続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2006年2月  「行くぞ、火の国へ」 「あっ、そう」
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◆2006年1月29日(日)
 大阪国際女子マラソンのスタート1時間半前。寺田はなぜか、パントマイムを演じていました。長居競技場のスタンド下のプレスルームでのことです。たまたま両手を伸ばした方向に、1組の男女がいました。寺田の表情は、意味ありげな笑みを浮かべていたのかもしれませんが、何かを意図したわけではありません。その男女がどう受け取ったのかは、こちらの知る由もありませんが。
 次に、伸ばした両手をプレスルームの外、トラックの方向に向けました。パントマイムですから、言葉は発していません。こちらは単に演技者として振る舞っただけです。しかし、その男女は外に出て行きます。そうなったらもう、成り行きに身を任せるしかないでしょう。という経緯で、この写真を撮らせていただきました。

 大阪国際女子マラソンに出場する青戸敦子さんと、夫君の100 m元日本記録保持者、青戸慎司氏です(昨日の日記参照)。慎司氏はカメラマンとして来阪されていました。長居競技場で走った思い出を聞くと、大きな大会はないと言います。長居競技場が改装されたのが93年頃(94年の女子マラソンは第二競技場がスタート&フィニッシュでした)ですが、今のスタジアムになってからは走っていないようです。
 長居のようなどでかいスタジアムよりも、こぢんまりした競技場が好きだったと言います。今はもう使われていませんが、以前に兵庫リレーカーニバルが行われていた王子競技場などを例に挙げていました。自身はまだそれほど強くなかった頃に、同競技場で山内健次選手(兵庫県出身。200 mの元高校記録保持者。87年には日本タイ)にサインをもらったこともあるそうです。

 慎司氏とそういった話をしていると、大阪高の岡本博先生がいらっしゃいました(この頃はもう、敦子さんはアップに行かれていたと思います)。40〜50分前までは、陸マガ次号の大阪高の記事を書いていたのです。陸マガ2月号の大阪高記事の前編で紹介したことですが、金丸祐三選手はレース終盤で大きく肩を振りますが、その動きで軸を保っているのだと岡本先生は説明してくれました。山内選手も上体の揺れが目立ちましたけど速かった。細かく分析したら、まったく同じということはないのでしょうけど、上体の動きを上手く使って軸を保つという点では一緒なのかもしれません。というような話をしました。
 その後、陸マガ&クリールの曽輪泰隆ライター(独身、と書けと言われています)と話をしていて、岡本先生と大森国男監督から同じ質問を受けていたことに気づきました。岡本先生は12月の取材中、大森監督からは全日本実業団対抗女子駅伝の後に岐阜から名古屋に移動中の電車内でした。優秀な指導者は、社会的にも鋭い部分を突いて来ます。そこを指摘してくる曽輪ライターも、なかなかの切れ者です。顔は癒し系ですけど。

 肝心の敦子さんの結果ですが、2時間59分14秒で54位。目標の自己記録(2時間56分55秒)更新はできませんでしたが、5km毎のスプリットを見ると、一気に落ちているのでなく、なだらかな落ち方をしています。練習が不十分な状況で、終盤までよく粘った走りだったようです。大阪入りしてから数日間、慎司氏が一粒一粒、気持ちを込めておむすびを握った甲斐があったというものでしょう。

 レース前のネタを書いてきたら、こんなに多くなってしまいました。
 レース後も色々とネタがありました。ネタというか、色々と考えさせられたことが多い一日だったように思います。レースのこと、選手のこと、報道のこと、イベント的な要素のこと、自分のこと。書くかどうかは、神のみぞ知るところです。


◆2006年1月30日(月)
 ホテルを10時に出て、15時前には新宿の作業部屋に着。移動の間に電話を3本ほどしたでしょうか。新幹線車内では産経新聞とサンスポの関西版に目を通しました。毎年思うことですが、この2紙の大阪国際女子マラソンの扱い方は、マラソン報道としては最大のスペースを割いているように思います。神戸新聞の全国高校駅伝もすごいですけど。

 昨日のレース後の行動ですが、長居競技場で取材後、16:30頃にバスで千里阪急ホテルに移動しました。車内では、まずは記録をよく見ます。レース直後も記録は見ますが、選手や監督たちの話を聞くことが優先されますから、なかなか冷静な分析ができません。今日は日本選手の中では嶋原清子選手が30km以降は一番速いな、とか、小幡佳代子選手の中間点通過は宮崎女子ロード(ハーフマラソン)よりも速いな、とか。あっ、小幡選手のことは、テレビを見ながら気づきました。
 あとは、AC・KITAの選手たちがたくさん頑張っているのが目に留まりました。「もしかして」と思って、ワールドカップ(世界選手権のマラソンで行われている国別対抗戦)のように所属チーム上位3選手の合計タイムを調べようとしました。ケニアはデレバ姉妹以外に、100番以内に名前はありません。京セラも阿蘇品照美選手が棄権したので坂田昌美選手と小川清美選手の2人だけ。資生堂も2人だけです。AC・KITAは河野真己選手の14位を筆頭に、34位、41位と50位以内に3人が入っています。だから実業団チームより強い、ということにはなりませんけど、頑張っているチームだということは、はっきりとわかります。

 ホテルに着くと、表彰式兼フェアウェルパーティーまでには40分くらい時間があります。新聞記者たちは通常、競技場の取材ですぐに原稿を書いて送らないといけません。ホテルに来られる記者の数は、グッと少なくなります。ホテルまで来る常連のなかに、元大広(日本選手権などを扱っている広告代理店)の大内さんと、有森裕子さんと一緒に会社を立ち上げた深山さん(ライツのサイトのプロフィール)がいらっしゃいますが、今日も3人で話をしていました。お2人とも大ベテランで、昔の選手の名前を注釈抜きで話せる方たち。話がポンポンと弾みます。
 その深山さんが「34歳の最高記録とか、調べたでしょう」と寺田に言ってきます。実は、その通りです。中間点くらいで、歴代パフォーマンスの上位記録を出した選手の年齢をチェックしました。今回の小幡選手よりも年上で活躍した選手といえば、弘山晴美選手だけ。弘山選手が02年の大阪で2時間24分34秒を出したときは33歳、昨年11月の東京で2時間24分39秒をマークしたときの高橋尚子選手も33歳。05年の大阪で弘山選手は36歳でしたが2時間25分56秒と、今回の小幡選手の記録を4秒下回っています。

 長居では1〜3位選手と、その指導者の話しか聞けなかったので、ホテルでは初マラソン選手を主に取材しました。小幡選手にも、ポイントを絞って話を聞くことができました。前述の宮崎よりも速いタイムで中間点を通過できるのはなぜか、ということです。自己ベストを出した2000年の大阪でも、同じように宮崎よりも速いタイムで通過しています。いくら、3週間前のロードレースは練習の一環で、調整もしていない状態だったとはいえ、普通の選手では考えられません。特に男子ではそうですね。日本選手だったら1時間2分(もう少し速いか?)、世界のトップ選手なら1時間00分くらいで、3週間前のハーフマラソンを走るでしょう。そのタイムでマラソンの中間点を、通過できるとは思えません。
 その小幡選手のことも含め、今回のレースには謎が多くありました。
@小幡選手がなぜ、中間点を宮崎よりも速く通過できたのか?
A先頭集団についていくとレース前日に決めていた嶋原清子選手が、なぜ第2集団に位置したのか?
B招待の初マラソン2選手はなぜ、後半で失速したのか?
C一般参加の初マラソン2選手がなぜ、兵庫出身なのか…じゃなくて、2時間27分台でまとめられたのか?

 これらの謎を解き明かす記事を書く予定です。ただ、Bについては謎というほどでもありませんし、Cについては力があったから、マラソンへの適性があったから、というだけのことかもしれません。現実はなかなか、“こうだから、こうなった”と決めつけては書けないのです。Aの嶋原選手については、書けない部分もあったのですが、今日の新聞記事に出ていることなので、書けることになりました。
 問題は、実際に書く時間があるのかどうかです……と、最初から言い訳をしているようでは、ダメでしょう。絶対にやり抜くんだ、という強い意思がない。大成しないタイプです。でも、全国都道府県対抗男子駅伝の仲野旭彦選手の記事、書きました。あと少し、細かい部分(ニューイヤー駅伝のレース展開とか)を調べたら掲載します。


◆2006年1月31日(火)
 火曜日です。月曜日はまだ、日曜日のレースの余韻があります。新聞に記事が載りますし、一夜明け会見があったり、レースの結果を受けての反応が各方面であったりします。しかし、そういった余韻も、火曜日となると一段落するわけです。選手やスタッフも、翌日はレースの反省や会社への報告などで、それなりに忙しいことが多いようです。火曜日になって一息つくことができる、と聞いたことがあります。
 ということで、寺田も今日になって少し、大阪モードから脱しつつあります。原稿は相変わらず抱えている状態ですが、それはいつものことなので、取り立てて書くこともありません。かように、何もないのが火曜日です。


◆2006年2月1日(水)
 陸マガの大阪高連載2回目の原稿を書き上げました。
 大阪高を取材したのは12月。全国高校駅伝の前々日でした(それがあったから、7年ぶりに西京極に行けたわけです)。その際、連載2回分の取材を一気にさせてもらいました。1月に入って追加取材をしたわけではないのです。丸々1カ月も書く時間があったのに、この時期になってしまうとは…。実際に取材した順番に書けないことも多い、という一例です(単にサボっていたことの言い訳という気も、しないではない)。
 昨年終盤、陸マガに書いた中国電力企画も連載でした。内容が違うので単純な比較はできませんが、中国電力企画の方は連載1回単位で取材をしました。1・2回目は坂口泰監督の論文とその捕捉記事、3回目は選手たちの証言、4回目は坂口監督と故・中村清監督の関係という構成。1・2回目は1回の取材で書きましたが、3回目は選手7人の話を聞く必要があったので、広島まで行きました(岡山国体の直前)。4回目は国際千葉駅伝の前後で、幕張のホテルで話を聞かせてもらいました。

 中国電力の特徴の1つに、“自己責任”の原理がありました。主力選手はマラソンに向けた練習メニューを自分で考えますし、出場レースの選択も自身で行う。自分で決めた以上、自己責任でしっかりやるという考え方。
 2つの連載を担当した陸マガ編集部のT次長は、どうやら中国電力のやり方を見習ったようです。今回の原稿の締め切りをなかなか言ってきません。ライターの方から「何日までに書くから」と、言い出すのを待っていたのでしょう。しかし、寺田もさるもの。原稿を抱えていても、「締め切りはいつ?」と問い合わせません。
 大阪高の締め切りについてやっと電話が来たのが今日。「坂口監督の真似?」と問うと、他の仕事や編集部の引っ越し作業で忙しかったと言います。本心かどうかは、本人しかわかりません。締め切りは3日の昼ということでしたが、こちらは目処がたっていたので「今日中に書いて、明日、大阪高サイドと確認作業をして送ります」と申し上げました。

 かように(今日は水曜ですが)虚々実々の駆け引きをしているのが、編集者とライターです。
 と言い切ると誤解を招くので捕捉しましょう。寺田も6年前までは陸マガ編集部の人間でしたから、少しは作業手順も読めるのです。それで今回は、締め切りの打ち合わせを後まで引っ張っても大丈夫かな、と考えました。もちろん、編集部サイドはその都度その都度、事情が異なってきます。一概には言えませんが、急ぐのであれば連絡が来るわけです。
 良い子のライターはこのようなことはしませんので、特殊なケースと受け取ってください。


◆2006年2月2日(木)
 大阪高の岡本博先生と連絡を取り、大阪高連載原稿の手直し作業。取材対象に原稿を見せるのは例外的なことですが、練習メニューに関する記事なので、万全を期すことにしたわけです。特に今回は12月の取材にプラスして、93年に一度掲載した大阪高の練習メニューなども参考にしているので、注意を払う必要がありました。幸い、それほど大きな手直し作業にはなりませんでした。
 原稿の手直しはよくしていますが、たまには世直しもしたいと、時々思います。でも、思うだけで実行することはないでしょう。などと書いていたら、箱根八里のHH氏の言葉を思い出しました。それは「世界的な選手を育てようと思ったら、中学や高校の先生にはならない」というものです。
 詳しくは機会を改めて書けるのか、本人も知らない。


◆2006年2月3日(金)
 関東某所で取材。今日はカメラマン兼ライターでした。
 12:00から練習を撮影させてもらい、13時半から15時ちょっと前までファミレスでインタビュー。勤務先に移動して撮影と、その会社の社長さんへのインタビューという流れでした。
 今回は写真が綺麗に撮れたと思います。被写体が格好良かったから、という意見もありますが。背景をちょっとぼかしすぎたかな、という反省もありますが、まずは陸マガ次号をご覧ください。日記用のネタもありました。これも発売後に紹介したいと思います。


