続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2004年6月 ジュン粋に日本一を
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◆6月1日(火)
 昨晩は久しぶりに自宅で仕事。と言っても、最終電車で帰ってから朝の5時まで。それでも9時半頃には起きましたよ。
 朝食後、携帯電話を見ると8:30に某社マネジャーからの着信履歴。何事だろうと電話をすると、「ベケレが世界新を出しましたよ」というニュース。そうか、昨日はヘンゲロGPの日だ、とすぐに思い当たりました。ヘンゲロGPはゲブルセラシエ選手が世界記録を出したことのある大会。彼の代理人であるヘルメンス氏が運営に関わっていたんだったと思います。今年もてっきり1万mでの更新かと思ったら5000m。さっそく、トップページで紹介させていただきましたが、ISHIRO Flash では“出前持ち”さんが朝の7:30頃にもう、書き込んでらっしゃいました。宵っ張りもたまに得をすることもありますけど、やっぱり、早寝早起きの方が得なのかなあ。
 今日は本来、17時から打ち合わせの予定が入っていたのですが、18:15羽田着の便で土佐礼子選手が昆明から帰国するというので、予定を変更して土佐選手の取材に。マラソン選手の取材って、今後はチャンスがあまりないんですよ。それとは逆に、オリンピックの展望記事でで一番需要があるのが、たぶん女子マラソンでしょう。これまでの蓄積してきたネタで書くしかないのですけど。
 土佐選手を取材するのは名古屋国際女子マラソン以来でしたが、空港で合うと思い出すのは、2年前のロンドン・マラソンですね。出発する土佐選手を取材しようと、成田空港まで行きましたっけ。土佐日記が話題になった頃でした。名古屋国際女子マラソン前に練習日誌を書くのが中断した(走れなくて書くことがなかった)という土佐選手ですが、今はたぶん、書いていると思われます。今日は時間がなくてそこまで確認できませんでしたが、練習は積めているようですから。
 2年前は成田空港取材の後、自分もアエロフロート便でモスクワ経由でロンドンまで行きました。レース翌日に土佐選手を囲んで、朝日新聞の金谷記者や日刊スポーツ前陸上競技担当の佐々木記者、関西テレビ前大阪国際女子マラソン担当の飯田ディレクターらと話をしました。なつかしくもあり、昨日のことのようでもあり。
 ロンドン・マラソンで2つ思い出しました。代理人のヘルメンス氏(元20000m世界最高記録保持者だったと思います。自信なし)って、面識はないのですが、ロンドン・マラソン取材中に何度か見かけたあの人だろうな、というのがわかっています。
 もう1つはクリール7月号にロンドン・マラソンの記事が出ていたこと。タレントの葉月香奈子さんが4時間半を目指して、10週間のトレーニングでロンドン・マラソンに挑戦するという企画。写真を見て懐かしく思いましたし、通過タイムが10km毎しか掲載されていないのを見て、主催者が5km毎を計測しないことを思い出しました。
 2年前はハヌーシ選手が世界最高を出したとき。「5km毎がわからなきゃ話にならんだろ」とプレスルームで思いあぐねていたら、目の前にサンドラ夫人(兼マネジャー)が。「5km毎のタイムはわかりますか」と思い切って質問しましたっけ。当事者でも5km毎のタイムは持っていませんでしたし、「10km毎じゃダメなの」って言われたんだったと思います。日本じゃダメなんですよ、10km毎じゃ……とまでは、言わなかったと思いますが。


◆6月2日(水)
 昨日の日記で、ゲブルセラシエ選手のエージェントのホセ・ヘルメンス氏について、(元20000m世界最高記録保持者だったと思います。自信なし)と書いたところ、出前持ちさんから「20000mと1時間競走で二度(75/76年)、世界記録を出してます」というメールをいただきました。寺田の記憶力も、まんざらでもありません。
 もう1つ、昨日の日記の補足です。クリール7月号では諏訪利成選手のインタビュー記事も面白かったです。高校時代に無名選手だった諏訪選手が東海大の新居監督にスカウトされた経緯や、白水監督との不思議な縁、そして、練習方法の特徴についても明かされています。距離を追う練習方法じゃないということですね。結果的に月に何km走ったという数字は出てきますが、それが目的じゃない。その考え方はこれまでも、何人かの選手・指導者から聞いたことがあります。でも、諏訪選手のオリジナルとも言えるのは、ドカーンと練習をして、それなりに休むという方法でしょうか。これは目新しいと思いました。興味のある方はクリール7月号をご覧ください。
 話は自分の仕事に変わりますけど、おかしいですね。日本選手権の日付毎Previewが2日目まで、今日中に終わるはずだったのですが…。明日は鳥取に移動なんですけど、なんとか最終日分をと思っていました。それが、2日目が1行も書けていません。これでは去年と一緒で、途中で挫折することになるかも。
 それでも、今日は驚異的な集中力を発揮したと思っています(寺田にしては)。朝は6時に起きて仕事(WSTFに泊まり込み)。メールもたくさん書いて、昨晩から書き始めていた大会1日目Previewの原稿を、朝食休憩を挟んで11時には書き上げました。ここでちょっとダウン。そのまま仕事を続けると、夜まで持たなさそうだったので。ところが、1時間くらい仮眠をするつもりが2時間半に。目が覚めてやばい、と思いましたが、期せずして体力を回復したってパターンです。多いですね、これが。
 午後はあちこちに連絡。日本選手権で4日間東京を空けますから、連絡すべきこと、段取りが多いのです。重要な打ち合わせも、電話で2つ。本来なら、直接お会いしてすべき打ち合わせですが、今日はどうしても時間がないということで、電話にさせていただきました。1つは30分、もう1つは45分くらい話していましたね。先方が常識のある方たちで、いずれも電話をかけてくれました。取引先同士の電話や商談中のお茶代など、どちらかがその費用を持たないといけない場合は、会社の規模の大きい方が負担するのが普通です。例えばですけど、寺田にとって500円は年商の1%でも、大きな会社なら年商の0.001%ですから。振り込み代の負担も、そのケースに相当するという話を聞いたことがありますが、気の小さい寺田は、それは実行できていません。
 6月末のゲーツヘッドとザグレブのGPへの取材申請もしました。ちょっと躊躇する部分もありました。交通費が単にヨーロッパまで往復するだけでなく、イギリス国内とロンドン−ザグレブ間の移動もかかること。その後の仕事の兼ね合いで、ザグレブ終了後すぐに帰国しないといけないこと、などがネックでした。せっかく大金をはたいてヨーロッパまで行くのなら、もう少し長めに滞在したいですよね。たった4泊ですよ、今回は。7月2日のローマGL、6日のローザンヌSGPまで残れればいいのですけど。その間にサンモリッツまで足を伸ばして、湖畔をフラッと散歩するのもいいですね。取材じゃありませんよ。さ・ん・ぽ。三歩でもフラットスリーでもありません(ちょっと古いか)。
 でも、どうやら無理そう。ローマの休日はどうしてくれるんだ? 某国王女との出会いは?
 FAXを2つの大会事務局に送信し、昼食にしようかと思ったらもう18時。今日は、本当に集中していましたから、空腹も感じなかったみたいです(ホントか?)。少し散歩してから夕食。ビデオテープを安く買おうとして、ちょっと時間を使いすぎてしまいました。結局、コンビニで買ったんですから、かなり悔しいです。留守中のビデオをセットしていて、何かおかしいと感じていたのですが、最後にビデオの内蔵時計が12時間狂っていることに気づきました。それで前回の録画が朝の8時からの番組が録画されていたんだ。
 20時から明日の出張準備。今回の日本選手権は、専門誌の原稿は全て、出張先で書く覚悟です。だから、それなりに資料を持っていく必要がある。有力選手・種目の記事は、バックナンバーをコピーして持参します。結局、見なかった、使わなかったっていうケースも多いのですが、まあ、気休めですかね。


◆6月3日(木)
 昨晩は最終電車で1時に帰宅。朝の4時まで仕事(日本選手権大会2日目Previewやメール)をしてから就寝。今日も大会2日目Previewを、鳥取に移動しながら書きました。3日目のPreviewを書くのは厳しい状況です。流してぱぱーっと書くという手もありますが、2日目までと同じクオリティでは書けないでしょう。
 ということで、鳥取に移動する途中、日刊スポーツ前陸上競技担当の佐々木一郎記者にばったり出くわしたので、夜は鳥取だけに焼鳥屋で1時間ほど。
 それにしても今日は、電話が多かったですね。日本選手権前日ですから当然と言えば当然かも。社会もそれだけ、五輪選考会への関心が高いということでしょう。しかし、個人的には、日本選手権は純粋に各種目の日本一を決める大会という認識です。形の上でもそうなんですけど……。五輪代表争いが注目されるのは仕方ありませんが、どの種目の選手も同じくらいこの大会に賭けているというスタンスで取材したいもの……といっても、寺田も社会の歯車の1つ。社会のニーズに逆らうことはできません。時間がなくて、上手く書けないのですけど。
 鳥取のホテルでトラブル。到着時間を遅く言ってあったはずなのに、20時到着予定になっていたとかで、キャンセル扱いになっていました。そのホテルは満室。近くの別のホテルに振り替えられてしまいました。窓なしの部屋。窓なしですけど、LANポートはあります。何を隠そう寺田はこれまで、LAN接続ってやったことがありません。取り説も部屋にあるのでトライしましたが、上手くいきませんでした。誰か設定してくれないかなあ。ネットが無料になると、けっこう節約できますからね。
 ホテルの件は詳しく書くと面白い経緯もある話なんですけど、今回はやめておきましょう。


◆6月4日(金)
 日本選手権1日目取材。布勢陸上競技場は4年前の全日本実業団以来です。素晴らしいなあと思ったのは、会場のレイアウト。スタンドの記者席とミックスドゾーン、インタビュー室、執筆作業用のプレスルームの距離が近く、行き来がしやすくなっています。国立競技場、横浜国際競技場、長居陸上競技場の日本三デカ競技場に比べると、本当に楽です。強いて言えば、ミックスドゾーンや会見場で、取材が殺到する選手への配慮が欲しかったですね。為末大選手の予選後とか福士加代子選手は、とても話が聞けませんでした。一部人気選手だけでいいのですが。
 それにしても暑かった。久しぶりに日焼けをしてしまいました。疲れの原因にもなりますから、注意しないといけません。競技内容が熱かったの男子110 mHと女子1万m。今日のこの2種目は名勝負と言っていいでしょう。女子棒高跳も優勝した近藤高代選手と2位の中野真実選手の記録が、もう10cmずつ高かったら名勝負と断言できたのですが。女子100 mHも金沢イボンヌ選手が負けたのは96年か97年以来。今後のこの種目の展開によっては、時代を画すことになるかもしれないレースでした。
 今日は種目数が少な目だったので、記者席を離れて第1コーナーと第2コーナーの中間で男子走高跳を観戦する余裕がありました。すると、千葉雄治選手の跳躍を見に福島大・川本和久監督がいらっしゃいました。ちょうど女子400 m予選の前だったので、「吉田さんは400 mにも出るんですか」と質問。「出ないよ。プログラムに書いてあるじゃない」とのお答え。日本選手権のプログラムは陸連強化委員会の各ブロック幹部が、各種目の見どころを書いています。今朝初めてプログラムを手にしたのですが、そのまま怒濤の取材活動に入ったものですから、目を通すことができませんでした。余裕があるようで、実はなかったんですね。
 余裕がないのはまあ、いつものことです。男子110 mHのレース直後にスタンドで「こんにちは」と若い女性から声をかけられました。見ると杉森美保選手です。ちょうど、田野中輔選手のテレビインタビューが場内にも流れ出したところだったので、杉森選手の横に立ってメモを始めました。それが終わったら、今の調子とか、1分台への感触を聞こうと思いながらメモを取っていたのですが、いざ聞こうとするとなぜか緊張してしまい、言葉が出てきません。記者がそんなことではいけないと思いつつも、やっぱりダメ。寺田の日本記録予想では今大会一番の選手です。期待が大きいだけに、何を聞いたらいいのか、何かを聞いていいのか、戸惑ってしまいます。うーん、若いですね、寺田も。普段は倒すことのないハードルを数台倒した谷川聡選手も、まだ若いなと思いましたけど(本人にも励ます意味で言ってしまいました)。
 そのしばらく後、今大会での代表内定第一号となった福士加代子選手の女子1万mインタビューと、女子棒高跳のインタビューが重なってしまいました。どちらの話を聞くか迷ったのですが、福士選手には30人以上の記者が殺到。声が聞こえる場所がキープできませんでした。必然的に女子棒高跳の方に。
 これは、どちらを重視するとか、しないとかいう話ではありませんので、誤解しないようにしてください。オリンピックイヤーの日本選手権ですから、寺田なんぞのクライアントも複数でして、色々と兼ねて仕事をしています。陸マガの仕事は担当種目を決めてもらって、分担しての取材。今日の担当は3種目。女子1万mと棒高跳はどちらも担当ではないので、自由に取材ができたのです。女子1万mが担当だったら、なんとか取材していたと思います。
 担当種目でもないのに近藤選手に話を聞いていたときは、なぜかポールの握りを確認することに必死で、余裕がまったくありませんでした。プリンス近藤こと読売新聞・近藤記者がいないことに気づいたのは、記者たちの質問が全部終わったとき。やはり読売新聞陸上担当の霜田記者の顔を見つけて「近藤さんは?」と所在を確認。女子1万mの弘山晴美選手を担当されて、近くにはいないとのことでした。
「今日、優勝したら、近藤先輩に会えることが一番の楽しみだったんです」と、近藤選手。知らない人のために解説すると、2人は早大競走部の先輩と後輩です。2月の日中対抗室内の取材中に、このサイトを近藤選手が読んでいるのを知った寺田が「プリンス近藤のファンですか」と質問したら、実は面識がない、こんど紹介しましょう、という話になったのです。水戸国際の表彰後に紹介しようとしたら、寺田も近藤記者も中野真実選手の取材に入ってしまい実現しませんでした。
 今日もニアミスで終わってしまうのかと思っていると、全競技が終わったタイミングで、知り合いの記者の方から寺田の携帯に電話が入りました。近藤選手が待っていてくれているのです。さっそく近藤記者に電話を入れて、2人を合わせたのがこの写真。プリンス近藤とプリンセス近藤です……などというベタなあだ名ではなく、レイククィーン近藤になりました。大津が拠点ですから「湖畔(びわ湖)の女王」(?)という意味です。近藤選手本人に、どちらがいいか選んでもらいました。


