続・寺田的陸上日記     昔の日記はこちらから
2002年7月 祝ジュライ・ブライド
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■7月31日(水)
 明け方まで原稿を書いていた関係で、ヨーロッパ時間の生活サイクルにもどってしまいました。午後に起きて、電話を何本か。原稿の修正やらしていると、辺りは暗くなってしまっています。できれば今日、デジカメ(自分のではありません)を買いに行きたかったのですが、明日に延期。
 いきなりですが、インターハイに行くことになりました。実際は、いきなり決まったわけではなくて、4〜5日前(26日の日記を見ると、ホテル空室を検索していますね)からそうなりそうな展開でしたが、最終決定は今日。インターハイに行くのは、いつ以来でしょうか。たぶん、94年の富山インターハイが最後だったと思います。95年は鳥取、96年は甲府、97年は京都……行っていないですね。その頃から、毎年のようにインターハイの時期に世界選手権やオリンピックが重なったこともありますが、要は陸マガ編集部内での分担で、インターハイの現地取材は担当しなくなったわけです。入稿は、そこそこしていたはず。アトランタ五輪のときなどは、オリンピックに専念させてもらった記憶がありますが。
 笠松には2日目と3日目(1泊)に仕事で行くことになったのですが、「だったら、もう3泊分自費で泊まって全日程行こう」と決心……しましたが、初日は行けるかどうか微妙なところ。とりあえず、初日(8月2日)から4泊、ホテルを抑えました、いわき駅前に……今年のインターハイって福島県? のわけはありません。福島県では78年だったか77年に開催したばかりです(って、もう25年も前)。ホテルをあたったら日立、水戸、勝田といった会場近辺はもちろん、土浦や柏、果ては松戸まで常磐線沿線のホテルに空室はなし。やむなく、福島県まで北上してキープした次第。
 高校生は久しく取材していませんので、仕事の部分以外は今回は観戦に徹するつもり。それでも、なんかワクワクしてきました。暑さがきついですけど、インターハイはやっぱり心躍らされる大会の1つです。取材に行っていた当時を今思い返すと、エディターズハイだったような気がします。


■7月30日(火)
 今日は日本陸連理事会後に、アテネ五輪選考方法の一部が発表されていると聞いていたので、夕方、新宿のホテルに。駅からホテルに向かって歩いていると、増田明美さんにばったり。今日はいつもの解説者ではなく、理事として理事会に出席されていたわけです。なんて解説は不要ですね。その増田さんが歩いて来られるということは、理事会が終わっているということ。「もう(記者会見)始まっちゃうよ」と言われ、小走りで会場に。
 記者発表の内容は、詳しくは記事にしましたので、そちらで。
 19時に新宿で知人と合流する予定があったので、記者会見後、原稿を書こうとホテル近くのveloce(ベローチェ・コーヒー屋さん)に。日刊スポーツ・佐々木記者が先に来ていました。ファミレスで記事を書くという話は聞いていましたが、コーヒー屋さんにまでいるとは意外です。仇敵(きゅうてき)だけに、こんなところでも先を越されると悔しく感じます。隣の席で原稿を書きましたが、こんなところを土佐選手にでも見られたらまた「仲がいい」とか言われそうで、ちょっと心配でした。
 考えてみたら、去年の今日はエドモントンに移動した日です。乗り継ぎのシアトル空港で彼に電話をして「イチロー、佐々木は元気か」などと話したのが、とても懐かしく思えます。
 佐々木記者が帰ったら、入れ替わりにサンスポ・牧記者が来ました。陸上記者ナンバーワンの切れ者、という顔をしていますが、とても人間味のある話し方をする人です。牧記者と話をしていたら催促の電話が来たので、待ち合わせ場所のヨドバシカメラに移動。途中、「サンモリッツ」という名前の雀荘を見つけ、これまた去年のヨーロッパ取材を思い出してなつかしく感じました。
 ヨドバシカメラは、あの弘山晴美選手も出没するらしい家電量販店。そういえば明日、弘山選手はボルダーに出発されるとか。渋井陽子選手も昆明に出発だそうです。成田取材に行きたいのはやまやまですが、さすがに締め切りを抱えているので厳しそう。


■7月29日(月)
 ここ数日で原稿の締切が何本かあります。1本1本はそんなに大変ではないのですが、ちょっと頑張らないといけません。でも、なぜか食事の後、眠くなってしまいます。効率を上げないと、いつまでたっても事業(何のことだろう?)が先に進まない、という自覚はあるのですが…。福島大・川本先生の「おやじの時々日記」を読んで、「なんでこんなにたくさんの仕事を1日でこなせるの?」と、いつもうらやましく思っています。聞くところによれば、お若い頃に1日をいかに効率的に使うかを研究されたとか。見習わないといけません、と何回思ったことか。反省と自己嫌悪が進歩の糧とならない自分をまた、自己嫌悪。
 まあ、ヨーロッパ&南部の取材疲れがちょっとたまっているのだろうと、無理矢理自分を納得させて、気を取り直しています。ということで、自己嫌悪のあとの自画自賛。昨日書いた南部記念の寺野伸一選手の記事って、新聞などのメディアではなかなか書けない、本サイトならではの記事ではなかったかと思っています。表面的には自己記録には18cmもショートしていますし、日本選手権優勝者が順当に勝っただけですから。そういえば今年、日本選手には負けていないなとはたと気づき、話を聞きに行ったら面白いコメントを聞くことができたのです。
 で、結局今日は、1日中自宅兼オフィスに缶詰状態。本サイトの記事としては、アジア大会の追加代表候補の記事を書く予定でした。南部記念などの結果を見て、最近の戦績や、陸連幹部のコメントから推測して追加代表候補をリストアップしようと思っていたのですが……今日発表しちゃったんですね、強化委員会終了時点で。内定ってことなので、最終決定ではないわけですが、この手の内定が覆ったことってあまり聞いたことはありません。南部記念のときは30日の理事会後に発表って話だったんですけど。これまでも強化委員会の段階で発表したこともあるので、可能性はあると思っていましたが…。
 まあ、仕方ありません。何事でも情報をオープンにすることはいいことですから、この手の情報公開先倒しは、どんどんやってもらいたいと思います。


■7月28日(日)
 14時から池袋で打ち合わせ。打ち合わせといっても非常に大雑把なもので、どちらかというと雑談系。その後、陸マガ編集部に寄って昨日の取材で撮影した写真をCD−Rで納入。この時期の専門誌編集部は、インターハイ前に9月号の入稿をほとんど終える必要があり、日曜日でも休むことはできません。
 そこで、毎日新聞の24日朝刊に掲載された「為末大のハードラー進化論」を読むことができました。そこには、“19日のモナコ・ゴールデンリーグの出場を断られてしまった”と書かれています。パリ(5日・写真)とザグレブ(8日)、ローマ(12日)では若干、前半を抑える走りをした為末選手ですが、“モナコでは本来の前半からぶっ飛ばすレースで勝負を賭ける”と言っていたので、結果を楽しみにしていました。ヨーロッパまで行って生の声を聞いてきた者としては、“その場”さえなくなってしまったことは残念でたまりません。ローマで最下位だったといっても、50秒かかってるわけじゃないんです。契約に、調子が悪かったら出場させない、なんて書かれた条項があるのかな。
 現地で何度か、為末選手から「メダリストの看板は大したことなかった」という話を聞きました。シドニー五輪・エドモントン世界選手権と2年間で6人のメダリストのいる種目(99年の世界選手権まで入れると8人)では、相対的にメダリストの価値が低くなる(※)んじゃないかと、客観的に考えられます。しかし、「ハードラー進化論」では、その点には触れていません。選手の立場としたら、“自分の調子が悪いこと”にまず、気持ちが向いてしまうのかな、と思われます。
 帰りに新宿のヨドバシカメラに寄って、デジカメのカタログを大量に入手。知り合いからの依頼で、スマートメディア保存・パソコンとUSB接続、単三電池使用可能という条件で探しています。
 それにしても、買い物のためにちょっと歩き回っただけで、歩くのがしんどく感じられます。ヨーロッパではあれだけ歩けたのになあ。なんでやろ。疲れかなあ。こんな調子だと、いったん入った仕事がキャンセルされてしまうかも?
(※)為末選手のエドモントンの銅メダルの価値が低いと言ってるわけじゃないですよ。グランプリの限られた出場枠をゲットできるかどうかを考えた場合に、メダリストが多い種目は、“メダリスト”という看板だけでは難しくなる、という単純な確率の問題です。


■7月27日(土)
 朝の10時から取材。まずは練習の写真撮影をしました、約2時間。練習の場合、試合では撮れないようなアングルからの撮影が可能となります。距離的にも選手に近づくことができるので、寺田が持っているカメラでもかなりのアップが撮れます。そういった点に留意しながら撮影しました。
 それにしても今日はホント、暑かったです。カンカン照りってわけじゃないのに、ものすごい気温。グラウンドでの体感温度は40℃以上だったように思います。ちょっとオーバーな表現をするなら、サウナに入っているような感じ。汗がまったくとまりません。インターハイの取材を思い出しました。記者は、本当にきつくなったらスタンド下やスタンドでも日陰部分から見ることもできたと思いますが、ずっと炎天下にいるカメラマンは大変です。そのきつさを今日、身をもって体験しました。
 夜、都心で約束があったのですが、ちょっと時間があったのでいったん自宅に戻って休息。昨晩の睡眠不足もあったのか、出かけるのがしんどく感じていたところに、先方から連絡があって予定が明日に変更になりました。渡りに船ってやつですね。できた時間で原稿を書けばよかったのですが、休息に専念。仕事の方がどこかで、しんどくなりそう。


■7月26日(金)
 今日は終日、自宅兼事務所で仕事。久しぶりに掃除もしました(仕事じゃないですけど)。1つ、連絡がとれないところがあって苦戦中。夜、昨日取材した選手の監督に電話取材。いい話を聞くことができました。今回の原稿もよくなると思いますが、将来的にも生きてくる取材だったと思います。夕方、新たな仕事依頼があり、こちらはスムーズに連絡ができました、というか、まだFAXで申請書を送った段階なんですが。
 インターハイ、取材に行くわけではありませんが、水戸や常磐線沿線のホテルをインターネットで検索したらほとんど空室なし。もしやと思って10月の高知国体期間を検索すると、こちらもなし。国体は取材予定ですから、ちょっとやばいです。昨年の宮城県の報道担当の人の話では、ちゃんと高知県にも「オフィスT&F」が報道メディアとして伝わっているはずなんですが…。
 10月は、アジア大会が取材予定に入っています。韓国って、AUの携帯電話がそのまま使えるんでしたっけ? そのまま使えるPHSってないですかね。釜山、高知と使えるPHSがあると、ホテルでのインターネット接続を気にすることなく予約ができるんですが。


■7月25日(木)
 15:30から板橋方面で取材。ホテルで待ち合わせをしたのですが、小さめのビジネスホテルだったので、隣接するファミレスで取材することに。しかし、これが大失敗。お昼時でもなかったので大丈夫とたかをくくっていましたが、入ってみると満席に近い状態で、しかも周りはおばさま軍団でいっぱい。かなり、ガヤガヤした中での取材となってしまいました。
 この手のことは、すぐに気づけば場所を変更しますが、得てして、取材を始めてしばらくしてから「まずったかな」と気づくことが多いのです。原稿書きははかどっても、取材はそうとは限らない。教訓としましょう。でも、かつて法大近くのCASAだったと思いますが、不破弘樹選手や小野友誠選手を取材したときは、全然問題なかったんですけどね。
 しかし、内容はばっちり。明日、監督に電話取材をすれば完璧でしょう……完璧というのは言葉のあやで、実際に完璧という取材はありません。朝原宣治(大阪ガス)選手が、10秒02を出してもまだ不満を感じ、もっといい走りがあるはずと、理想の動きを追求しています(陸マガ8月号参照)。寺田の取材が10秒02のレベルにあるなどと揚げ足取りをする人がいるとは思えませんが、朝原選手レベルでもそうなのですから、寺田レベルの取材ではまだまだ先があるということ。“これで完璧”という取材はいまだ未経験。


■7月24日(水)
 今日も休養ベースの一日。やった仕事は必要なアポ取りくらい……では、ありません。締め切りが1本。夜、気合いを入れてやりました。それに、明日の取材の予習も。


■7月23日(火)
 昨晩、ANA最終便で東京に戻り、今日は休養ベースの一日。やった仕事は必要なアポ取りくらい。


■7月22日(月)
 今日は三段跳講習会を取材というか、見学させていただきました。午前中はホテルで行われ、スキー・ジャンプの須田健仁氏(全日本ジュニアコーチ)の講演、筑波大・阿江先生のバイオメカニクス講義、須田・阿江・柴田宏(メルボルン&ローマ五輪代表)・山下訓史4氏によるパネルディスカッション。午後は円山公園陸上競技場で山下氏による実技指導。
 それらの模様を詳しくは紹介できませんが、山下氏のエピソードを1つ。山下氏は言わずと知れた、日本人初の17mジャンパーで、現在も17m15の日本記録保持者。86年のソウル・アジア大会金メダリストで、87年ローマ世界選手権・88年ソウル五輪・91年東京世界選手権と決勝に進出された不世出の名ジャンパーです。山下氏が一線を退いた時期(たぶん97〜99年頃)に陸マガで、氏の競技半生を振り返っていただいた企画がありました。その打ち合わせをしている最中に、ある重大なことが発覚いたしました。
 それは、山下氏が初めて16mを跳んだ試合を覚えていなかった、ことです。日本の三段跳選手にとって16mというのは、ある種の勲章だと思われます。日本のトップクラスに仲間入りしたことを証明する数字です。にもかかわらず、その試合がどれだったのか覚えていないのですから、「この人は普通じゃない(いい意味で)」と思いました。「16mは単なる通過点、目標としているのはもっと上だったのだろう」と感じたものです。
 ただ、公認で16mを跳んだ試合の前後に、けっこう多くの試合に出ていて、追い風参考で16m台を数回出していたのです。それに、高校時代にインターハイを2連勝していて、ベスト記録は15m49でしたが、記録以上に強かった印象もあって、16mは時間の問題と言われていた選手でしたから、普通の選手とは置かれていた立場が違ったことも事実です。でもやっぱり、自身の競技生活の記念となった試合を覚えていないのは、すごい!