◆2006年2月4日(土)
 数日ぶりに自宅で夕食。家族T氏が映画の「ミュンヘン」を見たいと言い出しました。1972年のミュンヘン五輪がテロの標的にされた話だと思われます(こちらが映画の公式サイト)。スピルバーグ監督なんですね。

 映画とは関係のない話ですが、ミュンヘン五輪といえば男子100 m・200 mを制したV・ボルゾフ選手(ソ連)がすぐに思い浮かびます。白人選手では最後の五輪短距離2冠選手でしょう。ボルゾフ以後、黒人以外で活躍したスプリンターはというと、200 mで79年に世界新を出し、翌年のモスクワ五輪で金メダルを獲得したP・メンネア選手(イタリア)、モスクワ五輪100 m金メダルのA・ウェルズ選手(英国)が続きます。ただ、モスクワ五輪はソ連のアフガニスタン侵攻に対し、アメリカ、西ドイツらが抗議をして西側諸国がボイコットした大会です(日本も付和雷同的に不参加)。メンバー的には落ちます。
 モスクワ五輪以後、100 mの五輪メダリストは黒人選手で占め続けられます。200 mではシドニー五輪金メダルのK・ケデリス選手(ギリシャ)が唯一の、黒人以外の選手。110 mH、400 mHでも傾向は同じ。アテネ五輪の劉翔選手(中国)が1人いるだけです。それだけ、短距離・ハードル種目では黒人選手が圧倒的だということです。

 世界選手権なども含めると、R・ブラック選手(英国)や末續慎吾選手(ミズノ)、為末大選手(APF)もメダルを取っています。確かに黒人選手が圧倒的ですが、白人やアジア人もメダルが取れないわけではない。
 しかし、アメリカの白人選手はいませんね。唯一の例外がアテネ五輪400 mのウォリナー選手だけ。それが大きな話題となったのは、“アメリカの黒人以外の選手の金メダル”が極端に少ないからに他なりません。身近に黒人選手がいっぱいいると、“勝ってやろう”という気持ちよりも、“勝てっこない”という気持ちが強くなるのかもしれません。
 この説は個々にはあてはまらなくても、大きなグループとしてみたら、そう言えるのかもしれません。が、どう思うのかはあなた次第だ!


◆2006年2月5日(日)
 久しぶりに、どこにも取材に行かない週末でした。大分でマラソンが、香川ではハーフマラソンが、いいメンバーで行われているのに……陸上競技ライター寺田も終末かも。
 九州も四国も、そう簡単に行ける距離じゃないですからね。経費がかかるという意味で。特に大分とか、フリーランスには厳しいですね。ホント、少ない予算でやりくりしないといけないのですよ、これが(どれが?)。週末になると交通費や宿泊費で、ドーン、ドーンと出費がかさみます。たぶん、年間200万円近く使っています(海外へ行くこともありますし)。そのくらい投資をしないと、この仕事は務まらないということです。週末助け合い運動とか、してもらいたいくらい。
 あっ、グチっぽくなってしまいました。自分でやると判断してやっている仕事です。グチを言っているようでは、進歩はありません。中国電力の取材をして得た教訓です(教訓になっていない?)。

 丸亀では野口みずき選手と福士加代子選手が、ともに日本記録を上回りました。JAIC(各大会結果)に5km毎の通過タイムが出ています。序盤から野口選手を引き離した福士選手もすごいし、終盤で追い込んだ野口選手もすごい。10km通過は2人とも、1万mの自己ベストとほとんど一緒。コースや気象条件がよかったのでしょうが、それでもすごい。
 残念ながら4位の弘山晴美選手以下の集団は、慎重すぎるレース運びをしてしまったような印象です。最近、多いですよね。飛び出した選手を追う集団のペースが、なかなか上がらないケースが。ニューイヤー駅伝の1区とか、大阪国際女子マラソンの第2集団とか。ヤマウチ選手の位置で追えた選手も、何人かいたのでは? 選手個々に、このレースの位置づけが違うので、一概に良いとか悪いとかは言えないのですが。

 北九州女子駅伝の際にワコール永山忠幸監督に聞いた話では、福士選手は全国都道府県対抗女子駅伝と北九州の間、発熱もあってポイント練習はしていないそうです。北九州からわずか2週間。そこで練習ができたにせよ、ここまで走れたのはベースができているからでしょう。不十分な練習でも走れるということは、適性もあるということ。こうなると、どうしてもマラソン転向という話題が出てきます。
 新聞各紙の記事からコメントを拾うと、福士選手自身はこれまでと同じように「とてもマラソンなんか」というニュアンスです。今回のハーフマラソン出場は、師弟とも“1万mのためのハーフ”と言っています。実際、そうだったと思われます。しかし、永山監督からは「ここまできたら考える」とか「1万mの日本記録を更新したら考えたい」という発言が出始めました。
 注目したいのは、朝日新聞に載っていた「空白を埋められたら」という永山監督の発言。この“空白”という言葉は、いくつかの解釈ができます。1つは3000m・5000m・ハーフマラソンの日本記録保持者となったが、1万mだけ出していないこと。2つめは03年のシーズン前、04年の五輪前と故障があって、十分に練習を積めない時期があったこと。3つめは、アトランタ五輪の5000m&1万mでの3人入賞以来、トラックで五輪入賞が途絶えていること。このところ永山監督が何度か「アトランタ五輪の頃からトラックのレベルは上がっていない」と話しています。

 個人的には30分30秒を切るようなタイムを出してからか、五輪入賞を達成してから初めて考えるのでは、と思っています。高岡寿成選手のように、トラックをやりながらマラソンを意識する、という方法もありますが、その辺は選手のタイプ次第でしょうか。やっぱりマラソンはやらない、という結論になるかもしれませんし。
 どうも日本人は“最終的にはマラソン”と考えてしまいがちですが、それはあくまで世間一般の価値観です。トラックや駅伝を走り続けることに意味を見出す選手がいても、なにも悪いことはありません。


◆2006年2月6日(月)
 陸マガ記録集計号の版下製作作業が、いよいよ追い込み段階です。発売日は……編集部に聞いておきます。外部スタッフは締め切りは気にしますが、発売日までは気にしませんからね。発売日を聞いてしまうと、「なんだ、まだ時間はあるじゃん。(締め切りを)さば読んでるな」とか考えてしまいます。えっ、良いフリーランスはそんなこと考えない?
 1日の日記で締め切りについて“編集者と虚々実々の駆け引き”をすると書いたら、某専門誌のO村ライター(既婚)から、「駆け引きなんかしたことはありません」というメールが来ました。あれは例外の一例です、とリプライしました。基本的には、デザイン・印刷・製本のスケジュールがあって、それに合わせるしかありません。
 でも、月内に取材をした原稿など「いつだったら大丈夫ですか」と聞いてもらえるケースは多いですね。ありがたいことです。この場を借りて、謝意を表したいと思います。

 忙しいのですが、フィート&インチとメートルの換算表を作りました。金曜日に取材した原稿に、ちょっと出てくる要素なのです。皆さんご存じかと思いますが、陸上競技はイギリスで盛んになった経緯もあり、長さではフィート&インチ、重さではポンドがけっこう使われています。ハードルの高さやインターバル、砲丸やハンマーの重さなどです。マラソンでもロンドンやシカゴはいまだに、マイル表示の方がメインです。
 しかし、トラック種目はメートル基準がほとんど。400 mHのハードル間は完全にメートルですし、新しく決まっていくジュニアやユース規格の投てき物も、グラムです。大英帝国全盛時代のイギリス人が現代にタイムトラベルしたら、ちょっとショックかも。クラムじゃないし(高度すぎる!?)。

 忙しいのですが、外付けハードディスクを購入しました。300GBで1万7800円。記録集計号の作業に使用している98ノートPCは94年に購入したものですが、内蔵ハードディスクは340MB。当時は、これで一生大丈夫、と思いましたっけ。それが、Windows95を入れて、ちょっとソフトを入れるようになったら不足するようになって、書いた原稿を保存するために古いファイルをデリートしたりしていました。
 98年頃に会社に新しい98ノートを買ってもらいました。でも、まだ720MBとかだったと思います。それが今や300GB。GB、グレートブリテン……はイギリスですが、オチにするは難しかったです。オチチはケニアだし。


◆2006年2月9日(木)
 夜の11時ですが、コンビニに行って宅急便を出してきました。陸マガ編集部と野口純正氏宛。これで、最後のネーム出校を終えたわけです。記録集計号の話です。あとは、戻ってきた校正でコンピュータのデータを直して、印画紙に出力するだけ。だけ、ではありますが、直しの種類によっては時間がかかることもあります。油断はできません。
 が、先は見えました。寺田が版下を作成するのは全体の3分の1ですが、おそらく記録集計号は予定通りに出るでしょう。編集部の担当はキッチリ仕事をすることで有名な高橋次長ですし。
「発売日に雑誌が出なかった、なんて話は聞いたことがないでしょ?」
 もう何年も前ですけど、彼がそう話していた記憶があります。業界の方はこの言葉の裏側の意味を推測したり、あれこれ憶測を巡らすこともできるでしょうが、ここはひとつ、彼の仕事に対する真剣さと自信の表れと受け取ってください。
 いざとなったら彼のしなやかで強靱な10本の指が、つくばエクスプレスより速くキーボードを叩いて、すべてを解決するでしょう。陸マガ2月号が手元にある方は見てください。箱根駅伝の亜大・岡田監督と10選手の会見の記事を。彼はこれを、会見場(読売新聞)で、リアルタイムで(その場で、という意味です)愛用の白いモビルスーツに入力したのです。
 筑波大跳躍ブロックの先輩である阪本孝男先生や山下訓史選手、橋岡利行選手のように日本記録を出してはいませんが、キータッチの速さなら高橋次長も日本記録レベル。その一芸で紅白の審査員を狙っていると、社内では噂されたくらい。これは本当の話で、有森裕子選手が紅白に出た頃の話です。

 明日は16時から東京国際マラソンの記者会見。出席者は高岡寿成選手、入船敏選手、ダニエル・ジェンガ選手たち。この3人の共通点はですねぇ……(書き始めてから考えているのがバレバレ)……セビリアの世界選手権……にはジェンガ選手が出ていないか。見事に共通点がないというか、誰か1人が違うんですね。年齢はジェンガ選手だけがぎりぎり20歳台で、東京では入船選手だけ勝っていなくて、身長は高岡選手だけ180cm台で、3000mSCはジェンガ選手だけ8分10秒台で、ニューイヤー駅伝では入船選手だけ区間賞がない(区間2位が1回)。1万mが3人とも27分台っていうのでは超平凡だし、サブテンなんてのは“死語”だし。
 出身地の頭文字が全員「K」、っていうのではダメでしょうか。京都、鹿児島、ケニア……だけ国名か。なんとも、気が合わない3人です。レース本番で3人の競り合いになったら、誰か1人が意表を突いた仕掛けをするのは間違いないでしょう。
 と書いておけば、「寺田さん寺田さん、実は共通点があるんですよぉ」と、誰かが言ってくるかもしれません。意外にマニアックなこだわりを見せる男です。


◆2006年2月10日(金)
 16時から明後日の東京国際マラソンの記者会見が、新橋の第一ホテル5階で行われました。新橋に15:40着。ちょっと遅くなったなかな、と思って急いでエレベーターを降りると、目の前でちょっと太めのエルビス・プレスリーが携帯電話で話をしています。ビックリしてよく見ると、朝日新聞・原田記者でした。なんとなく雰囲気が似ているのです。プレスリーも晩年は、ちょっと太り気味でしたし。アメリカ留学経験があるから、雰囲気が似るのかもしれません。
 そういえば1つ、間違いをやらかしてしまいました。1月28日の日記で原田記者を全日中800 m4位と紹介しましたが、1500m4位の間違いでした。
 そういえば、原田記者は上智大出身。昨年の東京国際マラソンに出場し、その6日後の関東学連インドアオープン1500mに優勝した伴卓磨選手は、当時上智大の4年生でした。卒業後も陸上競技を続けていきたい、と話していましたが元気なのでしょうか。

