陸上競技マガジン2000年12月号
シドニーからアテネへ
 末續慎吾  今後4年間のすべてをオリンピックのために
 山村貴彦  アテネでは“勝負”がしたい
 太田陽子  4年後のアテネは、まだハテネ…ですね


末續慎吾
 1980年6月2日生まれ。末續慎吾(東海大)はオリンピック陸上選手団最年少の20歳4カ月弱だった。その末續が21世紀に向けて何を得たのだろうか。
 200 m2次予選。「どうしても準決勝に行きたかった」という末續にとって正念場のレースだった。
「伊東(浩司・富士通)さんと同じ準決勝に行くんだ」「オリンピックに出られなかった人たちのためにも、落ちてたまるか」「(コーナーの出口で)ケンテリス(ギリシャ)についていこう」「(最後)ボルドン(トリニダードトバゴ)が流している。抜いてやれ」
 スタート前は緊張していたが、位置に着くと冷静になれた。5月の関東インカレで学生新を出したときもそうだったが、これが昨年までとの違いだ。
「昨年までは焦りや力みがありましたが、今年は速い人に前半でボーンと行かれても、立て直せるようになりました」
 ところが、オリンピックの準決勝ともなると、そうはいかなかった。
「伊東さんが言われるように、夢の中で走っているみたいで、全然力が伝えられないんです。燃料切れだったこともその理由ですが、経験不足でした。伊東さんに勝とうとか考えてはいませんでしたが、ゴールで横を見たら“いたー”って感じでした。2次予選は俺の方が速かったよな、って。やっぱり10年の差があるんです」
 何も考えられなかったのが200 mの準決勝なら、4×100 mRの決勝は文字通り覚えていない。
「ちゃんと記憶があるのは20mまで。アウトのキューバまで行けそうかなと思ったら、右脚にピリッときて、脚の付け根から頭までボーンときました。でも、ビデオを見るとちゃんと“ハイッ”て言ってるんですよね。カーブの走りと朝原(宣治・大阪ガス)さんへのパスが体に染みついていたんです」
 朝原が50mほど走ったあたりで我に返った。痛みよりもまず、「俺が足を引っ張ったー」という思いが襲ってきた。涙がこみ上げてきた。200 m終了時点では「ホッとしたのと楽しかったのが入り交じった気持ち」だったが、幕引きは「口惜しさだけ」だった。
 だが、得たものも大きかった。オリンピックという最高の舞台で、6本も走った。そして、そこに至るまで、東海大の先輩・伊東とともに歩んでこれたことが大きかったという。
「伊東さんが十何年間をかけてやってこられたことを、僕に教えてくれた気がするんです」
 春季サーキットであまり調子が上がらなかった。関東インカレを前に悩んでいたが、「こう思ってるんじゃないか」と、伊東が話しかけてくれた。まさに図星。そこからいろいろと話をするうちに、自分の悩みなんかささいなこと、と感じられるようになった。
 シドニーで末續が「緊張なんかしていませんよ」と言うと、「何言うてんねん…」と、精神状態の奥まで見抜いている言葉が続いた。
「教えてもらったことを生かしていくには、深く考えないとできないと思いますし、まだまだ時間がかかる…」と言うが、確かに伊東からバトンを託された。まずは来年、日本記録更新を狙っていく。「近い目標では練習もそれなりになってしまいますから」。そういえば、伊東も自らの考えの枠を取り払うことが、成長のきっかけとなった。
 最後に末續が口にしたのは「今後4年間、世界選手権やユニバーシアードもありますが、全てはオリンピックのためにやっていきたい」という固い決意。「4年後、自分が決勝に残るイメージをもってやっていきたい」

山村貴彦
 山村貴彦(日大)が「おかしい」と思ったのは、150 m付近だった。
「正直、“遅いっ”と思いました。自分じゃないみたいで…」
 それでも、自分のイメージしてきた走りは、頭の中にインプットされている。「いつものように、ラスト120 mでもう1回出す走りができれば…」。1つ外側にスーパー陸上で勝ったロシアの選手がいた。300 mで1〜2mリードされていたが「こいつは抜ける」と思っていた。
 だが、そのロシアの選手にも0.35秒届かず46秒25で5位。2次予選に進めるのは3着プラス5。ゴールした瞬間、“キョトーン”としてしまった。
「漠然と走ってしまった、何もできなかった…」
 9月9日のスーパー陸上で45秒03の日本歴代2位。シドニー入りしてからの1週間の調整練習中も「今シーズン最高のピークが来た」と感じられるほど好調だった。にもかかわらず、結果は1次予選落ち。21歳。やはり緊張が走りに影響したのだろうか――。
「緊張したのではなく、オリンピックを“楽しもう、楽しむんだ”という意識が強すぎたのだと思います。スタジアムに入っても、“これがオリンピックかー”って、まるで観客の一員になっていました。自分の持ち味である闘争心がなくなっていたんです。それにスタート前は気づかなかった」
 同じ失敗は繰り返さない。山村は4×400 mRに向けて気持ちを高めた。「4×400 mRは準決勝が勝負。死ぬ覚悟でやるしかない」
 予選は1位通過。予定通り、少し流して体力の温存を図った。だが、400 mよりも体は動く。ところが、準決勝で2走の小坂田淳(大阪ガス)がセネガルの選手と接触、バトンは無情にも落下してしまう。4走の山村は、勝負と関係のないバトンを持って周回し、文字通り不完全燃焼のままオリンピックを終えた。
 その1カ月後。日大のグラウンドで会った山村は、すでに来季以降へ目を向けていた。5月の東アジア大会は地元(大阪)の開催。そして、最大の目標は8月の世界選手権。その直後には、北京でユニバーシアードがある。日大勢で暴れてきたいという。
「“何回か吐く”ような冬期練習になると思います」
 ハードな練習をこなすためにも、栄養面には注意を払う必要が生じる。「高校時代からサプリメント関連会社のお世話になっている」と言う。昨年の冬期からは管理栄養士に積極的にアドバイスを求め、疲労回復を図っている。
「これからの4年間の積み重ねが、アテネの結果につながります。シドニーは“単に1周走ってきた”だけでしたが、アテネでは勝負ができるようにしたい。日本記録(44秒78)を破っておきたいのはもちろんですが、オリンピックという場で戦える力をつけておきたいですね」
<キャプション>44秒台へ最短距離にいる山村。来年は200 mでも「世界選手権のA標準(20秒72)くらいは出したい」と言う。また、インカレの4×400 mRでは日大単独で、3分03秒21の混成チームによる学生記録更新を狙っている