◆6月5日(土) AM
 昨晩は21時まで競技場のプレスルームで仕事。その時間となるとシャトルバスもないので、タクシーでホテルに戻らざるを得ません。ホテルは鳥取グリーン・ホテル・モーリス。まさに、陸上競技の関係者のためにあるようなホテルです。広告にモーリス・グリーン選手を起用したら、陸上関係者が鳥取に行ったときは100%泊まるでしょうね。
 21:25にホテルに着き、すぐにコンビニに。どうも、鳥取に宿泊した人間の動線は決まっているというか、端的に言うと出歩ける範囲が狭いようで、20人以上知った方にお会いしました。記者だけで9人、長距離関係の指導者が8人、長距離以外の選手・関係者が4人。ホテルに戻ると元十種競技日本記録保持者の松田克彦・平成国際大監督がエレベーター前にいらっしゃるではないですか。混成競技の1日目の状況を駆け足で、エレベーターに乗っている間に教えていただきました。
 食事を済ませ、22:40から仕事を再開。陸マガの優勝者コメントを書き終えた後、本サイト用の作業に移りました。全種目の簡単な記事(三行記事)と、予想の懺悔の組み合わせに。でも、昨日は決勝が8種目ですからなんとかなりましたが、今日からは種目数も増えますし、当日中の執筆は厳しくなりそうです。それに、0:55からのテレビ中継を見るとレース経過はだいたいわかりますから、この体裁よりも選手のコメントを中心に紹介した方がいいかな、と感じました。全種目の選手コメントを取材するのは不可能なので、一部種目ということになりますが。
 途中でテレビ中継を1時間見たとはいえ、3:10まで一心不乱に作業。我ながら、かなり集中力が持続できたと思います。日本選手権だからでしょうか。でも、このテンションをあと2日、維持するのは厳しいかも。今日明日と、有力選手が続々と登場して相当に忙しくなりそうです。


◆6月6日(日)AM
 日本選手権3日目の朝です。昨晩は21:20まで競技場のプレスルームで仕事。かなり遅くなってしまいましたし、疲れ具合も考慮して、その後の仕事は無理と判断。日本選手権後に仕事をお願いする方に合える手はずになったので、その人に合って食事。アルコールも若干入れて、ホテルに戻ったらすぐに就寝。朝の6時から再び仕事をしています。
 昨日は自分の優勝者予想が外れることが多かったのですが、それだけ、ドラマチックな種目が多かったと思います。予想が外れたという視点だけではありません。女子砲丸投のように、本命の森千夏選手が6回目に逆転優勝したケースもあります。男子1500mは地元選手が大逃げを試み、最後には本命選手と対抗選手の競り合い中で激しい接触もありました。女子100 mは同学年選手が同着優勝、小島初佳選手は連勝を「7」と伸ばしました。畑山茂雄選手も6連勝。男子1万mと女子1500mは、伏兵的選手が勝ちました。大野龍二選手の優勝とジュニア日本記録には本当に驚かされましたね。我々は同じ高卒2年目の三津谷祐選手にばかり注目していましたから(今大会は欠場)。2位の永田宏一郎選手の復活も明るいニュース。佐藤敦之選手との同学年同士の競り合いは、2年前の全日本実業団ハーフマラソン以来(維新ゆかりの地で1年前の学生2強が東西対決 その1 その2)。トラックでは大学4年の日本インカレ以来だそうです。
 三段跳の杉林孝法選手は故障を克服しての優勝で五輪代表を決める跳躍。陸マガの担当種目ではなかったので別の選手をスタンドで取材していましたが、インタビューの最後に少し顔を出すことができました。もしかして、優勝予想者としていなかっので「お見それしました」と表彰に移動する直前に声をかけると、「まだまだです」と言い残して立ち去って行った杉林選手です。為末大選手と高平慎士選手も代表入り。
 全ての選手が“この大会に”と意気込み、ピークを合わせてくるのが日本選手権。そういった選手・関係者の思いとエネルギーが結集する大会では、本当に何が起こるかわかりません。日本選手権特設ページで予想をしていますが、これはあくまで楽しく観戦するための一助となればと思ってやっていること。予想が外れても残念でもなんでもありません。繰り返しますが、オリンピック選考だけが日本選手権の面白さではないと思います。いえ、断言します。
 残念なのは、16時を過ぎると決勝種目が続き、3位選手までのインタビューも立て続けに行われ、全部の種目を見られなくなること。今回のインタビュールームはトラックに面していますし、部屋にはテレビモニターもあるのでかなり助かっていますが、どうしても見逃す種目が出てきます。それを極力なくすために、運営側も配慮してくださると助かります(選手が気持ちよく競技ができることと、観客・視聴者が面白く観戦できることが前提です)。
 昨日の日記で会場レイアウトが取材しやすくなっていることに触れましたが、今回は記者クラブ(陸上競技分科会)から具体的な申し入れをしてあったのだそうです。運営側が当初から考えていた部分もあったのかもしれませんが、ホームストレートのフィニッシュ側の端の手すりを一部分削って、新しく階段を設置したりして、記者の動線を考慮してくれています。来年以降もぜひ、受け継いでいって欲しい部分です。


◆6月6日(日)その2
 競技終了後のプレスルーム。どの記者もパソコンに向かって血眼になっています。寺田も毎日、20:30〜21:00の締め切りがあったので、珍しく真剣な表情でキーボードを指も折れよとばかりに叩いていました。その状況の中で、寺田の横のデスクにいらしたライターの折山淑美さん(男性)が突然、笑い出しました。折山さんはフリーランスの大先輩。やはり複数のクライアントの仕事をされています。スポーツナビの記事(アテネ五輪 陸上04コラム)を書かれていたのかもしれません。いったい何事があったのかというと、これが日本選手権最終日、あるいは日本選手権全体を象徴していたかもしれない出来事です。
 最終日になって日本選手権は大盛況に。杉森美保選手が女子800 mで悲願の1分台こそ逃しましたが日本新。最後の直線を必死の形相でフィニッシュに向かう力走ぶりは、見ている者の胸を熱くさせました。確か今大会用に設置したのだったと思いますが、巨大電光スクリーンが、その力走する表情を映し出します。昨日の女子走幅跳でも、花岡麻帆選手が勝利が決まった6回目に、スタンドに向かって手拍子を求めるときの表情が最高に良かったと、記者たちの間で話題になりました。
 杉森選手に続き、同じ埼玉県(高校)出身である信岡沙希重選手が女子200 mで日本新。彼女は100 mで5位と敗れ、200 mでもB標準に届かず、目標の「個人種目での国際大会出場」がどうなるかわからない状況。元々、笑顔が印象的な選手ですが、インタビュールームでは会心の笑顔というわけではありませんでした。それが、家族の話となると一瞬、パッと明るくなったと思います。信岡選手の実家は山口県で、家族が応援に来ていたのだそうです。特に、父親が来てくれたのは初めてだと言っていました。
 最終種目の男子100 mでも電光スクリーンが威力を発揮。末續慎吾選手がスタート前、モーリス・グリーンを真似て、ふてぶてしい表情でスタート前の集中を行なっていたのです。スタンドからではよくわからない細かい表情も、巨大電光スクリーンとテレビカメラのおかげで、観客は把握することができます。ディレクターの人の画面切り換えも的確でした。複数種目が進行している中で、どの種目・選手を映せばいいか、わかっている方だったのでしょう。
 そして最後は、100 mのフィニッシュを横から撮ったリプレイの土江寛裕選手の表情。10秒21で朝原宣治選手と0.01秒差の3位で、A標準突破とわかって涙するときの表情も良かったのですが、4レーンの土江選手が7レーンの朝原選手を見ながらフィニッシュするときの“どうだーーーーっっっっ”という表情が本当に最高でした。世界選手権のミックスドゾーンでも土江選手は何回か涙を見せています。悔し涙もあったし、嬉し涙もありました。99年の日本選手権では、スタートラインに着く前に、亡くなった父親に黙祷を捧げていました。ストレートに感情を表現するタイプなのでしょうが、きっと、心の底から陸上競技が好きなんだと思います。そして、たぶん、陸上競技に一生懸命に取り組む自分を楽しんでいる。トップ選手のことを寺田なんかが推測して申し訳ないのですが、そんな気がします(違っていたらメールが来るでしょう)。
 そのあとがプレスルームです。ここは記者たちが勝負をしている場です(インタビューや競技観戦時も勝負をしているわけですが)。6月3日の日記で紹介したように、ファミレス論争などで寺田のライバルだった日刊スポーツ前陸上競技担当の佐々木一郎記者も、久しぶりに陸上競技の取材に来ています。その佐々木記者が、真剣な表情でこちらにやって来ました。
佐々木 寺田さん。女子5000mのワゴイの記録がリザルツに載っていませんけど。
寺田 2枚目に載ってるよ、オープン参加だから。リザルツに2枚目があるはず。

 佐々木記者が“そうか”と、いう表情をします。そして、寺田が「二枚目?」と佐々木記者の顔を指さします。“うんうん、さもありなん”とふてぶてしく頷く佐々木記者。それを目撃していた折山さんが、ツボにはまって笑い出したのです。日本選手権を象徴する出来事、と言った理由がおわかりいただけたと思います。


◆6月7日(月)
 昨晩は徹夜も厭わないつもりでしたが、五輪代表選手ランク別予想に予想以上のエネルギーを使ってしまい、早めに就寝し、6時前に起きて仕事を再開。五輪代表選手ランク別予想はやっぱり、色々と考えてしまいました。選手にとっては重大事ですからね。
 しかし、今回作成した表は、単にカテゴリー分けをしただけ。本来、それほど気を使わなくてもいい類のことです。●候補Aは「6月14日に内定するのが有力な選手。陸連関係者や選手のコメントなどから推測」としましたが、これは妥当な線ですし、B標準でこのカテゴリーにした選手は、澤木啓祐強化委員長が全種目終了後に口にした選手。●候補Bは「6月14日に内定するかもしれないが、見送られる可能性もある選手。見送られた場合、追加代表となるのはリストアップした選手とは限らない。また、その種目で代表が選ばれる確証もない。南部記念他の大会に追加される種目から推測」という分類です。
 この候補Bが本当のボーダーライン上の選手。14日の決定で選ばれない選手が何人か出ると思われます。それが誰なのかは予想が難しいところ。候補Bが9人で、内定と候補Aの人数を加えると38人となります。最終人数が38〜40人。リレーや男子110 mHが確実に追加されるますし、今後A標準やそれに準じる記録を出す選手も出てくることを考えると、来週の決定は見送られる種目も多くなりそうな予感もします。
 午前中はホテルのチェックアウト時間を延長し、原稿書き。2本を書き上げて送信し、13時にチェックアウト。特急電車で岡山に向かいました。17:30から坂本直子選手の会見が予定されていたからです。しかし、この時期、締め切りも大量にあります。移動の車中で1本書き上げて、岡山に到着後に送信。その後、食事とちょっと長めの打ち合わせ電話を2件。今晩の宿(ネットの当日予約だと安くなることを、昨年の東北インカレ突然取材時に知りました)を予約して、荷物を置きに行きました。
 会見場は駅前のホテルグランヴィア。報道受け付けに行って、「しまった」と思いました。昨日の日本選手権取材中、名刺の最後の1枚を渡してしまったことを思い出したのです。日本選手権ではかなりの枚数、名刺を使いましたね。オリンピックイヤーの影響でしょうか。それはともかく、ピンチです。フリーって、何回か書いていますけど、信用されないこともありますから。
 弱って周りを見回すと中国新聞の下手(しもて)記者と、TBSの椎野アナがいらっしゃいましたので、助けを求めました。準地元紙の陸上担当記者と、TBSのスポーツ看板アナウンサーですから、心強い人がいてくれたわけです。椎野アナが口添えをしてくれたおかげで、スムーズに受け付けてもらえました。
 17:30から20分間の会見。昨日の日記で選手の表情について触れましたが、坂本直子選手も豊かな表情で有名。今回は、地元の関係者が多数集まるパーティーということで、化粧もして登場。こんな雰囲気でした。
 会見後、パーティー会場の外で、20時締め切りの原稿4本に取りかかりましたが、2本を書き終えたところで、取材できそうな雰囲気にもなり中断。21時過ぎに再び取りかかりましたが、結局、最後の原稿を送ったのは24時近く(1本追加もあった)。最後の原稿を書いている最中に(23時頃)、某テレビのSディレクターから電話が。何事かと思いきや「横浜のあの選手って、何をしているの?」という問い合わせ。日本選手権に出てきませんでしたからね。仕事でなく、飲んでいて急に思いついたとのこと。簡単な問い合わせでしたし、原稿のメドも立ったところでしたから、迷惑ということはありません。椎野さんと同じ局でしたしね。
 原稿が遅くなって編集者の方には迷惑をかけてしまいました。反省しています。


◆6月15日(火)
 4月の頭に千葉県の白井で、池田久美子選手を取材したときのことでした。踏み切り手前4歩の“さばき方”を変更したのが、今年の池田選手の特徴ですが、川本和久先生に「オリンピックイヤーにそれだけ大きな変更をするのは怖くはないですか」と質問。「いいことはすぐに変える。当然でしょう」という意味合いの言葉が返ってきました。
 ということで、寺田もいいと思ったことはすぐに実行に移します。日記の体裁を、川本先生の「おやじの時々日記」を真似て、上から下に読み進める体裁に変更したわけです。数日分をまとめて読んだり、前日分から続けて読むようなケースでは明らかに便利なので、寺田も何度か変更を検討したことがありました。しかし、これだと最新の分が一番下になってしまい、最新分を最初に読みたい人は、いちいちスクロールする必要があります。
 その問題の解決方法が、これだったのです。川本先生の日記を拝見して目から鱗と言いますか、「その手があったか!」と……。いいと思ったことはすぐに変える。当然ですね。
 それにしても、またしても1週間も日記を貯めてしまいました。あまり書くと格好悪いのですが、この1週間、本当に忙しかったです。土曜日から喉に痛みも出て(たぶん、疲れでしょう)、若干、ペースを落とさざるを得ませんでした。ということで、さらに仕事が押せ押せになっています。
 今日は久しぶりに自宅で仕事。原稿書きよりも段取りをしないといけない日でした。昨日の五輪代表発表が、いくつかの仕事で“区切り”になったのです。携帯電話のメモリーを見ると発信17件、着信11件。自宅のNTT回線でも4〜5本、電話をしていますから、なかなかの数。7月末発売のあるオリンピック展望雑誌の陸上競技部分を担当していまして、その段取りに奔走し……ただけでなく、5〜6個の仕事を同時に押し進めているところ。まじで、編集者に戻ったような一日でした。今晩もまだ、台割りを作って、原稿の種類や分量をはっきりさせて、今後のスケジュールを立てないといけません。締め切りではありませんが、原稿もあります。眠っている時間はありません(昼間、3時間くらいは分割睡眠で寝ていますが)。日記を書いている時間もあるのか、とも思いますが、また駆け足でこの1週間をザッと振り返りましょう。