 伴選手は実業団チームではなく、一般的な就職をした選手。同じようなケースはいくつかあります。2年前、箱根駅伝区5区の間賞選手を取りながら、航空整備士の道を選んだ鐘ヶ江幸治選手もその1人(正確には進路が決まった後に箱根駅伝を走ったのですが)。その年に制定された金栗四三杯(最優秀選手)の第一号選手に選ばれました。金栗氏(熊本県出身)は戦前の五輪マラソン代表で、箱根駅伝創設に関わった人物。筑波大の前身である東京高師出身でした。そして、筑波大の区間賞は、1985年の渋谷俊浩選手(2区)&矢野哲選手(7区。宮崎県出身)以来でした。
 その鐘ヶ江選手が一般参加で、今回の東京国際マラソンにエントリーしていました。原田記者の次に一緒になった読売新聞大阪の新宮記者に、「面白い選手が出場しますね」と話しかけると、“そうでしょう”といった表情で答えてくれました。たぶん、読売新聞か日本テレビは取材していますね。どこかのタイミングで記事なりVTRが出るでしょう。

 ところで、見る側にしたらどうでもいいことですが、東京国際マラソンは読売新聞系列と産経新聞系列の交互主催という形になっています。どうしてそんなことになったのかというと、女子に数年遅れで男子の東京マラソンが始まったとき、どちらも開催しようと力を尽くし、結果的にどちらも譲らなかったのです。最初の1981年は2月に読売、3月に産経主催で行われ、以後は隔年で主催を担当してきました。
 その第1回大会(読売主催)に優勝したのがあの喜多秀喜選手(佐賀県出身)ですが、日本人2位になったのが現コニカミノルタの酒井勝充監督です。記録は2時間15分台で、順位も13位。喜多選手との間には外国人選手が11人もいたので、とりたててすごいということはないのですが、この初マラソンがあるから今の酒井監督、ひいては今日のコニカミノルタがあるのです。詳しい話はいずれ、記事にする機会もあるでしょう。

 会見の様子は記事にしたのでそちらをご覧いただくとして、会見後、高岡寿成選手がカネボウの東京移転の質問に対し「読売新聞の手前、阪神ファンだなんて話せませんでした」とこぼしてきました。ニューイヤー駅伝のときに、絶対に移転のことを聞かれるから、プロ野球ネタで盛り上げたらどうか、と寺田が提案してあったのです。
 こういった気遣いも重要です。スポンサーとはちょっと違いますが、陸上競技を盛り上げようと投資をしてくれる組織ですから。でも、主催者の会社も極力、系列色を出さないように、公平に取材をしてもらえるような配慮もします。それに、プロ野球は広く浸透している娯楽ですから、選手が公の場で話してもなんら問題はありません。読売新聞の記者も、そんなことで気を悪くはしないはずです。

 朝日新聞、読売新聞、産経新聞と書いたら、毎日新聞の話を出さないわけにはいきません。毎日新聞・ISHIRO記者(筑波大OB)からは世界クロカンについて、貴重な情報をいただきました。なんと、浜崎あゆみ(福岡県出身)がらみの情報です。福岡国際マラソンのテレビ中継で必ず紹介される姪の浜という地名がありますが、その姪の浜の先にあゆみという女の子が住んでいる、という話ではありません。
 浜崎あゆみの話を具体的に書く前に、朝日、読売、産経、毎日と来たら、中日新聞の話を書かないわけにはいきません。中日スポーツの新陸上競技担当の寺西雅広記者(寺西隆経選手との関係は今度、聞いておきます)とは、来週の浜名湖一周駅伝(中日新聞主催。世界4大湖畔大会の1つ)について打ち合わせをしました。寺西記者は陸上競技担当になって2カ月ほど。全国高校駅伝の際は初心者的な部分も感じましたが(偉そうで申し訳ありません)、名岐駅伝や渋井陽子選手の記事を読むとなかなかのやり手です。渋井選手にも取材中に驚かれたと言います。
 寺西記者自身は来週、大学選抜女子駅伝の取材ですが(名城大が出ますからね)、担当の方の連絡先を教えてもらいました。北九州女子駅伝のときもそうですが、突然現地に行って取材がスムーズにできるわけではありません(なんとかなることもありますし、何とかしなくちゃいけないケースもあります)。段取りが大事です。
 中日新聞の話を書いたら、中国新聞の話を書かないわけにはいきません。でも、今日の会見に山本記者の姿はありません。カネボウ関係はもう、とっくに取材済み、ということでしょう。記事も掲載されていましたしね。

 浜崎あゆみの話も面白いのですが、平井堅ネタも面白いのです。高岡選手とISHIRO記者にも関係してくるネタです。でも、この話も機会を改めます(結局、両方とも書かんのか)。
 高岡選手ネタは明日に続きます。真面目な競技ネタ、になる予定です。ジェンガ選手と入船敏選手(鹿児島出身)も絡んできます。
 会見後はちょっと仕事をして、19:30に陸マガ編集部に。なんと、3月号が早くも刷り上がっているのです。記録集計号の校正を高橋次長から受け取りました。何度も紹介していますが、彼も筑波大OBです。
 実は原田記者に続いて高橋次長についても、昨日の日記で1つ間違いをやらかしてしまいました。高橋次長が入力した対象は“白いモビルスーツ”ではなくて白いノートパソコン(マック)。ノートパソコンはモバイルパソコンとも言いますから、間違えてしまったのです。白いモビルスーツというのはもちろん、機動戦士ガンダム(元祖ガンダム)のこと。高橋次長も「行きまーす」と言って取材に出かけています。
 うーん、話が終わりません。


◆2006年2月11日(土)
 今日は東京国際マラソン関連の取材はなし。金曜日に会見、土曜日に開会式(あるいは歓迎パーティー)という大会もありますが、今大会は行いません。大会本部ホテルに行って誰かが出てくるのを待っていれば、関係者とは誰かしら接触はできますが、今大会本部の第一ホテルは取材のしにくいレイアウトなのです。関係者が出入りする経路にロビーなど、それなりのスペースがあるホテルがいいですね。テレビを見る分には関係のないことですが、取材する側の盛り上がりという部分は、ホテルのレイアウトの良し悪しで多少は左右されます。一番やりやすいのは大阪国際女子マラソンの千里阪急ホテル、2番目が福岡国際マラソンの西鉄グランドホテルでしょう。

 ということで、昨日の記者会見後のネタを1つ書いておきます。各メディアとも、メインとなる選手は共同会見だけでは不十分と感じて、会見終了後に高岡寿成選手の囲み取材となりました。話題となったのは“勝ちパターン”について。優勝はしませんでしたが、日本記録を出した02年のシカゴと、優勝した昨年の東京はともにロングスパートでした。アテネ五輪選考レースだった03年の福岡や、04年のシカゴ、昨年の世界選手権など、競り合ったレースでは敗れています。
 寺田は口にするのを避けていたのですが、どの記者もその点は気づいていたようで、質問が出ました。高岡選手はできれば、今回は違う勝ちパターンを見せたいようです。
「あのパターンしかないと思われるのはイヤですから。競り負けているイメージが強いのも払拭したい。せっかくここまでトラックをやってきたのですから、トラック勝負でも勝てるところを見せたい」

 ここで忘れてはいけないのがダニエル・ジェンガ選手です。ジェンガ選手も2時間6〜7分台は多く出していますが、あまり思いきったスパートができていません。ここ数年のシカゴもそうですし、優勝した一昨年の東京も、大崎悟史選手をつかまえたのは競技場直前でした。本人も昨年のシカゴのレース後に話していましたが、ちょっと勝負に構えすぎるところがあります。
 特に、同じケニア選手など、強く意識する相手がいるときにその傾向が大きくなる。02年のシカゴは、昨日の会見では名前を出しませんでしたが、ハヌーシ選手(アメリカ)というよりもテルガト選手(ケニア)をマークして前に出なかったのです。40kmあたりまでは、テルガト選手と一緒に高岡選手との差を詰めていました。一昨年の東京は、やはりケニアの五輪選考を意識して、30kmで集団を抜け出した大崎選手ではなく、集団にいたキモンデュ選手(ケニア)との勝負をしてしまった。
 昨日のジェンガ選手の話を聞くと、高岡選手を徹底的にマークしそうです(インフルエンザの影響が心配ですが)。高岡選手も競り合いを想定している。2人がお互いを意識しすぎると、機を見るのにな入船選手に、意表を突いたスパートをされるかもしれません。入船選手のことですから、を持してスパートすることもあるでしょう。
 ただ、ジェンガ選手はジェンガ選手で、いつもとは違うパターンを考えているかもしれません。ロングスパートを見せる可能性もある。高岡選手も、会見では(会見記事参照)、入船敏選手とトラック勝負が理想、と言っていますから、入船選手のスパートも想定内でしょう。ここまでまったく触れていなませんけど、コリル選手が2時間4分選手の底力を見せる可能性もあります。

 これらは、あくまでレース前に考えていることと、過去のレースぶりから言えること。実際に走り始めたら考えが変わるかもしれません。考えというか、レースの感じ方ですね。同僚の渋谷明憲選手に誰が最初にスパートすると思うか、と聞いたら「やっぱり高岡さんじゃないですか。レースになったら…」と言っていました。高岡選手も「勝てれば何でもいい」と、前置きをしてから、違うパターンを見せたいと話し始めたのです。
 高岡選手とジェンガ選手が、レースパターンを変えるのかどうか。他の選手が、2人の想定外のレースをする可能性もあります。誰がどこで仕掛けるのか。いつにもまして、注目したい点です。

 ところで、今日は取材に行かなかったというよりも、行けなかった、と言った方が正確です。というのも、今日中に記録集計号の版下約70ページを出力しないといけませんでした(40ページ分はすでに納入済み)。白いM(昨日の日記参照)の高橋次長(筑波大OB)から「月曜の朝には、絶対に印刷所に入れないとダメですから」と、釘を刺されていたのです。肝心の発売日ですが、2月25日と判明しました。昨日受け取った陸マガ3月号に、そう載っていました。
 画面上のデータ修正作業はほどなく終わり、15時くらいからプリントアウト作業に入りましたが、そこからが大変でした。トラブルは連続するし、ミス(レイアウト部分のミスです)に気づいて再度データを修正することになるし。
 一番困ったのは、特定のページだけプリントアウトしようとしているのに、全ページが出力され始めてしまうことです。すぐに気づいて中止コマンドを実行すると、必ずフリーズします。これにはとことん、困らされました。印画紙に最高画質で出力する場合、寺田の持っているPCとプリンターでは1ページに3〜4分かかるのです。70ページだったら何時間になるか。
 最後の最後で気づいたのですが、印刷ユーティリティーでインクの残量チェックをすると、指定しておいたページがぶっとんで、全ページ印刷になってしまうようです。途中でインク切れになると、かすれた文字になってしまってやり直さないといけません。それを防ぐために、頻繁に残量チェックをしたのが裏目に出ました。
 最後の10ページくらいは、もう“何も起こらないだろう”と思っていたら、最後から4ページ目でまた、レイアウトミスを発見。最後まで、気を抜けない作業でした(まだ、目次が残っていますが)。終了したのは夜の10時。いつもは面倒くさいとしか思えないのに、のほほんとした雰囲気で洗濯物を干すことができました。


◆2006年2月12日(日)
 東京国際マラソン取材。ちょっと寝坊してしまいましたが、11時には国立競技場に着。プレスルームに後方のドアから入ると、最前列に白髪の目立つ頭部を発見。白いMの陸マガ高橋次長(筑波大OB)です。さっそく記録集計号の版下を渡しました。「徹夜ですか? 顔がむくんでいますが」と言われてしまいましたが、睡眠時間は4時間半と、きっちり確保しています。昨晩は頭が冴えて、なかなか寝付けなかったのは確かですけど。何を考えていたかというと、色々です。将来的な仕事のビジョンも1つ、浮かびました。これをやり遂げられたらちょっとすごいぞ、と自分でも思っています。具体的には内緒。企業(個人事業主)秘密ですね。

 レース前は主に、指導者たちの話を聞いて回ります。
 まず出くわしたのが三菱重工長崎の黒木純監督(宮崎県出身)。同チームでは招待の堤忠之選手が欠場したのですが、小林誠治選手が堤選手に匹敵するくらいに期待できると言います。初マラソンの99年延岡で2時間12分07秒を出して注目された選手。今回が7回目のマラソンですが、その後は故障が多くてスタートラインまでたどりつけない期間も多かったといいます。
 ふと、小林選手の出身高校はどこだろうと思って黒木監督に質問すると、「宮崎県の高千穂です」と教えてくれました。寺田はすかさず、「小林なのに高千穂?」と切り返しました。今日はなかなか冴えていましたね。今年は九州イヤーですから。

