陸上競技マガジン2008年11月号
朝原宣治の競技生活に学ぶ
“答えのない挑戦”の楽しみ方


 スーパー陸上でスパイクを脱いだ朝原宣治。レース後の会見では、示唆に富むコメントがいくつも聞かれた。
「北京五輪の1次予選は、身体の真ん中から動き出す動きで加速ができましたが、2次予選は足で走ろうとしてしまった。今日は自分の意思でスタートから、こうやっていけば身体の真ん中を使って加速して、最後まで行けるだろうという走り方を試しました」
「インターハイとかですごく頑張りながら、大学に入って伸びない選手をたくさん見てきました。過去の自分にこだわってやることもある程度は必要ですが、僕はあえて新しい環境を求めました。環境に馴染む術を身に付けたり、自分に合ったトレーニング方法を見つけたり。何が必要かを考えられる選手が増えれば、選手寿命も延びるし、世界と戦える選手も多くなる」
 朝原の高校時代から今日までを振り返ることで、現役最後の日に話したことがよりいっそう理解できる。
●マイペースの取り組み
 中学時代はハンドボール部で全国大会を経験していた朝原は、夢野台高では誘われるままに陸上競技部に入った。ハンドボールのジャンプシュートの感覚が、走幅跳に通じるものがあった。2年時の高知インターハイで3位となって頭角を現すと、3年時の仙台インターハイに優勝(100 mは準決勝止まり)。
 全国の頂点に立ったとはいえ、夢野台高は陸上の強豪校ではない。朝原も「2年の時は2位の選手と同記録で、自分も2位だと思っていました」と、素人のような勘違いをしていたことがあった。踏切板に足が合わないと思ったら、逆の脚でスタートしていたというエピソードも伝えられている。
 競技への取り組み方も、本人の性格も大らか。そんな朝原だから、強制される練習は嫌だった。大学は自分でメニューを決められることもあり、同大を選んだ。
 ブレイクしたのは3年時の秋。東四国国体100 mの準決勝で、10秒19の日本新をマークした。日本選手初の10秒1台という快挙だったが、朝原本人はいたって冷静だった。
「更新は0.01秒だけだったし、追い風も2.0mでぎりぎり。それまでのベストが10秒4台でしたから、まぐれだと思っていました。それよりも、アジア選手権(12月。フィリピン)の走幅跳で8m13(当時日本歴代2位)を跳べたことの方が嬉しかった」と、当時を振り返る。
 花形種目100 mの日本記録保持者。周囲はそこに目を奪われがちだったが、朝原本人は「専門はあくまで走幅跳」と言い続けた。記録も高校時代の7m61から、大学1年時に7m76、2年時に7m93と順調に伸びていた。2年時のバルセロナ五輪は半ば本気で狙っていた。だが、3年時は世界選手権の選考会である日本選手権で9位と、ベスト8にも残れなかった。3回目の跳躍前に順位を1つ勘違いする初歩的なミスも犯した。
「そこから真面目に練習しました。10秒19は幸運もありましたが、練習に取り組む姿勢が変わったことが大きかったですね」
 当時の朝原は、加古川で頻繁に練習をしている。加古川では何人かの指導者が合同で、学校の垣根を越えて練習を実施していた。後に同級生である早狩実紀(京都光華AC)も加わるが、練習量よりも“効率的な動き”を大事にしていたグループ。朝原の動きに対する感覚が研ぎ澄まされ始めたのが、この頃だった。

※この続きは陸上競技マガジン2008年11月号でご覧ください。
●ドイツ留学でつかんだ“コツ”
●長引いた故障
●100m観の変化
●“迷い”の中からつかみ取った方法
●引退レースでも“速く走るコツ”をテスト
と続きます。

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