◇6月8日(火)
 岡山から東京に移動。11時のチェックアウトまでに原稿が書き終えられませんでした。陸マガの最後の日本選手権原稿です。残りは、少しの時間があればできそう。締め切りは14時なので大丈夫でしたが、どこから送信するかが問題でした。岡山始発で11時台ののぞみが電源コンセント付きの車両だったので乗車して10〜20分で書き終え、新大阪に停車中にPHSでネットに接続して送信しました。このくらいはまあ、朝飯前ですね。問題というほどのものでもありません。海外だと一転、ものすごく苦労することになるのですけど。
 新宿の作業部屋(WSTF)に戻って、日本選手権前に通販で届いていたデスクを組み立てました。幅150cm、奥行き70cmの、まあまあの大きさです。2時間弱で組み立て終了。これで、必要な家具類はおおよそ、揃ったことになります。あとは、上置き書棚と、隙間書棚を買う予定ですが、これは、将来を見越して収納スペースを多くしておくのが狙い。今すぐ必要というわけではありません。
 続いて、これも日本選手権前に届いていたADSLモデムの設定に移りました。これがなんとも苦闘の連続。マニュアル通りの画面になってくれないのです。1時間半以上もトライ&エラーを繰り返してもダメ。パソコンのネットワーク自体の設定メニューがあることに気づき、それほど期待せずにそちらの設定をやったところ、ADSLの設定もすんなり行きました。でも、何気なくやってしまったので、もう1回やれと言われてできるかどうか。
 でも、ブロードバンドは違いますね。なんといっても、映像を見ることができます。これまでナローバンドではさすがに、2メガとか4メガのサイズの映像を開こうとは思えませんでしたが、これからはそれが可能になります。SPOT(小林史明)や杉林孝法選手、 きょひぃのホームページのサイトにある映像を、早速見させていただきました。川本和久先生の海外遠征のページや、西條さんのページなどにも写真がふんだんに掲載されています。それも、まったく問題なし。快適です。
 そういえば以前、会社がブロードバンドになったと、犬と一緒に撮影した写真を送ってくれた選手がいました。もう大丈夫なので、写真もどんどん送ってください……とはいっても、旅先では従来通りのナローバンド。やはり、大きなサイズのメールを送信するときは、注意をお願いします。

◇6月9日(水)
 昨日、購入したコピー機が届きました。これまで使用していたものは、B4読みとりA4出力で給紙カセットも1段だけ。購入したのは中古ですが、A3サイズまで読みとり・出力ができ、給紙カセットも4段あります。FAXやプリンタ機能は省き、コピー機能だけに絞ったことで、値段を抑えました。
 それにADSL回線の場合、電話・コピー機は1台しかつけられないのです。コストを考えたら、接続できる1台はIP電話にするのが一番お得な方法です。最近はネットが進歩したため、以前ほどFAXも使いませんから、家庭用の電話兼FAXでいいだろうと判断しました(それがIP電話にもなるわけです)。
 詳しく何をしていたか思い出せませんが、とにかく忙しかったはず。たぶん、海外出張の準備というか、色々と調べものをして時間が過ぎていったように記憶しています。

◇6月10日(木)
 原稿を頑張って書きましたが、終わらず、WSTFに泊まり込み。といっても、徹夜ではなくて、ちゃんと寝ています。
 午後、電話取材を1本。

◇6月11日(金)
 前日からの原稿が昼過ぎまでかかりました。
 その後また、海外出張の準備。
 夜からまた、別の原稿に。朝の1時頃には仕上げましたが、途中、本当にダウン(眠ってしまう)寸前でした。眠気覚まし飲料をコンビニで購入。初めて試してみましたが、かなり利きました。
 ADSLの常時接続を利用したIP電話も開通。

◇6月12日(土)
 原稿の修正作業でほぼ終日、費やした感じです。半分は、ダウンしていました。
 WSTFへ運送業者に来てもらい、余ったデスクとコピー機、間違って持ってきてしまった小さなテーブル、これも間違って持ってきてしまった推理小説などを自宅に送りました。これで、WSTFはほぼ、想定した形に整ったわけです。

◇6月13日(日)
 自宅で仕事……のつもりが、ほとんど休養に。

◇6月14日(月)
 2日間、サイトの更新ができなかったので、起きてから2〜3時間はそれに費やしました。WSTF開設の挨拶メールも関係者に送信。
 12:30にWSTFに出勤。掃除をした後に昼食。今日の五輪代表内定選手の取材に使いそうな資料を整え、14:30にWSTFを出発。14:38発のバスで渋谷に向かいました。体協や渋谷に行くのには、わざわざ20分も歩いて新宿駅に出るよりも、徒歩3分の距離のバス停からバスに乗るのが便利な場所なのです。しかし、渋谷区役所までは20分で着きましたが、そこから渋滞でまったく進みません。渋谷駅着は15:06。新宿駅まで歩いて、山手線で行くのとそれほど変わりませんでしたね。
 今回の代表内定者発表記者会見は、4年前までとは趣向を変え、ホテルでの発表(15:30からセルリアンタワー東急ホテル)。会場に足を踏み入れた際には、みんなドリンクを手にしていたりして、パーティー会場かと見間違えるほどでしたね。それは、入ったところだけで、その向こう側は通常の会見場と同じでしたが。
 でも、舞台があって、それほど派手ではありませんが、6人の代表選手が登場する際には、それなりの趣向も凝らされていました。オリンピック代表ともなると、一般マスコミも大きく取り上げますから、この機を利用して陸上競技のイメージアップを図るのはいいことだと思います。
 そのくらい、取材メディアは多かったのが今回。デイリーヨミウリのケネス記者(アメリカ人)が「オリンピックとなると取り上げるマスコミが多いからね。いつもは来ていないワイドショーとか、来ているんじゃない。あなたはいつも来ているけど」と、寺田に向かって言います。「マラソンの五輪代表発表は来なかったよ」と言ってやろうかとも思いましたが、話が長くなりそうだったのでやめました。
 6人の選手のフォトセッション(写真撮影時間)のときには、寺田もカメラマンに混じって写真を撮らせていただきました。撮影スペースはカメラマンが殺到するだけでなく、時間的にもごちゃごちゃする“場”なのですが、読売新聞のMカメラマンが寺田の顔を見ると「レイククィーンはよかったですよ」と言ってきます。どうやら、同僚のプリンス近藤(読売新聞・近藤記者)と近藤高代選手の写真を載せた6月4日の日記を読んでくれたようです。ちょっと緊張がほぐれた一時でした。
 今年は、レマン湖畔(ローザンヌ)に行けるのかなあ。


◆6月16日(水)
 6・1・6か……人生いろいろー、仕事もいろいろー……などと歌っている場合ではありません。
 終日、段取りの連続。メールだけでも楽に20通以上。取材申請書を書いたり、写真を受け取りに行ったり、請求書や経費の明細を書いて発送したり。連絡のつかないクライアントがいて、寺田が細かい部分を予想して判断を下さないといけなかったり。これが大変でしたね。他のライターの方とも打ち合わせ。編集者みたいでした。
 すいません。急を要するメール(仕事以外のメール)以外の返信ができません。WSTF開設のメールをBCCで多くの方に出したので、その返信を多くいただいているのです。B社のTカメラマンは、ユーラシアの西の果て、ポルトガルから“世にも珍しい”写真とともにメールを送ってくれました。
 読売新聞のMカメラマンは、一昨日の日記に反応してくれました。Mカメラマンは実は、陸上界とは相当に関わり深い人物だったのでした。ヒントはミズノの金子宗弘さんと、TBSの坂井ディレクター。詳細を公にするのは、本人の了解が取れたら、ですね。
 どこかで時間を作ってリプライしたいのですが。
 これから原稿です。


◆6月17日(木)
 僭越ではありますが、オリンピック選手への応援の仕方について、一言申し上げたいと思います。特に、選手と近い立場の方たちに対して、です。応援したい気持ちはよくわかりますが、それが選手への負担となることもありますから。
 今日はJISSで五輪代表選手数人に取材をしました。為末大選手はJISSでの諸手続のあと、番組の収録予定が3本入っていると話していました。そのうちの1つは、あのユーミン(松任谷由実)のラジオ番組へのゲスト出演。ユーミンが陸上競技に関心を持っているようです。これは、ちょっといい情報ですね。
 プロである為末選手にとって、この手の広報活動は仕事のうち。それに、これまでの為末選手を見る限り、時間さえあれば、それほど負担にならずにこういった仕事をこなせるタイプのように思います。
 それにしても、何人かの選手やスタッフが話していましたが、オリンピックとなるとやはり、周囲の反応がこれまでとは段違いなのだそうです。日本人はオリンピックが大好きですからね。地元の行政組織や、母校、陸上競技部関係の壮行会や激励会が、数多く続きます。
 確かに、「○○市で何十年ぶりのオリンピック選手」、「○○高校で初の陸上代表選手」とかなると、選手と関わりのある人たちに熱が入るのはわかります。でも、壮行会とか激励会とか、無理に形にしなくても応援の気持ちを示す形はあるんじゃないでしょうか。オリンピック前は何かを手渡すだけにとどめて、選手に参加を求める○○会の類は、オリンピック後に行うというのはどうでしょうか。
 大会後では、その選手が芳しくない成績に終わっていることもあります。でも、そういうときこそ、次の目標に向かう選手を応援すべき時。言葉は悪いですけど、選手がオリンピック代表になったからとにわかに、「私たちは君を応援している」と騒ぎ出すのは、自分の勝手な思いを選手に押しつけているだけです。本当に選手を応援したいのなら、選手のパフォーマンスの妨げとなることは我慢して、逆に選手が苦境に陥っているときに、励ますのがあるべき姿ではないでしょうか。
 確かに、壮行会や激励会を苦に感じない選手もいるし、そういった応援を力に感じる選手もいます。しかし、苦手とするタイプの選手も間違いなくいます。特に追い込んだ練習をしたいときなど、練習スケジュールに影響が出ると「やばいなあ」と感じる選手も少なくないようです。
 そういった選手のタイプを見分けるには、選手に近い位置にいる人間に(チームのスタッフなど)打診すれば、だいたいわかるようです。とにかく、○○会をやろうと思っている方は一度、ちょっと考えてみてください。
 選手の立場になって考えると、五輪後の激励会では成績が悪かったら出席しにくいでしょう。でも、それを嫌がっているようではダメでしょうね。応援してくれる人たちが大勢いるからこそ、選手は練習環境が確保される面もあります。ファンやサポーターの重要さがわかっているなら、多少の居づらさも我慢して、次はこんな思いで出席しなくてもいいようにと、気持ちを新たにする。五輪選手だからと持ち上げられて、本番前に人前でヘラヘラ笑い、五輪後にはサポーターに顔も見せられないなんていう選手は、格好悪いと思います。


◆6月18日(金)
 曜日だからというわけではありませんし、近鉄の合併話が話題になっているからでもありませんが、金哲彦氏が来WSTF。某オリンピック展望雑誌の企画を取材させていただきました。わざわざ佐倉からお越しいただいて、本当に恐縮しています。
 この雑誌は7月下旬の発売ですが、締め切りは7月8日前後。そこで大問題なのが、今季のグランプリの成績が記事に反映しない点です(マラソンは大丈夫なんです)。当初は6月いっぱいに原稿をと言われましたが、なんとかお願いして7月2日のローマGLまでは待ってもらうことにしました。
 といっても、それはデータ部分だけ。本文もそのくらいで、いいにはいいのですが、とても、ローマGL終了後に一気に書こうと思っても不可能な量。今のうちにちょっとずつ、書き進めるしかありません。でも、女子100 mのラロワ(ブルガリア・10秒77)や走幅跳のグルボーン(走幅跳・7m16)ように、無名選手がいつ出てくるかわからないのが陸上競技。そういった選手を無視して、昨年までの実績だけで書けたら楽なんですけどね。たぶん、球技など記録がないチームスポーツは、それができるのでしょう。本番1カ月前の試合結果で、展望記事がガラッと変わるようなことはないんじゃないかと。
 その仕事が気になって、ヨーロッパ取材に行くかどうするか、逡巡するところがあったのですが、昨年の世界選手権での貯金(なんでしょう?)もありますし、なんとかなる(ヨーロッパ出張中でも書ける)と判断。今日、HIS(旅行代理店…ですよね)に行ってきました。
 ところが、飛行機が取れないんですよ。今回は、01・02年のように陸路の移動が難しいため、ヨーロッパ内で飛行機を何回か使わざるを得ません。その他にもヨーロッパ取材決行ためらう理由が1・2あります。後者の部分は結局、行きたい気持ちが勝れば解決する部分なのですが、飛行機の件はどうしようもありません。


◆6月19日(土)
 室伏由佳選手がハンマー投で日本新を出しました。ミズノ関係者から連絡をいただいたのですが、今年はこういうケースが目立ちます。こういうケースというのは、我々記者が取材に行っていない大会での記録更新(ありがたいことに、色んな人から電話がかかってきます)。森千夏選手の女子砲丸投日本人初の18m台に始まって、中野真実選手の4m31、レイククィーン近藤高代選手の4m35。綾真澄選手の66m31は寺田こそ、その場に居合わせましたが、ほとんどの記者が来ていない大会でした。日本新ではありませんが、村上幸史選手の81m71も同じような状況と言っていいでしょう。
 やっぱり、フィールド種目が多いですね。トラック種目の方が比較的、大きな大会の方が記録を更新しやすい傾向があります。テンションが上がった方が、いいみたいですね。もちろん、緊張しすぎたらダメですけど。その点フィールド種目は、大きな大会ほど正確な動きをしにくくなる傾向があります。
 あくまで傾向ですし、個人差が大きい部分ですけど。上記の選手たちは全国大会でもきっちり、力のあるところを示しています。“小さな大会だけ”という選手ではありませんね。
 これまでもそうだったのですが、女子ハンマー投は中京大出身選手が日本歴代1・2位を占めています。それって珍しいような、でも、いくつか例がありそうなので調べてみました。
<男子>
200 m……東海大(末續慎吾・伊東浩司)
走幅跳……日大(森長正樹・寺野伸一)
三段跳……筑波大(山下訓史・杉林孝法)
十種競技……順大(金子宗弘・松田克彦)
<女子>
800 m……東学大(杉森美保・西村美樹)
400 mH……福島大(吉田真希子・久保倉里美)
砲丸投……国士大(森千夏・豊永陽子)
円盤投……中京大(室伏由佳・中西美代子)
ハンマー投……中京大(室伏由佳・綾真澄)