 続いて、カネボウ・伊藤国光監督が記者たちに囲まれていたので、そこに合流しました。ペースメーカーの設定は、昨年と違って5km15分00秒にしたということでした。昨年のように最初の坂では14分50秒で入って、徐々に15分00秒に落として、という複雑な設定は、ペースメーカーたちが実行しにくいのだそうです。
 あとは、瀬戸智弘選手や中村悠希選手、真壁剛選手たちが、故障でクロスカントリー出場が厳しいこと、東京移転後のことなど、カネボウの“今後”のことを話してもらいました。
 次に話したのがヤクルトの物江収コーチ。ダニエル・ジェンガ選手が今日、国立競技場まで来てから棄権を決めたことを教えてもらいました。やはり、インフルエンザによる体調の落ち込みが、十分に回復しなかったようです。「2時間12分でなら走れるだろうけど、それでは彼も納得できないでしょう」と物江コーチ。後でテレビを見ると、ジェンガ選手の目に涙がありました。彼の真面目な性格は、寺田もよく知っています。さぞや、つらい決断だったのでしょう。捲土重来を期待します。

 続いて日清食品・白水監督(福岡県出身)に。昨日の姫路城ロード(10マイル)で徳本一善選手が優勝していたので、復調の様子をお聞きしました。どうやら、手術した膝の状態は良好のようです。世界クロカンはショートで代表を狙っているようです。千葉に出て、温かいところで合宿して、福岡に出る予定だそうです。中期的には、日本選手権が目標とも話してくれました。種目も教えてもらいましたが、今後の状態で変わることもあるでしょうから、ここでは伏せておきます。
 日本選手権後は、来冬のマラソン出場も考えているようです。これも、書いていいことなのか迷いましたが、姫路城ロードの神戸新聞記事にも出ていました。ということは、徳本選手自身が公の場で話したのでしょう。
 チームとしても、今年のニューイヤー駅伝は10位と近年では最低順位だった日清食品ですが、期待できそうな話も多くあります。注目していくべき部分です。

 最後に大塚製薬・河野匡監督(筑波大出身)、アコム・長沼祥吾監督(筑波大&長崎県出身)、共同通信・宮田記者、毎日新聞・ISHIRO記者(筑波大出身)が話しているところに加わって、昔の写真を取り出しました。今回が、現行コースの最後の東京国際マラソンですから、第1回大会のある選手の写真をコピーしてきたのです。指導者となっている現在の姿からはなかなか想像がつかないと思ったのですが、河野監督がすぐに言い当てました。
 そういえば99年のベルリン・マラソンで犬伏孝行選手が日本記録(日本人初の2時間6分台)を出したとき……この話も伏せましょう。
 忘れていました。その前に日本テレビ前(元?)箱根駅伝プロデューサーの新井さんと、陸マガ高橋次長が話していたので、「どちらが先輩?」と質問。2人は筑波大で同じ跳躍ブロックでした。新井さんの方が上かな、とは思ったのですが、高橋次長のが強烈で判断に迷いました。実際は、新井さんが4年生のとき、高橋次長が1年生だったということです。

 レース直前には、高岡寿成選手夫人の直子さんもお見かけしました。ちょっと挨拶をしただけですが、その表情からは高岡選手のことを真剣に思っていることが伝わってきます。期待と不安が半ばしている……というより、心配している気持ちの方が強いようです。選手自身は自信を持てても、家族はそうはいきません。それが、家族というものだと思います。為末大選手のお母さんもヘルシンキ(世界選手権)で、スタンドまで行っていてもレースを見ていませんでした。
 やはりヘルシンキでは、同じホテルに泊まっていた直子さんに男子マラソンのレース当日の朝、お会いしました。今日と同じか、もっとシリアスな表情で
「大丈夫でしょうか」
 と聞かれたことを覚えています。
「大丈夫でしょう」
 と答えました。その場では何か、1つか2つ理由を付けて話したかもしれません。でも、正直に言えば「大丈夫」と言い切れる根拠はありませんでした。国内のマラソンなら、外国勢の状態も主催紙の記事や記者会見などから少しは伝わってきますが、世界選手権では外国勢のそういった情報がありません。代理人たちの噂話くらいです。
 それに、高岡選手はレース前に不安要素を話すことは、一度としてありません。つねにポジティヴ・シンキング。でも、直子さんのあの表情を見て、「どうですかね?」とは答えられませんでした。寺田も人の子です。ときどき、猫の子だったら良かったと思いますが。

 しかし、今日はジェンガ選手欠場を聞いて、高岡選手が思いきったスパートがしやすいのでは、と考えていました(その話を直子さんとしたわけではありませんが、誰かとはしました)。その理由は……記事にする予定です。
 どうして、このようなしんみりした話を書いたのか。その理由は明日。レース後のネタもたくさんあります。


◆2006年2月13日(月)
 昨日の東京国際マラソン取材ネタのつづきです。どうして、柄にもなく選手の家族のことを書いたのか。その前に、10日の日記で“ちょっと太め”のエルビス・プレスリーのようだと書いた朝日新聞・原田記者のことを書いておかないといけません。

 スタート前、スタンド下の記者室で原田記者を見つけると、“ちょっと太め”と書いたことを謝りました。本人がダメだと言ったら、削除することも考えていたのです。
 しかし、原田記者が返事をする前に、隣にいらした朝日新聞事業部の石沢隆夫さん(早大OB)が、「それは事実と違う。“ちょっと”なんかじゃないよ」と言ってくれました。石沢さんといえば100 mの元日本記録保持者(1973年に100 mで10秒1。少し前まで手動計時も公認されていました)。言葉に重みがあります。
 いきなりレース中の話に飛びますが、36kmで高岡選手がスパートしたとき、国立競技場の巨大スクリーンでそれを見ていた長男の環伍君は、両手に持っていた旗を大きく振って、踊るように応援していました。そして環伍君の隣では、原田記者が監獄ロックを歌っていた……という、プレスリーを知らない世代にはピンと来ないギャグを書こうと思っていたのですが、そんな自分を恥じていたから昨日の日記になったのです。

 レース前日の土曜日の夜、日本テレビの番組で高岡選手と環伍君の特集をしていました。01年福岡から04年のシカゴまで、高岡選手がマラソンで3位しかとれなかったため、環伍君は運動会でわざと3番をとっていたというのです。それが、前回の東京で高岡選手が優勝した後は、1番をとるようになった。「1番になる大変さを環伍にわかってもらえれば」と、高岡選手はコメントしていました。このテレビを見て、原田記者を無理矢理プレスリーに仕立て、監獄ロックがどうこうと、受けそうにないオチを書こうとしていた自分が恥ずかしくなりました。
 元々、寺田はあまり、選手の家族の話を書きません。家族の応援や、家族の存在で強くなれるのならみんなが強くなれる。誰にでも当てはまることを書いても仕方ないだろう、という考えでした。それよりも、動きの技術的なところ、長距離だったらペース配分、トレーニング方法、競技へのスタンスなど、とにかく競技的な部分を書いた方が面白いんじゃないか、という考え方をしてきたのです。
 しかし、土曜日のテレビを見て、コペルニクス的に考えが変わりました。やっぱり、生活の基本的な部分は家族との関わりであり、そこがしっかりしていて初めて、競技力に結びつくのだと。練習メニューの良し悪しなんかよりも、よっぽど基本的な部分です。
 とはいっても、そういった部分を報道するとしたら、文字よりも映像の方がイメージを伝えやすいのは明らか。“これは”というネタでないと、テレビ以上のインパクトは与えられません。それで昨日は、直子さんのヘルシンキの話を書かせてもらったのです。あのくらいであれば、それなりにインパクトはあるかな、と思いまして。

 話をレース中に戻します。寺田は北海道文化放送の近田誉アナの隣でテレビを見ていました。三菱重工長崎の小林誠治選手が昨年の北海道マラソンに出ていたのですが、手元の資料ではそれが5年ぶりのマラソンになっていました。その点を確認すると、「その間に一度、北海道に出ているはず」と教えてくれました。レース後に本人に確認すると、その通りでした。この辺はさすがです。
 前の席には函館出身の原田記者がいたので、近田アナを紹介しました。その際に、原田記者の全日中4位は、円山で開催されたときだったことが判明。当時は学年別(1年と2年)の1500mが行われていて、1年1500mでのことでした(意外と、同僚の小田記者とかも正確には知らなかったりして)。
 原田記者はその後、早大から勧誘を受けたりもしたのですが、得意の語学を生かすために上智大に進学し、卒業後は電通に勤務(電通野郎1号とも言われています。2号はもちろん……)。そして数年前に朝日新聞に転職した異色の記者なのです。

 上智大といえば、10日の日記で触れた伴卓磨選手は、今年も東京国際マラソンを走っていました。卒業後は普通に仕事をしながら時間を見つけて走り続けていて、5000mと1万mで自己新を出したそうです。簡単にできることではないでしょう。その反動で、今は調子が落ちている状態だったようです。量を追う練習もできていなかった。この辺が、市民ランナーの難しいところです。30kmを1時間49分07秒で通過したところまでは記録が残っているのですが、途中棄権に終わりました。
 航空整備士になった初代金栗杯受賞者の鐘ヶ江幸治選手も、完走はしましたが2時間36分10秒にとどまりました。2時間10分台というのは、一般人が簡単に出せるタイムではないようです。
 早大キャプテンの高岡弘選手も途中棄権。昨日は風が強く、20〜30kmまでは相当な向かい風だったようです。その後はあの坂ですから、棄権者が多かったのもうなづけます。箱根駅伝で注目された選手ですら、走りきれない。3万人規模のレースになる来年も、今回のような悪コンディションになったらどうなるのでしょう。最初から完走を目的に走れば、多少の寒さは問題ないのでしょうか? 真冬の大都市マラソンって、聞いたことがないのです。11月や3月あたりの方がいいのでは?

 早大・高岡選手が棄権したとき、テレビは高岡選手の後輩を鼓舞しようとする気持ちについて、盛んに触れていました。これもチームスポーツである駅伝では、とても重要な点です。解説のエスビー食品・瀬古利彦監督(早大OB)は「頑張って予選会を通ってほしいですね」とコメントしています。さすがに、予選会は問題ないだろうと思って、中日新聞・桑原記者に話を振りました。同記者も早大競走部OBで、瀬古監督とは同学年。
 しかし、「どうかなぁ」と桑原記者も渋い顔をします。温厚な人柄で有名な桑原記者ですが、後輩に甘い顔はしません。

 今日も長くなってしまったので、レース後の話は明日にでも。


◆2006年2月14日(火)
 人間、逆らえない相手の1人や2人はいるものである。
「14日に記者発表があるから」
 一昨日の東京国際マラソンのスタート前に、アネサンCから言われたとき、今日の横浜国際女子駅伝記者発表会に行くことが決まった。ちなみにアネサンCは日体大OB。寺田と同じフリーランスだが、テレビ局から同駅伝の仕事を請け負っている。
 大会2週間前の記者発表とは通常、出場選手が決まったことの発表である。あとは、主催者サイドから、ここを見てください、ここが面白いですよ、とちょっとしたアピールがあるくらい。出場選手が同席することはない。新聞記事であれば、主催者サイドの偉いさんのコメントなども使えるが、寺田のような立場の記者にそれは必要ない。したがって、メンバーさえわかれば、わざわざ発表会場に行くこともないのである。
 アネサンCには「案内のメールをもらっています」と答えたものの、内心、行くことに逡巡していた。逡巡とは決断がつかず、迷うこと。シュンジュンと読む。ノグジュンではない。
 しかし、聞けば新谷仁美選手と小林祐梨子選手が同席して会見するという。将来の女子中・長距離界を背負って立つと思われる2人である。場所も麹町(以前の日本テレビのビル)で、新宿の作業部屋から40分もあれば行ける。最初は義務感から行くことを検討していたが、次第に「行かない手はない」と思うようになった。

 会見場に着いてすぐに、いつもの雰囲気とは違うことに気づきました。いつもの陸上競技担当記者の数が少なくて、(推測ですが)テレビ番組担当記者の数が多いのです。以前、TBSのアジア大会番組製作会見に出席したときと、同じ雰囲気です。「これは…」と寺田は考えました。
「アネサンCはなんで、寺田を来させたのだろう?」
 結論から言えば、寺田は2つ質問をしました(普段はあまり共同会見で質問はしません。でも、東京国際マラソンのときはジェンガ選手に質問しましたっけ)。この記事の金哲彦部長に対するものと、それに続く小林選手への質問です。陸上競技専門外の記者が半数以上を占めるわけですから、ちょっと専門的だけど知ったら面白いぞ、という点をアピールしたかったのです。
 最近の会見では、自分が知りたいという純粋な疑問ではなく、自分が質問することの答えを多くの人に知ってもらいたい、という意図で質問することもあります(ジェンガ選手への質問も同様の意図でしました)。ちょっと生意気ですけど、それなりにキャリアを積んでいるのは確かですし、事前の会見で記事を構成しないといけない、という状況ではないことも多いのです(ちょっと余裕がある、ということです)。
 今回について言えば2人の超高校級の選手がいて、一般メディアにはどちらが強いんだろう、という疑問が生じるのではないかと想像しました。2人は違う種目で実績を残し、動きのタイプも違うということをアピールした方がいいと考えたわけです。金部長もその意図を察してくれたのでしょう。わかりやすく、簡潔なコメントで2人の違いを説明してくれました。
 会見後にアネサンCから「呼んでよかったわ」と言われたときは、ちょっとした満足感がありました。