太田陽子
「頑張りすぎて跳ぶことができました」
 シドニー五輪女子走高跳の予選を、太田陽子(ミキハウス)は、いかにも彼女らしい言葉で振り返ってくれた。
 予選が始まる直前、******スタジアムには雨が降っていた。おかげでバッグの中まで水に浸かってしまった。身体も冷えている。競技が始まるとき雨はやんでいたが、コーチの宮尾勉先生(湘南工大附高)には、太田が苛ついているのが手に取るようにわかった。オリンピックという大舞台。条件が多少悪くとも集中したり、あるいは緊張したりするのが普通だろう。そこで不機嫌になれる。「いつもの国際大会と変わらない」と言ってしまえる太田らしいところだ。しかし――
「やばいかもしれない!!」
 最初のトライで1m80を失敗し、太田の気持ちがガラッと変わった。「80の2回目から頑張りすぎました」。一般的に言えば、集中したということになるのだろう。この高さを2回目に成功すると、続く1m85を1回目、89は2回目のクリア。
 宮尾コーチの目には、太田が好調なのがわかった。試技の合間に行うダッシュや3歩助走をつけてのジャンプなどが、いい動きをしている。
 1m92は1回目を失敗。ここで、隣のピットの今井美希(ミズノ)が、先に1m92に成功した。2人はお互いに合図を送ってコミュニケーション。普段は仲のいい2人だが、ピットに立てば負けたくない気持ちは強い。その気持ちがより集中力を高める。
 そして、この高さから観客に拍手を要求し始めた。オーストラリア人たちの反応が、太田を乗せていく。
「私が小さいのに跳びそうなな雰囲気だったのを感じて、ものすごく乗りのいい応援をしてくれたんです」
 1m92は2回目、続く94は3回目の成功だったが、気持ちよく臨めた。
「助走が走れていましたし、助走後半も間延びしていない。スピードが落ちないで思い切り踏み切れていました」
 初のオリンピックで自己タイを跳んで予選通過。この快事は太田の気持ちが“乗った”からこそ可能となった。
 太田はオリンピック前、特に練習を変えたりしなかった。唯一違ったのは、8月末の函館合宿で一度バーに向かったこと。太田は通常、練習中に跳躍を行うことはまったくしないのだ。
「太田は小さい試合では極端に記録が低くなりますが、練習だったらもっと跳べない。自己記録より15cmも20cmも低い高さを何回跳んでも、いい動きは出てこないのです」
 宮尾コーチの説明だ。つまり、太田の気持ちが表面上はともかく、潜在的にはかなり集中していた証拠だろう。
 技術チェックのためにも跳躍練習をしたい。これが宮尾コーチの本音である。試合も、スタンドが閑散とした“乗りのよくない”試合は避けたい。
 そこで来年以降に希望しているのが、6〜7月に太田が集中でき、“乗ることができる”グランプリ等の試合に出場することだ。「そうすれば練習も充実する」(宮尾コーチ)という狙いもある。春先に1m96(日本新)を跳んで海外遠征、そして世界選手権に臨む、というのがコーチの立場として、宮尾氏が考えている青写真だ。
 だが、選手である太田自身の意識は、ちょっと違う。
「これまで欲を出してよかったことがないので、世界選手権の標準(1m9*)とか関係なく、21世紀もこれまで通り平凡にやっていきます。4年後のアテネですか。ハテネ……ですね」
 こう言う太田だが、2年前から始めたウエイトトレーニングの負荷を、少し重くしようと何気なく考えている。
<キャプション>
10月29日のジュニアオリンピックでは、表彰のプレゼンターを務めた太田。太田にはこの数日後、宮尾コーチからノート型パソコンがプレゼントされた