ウィグライプロ
スペシャル
第6回

ロンドン五輪直前特集
横田真人編

44年ぶりの
男子800m五輪代表
を実現させた4年間に
2つの側面

ロンドン五輪をどう走る?

 横田真人(富士通)がロンドン五輪男子800mに出場する。3年前にウィグライプロ・スペシャル記事で取り上げたときは、ユニバーシアードで4位に入賞した直後。そのシーズンに日本記録(1分46秒16)をマークし、今回は男子800mでは44年ぶりとなる五輪代表入り。成長した姿を見せてくれた。
 だが、横田にとってこの3年間は、厳密にいえば北京五輪代表入りを逃した後の4年間は、もがき苦しんだ期間でもある。悲壮感はなく、世界への挑戦を楽しんではいたが、力んでいた部分があったのも確か。
 それも代表入りしたことで、一気に視界が開けた。苦しんだ4年間を糧として、ロンドン五輪で自身の競技ステージをさらにアップさせるつもりだ。


涙の理由
 横田がロンドン五輪代表入りの報(しら)せを聞いたのは、新幹線の浜松駅だった。思わず頬を伝った涙に一番驚いたのが、横田自身だった。

横田 4年間、本当にオリンピックに出たかったんだな、と思いました。世界のトップ選手たち、今まで自分が戦って『強いな』と思った選手たちが、4年間をかけてここに合わせてくる。それって、どういう大会なんだ? という興味が強かったし、その舞台に自分も立ちたいと思ってやってきました。
 しかし日本選手権でA標準を切れず、代表入りはダメだと考えるようにしました。期待してダメだったら、もぬけの殻になってしまいそうでしたから。
 それが出場できるとわかったとたん、4年間の思いがあふれてきたのだと思います。自分も4年間、色々な挑戦をしてきました。今思えば、力が入りすぎていたところも多々あったのでしょう。その緊張から一気に解き放たれたこともあったと思います。
 でも、喜びにひたったのは1時間くらい。すぐにオリンピックに気持ちを切り換えました。

アメリカで試合のような練習
 横田はこの冬、アメリカで約2カ月間トレーニングを積んだ。過去2年間、1分46秒台では何度も走りながら、自身の日本記録(1分46秒16)には届かなかった。殻を破る方法を模索して、名門クラブで自身を極限まで追い込むトレーニングを積むことにした。


横田 “負荷が高い”というのを通り越して、毎回のポイント練習が試合みたいでした。一緒にトレーニングをしたのは自分と同レベルか、少し上の記録を持つ外国人選手たち。彼らに勝つことばかり考えていました。
 国内での練習はどちらかというと、それぞれの局面を想定して、そこをいかに効率よく走るかを考えて走っていました。1人で記録を狙うにはその方が良いと思います。しかしアメリカではそんなことはおかまいなしに、しゃにむに追い込んだ練習をすることにしました。計算した走りというより、本能の走りです。
 その走りは国際大会など、『こいつらに勝つんだ』というレースで有効になります。国内では日本選手権がそれに近いですね。             メインメニュー前にラダーを使って刺激を入れる

テグ国際でやっと五輪B標準突破
 だが、今季のレースは不本意な内容が続いた。5月3日の静岡国際こそ1分46秒85で優勝。シーズン初戦自己最高と悪くなかったが、B標準にも届かなかった。だが3日後のゴールデングランプリ川崎は1分50秒84で7位。川元奬(日大)にも敗れた。ペースメーカーとの間隔が開いた集団のトップを走り、強風をまともに受けたのが敗因だったが、外国勢との勝負に徹するつもりが記録も狙って集団を引っ張ったことも失速を招いた。
 しかし、5月16日のテグ国際で1分46秒19。8位ではあったが、外国選手を相手に勝負に徹した走りが唯一できた(ケニア選手4人に先着)。その結果、初の五輪B標準突破を果たし、結果的にこの走りが五輪代表入りを可能にした。


横田 テグではタイムを狙っていたわけですが、最後は本当に無心になって走れたし、勝負を純粋に楽しむことができました。中盤が悪かったわりにラストの伸びもあった。イケル手応えがあったレースです。僕の場合国際大会の方が純粋に勝負に没頭できて、練習で培ってきたものが出せるんじゃないかと感じています。
44年ぶりの五輪代表
 だが、最終選考会の日本選手権は優勝したものの、1分48秒12と記録は伸びなかった。本人は頑として認めないが、関係者からの情報では3日前にぎっくり腰のような状態になってしまったという。練習で追い込み過ぎたのか、力みがあったのか。
 前述のように横田自身は代表入りは無理と考えたが、他種目のA標準突破者が多くなかったこともあり44年ぶりの男子800m代表が誕生した。
 これを幸運ととるか、実力ととるか。
 過去にオリンピックに迫った選手として、小野友誠と近野義人がいる。小野は1分46秒18の前日本記録保持者で、ライバルだった近野は1分46秒22の記録を持つ。2人が1分46秒台の
応酬を見せた1994年は、永井純がメキシコ五輪に出場した1968年以降では、男子800mが最も盛り上がったシーズンだった。  しかし、小野と近野の1分46秒台は1994年だけで、五輪標準記録有効期間にそのレベルの記録を出すことができなかった(近野氏のコメント参照)。
 それに対して横田は、初めて1分47秒を切った2009年から4シーズン連続で1分46秒台で走っている。目標としたA標準こそ破れなかったが、それが代表入りの決め手となった。