■7月21日(日)
 昨日、北の大地を目前にして東京に引き返した寺田は、朝一番のANA便で札幌入り。不安視されていた羽田空港ロビーでの早起きも、空港職員やフライトスタッフのにぎやかな出入りでがやつきがあり、5時前には目が覚めました。
 10時前には会場の円山公園陸上競技場入り。そして怒濤の南部記念取材突入。最初の2時間こそちょっと余裕がありましたが、12時近くなると決勝種目が次から次へと行われ、目の回る忙しさでした。途中、2時間睡眠ということもあり(その前日あまり寝ていないし)、体力的にもちょっとしんどくなりましたが、なんとか乗り切ることに成功。取材の合い間合い間に、記者や指導者の方、そして選手からもヨーロッパ取材のことで言葉をかけられ、そのおかげで乗り切ることができたような気がします。
 大会最優秀選手は男子が今季200 m初戦にして世界選手権A標準突破の末續慎吾(東海大)選手、女子は砲丸投日本新の森千夏(国士大)選手でしたが、女子走高跳・太田陽子(ミキハウス)選手の日本歴代2位・1m95もA標準突破ですし、2人と遜色ない活躍だったと思います。
 そして、“南部記念ならでは敢闘賞”とでもいえるのが、女子400 mの木田真有(福島大)選手と男子三段跳の杉林孝法(ミキハウス)選手。木田選手の方は受賞理由がわかりやすいと思います(実際にこの賞があるわけではありません)。南部忠平氏(1932ロス五輪三段跳優勝・走幅跳元世界記録保持者)の出身地ということで毎年、北海道で開催されている本大会で、北海道出身の木田選手が学生新を出し、会場を大いに盛り上げたからです。杉林選手の方は、2年前にこの大会で17mを跳び、今回も世界選手権B標準到達だから……というのも理由ですが、彼の場合は表面的な記録だけではわからない“南部記念ならでは”の部分があります。それは、記事にする予定。
 競技終了後、仕事を1つ速攻でやって、その後本サイトの記事を1本。とにかく好記録が目立ったので、それを一覧表にしました。タイトルは「北の大地の好記録一覧」。末續選手が、東海大の短距離ブロックの掲示板に、「北の大地を制覇してきます」と書き込んでいたので、“北の大地”という言葉がすぐに思い浮かびました。そういえば、“沢野大地”はどうだったのだろうかと記録を見たら、棒高跳は行われていませんでした。


■7月20日(土)
 正確に言うとただいま、21日の午前1時13分。場所は羽田空港ロビー。4月のロンドン・マラソン取材帰国時にトランジット14時間を過ごしたモスクワ空港と違い、快適です。4人がけのソファーを2つ並べ、ANAから支給された毛布を2枚使って即席ベッドが出来上がり(みんな、こんな感じで寝ています)。ソファを動かすのに、パン屋さんの清掃をされているおじさん2人が手伝ってくれました。それに、こうしてパソコンで作業できる電源もあるし、ネット接続可能の公衆電話だって腐るほどある。日本は素晴らしい国です……なんて言ってる場合かな。
 事の次第を話すと以下のようになります。
 明日の南部記念取材のため、ANA最終便、21:00発の飛行機で羽田を後にしたのですが、札幌(新千歳空港っていうんですか)が雨で、さらに霧も出ていて視界不良。15分間隔をおいて2回着陸を試みたのですが、34歳(声から推測)とまだ若いミヤタ機長は着陸無理と判断。その間の機内アナウンスをメモしてしまったのは、習性でしょうか。それとも、何か考えがあったのか(自分のことだろ?)。結局、羽田に引き返したのです。
 羽田着が午前0:05。振り替え便は明日の朝6:25発。7:00発でも10:00の競技開始に間に合うかもしれませんが、満席です。幸い、陸上選手らしき乗客は見当たりません。取材記者らしき人間は……なんともいえませんが、寺田の知っている顔はありません。
 当初は当然、ANA持ちでホテルに泊まれると思っていました。99年の世界選手権でセビリアに向かったときが、乗り継ぎ地のロンドン着が大幅に遅れ、豪華ホテルに一泊したことを思い出しておりました。ところが、空港近隣のホテルは全て満室。京急も、モノレールも最終の後。東京駅までANAがバスを出してくれるようですが、その後のホテルは自腹です。モスクワ空港を思い出し、ロビーに寝るしかないと腹をくくりました。不幸中の幸いは、札幌のホテルに電話をしたところキャンセル料なしですんだことです(昨晩、10件近く電話して予約したあの苦労は……)。
 それにしても、見ず知らずの乗客が40〜60人くらい(2〜4人のグループもあれば、何人かは知り合いなのだろうが)、空港のロビーという閉ざされた空間で一夜をともにすることになるとはね。有栖川有栖か金田一少年だったら、殺人事件の1つも起こりそうなシチュエーションだ。おっと、そんな現実逃避をしている場合じゃない。果たして、この即席ベッドで眠れるのか。そして何より、明日の午前6時前に誰か起こしてくれるのか、と考えると、眠ってしまっていいのかどうか。幸い、ロンドン・マラソン取材記念のものと合わせ、アラーム機能付きの腕時計が2つ。時差ボケいまだ直らない今の状況で、起きられるのかなあ?
 などと書いていたら、電気を消されてしまった。巡回のお兄さんに「もう30分なんとか」とお願いしても「規則だから」と、受け付けてくれません。ここはフランスか? 電気のついているところまで50m移動して、なんとか書き上げました。明日の取材、大丈夫かな。タイムテーブル見ると、けっこうきつそうなんだよな。


■7月19日(金)
 帰国したら陸上競技マガジン8月号が届いていました。ヨーロッパで書いた記事が、帰国したら雑誌の体裁になっている……ちょっと感慨深いものがあります。巻頭カラーの朝原選手と福士選手の記事は、7月6日にパリのベースボール・マガジン社ヨーロッパ総局で書きました。モノクロ巻頭の「増加する日本選手の海外転戦」は、同じ日ですがモンマルトル近くのホテルで。あれから約2週間。つい数日前の気もしますが、2週間以上昔のような気もします。
 実は、ヨーロッパで行われた試合以外の記事でも、向こうで書いたものがあります。日本から持ち込んでしまった原稿があると日記でも何回か触れましたが、1つめはアコム・ミドルディスタンスチャレンジの原稿。オスロのホテルで書きました。そしてもう1本は朝原選手の「Countdown Sub-10」。オスロの空港で構想を固め、フランクフルトからローザンヌへの移動中と、ローザンヌのホテルで書きました。完成したのは7月2日。アスレテッシマ(ローザンヌGP)当日です。朝原選手が子供たちにサインをしているのもローザンヌです。右後方に今井美希選手がいますから、丁寧に戦績を追っている人はわかったと思いますが。
 ちょっと嬉しかったのは、カラーのトップページにビスレット・スタジアムの写真が、朝原&為末両選手のバックに使われていたこと。一昨日の日記にも書きましたが、ビスレット競技場の古さと温かさは、今回の取材旅行でもかなり印象に残っています。あとは、フランクフルトで練習中の坪田智夫選手の写真も、ぎりぎりのスケジュールで撮影しただけに、日の目を見てよかったなと。
 本日は休日ベースの一日でしたが、南部記念の準備やいくつかの連絡など、仕事も少し。札幌には明日の夜、ANA最終便で入ります。しかし、ホテルがとれない。ツールーズのホテルをとれなかったときと同じくらい焦った……わけはありません。が、10件めくらいでやっと確保できました。


■7月18日(木)
 快適な空の旅でした。ヨーロッパは7回目ですが、一番快適でした。もちろんエコノミー・シートですが、ビジネスクラスとの境目の席で、前のスペースが広く空いていたのです。そして通路側。脚は伸ばせるし好きなときに立てるし。この2点でここまで違うのかと思えるくらい快適。まさに天国と地獄(なんと平凡な表現。ブータンの首都に行かされてしまいそう)。腰痛がでないわけではありませんが、すぐに姿勢を変えたりマッサージしたりして対処できました。10時間半がまったく苦痛にならないで過ごせるとは…。
 で、何をして過ごしたかというと、食事の前後は読書、それ以外は記事をパソコンで書いていました。ローマGL・ゴールデンガラ観戦記の続きをと思い、為末大選手のことを書こうとしたら、一連のヨーロッパ・グランプリ転戦というくくりで記事にした方がいいと感じ、急きょ変更。為末大特集にしました。
 タイトルは「“得意のはずのヨーロッパ”で為末大苦戦」としました。為末が「苦戦」なのか、為末が「大苦戦」なのか、それは読んだ貴方(あなた)がお決めください。全部で5つの章に分けて書き上げました。すでに◆1◆と◆2◆をアップしましたが、残りも資料を補足したりして近日中に掲載します。
 成田のシャトルに乗ってふと横を見ると、なんと太田陽子選手が。旅行中、何度かメールのやりとりはしましたが、一度も会っていませんでした。それが帰国した成田で会うのですから、変なもんです。彼女もスカンジナビア航空と聞いていましたし、16日のDNガランのあと南部記念に出場予定とも聞いていたので、すぐに帰国するだろうから、もしかしたら同じ便まなと予想はしていました。コペンハーゲンで探してみましたがいなかったので、違ったかと思っていました。聞けば、離陸10分前に飛び乗ったとか(跳び乗ったわけではない)。案の定、ぎりぎりで乗り継いだ人の荷物の方が早く出てきて、寺田の方は最後でした。
 飛行機の中で眠れたわけではないので、空港でサイトのメンテをする最中や、帰りの電車の中で眠ってしまいました。自宅に着いたのが3時半頃だったでしょうか。しばらくして、7月10日にニームで発送した荷物が届きました。思わず届けてくれた郵便局のおじさんに「この荷物を送るのに苦労したんですよ。ニームっていう南フランスの街で送ったんですけど、郵便局見つけるのに40分かかっちゃって。しかも72ユーロですよ」、なんて話はしませんでした。


■7月17日(水)
ユーロ日記2002・21日目 フランクフルト→コペンハーゲン→成田 その2
今回の旅行で一番……

 機内で眠ることはできないので(腰痛のせい)、いろいろと考え事をしました。3週間と海外滞在が過去2番目に長かった今回の旅行を振り返りました。
一番「やったー」と思ったとき
 パリの女子3000mで福士加代子選手が日本新でフィニッシュしたとき(思わず永山監督と握手)
一番、意外だったこと
 朝原選手がパリの100 mで8番と9番の違いを喜んだこと(為末選手の記事の◆4◆で触れています)
一番、予想以上だったこと
 ビスレット競技場の古さと温かさ
一番、予想通りだったこと
 ローマのスタジアムからのシャトルバス発車場所がわからなかったこと
一番、面白かったコメント
 福士加代子選手がローマ5000m日本新のあとに言った「○○の差で記録が出ました」(日刊スポーツ参照)
ラッキーだったこと
・110 mHでアジア新を出した劉翔選手をローザンヌの大会ホテル前で取材できたこと(サインをアップしないと)
・ローマの僅かのチャンスにペティグリュー選手と世界選手権東京大会トレーナーの写真が撮れたこと
・モンセギュール要塞に行けたこと
アンラッキーだったこと
 特に思い当たりません。強いて言えば、ツールーズの最初のホテルでネット接続ができなかったことか、な
一番やばかったこと・精神的に
 ツールーズのホテルが当日の電話で予約できず、駅に着いたら雨が降り出したとき
一番やばかったこと・肉体的に
 ベネツィアで雨の中を道に迷って歩き続け、背中と腰に言いようのない張りというか痛みが来たとき
一番嬉しかったこと
 ローザンヌでのある出来事(文字にしたら安っぽくなりそうなので内緒)。日記に書いたHSI関連のこととは別
二番目に嬉しかったこと
 Sさん(男性)からのメール。これも内容は内緒
なくした物
 4色ボールペン。箱根駅伝ボールペンのポケットに引っかけるフックの部分が破損(ロンドンのストップウォッチと比べたら損害額微少)
得たもの
 物はありませんが、いろいろ(many か much か微妙)

 挙げていったらきりがありませんので、この辺で。


■7月17日(水)
ユーロ日記2002・21日目 フランクフルト→コペンハーゲン→成田
ヨーロッパ最後の記事
 ヨーロッパ最後の日記ですから、普通は“締め”の意味で何かカッコいいことを書かないといけないのでしょうが、寺田の日記ですからもちろん、そんなのはなし。頭の硬い役所の報告書ではないんですから。
 昨晩、ヨーロッパ取材中もいろいろと情報を送ってくれたM岡さんが、広島陸協サイトに為末大選手の特集コーナーができていることを教えてくれました。さっそく拝見すると、寺田の記事も引用してくれています。ちょっと恥ずかしい気分でしたが、嬉しくもありました。寺田のような無位無官の民間人の記事を活用してくれるのは、形よりも中身を重視してくれているわけです。富山陸協のサイトも、富山県関連の記事を書くと、寺田のサイトを紹介してくれたりしています。形にとらわれない人たちもいるのだと、嬉しく感じました。いかに多くの人の情熱を、陸上界を盛り上げるのに利用できるのか……すいません、うまく説明できません。飛行機の時間もありますし(最後まで言い訳)。
 しかし、なぜかヨーロッパの為末選手の記事執筆が遅れています。まずはパリGLの分を書きました。これが、ヨーロッパで更新する最後になりそうです。ローマの分は今日、フランクフルトとコペンハーゲンの待ち時間で書く予定。
 締めの言葉もなし。


■7月16日(火)
ユーロ日記2002・20日目 ミラノ→フランクフルト
車内で考えたこと……ろくなこと考えていません
 ミラノからフランクフルトまで、1回の乗り換えで行くことができます(もしかしたら直通もあるかもしれない)。スイスをやや西の方にスライドしながら縦断するわけで、南の方は俗に言う“大パノラマ”の連続で、中部から北の方は“ヨーロッパらしい家並み”と、“スイス”を見ることができます。途中、朝原&為末選手たちが第一戦として出場したルッツェルンも通りましたが、きれいな街並みでした。
 昨日、コモ湖畔の風光明媚なことを書きましたが、スイスの湖畔の町はどこもそれに劣らず綺麗です。これだけ湖が多いと、湖畔で行われている陸上競技会はけっこうな数になりそうです。昨日“世界3大湖畔競技会”を浜名湖一周駅伝、びわ湖マラソン、アスレティッシマとしましたが、今後の展開(何の?)によっては、変わってくるかもしれないし、“3大”が“4大”や“5大”になるかもしれません。為末大にはなりませんけど…。
 “湖畔”にこだわった寺田は、湖畔の街を分類することに成功(?)しました。
 1つめは「都市型」でレマン湖畔のローザンヌやジュネーブがこれにあたります。
 2つめは「自然型」で、今日見たスイス南部や、昨年、スイス東部のサンモリッツに行く途中で目にしました。都市型が生活や産業も発達しないといけない必要上、平地であることが多いのに対し、自然型は都市機能よりも自然優先というか、湖に山などが迫っていているケースが多いです。
 3つめはその「中間型」で、コモなんかが該当します。
 1つめの都市型でも、ジュネーブは半分アメリカ的に近代化された雰囲気があるのに対し、ローザンヌは昔の街並みを保つなど雰囲気の違いはあります。また、昨年車窓から見て今年行こうと計画していたヴェーデンスヴィルなどは、さらにこぢんまりした生活の場、という感じです。ミラノからスイスに入ってすぐのカポラゴやルガーノなんかもそうでしょうか。
 ちょっと話は変わりますが、都市は必ず“水の近く”に成立します。海に面しているか、川のほとりか、湖に面しているか。必ずそうなっているはずです。都市の成立過程から、“水”は必要不可欠だからでしょう。セーヌ川(パリ)もテムズ川(ロンドン)もドナウ川(ウィーンやブダペスト)も、観光のためにそこに都市を造ったのでなく、都市機能として“水”が必要だからそこに都市ができたのでしょう。なんて、誰でも知っていることを、さも自分が発見したように書くのはよくありません。
 車内で6〜7時間を過ごしたわけですが、風景を楽しみながらも原稿を書いていました。ちょっとだけ、読みかけの本にも目を通してはいましたが。
 先ほどルッツェルンのことに触れましたが、電車から目にした駅名で「あっ、この街知ってる」というものがいくつかありました。日本人でも知っている大都市・有名都市ではないけれど、陸上競技会を開催したことがあって目に触れている都市です。ドイツに入ってからカールスルーエという駅に止まりましたが、ここはたぶん、朝原選手がかつて競技会に出場していると思います。室内だったでしょうか。それなりの選手が出ていて記憶にあります。行ってみると、そこそこ大きな駅でしたから、国際大会を開催するのはそれなりの都市なんだな、と実感した次第。
 フランクフルトには夜の10時過ぎに着。ホテルは前回と同じ駅に隣接と言ってもいいくらい近いホテルで、格安料金で泊まれ、その上インターネットもできます。普通のレストランが閉まっていて、開いているのはアジア系かアラブ系の店ばかり。今回初めて、中華料理を食べました。


