サンデー毎日増刊「女子駅伝2001公式ガイドブック」
HEROINE'S DOCUMENTARY
[高橋尚子の真実]

奇蹟の足跡。

 ベルリンから帰国した高橋尚子は多忙だった。お世話になった関係者に挨拶に行く。市民マラソンにゲストとして招待される。4月から始めた事実上のプロ活動の一環で、テレビCM撮影もある。
 ある栄養関係のセミナーでのことだった。著名人とのトークショーで高橋は、2年前の同じ時期の思い出を話していた。1999年、高橋は8月のセビリア世界選手権を腸徑靱帯の故障から欠場。シドニー五輪代表選考会を目指している時期だった。だが、どの試合に出られるのか、めどすら立っていなかった。
「8月10日から練習日誌が書けなくなっていたんです。それまで毎日欠かさずに書いていたんですが、走れなくなってしまって…。日誌を開いて、それまでやってきたことを見るのが辛かった。(ゲスト出場した市民マラソンで転倒して)腕の骨折もあって、何をやったらいいのか、道が見えていませんでした。
 そんな状態から抜け出せたきっかけが、12月の実業団女子駅伝でした。チームのみんなとタスキをつなぎ、たくさんの人から応援してもらった。“こういう場所に戻ってこられるのだから、もう一度頑張ろう”、そう思うことができたんです。自分自身では抜け出せなかった状況から、周りの人に引っ張ってもらって抜け出せました。支えてくれる人がいると思うと、頑張れますね」
 先の見えなかった状況から抜け出した高橋は、翌年3月の名古屋国際女子マラソンでシドニー五輪の代表権獲得。その半年後にシドニー五輪金メダル、そして今回の2時間20分突破へと突き進んだ。競技人生の大きなアクセントとなったのが、2年前の全日本実業団女子駅伝だったのである。
◆初参加の95年はレースよりも…◆
 高橋は1995年に大阪学院大からリクルートに入社、97年には小出義雄監督とともに積水化学に移った。全日本実業団女子駅伝には95年から2年前の99年まで、5年連続で出場していた(成績は別表参照)。シドニー五輪後の練習不足でメンバー入りできなかった昨年も含め、全日本実業団女子駅伝は、高橋の成長を物語る大会であり、その時点の高橋の状態を端的に表す大会であった。
 初参加は入社1年目の95年のこと、高橋はそのときのことを、つい昨日のことのように話すことができる。
「その頃の私はまだ、チームの一員になりきっていなかったんです。リクルートのユニフォームを着ること自体、“私みたいな弱い選手が着ていいんだろうか”って思っていました。ユニフォームを汚してしまうのではないかいう不安があって、監督からレース前日に走れと言われたときは、怖さすら感じました」

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