ウィグライプロ
スペシャル
第1回


森岡紘一朗
“2度目の成功”の法則




競技写真提供:今村文男コーチ

@失格の心配がないフォーム

 8月の世界選手権で20kmWと50kmWの2種目に出場する森岡紘一朗(富士通)。2007年の大阪大会11位、昨年の北京五輪が16位と、20kmWでの入賞も現実的になってきた段階での50kmW挑戦は、何を意味するのだろうか。そこを明らかにするためには、森岡の成長をたどってみる必要があった。その過程で明らかになったのが、“2度目”の経験で森岡が結果を出してきていることだった。

●地元インターハイ失格
 今回の取材では当初、森岡の歩型にスポットを当てようと思っていた。森岡といえば諫早高時代、地元長崎で行われたインターハイでトップでフィニッシュ後に、失格を宣告されたレースが多くの関係者の印象に残ってしまっている。しかし現在は、「失格の心配をしなくていい数少ない選手」という評価を競歩関係者から聞いていた。歩型について掘り下げれば面白い話が聞けると思われたが…。

森岡 高校2年で競歩を始めた頃は、歩型をそこまで意識していませんでしたし、インターハイまで失格したことはありませんでした。長崎インターハイは実質的に初めての全国大会でした。それでも、4600mまで注意も警告も“0”。つまり、最後の1周だけで警告“3”がついたわけです。フィニッシュした時点では、自分のフォームが乱れた意識はありませんでしたから…。

 地元開催のインターハイで優勝したと思った矢先の失格。まさに天国から地獄に突き落とされた気分だった。悲嘆の涙に暮れた森岡だが、競歩関係者の話を総合すると、失格に関わるような動きは、高校時代からなかったという。インターハイのラスト1周だけが、森岡の歩きが乱れた唯一の周回だった。
 これは、地元開催のインターハイが特殊だったことを示している。種目によってはテンションが上がることが好結果に結びつくこともある。競歩にそれがないわけではないが、当時の森岡はまだ、そこをコントロールすることができなかった。

富士通の寮に住んでいる森岡。愛犬家としても有名だが
現在、愛犬のトップ(ポメラニアン)は実家に預けてある
森岡 インターハイで失格した後はフォームの重要性を認識して、ドリルなどにきっちりと取り組みました。当時から石川県で行われていた競歩合宿にお世話になっていたのですが、全国トップレベルの高校生だけでなく、谷井(孝行)さんや山崎(勇喜)さんたちとも一緒に練習させてもらいました。動きやドリルなどは全て、そこで教えていただきました。

 秋の静岡国体で全国初制覇を遂げた。インターハイと同じ審判員たちの前で、臆することなく歩ききったのである。地元インターハイの失格は、フォームを直すきっかけになったというよりも、フォームの重要性を強く再認識するきっかけになった。インターハイの後、今に至るまで、森岡は一度も失格したことがない。

森岡 国体は残り500mでトップに出て、ラスト200 mでは2位集団に3秒くらい差がありました。最後は胸の差まで追い込まれたんですが、逃げ切ることができました。すごく冷静に後ろとの差を見ていて、胸1つでもいいから先にゴールしようと考えていたことを覚えています。インターハイと違って、まったく慌てませんでした。

 その後の成長からわかるように、森岡は“2度目”で必ず結果を残している。全国大会2レース目ですかさず、冷静な歩きを見せたあたりは、森岡らしさが当時から表れていたといえるだろう。

●今村コーチ門下で成長
 森岡は2004年4月に順大に進学。今村文男コーチと出会った。今村コーチは同じ4月に輪島で行われた日本選手権50kmWが現役最後のレース。コーチ業に専念する最初のシーズンに森岡が入学した。偶然とはいえ、運命的だった。