■7月15日(月)
ユーロ日記2002・19日目 ミラノ←→コモ
湖畔にこだわる陸上競技的理由とは?
 13:25ミラノ発の電車でコモへ。ホテルを出発する前に、ヨーロッパ最後の洗濯をしました。“ヨーロッパ最後”という枕詞がつくと、いよいよだなった、ちょっと寂しくなります。コモには14:10頃には着いたのですが、雨が降ってきてしまいました。コモは10何年か前にも一度来ていますが、そのときは靄(もや)がかかったような状態で、景色を愛(め)でるにはいい状態ではありませんでした。まさか、2度目もとは。日頃の行いが悪いせいでこうなったとは思いませんが、日頃の行いは悪いかもしれません。
 しかし、湖畔で読書はできます。駅のインフォメーションがなくなっていた(工事中?)ので、10分ちょっと歩いて湖に面した広場のインフォメーションに。船でコモ湖北岸のColicoまで行こうとしましたが、4時間かかるのであきらめ、15:10発の船でちょうど南北の中間にあるメナッジォMenaggioまで行くことに。メナッジォ着が17:05で帰りは18:43発の高速艇で1時間で戻ってこられます。1時間半、カフェで読書ができる計算です。
 コモ湖はヨーロッパの王侯貴族がこぞって別荘を建てたほどの景勝地(避暑地でもあるようです)。細長い湖で南北約46km、最大幅4.3km。ちょうど「人」という字の形で、南に半分いったところで二股に分岐しています。コモは西に分岐した湖の最南端に位置する人口約8万6000の市です。船に乗って北上するとこんな風景が続きますが、雨が降っているのでちょっと遠くはこんな感じで曇ってしまいます(カメラレンズよりは肉眼の方が鮮明に見えますが)。湖岸のはこんな感じ。お洒落です。
 寺田が行ったメナッジォは船着き場を中心にホテル、カフェ、教会、広場、それに衣料品、食料品、スポーツ用品の店などがあり、独立した町です。湖岸には他にも、メナッジォのような町がいくつもあり、それを定期船(遊覧船も兼ねている)が結んでいますし、湖岸を通る道もあってバスの便もあります。が、対岸の町に行くには湖岸道路をぐるっと回るよりも、船で渡った方がはるかに短時間で行くことができます。
 メナッジォでは室内からも湖を見られるカフェを簡単に見つけることができ、“レイクビュー・シート”をすかさずゲット。しかし、外は雨。こんなに曇った景色になってしまいます。かなり残念。ちなみに、カフェからの街並みはこんな感じ。約1時間強の読書を楽しみました。ちなみに、ヨーロッパ旅行中の読書はこれで3冊目。日本にいるときよりは、たくさん読めるようです。
 ここで、なんで湖畔ネタがたくさん出てくるのかを説明しましょう。きっかけはローザンヌGP取材です。レマン湖畔に大会本部ホテルがあり、そこではたと気づきました。これで、“世界3大湖畔競技会”を同一年内に取材したことに。書くまでもないと思いますが、“世界3大湖畔競技会”とは2月の浜名湖一周駅伝、3月のびわ湖マラソン、そして7月のアスレティッシマ(ローザンヌGP)です。この3つの競技会を全て取材した記者は、世界広しといえども寺田くらいしかいないのではないでしょうか。
 浜名湖は寺田の出身県である静岡県最大の湖ですし、びわ湖は日本最大、レマン湖はGP開催都市にある湖では最大……かどうか、知りません。なんでミシガン湖畔のシカゴ・マラソンが入らないのかというと、寺田が行ったことがないからです。
 もしかしたら将来、コモ湖一周駅伝が開催されるかもしれないな、などと思いながら湖上をコモに戻り、イタリア最後のディナーを湖畔で食べました。


■7月15日(月)
ユーロ日記2002・19日目 ミラノ←→コモ
 曇りです。判断に苦しみましたが、午後、晴れることを期待してコモに行くことにします。電車で40〜50分。曇ったままでも、読書はできるぞ、と。湖畔のカフェで。


■7月14日(日)
ユーロ日記2002・18日目 ミラノ←→ヴェネツィア
朝原選手の言葉が身に染みたヴェネツィアの船上
 電車の時間をまったく気にせずWEBサイトの更新をしていたら、ふと、ある不安が頭をよぎりました。「ミラノ←→ヴェネツィア間の電車が1時間に1本ということは、1本逃したらヴェネツィアに着くのが1時間遅れるってことか」。ヴェネツィアまでは片道約3時間。暗くなってしまいます。慌てて時刻表を調べると、15分後の13:05発。ちょっと焦りましたが、8分で支度を整え、フロントで帰りが遅くなっても大丈夫か確認し(ホテルによっては、自分で鍵を開ける必要に迫られることも)。雨は上がっていましたが、まだ曇っていましたし、また降り出しそうな気配だったので、コモではなくヴェネツィアに行くことに。駅まで5分で走っていって発車2分前に駆け込みました。
 ところが、空席がほとんどありません。たまにあっても、「予約札」が差し込んであります。よく見ると1等のみならず2等まで全座席に予約札。またまた不安が頭をよぎりました。もう一度トーマスクック時刻表を見ると、□囲みのR印。予約が必要な列車だったのです。イタリアではユーロスターだけだと思いこんでいたのが失敗でした。
 次の駅で降りて40分後の電車に乗り換えることにしましたが、その前に検察の車掌さんが。正直に事情を話して、次の駅で降りるからと言ってもダメ。8ユーロも払う羽目に。それにしても、フランスTGVの指定料は高くても3ユーロでした。イタリアって高い。
 次の停車駅で降り、待ち時間で昼食をとることに。さすがに60ユーロのホテルでは、朝食はパンとコーヒーとオレンジジュースだけ。昼まで電車内や駅で売っているサンドウィッチではきついと思っていましたが、駅にマクドナルドがあって「たまにはハンバーガーもいいか」と入りました。ところが、あとで気づいたのですが、そこは3つの店の合同の入り口で、中は3つのカウンターに分けられていました。「マックなのにハンバーガーがないの?」と思わず聞きそうに。入り口には、マックの看板しか出ていないのですが…。結局、パニーニとかって最近日本でも人気の出ているものを食べたのですが、単にハムとチーズがはさんであるだけ。こっちにきて、サンドイッチがおいしいと思ったことは一度もありません。栄養的にも全然ダメ。夜は、ちゃんとしたものを食べないとまずいな、と思った次第です。
 ヴェネツィア着は16:40頃。水路が住宅地への入り組み方は予想以上こんな感じです。ちなみに、こういうアーチ型の橋は、ヴェネツィア特有だそうです(他に絶対ないってわけじゃないのでしょうが)。テレビで見たりしてはいましたが、これほどとは。見たかったのは、まずは造船所跡(アルセナーレ)。モンセギュール、アヴィニョン、ローマとキリスト教関係の場所を見てきましたが、この3カ所が宗教に真摯でありすぎたのに対し、ヴェネツィアは解放(開放)的でした。ヴェネツィア自体はカトリックの都市(共和国家)でしたが、ローマ・カトリック教会とは対照的に、異教・異端、さらにはプロテスタント(新教徒)に寛容的で、その手の関係の書物の出版さえ認められていました。しかし、ヴェネツィアがかつて、地中海での覇権を維持できたのは、強力な海軍があったからこそ。もちろん、造船技術に兵員・装備の維持を可能としたのは、その経済力でしょうが、その象徴としてやっぱり、造船所跡を見ておきたかったのです。
 ヴァポレットという水上バスでアルセナーレ船着き場まで20分強。現在も海軍の施設で見学はできません。地球の歩き方の地図ではそれほどとは思いませんが、現地のインフォメーションでもらった地図を見たり、実際にから中をのぞくとそこそこの大きさが感じられます。
 そこからサンマルコ広場までは600 mくらい。当然、歩いていこうとしましたが、それが失敗でした。道に迷ってしまった、というか、道が迷路になっていました。普通で言うところの行き止まりはあるし、突き当たりが水路だけで道がない、というのも当たり前。目印となる建物を見つけようにも、路地が狭く家同士が近づいているので、視野がものすごく狭いのです。この街では車などあるわけがありません。まるで、敵の侵入に備えた都市づくり。昔栄えたというイスラムの都市によく見られる街づくりです(行ったことはないんですけど)。ヴェネツィアは東方貿易で栄えた都市国家ですから、その影響を受けていても不思議ありません。
 フランスのニーム(7月10日)で経験したのと同じく、人に道を聞いてもだいたいの方角しかわかりません。結局、サンマルコ広場には行けず、元のアルセナーレ船着き場に。40分かかってしまいました。その間、雨が降り始め、一時は雷雨に。傘は持っていましたが、服から靴からバッグまで、びしょびしょ。窓で雨やどりしているネコを見ることができたので、ちょっと心がなごみました。
 アルセナーレ発着所から海岸沿いに歩いても行けるのですが、疲労を考えてヴァポレットでサンマルコ広場に。すごい広さの広場です。入り組んだ狭い路地からは想像できません。共和都市国家には必要なのでしょうか、こういった大きな広場が。共和制と言っても議員は世襲の貴族たちだけだったわけですが…(世襲の国王はいない)。
 軍船が出撃する際は、指揮官クラスがサンマルコ広場で閲兵式を行い、広場の港から出港したといいます。そんなことを考えていたら、時刻は19:20に。40分のロスが響きました。駅まで帰るのにヴァポレットのラインを1番で行くか、41番や52番にするかどうするかで悩んだり、乗り場を間違えたりで、19:40くらいに。雨もちょっと強くなりましたし、傘の骨がついに折れてしまうし、ちょっと疲労を感じてきました。20:00のミラノ行きには間に合わないと判断して、市の中心をゆっくり回る1番で駅に向かいました。
 ヴァポレットの船上、濡れた服と水浸しになった靴に不快感を覚えただけでなく、ついに腰と背中に来ました(痛みというほどではないのですが)。日本だったら、マッサージを受けることもできるんですが、外国ではそう簡単にできる類のことではありません。パリかツールーズで一度だけ、それらしい看板を見かけましたが。そういえば、先月、日本にいる朝原宣治選手を取材した際、「食事や身体のケアのことなどは、外国にいるより日本の方がずっといい」と話していました。ヴェネツィアのヴァポレットで、その言葉を身に染みて感じていました。このあと、濡れた服に我慢を強いられる3時間の電車の旅も待っているのです。早くシャワーを浴びたい。
 駅で40分ほど時間があったので、セルフサービスですけど、それなりのレストランに。スパゲッティ(ミートソース)に、タコとオリーブと何かと何かのマリネ、豆を中心にした野菜スープ、それにミネラルウォーターで10.50ユーロ。これは得をした気分に。椅子とテーブルもちゃんとしたもので、ここで少し身体が楽に。ミラノへの電車はコンパートメント式の車両だったので、中で靴や濡れたポロシャツを脱ぐことができました。ちょっと寒かったですけど、なんとかしのいで0時過ぎにホテルに。
 明日は、どうしようかな。晴れたらもう1泊してコモに行きます。雨だったら、予定(なんてあったのか)通りスイスのある湖畔の町に行くことになるでしょう。


■7月14日(日)
ユーロ日記2002・18日目 ミラノ←→???
 今日はフランス革命記念日。現在寺田がいるのはイタリアなので、その関係のイベントはないはずですが、全ヨーロッパに(全世界か)影響を及ぼした出来事です。
 そんなことはどうでもいいのですが、肝心のミラノは雨
 雨、雨、雨。
 明け方ちょっと目が覚めたとき、雨の音がしていやな予感とともに目を覚ましました。コモは綺麗な湖がある風光明媚な土地、という以外はこれといって、見るものもありません。読んだことのある小説の舞台ではあるんですが…。ちょっとショック。フロントに天気予報を聞いたら、「今日の午後も雨、明日は今日よりはよくなるだろう」とのこと。計画変更を決断。
 朝食後、サイトのメンテナンスをして、昨晩さぼってしまった洗濯をしたら11時半。この日記を書いた後は、ヴェネツィアに行こうかと思います。目的は、ヴェネツィアの全盛時代(14〜16世紀)の造船所跡。現在は海軍の施設で見学はできないようですが、夕方到着ということを考えたらそれもかえって好都合。ミラノ−ヴェネツィア間は1時間に1本は特急が走っていて、夜も遅い時間まであります。片道3時間ですが、その間に読書もできますし。
 よし、ヴェネツィアだ。もしかしたら、東の方は晴れているかもしれないし(根拠なし)。


■7月13日(土)
ユーロ日記2002・17日目 ローマ→ミラノ その2
ワコール勢はローマの休日
 12:30にローマの郊外型高級リゾートホテルをチェックアウト。タクシーを待っている際にワコール・片渕選手と永山監督にばったり。福士選手は5日(パリGL3000m)、12日(ローマGL5000m)、20日(ナイトオブアスレチック・ヘヒテル5000m)と1週間間隔で3レースなのですが、レース翌日は朝練後はフリー。休養日です。ワコール勢は“ローマの休日”(注釈なし。知りたい人はインターネットで検索してください)。“ローマの仇敵”はヴェネツィアに向かったようです。O山さんはハンガリーに。寺田は13:30のユーロスターでミラノへ向かいました。
 ミラノ着が18:00の予定が大幅に遅れて18:40に。ミラノのインフォメーションでコモのホテルリストが入手できたら電話をして部屋をキープしようとしたのですが、あえなく失敗。だったら、コモは明日日帰りとし(ミラノから45分)、ミラノに2泊することに。連泊すれば洗濯もできます。そういえば昨年、サンモリッツ(スイス)で高岡寿成選手を取材したとき「海外の合宿先・遠征先についたら、まず洗濯がどうできるかをチェックします」と話していました。1泊でも昼頃にチェックインして、すぐに洗濯できる時間があればOKなんですけど。とにかく、洗濯は重要です。
 昨年泊まった駅から3分のホテル・フローラに。インターネット接続もできます。3つ☆なのでちょっと値段が心配でしたので、周囲のホテル街を一周しましたが、どこも宿泊料を外に表示していません。だったらフローラにすっか、とフロントに行くとプライスリストがあって、シングル100ユーロ。“えっ”という顔をしたら、カウンターの外で東洋人2人としゃべっていたおじさんが、「60ユーロだよ」と、紙に書いてきます。英語も寺田なんかよりよっぽどできて、どうやら“客引き”のようで、このおじさんを通すと安くなるようです。フロントのお兄ちゃんは目の前で、平気で眺めていますからもちろん“公認”の客引き。いってみれば、個人営業のちゃんとした旅行代理店です。「次に来るときもオレに電話するんだ。ベネツィアもOKだぜ」と、電話番号を書いて手渡されました。
 ミラノで60ユーロなら御の字でしょう。ネットもできるし、駅には近いし。明日はコモで一日、ゆっくりする予定。記事も1本くらい書ければいいかな。


