ウィグライプロスペシャル 第8回

高平慎士、真夏の夜の“夢の続き”

        ★Part2★決勝前、選手村の24時間。北京五輪との違いは?

                         【Part1】予選のコール場で感じた期待感の正体からのつづき
●“メダルを取りに行く覚悟”ができていた
 北京五輪を“夢”のようだったと表現し、ロンドン五輪で“夢の続き”を見たいと話していた高平慎士。今回の企画で最初に興味を持ったのは、高平が感じた“夢”と“夢の続き”の24時間の長さの違いである。両五輪の予選から決勝まで、同じ24時間を経験した唯一の人物である高平が、どちらが長いと感じたのか。長さの違いでなければどんな違いがあったのか。

高平 北京は長いようで短い、短いようで長いと思わされた24時間でした。北京はすごく特別な24時間で、あんなに揺れて、あんなにそわそわしたことは初めてでした。先ほども言ったように(Part1の最初のコメント)、メダルを取れると思ってはいたのですが、メダルを取る覚悟が薄かった。それに対してロンドンは、メダルという言葉が重くなかった24時間でした。五輪期間中の毎日と変わらない24時間だったと思います。
 北京五輪の予選は1組2位で、全体でも3番目の記録で通過しました(アメリカ、イギリス、ナイジェリアらの強豪国が失格やバトンミスで予選落ち)。アテネ五輪も大阪世界陸上も、そんな位置で通過したことはありません。全員がメダルを取れるかもしれない期待感でそわそわしていました。ここまでやってきたことを出せばいいだけと思う一方、そのポジションで残りの24時間でどんなことをやればいいのか。それを考えていると長いと思いましたし、考え尽くすと短いとも思いました。
 世界陸上でメダルを2度取られた為末(大)さんがいてくれたことが大きかったと思います。メダルに向かう前日の心理状態を理解できる数少ない存在でしたし、その状態を笑い話にしてくれました。「いよいよ歴史を塗り替えるときが来たね」とか、「メダリストになったら忙しくなるぞ」などと、みんなが気にしていることを、あえて冗談ぽく、話しかけてきました。末續さんが「言っちゃうの、それ」と返していましたけど、それでずいぶん気持ちが楽になりました。
 それでも眠れなかったですね。僕は翌日のことをいろいろとイメージしていました。末續さんがこんな感じで走って来て、だったら歩数(スタートの目印にするテープを貼る位置)はこんなところかな、と。こうなったら、こうしなきゃいけないな、とか。
 それに対してロンドンは、ぐっすり眠ることができました。毎晩のことですが、ウィグライプロも飲んで。そわそわする感じはなかったですね。北京と違ったのは“メダルを取りに行く覚悟”ができていたことです。メダルを取って、取りに行く経験をしていたのは僕だけなんです。苅
部さん(苅部俊二短距離部長=当時)と、「銅でなくて、銀でもねいいからね」とか、「強い国が失敗したら金だよ」と言い合うこともできました。37秒台を出して、こことここに勝ったらメダルだよな、と考えることができました。北京では「やるしかない」という感じで、具体的な勝ち方までイメージできなかった。ロンドンも最後は「やるしかない」に行き着きましたが、プロセスは違いましたね。