森岡 高校時代、歩型について習うのは合宿の時だけでしたから、普段から歩型を見てもらえるのは初めてでした。細かいところ、感覚的なところまでアドバイスをもらえたのはありがたかったですね。振り出しや、つま先の微妙な開きを直していけば、全体的に整ったフォームになるのでは、と思って指導についていきました。入学当初は体も細かったですし、基礎的なところが未熟でした。長身を持て余していたところもありました。
世界選手権50kmWで2度の入賞経験がある
今村文男コーチ(左)
「どんなに苦しくてもついていきます」と森岡
 歩型が崩れていくのを防ぐ努力はつねに続けなければならないが、森岡は失格に対し、そこまで神経質にならずにすんだ。今村コーチも森岡のフォームの美しさを、「持っている特性ですね。ヒザの伸展性、足首の柔軟性、腕振りと脚振りのコーディネーション能力など、本人の中で整理がついて動かしているのだと思います」と評価している。
 失格の怖れが少なければ、次の段階に進みやすい。種目は高校では5000mWだが、学生ではまず、1万mWが中心になる。4月の四大学対校では42分16秒56だった記録を、7月の世界ジュニアでは41分14秒61と1分以上短縮した(1万mW2レース目というわけではなかったが)。


森岡 特に、今村コーチから指摘され上半身と下半身の連動性を意識していくうちに、軸ができてきたりして、ベースが形成されてきたのだと思います。世界ジュニア前には志賀高原の合宿で徹底的に鍛えてもらって、本番で大きく記録が伸びました。

 世界ジュニアでは記録だけでなく、6位と入賞も果たした。日本選手の世界ジュニア入賞は珍しいことではないが、初めての世界大会で結果を残したことは、森岡が国際大会で力を発揮できる資質を持っていることを示していた。

●2度目の20kmWで大幅な記録更新
 同じ2004年の11月には20kmWに初挑戦した。高畠で行われた全日本競歩。20kmWはオリンピックや世界選手権の種目である。4位だった順位はともかく、1時間28分22秒の記録はジュニア歴代でも18位と、世界ジュニア入賞選手としては物足りなかった。

森岡 1万mWの感覚はできてきた頃でしたが、20kmは未知の世界でした。ペース配分なども含め、どう取り組んでいくべきか、感覚としてつかめていませんでした。入学して数ヶ月は痛いところも体のあちこちに出ていました。今村コーチの指導で良くはなっていましたが、まだ動きのズレがあって、それが小さなケガになって表れていたのだと思います。

 しかし、森岡は2度目の20kmWで見違える歩きを見せた。年が明けて2005年1月の日本選手権競歩で1時間23分08秒と、5分以上も記録を縮めて4位に。1kmあたりのタイムに換算すると、4分25秒から4分10秒に速くなったことになる。マラソンではあり得る現象だが、ハーフマラソンの距離では考えられない。

森岡 競歩は基礎的な部分で1つが噛み合えば、そのくらいのスピードアップは可能です。日本選手権に向けての練習がしっかりとできたことが大きかったですね。今村コーチの指導を受け始めて半年が経ち、理解度が高まったことが背景にあります。「左軸の右振り出し」とか、言葉にしたら当たり前のことでも、感覚的に理解ができるようになりました。それ以前は、その当たり前のことができていなかった。小さなケガも、冬になってなくなりましたし、体を持て余していたところも解消されてきました。結果的にストライドが大きくなりましたね。推進力が違ってきたと感じていました。

 大学1年時の森岡が気にしていたのは、失格を懸念しての動きやフォームではなく、いかにスピードを出す動きやフォームか、という点に絞られていた。これは大きなアドバンテージだっただろう。
 2005年4月の全日本競歩輪島大会では1時間22分51秒で優勝。大学2年で早くも、世界選手権(2005年ヘルシンキ大会)代表の座を射止めた。

A“長距離型”で2度目の世界挑戦 につづく
大学3年時に100kmWに出場
 森岡は大学3年時の6月に、練習の一環でサロマ湖100kmウルトラマラソンに出場。全コースを競歩で歩き通し、全体で84番目でフィニッシュ。参考記録だが10時間38分20秒というタイムを残した。50kmWの記録から考えると、ゆったりとしたペースで歩ききったことになる。
「給水にウィグライプロを使ってみました。それからですね。 ウィグライプロを摂るようになったのは。普段から朝と、1日の終わりに摂っていますが、負荷の高いトレーニングの前後にも摂っています」


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