 大学の得意種目の特徴が出ているような気もしますし、選手層の薄さが表れているのかな、という種目もあります。日本選手権で寺野選手が8m20を跳んだとき、寺田は森長正樹選手と立ち話をしていました。2人が揃ったら写真を撮らせてもらおうと頑張ったのですが、これには失敗。若干、頑張りが足りなかったですね。
 ちなみに、女子砲丸投は日本歴代3位が市岡寿実選手で、この種目が唯一、上位3人までを同一大学出身選手が独占しています。
 しかし、同じ高校出身選手が日本歴代1・2位を占めるケースというのは、さすがにありません……と思ったら、1種目ありました。女子三段跳の成田高(花岡麻帆・吉田文代)です。同じ高校ですよ。大学だったら選手が全国から集まりますから、あり得る話ですけど。これは、すごいことでしょう。
 そういえば、昨日WSTF(寺田の新宿の作業部屋)に来ていただいた金哲彦さんと、大東大の只隈監督は八幡大附高(現在の九国大附高)で同学年。ともに大学・実業団と活躍し、引退後も陸上界の発展に尽力している。その2人が同じ高校の同級生というのも、本当にまれなケースです。キャラはかなり違いますが。


◆6月20日(日)
 やっと、ある大作原稿が終了。明日から、モードを切り換えます。というか、切り換えないとヨーロッパに行けません。


◆6月21日(月)
「さらばインカレ。さらば北海道」
 などと書くと誤解を招きそうなので書きたくないのですが、偽らざる心情ですので書いてしまいましょう。
 今日はいきなりですが、苅部俊二コーチの取材に。18日の日記で紹介した金哲彦さんの取材と同じで、ある雑誌のオリンピック展望増刊号の企画です。話が進むときは急転直下。新宿に作業部屋を確保しているのも功を奏しています。オリンピック関係の取材ではありますが、伊藤友広選手の最近の不調に関しても、しっかりと話を聞いておきました。日本インカレが近いですからね。
 この時点ではまだ、土曜日からのヨーロッパ取材の飛行機がどうなるか、完全にメドが立っていませんでした。もちろん、行くつもりではいたのですが、心の中では「行けなかったら日本インカレを2日間(7月2・3日)取材した後、札幌ハーフ(4日)、ホクレンディスタンスチャレンジの最終戦(7日)、そして南部記念(11日)と北海道に居続けよう。それも悪くないかな」、なんて考えていたんですね。
 苅部コーチの取材後にHISと連絡していて、飛行機のメドが立ちました。空路を2つ(ザグレブ→ローマとローマ→ローザンヌ)取りやめて鉄道のユーレイルパス(3カ国セレクト・5日間フレキシータイプ。4万円強)を使用することで、5〜6万円の違いが生じることになったのです。さらに夜、ニューキャッスル(ゲーツヘッド)からプラハへの移動に、Easyjetの席をネット上で予約。通常の航空会社だと5万円前後はかかる路線(ヨーロッパ内の移動はだいたい、このくらいはかかります)ですが、1万円強の金額で行くことができます。チケットを発行しない方式で、若干ダブルブッキングが心配ではありますけど。おかげで、朝原宣治選手の出場するプラハのグランプリも取材可能に。
 脚が確保できたら、次は取材申請とホテルの確保です。ここまで来ると、一気にテンションが上がりますね。末續選手の出るゲーツヘッドとザグレブはすでに取材申請を済ませてありました(ゲーツヘッドは苦労しましたけど)。プラハはサイト上から申請できるシステムで、楽でした。
 ローマはサイトから申請書をダウンロードし、プリント&記入をしてFAX。この辺の英語は、“慣れ”ですね。100%わからなくても、長年やっていればなんとかできます。問題はローザンヌ。大会サイトはあるのですが、申請方法がよくわかりません。プレスチーフの名前とメルアドが載っていますが、Pierre-Andre Pascheという名前には聞き覚え(読み覚え)がありました。2年前と同じ人です。さっそく「2001・2002年にもメールしたよね」という書き出しで、メールを送りました。1〜2時間後に返信。「サイトから申請できるよ。本当は13日がデッドラインだから、すぐに送るべし」という内容。よく見ても取材申請用のページはないのですが、「PRESS」内のメール送信フォームのページがあったので、そこから取材申請の文面を送ってみました。すると、これも1〜2時間でコンファメーションが届きました。話が進むときは急転直下です。
 次はホテル(実際は、取材申請と並行してやっていました)。ゲーツヘッドがどこも満室くさいですね。一応、安めの3つ星ホテルに申し込み。プラハは空きが多かったので明日回しに。空港と競技場の位置を調べてからでもいいと判断しました。ザグレブは安めのホテルがすんなり予約できました。ローマとローザンヌはサイトに、取材申請書とセットでプレスホテルの申込書もあったので、これもプリントアウト&FAX。ローマとローザンヌの間が2日間ほど空きますが、ここの宿は予約はしません。現地で足の向くままに移動し、気に入った街に泊まる。それができるのが、ユーレイルパスのいいところです。ローマから移動しないで、休日を楽しむという手もありますね。ローマ(7月2日)の後は締め切りの時期じゃないかって? まさか、ね…。
 これで、やるべきことはやりました。あとはコンファメーションを待って、ホテルがダメだったら新しいところを再度探します。ローマの取材コンファメーションは、きっと来ません。2年前もそうでした。ゲーツヘッドはテロ対策なのか、かなり神経質になっていましたが、ローマは申請書の控えさえ持っていけば大丈夫でしょう(と、決めつけていいのか)。
 いずれにせよ。昨日までの、どうするか決断をできなかった状況と比べるともう、全然違います。一気にヨーロッパモードです。隠すほどのものでもないので、行動予定表をお見せします。

移動 移動手段 宿泊 ホテル予約 大会 取材申請 出場選手
6月26日 日本→ロンドン→ニューキャッスル 英国航空 ニューキャッスル 一般ホテル予約済み      
6月27日      ニューキャッスル 一般ホテル予約済み ゲーツヘッドSGP コンファメーション着 為末 末續 ラドクリフ
6月28日 ニューキャッスル→プラハ easyjet プラハ 一般ホテル予約済み プラハGPU サイトから申請済み 朝原
6月29日 プラハ→ザグレブ チェコ航空 ザグレブ 一般ホテル予約済み ザグレブGP コンファメーション着 末續
6月30日     ザグレブ 一般ホテル予約済み      
7月1日 ザグレブ→ローマ ユーレイルパス ローマ プレスホテル申し込み済み      
7月2日     ローマ プレスホテル申し込み済み ローマGL コンファメーション着 朝原 為末 岩水 福士
7月3日 ユーレイルパス 未定         
7月4日 ユーレイルパス 未定        
7月5日 ?→ローザンヌ ユーレイルパス ローザンヌ プレスホテル予約済み      
7月6日     ローザンヌ プレスホテル予約済み ローザンヌSGP コンファメーション着 岩水 ベケレ ブヒャー エルゲルージ 朝原 (為末)
7月7日 ローザンヌ→ロンドン→日本 英国航空          
7月8日 日本着            


◆6月22日(火)
 ヨーロッパ出張に行けることになったのはよかったですけど、手放しで喜んではいられません。12日間も日本を空けるのですから、スケジュールの調整が大変です。出発前に個別取材をあと2本、電話取材をあと3本しないといけませんし、そのうちの2本(1本+1本)はまだ日程が決まっていません。
 書かないといけない原稿は、短めの人物もの(インタビューもの?)が5本と、オリンピック展望雑誌用の人物もの1本と、各種目の展望記事が21本。かなりの量です。オリンピック展望雑誌は編集作業も加わります。原稿の何本かはまた、ヨーロッパに持ち込み作業になるでしょう。
 今日は16時までWSTFで仕事や段取りをしていました。考えることが多くて、電話が入ってもすぐに、話題となっている事柄の詳細を思い出せないくらい。編集者としての能力は確実に落ちていますね。
 16:30に新宿のHIS(西口)で航空券バウチャーを購入。続いて、HIS本社(南口の方)でユーレイルパスも。2年前はトーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表も特典で付いていたのに、今回はなし。と思ったのですが、2年前はダイヤモンド社(「地球の歩き方」を発行している会社)で購入していたことを思い出しました。仕方がないので、帰りに紀伊国屋書店で2000円で購入。東急ハンズで旅行用のキャリーバッグ(って言うのでしょうか。伸び縮みする取っ手とキャスターが付いていて、引っ張っていけるタイプのやつ)を購入。ヨドバシカメラのほうが全般に値段は安かったのですが、東急ハンズで気に入ったのがあって、2万1000円で購入。
 そのあたりで陸マガ編集部から連絡があり、某選手の電話取材の許可が降りたとのこと。20時に一度連絡して、21:15からの電話取材となりました(選手に治療の予定が入っていたため)。22時前には終了して、そこから原稿を書ければよかったのですが、ニューキャッスルのホテルがネットから申し込んでも「no room」の連続で、ホテル確保を優先。
 まず、大会本部からのコンファメーションメールにあった、ホテル予約受け付け番号に電話。FAXだったら、あとで書類を送ればいいし、その方が楽だと思っていたのですが、すぐさま女性が電話に出てしまいました。
寺田「あの、陸上競技のゲーツヘッドのグランプリ大会のホテル予約についてなんですけど」
女性「どこから電話されていますか」
寺田「日本です」
女性「選手ですか」
寺田「プレスなんですけど」
女性「ちょっと待ってください」

 30秒以上の間。
女性「選手以外はもう、予約をお取りできません」
寺田「なんとか、ならないですか。仮に僕が選手だと言ったら、どうなりますか」

 実際はこんなにスムーズに会話が進んだのでなく、何度も言い直してもらっていますし、最後の部分の仮定法なんて、相当にいい加減だったと思います。
女性「選手だったら招待という形になって、***********************」
 ここはもう、聞き取れませんでした。さすがに、選手になりすましてタダで泊まるわけには行きませんし、電話に出た相手は業務を委託された会社の人ですからともかく、現地に行ったらすぐにウソがばれること。とても、できません。
 インターネットでNew castl, hotelなどで検索しても、近くて15マイルの距離にしかホテルはありません。「地球の歩き方」を見て2つほど電話もしてみましたが、空室はありません。距離的に遠くても仕方ないかな、と思っていたら、急きょ行くことになった某カメラマンが、近くのホテルを見つけてくれて、ネット上で予約ができました。
 その作業が終わると同時に、ローザンヌのプレス用ホテルからファックスが。前日、こちらから送信した用紙に「OK comfirmed!」のサインが加えられていました。このホテルは、湖畔に立つ湖上ホテル……じゃなくて、古城ホテル。とまではいきませんが、古い大きな館風のホテルです。レイククィーンの異名をとる近藤高代選手もローザンヌに出ればいいのに。と言っても、ローザンヌに女子棒高跳はありませんんね。それに、選手は別の大きなホテルですし。湖畔ですけど
 プレス用のシャトー風ホテルは01年・02年に行ったときも、いいなあと思っていたところ。130スイスフランですから、1万2000〜3000円でしょうか。安くはありませんが、ローザンヌはどこも高いですから、この料金は明らかに大会用の金額。まあまあですね
 次はプラハのホテル。中欧のガイドブックでプラハの地図を見ましたが、競技場の場所がよくわかりません。だったら、空港と市の中心の間にあるホテルでいいかと探したら、3つ星のibis(チェーンホテルです)が6900円であったので予約。たぶん、ネットもできるだろうとの期待も込めています。
 それが終わったのが1時近くだったでしょうか。その後も、ちょっとやることがあって、原稿はこの2日間でまったく書き進んでいません。気持ちとしては眠るのも、食事をするのも時間が惜しいと感じるレベルに。いかに焦らず、気持ちを落ち着かせられるかが、残り3日間の効率を左右します。
 明日は電話取材が1本、夕方から個別取材が1つ。


◆6月23日(水)
 午前中に電話取材が1本。睡眠不足が明らかだったので、1時間半ほど寝て、起きた後はひたすら仕事をして、夕方から日大に。小山裕三監督の取材でしたが、オリンピック代表の村上幸史沢野大地両選手と3人で、スーツ姿でグラウンドに登場してくれました。学長への挨拶などがあったようです。あまりないチャンスでしたから、写真を撮らせていただきました。
 取材も無事に終了。雄弁な小山先生のことですから、記事にする部分の話だけでなく、話題は多方面に渡ります。今日聞かせていただいた話の中で印象に残ったことの1つに、モンテローザの社長さんの話がありました。
 モンテローザは皆さんご存じですよね。居酒屋チェーンの白木屋・笑笑などを経営している会社です(オリジナルはスイスの山の名前で、ローザンヌからも遠くないですよ)。走幅跳の内田玄希選手が入社が決まってから、競技を続けさせてほしいと社長に直訴して認められ、陸上競技部ができました。今年は日大の後輩の田中宏昌選手(十種競技)も入っています。今後、同社からオリンピック選手や日本記録更新者がバンバン出れば、内田選手はリクルートにおける金哲彦氏と同じ役割を果たすことになるわけです。
 そのモンテローザの社長さん小山監督が話をされたときに「成功の秘訣は出会いが7割、運が3割」という意味のことを言っていたそうです。「努力は誰でもできる」とも。小山監督が話をしたことのある別の社長さんは、「出会い9割、運が1割」と言われたとも。2人とも“一代”で財をなした人物。そうなんです。成功した当人は、自分のことを“努力をした”とは言いいません。でも、客観的に見たら、その人が努力をしていないわけはないのです。
 選手もたまに、「運が良かった」と言います。日本選手権でも優勝者の誰かが言っていました。走幅跳の寺野伸一選手だったか、砲丸投の村川洋平選手だったか。すぐには思い出せませんが、それが誰でも、運の良さを生かせるだけの下地をそれまでに作っておかなければ、運が巡ってきても生かせるわけがないのです。
 取材後、WSTFに戻ってメールをチェックすると、ローマGLの事務局から取材申請に対するコンファメーションが届いていました。ローマからは来ないだろう、などと、大変な失礼なことを書いてしまいました。ホテル予約のコンファメーションはまだですが、2日前に紹介した日程表からかなり進展しました。表中のその部分を赤字に変更しておきましょう。プラハからの反応がないのは、どうしてでしょう。チェコっと心配です。