■7月13日(土)
ユーロ日記2002・17日目 ローマ→ミラノ(コモ?)
 朝9時30分から福士加代子選手の5000m日本新一夜明け取材
 すぐに新聞記事を書き、パッキングを終了していつでも出発できる体勢を整えて、この日記を書いています。
 昨日は充実した取材ができました。今回の取材旅行最大の目的(……って書くケースが何回かあるような)が達成できましたし、日本新も出ましたし、朝原宣治選手も上向きです。
 これから、13:30ローマ発のユーロスターでミラノに向かいます。その間に、昨日のローマGLの記事が何本か書ければと思っています。その後のスケジュールは、ミラノの北のコモ湖に行こうかと考えていますが、気が変わってフィレンツェかベネツィアに行くかもしれません。ネット接続はどこかでできるでしょう。
 では。


■7月12日(金)
ユーロ日記2002・16日目 ローマ2日目 その2
ローマの仇敵
 試合は18時にハンマー投開始ですが、14時過ぎにはホテルをO山(フリーランス)さんと出発。バチカンに寄って行きたかったからです。察しのいい読者はおわかりかと思いますが、モンセギュール要塞(カタリ派終焉の地)→アヴィニョン(14世紀のローマ法王庁所在都市)→バチカン(ローマカトリック総本山)と、キリスト教でテーマを統一しています。それに何か意味があるのだろうか……と考えると、単なる自己満足でしかありません。
 ホテル最寄りの地下鉄駅まで歩こうとしたのが失敗でした。フロントでもらった地図ではすぐそこのようにも見えましたが、実際に歩いてみたら40分。大会本部ホテルも、プレス用ホテルも、郊外型のリゾート・ホテルってことはわかっていましたが、まさかこれほどとは。車で来られない客は来なくていいよ、というスタンスでしょうか。
 地下鉄は0.7ユーロと、ヨーロッパ大都市の中では安い方。サンピエトロ寺院はまた、ばかでかいでしょうから、入場したら数10分歩かないといけないことは容易に想像できます。駅まで40分歩いてしまったことと、時間がなくなったこともあり、外から見るだけで入場は断念。写真だけ撮りました(午後はダメですね、逆光になってしまいます)。取材のための体力を残しておかなければいけません。近くのセルフサービスのレストランで食事をして、タクシーでスタジオ・オリンピコに。バス路線が1本近くまで行っているらしいのですが、昨晩のタクシー運転手も、ホテルのフロントも知りません。地下鉄の料金からもわかるように、ローマの交通機関はやや安めなので、タクシーでもそれほどかからないのです。食べ物は、それなりの値段でしたけど。ホテルは、バカ高いです。メリットは、報道受付ができることと、選手との接触ができることくらいでしょうか。シャトルバスもあるのですが、これは結局今回、使いませんでした。
 17時にはスタジアムに到着。昨年も来ているので、そんなに迷いませんでしたが、それでも受付がどこかはわかりにくい競技場です。案の定、K通信のK林さんがホテルで受付をしないで、ロンドンから直接競技場入りして、かなり手間取られたようです。英語を完璧に話せる記者でもそんな状況。英語の話せる人間が少ないことと、スタジアムの管理をしている人間が全体のシステムを把握していないから、こういった事態になります。そういった点はイタリアが一番いい加減だと感じました。
 イタリアを新婚旅行中の日刊スポーツ・佐々木記者も到着。日本人記者は4人、同カメラマンも2人と、日本陸上界の関心の高さがわかる大会です。ポーランドやハンガリーの五輪&世界選手権金メダリストも出場していましたが、記者が来ていた痕跡はありません。日本の陸上メディアって、やっぱりすごいんじゃないでしょうか。
 それにしても、ファミレス論争の仇敵(佐々木記者のことです)と、ローマに来てまで出会うとは、どこか違和感を感じます。そういえば彼とは、今年モスクワでも一緒でしたし、ロンドンでも会ったような記憶があります。腐れ縁と言ったら、新婚ほやほやの人間に失礼でしょうか。決して、示し合わせて来ているわけではないので、その辺を誤解されないようお願いします、特にT佐選手。
 佐々木記者には結婚祝いに「寺田家秘伝の夫婦円満のこつ10箇条を書いた巻物」と言って、丸めたB4くらいの画用紙をプレゼント。実は一昨日、アビニョンの演劇祭に絵描きさんが何人か来ていたので、そのときに2人の2次会での写真を見せて、イラストを描いてもらったのです。佐々木記者の結婚式は7月7日ですから寺田はもうヨーロッパ取材中。スポニチ・中出記者がメールで送ってくれた写真を、パソコンの画面を見ながら描いてもらいました。英語のできる人だったので助かりました。これが、そのときの様子。そして、これがイラストです。
 残念なことに、奥様はバックスタンド側で観戦されていて、お会いできませんでした。一度、ファミレスに関するご意見をうかがいたいと思っていたのですが…(これは冗談)。
 男子ハンマー投の間、他の種目が行われないので、全選手の投てきを見ることができます。フィールド種目をここまで集中して見られることはめったにないので、ある意味新鮮です。日本選手の出るのは4種目。幸いなことに、上手い具合に時間がずれてくれていました。20時前にはハンマー投が終わり、女子5000mが20時30分、男子100 mA組が21時15分、そして男子400 mHが21時55分。競技が終わってからコメントを聞く時間が十分に持てるタイムテーブルでした。女子3000mと男子400 mHが続いていたパリとは違って、落ちついて取材ができました。
 ですが、そうなると日本選手の出ない種目が、あまり見られなくなります。まして、福士選手は日本新記録を出すし、朝原選手はあのメンバーで“戦った”というレースでしたし、為末選手の話は相変わらず面白いし…。今回、どうしても取材したかった選手が、オスロの記事でも書いた男子400 mのペティグリュー選手(米)。21:05スタートで、朝原選手の100 mが21:15。1回フライングがあるし、これは無理かな、とも思いましたが、ペティグリュー選手がすぐにミックスドゾーンに来たので、無事、目的を達成(詳しくは記事にする予定)。すぐに記者席の最上段に行って、100 mを見ることができました。
 競技終了は23時。記録の整理をして、“midnight”まであるはずのシャトルバスに乗ろうとしましたが、これがどこから出ているかわかりません。昨年もそうでした。地上に行ってから聞いても絶対にわかる人はいないので、プレス関係の人間に場所を確認してから行きました。が、「下だよ」のひと言。行けばわかるよ、と言いたげですが、実際、下に行っても表示も何もないのですから、わかりようがありません。O山さんとあちこち歩いていると、24時頃、選手を乗せて出ていった大会関係車があります。5〜6人乗りの車でしたが、あれがそうだったのかな。とにかく、タクシーで帰りました。
 サイト用に福士選手の記事だけでも書きたかったのですが、睡魔に抗しきれず、あえなくダウン。


■7月12日(金)
ユーロ日記2002・16日目 ローマ2日目 その1
ローマGL女子5000mのペース設定が判明
 今日は夕方から、ローマGL取材。ですが、競技は18時から。朝食後サイトのメンテをして、その後隣の本部ホテルで取材受付をすませ、スタートリストなどもゲット。オスロで再会したビガロ氏とも再々会。室伏広治選手のコメントらしきものが載っていたリリースが出ていたので「英語バージョンはないのかい」と質問すると、「イタリア語だけだ。でも、これはショート・バイオグラフィーで、お前の方がよっぽどよく知っているはずだ」とのこと。バイオグラフなら、おっしゃるとおり、必要はありません。
 帰りに、ホテル近くのスーパーで買い物。かなり暑いです。30℃は完全に超えているでしょう。湿度は日本ほど高くないので、日が暮れてどの程度過ごしやすくなるか。ホテルに戻るとワコール・永山監督とばったり。女子5000mは20時30分から。ラビットのペースは
1000m 2分55秒
2000m 5分53秒
3000m 8分50秒

 だそうです。福士加代子選手が付いていくのかどうか、そのあたりはレース後の記事で。
 男子100 mの朝原宣治(大阪ガス)はA組1レーンでの出場。グリーン、モンゴメリ、フレデリクス、オビクウェル、ボルドン、ドラモンド、ウィリアムズら、錚々たる顔ぶれ。男子400 mHの為末大は2レーン。こちらも決勝なみのメンバーです。


■7月11日(木)
ユーロ日記2002・15日目 アヴィニヨン→ローマ
国境の街で
 朝、とんでもないことがありました。昨日のチェックインの時に「明日は7:26のTGV駅行きバスに乗るから、7時10分にはチェックアウトします」と、念押しをしたのに、フロントに誰もいません。騒ぎ立てずタクシーを使うことも考えましたが、この時間に捕まえられるかどうか。マルセイユ行きのTGVを逃すと、ローマ着が深夜1時過ぎになってしまいます。ローマはプレスホテルが取れていますし、そこは昼間でもそれ以外に方法はないのでタクシーを使うのも仕方ないのですが、できれば避けたい。
 結局、キッチンまで呼びに行って急がせてチェックアウトをし(あのお姉さんがキッチンだけ担当だったら、どうなったんだろう)、荷物を持って800m先のバス乗り場まで走りました(小走り)。ぎりぎり間に合いましたが、腰に来ました。TGVでは回復に務めるのが精一杯で、ガイドブックに目を通すことすらできません。
 マルセイユでベンティミーリャ(仏伊国境のイタリア側の街)に乗り換え。トンネルが多くて、そこで緊張が解けると眠ってしまうことの繰り返し。それでも、南仏海岸の風景はしっかり瞼に焼き付けました。かなり目が熱かったです。
 この電車が10分から15分遅れ、12:05発のジェノヴァ行きに間に合いませんでした。スイス入りしたときのように絶対に待っていてくれると思ったのですが…。でも、ここからジェノヴァへは1時間に1本は電車が出ているので、ローマ入りは20:50の予定が21:30になるだけ。ところが、その待ち時間の間にジェノヴァからローマへのユーロスター(要予約の超特急電車・追加料金自体は3ユーロ)の予約を取ろうとすると、「その電車はない」と言われてびっくり。どうやら、トーマスクックのヨーロッパ鉄道時刻表に、冬のダイヤが変更されずに載っていたようです。
 それでも何とか、22:30にはローマ入りできる電車がありました。ベンティミーリャの待ち時間に、待合室で昨日の日記を書いていると、地元のサッカークラブとおぼしき一団(年齢がややばらついていた)が入ってきて、そのうちの1人がやがて、寺田のPCに興味を持って近寄ってきました。ちょっとだけ英語ができます。
イタリア人高校生「フランス語を話せるのか」
寺田「いや、英語だけちょっと」
イタリア人高校生「SONYが好きなのか」
寺田「気に入ってるよ」
イタリア人高校生「SONYは日本でも一番か」
寺田「パソコンのシェアではNECや富士通の方が上かもしれない。この2つの会社は陸上競技部も持っているグッドカンパニーなんだ」(たぶん、通じなかった)
イタリア人高校生「どうやって日本語を入力するんだ」
寺田「ライク・ディス」
 と、“ローマroma”と“ミラノmilamo”で見本を示すが、どこまで理解できたか不明。それに、寺田はかな入力ではなくて、多くの人がそうだと思うのですが、ローマ字入力です。このローマ字入力と、アルファベットの入力の違いを言葉で説明するのって、とっても難しいと思いませんか? それはともかく、今回の取材旅行中、これで3回目くらいだと思います、このことを質問されたのは。アルファベット使用民族にとっては、不思議なことのようです。
イタリア人指導者(いきなり会話に参入。単に老けた高校生だった可能性あり)「エクセルも入っているのか」
寺田「入ってますよ。ほら」(と起動する)
イタリア人指導者「エクセルはグッドだ」
寺田「私も陸上競技のスプリット計算によく使っている」(と、見本を見せる)
イタリア人高校生「ローマには仕事で行くのか観光か」
寺田「仕事だよ。ゴールデンガラって知らない? 陸上競技の試合なんだけど」
イタリア人高校生「ゴールデンガラ????」
 最後までなかなか離れようとしない中学生くらいの子がいたので、何か新しいものを見せないといけない雰囲気になり、写真加工ソフトに昨日のアヴィニョンの写真一覧を表示させ、その内の1枚を拡大表示しました。そうしたら、すごく受けて、また集まってきてしまいました。以後のやりとりは省略。
 ジェノヴァですでに20分遅れていた電車は、ローマに23時ころ到着。昨年、試合翌日の移動の際にユーロスター(要予約の特急)の予約のため、1時間半ほど並んだ記憶があります。切符売り場に行くと20人くらいが列を作っているのでラッキーと並んで、10分足らずで購入。明日のローマGL翌日はベネツィアに行くかコモに行くか、フィレンツェに行くかまだ決めていません。17日のフライトがフランクフルトからなので、陸路で移動しなければいけないことを考えると、ローマから北に行くことは決まっています。とりあえず、ミラノ行きの予約をしました。
 タクシーでプレスホテルに。昨年も泊まったプレス用ホテルで接続は一発OK。しかし、パソコンの電源アダプタの調子が悪く、接続しているのにバッテリー使用状態になってしまいます。接続をやり直したり、こねくり回したりすると直るのですが、そのままにしておくとまた、電源アダプタの方でなくバッテリー使用状態になってしまいます。今後に一抹どころかかなりの不安を感じています。


