インサイド・レポート東京国際マラソン
高橋健一
ハーフの王様が超えられなかった壁と可能性
新型ランナーの挑戦は続く


「すごく悔しいです。最低でも2時間10分を切りたいと思っていましたから」
「納得できません。まだ前回(2年前の東京は前半のオーバーペースから33`付近で棄権)の方がすっきりしました」
「勝った気がしません。次に走るときのために、下見をしてきたようなものです」
 自己記録を5分近く短縮したにもかかわらず、レース後の高橋健一(富士通)のコメントは、場所が変わり質問者が変わっても、常に同じものだった。
 エリック・ワイナイナ(コニカ)とテスファエ・トラ(エチオピア)のシドニー五輪銀・銅メダリストを含む有力外国選手中心の集団は、ペースメーカーのエリウド・ラガト(ケニア)を追わなかった。追ったのは高橋、尾方剛(中国電力)、渡辺共則(旭化成)の日本選手3人。折り返しを過ぎて渡辺が遅れる。30`で予定通りにラガトがリタイアすると、高橋が前に出た。
「あえてペースを上げたわけではありません。前を走る選手がいなくなって、自然に脚が前に出た感じです」
 32`で尾方を振り切り独走に持ち込んだ。だが、その勢いも束の間、35`を過ぎると高橋はペースダウンをし始めた。35`から40`までの5`は17分24秒。その前の5`よりちょうど2分も減速してしまった。これは女子選手の終盤と同じタイムなのである。
 35`地点で3分25秒、距離にして1`以上もの大差をつけていたテスファエ・ジファル(エチオピア)が、40`で後方約200bに迫ってきた。高橋にとって幸いしたのは、ジファルが勘違いをしていたことだ。「尾方を抜いた時点でトップだと思った。競技場に帰ってきて初めて、高橋が前を走っていることを知った」
 このレースで2時間9分59秒以内で日本人トップとなれば、8月にカナダ・エドモントンで行われる世界選手権代表に内定した。しかし、選ぶ側の感触は悪いものではないようだ。日本陸連の桜井孝次五輪強化特別委員長は次のようにコメントした。
「日本人トップで2時間9分59秒以内という条件を満たさなかったので、今日、内定を出すことはありませんが、もちろん選考の対象になります。選考の基準としては、やはり勝つことが一番で、タイムは2番目」
 冒頭で紹介したように、レース後の高橋は自己嫌悪しているとも思えるくらい、反省の弁ばかりを続けた。だが、「終盤で失速しましたが、前半がオーバーペースだったとは思いません」とのコメントには、力がこもっていた。
 高橋の“飛ばし屋”ぶりは前号(P126)でも紹介したが、2年前の東京ではスタートから5`14分30秒台の超ハイペースで独走し、20`の通過は58分30秒というすさまじいものだった。これは1区間20`強の箱根駅伝でも、ぶっちぎりで区間賞の取れるスピードだ。だが、マラソンでそのペースは無謀に近い。25`から減速し、33`でリタイアしてしまった。
「あのときはマラソンを知りませんでした。力任せで押し通せるんじゃないかって思っていましたから。結果的にはオーバーペースだったと思います」
 今回も、35`以降は女子のレース並に減速した。だが、30`まではペースメーカーに付いて走った。20`の通過は59分42秒、30`は1時間30分02秒。5`当たり15分00秒と、予定通りのペースだった。
「オーバーペースでもなんでもなかった。あのペースで押していけるはずでしたから。それどころか、前半は足がつまって、前の選手の足にぶつかることが何度かあったくらいです。もうちょっと速く行ってくれないかな、と思ってました」
 では、高橋の理想とするペースは?
「前半は14分40〜50秒で行けるはずです。後半落ちたところで5`15分になるというのが理想です」
 このペースで走りきれば、2時間4〜5分台が出ることになる。今回の目標も最低でも2時間10分を切ることで、最高なら富士通の後輩の藤田敦史が昨年12月にマークした、2時間6分51秒の日本最高を破ることだった。世界最高は2時間5分42秒だ。
 現在、世界のマラソンは、海外の賞金レースも国内のレースも、男子は5`15分00秒のペースメーカーが、20〜30`までは必ず付く。このペースで最後まで走り抜けば、2時間6分36秒となる。有力選手はそれに楽に付いていき、ペースメーカーがやめたあとを頑張るわけだ。
 それと対極にあるのがオリンピックと世界選手権で、夏場開催のためペースは遅く、しかもペースメーカーがいないため、スピードを上げ下げする駆け引きが、頻繁に行われる。高橋に合っているのは、そのどちらでもない。
「人の後ろを走るよりも、自分のペースで行きたい。今回、前半を14分45秒で行っていても、終盤の落ち具合は変わらなかった」
 高橋が自分の力を発揮するには、現在行われているマラソンのパターンを破る必要があるのかもしれない。同学年の高橋尚子(積水化学)がそうしたように。

たかはし・けんいち
1973年1月16日生まれ。秋田・花輪高から順大に進むが、インターハイや箱根駅伝で華々しい活躍はなかった。ダイエー入社後に駅伝で快走するようになり、注目を集めるようになった。ダイエー陸上部の廃部に伴い、98年4月に富士通へ移籍。ハーフマラソン日本最高記録保持者。