横田 4年連続は偶発的じゃないと思います。近野さんが言われているように、ペースメーカーなど強化委員
7月3日出発のヨーロッパ遠征前最後のポイント練習には、日本選手権2位の口野武史(右・富士通)や、5月にジュニア日本新をマークしたばかりの川元奬(左・日大)も加わり、レベルの高い練習をこなした。写真上から1000m、500m、250m。1000mは最初口野が引っ張り、500mは川元が引っ張った
会の取り組みも有効だったと思いますし、僕の思いも強かった。僕以外の選手は本気で世界で戦うというよりも、“僕を倒して標準記録を破れば世界に行ける”という考えだったと感じています。その点僕は、本当に世界で戦うことをテーマに毎日を過ごしてきました。そのために何が必要かを考えて、実際に海外にも行ってトレーニングをやりました。陸連や会社の力も借りましたが、自分の意思で行動を起こしました。そういった4年間の取り組みの結果だと思います。2007年の大阪世界選手権出場は地元枠で標準記録も切っていなかったし、本当のラッキーでした。でも今回は、“つかみ取ったラッキー”だと思っています。

近野義人氏が語るオリンピックを逃した理由と48年ぶり代表実現の背景
「当時はA標準が1分46秒5くらいでしたから、僕と小野君はそのレベルにありました。でも、そのレベルを維持できなかった。僕はアキレス腱のケガや、それが治りかけたらまた別の部位をケガをする悪循環に陥りました。世界との差が大きいという意識が強かったので、もっと記録を出さないといけないという焦りみたいなものがあったんです。
 2005年から陸連の強化委員会に入りましたが、中距離部長の平田(和光)さんが、ご自身が世界から遠かった時代の選手だったことから、本当に情熱と工夫を持って強化に当たっていました。まず言えるのが科学委員会の分析を、現場に生かし始めたこと。私の頃はデータはあったと思いますが、現場で生かし切れていませんでした。
 それと並行して、2008年にナショナルトレーニングセンターができ、定期的に集まってトレーニングや研修を行えるようになりました。それによって、中距離チームという意識を持てたんです。強化拠点ができたことも大きかったと思います。
 そしてペースメーカーを使っての設定レースが、2000年頃から国内でも多くなりました。私と小野君が日本選手権で1分46秒台を出したときは、外国人選手が引っ張ってくれましたが、それ以外のレースではそういう機会はあまりなかったんです。
 ヨーロッパ遠征も、長年続けることでレベルの高い大会から信頼されて、出場することが容易になりました。最初は結果を残せなくても、継続して出場したことが良かったと思います。内外で質の高いレースに出続けることで、体がそのペースを覚えるのです。
 強化委員会のスタッフと選手が、一緒に考えるようになったこともポイントです。選手のコンディションを聞いてペースを決めたり、合同練習のトレーニングを考えたり。スタッフと選手が情報や認識を共有した。
 何より横田君の気持ちと努力が大きかった。その結果が44年ぶりの五輪代表を実現させたと思います」

ロンドンでは「中盤で流れに乗る」
 横田は自分1人の力で成し遂げたと言っているのではない。実際、多くのレースでペースメーカーをやってもらったことに感謝をし、自身もペースメーカーを引き受けている。口野武史(富士通)や川元に自ら声を掛け、質の高い練習を一緒に行っている。口では「僕は世界で戦うだけだから、日本の中距離に伝統が根付かなくてもかまわない」と言っているが、自分に続く選手に奮起を求めているのは明白だ。
 ただ、「世界で戦う」と言う横田も、昨年のテグ世界選手権は予選落ち。ロンドン五輪でも、前述のテグ国際の走りができれば予選突破はできそうだが、目標とする準決勝で戦うことは難しい。