五輪期間中、ウィグライプロを毎晩飲んだという高平

●経験者と若手の“共有感”の違い
 北京五輪の決勝当日の様子は、朝原宣治さんの著した「肉体マネジメント」(幻冬舎新書)に詳しく書かれている。眠れない一夜を過ごしたメンバーたちは10時頃に起床し、朝食は食堂には行かずにリビングでレトルトカレーを食べた。
 午後に入ってすぐに、控えメンバーの齋藤仁志(当時筑波大)も含めたリレメン全員で選手村の中にあるジョギングコースに出て散歩をし、その後バトンパスをしながら軽いジョギング。
 帰りに、選手村にあるマクドナルドに寄り、ポテトとコーヒーを昼食とした。「試合当日にマクドナルドなんて、と思われるかもしれませんが、あまり神経質になりすぎるのも逆によくない。僕は長年の経験でそう学びました」と、朝原さんは言っている。
 午後の過ごし方を書いた部分に、北京五輪決勝前の緊張感がよく表れているので引用させてもらう。
▼「肉体マネジメント」第1章からの引用
 当日の午後はとても長く感じられました。あんなに長く感じたのは初めてです。
 体を動かしているときは緊張も和らぐのですが、一人で部屋に入ってぼけっとしているときなどは、どうしても心臓がバクバクする。
 だったら、みんなと一緒にいればいいじゃないかと思うかもしれません。でも、ずっとしゃべってばかりだと逆に疲れてきてしまいます。僕はリビングに行ったり、自室のベッドで横になったり、そんな行動を繰り返していました。
 リビングでこんな出来事がありました。末續君がふとペンをとって、テーブルの上に置いてあったリンゴに、あろうことか「金」と書いたのです。それまで「銅」という言葉すらみんな口にするのを避けてきたのに、いきなり「金」はないだろう。みんなで彼を責めました。すると末續君はこう言い訳しました。
「これは金メダルの"金"じゃない。お金の"金"だ」
 意味がよくわからない答えでしたが、末續君なりにみんなをリラックスさせてくれようとしたのでしょう。
 スタジアムに向けて出発するまでの時間は本当に苦痛でした。あんな体験は、もう二度としたくありません。


高平 ロンドンは前の晩も12時頃には寝て、朝は8時頃に起きました。北京のとき、僕は起床後に一度昼寝をしていますが、ロンドンではそこからは眠らなかった。ちょっと、うとうとしたかもしれませんが。朝食は、北京の昼食と同じで選手村のマクドナルド。クロワッサンとヨーグルトとコーヒーだったと思います。誰と行ったかは覚えていませんが、同室だった高瀬(慧・富士通)、4×100 mRメンバーでは江里口と飯塚が一緒だったのは確かです。大会期間中の“いつもの朝”でした。
 昼食は12時か1時に集合して、リレメン5人と高瀬、苅部さん、副部長の土江寛裕さんでマルチサポートセンター(選手村近くにJOCが設置した日本選手サポート用の拠点)に行って食べました。基本的には和食ですね。レスリングの吉田沙保里さん(アテネ、北京、ロンドン五輪3大会連続金メダリスト)にお会いしたので、「力をください」と握手をしてもらいました。
 昼食後は散歩をして、ジョッグをしましたが、出発時間が北京よりも早かったこともあって、4年前と比べると時間の空きが少なかった。結果的にそわそわする時間がなかったです。北京の朝原さんは1人部屋だったので、余計に緊張されたのでしょう。僕は塚原と同部屋でしたから。
 選手村はオリンピック後に分譲されるマンションです。北京では朝原さんと末續さんが1人部屋で僕と塚原が2人部屋。3LDKの間取りで、4人がリビングによく集まって、ゲームなんかもしましたが色々と話をしました。
 ロンドンは4LDKで僕と高瀬、江里口と飯塚、法大の金丸(祐三・大塚製薬・400m)と岸本(鷹幸・法大・400 mH)、スズキ浜松ACの村上(幸史・やり投)さんと右代(啓祐・十種競技)の組み合わせで入っていました。山縣と九鬼は別だったんですが、食事などは一緒に行きました。
 緊張感の違いはありましたが、僕が感じた違いの1つに“共有感”とでも言うべきものがありました。リビングに集まるのは、他にやることがないからなんですが、北京のときは色々なことを共有したいから集まっていたんだと思います。その共有する感じがロンドンでもなかったわけではないし、浅かったわけでもない。でも、北京ほど深くはなかったですね。共有して発散して、解決するレベルまでは行っていなかった。
 経験者の多さの違いが現れる部分なのかもしれません。北京はアテネ五輪やシドニー五輪を経験している選手が多かったのに対し、ロンドンは初出場の選手が多かった。短距離の経験者は僕と金丸だけでした。江里口も2009年ベルリン世界陸上と11年のテグ世界陸上と経験しているので、その2人とは共有できるものが多かったので助かりました。
 アテネ五輪の頃の僕は一番年下でわからないことばかり。だから、なんでも先輩たちの後について回っていました。集合時間より先に行くのは当たり前で、たわいもない話でもいいので、できる限り一緒にいるように努めました。そこから始めました。
 今回、僕がそういったところまで気遣ってあげればよかったのかもしれませんが、放っておきました。今の若い選手はそういうものだと認識して、信頼することを僕が覚えたからでしょう。タイプは違いますが、北京の塚原もそうでしたから。自由奔放というか、破天荒というか。それが塚原の力を引き出したことは否定できません。塚原に「うるさいぞ」とか、山縣に「遅刻するなよ」と言って彼らに気を遣わせるよりも、自由にやらせた方が力を発揮する。リレーでやることをやってくれると信じられたんです。北京の塚原を見ていたことがよかったですね。


