1万mに出場するため5000mに回りましたが、4選手が29分台でフィニッシュしたのです。これまで鴻巣では5000mに出ることが多かったのですが、日体大競技会などを含めても、同一レースで4人が29分台だったことはなかったと言います。
「昨年、2時間3分台でも駅伝を勝つことができませんでした。その上を目指すとなると、スピードもスタミナも、いっそう必要になってきます。そうすると1万mも走れないといけなくなるわけです」
 と両角速先生。
 特筆すべきは2位になった佐々木寛之選手。頸骨の疲労骨折が判明し、世界クロスカントリー選手権以来、半年ぶりのレース出場だといいます。集団が4人になったときに遅れましたが、6000m過ぎで追いつき、終盤では自ら仕掛ける場面もありました。
 名門校の場合、練習を休んだ選手は、その間に相当量の練習をする同僚選手たちを近くで見ることになります。不安を持つのが当たり前ですが、以前に実績のある選手はプライドなのか、指導者が不安を持たせないような指導をするのか、復活してくることも多く見受けます。西脇工高の福士選手もそうですよね。


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