◆6月24日(木)
 海外取材ももう11回目。買い足すものも多くないし、出張準備にそれほど神経を使わなくても大丈夫になっているはずですが、それでもやることは出てきます。今日は自分から仕事を1つ増やしてしまいましたし、帰国後の取材の段取りや、南部記念のホテルや航空券の手配もしないといけませんし。それと、今晩中に自宅用に新しく買ったプリンタをセッティングしないといけません。大して時間はかからないと思うのですが、家族T氏のノートパソコンがちょっとややこしくて…。なんだかんだで、もう夜の10時。今日は昼間少し原稿を書きましたが、オリンピック展望雑誌の記事はこれからです。明日は出発前日。パッキングなどを優先しないといけませんから、今晩、どこまで進められるかが勝負です。
 ところで、昨日、日大で撮らせていただいたこの写真ですが、3人のうち2人が成田高関係者。小山監督も以前は成田高の先生をされていて、その頃に在学していたのが他ならぬ増田明美さんです。高校3年時の1981年(度)に3000mで2回、5000mで2回、1万mで3回、マラソンで1回日本記録を更新しました。以前も書いたかもしれませんが、増田さんの“突出”ぶりは、当時が女子長距離の草創期だったことを考えても、すさまじかったと思います。今で言えば、成田高の後輩の室伏広治選手並みと言えるかもしれません(国内的には)。
 昨日の日記で、成功した人は“出会いと運”が幸いしたとは言っても“自分が努力をした”とは言わない、という話題に触れました。その話の流れで、「彼女の努力は、真似できるレベルのものじゃなかった」と小山監督は話してくれました。しかし増田さんも、自分の現役時代を「私はこんな風に努力したのよ」と、強調して話したことはないんじゃないでしょうか。
 今も解説をされるときは必ず、指導者や選手に膨大な取材をされています。寺田はメモをするときの文字は大きくてノートを多く消費する方ですが、増田さんはさらに大きな文字でノートにメモを取っています。きっと、取材ノートの保管に困っている……かどうかは知りませんけど。はっきり言えば、彼女くらいの競技実績があったら「私はこうした」調の解説でも許されるのですが、それを潔しとせずに、今のトレーニング法や選手の考えを積極的に取材している。頭の回転の速さは、テレビでもおわかりのことと思います。
 その増田さんの近著が「夢を走り続ける女たち」。鳥取の日本選手権でお会いしたときに、「あの中で紹介されている選手や指導者の方のコメントは、取材中ではなくて、雑談中の会話なんかを覚えているのですよね」と質問すると、「うーうん、ちゃんとメモ取ってるよ」とのこと。キャラクターもあると思いますが、ここまで取材として現場の生の声を拾えるのはすごいと思いました。
 講談社から1785円で発売中。買って損はないどころか、現場の声をこの値段で知ることができるのなら、安いと思います。ちなみに、表紙は増田さんがアメリカに留学中に知り合ったダン・シュレンジャー氏で、今はハリー・ポッター・シリーズの日本語版カバー装画を手がけるイラストレーター。82年にニューヨークシティー・マラソン3位。あと少しで、アメリカのオリンピック代表になるほどの実力だったそうです。


◆6月25日(金)
 昨晩、久しぶりに自宅に戻ったら(おいおい)、クリール最新号が届いていました。陸上競技ファン向けとしては、オリンピック代表のシリーズとして油谷繁選手のインタビュー記事と、宗茂旭化成総監督の記事が目に付きました。「箱根駅伝選手のストレッチ」なんていう企画も。時間がなくて目を通せませんでしたが、宗茂総監督の記事の書き出しが面白かったですね。今、手元にないので正確ではありませんが「宗茂総監督の競技成績から紹介したい。そんなのは知っていると言う人もいるだろうし、こちらだってわざわざ書きたくないが、若い読者には宗茂総監督の現役時代を知らない方も多いので……」という感じだったと思います。
 昨日の日記で増田明美さんについて書かせていただきました。宗兄弟と増田さんは10歳ちょっと年齢は離れていますが、活躍された時期は少し重なります。ニュージーランド合宿も一緒に行っていました。日記では増田さんの成田高3年時の日本記録更新回数については触れましたが、それ以外の戦績は紹介しませんでした。その辺も書かないといけなかったんでしょうか。まあ、日記ですからいいでしょう。ここでは「must」はありませんから。
 最近、選手たちがこの、mustという言葉を使うのを、時々耳にします。「mustの練習を排除した」とか「mustの考え方をしなくなった」とか。あるレベルに達したそれなりの年齢の選手で、若い頃と違ったトレーニングへの取り組み方をする場合に、よく使うように思います。あとは、メンタル的な部分ですね。
 なんでこんな話を出すのかというと、寺田も今日、mustの仕事の仕方をやめようと決意したからです。決意したというか、その心境になれたという方が正しいかも。その変化の直接のきっかけは、ここ数日の焦りがピークに達したことですね。
 自分でいうのもなんですが、寺田はこれからしなければいけない仕事を瞬時に、10や20はイメージできます。編集者時代に“段取りと雑用が編集者の身上”と思って仕事に取り組んでいたからでしょう。原稿を書くのは最後でいい、という考え方。企画の立案、取材準備や入稿から印刷・製本までの流れを整えるのが編集者の使命ですから、この考えが悪かったとは思いません。ですが、ライターになった今は、本当に若干ではありますが、微妙な変化が求められているのかな、という気がしてきました。
 というのは、ここ数日、原稿がほとんど進んでいないから。今日も40行を1本書いただけ。何をやっているのかというと、明日からのヨーロッパ取材の準備(調べものや資料用意を含みます)が中心ですが、帰国後の段取りや、その他諸々の雑用です。原稿を書かないといけないと思いつつも、どうしても“段取りと雑用”に神経が行ってしまうというか、そちらを先にやらないといけない、という強迫観念にとらわれて集中できない。
 昨日は南部記念のホテルと飛行機を安く予約するために、1時間も使ってしまいました。それで2000円の節約になったとしても、この忙しい最中に1時間を費やすことが、コストパフォーマンス的にいいことなのかどうか。昨日の日記に、自宅に帰ってからの原稿の進み具合が勝負と書きましたが、結局、ヨーロッパ出張の準備に気持ちが行ってしまいますし、出張期間中の留守録の予約をすると、ハードディスクに録画してある昔の番組の整理をやり始めてしまう。それをやらないと録画できないという理由もありますが、必要以上にやってしまうわけです。挙げ句の果てに、エアコンのリモコンがないと気になって(暑くて風がなかったんです)、30分以上も探し続けてしまう始末。
 書いていて、仕事のやり方というよりも単に、「俺って馬鹿?」という気がしてきました。
 まあ、いいです。とにもかくにも、そういった経緯でmustな考え方はやめました。これまでも、「なんでこんないい加減な人が、社会を生き抜いてこられるのだろう」と思うことが何回もありました。自分だったらもっと細かい部分まで配慮するのに、と。それが違ったんですね。必要最低限のことだけやっておけば、あとは適当でも社会は渡っていける。そこまで極端でないけど、俗に言うところの“慌てず、どっしりと構えていられる人”も多くいます。逆に寺田のようにmustな考え方で仕事をしていると疲れてしまい、いずれは気持ちの面で破綻してしまうのでしょう。
 これまでも頭ではわかっていた部分ですが、肌で理解ができていませんでした。それがやっと、実感できたわけです。ここ数日、どうしようもなく自分を忙しくしてしまい、原稿をろくに書けない、という事態に陥って。どんなに焦っても、体は1つしかないですし、厳密には同時に2つのことができるわけではありません。多くのことを同時にやっているように見える人も、頭を短時間で切り換えているだけでしょう(もちろん、仕事の能力も高く、短時間で作業ができる)。
 考え方を変えてまだ1日とたっていませんが、mustな考え方をやめたことで、かなり気持ちが楽になりました(本当ですよ)。ある意味、開き直り。ということで、仕事ぶりが多少、変わっていくはずです。帰国後でいいことは、あとにしちゃえー、っていう感じです。


◆6月26日(土)
 成田空港です。昨日でmustな考えをやめた寺田ですが、でも、結局は2時間睡眠。まだまだですね。まあ、重要な請求書を起こさないといけなかったし…。
 昨日、出発したISHIRO記者はドトールで国内最後のサイト更新をしたとか。ダメですね、ドトールでは。やっぱりスタバ(スターバックス)でしょう。ISHIROといえばイチローに似ているのが売りなわけですし、イチローと言えばシアトル。シアトルはスタバ発祥の地ですから。
 代わりに寺田がスタバで…と思いましたが、スタバは下の方のフロアなんですよ。それに、スカイライナーでも原稿を書いていたので、パソコンを充電しないといけないので、コンセントのある壁際のベンチで入力しています。しかし、このISHIRO記者ネタはちょっと、代わり映えがしません。
 だったら成田空港で何か探しましょう。実は昨日までしきりに、日大・小山先生や増田明美さんら成田高OBの話題を出したのは、今日、成田に来るので……っていう、成田高ネタも以前に書いた気がします。
 と思っていたら、1人の老婆が寺田の前を通りかかり、いったん足を止めました。そして歩き出して思いもがけない一言を捨てぜりふのように言って歩き去っていきました。
「ここは遊ぶところじゃないんだよ。遊ぶところじゃ」
 空港で原稿を書くようになって、こんなことを言われたのは初めて。面白いヨーロッパ出張になりそうな予感がしてきました。


ユーロ取材2004 1日目
◆6月26日(土)その2
 ゲーツヘッドのホテルに着きました。とっても眠いです。ヨーロッパに着いてこんなに睡魔に襲われるのは初めてですね。だいたい、仮に前の晩がほとんど眠っていなくても、ヨーロッパに着いた興奮で頭は冴えているのが普通なんですけど。ちょっと、慣れてしまったのかもしれません。いやいや、そんなはずはないです。入国審査の時なんか、すごく緊張していましたから。
 ロンドンまでの飛行機は、とってもラッキーなことに隣の席が空いていました。真ん中の4列のうちの通路側の席だったので、誰も寺田の前を通らなくなったわけで、これだとしょっちゅう姿勢を変えることができ、腰も痛くなりません。何より、資料を広げて原稿が書ける。これが大きかったですね。50行原稿を4本書きました。
 ところで、ゲーツヘッドの場所はあまり正確に知られていないと思います。イングランド北部の東海岸。スコットランドに近い場所です。人口約26万人のニューキャッスルの南隣で、ほぼ1つの街と言ってもいいんじゃないでしょうか。ニューキャッスル空港からタクシーで2000円とちょっとですから。
 ニューキャッスルの正確な名称は、ニューキャッスル・アポン・タイン。直訳するとタイン川の上のニューキャッスル。つまり、ニューキャッスルという地名が他にもあって、区別するためにアポン・タインを付記したわけです。ゲーツヘッドはタイン川をはさんで南岸です。シェイクスピア生誕のストラットフォードも、同じようにアポン・エイヴォン(エイヴォン川)が付きます。ドイツのフランクフルトも、アム・マイン(マイン川)ですしね。
 イギリスの入国審査はヨーロッパの中では厳しい方。パスポートチェックの時に色々と質問されます。
審査官「イギリスには何日いるのか?」
寺田「ニューキャッスルに2日間いたあと、プラハに向かいます」
審査官「(入国カードを見ながら)これから向かうのはニューキャッスル?」
寺田「アンポンタンね」

 と冗談を言ったのはまったく通じず(当然か)、
審査官「フゥ、フンっ」
 と相づち。しかし、この後、審査官からの逆襲に遭うことに。
審査官「旅行は1人なの、ツアーなの」
寺田「1人です」
審査官「仕事か観光か」

 ここで、正直に仕事というと、ややこしいことになるそうです 。必ず「観光です」と答えないと いけません。以前、高岡寿成選手からそう教えてもらいました。
寺田「観光です」
審査官「ニューキャッスルに観光?」

 ギクっ。正直に言った方がいいのか。いや、まだまだ。
寺田「スポーツのイベントを見るためです」
 実際、そうですからね。でも、通用するかどうかは不確定。
審査官「ああ、そういえばあるね」
 なんとか事なきを得ました。
 ホテルに着いたら、ロビーに高野進コーチがいらっしました。今日の練習のうごきはどうでしたか、と質問すると「よかったと思いますよ」とのこと。
 明日が楽しみです。でも眠い。


ユーロ取材2004 2日目
◆6月27日(日)
 朝は……何時に起きたか忘れてしまいましたが、ヨーロッパ時間なのでかなりの早起き。大会指定のかなり高めのホテル。ヴァイキングの朝食はかなり豪華です。
 午前中に2本、短めの原稿を書き、スタジアムへは13:30のシャトルバスで移動。スタジアムの玄関はこんな感じでちょっと控えめ。報道受付を済まして中を移動すると、こんな階段が。ちょうど2年前、今は改装中のオスロのビスレット・スタジアムに行きましたが、玄関のこぢんまりした感じと、このオールドファッション的な内装は、雰囲気が少し似ていました。まあ、ビスレットの方が断然、雰囲気は出ていましたけど。
 スタンドは2〜3万人規模で、傾斜がきついからでしょうか、トラックや砂場がかなり近くに見えます。ミックスドゾーンも近く、移動が楽でした。3コーナーの外側にあるサブトラも、かなり近い方でしょう。アップ中の日本2選手の写真。為末選手もかなり念入りにアップをやっていましたが、エージェントの女性と話し合っているシーンもありましたね。
 これも2年前ですが、パリのサンドニ競技場でサブトラの場所がわからずに、地元役員に質問して一悶着ありましたね。大きさ的にも、サンドニやローマと違って陸上競技にとっては適当なものだった思います。日本でいえば、日本選手権のあった鳥取の布勢競技場と同じような感じですね。さすがに、バックスタンドにも椅子はありましたけど。
 夜は、同室の折山さんと、Kカメラマンとホテルのレストランで食事。ちょっと値は張りましたが、考えてみたら昨日から1ポンドも使っていませんでしたしね。食事中はちょっと特殊なしりとりで盛り上がりました。6月最初の出張が鳥取でしたから、最後の出張はしりとりで締めよう、という折山さんの発案です。
 ビールをグラス3分の2くらい飲んだせいだ、食後は先に2時間の睡眠。起きて3時間の仕事。現在、朝の3:30(日本は11:30)。眠いですし、3時間ほど寝るとしましょう。明日はプラハへ移動&取材です。