 本日は、会見から帰ってすぐに、あるテレビ雑誌のコラムを書きました。来年から行われる「東京マラソン」についてです。3万人規模の大衆マラソンとトップ選手同士の競技。2つの要素が同時に進行するレースになりますが、テレビ中継ではこれまでのように、エリート選手の争いを丁寧に紹介して欲しいという意見です。それが、マラソン人気を保ち、ひいては実業団システムの存続になくてはならないこと、という論旨です。
 えーと、今日の話を書いていたら長くなったので、東京国際マラソンのレース後のネタを紹介するのは後日とさせてください。
 記録集計号の版下製作作業は昨日で終了しました。寺田が担当した以外のページも無事に終了したということです。2月25日には書店に並ぶでしょう。そういえば今日は、陸マガ3月号の発売日。表紙は福士加代子選手です。丸亀ハーフマラソンが表紙になるのは初めてでしょう。寺田が担当したのは……という話も、明日にしましょう。


◆2006年2月15日(水)
 昨日の横浜国際女子駅伝の記者発表会で素晴らしいと思ったのは、受け付けで記者(男性だけ?)にチョコレートが配られたこと。2粒だけですが、報知新聞・E本記者はもらったチョコレートの数にカウントしたとか(真偽は不明)。対照的に、某専門誌の二枚目ハードラーことO川編集者は「なにこれ?」という表情だったとか(真偽は不明)。あまり二枚目と書くと同編集部のE本編集者からクレームが来ます。念のために書いておくと、O川編集者は学生時代に400 mH選手で、逆足踏み切りとなる2台目で外に振られることが多かった。2台目ハードラーと呼ばれていたのがいつの間にか、二枚目ハードラーになったのかもしれないのです。言葉の語源とは、そういった誤用が一般化するケースも多々あります。

 チョコレートの件は冗談ですが、素晴らしかったのは主催メディア(日本テレビ)が、取材した選手のデータを惜しげもなく公開したことです。新谷仁美選手と小林祐梨子選手の2人だけですが、かなり細かい部分まで記者発表資料として配布しました。この手の記者発表資料では、ベスト記録と身長・体重、主要大会の戦績、簡単なプロフィールでお茶を濁すのが普通です。主催メディアは必ず事前取材をしているのですが、そのときに得た情報を、それほど公開しません。
 しかし、事前取材をした情報を公開しないと結局、同じような質問を選手は受けることになるのです。選手が話したことをどんどん公開すれば、次に取材をするメディアは、さらに別の角度からアプローチすることができる。
 取材するネタがなくなる? そんなことはありません。個人的なことを言わせてもらうなら、個別取材には必ず、以前にその選手のことが書かれた記事を読んで行きますが、「そうか。だったらここはどうなんだろう。ここをもっと突っ込んでやろう」と思います。
 主催以外のメディアの質が高くなる? そんなことを恐れるようでは、主催メディアは務まりません。2月10日の日記にも書いたと思うのですが、いったん主催者サイドに回ったら、その大会を盛り上げるスタンスをとるべきなのです。主催メディアは他のメディアよりも絶対に、割くスペースが大きくなりますから負けることはまずありませんし。

 ロンドン・マラソンの取材に行った際、プレスルームにここ数日間の記事が張り出してありました。主催メディアのものかどうかはわかりませんが(そもそも、主催メディアがあるのかどうか)。それに、海外の大きな試合ではスタティスティクスデータが、必ず提供されます。日本のマラソンでは残念ながら、プレスルームに主催新聞の記事が張り出されていることはありません。某マラソンの事務局には張り出されていましたが、残念ながらそこは立入禁止の部屋でした(入っていたら注意されました。外部に聞かれたくない話をする部屋のようです)。

 ということで、その資料を入手できただけでも、記者発表会に行った価値はあると感じて帰ってきたら、日本テレビのWEBサイトに同じものが掲載されていました。

 昨日からは、アポ取りが佳境に入っています。これをおろそかにすると、スケジューリングが上手く行きません。携帯電話は、相手が出られる状況とは限りません。でも、出てもらえるまで電話をする。それが鉄則です。しかし、昨日の夕方、K監督の携帯に伝言を入れたまま、その後はかけるのを忘れていました(オイオイ)。そのK監督に今日の昼頃電話を入れると、昨日、何度も寺田の携帯に電話をかけたのに、圏外だったといいます。
 これは、まずいと思いました。実は最近、新宿の作業部屋が携帯電話の圏外になることが多いし、通話の途中で音声が聞こえなくなったり、切れてしまうことも頻繁に起こります。それが、アポ取り相手にまで迷惑をかけてしまっていたのです。
 ただ、圏内になることもある。故障なのか、近所に大きな建物ができたせいなのか、原因が特定できませんでした。
 しかし、寺田の携帯は圏外でも、作業部屋に来た人の持っているvodafoneの携帯が、ちゃんと圏内になっていたりします。昨日行った麹町の日本テレビでも、二枚目ハードラーの携帯はしっかり圏内なのに、寺田の携帯は圏外。これはおかしいと思って、vodafoneショップに行きました。どうやら、よくある症状のようで、店員の対応も慣れたものでした。基盤を交換する可能性もあるとか。1週間ほど修理に出さないといけません。もちろん、その間は代替品が提供されますので、問題はありません。新宿の作業部屋に持ち帰ると、ずっと圏内です。
 ちなみに、トヨタ自動車ではキャプテンの浜野健選手はタケシですが、山岡謙二選手、高橋謙介選手、尾田賢典選手までがケン内。それ以外の選手はケン外……かなり無理があります。
 今日も長くなってしまったので、陸マガ3月号のネタは明日に延期します。東京国際マラソンのレース後ネタは???


◆2006年2月16日(木)
 13日の日記に「東京マラソン」の開催時期がよくないのでは、と書いたことにメールをいただきました。それによると、市民ランナーは開催時期にはこだわらないそうです。東京を走れること、トップ選手と同じレースを走れること、何より「東京マラソン」という一大イベントを走れることが喜びだと書かれていました。そういった大事と比較すれば、寒いだの暑いだのは小事なのだそうです。
 なるほど、と思いました。そういう考え方をするのは理解できます。
 ただ、実際に走るランナーが考えることと、運営サイドが配慮すべき点は違ってくると思います。別の方がメールで、特に寒くなった場合、トイレの数が重要になると指摘してくれました。主催者も考えていると思われますが…。昨年、ニューヨークを走った某指導者も、「ホスピタリティーが重要になる」と話していました。その辺のことは今度、ノグジュン(クリールの野口順子ライター)から聞いておきましょう。

 来年からも「東京マラソン」の主催メディアは、読売系列と産経系列が交互に担当します。ところで、というか、やっと今回の東京国際マラソンに話が戻るのですが、高岡寿成選手の2連勝なるかどうか、が話題になりました。でも、ちょっと待てよ、です。84・88年にイカンガー(タンザニア)が勝ったときか、91・93年にメコネン(エチオピア)が勝ったとき、「連勝」という言葉をテレビは使っていたような記憶があるのです。当時は、主催メディア同士が意地を張り合っていたのが、近年は和解して“実際の2年連続”でも連勝と定義するようになったのでしょうか。
 レース後にフジテレビのKプロデューサーにその点を聞くと、両主催メディア間で特に話し合いをしたことはないと言います。Kプロデューサーも10年以上前のことは担当以前で、はっきりこうしたとはわかりません。まあ、前にも書きましたが、見る側にとってはどうでもいい部分です。けど、もしかしたら、気にしている方がいるかもしれないと思って、書いてみました。

 レース後の高岡選手はテレビインタビューがあるので、まずは日本人2位の入船敏選手(鹿児島県出身)に“廊下を歩きながら取材”をしました。国立競技場のスタンド下をご存じの方は思い浮かべてください。フィニッシュ地点付近から中央のホールまでが取材可能なエリアで、ホールから第4コーナー寄りは記者は入れません。ガードマンの方が厳しきチェックしています。短い距離しかチャンスがないのです。
 でも、福岡国際マラソンよりは取材機会は多いですね。福岡は結局、西鉄グランドホテルでの取材が勝負です。雑誌取材はそれで良くても、新聞各社は大変だと思います。共同会見だけで原稿を書かないといけません。男子ではびわ湖が一番、フィニッシュ直後の取材はしやすいと思います。
 続いて、方山利哉選手の話を聞きました。方山選手は、ホールで足を止めてくれたので助かりました。そうこうしていると、共同会見が始まりました。3位のコリル選手、高岡&入船選手、優勝したトロッサ選手の順。

 表彰後、高岡選手が引き揚げてきての第一声は「ダメでした」でした。大阪国際女子マラソンで愛弟子の嶋原清子選手が3位となり、川越学監督(鹿児島県出身)がレース後に漏らした「上手く行きませんね」と、同じようなトーンです。
 今回のレースの評価は難しいですけど、トロッサ選手が強かった、ということでしょう。確かに、36kmでスパートした後に高岡選手は一度、貯めようとスピードを緩め、そこをトロッサ選手に突かれてしまった。スキがあった、という意見もありました。でも、その後の2人の走りを比べたら、あの日はどうしようもなかったような気がします。
 普段は“高岡選手に厳しい”と言われているライターが、そう言うのです。当たり前ですけど、面識のない選手よりも、よく知っている選手に対しての方が厳しい見方になりがち。その選手の考え方を知っていれば、必然的にそうなります。この日も高岡選手に対し、こちらから最初に話したのは「ラスト1周が遅い」でした(74秒台)。これは、去年とまったく同じネタを話しただけなのですが。

 取材が一段落した後は、共同会見の模様をプレスルームで記事にしました。7割ほど書いたところで17時となり、バスで大会本部ホテルに移動。18時からフェアウェル・パーティーです。取材陣はケネス記者、大内さんらお馴染みの顔触れ。
 パーティーが始まる少し前に小林誠治選手(宮崎県出身)が来たので、少し話を聞かせてもらいました。12日の日記に書いたように“小林なのに高千穂高出身”の選手です。一緒にいた黒木純監督も宮崎県の出身。高鍋高の出身で、一般入試で山梨学院大に入学した経歴の持ち主です。2人に話を聞いている途中で、あることに気づきました。それは、小林と高千穂、そして高鍋と宮崎県内のどこに位置するのか把握していないことです。
 宮崎県に関しては北の延岡と南の宮崎、という大雑把な知識しかない。旭化成と小林高があるだけでなく、谷口浩美、阿万亜里沙、川角博美と日本を代表する選手を輩出してきた県です(2人のヒロミは男子選手です)。それなのに、県内の各市町村の位置をろくに知らなかったのです。ということで、皆さんも一緒にこちらの地図で確認してください。

 パーティーでは伊藤国光監督に、熊日30kmの思い出を聞きました。熊日の話から青梅の話になり、鎌田俊明選手(1万m元日本記録保持者)のことになり、今と当時の違いの話にと一気に展開しました。カネボウの音喜多コーチからも、面白い話を聞かせてもらいました。寺田の想像が当たっていた部分もあって、いつか記事に生かせるかもしれません。
 思わず涙腺が緩みそうになったのが、音喜多コーチの話の中に金井豊選手の娘さんの話が出てきたときです。4月に高校生になるのだそうです。金井選手は84年のロス五輪1万m7位入賞者。90年のアジア大会前に交通事故で他界しました。前編集長の八田さんが「金井選手が死んじゃったよぉ」と教えてくれたことを覚えています。その八田さんも、一昨年に他界されてしまったのです。

 高岡選手はあちこちに引っ張りだこで、あまり話はできませんでした。サインをしているときにジーンズを履いている脚が長いなぁと感じたので、「脚が伸びたんじゃない?」と聞くと「記録が伸びてくれたらいいんですけどね」と返してきます。やっぱり、高岡選手は記録ですね。家族の話も重要ですが、記録も重要です。記録というと単にタイムだけと誤解されてしまいますが、その辺の考え方は昨年の陸マガ4月号をご覧ください。在庫があれば、書店を通じて入手できます。
 最後は平井堅の話で締めようと思ったのですが、書くとまた長くなるので機会を改めます。次の機会とは、高岡選手が次に頑張ったときです。


◆2006年2月17日(金)
 2月15日の日記にトヨタ自動車の選手で<浜野健選手はタケシですが、山岡謙二選手、高橋謙介選手、尾田賢典選手までが“ケン内”>と書いたところ、だったら「内田直将選手も“ケン”ではないか」というメールをいただきました。このようなイマイチのネタにもお付き合いいただき、嬉しいのと恐縮する気持ちが入り混じっています。愛知県の方でしょうか?