■7月10日(水)
ユーロ日記2002・14日目 アヴィニヨン その3
寺田、フランス料理を食べる(一部に「ウソだろ」の声)
 ホテルの電話にdata portはありませんでしたが、は壁から電話線を抜けて、そこにアダプターを差し込むことができました。が、何回やってもビジー。普通の電話だと外線発信ができるんですが、パソコンからだとダメ。昨年、スイスで経験したパターンなので、早々にあきらめました。
 法王庁のでっかい建物を歩いている最中に、完全に腰と脚に来ました。歩くのもしんどくなって、いったんホテル(法王庁からも徒歩1分)で休憩。20時になっても、演劇祭は続いています。「○○」とかいって、公式のものは建物のなかでやっているようですが、「△△」という若手のパフォーマンスは、そこかしこの路上で見られます。どのスペースで誰が何をやるかは、一応決められているようではありましたが。芸は、素人っぽい部分も見受けられましたが、いろいろな種類のパフォーマンスがあり、なかなか楽しめます。日本人の2人組もいました。以前、テレビの番組でアメリカのマジックの祭典に挑戦する10代の少年少女を追跡取材していましたが、このアヴィニョン演劇祭に出る人たちも追跡してみたら、そこそこ面白いのではないかと感じました。かつての法王庁の本当に目の前でやるのです。宗教関係の人間のドラマとうまく比較できたら、おもしろうだなと感じました。
 21時頃に、それなりのレストランに食事に入りました。広場に面している店はほとんどがカフェなので、その1本裏の通りに、そういったレストランが固まっています。メニューが外に張り出されているので、金額を事前にチェックできていいです。23ユーロで前菜とメインディッシュを選べる店に入りました(他も似たようなもの)。前菜はサーモンとなんとかのマリネ、メインはフォアグラ。でも、注文するときに「フォアグラ」と指差して言うと、「これはフォアグラとはちょっと違う」ってなことを、女主人が英語で言います。一応、ガイドブックのフランス料理メニューの見方と照らし合わせたのですが…(これに15分以上の時間を費やしたと思う)。でもいいやと思い、「これでいいっす」と、身振りで説明。
 実物はどうかというと、前菜はスパゲッティの短く切ったものをひねったものに、スモークサーモンが入っていました。あと、何か。メインは、長径12cmくらいの楕円形で、厚さ7ミリくらいの肉が3枚。一瞬、レバーかなと思ったのですが、ちょっと自信なし。レバーのような柔らかさで、照り焼きっぽいソースがかかっていました。ところで、フォアグラって、なんでしたっけ? よく聞く名前だったので注文したのですが。ガイドブックにも、フランス語のスペルの後に、フォアグラって片仮名で書いてあるだけなんです。
 ソースと一緒に豆がたくさん乗っていて、これがなかなか甘くて美味。4つくらい食べてやっと気づきました。葡萄を煮込んだものだと……なんか、フランス料理を食べたような気分になりました。こんなことを書くと「寺田にフランス料理を食べさせるな」と、思った読者も多いことでしょう。
「寺田にボルドー」に続き「寺田にフランス料理」。でも、おいしかったですよ。何の料理かよくわかっていなかっただけで。
 夜になっても街頭パフォーマンスは盛んにやっています。部屋に戻ったのが23時ころ。4階の部屋ですが、外の歓声が聞こえてきます。品のない騒ぎ方ではないので、気になりません。法王庁とかアヴィニョン橋とか、それほどではありませんでしたが、街の雰囲気と演劇祭は好きになりました


■7月10日(水)
ユーロ日記2002・14日目 アヴィニヨン その2
ホテル探しにも40分。法王庁で思ったことは…
 アヴィニョンに来たのは、一時期(14世紀の60年間だったか70年間くらい)法王庁がローマからここに移されていた街だからです。フランス王の意向を無視できなくなった、というのがその理由。カタリ派を弾圧したカトリック教権が、その後1世紀とたたないうちに、俗権(国王など世俗の権力のこと。教権も腐敗した頃の実態を見ると、俗権みたいなものですが。有力諸侯の次男以下の男子が教会に入り、そこで出世を目指したのですから)に屈服したのです。
 着いたのが14時ちょっと前。インフォメーションは広場と駅の中間で、そんなに遠くありません。係りの人は英語ができ、さすが有名な観光地は違うなと、思わせます。ホテルの一覧が壁に張り出されてあって、空室があるホテルには緑のマークが付けられています。とっても、わかりやすい。でも、よくよく見ると、緑マークは郊外のホテルばかり。市の中心地のホテルはほとんど満室。ツールーズの経験からなんとかなるだろうと思って、広場・法王庁の周りのホテル街を散策しに。
 しかし、人口40万人のツールーズに対し、10万人弱のアヴィニョン。ホテルの数もツールーズよりは少ないですし(人口当たりにしたら多いのでしょうが)、7月には演劇フェスティバル的な催しが開催されていて、部屋が埋まってしまうのです。ツールーズで30ユーロの部屋を見つけたのに味をしめているので、50ユーロ以下のホテルをあたっていました。どのホテルも「complit」(満室)の札が出ていて、たまに出ていないホテルに入ってもやはり満室。
 ヤバイかもしれないと思い、金額のランクを上げることに。その最初のホテルがKyliad。広場に面した好立地です。2つ☆ですが、80ユーロと安くありません。でも、仕方ないかと入ると、幸運にも1室空いていて、さらに幸運なことに受付の人が寺田の手にしている「地球の歩き方」を見て、「10%割引で72ユーロね」と言い出してくれました。そうなんです。「地球の歩き方」に出ているホテルによっては、読者割引サービスがあるホテルがあります。こっちは、そこまで気づく余裕が全くなかったので、ホント、ラッキーでした。浮いた8ユーロで、今晩はいいものでも食べようかな、と思った次第です。元フランス在住のS原さんも、メールで勧めてくれたことですし、フランス最後の夜ですし。
 チェックインしたのが15時ちょっと過ぎ。ホテル探しにも40分を費やしました。最初は荷物が軽いなと思いましたが、それは最初だけ。3週間の海外出張荷物はさすがにこたえます。チェックインして1時間くらいかけて2日分の洗濯をし(明日の朝までに乾かすために。こういうときに限ってドライヤーの付いていないホテル)、疲れが出て少し仮眠。17時頃から出かけました。
 かの有名なアヴィニヨン橋ローマ法王庁は、外せない観光スポット。アヴィニョン橋では大きな電話を持たされて、そこから何カ国語の音声解説を聞けるので、みんなそれを持っています。ちょっと白けたので、すぐに聞かないことにしました。例の歌のために有名になっただけで(それなりのエピソードはあるんですが)、特に何かがあるわけではありません。
 法王庁は、とにかくでかいです。昨日行ったばかりのモンセギュール要塞と、どうしても比べてしまいます。信仰には、こうした大きな建築物とか、おごそかな雰囲気を出すための部屋とかステンドグラス、イエスの絵画や像って、どうしても必要になってしまうのでしょうか。宗教家の説教内容や生活そのものよりも、そういったことの方が信者獲得のためには有効だということが、よくわかりました。うーん、キリスト教関係者から抗議のメールが来たらどうしよう。お詫びを考えておかないと。
 法王庁の上に公園があって、そこから見える景色は綺麗でした。
 それと、建築専門家の方から見たら、何かしらの価値はあるのでしょう。あの大きさは。


■7月10日(水)
ユーロ日記2002・14日目 ツールーズ→アヴィニヨン その1
福岡国際マラソンと“異端”
 朝7時50分のTGVでツールーズをあとに。短い滞在でしたが、可能性としては半分以下と思っていたカタリ派終焉の地・モンセギュール行きに成功したので、南仏旅行の目的はほぼ達成。カルカソンヌ(語尾を上げて発音。ここもラングドック)のヨーロッパ最大の城壁を見られませんでしたが、仕方ありません。
 そういえば、昨年の福岡国際マラソンの際に、ある新聞社の記者の方たち(ある新聞だからイニシャルが“A”などと根拠のない想像はしないように)と昔話をしていました。瀬古選手と激闘を繰り広げたタンザニアのジュマ・イカンガーが、その後、力が落ちてからも現役で走っていて、「イカンガー、いたんだー」と思ったことがある、ある記者が話していました。ツールーズをあとにするとき、その話を思い出しました。自分が、かつての異端の地にいたんだ、と。
 TGVはニームで降り、通常の電車に乗り換えます。が、ここで待ち時間が3時間弱も生じてしまいました。時刻表を見てそれはわかっていたのですが、現地に行けばローカルな電車の1本もあるだろうと思っていたら、本当にないのです。
 だったらここぞとばかりに、郵便局探し。「地球の歩き方」を見るとインフォメーションは広場ではなく、さらに遠い場所にあります。とりあえず広場に行き、あとは人に聞きまくり戦術。市が立つ時期らしく、広場から旧市街の路地は露店と人でいっぱいです。「ビューロー・ドゥ・ポステ」を探していると、こちらの意図は伝えられるのですが、先方が答えることがさっぱり。指で方角は指し示してくれますが、それがどのくらいの距離なのか、何本目を曲がるのか、まるでわかりません。たぶん、5人くらいに道を聞いて、捜索範囲を徐々に絞っていきました。が、最終的に郵便局探しに40分。荷物を全部持って40分は、ちょっときつかったです。昨日のモンセギュール要塞への登山がそれほど脚に来ていないのが、ラッキーでした。
 荷物の発送代は、なんと71ユーロ50セント。約1万円です。外国から荷物を発送するときは、金額が高いので困りもの。でも、さすがにこれ以上、余分な荷物を持ち歩く気にはなれません。泣く泣く、大枚をはたきました。
 それでもまだ時間があるのでカフェでサラダを注文。安いホテルだったので、朝食がパンとオレンジジュース、カフェオレだけでしたから。「ポムなんとか」という文字があったので、じゃがいもかなと思ったら、ジャガイモやらベーコン(ハムかな)やらを温めた物がレタスの上に乗っていて、期待以上のものでした。ニームは古代の闘技場があるなど、古くから栄えた町です。デニム地発祥の地でもあるそうです。
 帰りに広場の駅側を通ったら、なんと、郵便局がありました。愕然としました。最初に聞いた老夫婦が、この場所を知らなかったのでしょう。まあ、よくあることです。とにかく、荷物が軽くなったので、アヴィニョンでのホテル探しが楽でしょう。


■7月9日(火)
ユーロ日記2002・13日目 ツールーズ←→フォア←→モンセギュール その3
執念のモンセギュール要塞到達
 昨日の日記で書いたように、モンセギュールまで行く交通手段はありません。でも、とにかく近くに行けばなんとかなるかもしれないと、まずはフォワfoixまで鉄道で行くことに。ツールーズから特急(?)で約1時間です。フォワのインフォメーションは駅ではなくて広場にあり、駅の窓口のお姉さんに英語が通じず、そのこと自体を理解するまでに時間がかかりました。インフォメーションで仕入れた情報では、ラブラネlavelanetという町までバスが出ていて、そこからだとモンセギュールまでは約10km。フォアからだと34kmと、もらったパンフレットに記されています。フォアに着いたのが11時ちょっと過ぎでしたが、次のバスは14:35。ラブラネに着くのが15:05で、ラブラネからフォアに戻ってくるバスの最終発車時刻が16:05。どう考えても往復できないので、昨日バス発着所のお兄さんにアドバイスされたように、タクシーを1日(というか5時間くらい)雇おうと決心。
 フォアの広場に面したカフェで昼食をとった後、タクシーの運ちゃん(おばさんでした)と交渉。英語は通じるわけがないと思ったので、紙に地名を書いて「往復でなにがしかの値段で契約したい」と意思表示をしました。金額は100ユーロは仕方がないと思いつつ……しかし、モンセギュールまで往復したいことは伝えられましたが、金額をグロスで契約したい点までは伝えられず、やむなく通常のメーターで支払うことに。30kmだったら大丈夫かと。それが結果的には幸いしました。片道40ユーロで済みましたから。
 モンセギュール城は下から見上げるとこんな感じ。アップにすると、こんな迫力です。岩肌部分だけで100 mあるといいますから、登山口からは300mはありそうです。フォアでカフェのお姉さんに聞いたら、40分はかかるということでした。最初から飛ばしたら絶対に途中でバテると思ったので、歩幅をあまり大きく広げず、普段使っている体幹に近いところの動きで登っていこうとしました。実際は、大きく踏み出して進んでいかなければいけないんですが…。日頃の運動不足がたたって、かなり厳しかったです。やっぱり、脚に来ましたね。
 登山口で一緒になったフランス語を話す夫婦がずっと後ろをついてきます。すぐに抜いてくれればいいのですが、ちょっと後ろをついてくるものですから、こちらも引けなくなってしまいました。どこかで引き離す手はないかと思案していたら、歩き始めて10分弱の所に料金所があります。一計を案じた寺田は、その料金所のおじさんとなんだかんだと話をして(頂上まであと何分かかるのか、とか、何時までに降りればいいのか、とか)、ちょっと疲れがたまった脚を休め、その後歩き出したときに一気にペースを上げました。向こうは2人ですから料金の支払いにちょっとは時間がかかるはずだし、その先の道が茂みの中を曲がりくねって登っていく道だったので、すぐに視界からいなくなることができるだろう、と考えました。ペースメーカーにさせられるのを避けるためと、相手の戦意をなくすためです。この作戦が成功し、その後、その夫婦に迫られるシーンはありませんでした。
 実際には30分くらいで城に到着。観光案内や現地の看板には「chateau」となっていますが、近くで見るとやはり要塞。それほど大きな建物ではありません。外側はこんな感じで、内側はこんな感じ。カタリ派の守備隊が600人だったという説もありますが、通常は麓に住んでいたのでしょう。着いたのがすでに15時半ということもあり、霞がかかってしまって写真にはうまく撮れませんでしたが、ラングドック地方はもちろん、ピレネーの山々まで見渡せます。どれがピレネー山脈かわかりませんでしたが、そう書いてあった書物があったので。
 思いを馳せたのは、要塞に立てこもったカタリ派の兵士たちの気持ちでした。確かに天然の要害ですが、このままでは、自分たちが殺されるのは火を見るよりも明らかという状態です。自らの信仰を捨てれば助かる道もあったようですが、それは取りも直さず、腐敗しきったカトリック教会に屈服することです。さらには、北フランスの植民地となり、オック語を捨て、経済的な自由も奪われることを意味します(経済的自由ってのは、ある程度の有力者に限られますが)。
 要塞から下る道は楽でしたが、普段あまり使わない前面の筋肉を使います。これが、明日、どう影響するか。登山口までもどると、別のタクシーが1台待っています。聞けば、というか向こうから声をかけてきたのですが、往きのタクシーのおばさんの息子さんです。珍しいことに英語が少しできます。なぜかサンドニの話になり「フランスで一番大きなスタジアムだ」と言います。世界で一番じゃないのか、と質問すると、そうじゃないと言います。どこが一番大きいんだ、と聞いたのですが、なぜか通じません。
 ツールーズに戻ったのが21時前。新しいホテルに移り、郵便局の位置を調べに行きました。場所はすぐにわかりましたが、営業は朝の8時から。7時50分のTGVに乗らないといけないので、荷物の発送はできません。パリのGLが終わってから、ずっと荷物を発送したくて仕方がありません。使わないものですから、それだけ重りを持って移動しているようなものです。
 アヴィニヨンまでと、アヴィニヨンからマルセイユまでのTGVの切符を予約した後、カフェで食事。サラダだけで十分です。パンも付いてきますから。ところで、昨日の夕食は一応、レストランにして、ラングドック地方名物のカスレーを食べました。豆をベースに、鶏肉とかを煮込んだ料理です。味はこってりしすぎていて、とても日本人の口には合いません。ボルドーワインも頼みました。350ccで7ユーロだったかな。ボルドーはすぐお隣で、ワインの名産地(どこかで世界一と聞いたような記憶があります)。味はもちろん、「他のワインとどこか違うの?」という程度。これは、賞味する側の問題でしょう。
「ネコに小判」「馬の耳に念仏」「寺田にボルドー」