ユーロ取材2004 3日目
◆6月28日(月) その1
 午前9時、ニューキャッスル空港です。2つの初体験をしました。
 空港には、同じホテルに泊まっていたISHIRO記者と一緒に来ました。格安航空会社のイージージェットのカウンターで、プラハ行きの便にチェックインをしようとしたときのことです。
「この荷物は貴方自身がパッキングをしたのか、他の誰かがしたのか」
 何を言っているのか、こちらは理解できません。難しい単語ではなかったし、2回こちらが聞き返すと、かなりゆっくり発音してくれました。でも、何を言いたいのか見当がつかない。要するにテロ対策の質問だったわけですが、こちらは他の誰が荷造りするんだ、という先入観念があるため、さっぱりわかりません。最後は「あなた自身の荷物か?」という質問に変えてくれたので「もちろん、そうです」と答えてチェックインができました。
 出発ゲートに行くとカフェ(といっても、だだっ広い待合いスペースにテーブルがたくさん置いてある場所)に読売新聞・近藤記者とMカメラマンがいて、隣のテーブルに。ラージサイズのコーヒーを注文したら、こんなに大きかったです。これも初めての経験。
 昨日、イングランドにいる近藤記者の顔を見たときから、聞いてみたいことがあったので、さっそく「近藤さんはウェールズに行ったことがあるの?」と質問。向かいの席のISHIRO記者が、すぐに笑い出しました。当の近藤記者はイージージェットカウンターの寺田と一緒で、何のことを聞かれているか、見当がつかないようです。
「寺田さんが近藤さんについて考えることと言ったら。プリンスネタに決まっているじゃないですか」と、ISHIRO記者。そうです。近藤記者がウェールズに行ったら、プリンス・オブ・ウェールズ(英国王位継承者のこと)になるわけです。
 空港では有名選手も多く見かけました。この続きもあるのですが、書ければ書くということで。ゲーツヘッドSGPの観戦&ちょっとだけ取材記(外国選手中心)も書きたいのですが、3日連続移動してのグランプリ取材ですからねえ。
 今はプラハのホテル。実は、鉄のカーテンを越えたのは初めて。これからプラハGPUの取材です。パソコンに録音してあるドヴォルザークの曲を聴きながら、取材準備をしています。


ユーロ取材2004 3日目
◆6月28日(月)その2
 チェコは旧共産圏。今日の日記その1の最後に書いた鉄のカーテンというのは、東西冷戦が激しかった頃、英国首相のチャーチルが使った言葉だったと思います。もちろん近年は共産圏の崩壊により、東西の壁はなくなりました。でも、経済圏の統合というか、そういった部分では東側の方が遅れています。ヨーロッパ各国の鉄道が乗り放題となるユーレイルパスもそうで、東欧では使えません。ヨーロッパ内でも飛行機の移動をすると、4〜5万円はかかります。日本から使う航空会社でワンフライト、ツーフライトとか付いている路線だったらいいのですけど。ということでこれまで、予算の少ない出張を強いられた寺田は、なかなか東欧まで足を伸ばせませんでした。旧共産圏は今回が初めて。
 ホテルにチェックインして2時間後には取材に出発。競技場まではタクシーで行くのが手っ取り早いのですが、そうするとプラハではホテル・競技場間しか往復しないことになります。それではもったいない。観光をする気は毛頭ありませんが、せめて街のなかを歩き、雰囲気だけでも楽しみたい。地図を見ると観光名所のカレル橋まで2kmくらい。だったら、そこまで歩いてみようと思い立ちました。
 ホテルを出た直後に道に迷い、10〜15分のロスをしてしまいましたが、すぐにモルダウ川の河畔に。4つ目の橋がカレル橋です。丘の上がプラハ城。なだらかな丘が広がる街だな、という印象です。途中、すれ違った女性が、誰かに似ているなと思ったのですが、すぐには思い出せません。しばらく歩いていて、そうか、と思い当たりました。ハナ・マンドリコワ選手に似ていたのです。ご存じでしょうか、往年の名テニスプレイヤーです。なるほど、マンドリコワ選手もチェコスロヴァキアだったな、と思い出しました。ハナというのは、チェコ特有の名前でしょうか、それともスラヴ系に多いのかな。
 ハナ、鼻……といえば、朝原宣治選手のいくつかあるニックネームのうちの1つが、“朝はな”です。これは、朝原選手が頑張ってくれるんじゃないかな、という予感がしました。
 競技場はすごかったですね。本競技場がこれです。ホームストレート側のスタンドが急勾配で(日本と比べると)、なかなかの威容を誇っています。第3コーナーのすぐ外側に、ハンマー投競技場。場所を上手くとれば、両方見ることができるんです。しかも、ハンマー投のサークルのネット越し、3〜5mの距離で選手がハンマーを投げるので、ものすごい迫力。寺田もたぶん、ここまで近い距離で見たのは初めてです。やっぱり、スタンドの記者席からではわからないこともあるんだな、と思いました。それは追い追い、記事に反映させていきます。
 現地時間では夕方からの開催ですが、日本時間では深夜。新聞の締め切りというか、記事は無理でも結果だけ入れられるギリギリのところ。1投目に珍しいファウルをした室伏選手ですが、2投目に79m08を投げてトップに立つと、記者の皆さんが一斉に日本のデスクに電話を入れます(写真は手前から読売新聞・近藤、朝日新聞・金重、日刊スポーツ・牧野の各記者)。その報告を受けて色々と、デスクの方から指示が出ます。大変なんですよ、新聞記者っていうのは。
 好記録の予感のあった朝原選手は、残念ながら今ひとつ。記事にしたように電気計時がおかしかったことも考えられますが、朝原選手のテンションも今ひとつ。せっかく、ハナ・マンドリコワに似た女性にあったのに、チェコっと残念。
 話を旧共産圏という部分に戻しますが、どのくらい西側化しているのか、ちょっと興味がありました。大会の演出はヨーロッパの他のグランプリと、大きな違いはないでしょう。場内にかかる音楽は、ちょっと古いですけどアメリカのものが多かったように思いますし、赤と青のチェコ国旗の色を基調とした艶やかな服のチアリーダーたちによるダンスもあります。表彰もこんな感じで、綺麗な女性たちが会場を盛り上げるのに一役買っていました。まあ、元々チェコが、旧共産圏でも西側に近い感じの国だった、ということもあるのかもしれません。明日のザグレブにも注目です。

プラハ Praha チェコ中西部に位置する、同国の首都。ドイツ語ではプラーク、英語ではプラーグとよばれる。ボヘミアの中央部にあり、ブルタバ川(モルダウ川)が市内をながれる。河港や国際空港があり、鉄道も集中している。チェコ最大の都市で、この国の商業・工業・文化の中心である。おもな工業製品は、機械機器・自動車・化学製品・繊維・衣料・皮革製品・加工食品・アルコール飲料・ガラス工芸品など。出版業の中心でもある。教育機関としては、中欧で最古のカレル大学(1348年創立。別名プラハ大学)、プラハ工業大学(1707)などの大学や多くの美術学校、音楽学校、職業学校があり、また博物館、図書館、劇場も多い。共産党政権の崩壊後は国外からの観光客もふえ、町の経済をうるおしている。人口は121万2010人(1991年推計)。
景観
ヨーロッパでもっともうつくしい都市のひとつとされるプラハは、塔が多いことからしばしば「百塔の町」とよばれる。市街はブルタバ川両岸から周りの丘陵地まで広がる。川にはいくつもの橋がかけられ、とりわけ有名なのが14世紀のカレル橋で、橋の手すりは後世設置された聖人の像でかざられている。
東岸には13世紀にさかのぼる旧市街と、およそ100年後の新市街がある。旧市街では、道が迷路のように入り組んでおり、14世紀のボヘミアの栄光をしめす建物も多い。代表的な建築物はフス派の宗教改革の中心となったティン教会(14世紀)である。この地区にはカレル大学、14世紀の旧市庁舎、そして新市庁舎がある。新市街は商工業地区だが、多くの公共建造物、博物館、銀行がある。
西岸には小地区とよばれる地域があり、バロック建築の宮殿が多い。この小地区の北にそびえるのがフラチャニ城(プラハ城)である。以前はボヘミア王の居城だったが、現在はチェコ大統領の官邸となっている。城内には、歴代の王がねむるゴシック様式の聖ビート大聖堂がある。
歴史
プラハへの入植は9世紀にさかのぼる。当時、いくつかのボヘミア人の城がたてられた。13世紀には、ボヘミア王ウェンツェスラス1世によってドイツ人の入植がはじまり、町は急速に発展。1232年には交易の中心地として旧市街がつくられ、また1世紀後には南東部に新市街が建設された。カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の治世にはボヘミア地方の都として繁栄し、人口はパリについでヨーロッパ2番目となった。1442年にはフス派によって占拠されたが、町は政治的にも経済的にも繁栄しつづけた。しかし戦争により町はいく度か大きな被害をうけ、とくに三十年戦争(1618〜48)での被害は甚大だった。
1744年、プラハ市はプロイセンのフリードリヒ2世に占領され、七年戦争(1756〜63)では対オーストリア戦の戦場となった。1848年、チェコの革命をおさえるために派遣されたオーストリア軍の砲撃をうけ、66年の七週間戦争ではプロイセン軍に降服した。
1918年チェコスロバキアが成立すると、プラハはその首都となった。第2次世界大戦中の39年3月から45年5月までプラハはドイツ軍によって占領されたが、壊滅的な破壊はまぬがれた。68年8月には、ソ連の軍隊をはじめとするワルシャワ条約機構軍がプラハに侵入し、大規模の抗議デモがおきた。また、89年には、チェコスロバキアの共産党体制を崩壊にみちびいた、非暴力の大規模デモがおこなわれた。93年1月1日、プラハはチェコスロバキア解体によって生まれたチェコ共和国の首都となった。
"プラハ" Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia. (C) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.



ユーロ取材2004 4日目
◆6月29日(火)
 朝起きるとすぐに、メールをチェック。陸マガ前編集長の八田さんが亡くなったとのメールが来ていました(「送る言葉」参照)。間髪おかずに編集部へ電話。間違いでないことを確認しました。本当に突然でした。1月に心臓の手術をし、元気になったと思い込んでいました。医者も周囲の人間もみんな、そう思っていたのです。
 窓の外を見ると雨。こんなに悲しい雨は初めてです。
 走馬燈って、誰も見たことはないのに、よく使われる言葉です。でも、今日ばかりは、本当に走馬燈のように、色々な思い出が頭の中を駆けめぐりました。電話を切ってから30分ほど、自分でも何をしていたのか覚えていません。ヨーロッパに来ている別の記者から電話をもらい、我に返ることができました。今日は、3日連続のグランプリ取材の3日目。昼過ぎの飛行機でザグレブに移動しないといけません。
 こう言ってはなんですが、ヨーロッパにいるのが幸いしました。日本にいて、いつもの生活を送っていたらきっと、ずっと故人のことを考えていたでしょう。取材でヨーロッパに来ていることで、取材に集中できますし、海外の風景を見ることで、気が紛れます。
 ザグレブは、プラハに比べると旧共産圏らしい街。空港・ホテル・競技場周辺しか見ていないので、なんとも言えませんけど。でも、市民の表情は、それほど暗くはありません。ホテルの受付の女性が、なかなかユニークです。地図でスタジアムや自分のホテルの場所を示せないのです。「ここに来てまだ2カ月だから…」って、普通、言うかなあ。三つ星ホテルのフロントが。でも、憎めないキャラの女性なんです。
 4人の日本人記者で一緒に到着したのですが、寺田が最後に1人、バウチャを持ってフロントに進み出ると、びっくりして「こちらの人たちと同じじゃなかったんですか」と、言います。「違います」と英語で言った後、日本語で「僕たち、仲が悪いんですよ」と言うと、その女性は日本語が分かったかのように大笑いしてくれるのです。なんだったんだろう、あれは。
 競技場に出発する際、鍵をフロントに預けに行ったときも面白かったです。キーホルダーの部屋番号が、元のプラスチックの上に紙を貼って新しい番号が書いてあるのですが、そのプラスチックは透明で、反対から見ると昔の番号が見えるのです。実は最初、寺田はその古い番号の部屋に行ってしまいました。一緒にいた折山さんが同じ間違いをして、新しい番号を見せると、くだんのフロント女性も一緒に大笑い。本当に憎めません。
 競技場は最前列に日本人記者席が設けられていました。破格の待遇です。4年前に毎日新聞・野村記者が取材に来た際のエピソードや、大会WEBサイトの記事を見る限り、ザグレブはかなり親日的。サッカーの三浦和良選手が以前、ザグレブのチームでプレーしていた影響のようです。
 ビックリしたのは記者席に記録を配るのが小さな子供だったこと。高校生の補助員が配るのは洋の東西を問わずに、よく見られることなんですが。タイムテーブルを見ると「Stars presentation」という項目があったので、どんな演出なのかを注目していたら、これでした。数台のバイクが後ろに選手を乗せて場内を周回するのです。その中には劉翔(中国)選手も含まれていて、相当に堂に入っていました。こんな気球も飛ばしていて、プラハ同様“お堅い”演出ではありません。
 鉄のカーテンを越えたのは初めてと書きましたが、実は一度だけ、モスクワ空港でトランジットを経験しています。2年前のロンドン・マラソンへの往復にアエロフロートに初めて乗ったときでした。そのときの印象が最悪だったんですね。空港の職員はニコリともしません。まさに鉄面皮…すいません、ちょっと意味が違いますね。家族T氏が以前、柔道の大会でベラルーシに行ったときも、似たような印象を話していました。それで、東欧のイメージが、そんなふうになってしまったんですね。
 ところが、プラハとザグレブで接した人たちの印象は、寺田のこれまでの旧共産圏のイメージとは大違い。モスクワ空港では、目があっても相手はにこりともしませんが、プラハ・ザグレブでは他の欧米諸国と同様、目が合うと必ず、微笑んでくれますしね。
 記者席で寺田の右隣は、博学で知られる東京新聞・吉岡記者。寺田が感じた東欧のイメージを話しました。モスクワ空港の印象は、どの記者も同じように感じていたこと。やはり、民族性の違いだろうという結論になりました。1つの政治体制が50年続いたくらいでは、その民族が持っている気質を変えることができないのだと。たまには、アカデミックな話題もしているのです。
 夜はひとりになって、八田さんを送る言葉を書きました。


