2001/2/9
高橋尚子と戦前のメダリストの違い
高橋尚子著「風になった日」を読んで


 高橋尚子著「風になった日」を読んだ。
 さすがに単行本だけあって、これまでに語られたことのないネタも多かった。母親との確執(というほどでもないか)や、中学からつきあっていた恋人と高校で別れたことなど、包み隠さず書いてくれている。ちょっと感動した。
 だが、一番印象的だったのは、これまでも各メディアを通じて伝えられていたことだが、「私は金メダルを取っても何も変わらない。私は(練習しなければ)弱い選手」というくだりである。金メダリストがこう言ってくれることで、なぜかホッとできるのである。
 ひと昔前の陸マガには、戦前のメダリストの方たちがよく寄稿されていた。なかなか面白い話も多かったが、記憶に強く残っているのは、その方たちの自慢話の部分である。
「私はこうした。こうしたから強くなった」
「私が誰々にこうしろと言ったら新記録が出た」
 本当にそうであったのかどうかを、問題にしたいわけではない。その方たちは後輩のためを思い、日本陸上界の発展を思い、そう口にされたのだろう。だが、若い世代から見ると、そういう言い方をされると単なる自慢話に聞こえてしまうのだ。
 自慢話に聞こえてしまったら、素直に耳を傾けることは難しくなる。メダリストの方たちの崇高な志も、そうなっては馬の耳になんとやら。その点、高橋尚子のように「私は弱い選手」と言い切ってくれれば、若い世代も彼女の話を素直に聞き入れられるだろう。
 もちろん、戦前のメダリストの方たち全員がそうだったのではないと思う。32年ロサンゼルス五輪三段跳銅メダリストの大島鎌吉さんは、自分のことを誉められると「大したことないよ。昔は参加選手が今とは比べものにならないくらい少なかったから」というニュアンスの応じ方をされたと聞く。そういう方から諭されれば、「言うことを聞いてみようかな」という気持ちになるものなのだ。
 本の中で高橋尚子は、将来、指導者になる可能性を示唆している。それが実現したとき、彼女は選手たちに、どんな接し方をするのだろうか。