横田 これまで国際大会では、中盤のきついところで前と数m差を開けられていました。ヨーロッパ遠征では記録と勝負の両方を狙いましたが、ラストをしっかりと動かさないとタイムは出せないので、中盤で消極的になっていました。そうすると外国勢はすかさず前に入ってきます。昨年のテグ世界選手権では集団のトップを走っていましたが、中盤でトップを譲ってずるずる8位まで下がってしまった。
 世界的に見たら僕はキック(最後のスパート力)があるわけじゃないので、中盤で差を開けられても最後で勝負、という展開は無理なんです。集団の横か斜め後ろでついていかないと。中盤で流れに乗ることが一番カギを握ると思っています。プランを立てていくというより、どんなレースになっても集団の流れに乗るということです。良い位置を取ることを心がけて、ラストはもう死ぬ気で行く。1人でも抜けば着順通過もあるし、プラスでの通過もある。とにかく1本でも多く走るのが目標ですから。
ウィグライプロと横田
「今はロンドン五輪に向けて追い込んだトレーニングをしているので、ウィグライプロをポイント練習後に2包、一日の終わりに1包飲んでいます。以前は練習前に飲んでいましたが、練習後の方が良いと感じて変更しました。これは個人差があるかもしれません。ポイント練習前に1包、練習後に1包という飲み方が良い人もいるでしょう。試合にピークを合わせる時期は特に、継続して飲み続けることをオススメいたします」

「ここが見せ場」と
 今季は「手応えがあった」というテグ国際を含めても、アメリカでトレーニングしたことを出せていない。レベルの高い練習ができても試合で力を発揮できない。トップ選手が頭打ちになるときに時おり見られる現象だ。
 代表決定後の研修合宿で脳科学者の林成之氏の講演を聴き思い当たることがあった。林氏は競泳の日本チームにアドバイスをしてきた人物。日本の競泳選手が日本記録ペースで泳いでいても、ラスト10mで失速していたことが多かった。


横田 記録を狙った設定レースの僕が、まさにそのパターンでした。ラスト200 mや100 mでタイムを聞き、イケルと思っても最後の100 mや50mが伸びない。脳科学的に言うとそれは、もうすぐ終わりだと脳が思ってしまうと、体を動かす信号が出せなくなる。「あとちょっとで終わる」とか「あそこがゴールだ」と思ったらいけないのだそうです。では、どう考えればいいのか。「ここが見せ場だ」と思うことだというんです。その話をお聞きして1つのヒントになりました。練習でそう意識してみて、これはいいかなという感触もあります。
 あとは先ほど話ししたように、4年間ずっとチャレンジしてきて、「すごく力が入っていたな」という部分から解放されました。「絶対にA標準を切る」。「自分がオリンピックに出なきゃいけない」。そういった気持ちは持つべきなんですが、それが強すぎたらマイナス要因にもなるということです。
 代表になったことで若干肩の荷が降りて、良い精神状態になれています。戦う準備ができたというか、オリンピックが楽しみで仕方ない状態です。課題としている中盤を上手く走れたら、もしかしたらイケルんじゃないか。そういう気持ちになっていますから。
この日の合同練習には高校生も参加。中央は南関東インターハイ800m優勝の三武潤(中・城西大城西高)で、東京都大会では横田の大会記録を破る1分51秒65をマーク。今季高校リスト2位。左は南関東インターハイ800m6位の白石浩之(立教池袋高)。横田の高校の後輩に当たる
「ロンドンでバーンアウトはしない」
 横田のここまでの競技人生が、前向きな思考に変わることの連続だった。1つの目標をクリアしたら、次の目標へ自然に向かっていた。高校で陸上競技に
転向したのは、それまでやっていた野球よりも全国大会に出られそうだと思ったからだ。それを達成したら、次は全国大会優勝が目標に。インターハイに優勝したら、次はインカレと世界ジュニアに目が向いた。そして日本選手権優勝、ユニバーシアード入賞、世界選手権出場と階段を上ってきたのである。

横田 一度でも日の丸をつけたら陸上をやめようと思っていたのに、北京の世界ジュニア(2006年)で失敗して「このままじゃやめられない」と思ったんです。2年後に同じ北京で行われるオリンピックに出たかったのに代表を逃し、ここまで続けてきました。日本記録を出しても、1分45秒台を見たい、1分
44秒台だって出せるんじゃないかと思った。
 目標とする大会だけでなく、陸上競技が強くなるプロセスにもやり甲斐がある。強くなるために海外にも行くし、色んな人にも出会います。以前はロンドン五輪までと考えていましたが、今はロンドンでやめるつもりはまったくありません。まだまだ次のステップへ行ける。だからこそ、ロンドンは良い精神状態で臨めるんです。

 横田にとってロンドン五輪も1つのステップ。“最初のオリンピック”というステージに上がるにすぎない。

横田 僕は絶対にバーンアウトしない。つかんだチャンスを絶対に生かします。

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