 やっと、14日に発売された陸マガ3月号のネタになります。
 先週の金曜日に、東京国際マラソンの前々日会見後に陸マガ編集部に取りに行きました。、パラパラっとページをめくって「オッ」と思ったのは、亜大4選手の写真です。トビラページの4人の表情もいいのですが、見開きページで4人が座っている写真が、ポーズといい表情といい、いい味が出ています。レイアウト的にも文字数も多く収容しながら、写真も強調できています。
 担当した山口編集者と、高野徹カメラマンの手による作品(と言っても良いのでは?)です。埼玉新聞出身コンビは、なかなかやります。だったら陸マガ出身者(寺田のことです)も、頑張らないわけにはいかない。P43の錦織育子選手の写真(STEP UP2006 このアスリートに注目! のトビラページ)は、一応、自信作です。

 この写真はやらせでもなんでもなくて、純粋な練習中の1シーン(最後に別の角度で撮るために同じポーズをしてもらいましたが。土江寛裕選手のサイトにその取材光景が載るかもしれません)。錦織選手は助走スタート前に必ず、ポールの先を見上げるのです。ポールがちょうどサングラスと瞳の上に写り込んでいます。正直に言えば、これは偶然です。でも、客観的に見ても、なかなか綺麗な写真だったと思います(完全に客観的に見ることはできませんが)。逆光時の絞りの開け方が少し学習できてきたということでしょう。ちょっと、背景をぼかしすぎたかな、という反省はありますが。
 次の見開きの錦織選手と土江選手のツーショット(ビデオを2人で見ているところ)は、誌面掲載は小さいサイズですが、大きく伸ばしたらこれも綺麗ですよ。こっちは順光なので誰でも撮れると思いますが、角度に気を付けて、背景の雰囲気を良くしました。フジテレビのトレンディードラマの1シーン、のような絵柄だと思いながら撮影していました。ただ、撮影中はそう思いましたけど、写真を見るとやはり背景をボカしすぎ。その辺の能力がまだまだです。

 大阪高の連載後編も、頑張って書きました(どの記事も頑張っていますけど)。苦労したのは補強メニューの表記の仕方です。“腹筋”は仰向けから上体を起こすだけの動きではありませんし、“背筋”も伏臥姿勢から上体を反らせるだけではありません。具体的な動きを文字で説明しようとすると、とてつもなく長くなってしまいます。P151で小林敬和先生がスタビライゼーション・トレーニングのメニューを写真付きで解説されていますが、これと同じくらいのスペースが必要になってしまう。腹筋と背筋の前に“変形”とつけて表記するにとどめるしかありませんでした。
 しかし、一番重要なのは恐らく、大阪高のトレーニングに対する考え方です。そこは、きっちりと出せたと思っています。
 ところで、同高は練習量の少なさが特徴ですが、補強はしっかりやっている。記事中でも触れましたが、取材に行った日も生徒個々に任せず、グループできっちりやっていました。これが、大学になると個人に任されて、ややもするとおろそかになる。大学はウェイトの設備も整っていますから、「学生になったら補強じゃなくてウェイトだよ」という方向に流れがち。一概に決めつけることはできませんが、末續慎吾選手の腹筋2000回は有名ですし、村上幸史選手なんかもウェイトに偏っていたのを、高校時代の補強(サーキットトレーニング)を多くして復活しました。


◆2006年2月18日(土)
 夕方の新幹線で袋井の実家に。
 サイトのレイアウトを少し変更しました。無駄を省いたつもりです。


◆2006年2月19日(日)
 浜名湖一周駅伝を血まなこになって……取材したつもりです。なんといっても世界4大湖畔大会の1つ(残りの3つはびわ湖マラソン、米国ミシガン湖畔のシカゴ・マラソン、そしてスイス・レマン湖畔のローザンヌ・グランプリ)。
 冗談はさておき、浜名湖一周駅伝は地元の高校生の目から見たらグレードが高い大会です。中部地区だけですが実業団チームが出て、箱根駅伝を走った大学生が走り、そして全国高校駅伝で優勝候補だったチームが来る。起伏も激しいし、風が強いことも多い。選手権的な駅伝ではありませんが、タフな駅伝には違いありません。例年、千葉国際クロスカントリーと重なっていましたが、今年は千葉が3月開催となり、高校生チームの参加が多くなっていました。

 結果は静岡陸協サイトに掲載されています(永田先生の頑張りには頭が下がります)。一般は地元のスズキがアベック5連勝を達成。男子は昨年まで浜松地区のライバルだったホンダ浜松が、フルタイム勤務となり、主力選手は移籍。今回はNTNが3区で一度トップにたちましたが、スズキの順当勝ちでした。
 女子は苦戦が予想されていましたが、アンカーの赤川香織選手が20秒以上の差を逆転しての優勝です。初マラソンを控えた八木洋子選手(世界ハーフマラソン14位)と、ルーシー・ワゴイ選手を欠く布陣だったのに対し、ユタカ技研がケニア選手2人を起用してきました。ピークは合わせられないけど、地元だからなんとか勝ちたい。難しい部分もあったと推測できます。

 高校男子は一般参加の豊川工高Bが優勝。招待されていた同高Aチームは10位でした。これはAチームは3年生、Bチームは1・2年生というチーム編成にしたからです。全国高校駅伝3位(国際チーム以外ではトップ)の同高ですが、3年生は2区の藤田翔選手1人だけで、残りの6人は1・2年生でした。選手権大会ではないから、今回のようなチーム編成ができるのです。
 最長区間の3区(9.1km)は同高の1年生、都大路の3区区間賞の三田裕介選手が順当に区間1位でした。ただ、区間2位の八木勇樹選手(西脇工高)とは僅か1秒差。同じ1年生で、国体少年B3000mでは2位だった選手です。これは、今後の2人の関係が面白くなりそうです。
 中村悠希選手(カネボウ)、松岡佑起選手(順大)、佐藤悠基選手(東海大)に続く“長距離のユウキ”の台頭。最年長の中村選手が「頑張らないと自分の影が薄れてしまう」と思ったかどうかは、知る由もありません。が、日本選手権2位(それも1位の瀬戸智弘選手と同タイム)の中村選手がそんなふうに思うはずはない。と、同選手のキャラと同じで穏やかだった、浜名湖の湖面が物語っていたような気がしました(?)。

 今回の浜名湖は30回記念大会です。主催の中日新聞がカラー4ページの記念号を刷って、配っていました。その中に1枚、見覚えのある人物が胴上げされている写真がありました。明大の西弘美監督です。同監督は日大で監督をしていたこともありましたが、それ以前にスズキの監督を務めたこともあるのです。
 同監督は選手時代、高校卒業後、九州の実業団(久留米井筒屋)に入り、そこで全日本実業団対抗駅伝1区の区間賞を取っています。そして日大に入学して箱根駅伝でも1区で区間賞を取り、大昭和(富士)、スズキ(浜松)と活躍しました。福岡→東京→静岡→東京と移ったわけです(漏れがあったら教えてください)。
 中日新聞の写真には山梨学院大時代の藤脇友介選手も写っています。同選手は九国大附高(福岡)→山梨学院大(甲府)→スズキ(浜松)と選手生活を送り、現在は北九州に戻って先生をやっています。北九州女子駅伝で会いましたが、ちょっと丸い顔になりました。性格も丸くなったでしょうか? 静岡インターハイ(91年)の1500mで渡辺康幸選手(現早大監督)に僅差で負けたときの強気のコメントが、今も鮮明に思い出されます。

 浜名湖が30回なら、やはり本日開催の青梅は40回。スズキの磯ヶ谷マネに頼まれて、青梅の結果を聞くために報知新聞のE本記者に電話をしました。ちなみに、磯ヶ谷マネの名前は“香欧”です。ちょっとマネができない名前……じゃなくて、寺田がこれまで会ってきた陸上関係者では一番お洒落な名前です。ただ単に、寺田がヨーロッパへの思い入れが強いだけなのかもしれませんが。
 今週末は50回記念大会の熊日30kmを取材に行きます。今日、名前を挙げた選手では、渡辺康幸選手と瀬戸智弘選手が優勝しています。


◆2006年2月20日(月)
 昼前から雨。シェルブールCherbourgだったらいざ知らず、千葉Chibaで雨傘を差しながらの取材はロマンチックでもなんでもなかった(「シェルブールの雨傘」は切なかった)。

 今日は陸マガのSTEP UP 2006企画の取材で千葉県の某所に。3月号の錦織育子選手のときと同様に、カメラマンも兼ねて行きました。10時に現地に着いたときはまだ、天気はなんとか持っていました。内心、“日頃の行いが良いからな”とほくそ笑んでいましたが、30分くらい経ったところで雨がポツポツと。空はそれほど暗くないので、やんでくれるかな、と期待しましたが、結局、その後も止んでくれませんでした。
 カメラ機材を濡らすわけにはいきませんから、傘を差さないわけにはいきません。すると必然的に、片手が使えなくなる。これはもう、できることが半減するどころの話じゃないですよ。その辺をなんとかするテクニックを身につけているのがプロのカメラマンですが、寺田は悲しいかな、そこまでのテクニックがありません。
 でも、誌面には今日の写真が載ると思います。どう乗り切ったのかといえば、根性ですね。根性はどうすれば発揮できるか。慌てないことでしょうか。つまりは、ゆとりです。えっ? 慌てたり、力んだりしても、なんとかするのが根性? 一般的には、そう定義されているかもしれませんが、最近、ちょっと違うような気がしてきました。結果に結びつく根性、という考え方をしたときに……やっぱり、現時点では説明するのは難しい状況です。選手がよく、感覚については「言葉にするのが難しい」と言うことがありますが、それと同じかも。

 練習後に、昼食をしながらインタビュー取材。途中でK監督が現れたので、動体視力の話をしました。K監督が陸マガに昨年書いた原稿の中で、大混戦だったあるレースの着順判定が自分だけ正しかったことについて、動体視力が優れていると書かれていたのです。恐れ多いこととは思いつつ、着順判定が正確だった別の理由を提示しました。ただ、そこでいくら論議をしても結論が出ることではありません。今年の大会で僅差の勝負があったときに、K監督が動体視力の良さを実証してくれることになりました。
 K監督が去ってから取材対象の選手と、手動計時と電気計時が約0.2秒も差が生じる理由を話しました。何度か書いていますが、寺田は実際のタイムと±0.03秒以内の差でストップウォッチを止めることができます。実際に押すまでの反応速度の問題ではないと思います(スタートのリアクションタイムのように)。それが理由ならば、実際のタイムよりも遅くなるはずですが、手動計時は電気よりも速いタイムになります。
 これも推測の域を出ませんが、止めるのを“遅れてはいけない”という心理的な部分が大きいと分析しています。チームメイトの記録を測るとき、遅いタイムにしたら申し訳ない、という気持ちが絶対にあります。特に、先輩のタイムを遅く押そうものなら、何を言われるかわからない。また、競技会では審判員同士が、近くのウォッチ音を聞いて「遅いよぉ」と言い合ったりします。自分だけ反応が鈍いと思われることを恐れる気持ちが、ストップウォッチを早く止めてしまうのだと思います。


◆2006年2月21日(火)
 クリール4月号が届きました。
 陸上競技ファンにとって一番の注目記事はやはり、箱根駅伝優勝の亜大・岡田監督のロング・インタビュー記事。
 亜大や同監督の記事はここまでいくつか読みましたが、“だったらここはどう考えているんだろう”と突っ込みたくなる部分が必ず感じられました。例えば、ある練習方法を強調するあまり、全体の中での位置づけというか、他の練習とのバランスがわからないようなケースです。
 そういった疑問点を一気に解消してくれました。書き手は水城昭彦氏。さすが、寺田の仲人さんです。