■7月9日(火)
ユーロ日記2002・13日目 ツールーズ←→フォア←→モンセギュール その2
カタリ派について○○○ましょう
 今日、ツールーズから足を伸ばした先はモンセギュール(“モ”にアクセントがあり、“ル”は明確に発音しない)。13世紀のアルビジョワ十字軍がキリスト教の異端とされたカタリ派を攻撃した際、カタリ派の最後の拠点となった要塞である。今日の行動を記す前に、カタリ派と中世南仏の“オック国家”について紹介しておく必要がある。こんなうんちくを話していいのかな、という疑問もあるが、カタリ派のことだけに語っておく必要がある(うーん、我ながらクールだと思う。ヨーロッパは涼しいですから、日本はかなり暑いそうですが。そういえば、「欧州でクールギャグを応酬しましょう」と言っていたH元選手からは何もクールな便りが来ないな。接続できていないのか)。
 カタリ派の起源はビザンチン帝国(東ローマ帝国)の3世紀頃にまで遡り、いくつかの宗派があったという。「名称はギリシア語のカタロス(清潔)に由来する。カタリ派の特徴は、厳格な禁欲主義と二元論的な神学である。この二元論は、全世界は2つの相反する世界、神の創造した精神的世界とサタンの創造した物質的世界からなるという信仰にもとづいている」(マイクロソフト・ENCARTA)
 中世のカトリック教会は聖職売買や、聖職者とは思えない豪奢な生活ぶりなど腐敗がはびこっていた。それに対する民衆レベルの批判がカタリ派の運動として集結していった(らしい)。そのカタリ派の中心地となったのが南フランスの西部、“オック語”を話す地域だった。オック語は、6月27日の日記で紹介したノルウェー・スウェーデン・デンマーク語のように、フランス語の方言といった程度の違いではなく、フランス語とイタリア語、またはスペイン語くらいの違いがあったという。つまり、異なる言語だった。
 地域でいうと、モンペリエ以西(マルセイユよりは西)で、ボルドー近辺の大西洋沿岸地域までは含まれない。現在ラングドックといわれる地方で、俗に言われているプロヴァンスとは違う。かなり豊かな地域で、中心都市のツールーズは「ヴェネツィア、ローマに次いでヨーロッパ第3の都市」とも言われていた。当時のヨーロッパは、絶対王政による中央集権的な国家ではなく、各地方の諸侯(王)が実質的に支配する封建的な社会。北フランスはカペー朝(後のブルボン朝に継承される)が支配し、オック語を話す地域はツールーズ伯爵家が支配していた。西欧連合軍ともいえた第1次十字軍の総司令官が、フランス王でもイギリス王でもなく、ツールーズ伯レイモン4世だったことからも、いかに強大な国家であったかがわかる。今もツールーズ市内では「サン・レイモン博物館」とか「レイモンなんとかホテル」とか、“レイモン”の文字をよく見る。
 うんちくが長いが、最後は陸上競技ネタで締める予定だ。
 民衆の心をとらえたカタリ派に脅威を感じたローマ・カトリック教会と、オック語を話すラングドック地方への野心を持った北フランス諸侯の利害関係が一致した結果が、かのアルビジョワ十字軍という名を借りた侵略行為である(寺田はかなり、オック国家に同情的な立場でものを言っている点に要留意)。いつを初めとして、いつを終わりとするか区切るのは難しいが、1209年のカルカッソンヌ進攻から1244年のモンセギュール陥落まで、半世紀近くに及ぶ殺戮がラングドック地方で繰り返された。ローマ教皇が拷問を認め、また、十字軍に同行したカトリック教会の責任者が無差別殺戮を推奨したため、殺戮の対象は民間人にまで及んだという。
 カタリ派の最後の抵抗拠点は、さらにスペイン国境に近いケリビュス要塞だったが、実質的にはモンセギュール陥落で、カトリック側の所期の目的は達成されたというのが定説である。


■7月9日(火)
ユーロ日記2002・13日目 ツールーズ←→フォア←→モンセギュール
 カタリ派最後の抵抗拠点だったモンセギュールに行くことができました。詳細はのちほど(明日になってしまうかも)。
 ホテルは25ユーロ、朝食をつけても30ユーロ(4000円弱)と昨日の半額のホテルに移りました。洗濯物を干すのが難儀なのを除けば、不自由ありません。電話にデータポートは付いていませんでしたが、壁のコンセントを抜いてモデムアダプタ(5カ国分持ってきて初めて役に立ちました)をかまして接続したら、一発で成功。こんなこともあるのだなと思った次第ですが、こればっかりは実際にチェックインしてみないとわからないことです。
 明日は、アヴィニヨンに移動。


■7月8日(月)
ユーロ日記2002・12日目 パリ→ツールーズ その2
ツールーズでほんのちょっとだけピンチに

 朝の10時前にモンマルトル近くのホテルを出発し、モンパルナス駅までメトロで移動。地下鉄内で“辻楽士”(っていうんですか)に会いました。空いている時間帯だからできるのでしょうが、各車両を回って演奏していました。思わず写真を撮らせてもらいましたが、演奏の最中に片方の人がちゃっかりお金を集めに来るので、1ユーロ(日本出発時は128円)出すはめに。気分がよかったから快く出しましたが、たまに駅の切符売り場なんかでいきなり「お金ちょうだい」と言ってくる場合もあります。「オレも大赤字旅行なんだよ」と言っても通じないので、追い払います。
 11:15発のTGVでツールーズに。車内では南フランスを舞台にした小説を読み直していましたが、今回は外を見る余裕がちょっとありました。で、ローザンヌ−パリ間でできなかった新幹線との体感スピードの違いをチェックしました――が、わかりません。正直に言うと、TGVの方がちょっと遅いんじゃないかと感じたんですが、そんなことってないですよね。最高速度はTGVの方が速いけど、営業速度は新幹線の方とかってこと、あるんでしょうか。
 選手に話を聞くとちょっとの記録の違いでも体感スピードは違うと言います。跳躍選手だったら滞空時間、ハンマー投選手だったらターンのスピードの違いを体感できます。自分にはトップ選手ほどの研ぎ澄まされた感覚がないということを、フランスの田舎風景を見ながら思い知らされました。
 TGVでボルドーまで約3時間、ツールーズまで約2時間。まずいことに、ボルドー付近から雨となりました。ついさっきまで青空だったのに、ヨーロッパの天気はコロッと変わります。ツールーズに着いたときはやんでいたので一安心。というのも、ツールーズのホテルは予約してありませんし、観光案内所(インフォメーション)が駅にはなく、市庁舎にしかありません。ヨーロッパは大都市以外、街の中心(市庁舎とか、教会のある広場のことが多い)にメインの施設があります。そこまで徒歩20分。ツールーズのインフォメーションはホテルの予約もしてくれるとガイドブックに書いてあったし、明日行く予定のモンセギュールまでの行き方が普通のガイドブックには出ていないくらい交通の便が悪いので、インフォメーションで聞こうと思っていたのです。
 ところが、ツールーズに着いて、駅を出ようとすると雨。荷物の多さを考えるとちょっと歩けません。仕方なく「地球の歩き方」に出ている2つ★クラスのホテルに電話をすると、3つ連続で「空き部屋なし」。さすがに3つ連続でないと、他もないんじゃないか、と不安になります。「この時期の南フランスはバカンス客で混んでいる」という話しも聞いていました。同じ南フランスでも、混んでいるのは東側のプロヴァンスだけだろうと踏んでいたのですが…。インフォメーションが空いている時間は午後の8時まで。ツールーズ駅に着いたのが5時半でしたから、今日中に明日のモンセギュール行きの情報をゲットするためには、急がないといけません。駅前に、よく見かける「ibis」というホテルの看板があり、料金が60ユーロと出ていたので、「まあいいか」と、入ってしまい、空室があったのでチェックイン。
 電話にはモデム接続用のDATA PORTも付いています。さっそく接続できるかチェックしてみると、1〜2分すると必ず切れてしまいます。ラインの極性が反対なのかと、今回の旅行で初めてモデム・チェッカーを試してみましたが、「OKサイン」が出ます。アクセスポイントが混雑しているのかな、などといい方に考えて、いったんは断念し、インフォメーションに行くことに。今日のところは、こっちの方が重要です。
 ところが、行く途中、ホテルを出て100 mも行かない内に、道の両側にシングル23ユーロ〜30ユーロ、ダブル40ユーロ、ツイン50ユーロとか看板を出しているホテルが3つもあります。地方都市で60ユーロは高い方かな、と感じていましたが、的中してしまいました。パリのプレス用ホテルが95ユーロ(1万2000円強)、モンマルトル近くのホテルが60ユーロ(8000円弱)でした。パリと同じってことはないはずです。ツールーズには2泊する予定で、こんなこともあろうかと、ibisは1泊だけにしておきました。後で、予約交渉をしようと思いつつ、インフォメーションに。
 インフォメーションでは一発でモンセギュールの場所を記した地図が入手できました。うん、見やすい。で、どうやって行けるんですか? と質問。英語も通じます。そうすると「車がないと行けないけど、あなた車?」と、聞き返してきます。ガイドブックにもそれらしいこと書いてあったし、やっぱりダメか。「電車とかバスでは行けないのですか?」
「電車ならフォワfoixが一番近いけど、そこから40kmはある。バスはあるけど、詳しくは駅のバス発着所で聞いてほしい」
 それで、再度20分(実際は15分くらいで歩けます)の道のりを雨の中、駅までもどって確認。かなり苦労しましたが、最終的にわかったのは「バスはフォワまで出ているのであって、モンセギュールまでは行っていない。どうしても行きたいのなら、フォワで運転手を雇うしかない」ということです。パリではないですけど、やっぱり、という感じ。TGV車中で読み直してきた小説でも、登場人物が「バスも通っていない」とコメントしていましたから。ダメかな。でも、とにかく明日は、フォアまで行きます。
 ここまで確認した後、明日のホテルを予約しに、安い看板を出している中で、なんとなくつくりが新しそうなホテルに当たりをつけて交渉に行きました。最初、おじいさんが英語がまったく通じず苦労するかと思いましたが、すぐにおばあさんが出てきてくれて、無事に予約成立。なんと、25ユーロ(3300円くらい)。「電話はついていますか」と聞くと「電話、シャワー(バスって言ったかな)、テレビとついてるよ」とのこと。電話さえあれば、ネットにつなげる可能性もあります。よっしゃー。
 ところで、モンセギュールって何? と思われる方がほとんどだと思います。中世南フランスにカタリ派といわれるキリスト教の一派がいまして、ローマ・カトリック教会から“異端”とされました。13世紀に武力攻撃(歴史の教科書でいうアルビジョワ十字軍)を受けて滅ぼされてしまいましたが、最後まで抵抗した拠点がモンセギュールの砦(山というか巨大な岩の砦)だったのです。
 陸上競技と何か関係があるのかって? ないこともないのですが、それはまた明日にでも。ところで今日は、ザグレブで朝原&為末選手が試合出ているはず。ネットにつなげないと、情報が入りません……。


■7月8日(月)
ユーロ日記2002・12日目 パリ→ツールーズ
 今日はこれから南仏ツールーズに移動します。このあとは11日のローマ入りまでホテルの予約もせず、気ままな放浪です。安いホテルにする予定ですので、インターネット接続ができるかどうかわかりません。できなかったら、まとめてローマで更新しますので、どうかそれまでお待ちください。とか言って、12時間後には更新したりして…。
 しばしの別れになるかもしれません。さようなら、パリ(意味なし)。


■7月7日(日)
ユーロ日記2002・11日目 パリ4日目 その2
パリといえば凱旋門、そしてシャンゼリゼ通りで数えたものとは?
 午後からパリの散策に。泊まったホテルがモンマルトルに歩いていくのに絶好の場所で、まずは、10数年前にパリに来たときに行けなかったモンマルトルに。こんな坂と白い建物の組み合わせが、ヨーロッパではよく見られるとはいえ、モンマルトルの売りでもあるのでしょうか。モンマルトルの丘に上る階段は全部で196段。法多山(注1)の石段で鍛えた寺田にとっては、楽勝です。丘から見たパリ市街がこれ。丘を降りる途中でサンドイッチとジュースを買って、公園(というよりもヨーロッパの街によくあるスクエアと言われる小さな四角い広場)で昼食。
 そして、メトロで凱旋門まで移動。凱旋門はすでに行っていましたが、福士選手が「パリといったら凱旋門」と話していたので、日本新に敬意を払って、写真を撮るために行きました。その凱旋門からコンコルド広場までのパリ目抜き通りともいえるのがシャンゼリゼ通り。約2.5kmの距離ですが、凱旋門寄りの半分には世界の一流企業の看板が軒を並べています。日本の陸上部を持つ企業がいくつあるかと数えていたら、TOYOTAがありました。他は……すいません、気をつけて数えたつもりですが、もしかしたら見落としがあるかもしれません。外国向けに、日本とは違うブランド名を使っていることもありますから。それにしても、さすが“世界のトヨタ”です。
 コンコルド広場が近づくと、通りの両側にものすごい数の椅子(観客席)の設置作業をしています。なんかイベントでもやるのかな、とそのときはうかつにも気づきませんでしたが、コンコルド広場でも設置しているのを見て、「そうか、1週間後は革命記念日か」と、はたと気づきました。7月14日は日本では「パリ祭」として有名ですが、現地では「解放記念日」とか「革命記念日」と言われているそうです。
 だったら、革命の発端となったバスティーユ広場(注2)まで行こうと思いついた次第。でも、10数年前にも凱旋門からバスティーユまで歩いています。お決まりのルーブル美術館なんぞに寄りながら。今日は、そのときとは違うルートというか、うかつにも行かなかったセーヌ河畔を歩いて東へ向かいました。コンコルド広場からバスティーユ広場まで約4.5km(地図で測った限りは)、凱旋門からはかなりゆっくりめに歩いていたこともあり、かなり時間がかかりました。途中、カフェでビールと夕食(なんとかサラダ。鴨か何かの冷肉が乗っていました。パンが付いてくることは予想して、頼んだのはそれだけ。食後にカフェ・オレ)。そこで特集「パリの日本人」の福士選手の記事を書き上げました。「セーヌ川の水面(みなも)云々」というくだりがあるのは、そのためです。
 その後バスティーユ広場まで歩き、一足早く共和政治の黎明だった“フランス革命”を満喫しました。7月14日が革命記念日なら、7月5日は女子3000m日本新記念日。ちなみに7月4日はアメリカの独立記念日です。
 そして今日、7月7日は七夕ですが、日刊スポーツ佐々木一郎記者の結婚記念日でもあります。記念日になるのは来年から。つまり、今日が挙式の日なのです。日本から写真(スポニチ・中出健太郎記者撮影)も届きました。おめでとう、イチロー!
(注1)サッカーのワールドカップで日本代表が宿泊したことで超有名になった袋井市にある。ここの石段でトレーニングを積んだ(何年前だ?)寺田だった。
(注2)1789年の7月14日にパリの民衆が、主に政治犯が投獄されていたバスティーユ牢獄を襲撃してフランス革命の口火が切られた。