五輪トラック種目80年ぶりのメダル獲得の快挙を達成した北京五輪4×100 mRメンバー。左から塚原、高平、末續、朝原<写真提供:高平慎士>

●オリンピックは次に生かせばいいものではない
 そうした部分は選手個々のスタイルとして認められたが、若手選手たちが“次もある”と考えていることは、「オリンピックではしてはいけないこと」と高平は断固として否定する。筆者は個人的には“次もある”と考えた方が良いと感じていた。“これが最後”と思うと力みが出ると感じていたからだ。高平も「そういう部分もあるかもしれません」と、その見方を否定はしないが、それよりも重要なことがあるという。

高平 確かに伝統をつないでいくものでもあるのですが、そのときそのときで、4〜5人の選手とスタッフで作り上げていくのが4×100 mRです。北京は前日の夜からそわそわしましたけど、経験者が3人で全体を通して言えば落ち着いて行けました。今回は僕以外は初めてのメンバーで、どう力を発揮できるかが試されていました。その状況では僕も、同じ気持ちで自分を試す場だと思わなければいけないのです。今回は、今回しかない。当たり前ですが、次のオリンピックの場に立てる保証があるわけではありません。
 その辺の雰囲気の違いが、みんなが集まっている場所で出るんです。
 北京は、“朝原さんとリレーを走るのは最後になる”という部分が色濃くあったのは確かです。ただ、それを抜きに考えても“このチャンスを、このメンバーでつかみに行くのはこれが最後”という意識をロンドンでは見出せなかった。最後だというよりも、“このチャンスはここにしかない”という言い方でしょうかね。
 オリンピックで同じことは起こり得ないし、次に生かしていいいものではありません。結果的に、オリンピックの経験を生かしてその後の競技人生を送るのですが、オリンピックに向かう過程で「経験を次に生かす」と考えたら絶対にいけない。北京五輪の福島(千里・北海道ハイテクAC)が“経験のため”という理由で選考されました。そのときのようにはっきりとアナウンスしていれば良いとは思いますが、“何をしたのかわからなかった”というオリンピックにしてはいけないと思います。
 今回、棒高跳の山本(聖途・中京大)が記録なしに終わって、「次に生かせ」ということを言われていますが、それこそ無責任な言葉だと思います。僕に「400 mHをやったらどうか」と言うのと同じです。山本は帰りの飛行機が近くの席でしたが、半端でない悔しがり方をしていた。ユニフォーム姿で深夜2時までベッドで大の字になっていたと、記事で読みました。彼は1回のチャンスを貴重だと考えられたのでしょう。
 実は、経験者たちは“次を”とは考えていません。オリンピックに3回、4回と出ている人を見ると、それを“普通に”やっているように見えます。初めて出た若い選手は、自分も2回、3回と出るものだと“普通に”考えてしまう。連続して出ること自体は良いことですが、実際にはそんな簡単なことではない。2006年のアジア大会から09年のベルリン世界陸上まで代表を続けた塚原でさえ、ロンドン五輪は出られませんでした。そういう認識を持った人だけが、その場の勝負を楽しめる。“その1回”の難しさ、貴重さがわかっているから楽しむことができて、その後も頑張ることができる。
 金メダルを取った人は「次に」とか「経験を生かして」とは言いません。そういう言葉を口にするのは期待通りの結果が出なかった人なんです。それを始まる前から想定していたらいけないということです。「経験を生かして」というのは、自分で言っていても自分の言葉じゃない。
 土江さんがミーティングで「オリンピックの借りはオリンピックでしか返せない」と話してくれました。土江さん自身、96年アトランタ五輪に学生で出場しましたが結果を出せませんでした。次のシドニー五輪で代表になることができず、8年後のアテネ五輪で4位になった。すごく重い言葉だと思いましたが、そういう意識を若い選手が持つことを大事にしてほしいし、僕も大事にしていきたい。