 元陸マガ編集部の宮田有理子嬢による連載、「クロカン的留学生活inカリフォルニア」もスタートしました。サブタイトルに“気楽な独り身34歳”とあるのは笑えましたね。写真まで載っています(感想はノーコメント)。内容はかなり行けています。彼女がロス近郊の大学に34歳にして入学し、競技ランナーに復帰するプランを立てる。陸上競技部に入部しようとしたら、アメリカではクロスカントリー部があって、そちらに入部させられるという話から展開していきます。
 資料や記録を見てわかるようなことではなく、自身の経験ですから、リアリティーがあります。この手の記事は新鮮で、説得力もある。ユーモアも文章の随所に散りばめられていますが、実際の留学生活が“気楽”であるわけがありません。個人的にも応援したい気持ちです。早大・礒繁雄監督もそう思っているでしょう。彼女は関学大時代の礒監督の教え子です。

 クリールの樋口編集長からメールも来ていました。ロサンゼルス・マラソンに参加しませんか、という勧誘のメールです。寺田に送ってきたということは、サイトで紹介しろということでしょう。


◆2006年2月22日(水)
 10時から関東の某大学で取材。今日もカメラマンを兼務しました。一昨日とはうって変わって晴天に恵まれて、この時期にしては温かかったので、撮影はしやすかったですね。逆光の写真でちょっと手こずりましたが、全体的にはかなり、綺麗な写真が撮れたと思います。選手の表情にも助けられました。
 練習を終えたときに近くにいた別の女子選手が、寺田のサイトを見ていると言ってきました。女子選手がこのサイトを見ているなどと、考えたことはありませんでした。品良く行かないといけません……ちょっと捕捉が必要ですね。見ている女子選手がいることは知っていましたが、情報を発信する際にその点を意識したことはなかったということです。
 では、なぜ今日はそんなことを意識したのか。それは、今日の環境のせいでしょう。恐らく、人生で初めて、そういう環境の場所に行ったように思います。具体的には企業秘密ですが、陸マガ4月号を見ればわかると思います。
 大学院生でもあるその選手は、青森県出身。ワコール・野田頭選手や、2区区間賞のホクレン・根城早織選手と知り合いとのこと。青森県出身ではありませんが、細川好子選手ともつながりがあるそうです。熊日30kmの事務局から主なエントリー選手のリストをもらっているのですが、その中に野田頭選手の名前があることをこちらからは話しました。これからは、青森ネタも多くしましょう。
 考えてみたら、16日の日記で書いた宮崎県同様、青森県の各市町村の位置関係は把握していません。福士加代子選手の五所川原工高、野田頭選手の野辺地高、元砲丸投日本記録保持者の瓜田吉久選手の木造高(→筑波大)。さっそく、こちらの地図でチェックしました。青森には九州(宮崎県)出身で京都、つくば経由で同地に定着した(?)法元康二選手もいますしね。

 練習の撮影取材後は、ファミレスに場所を移して取材。午前中に練習をやった後のインタビューはファミレスが定番です。テーブルが広くて、話がしやすいですから。最初のファミレス取材は確か、法大近くのガストだったと思います。対象は100 m元日本記録保持者の不破弘樹選手でした。法大関係選手の取材はファミレスが多いですね。800 mの小野友誠選手が日本記録を出したときも、法大近くのファミレスでした。ビールを2〜3杯飲みました(主語は書きません)。斎藤嘉彦選手と苅部俊二選手が日本人初の48秒台を出したときは、どうだったでしょうか。最近では昨年、内藤真人選手も法大近くのファミレスでした。

 陸マガ3月号の錦織育子選手のインタビューも、早大近くのファミレスで行いました。こちらからお願いして、自称“幼なじみ”の土江寛裕選手にも同席してもらいました。同席してもらった理由は取材にプラスになると考えたから。具体的には企業秘密です。
 馬車道という店の名前で、寺田は初めて入るファミレスでした。馬車道コーヒーだったか何か、気に留まったメニューがあったのだと思います。正確には覚えていないのですが、寺田がウェイトレスのお姉さんに軽いノリで質問をしました。その一瞬後、自分で歳をとったな、と感じました。世間話のような感覚で、初対面の店の人に話しかける。これまでにも書いたことがあると思いますが、以前の寺田はそういったことができませんでした。
 土江選手にそういったことができるのか聞くと、最近はできるようになったと言います。彼が言うには、為末大選手がそういうことを抵抗なくできるのだそうです。そういえば、シドニーの世界ジュニアで取材した頃から、為末選手は記者に対して質問ができる(世間話ができる)選手でした。
 土江選手は「若いのにおじさん」だと言います。寺田の解釈も同じですが、ちょっと違う言葉を使いたいところです。何て言ったらいいのでしょう……自分を抑えることなく、相手の懐に飛び込めるというか、失敗を恐れないというか…。でも、相手に自分がどう映っているか計算もできている。あとは、色々なメディアに出ている為末選手を見て、皆さんでご想像ください。一番のお勧めは、陸マガに連載している為末選手自身による手記です。


◆2006年2月23日(木)
 質問メールが来ました。下記の内容です。

大の駅伝ファンですが、前から気にかかっていることがありまして・・・。
佐久長聖高校に佐藤清治という素晴らしい選手がいたと記憶しているのですが、彼は今どうされているのでしょうか?
大学駅伝でもニューイヤー駅伝にも姿をみないもので、とても気になっています。
また、佐藤清治選手は、佐藤悠基選手とご兄弟ですか?
このことも気になるので、教えてください。

 面識のない方です。陸上競技(駅伝?)ファンになったのは最近でしょう。専門誌を隅々まで読んでいるほどでもない。どう対処すればいいのか考えた結果、以下の5バージョンが思い浮かびました。

(1)事務的バージョン……佐藤清治選手が大学2年以降全国レベルの大会に出ていないこと、佐藤悠基選手と兄弟と報じられた記事は1つもないこと。この2つの事実だけを簡潔に答える。
(2)丁寧バージョン……佐藤清治選手は1500m中心の選手であり、駅伝に出なくても不思議ではないことを指摘した上で、大学2年時以降の知っている範囲の動向(順大卒業後はいったん地元に戻って就職。その後アラコに入社。しかし今は退職したことなど)を教える。佐藤悠基選手は静岡県の中学出身(清水南中)であることを指摘。さらに親切に、清水南中のある清水町はサッカーで有名だった清水市(今は静岡市に合併)とは違うことも教えてあげる。
(3)心を鬼にするバージョン……佐藤選手クラスなら調べるのは難しくないので、ファンなら自分で調べよう、と突き放す。こういったことは多少は苦労しても、自分で調べた方が面白さに気づきやすい、と思っているので。
(4)400 mHのバーション・ジャクソン……前半からインタバールは15歩らしい。
(5)無視バージョン……個々の質問に答える義務も余裕もない。

 どうしてこの話を書いたのかというと、「生協の白石さん」という書籍がベストセラーになっているからです。案の定、家族T氏が購入していたので、先日3分の2ほど読みました。そして最近、質問メールが増えているのです(大した数ではありませんが)。だったら、寺田のサイトでも“生白コーナー”をやってみようかな、という単純な発想です。陸マガの箱根駅伝展望増刊号でも「陸協の黒岩さん」というコーナーがありましたし。
 単純な発想ですが、インタラクティブ(双方向性)はこれまで寺田のサイトになかった発想です。あくまで、ライター寺田が情報を発信するのが目的。よく、「BBS(掲示板)は設置しないのですか?」と質問されます。一般のサイトではBBSはよくあることかもしれませんが、ライターの方たちが運営しているサイトでは、BBSはあまりないように思います。でも、“生白”方式なら、気に入らない質問は掲載しないことも可能です。
 しかし、事はそれほど簡単ではないでしょう。“生白”は回答者の立場がはっきりしているから答えやすいのです。生協の職員として回答する、という大前提があって、そこにユーモアや気の利いた話題が加えられます。質問自体が明らかに冗談であれば、完全にジョークで返しています。
 その点、寺田はどのような立場で答えていいのか、はっきりしないポジションなのです。陸上界を代表する立場ではありませんし、研究者のように陸上競技を研究対象としているわけでもありません。陸上競技記者といっても、すでに専門誌の人間ではないですし。指導者や選手のように毎日グラウンドに出ているわけではありません。何度も書いていますが、聖人君子でもないので、何が陸上界の正義なのかもわかりません。一介のフリーランス、陸上競技ライターに過ぎません。ただひとつ普通の人と違うのは、陸上競技のことを考えている時間が長いということだけです。

 以前に書いたように思いますが、質問に個々にリプライするのって、コストパフォーマンスが悪いのです。面識のない相手へメールを書くのは、どんな立場の人間が読んでもいいと思って書くので、WEBサイトで公開するのと同じ労力が要ります。だったら、公開した方が生産性は高いわけです。どないしよう。


◆2006年2月24日(金)
 横浜国際女子駅伝の会見が16時からありましたが、19:05羽田発のフライトが熊本への最終便なので、泣く泣く取材をあきらめました。それだけ、熊日30kmへの思いが強いということです。未知の強豪という言葉がときどき使われますが、熊日30kmはまさに、そういった感じの大会です。

 熊日では伊藤国光監督が1980年に1時間29分12秒0(当時はロードも10分の1秒単位で計時)と宗茂さんのマラソン途中計時の日本記録(1時間29分30秒0)を破り、85年には西本一也選手が初の1時間28分台で走りました。その後は西本選手の記録がなかなか破られませんでしたが、03年に松宮隆行選手が1時間28分36秒と18年ぶりに記録を塗り替え、昨年は同選手が1時間28分00秒まで縮めました。
 これだけ好記録を残しているローカル大会も珍しいと思います。新宅雅也選手が45分40秒、高橋健一選手が45分48秒を出した唐津10マイルくらいでしょうか、熊日30kmと並び称して良いのは。最近は甲佐10マイルも川嶋伸次選手が45分52秒(日本歴代3位)、マサシ選手が44分41秒(世界最高)を出してレベルが上がっていますけど。
 それでも、ローカルなロードレースの中では熊日30kmがピカ一の存在です。この仕事をやっているうちに一度は行ってみたいと考えていました。フリーになって丸6年。そのチャンスがやっと訪れました。

 こういうケースで気をつけないといけないのは、自分の中のイメージが先行しすぎないこと。ありがちなのは、開会式や表彰式も含めた運営がスマートで、沿道の応援も格段に良くて、コースもものすごく走りやすくて、いつもと違う雰囲気の取材がビシバシできると思ってしまうことです。ヨーロッパのグランプリの取材に行って、変な妄想は禁物だと思いましたっけ。
 考えてみたら、先週取材に行った浜名湖一周駅伝は、自分が高校時代にはものすごくハイグレードな大会だと思っていました。そこに出場する選手たちは、別世界のランナーだと。確かに、自分とレベルが違ったのは事実ですが、今になって取材をしてみるとやはり、ローカル大会の雰囲気を感じてしまいます。
 入れ込みすぎず、初取材を満喫するスタンスで臨みましょう。まずは明日、特に記者会見などもないようですので、16時からの開会式ですね。その前に、本番のスタート時間(10:00)に合わせて水前寺競技場に行ってみます。練習をしている選手もいるでしょう。13:30から歴代優勝者によるランニング教室もあるという話です。でも、原稿も書かないといけません。どないしよう。


◆2006年2月25日(土)
 熊日30kmのレース前日。大会自体の緊張感(ピリピリ感)はそれほど感じられません。しかし、個人的には緊張感に近いワクワク感をもってホテルを出ました。朝の仕事を片づけるのに手間取ったので、ホテルからはタクシーで水前寺競技場に。10:30頃に着いてコニカミノルタ・大島コーチ(熊本県出身)と合流。熊本日日新聞の記者の方が2人いらしたので、さっそく“一緒に取材をさせていただきます”と挨拶をしました。
 熊本には3回来たことがあります。98年の日本選手権と金栗杯熊本中・長距離選抜で2回。会場はすべてKKウィングでしたから、水前寺競技場に来たのは初めてです。思ったよりスタンドも大きいし、電光スクリーンも大きいので、まだまだ全国大会で使用できそうです。水前寺といえば200 mです。78年に豊田敏夫選手(熊本県出身)が20秒6の手動計時日本新(当時は手動も公認)、94年には伊東浩司選手が20秒44の日本新を出しています。そして、あの末續慎吾選手(熊本県出身)も中学時代にここで練習していました。200 mのスタート地点に立って、感慨にひたっていました。

 最終調整練習(写真)後に坪田智夫選手に話を聞きました(その前に大島コーチにも取材)。内容はこちらの記事に。
 その次は三菱重工長崎・黒木純監督(宮崎県出身)に先週の延岡西日本マラソンの話をうかがいました。鷲尾優一選手が2時間11分05秒で優勝したレースです。これで三菱重工長崎は2時間10分台が2人(堤忠之、徳永考志)、11分台が1人(鷲尾)、12分台が2人(小林誠治、原和司)ということになり、マラソンに関しては日本でも有数のチームに。「うちはマラソン部ですから」と黒木監督。九電工がちょっと以前にマラソン部から陸上競技部に名称を改めたため、日本の実業団チームでは三菱重工長崎が唯一のマラソン部なのかもしれないということでした。