ユーロ取材2004 5日目
◆6月30日(水)
 12:30から末續選手の共同会見。オリンピック前の個別取材はまずできませんから、こういった機会を設けてくれるミズノに感謝したいと思います。そのときの記事は、どうしましょうか。余裕ができたら書きます。日本から持ち込んだ原稿が進んでいないので、無理かもしれません。まあ、オリンピック前に書ければいいことですから。
 取材後に読売新聞の近藤記者(プリンス)とM田カメラマン、毎日新聞・石井記者(ISHIRO)と昼食。初めて、ザグレブの市街地に足を踏み入れました。プラハほど、なんていうか、他のヨーロッパの街並みと差別化する特徴がないのです(カフェから撮影した街の光景)。入ったレストランは、それなりにいい雰囲気の内装で、味も良かったのですが、実はイタリア料理屋さんでした。でも、これで朝昼としっかり食べられたので、夜は軽めで大丈夫です。
 近藤記者からは、プリンスの異名に恥じないエピソードをいくつか聞くことができました。具体的に紹介できないのが残念ですが、近藤記者の出身地である千葉県に伝わる井戸掘り技術を生かした経験です。それがなぜ、プリンスらしいのか……やっぱり、本人の了解なしに書いていいことではありません。
 近藤記者は最近、柔道の取材も頑張っています。以前にも書いたかもしれませんが、家族T氏は柔道日本男子チームの管理栄養士です。近藤記者が顔を知らないというので、寺田がつねに持ち歩いている、家族T氏の顔写真を見せました。そのときの写真がもしかすると、ISHIRO!に掲載されるかも。
 昼食後は1人でカフェに陣取って、原稿書き。陸マガ用の末續選手原稿ですが、最初のうちはなかなか筆が進みません。昼食でビールを飲んだんじゃないかって? まさか。そうではなくて、1人になるとやっぱり、色々と考えてしまうんですよね。
 家族T氏とはまだ一度も一緒に海外に来たことがありません。3年前にトルコ旅行を計画したときは実現寸前だったのですが、9・11同時多発テロで断念しました。その後は2人のスケジュールが合いません。お互い、1人で行ってしまうことが多いのです。変哲のないヨーロッパの街並みなのですが、カフェからの光景を眺めながら、そんなことを考えていました。八田さんのことが影響していたかもしれません。
 などと言いつつ、実は隣のテーブルの美女3人組にときどき目が行ったりしていました。これも昨日、記者たちの間で意見の統一を見ていた部分ですが、西ヨーロッパ(特に英独)に比べて明らかに美人が多いのです。食文化の違いなのでしょうが、西ヨーロッパやアメリカに比べ、肥満体型の人が少ないのも、美人が多いと思わせる1つの要因になっているのかも。
 夜は同じホテルの ISHIRO記者と陸上談義。意見が一致する部分もあれば、異なる部分もあります(当たり前ですね)。その時の様子を公開したら、陸上ファンにとっては相当に面白いトークだったかも。公開だったら話せないネタも多いのですが。
 しかし、2人の持っているネタを合わせると、情報の幅が広がり、見えてくる部分がありますね。例えば今回の五輪選考では、B標準で選ばれた選手も多いのですが、選手サイドには「B標準では選ばれない」という意識が強かったこと。実際にハードなトレーニングを積む身としては、「B標準でも大丈夫」と思えないのはわかるのですが、情報がしっかり伝わっていないように感じられたところもあります。指導者がわざとそうしているのかもしれません(それもコーチングでしょうか。練習中のタイムを操作するのと一緒で)。
 さらに、どうかな、と感じられたのは(以下は寺田の意見)、B標準選手を選んだ選考に対し、選手側から批判の声が挙がっていること。つまり、日本選手権の結果で代表は決まらずに、南部まで持ち越すものと選手側が決めつけていた種目がありました。それは、「B標準では選ばれないからトレーニングを頑張る」という前向きな考えとは反対の、「これくらいだったら決まらないだろう」という、ちょっと自分勝手な考え。
 一般種目の選考は「A標準突破者で日本選手権優勝」という、選手側が自力で代表をつかめる基準があります。さらに、優勝者に優先権が生じることも公表されていました。マラソンに比べたらよっぽど、明快なシステムです。選考基準を勝手に決めつける前に、自分が頑張れよと言いたくなります(付け加えて言えば、仮に、世界選手権入賞クラスの大物選手がケガをしても、切り捨てないシステムにもなっています)。


ユーロ取材2004 6日目
◆7月1日(木) その1
 7:55ザグレブ発のEC(ユーロシティ国際列車)に乗らないと、今日中にローマまで陸路で着くことはできません。5:30に起床してパッキング、6:30のレストランのオープン時間と同時に朝食。7:00にチェックアウト。かなり郊外にあるホテルですが(それで安かったのかも)、ザグレブは東京や大阪ほどの大都市ではありません。駅までタクシーで30分も見ておけば大丈夫と思ったのが失敗でした。郊外から中心部に向かう幹線道路がいきなり大渋滞。まったく進まず、その時点で観念しました。ヴェネツィアあたりに着いておけば、明日の早朝出発で試合には間に合います。ホテル代を余分に払わなければいけなくなりますけど。でも、そのくらいで済むと考えて、運転手を急かすようなことはしませんでした。なぜか落ち着いていました。
 市の中心部に行くと少し流れがよくなりましたが、だめだろうと思っていると、7:54にザグレブ駅に着きました。出発1分前です。ヨーロッパの主要駅はかなり大きいですから、この時点でも無理と思っていました。ところが駅舎に入ると袋井駅(寺田の出身地です)くらいの大きさ。さすがに、もうちょっと大きいかもしれませんが、ヨーロッパの駅には改札や長い階段なんてありません。一番手前のホームに行くと目指す電車らしき電車が止まっています。駅員に「リュブリャナ?」と聞き、「イエス」と答えをもらって乗り込みました。20秒後に列車は動き出しましたから、まさに滑り込みセーフ。信岡沙希重選手じゃありませんが、「普段の行いの違いでしょう」(静岡国際で自身は追い風2.0mで公認、後輩の大前祐介選手は追い風2.1か2.2で参考記録となったときのコメント)。
 2等の6人分椅子のあるコンパートメントでは、2人の女性と一緒でした。1人は20歳代後半のバリバリのキャリアウーマン風(かなり美人)で、英語も寺田より、かなり話せました。車内で書類のチェックをしきりにして、しばらくするとパソコンに入力を始めました。ちなみに、2等でも壁際の2席には電源コンセントがあります。もう1人は50〜60歳代と思われるシスター(姉じゃないよ)で、英語は話せません。
 クロアチアを出るとすぐに、警察官によるパスポートコントロール。国際特急の場合、ザグレブはスロヴェニアとの国境駅なんですね。スロヴェニアに入るとまた、パスポートコントロール。同じことの繰り返しです。この辺は、EU内の国境を越えたときとは、ちょっと違いますね。
 もちろん、切符の検札もあります。スロヴェニアを通過してイタリアに入ってしまえば、ユーレイルパスが通用するのですが、そこまでは切符を購入しなければいけません。飛び乗りで購入している時間はありませんでしたから、検札が来たときに説明しなければなりません。車掌が英語を話せなかったので、キャリアウーマンが通訳してくれました。
 その車掌さんもいい人で、寺田の残り所持金が215クーナ(約4000円)だと言うと、その金額ぴったりにしてくれたました。ザグレブは交通手段や食事など、意外に物価は高かったことを考えると、どうやら値引きしてくれたようです。キャリアウーマンのお姉さんも、そう言っていました。ちょっと、いい気分になった出来事でした。
 列車の旅は順調。ヴェネツィア行きのECに乗り換えたリュブリャナはスロヴェニアの首都だったと思うのですが、駅の規模はクロアチアと同じで、それほど大きくありません。チケットオフィスの窓口は2つしかありませんし(反対側に大きなオフィスがあったかもしれませんが)、売店で水と食料を買おうとしたのですが、クーナもユーロも通じません。クレジットカードもダメ。差し迫っていた買い物ではないので、いいのですが。


ユーロ取材2004 7日目
◆7月2日(金)
 8:00に起床して9:30まで仕事。4つ星ホテルにしては貧弱な朝食(熱のあるメニューがなし)後、徒歩10分の距離にある大会本部ホテルに。アクレディテーションを済ませた後、ロビーで原稿を書いていました。ふと顔を上げると、ちょっと離れたソファに小松隆志選手が座っています。“小松の親分”と言われるだけあり、向かいにはリンフォード・クリスティー(英・バルセロナ五輪100 m金メダル)がいて、その後もひっきりなしに関係者や記者が挨拶していきます。寺田も挨拶に行こうと近づくと、小松選手ではなくてフランク・フレデリクス(ナミビア)選手でした。人違いでしたが、こちらの顔を知っていないことはないだろうと思い、近くまで行って軽く挨拶。
 12:10頃には、トヨタ自動車の安永コーチと岩水嘉孝選手が。岩水選手は完全な調整ではないようですが、スタートリストを見て、“やれる”感触を持ったようです。
 しばらくして、陸マガに写真を提供してくれたこともある、ケルンの中国系女性カメラマンのチャイさんが、こちらの顔を見て話をしに来てくれました。たぶん、2年前のローザンヌ以来だったと思います。ただ、彼女はこちらの立場を完全に理解しているわけではないので、その辺の説明も交えて話し込みました。寺田のつたない英語ですけど、アジア系同士のせいかリラックスして話せるますし、なぜか通じます。下手な発音だと、聞き返されることが多いのに、それが少なかったですね。
 その最中、陸マガの仕事もしていることを話すと、次のような話になりました。
チャイ「ヘイタさんは知っていますか」
寺田「ハッタですか」
チャイ「そう、ハッタさん」
寺田「僕も4年前までは陸マガ編集部にいたので、よく知っています。でも、この前の日曜日に亡くなりました」
チャイ「ほんと? 若かったですよね。いくつでしたか」
寺田「44歳です。1月に心臓の手術をして、成功したと聞いていたのですが。本当に急なことだったので、僕も信じられません」
チャイ「チリの世界ジュニアのときに、ハッタさんから頼まれて、色々と写真を撮りました。いい人でした」

 八田さんもチリに行っていましたから、現地で一緒に仕事をしたのでしょう。意外なところで故人の頑張りを聞くことができて、ちょっと嬉しかったです。こうして書いているとまた…。いけませんね。これからゴールデンガラの取材なのに。


ユーロ取材2004 8日目
◆7月3日(土)
 昨晩のローマGL、残念なことに福士加代子選手と朝原宣治選手は欠場でした。福士選手は今朝のスタートリストの時点で名前がなく、スペインの高地練習に行ったとの情報がありました。朝原選手の欠場は、スタートラインに選手たちがついて初めて知りました。後で為末大選手に確認したところ、太腿内側の違和感があり、アップを始めてスパイクを履くかどうか、というタイミングで決断したようです。症状は違和感といえる微妙なもの。「いいのに崩れた、崩れたけどいい」という表現を為末選手はしました。アテネ五輪を控えていることと、ローザンヌを走るための決断。
 この写真のようにレーンが1つ、ぽっかり空いてしまいました。ゴールデンリーグの100 mAレースです。“もったいない”と考えるのが普通ですが、そういった状況で冷静な判断をしたのが朝原選手のすごさだと為末選手は言います。
「キャロライン(代理人)が頑張ってレーンを取ることができた大会。出ないといけないと判断してしまうでしょう。僕だったら出ていたかもしれない。それくらいの微妙な違和感です。普通の選手だったら気づかずに走って、バーンと(大けがに)なっていたかもしれません。朝原さんのクレバーなところでしょう」
 為末選手岩水嘉孝選手の障害日本記録保持者コンビに関しては、記事を書く予定です(問題は、ローザンヌ前にアップできるかどうか。今日から2日間安ホテルに泊まりますので)。400 mHのタッチダウンは計測しやすかったです。日本の大会のように、フィールドに観客の視線をさえぎるものがないですから。夜の試合だから可能になるのだと思いますが。困ったのは3000mSCの1000m毎。水濠がトラックの内側にある競技場で、日本で一般的な1000mが第2コーナー、2000mが水濠のあたりというわけではありません。光電管らしきものもありませんし。それでも、先頭走者が通過するとランニングタイマーが止まるので、それでラインを特定して岩水選手も計測。ただ、1000mは2m間隔で2本のラインがあり、瞬時にどちらと特定はできません。いつものように10分の1秒単位での公開はせず、1秒単位で掲載することにします。
 日本選手の登場が遅い時間だったこともあり、それまではそこそこ、競技もじっくりと見ることができました。観戦記も書きたいのですが、印象に残っているの男子110 mHのジョンソンと劉翔の同着、男子1500mのエルゲルージと女子400 mのゲバラの連勝が止まったこと。その後に行われた男子400 mHでもサンチェスの連勝が止まるかなあ、と期待したのですが、為末選手はヨーロッパに来てからの練習ができていなかったため、勝負できる状態ではありませんでした。
 ローマGLは競技開始が19:20からと遅く、最後の棒高跳が終了したのは23:30。シャトルバスの時間に間に合わず、タクシーもなかなかつかまらず、結局、バスでバチカンまで出て、そこでタクシーを拾いました。ホテルに着いたのは1:00近かったでしょうか。メールもできずにダウンしてしまい、朝の5:30から仕事。ただ今、7:30。
 今日明日のホテルは予約してありません。どこに行くかさえ、決めていない状況です。足の向くまま、気の向くままの2日間。一応、3つの案があります。
 1つめは2年前にいいなあと感じたスイスの湖畔の街に行く。街の名前も覚えていないのですが、チューリヒのちょっと南でした。だいたいのあたりをつけておいて、あとは車窓から見た風景がきれいなところで下車する。観光地化されていないけど、おとぎ話に出てくるような、湖畔の小さな綺麗な街。ホテルも飛び込みで、ネットはできないけど、それが日常生活から離れることにもなります。でも、原稿は書きますよ。そういうときの方が筆が進むことが多いのです。
 2つめはナポリ。ローマから2時間南に行った距離です。ローザンヌへの移動を考えると、ちょっとやっかいなのですが、明後日1日かければできないこともない。逆に、スイスへの移動だと、今日の夕方までかかってしまいます。
 3つめは2時間北に行ったフィレンツェ。歴史的には、ここが一番、興味があります。さて、朝食を食べながら時刻表を見て考えましょう。