■7月7日(日)
ユーロ日記2002・11日目 パリ4日目
 やっぱり、もう1泊パリに泊まることにしました。安めのホテルですがインターネット接続ができますし、パリらしいところに行っていなかったし、これまで行ったことがなかったモンマルトルの近くにいるので。
 午前中に、一昨日と昨日の日記を書き、これから出かけます。まずはモンマルトルに行って、そのあと時間があったらコンコルド広場から凱旋門まで、シャンゼリゼ通りを歩こうかなと。その間にカフェで読書をしたり、明日からの南仏旅行計画の細部を練ったり。パリ・ゴールデンリーグの記事も書きたいし……あんまり欲張ると無理が生じます。のんびりペースで行きます。


■7月6日(土)
ユーロ日記2002・10日目 パリ3日目
パリで筆が進んだ理由は……
 朝8時から福士選手を一夜明け取材。こんなポーズまでサービスしてくれました。福士選手にパリと聞いて連想するものは、と質問すると「凱旋門」とのこと。もちろん、この件には書けないようなエピがいっぱいでして…。取材後、すぐに新聞の原稿書き。
 ホテルは今日チェックアウトすることになっていたので、雑誌の原稿はベースボール・マガジン社ヨーロッパ総局(もちろんパリにある)で執筆することに。パリというのは山手線の内側くらいの大きさしかない(確か、人口は200万〜300万で周辺部を含めると600万〜800万。いい加減なことを言うよりも幅を持たせています)のですが、そのちょっと北の方。モンマルトルの丘の南西にあります。
 メトロの駅といっても広場に入り口がぽつんと1つあるだけですが、その広場に面していて、窓から乗り出すとこんなカフェや、通りが見えます。建物は2世紀以上前のもので、元は尼僧院だったそうです。もう1泊パリに泊まることにして、近くのホテルにチェックイン後、ヨーロッパ総局で雑誌用の原稿を書きました。途中、バンドネオン(で正確なのか?)の音色が聞こえてきたので何なのかと広場を見ると、若い女性の芸人が演奏していました。これをタダで聴けたのはラッキーです。日本の路上奏者にもときどき「オッと」思わせる人もいますけど、こちらも味があります。
 その他、執筆に疲れると上で紹介したような風景を見られるのですから、ちょっと睡眠不足でしたが、なんとか乗り切りました。同局のN村さんがいてくれたのも、1人で書くよりも筆が進んだ理由です。
 N村さんに昨日の件を話すと、フランス人は自我を見せたがるから、そういう態度をとるのだとのこと。サンドニ・スタジアムの収容人数や、ヨーロッパでもじゃんけんがあること、ロシアの通貨単位がルーブルであること、寺田がこれから行こうとしている南仏ラングドック地方のこと、バスクのことなど、知りたかったことをたくさん教えてもらうことができました。
 夕食は、寺田の泊まる韓国人家族の経営するホテルで焼き肉。久しぶりに、ご飯がおいしかったです。ご主人が飲み物を勧めてくれましたが「仕事があるからダメだ」と断ると、「ノンアルコールだから」とビールみたいなものを出してくれました。飲んだ後で「ホントかな」と思ってラベルをよくよく見ると、5%もアルコールが入っていました。でも、なんとか乗り切ったというか、書き終えることができたのでメデタシめでたし。明日からは、仕事よりも、プライベートな旅になります。


■7月5日(金)
ユーロ日記2002・9日目 パリ2日目 その3
「フランス人なんて大っ嫌いだ」……は、ちょっと言い過ぎか
 為末選手のコメントをとったあと、トラック種目がしばらくないので、福士選手の取材をその間にする予定でした。永山監督とは携帯で連絡が取れていて、ウォーミングアップ場でダウンしているのを確認していました。その場所へどう行ったらいいのかをプレスホールにあるスタッフの女性に聞くと、「ウォーミングアップ・エリア」と話しても通じません。「サブトラック」「スモールトラック」「トレーニング・スペース」……考えつくありとあらゆる言葉を言ってもダメです。「あなたが何を言っているのかわからない」の一点張り。途中で、最初から教える気はないんじゃないのかな、と感じてきました。で、最終的に、「選手と会う約束をしているんだ」と話すと、「ウォーミングアップ・エリア」で理解したのです。
「そこへはあなたは行けない。選手と会うのはミックスドゾーンと決まっている」
「そうなんだろうけど、ナショナルレコードが出て、もう少し取材したい」
「そこへはあなたは行けない。選手と会うのはミックスドゾーンと決まっている」
「そこをなんとかならないか。約束してるんだけど」
「そこへはあなたは行けない。選手と会うのはミックスドゾーンと決まっている」
 こちらは丁寧に、低姿勢でお願いしても、だんだん向こうは怒ってきます。でも、粘り勝ちというか、「15分間だけならカメラマン・ビブを貸してやるから行ける」ということになり、でも、その時点では男子100 mのスタートが近づいていたので、「100 mのあとにまた来るから、15分間お願いします」と念押しして、スタンドに。
 残念ながら朝原選手の9秒台が出なかったのを確認して再度、プレスホールの受付に。「カメラマン・ビブを借りに来た。覚えてるでしょ?」
「(えっ? という表情)」
「覚えてないんですか、先ほどの約束」
「なんとかかんとか」とフランス語でまくしたてる。
 この時点で、これは相手をしてもダメだと判断して、まずは朝原選手のコメントを聞こうと、ミックスドゾーンに移動しました。ヨーロッパの夜の試合だと、新聞の締め切りが翌日午前中となりますから、なんとかなるかなと。その場で喧嘩しても埒があきそうにないし。それにしても、寺田の英語が聞き取りが間違っていたのかなあ。今回、その点に関しては正確だったような気がするが。
 実は、程度の差こそあれ、同じようなことが2つ3つあったのです。親切な人にも会いましたが、どうもフランス人は好きになれません。10年以上前に来たときにも、同じように感じ、今回はその先入観を捨ててきたつもりでした。同じフランス語圏でも、ローザンヌやジュネーブでは、絶対になかったことですから、昔のことは自分が未熟だったからと考えてきたんですが…。そんなに長く滞在したわけではないので、断定できる自信はありませんけど。でもやっぱり、たまたまそういう個人に何人か出くわしてしまっただけ、と解釈します。
 で、朝原選手の話を聞いていると、福士選手と永山監督が来てくれて、ことなきを得ました。2人に感謝。


■7月5日(金)
ユーロ日記2002・9日目 パリ2日目 その2
ユーロ取材最大の痛恨事
 雨です。気が付いたら雨になっていました。オスロのときと違って、やみそうにありません。気温も低いです。長距離には悪くなさそうですが。
 16時にホテルを出発して大会本部ホテルに移動。16:30にスタジアム行きのバスが出発するはずが、17時に変更されていました。まあ、このくらいの変更はどうってことありません。ロビーの奥で持っていたパン(TGVの車中で買ったサラダについてきたなんとかパン)とバナナ(ローザンヌのスーパーで購入)を食べていたら、朝原&為末両選手とローザンヌ以来の再会。朝原選手とは「今日のコンディションだったら、グリーンやモンゴメリーと50cm差なら9秒台かな」などという話をしていました。為末選手が昨年この大会に出ているので、「そんなにスタジアムが大きい?」と質問すると、「長居よりでかいんじゃないですかね」とのこと。
 白バイの先導でサンドニ競技場に移動。空港からパリに向かう道なので、渋滞のなかを移動するわけで、白バイの先導がなければ40〜50分かかるかもしれません。これまでも、世界選手権か世界ジュニアで経験したことがありました。日本でもあったかもしれません。
 サンドニのスタジアムは、でかかったです。とにかくでかい。あとで聞いたところでは、8万人収容とのこと。客席が3階に分かれていて、曲走路の外側のスタンドも凹みがなくて同じ高さです。そして屋根の大きさが、さらにスタジアムを大きく見せています。これまで、あまり注意してスタジアムの大きさを見ていたことがないのでなんともいえませんが、長居・横浜国際・国立競技場・ローマ・セビリアが寺田の中ではビッグ5でした。印象としては、それをしのぎます。
 昨日、プレス受付で言われていたように、ミックスドゾーンまでもかなりの距離。「80m」というのは直線距離で、実際に行くには150mくらいは歩かないといけません。長居や横浜よりも間違いなく遠いでしょう。エドモントンはそこそこの大きさがありながら、ミックスドゾーンを設ける位置で、距離を近くしていました。しかし、取材に対する配慮は細かくされていて、ミックスドゾーンまでの道順は緑のカーペットが敷かれていてわかりやすく(標識もある)、プレスルームやプレスホールのモニターの数も十分。ミックスドゾーンも広く(長く)ゴールデンリーグの取材なら十分です。ただ、モニターがないのが残念。広さも、来年の世界選手権の際にはもうちょっと拡張されるでしょう。
 しかし、ハード面はよくても、ソフト面が伴っていないなあ、というのが正直な感想です。そのことはまた後で触れます。一通りあちこち散策後、プレスルームのバーでサンドイッチとコーラで簡単な食事。パリ在住のM月さんと再会。ロンドン・マラソン以来でしょうか。「取材への配慮がされていますよね」と言うと、「そうか?」との反応。こちらのマスコミにとっては、これくらい当然、という感覚なのでしょう。
 そうこうしているうちに、女子3000m開始時間が来ました。トラックのすぐ外側に広告用の看板が設置されていますが、その後ろまでカメラIDがなくても行くことができます。世界選手権ではどうなるかわかりませんが、第3コーナーのスタート地点まで移動。途中、「寺田さん」と声をかけられたので誰かと思ったら、ワコールの永山忠幸監督でした。スタート直前でしたからあまり話しもできませんが、スタートからフィニッシュまで近くにいて、福士加代子選手のフィニッシュと同時に握手。スタート地点でタイムを計測していましたから、福士選手の記録が手元のストップウォッチで8分48秒台とか49秒台だったらすぐにそんな反応はできなかったのでしょうが、寺田の時計は44秒台。間違いありませんでした。
 すぐにフィニッシュ地点近くのミックスドゾーンに移動。TBSのスタッフも取材に来ていました。女子3000mのフィニッシュから男子400 mHのスタートまで僅か10分。ちょっとすることがあって(仕事です)、400 mHのスタート時にスタンドまで行けませんでした。で、本当に自分でも悔しいのですが、為末大選手のタッチダウンタイムを計測できず。かなり見にくい位置からレースを見ていたので展開も十分に把握できませんでしたが、前半が明らかに遅いのです。他の選手との位置関係でそう感じましたし、為末選手の話を聞いて「やっぱりね」と納得。詳しくは記事にしますが、タッチダウンを計測できなかったのは、痛恨の極み。今回のユーロ取材最大のミスです。


■7月5日(金)
ユーロ日記2002・9日目 パリ2日目
女子3000mラビットのペース設定が判明
 朝は6時前に起床。パリの朝はセーヌ川の川辺に……なんて光景はまったくありません。100 m先は滑走路なんですから。でも、部屋はこんな感じで机は広く、ソファまであってグッド。特別料金で95ユーロ。国内だったらこの値段のホテルに泊まることはありませんが、まあ、仕方ありません。
 ホームページのメンテをして朝食。オスロのホテルも豪華でしたが、リンゴのなんとかや、なんとかのタルトっていうんですか(すいません、わからないんです)等、フランスならではと感じさせる朝食。遅めの時間にして、かなり詰め込みました。
 その後、ワコールの永山監督に電話。永山監督からの情報では女子3000mのペースメイクは2分49秒−5分38秒とのこと。レース展開などは、昼食時に話し合うそうです。雨の予報でしたが、現時点では曇り。なんとかもってくれるといいんですが。
 そうそう、パリのゴールデンリーグの名称は「ガス・ドゥ・フランス」。原文ではMeeting Gaz de France Saint-Denis。この名称に隠された意味とは……(などと気を持たせるほどのものではないのですが)。
 3時間後には出かけます。その後は、ちょと立て込んでしまうかも。


■7月4日(木)
ユーロ日記2002・8日目 パリ1日目
サンドニ・スタジアムの大きさを強調するフランス人
 無事、パリのプレスホテルに着きました。
 朝、9時14分ローザンヌ発のTGVでパリに移動。TGVは初めて乗りました。パリまで4時間。スイスってイタリアの北側にあるわけで、南フランスよりもパリまでの距離は近いのです。今年はどうなのかわかりませんが、ローザンヌGPに出た選手の移動用に、バスが出るくらいの近さです。
 車内はかなり空いていました。車内の設備的にはICEなどの国際特急とそんなに変わりませんが、座席の壁側に必ずコンセントがあるので、パソコンでの作業がしやすいです。後半は原稿を書いていました。前半は何をしていたかというと、“予習”です。競技に関しての予習ではなくて、土地に関しての予習です。ローザンヌまではホテルも予約してあったのですが、パリはコンファメーション無しで来ました。
 ということで、外の景色はほとんど見ませんでした。ちょっと、もったいないことをしましたが、致し方ありません。新幹線のスピード感覚は身に付いていると思うので(ホントか?)、景色の流れ具合を見ればスピードの違いを体感できたかもしれません。それは、明後日以降の楽しみにとっておきましょう。
 昨日、ベースボール・マガジン社ヨーロッパ総局(パリ)に電話をして、ホテルの場所を確認したところ、シャルル・ドゴール空港に隣接するホテル群が大会本部ホテルとプレスホテルに指定されているようです。ということで、パリでの移動の仕方を初めて予習。TGVが着くのはパリのリヨン駅ですが、乗り換えとか、メトロの切符の買い方とか、ユーレイルパスが使えるか、などをガイドブックで調べました。どうやらRERという近郊路線会社が国鉄経営のようで、ユーレイルパスが使えます。メトロはだめ。幸いなことに、RERを乗り継いで、空港までは行くことができます。ただ、パリは自動改札があるようで(フランクフルトなどは改札なし。ただし、無券乗車が見つかると、すごい罰金らしい)、ユーレイルパスを提示して、切符を手に入れないといけません。たぶん、新幹線のビジネス切符の座席指定のように、自動券売機に入れればいい、なんてことはなさそう。有人切符売り場に並ばないといけないでしょう。
 と、ここまで予習しておけば大丈夫。駅のトイレが有料(40セント=1ユーロは100セント。つまり60〜70円でしょうか)だったこと以外、地図&鉄道路線図も○i(インフォメーション窓口)で入手できましたし、順調にいっていました。切符の窓口では、とっても綺麗でスリムなお姉さんで、これもラッキー。でも、ユーレイルパスを出してもお金を7ユーロ請求されたので、「ユーレイルパスで乗車できるのでは?」と抗議。隣のお姉さんと何事か話をしてOKが出ました。抗議をしない旅行者(ユーレイルパスは旅行者だけしか買えないと聞いたことが)からは、知らない振りをして徴集しようという魂胆……などと、疑うのはやめておきましょう。
 それはともかく、たまにはガイドブックも役立ちます。どの路線にパスが有効で、しかし切符を有人売り場で入手するのが必要とかは、とても現地で質問して正確に把握するのは困難です。
 RERの車内は、かなり狭いです。とても国際空港に行く列車とは思えません。荷物を置くのに苦労しました。ホテルに着いたのが15:30ころ。駅の出口のドアがホテルの入り口のドアというのは、初めての経験(渋谷のエクセル東急ホテルみたいなものか)。プレスの受付は21時までです。スタートリストを見たかったので、時間ぎりぎりに行くことにしました。
 プレスホテルと本部ホテルは同じ系列のホテルで、ホテル間に20分毎にシャトル便があります。すぐ近くかと思っていたら、空港のもう1つのターミナルのまた先で、かなり時間がかかりました。20:45頃に受け付け。スタンドの記者席をその場で希望を聞いてくれたり、なかなかフランクな報道担当のお姉さん(とおばさんの中間ぐらいの年齢の人)です。ミックスドゾーンから記者席まで80mはある、とか、スタジアムの大きさをさかんに強調していました。サンドニ競技場はオスロやローザンヌと比べたら、ビックリするほど大きいのでしょう。こちとらも長居や横浜、国立競技場で鍛えられています。明日は、サンドニの大きさをじっくり見聞してやりましょう。
 スタートリストは案の定、出ていません。「あと30分くらいかな」とは、別のプレス担当のお兄さん。出たのは、1時間半後でした。その間、原稿を書いていたので無駄にはなりませんでしたが。出られるとは聞いていましたが、オスロの件もありますし、日本選手の名前があるとホッとします。朝原選手は8レーンで為末大選手は1レーン。さすがに、ゴールデンリーグのシードレーンは無理です。ローザンヌを欠場したグリーンが、出場するようです。
400 mHのレーンは
1)為末大
2)MYBURGH
3)サンチェス
4)ディアガナ
5)ローリンソン
6)カーター
7)モーリ
8)テイラー
 ヘルベルトとソマイリーが「OUT」と記入されたlast news が出ていました。
男子100 mは
1)セペ(フランス)
2)ウィリアムズ
3)オビクウェル(やっぱり)
4)モンゴメリー
5)グリーン
6)アリウ
7)ルイス・フランシス
8)朝原宣治
9)ドラモンド
です。
 ホテルに戻ったのが23:45頃。空腹ですが、周囲に何も店はありません。ホテルのレストランで20ユーロも散財してしまいました。