●「金か銀を取ったら引退しようと思っていた」
 そういった周りのことを考えられたのも、高平の北京とロンドンの違いだった。周りの若手のことを考えるのと同時に、自分のこと、日本チームのことにも思いは及んだ24時間だったという。驚かされたのは、そこに自身の進退も含まれていたこと。7月の取材時には「ロンドン五輪で引退するつもりはない」と話していたのだが。

高平 北京は“やるべきこと”が最優先事項でした。自分のやるべきこともあったし、末續さんの状態がどこまで良くなっているかを考えないといけなかった。塚原の脚の状態もチームとして心配だったし、実は僕の脚も万全じゃなかった。
 ロンドンは先ほど話したように、メダルを取るプロセスをイメージできた。その場でしか味わえないことを味わうだけでなく、その場のために4年間で何をしてきたか、に思いを至らせることができました。その後の4年間のことも考えましたね。
 北京は朝原さん以外の3人は「これが朝原さんとの最後のリレー」という気持ちが強かったと思うんです。やるべきことをやって、朝原さんを気持ちよく送り出そう。その上に重圧があった。あるいは、その2つだったから、重圧でいっぱいいっぱいになっていました。メダルを取ったらどうなるか、4位から8位だったらどうなるか、ほとんど考えられませんでしたね。
 ロンドンではそこを明確に考えられましたし、山縣や九鬼がこの重圧をどう受け止めているんだろう、というところまで想像していました。
 僕自身はまぐれでも、金メダルか銀メダルを取ったら引退しようと思っていました。確率的には低かったですから言いませんでしたけど。銅メダルだったらすごく嬉しかったと思います。その後をどうしたかはわかりませんが、メダルを取ったら若い3人のサポートをしていかないといけないかな、と考えていました。
 4番から8番だったら、やっと楽になれるんじゃないか、と思っていましたね。簡単に言えば、もう一度チャレンジャーになれる。立ち位置としては、どうなっても自分が前面に出るのはないと思っていましたけど。
 ただ、この考えは帰国してから変わってきています。
【Part3】直前のサブトラックと緊張感がマックスに達するコール場につづく
ロンドン五輪後は練習内容に少し変化も表れている(Part6かPart7で言及)

今後は以下のような展開で高平選手の言葉を紹介していく予定です。
【Part1】予選のコール場で感じた期待感の正体
【Part2】決勝前、選手村の24時間。北京五輪との違いは? <テーマ>「次回があると思ってはいけない」
【Part3】直前のサブトラックと緊張感がマックスに達するコール場
【Part4】“冷静な3走”を極める<場面>トラックに出てからバトンパス直前まで
【Part5】リレーの“思いやり”は究極の技術<場面>2・3走のパスと3・4走のパス
【Part6】<テーマ>8年間の成長 <場面>3走を走っているときの感覚
【Part7】<テーマ>リオへのスタート <場面>5位でフィニッシュした直後。帰国後


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