ユーロ取材2004 9日目
◆7月4日(日)
 日曜日の朝は、ナポリで迎えました。日暮里ではありません。
 昨日の朝食中にナポリ行きを決意。一番行きたかったのは、スイスの湖畔の小さな街ですけど、移動に丸一日を費やしてしまいますので到着は夜。電車の窓から風景を見て、泊まる街を決めるのは厳しいかな、と判断しました。それに、ナポリは1500mイタリア記録(3分32秒78)保持者のディ・ナポリゆかりの地……かどうかは、知りません。でも、彼のスペルはDi Napoliです。手元の地図で「ナポリ湾」は golfo di Napoli。自信はありませんが、「ナポリの」「ナポリ出身の」という意味ではないでしょうか。フランス語のde、ドイツ語のvonと一緒で。
 ちなみに、di Napoliのスペルは、ゴールデンガラ(ローマGL)で配られた資料で確認しました。3分32秒78は1990年の記録で世界歴代ではもう70位。報道資料で世界歴代リスト、当年リストも配られますが、その2つでは見つけられません。しかし、出場選手全員のバイオグラフィーが配られますが、その男女の間に実施種目の各種記録(世界記録・ヨーロッパ記録など出場選手の属する地域記録・出場選手の国のナショナルレコードなど)が記載されていて、それで確認できたのです。
 この手のスタティスティクス的なデータに関しては、ローマは1・2を争うくらいに充実しています。報道申請やホテル申請の連絡なんかはいい加減ですけど。今回のホテルも、プレス用のホテルに行ったら「名前がない。近くの大会本部ホテルに行ってくれ」と言われて、10分ほど歩いて本部に行くと、「じゃあ、こっちのホテルに行ってくれ。1泊110ユーロだけどいいよね」と、元のホテルの近くのホテルに。ツイン1泊250ユーロの部屋に泊まれたのはいいですけど、夜中の10時にたらい回しはなあ。まあ、そのくらい覚悟の上ですけど、女性記者の方には進められません。面倒くさくてもコンファメーションをこちらから取る必要があるでしょう。
 ナポリのホテルは昨日着いてすぐ、飛び込みで駅の近くを数件回りました。ナポリ駅にホテル紹介オフィスもありましたが、ガラス張りの近代的な雰囲気で、そこだけ場違いなくらい高級感があり、どうみても民間会社。手数料が高いと判断して、自力でトライすることに。ガイドブックによると海岸線オーシャンビューのホテルは、3つ星クラスでも最低100ユーロはします。対照的に、駅の近くの2つ星なら50ユーロ前後。ちょっと悩みましたが、明日の出発が7:30と早いこともあって、駅の近くにしました。
 駅前広場の周りはまさにホテル街。よりどりみどりですが、外観は「大丈夫か」と思える建物ばかり。2年前にツールーズ(仏)で同様に飛び込みで探したときは、どのホテルも値段が外に表示してありましたが、ナポリはありません。2つほど、ひどすぎないホテルに行ってみましたが、1つは65ユーロ。もう1つは45ユーロでしたが部屋に電話がないとのこと。
 結局、「地球の歩き方」に出ていたホテルGALLOに。写真を見ると室内に電話がありますし、10%割引特典があるので57ユーロ。もうちょっと節約しようと思いましたが、仕方ありません。部屋は古いですけどまずまずの広さ。電話は壁にこんな感じで接続されいました。壁をくりぬいて、最近(といっても20年くらい前か)の器具が埋め込んであります。と思ったら、ゴロッと外に取れてしまいました。寺田が壊したわけじゃないですよ。2日間はメールをしないで日本との連絡を絶ち、オリンピック展望原稿に集中しようと思っていたのですが、まあいいでしょう。結果的に1つ、重要な連絡がありましたし。
 洗濯をした後、少し仕事をして、18時に外出。サンタルチアの海岸まで歩いていきましたが、これが大失敗。1時間もかかってしまいました。普段はヨーロッパの街は小さいとなめてかかっているのですが、ナポリの中央駅からサンタルチアまでは4kmはあったのです。最初に地図の縮尺を確認しなかったのが失敗の原因。まあ、ペースを抑えめに歩き出したので、ダメージは少なかったです。
 海岸からの風景は、さすがナポリ。ちょっと靄がかかっていて、写真ではこんな感じですが、肉眼ではもうちょっと綺麗に見えます。19:30から20:30頃まで、オーシャンビューのカフェで、カフェラッテを飲みながら原稿書き。その後、海岸から1本奥に入った通りのレストラン街に。ここで、ベアトリスと出会うことになったのでした。
 つづく……のか。


ここが最新です
◆7月4日(日)その2
 ナポリはまさに絶景。好きになりました。坂が多い点も、雰囲気を出しています。逆に閉口したのは道を渡るのが命懸けなこと。車の量の割りに横断歩道が少なくて、地元の人は車の波をかきわけてスイスイと渡っていきますが、とても真似はできません。
 今日は午前中いっぱいはホテルで仕事。ほぼ12:00に部屋を出発。昨日徒歩で移動して懲りたので、今日は地下鉄の駅に。1日乗車券を購入しました。今日は絶対にタクシーを使わないぞ、という意思表示でもありました。というのは昨晩、サンタルチア通りのレストランからタクシーでホテルまで帰ったら、ものの見事にぼられたのです。メーターはユーロ弱なのに運転手は「テン」……意思表示をする相手もいないのですけど、自分へ言い聞かせる意味で。
 イタリアのタクシー代はそんなに高いわけではありません。でも、ローマでもこんなことがありました。寺田がザグレブから陸路、テルミニ駅に到着したのが21:40頃。ホテルまでタクシーで行くしかないのですが(詳しくなればバスも利用できそうですけど)、タクシー乗り場の手前で必ず、運転手の何人かが声をかけてきます。
「○○ホテルはかなり遠いから30(ユーロ)でどうだ?」
 実は2年前も同じように夜に着いてこの手の客引きタクシーを利用して、帰りにホテルからメーター料金で払ったら少し安かった経験があります。
「30は高すぎる」
「だったら25でどうだ?」
 ホテルまでの距離や、料金の目安があるわけではなかったのですが、「それでも高い」と言って立ち去ろうとすると、今度は別の運転手が「俺は20でOKだ」と言い寄ってきます。正直、それならいいかな、とも思いましたが、とにかく一度、メーター料金で行きたかったのです。
「その金額だったら、同僚に車で迎えに来てもらうよ」
 と携帯電話で電話をする振りをしていったん遠くに立ち去り、しばらくして正規のタクシー乗り場に移動。メーター料金でホテルまで行ったところ、8.90ユーロでした(チップ込みで10ユーロ払いましたが)。ローマの客引きタクシーには気をつけましょう。
 ローマではさらに、ホテルから駅に向かったときのタクシーに、遠回りをされたようなのです。一方通行とかあったのかもしれませんが、13ユーロかかりました。最短経路は外国人観光客はわかりっこないですからね。その点、ナポリのタクシーは最短距離で行ったのは確かです。自分が1時間かけて歩いたみ道ですから。でも、メーター料金より4ユーロも多くぼられたわけです。イタリアのタクシーは大っ嫌いになりました。それでも、高い都市に比べたら安いのですが。

 話をナポリに戻しましょう。地下鉄で4つめの駅に移動して(距離にすると7kmくらい)、そこからケーブルカーで丘の上に移動。1日乗車券は地下鉄、4つあるケーブルカー、バスと全部乗れて2.5ユーロ。バスも地名を覚えれば使えますね。時間は読めないですけど。昨晩も帰る際、サンタルチア通りのバス停で中央駅の名前を探したのが失敗でした。バス停の名前は駅前広場であるガリバルディ広場だったのです。バス停にいる人に英語で聞いてもわかってくれなかったし。
 ケーブルカーで上りきった駅の周辺をちょっと歩いて、一番いい景色が冒頭でも紹介したこれ。ちょっとアップにするとこんな感じ。正直、写真では表し切れませんね。まさに大パノラマといった感じで、レンズに入る角度で切り取るのは不可能。ちょっと靄がかかっていたのが残念ですが、「ナポリを見ずしてなんとか」という諺があるのも肯けます。
 でも、勘違いしないでください。寺田は観光に来たわけではないのです。原稿の書けるカフェを探しに外出したのです。どうせ書くのなら、景色のいいところで書こう、そうすれば書くスピードも上がるだろうと。
 でも、思ったよりカフェがありません。それに日曜日だったためか、ほとんどが店を閉めています。どうやら、メジャーな観光地化しているのは、別のケーブルカーで上れる丘の方だったみたいですね。写真の絶景が見られる場所も、観光地というより高級住宅地。困りました。
 ところが、信岡沙希重選手と一緒で日頃の行いがいいのでしょう。少し歩くと、展望用の小さな広場みたいなところがあって、ベンチがあるではないですか。しかも、道を挟んで大きなマンションがありますし、大きな木もあって日陰になっています。どこから見ても、「ここで原稿を書いてください」と言っているシチュエーションです。さっそくパソコンと資料をベンチに広げ、15時から20時半まで原稿を書きました。途中、2度ほど中断して散歩をしましたけど。

 あたりが薄暗くなってからケーブルカーで海岸まで降り、バス停でサンタルチア通りの表示のある140系統バスに乗り込みました。「簡単、簡単」と思っていたのが失敗で、逆方向に乗ってしまいました。乗った場所自体それなりに西の方でしたから、すぐに引き返すと思っていったら行けども行けども西進します。20分ほど行ったところで降りて乗り換えました。幸い、反対方向のバスが5分と経たずに来てくれたのです。約40分のロスが響き、昨晩と同じサンタルチア通りのレストランに着いたのは22:10くらい。そこが、ベアトリスのいる店でした。
 昨晩はそのレストランに何気なく入ると、20歳代後半の気っぷのいい美人のお姉さんが、たどたどしいですけど英語で面倒を見てくれました。髪を後ろで束ね、白人ですけど肌の色がちょっと浅黒くて、太ってもいません。イタリアでたまに見かけるタイプです。気っ風がいいというか、押しが強いというか。選手でいったらそうですね、○○選手が昨年の国体の時に高校生に接していたような感じです。これだけでは何もわからないと思いますけど。
 イタリア料理のメニューは勉強していなかったので、そのお姉さんに任せることに。というか、先方から「メニューにはないけど、今日はこれがいいよ」と薦めてくれたのです。その料理の写真がこれ。実は麺の種類とか、貝の種類とか名前がわからないのですが(寺田が食べ物の素材の名称に弱いのは一部では有名)、魚介類のなんとかですね。魚は日本では見慣れない種類でしたが、以前、マルセイユ(南仏)の特集をやっていたテレビ番組で見た魚と似ていたので、地中海ではメジャーな魚のでしょう。
 サラダも一緒に頼みました。「大きいと食べきれないから、小さなお皿でね」と。トマトとキャベツみたいな野菜の組み合わせで、オリーブオイル系のドレッシングと、塩のマッチし具合が最高によかったです。麺のほうもまずまず。
 ちなみに、これが今日の昼、ケーブルカーに乗る前に食べた魚介類のリゾット(食べ物を写真で出すとISHIRO!サイトみたいですね)。最初の数口はおいしかったのですが、これはちょっと塩味がきつかった。ごはんも、一度炊いていないのか、硬くて芯がある感じでしたし。
 昨晩、食後にコーヒーをお願いしたら、「コーヒーはない。レモンのなんとかかんとがあるけど、それでいい?」と言われたので、レモネードかレモンティーだと思って「いいですよ」と答えると、レモンのお酒でした。それもかなり強い。原稿が心配だったので、半分飲んで、半分は持っていた紙ナプキンに染み込ませました。「これは私のおごりだから」と言って出してくれたので、残したらいけないと思ったのです。でも、本当に強かったです。「ナポリにはいつまでいるの?」と聞かれたので、明後日の朝までだというと「明日も来てね。ピッツァも食べなきゃ」と言われて昨晩は別れました。じゃなくて、店を出ました。22ユーロくらいでしたが、釣り銭の中からチップをユーロくらい渡したかも。たぶん、チップの過去最高額でしょう。
 ということで、今日も同じ店に。カモられてる観光客の典型かもしれないと思いつつも、足が向いてしまいました。昨晩はギターの生演奏がありました。2曲ほどでしたが、お決まりのナポリ民謡ではなく、最近の曲のようです。でも、アメリカ的ではなくてヨーロッパ調、メロディーラインは覚えやすくてよかったです。でも、着くのが遅かったせいか、あるいは日曜日で客数が少なかったせいか、今晩はなし。もしかしたら、演奏者は店から出演料をもらっているのでなく、お客さんのおひねりだけなのかもしれません。レストラン街で何軒か回っていたようですし。
 今日は約束通り、ベアトリスにピザを注文。種類はお任せにしたところ、昨晩は魚介だったことを考えてくれたのか、今晩はキノコのトッピングでした。昨日も今日も単に、食材が余っているものを出されたのかもしれませんけど。遠回りするタクシーじゃないですけど、観光客にその辺はわかりません。ピザは直径約25cmくらい。半分しか食べられませんでした。ちなみに、タバスコや胡椒の類は付いてきません。食後にコーヒーを注文すると、今日はエスプレッソが出てきました。昨晩、コーヒーがなくてお酒がサービスで出てきたのは、今日、もう一度来させるための作戦だったのでしょうか。昨晩は最後に握手まであったけど、今日はなかったし。釣った魚に餌はやらないってやつかなあ。でも、いいや。タクシーと違って悪い気にはなりませんでした。男って単純な生き物ですね。ナポリの景色と雰囲気に酔ったせいでしょう。
 レストランを出たのは23時過ぎ。バス停に行くと5分ほどで、ガリバルディ広場行きのバスが来ました。


ユーロ取材2004 10日目
◆7月5日(月)
 ナポリの雰囲気に酔ってしまった2日間でしたが、原稿もちゃんと書きましたよ。オリンピック展望雑誌の記事を何種目か。長めの方から先に書いているので、種目数にするとまだ4分の1ですけど、感覚的には半分は終わっています。それに、4種目は帰国後に取材をしてから書くことになっているので、まあ、あれですね。ただ、編集作業的な部分もある作業なので、甘く見るとやばいでしょう。それに、陸マガの追加原稿の方もあって、そちらを今晩と帰りの飛行機の中で頑張らないといけません。
 ナポリの雰囲気に酔ってはいましたが、頭は冷静でした(ホントか)。昨晩のバスで駅前広場であるガリバルディ広場に向かっているとき、あることが閃光のようにひらめきました(選考ではありません)。謎が解けたと言った方がいいでしょう。実はローマGLで取材受付をした際、赤いポロシャツを記念品として受け取りました。さすがイタリア、真っ赤なのか、くらいにしか思っていませんでしたが、ナポリに着いてよく見ると、ポロシャツに使われる生地ですが長袖なのです。イタリアではそれもよくあることなのかなと思いましたが、これは「赤シャツ隊」の歴史にちなんだ一品なのかな、と閃いたのが昨夜のバスの中でした。
 19世紀のイタリア統一の際、軍事面で功績があったのがガリバルディで、彼が編成・指揮して活躍した義勇軍が赤シャツ隊です。八田さんが生きていたら「また、うんちく?」と言われそうですが、一応、史学科出身ですからね。だったら、もっと早く気付けって? でも、絶対にそうだとは言えないので、来年もローマに取材をしに来たら、確認します。タクシーには気をつけて。
 この日記はナポリからミラノに向かう電車の中で書いています。ミラノで乗り換えてローザンヌへ。今、フィレンツェに着きましたが、約50分の遅れ。ミラノの乗り換えは1時間10分の余裕があるのですが、心配だなあ。無事、今日中にローザンヌに着けるのでしょうか。



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