■7月3日(水)
ユーロ日記2002・7日目 ローザンヌ4日目 その2
アジアでグランプリを転戦できたなら…
 午後はちょっと優雅に過ごしました。一昨日、スイスのカージナルという銘柄のビールが軽めなことがわかったので、レマン湖畔カフェでビールを飲みながら、あれこれ考え事。最後はちょっとパソコンにも向かいました。その前に大会本部ホテルに寄って、全リザルツを1冊に閉じたものを入手(昨日中に集めたリザルツと同じなんですが)。他に目新しい情報はありませんでした。
 今日、湖畔で考えたことは、アジアについてです。昨晩の劉選手の取材が印象に残っていたせいでしょう。最初は伊東浩司選手の「伊東」を劉選手が「イーットン」と言ったことから、感じの音読みと訓読みについて、学校で習ったことを思い出そうとしていました。確か、中国の唐だったか何かの時代に日本に入ってきた読み方が音読みで、「東」なら「トウ」、その後、日本の言葉に合わせた読み方が訓読みで「東」なら「ひがし」です。劉選手が「東」を「トン」と発音したことで、なるほど中国では音読みに近いんだなと、感じた次第。
 そこから突如、東アジア各国を転戦できるようなグランプリになったら面白いのに、と閃きました。今年の5月、中西美代子選手と池田久美子選手が南アジアから東南アジアへと3大会を転戦しましたが、それが国際グランプリになるわけです。将来、昨日の劉選手や朝原選手のようなレベルの選手が日中韓を中心に多く出てくれば、それも可能じゃないかと。
 なんで、そんなことを考えたのかと自分の思考を分析したら、オスロ、ローザンヌと、それほどいい記録が出ていなかったのです。ヨーロッパのグランプリは楽しい、といっても、残念ながらレベル低下は隠しようがありません。はっきり言って、ローザンヌも昔の方が盛り上がっていたように思います。今年は観衆が例年に比べ少なかったと、何人かの方が言っていました。それは、地元人気のブヒャー(スイス・世界選手権男子800 m金メダリスト)が出なかったせいかもしれませんが。
 話を戻すと、世界のレベルが下がっている今、アジアが強くなれば、徐々にアジアでもグランプリをたくさん開催できるようになるのではないかと。時期的には5月ころがいいのでしょうが、6月から本格化するヨーロッパのグランプリのいくつかは、衰退するでしょう。今も3〜4月にオーストラリアや南アフリカで、5月にはドーハ、大阪、アメリカでグランプリが開催されています。選手がある程度分散するのは仕方ありませんし、その方が得点を取りやすいというメリットも出てきます。ただ、アジアの選手が強くなれば自ずと、世界の強豪がアジアに集まってくると思います。
 例えばですが、香港・マニラ・大阪・ソウル・北京という順に北上していくのも面白いかもしれません。その間に、GPUやパーミットを上海・名古屋・釜山などで行えば、今のヨーロッパと同じくらいの試合密度にはなるでしょう。移動も、ヨーロッパの各都市間よりは遠くなりますが、飛行機での移動なら1時間くらいの違いにしかならないと思います。取材も楽になります。ヨーロッパの記者は大変になるわけですが。いや、待てよ。アジアの各都市はヨーロッパのように電車では移動できません。今回、寺田は飛行機の移動はオスロ−フランクフルトの1回だけで、残りは特急にも乗り放題のユーレイルパスを使用しています。アジアの方が、お金がかかるかも。でも、11時間の飛行機缶詰から解放されるのなら…。
 明日は、パリまでTGVで移動。初めて乗ります。やっぱヨーロッパもいいですね。
 でも、パリはホテルの予約コンファメーションが来ていません。なんとかなると思ってますが、どうなりますやら。ネットにはつなげるのか?


■7月3日(水)
ユーロ日記2002・7日目 ローザンヌ4日目 その1
 午前中は日本と電話での打ち合わせが2つ。食事前にスポニチ用の記事を書き、9時半頃に朝食。昼過ぎまでWEBサイトの更新と、洗濯、パリ取材の下準備など。ヘッドラインやサイト更新情報など、M岡さんがマメに知らせてくれるので、海外にいても短い時間で作業ができます。ホント、助かっています。
 今日は終日、ローザンヌ滞在。これから出かけて、大会本部ホテルで何か新しい情報があったら仕入れ、どこかレマン湖畔で食事でもして、ゆっくりパソコンに向かいます。


■7月2日(火)
ユーロ日記2002・6日目 ローザンヌ3日目 その2
HSIとハードルな一日
 17時30分のシャトルバスでスタジアムに。満室だったり値段が高かったりして大会ホテルに泊まるのは困難だが、そこから近い宿が取れると、このてのことができるので助かる。車中、隣に座ったのはブルガリアのジヴコ・フィデノフ(Zhivko VIDENOV)選手。110 mHで13秒33が自己ベストで、今季は13秒41がベストだとのこと。英語があまりできないようで(寺田もだが)、あまり突っ込んだことは聞けなかったが、ヨーロッパ選手権には出場できそうだと言っていた。「僕の先祖はオスマントルコと戦いつづけた家柄だから、ワールドカップのトルコ対日本戦では日本を熱烈に応援したんだ」とは、言っていなかった。でも、ちょっとでも会話を交わすと、レースを注目して見たくなる。
 2列前の席には、中国人らしき選手とコーチの2人連れ。スタートリストを見る限り、中国人選手は1人しかいない。110 mHの劉翔に違いない。まさかその後、あんな事態が展開しようとは…。
 スタジアムに向かう渋滞に巻き込まれ、昨日は10分で着いたのに今日は35分も要した。来年、ローザンヌに来る選手はこの点をちょっと気をつけた方がいい。たぶん、そんなに余裕のない行動をとる選手はいないだろうが。
 プレスルームとプレス席などの場所や使い勝手は、昨年のことを思い出せたので問題なくいけた。競技前にちょっといいことがあった。もしかしたら、今回の取材旅行で一番の想い出となるかもしれない。それが何かは……ちょっと内緒。
 寺田は今回も航空券をHISで購入したことは「ビスレットゲームズ観戦&ちょっと取材記」に書いた。男子400 mH五輪銀メダリストのソマイリーが、1台目から脚が合わずに失敗したのを見て「HSIのスミス・コーチからは何を教わっているんだ、と言いたくなった」と、書いた。そのスミス・コーチとばったりはち合わせしたのが、男子100 mB組のレースをビデオに撮影しようと、記者席の高い位置に陣取り直したときだった。
 面識はないので「あんたの斜め前でビデオを撮るけど、座るからいいだろ」と、身振りと目で説明。「いいよっ」と応えるスミス・コーチ。あとで朝原選手から聞いたところによると、B組のコンライト(Kaaron Conwright・10秒37でB組5位)がHISの選手で、サブトラックでのアップ中から、スミス・コーチが付きっきりだったそうだ。朝原選手が外国選手をぶっち切ったレース後、スミス・コーチが寺田の肩をポンと叩いてくれた。正直、ちょっと嬉しかった。「オスロのソマイリーの件は許してやるよ」と内心思ったが、口にはしなかった。
 今大会、HISのエース、100 m世界記録保持者のモー(グリーンの愛称)は体調不良で欠場。しかし、ずっと記者席の一画に陣取っていた。HSIは代理人のハドソン氏、スミス・コーチ、モーが3巨頭。モーとハドソン氏(この2人とは秋葉原に一緒に行きました)、モーとスミス・コーチが一緒にいる場面は何回も目撃しているが、3人一緒だったのは初めて見たので、写真を撮りました。プレスルームからスタンドのプレス席に移動中、モーとばったり会ったとき、向こうから握手の手を差し出してくれたのもちょっとウレピー(佐々木記者のメール用語)。
 その後、朝原選手のコメント取り。一緒にビデオを見直したり、ザカリとのツーショット写真を撮っていたので、そこそこ時間がかかった。バスで隣席だったフィデノフ選手の男子110 mHC組と、同種目のB組は見られなかった。まあ、仕方ないし、そんなすごい記録が出るとも思えなかったので、気にもとめなかった。ところが……。
 男子110 mHB組で“すごい記録”が出ていた。バスで2列前の席にいた劉翔(中国)が13秒12のアジア新を記録していたのだ。これまでのアジア記録はリィ(李)・トン(漢字出ない)の13秒25。めちゃくちゃ大幅な記録更新だ。それに気づいたのが配られてきたリザルツをチェックしてからだったので、かなり後だった。昨年のユニバーシアード優勝者とは知っていたが、今年で19歳とジュニア資格があることは知らなかった。つまり、ジュニア世界新だったのだ。
 取材できなかったことを悔やみながら最終のバスでホテルに着くと、なんと劉がホテルまで2人の白人選手と話をしているところ。渡りに舟、とばかりにそこに加わり、ちょっと取材らしきことをしてしまった。詳しくは(って、それほど詳しくはできないが)記事にする予定。白人選手の1人は400 mHのモナコの選手(ベスト記録は49秒65のMehdi選手だそうな)で、さかんに劉をモナコのグランプリに出ないかと誘っていた。朝原選手もモナコのグランプリに出たことがあると、話題にしていた。そのあたりで劉の口から「イーットン」という言葉が出た。劉選手はあまり英語を話せない。モナコ選手も寺田も、前のアジア記録保持者であるリィ・トンのことだと思って聞き返したら、「リィ・トンじゃなくてイーットン。イーットンだよ」と言う。「100 mのアジア記録保持者だよ」と言う。伊東浩司選手のことだったのだ。なるほど、「伊東」は中国語的な発音だと「イーットン」だったのか。
 その後、深夜1時前後だったと思うが、朝原選手のパリのゴールデンリーグ(7月5日)出場が決まった、という情報を得て、安心して一日を終えられた。充実した一日だった。


■7月2日(火)
ユーロ日記2002・6日目 ローザンヌ3日目 その1
日本のトラック3選手はB組
 13時まで原稿書き。やっと日本から持ってきてしまった仕事をやり終えました。ホッとしました。14時に買い物を兼ねて大会本部ホテルへ。最新のスタートリストを入手(欲しい人が、欲しい種目だけパソコンからプリントアウトするシステム)。朝原・為末・千葉の3選手にそこでバッタリ。朝原選手の体調は、一気によくなったようです。
 しかし、3人とも残念ながらBレース。銅メダリストの為末選手のBというのは合点がいきません。しかし、朝原・為末選手ともトップでフィニッシュする可能性が出てきたわけです。昨日、朝原選手も、「B組で9秒台を出せばトップでフィニッシュできそう」だと話していました。ということは、ゴール脇の速報タイマーが9秒台で止まり“その瞬間”がすぐにわかるということです。ビスレットのC組でトップになったザカリ(エドモントンでも因縁がある)に勝てれば………。
 では、取材に出かけます。天候はいいです。風も弱いし。


■7月1日(月)
ユーロ日記2002・5日目 ローザンヌ2日目 その2
 昼まで原稿を書き、14時頃大会本部ホテルに。寺田の泊まっているホテルは、本部ホテルから徒歩5分の近さです。午前中に朝原選手に電話をしましたが、あまり早過ぎても迷惑かな(「あさっぱらから何ですか」なんて言われたりして)と思って、10時に電話しました。部屋には不在でメッセージを残しました。
 ホテルに着いて2階のプレスオフィスで受付を済ませ、1階のロビーに降りてくると、ちょうど朝原、今井美希、為末大選手が食事から戻ってきたところでした。ビスレットの100 mのビデオを見せたり、日本から持ってきた携行栄養補助食品(ビスケットではない)を差し入れたりして、1時間ほど話していました。その後、選手たちがスタジアムに練習に行き、ちょっと遅れて寺田もスタジアムに。その間に、K通信・K記者がいらして、一緒に練習の取材に。スタジアムには千葉佳裕選手もいて、明日、試合に出る日本選手が勢揃いしていました。
 選手たちは皆、特に不安材料もない様子。千葉選手だけが、すでに3試合をこなしていますが全て50秒台、「調子が悪くて…」と漏らしていました。朝原選手は体調に若干の不安もあるようですが、動き自体は「普通」とのこと。今井美希選手は「1m95の世界選手権A標準が目標」で、為末大選手は「48秒5くらい」との自己予測。
 7時過ぎにいったんホテルに戻り、荷物を置いてローザンヌ駅に。4日朝のパリ行きTGVの席を予約しました。K記者と食事をしてホテルに戻り、また原稿書き。


■7月1日(月)
ユーロ日記2002・5日目 ローザンヌ2日目
 朝、起きたらこんな光景が窓から飛び込んできました。なんか、幸せを感じてしまいました(単純なやつ)。朝食でコーヒーを頼んだら、濃いめのコーヒーがカップ2〜3杯分入るポットで、温めたミルクがその3分の2サイズのポットで出てきました。そうです、カフェオレなのです。ローザンヌはフランス文化圏なのです、たぶん。



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