 トヨタ自動車の味澤善朗監督(鹿児島県出身)とも雑談をさせていただきました。同社には4月に、熊本選手(日体大)、野宮選手(大東大)、武者選手(日大)と箱根駅伝でメディアに取り上げられた選手が3人に入りますが、福島大から中距離の沼田拓也選手も入社します。ちょっと異色の存在です。1500mもまだこれからですが、将来的には5000mくらいまで距離を伸ばす可能性もあるということです。
 菅谷宗弘選手にも、熊日記者の方と一緒に話を聞かせてもらいました。その内容もこちらの記事に。ところで、菅谷選手といえば前々から気になっていたことが1つありました。それは、トヨタ自動車には箱根駅伝で大活躍した選手が多いなか、菅谷選手は数少ない高校卒の叩き上げ選手だという点です(入社9年目)。駅伝メンバーには必ず入ってきます。周りは、箱根駅伝の報道で、各種メディアに取り上げられた選手ばかり。そのなかで、どういう気持ちで頑張れているのか、一度聞いてみたかったのです。
「箱根の選手なんて大したことはありません。しょせん、学生レベルです。そういう意地を持たないとやっていけません。次から次へと入ってきますからね」
 ここまで言ってもらえると、胸を打たれます。念のため、書いていいことなのか確認しました。味澤監督も「箱根は3分レベルだから」と言います。うーん、トヨタ自動車の大卒選手は、3分レベルじゃないような気もしますけど…。

 近くの焼き肉屋で昼食。最近できた郊外型のスタジアムでは、近くに飲食店がないのがほとんどです。街の競技場って個人的には好きなのですが、やっぱり記録の出るトラック優先になるのは仕方がないのでしょう。
 13:30からは熊日30km歴代優勝者6人が、小中学生を対象にランニング教室を行いました。(写真左から)重松森雄氏、籾井輝久氏、渡辺和己氏、寺沢徹氏、大槻憲一氏、西本一也氏という顔触れ。世界記録を出したりオリンピックに出たりという、いずれも劣らぬ豪華メンバーばかり。50回記念にふさわしいイベントです。
 最も若い西本氏が現在は高校の指導者でもあり、講師役のほとんどを引き受けていました。長距離のクリニックですが、その場で多く走り込むことはできません。今日のクリニック後も継続してできること、という意図もあったと思うのですが、動きづくりを強調して指導をされていました。

 14:30に水前寺を後にして、明日のレースのスタート地点(ホテル日航)に移動。15時から車に乗ってコース下見があるのですが、参加選手の数が少なく座席に余裕があるということだったので、寺田も乗せていただきました。昨日の日記でも触れましたが、「熊日30kmは普通のコースとは景色が違うんじゃないか」という思い込みは、厳に慎もうと思ってコースに出ました。
 案の定、この写真のように、ごく普通の片側一車線の道路が続くだけで、景色に特に変わった点があるわけではありません。中部実業団対抗駅伝(岐阜県下呂市)や青梅マラソンのように目を見張る自然景観でもないし、東京や大阪のような都市景観でもありません。言ってみれば、地方都市らしい風景です。
 しかし、これが熊日30kmだな、と思った点があります。それは起伏です。距離や傾斜の程度と、その存在する位置ですね。記事や関係者の話で知識としてはあったことですが、実際に見ると本当に走りやすそうです。坪田選手のコメントにもあるように、4km付近から8km過ぎまでの上りは、1人で走ると苦痛かもしれませんが、集団で行けば何とかなるくらいの緩やかな上りです。それが復路では、21kmからの緩やかな下りとなる。選手の生理的なきつさにコースが上手くマッチしている。風も例年、それほど強くないということです。
 唯一、記録誕生を阻害しそうだな、と感じたのは跨線橋(こせんきょう)です。往きの5km過ぎですが、それよりも帰りの25km手前にあたり、選手たちにとってはかなりきついようです。以前は跨線橋はなく、踏み切りを横切ったそうです。西本氏が1時間28分46秒を出したときは旧コースでした。それが跨線橋を渡るようになって、28分台が出なくなったといいます。それを克服したのが、3年前と昨年と2度世界記録をマークした松宮隆行選手だったのです。

 コース下見の車には一般参加のサイラス・ジュイ選手(流通経大)と初参加の女子選手、野田頭美穂選手(ワコール・青森県出身)が乗っていました。しかし、話しかけたり取材をしたりはしません。選手はコースを頭に入れようとしているわけですし、寺田は特別に乗せてもらった立場です。取材の場ではありません。
 野田頭選手には開会式後に話を聞きました。そこでも1つ、大きな発見がありました。野田頭選手の名字の読みは、“のだがしら”ではなく“のたがしら”だったのです。これにはビックリ。ワコールのサイトを見ると、確かにそうなっているのだぁ、とかダジャレも言えないわけです。いやあ、人の名前は難しいです。ちなみに、前述の味澤監督は善朗と書いて“よしろう”。寺田のように辰朗と書いて“たつお”という少数派読みではありません。
 話は前後しますが、開会式には招待選手だけが出席して行われました(写真)。一般参加選手も列席する大阪国際女子マラソンなどとは、明らかに雰囲気が違います。熊日30kmは当初、“招待”レースだったと言います。つまり、招待のエリート選手だけによる大会だったのです。今回も、招待が約20人で、一般参加が約60人。招待選手の比率が高い大会と言えます。さすが、長距離どころ九州です。その矜持を垣間見たような気がしました。同じ時期の青梅とはまったく逆の成り立ちだったわけですが、このように、各大会が自身の“色”を強調してレースを開催するのは、いいことではないでしょうか。


ここが最新です
◆2006年3月4日(土)
 12:33東京発ののぞみ77号で京都に。東海道線へ乗り換えますが、ホームでマスクをした丸顔の男性と目が合いました。どこかで見た顔だな、と思ったら大東大・只隈伸也監督でした。ここ数年、びわ湖マラソンはNHKで解説をされています。大津駅で降りて記者会見場の大津プリンスホテルまで、道すがら何を話していたのかというと、全部をここで書くわけにはいきませんが、神奈川大・大後栄治監督の名前もちょっと話題になりました。
 ご存じの皆さんも多いかと思いますが、この2人はお互いにライバル意識をむき出しにしています。駅伝の前日とかに話を聞くと「目標順位は特にないけど、神奈川大(大東大)には負けたくない」といった具合に。顔を合わせれば罵倒し合っています(少し脚色しているかも)。でも、本当は仲がいいことは、関係者間では周知のことです。

 記者会見45分くらい前に会場に着。今回の日本選手では佐藤敦之選手と松宮隆行選手が2強と目されていますから、まずはコニカミノルタの佐藤敏信コーチをつかまえ話を聞きました。次には中国電力・坂口泰監督も。
 16時に会見が始まりました。まずは、外国人選手4人。それが終わると日本選手も壇上に上がって記念撮影。続いて日本人の会見です。
 今大会の焦点の1つに、日本人トップ選手が2時間7分台を出せるかどうか、が挙げられると思っていました。優勝選手が2時間7分台を出しても、日本人トップは8分台というケースが、03年・04年と続きました。というか、2時間7分台は01年の油谷繁選手と森下由輝選手しか出していません。気象状況やレースの流れにもよるところが大きいのですが、7分台を出してこそ価値のある大会。参加選手の自己ベストを見渡しても、2時間8分台に佐藤敦之、佐藤信之、高塚和利、大崎悟史、そして小島宗幸と5選手が並びますが、7分台はいません。
 そう思っていたら会見で、佐藤敦之選手と松宮隆行選手が、7分台という数字を挙げていました。佐藤選手は2時間8分台を2度びわ湖で出していますが、決して会心のレースではありませんでした。2時間09分50秒の学生記録のときも、上に日本選手が2人もいて、同じ学生記録でも藤田敦史選手(99年に2時間10分07秒)&藤原正和選手(03年に2時間08分12秒)ほどのインパクトもありませんでした。マラソンではブレイクしきれていない印象です。年齢ももう27歳。そろそろ、なんとかしないといけない時です。会見後に囲み取材の時間を少しあったのですが、そのときに佐藤選手自身、その点に同意してくれました。

 松宮隆行選手は4年ぶりのマラソン。弟の松宮祐行選手が一昨年、昨年とびわ湖に出ているためか、そこまで空いている印象がありませんでした。兄弟が台頭した当初は、2人揃ってアテネ五輪のマラソンを狙うプランでした。それが、01年の延岡、02年のびわ湖と隆行選手が続けて失敗した頃から方針を転向。長めの距離に適性がある祐行選手は引き続きマラソンで代表を狙いましたが、隆行選手は1万mで狙うことにしました。
 しかし、北京はともにマラソンで狙うことに。そういった背景を知っておくと、隆行選手の会見コメントの意味が、より鮮明になります。

 寺田は小島宗幸選手に質問しました。何度か書いているように、98年にフィス選手(世界選手権金メダリスト)に勝ったときの同選手は、めちゃくちゃに強かったと思います。15km通過が44分30秒。完全なオーバーペースと思われましたが、見事に粘り抜きました。粘っただけでなく、フィス選手を突き放した。あのマラソンの興奮は今も、忘れられません。そのレースを皮切りに4レース連続サブテンも達成しましたが、最初のびわ湖以上の走りはなかったと思います。
 どうしても一度、低迷した間の気持ちを聞いてみたかったのです。会見後に囲み取材があると知っていれば、そちらで聞いたのですが…。共同会見で聞くような質問ではなかったので。

 囲み取材では、佐藤選手に今回の位置づけを確認し(練習内容については坂口監督に聞いてあった)、大崎悟史選手には会見でコメントしていた脚づくりについての自信の根拠を聞きました。具体的には結果が出たときに紹介したいと思いますが、レース展開については会見で話した「思い切り」のところを、より詳しく聞きました。明日は大崎選手が最初に動くかもしれません。要注意です。
 最後に小島宗選手のところに行きましたが、ほとんど質問は出尽くした雰囲気です。今さら同じことを聞いても申し訳ないので、兵庫ネタで行きました。つまり、西脇工高の後輩でもある清水将也選手と一緒に走ることについてです。
 1週間ぶりの日記ですが、先週の熊日30kmでも兵庫ネタがありました。1・2位の清水智也選手(双子の兄弟です)と坪田智夫選手が兵庫県出身。2人は飛びだしたサイラス・ジュイ選手を追って、16kmまでマッチレースを展開したのです。先に遅れた坪田選手が最後、猛烈な勢いで清水智也選手を追い込みました。
 その清水智也選手ですが、2月頭の丸亀ハーフでは家谷和男選手、中東亨介選手、竹澤健介選手との兵庫勢4選手による3位争いで最下位に甘んじました。明日は残念ながら高橋謙介選手は欠場しますが、丸亀、熊日に続いて兵庫対決が見られるかもしれないのです。しかし、小島宗幸選手は先輩として、厳しい意見を口にしていました。

 兵庫勢を気にしていましたが、九州勢を忘れる寺田ではありません。九州どころか、北九州と範囲を限定した2人です(写真)。只隈監督と、やはり明日のテレビ解説をする金哲彦氏。2人は八幡大附属高で同級生です。以前にも書いたと思いますが、名門高校の先輩後輩がその後も陸上界で活躍する例は多々ありますが、同学年の2人がそろって、選手として活躍し、その後も引き続いて陸上界で活躍している例は珍しいケースといえるでしょう。2人の関係はBBMムック「箱根駅伝」の只隈監督の記事中に詳しく出ています。
 19:40頃まで原稿を書いて、自分の泊まるホテルに移動して20時前後にチェックイン。フロントに置いてあるちらしを何げなく見ていると、「琵琶湖と陽気なショーを楽しむミシガンクルーズというキャッチコピーが目に留まりました。これは、びわ湖とミシガン湖が姉妹湖提携でもしているのか、と思いましたが、こちらのサイトをよく読むと、どうやらミシガンという船名のクルーズ用客船があるみたいです。7年もびわ湖マラソンに来ているのに、知りませんでした。
 でも、内容から判断するとミシガン湖かミシシッピ川を意識した内容のようですね。そう、ミシガン湖と言えばシカゴです。ミシガン湖畔で失敗した佐藤敦之選手と高塚和利選手にとっては、明日のびわ湖畔が巻き返しの舞台となるはずです。佐藤選手も、そのためのびわ湖だと話しています(ちょっと違うぞ)。



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